マルコムX(Malcolm X, 1925年5月19日 - 1965年2月21日)、出生名マルコム・リトル(Malcolm Little)は、アフリカ系アメリカ人の急進的黒人解放運動指導者[1]、イスラム教導師である。公民権運動の時代に、特に貧困層のアフリカ系アメリカ人に支持された。彼はネーション・オブ・イスラムのスポークスマンだったが、後に教団を離脱した。
マルコム・X Malcolm X | |
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1964年3月 | |
通称 | マルコム・リトル(出生名) エル・ハジ・マリク・エル=シャバーズ(ムスリム名) |
生年 | 1925年5月19日 |
生地 | アメリカ合衆国 ネブラスカ州オマハ |
没年 | 1965年2月21日(39歳没) |
没地 | アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク |
思想 | (黒人民族主義) 汎アフリカ主義 |
活動 | 公民権運動 (黒人解放運動) |
所属 | ネーション・オブ・イスラム ムスリム・モスク・インク (アフリカ系アメリカ人統一機構) |
マルコムは、父親の死と母親の入院後、一連の児童養護施設や里親の家で青春時代を過ごした。彼は20歳から27歳まで服役したが、刑務所の中でネーション・オブ・イスラムに参加し、マルコムXという名前を採用した(アフリカ系の先祖代々の名字が不明であることを象徴している)。マルコムXはその後12年間、組織の顔として活動し、黒人と白人の分離を提唱し、非暴力と人種統合を重視するメインストリームの公民権運動を批判した。マルコムXは1950年6月29日に当時のトルーマン大統領に宛てた手紙で「自分は以前から共産主義者であった」と記述して以降、連邦捜査局(FBI)の監視下にあった[2]。
1960年代になると、マルコムXはネーション・オブ・イスラムとその指導者であるイライジャ・ムハンマドに幻滅し始めた。彼はその後、メッカへのハッジを完了した後、スンニ派イスラム教と公民権運動を受け入れ、エル・ハッジ・マリク・エル=シャバーズ(el-Hajj Malik el-Shabazz)として知られるようになった。 アフリカを横断した短い期間の後、彼は公然とネーション・オブ・イスラムを放棄し、ムスリム・モスク・インク(MMI)とパン・アフリカ主義アフリカ系アメリカ人統一機構(OAAU)を設立した。1964年を通じてネーション・オブ・イスラムとの対立は激化し、彼は何度も死の脅迫を受けた。1965年2月21日、ニューヨークで暗殺された。3人のネーション・オブ・イスラムのメンバーが殺人罪で起訴され、無期懲役の終身刑が言い渡された。しかし暗殺がネーションの指導者や他のメンバー、あるいは政府によって考案されたのか、本当の実行犯は逮捕された3人であったのかなど、銃撃後数十年に渡って多くの仮説・推測が流れたが、後に実行犯の一部の冤罪が確定した。
人種差別と暴力を説いたとして物議を醸したマルコムXは、人種間の平等と正義を追求したことでも、アフリカ系アメリカ人やその他の人種、世界の一部の人々に知られている。彼の死後に「マルコムXの日」が創設され、全米のさまざまな都市で記念式典が行われている。米国では何百もの通りや学校が、「彼にちなんで改名」され、彼が暗殺されたオーデュボン・ボールルームは2005年に一部再開発され、マルコムXとベティ・シャバズ博士の記念館と教育センターが設置された。
生涯
マルコムはネブラスカ州オマハに生まれる[3]。バプテストの反体制的な牧師だった彼の父親アール・リトルは、アメリカに黒人の自由は存在しないと考えている人物だった[4]。母ルイーズは美人で肌の色は薄く、西インド諸島のグレナダ出身だった[5]。自宅敷地内に家庭菜園を作り家畜を育てほぼ自給自足に近い生活を送り、周辺に住む他の黒人のように白人に媚び諂い仕事を分けてもらうことを良しとしない人物だった。両親が黒人民族主義団体である万国黒人地位改善協会およびアフリカ人共同体連盟(UNIA)の活動家であったため一家は当時大きな勢力を誇っていたKKKの標的にされていた。
父アールは1931年にミシガン州ランシングの道路上で、路面電車による轢死体となって発見された。警察は事故死としたが、ルイーズは白人至上主義団体による殺人と信じていた[6]。マルコムは父と、4人の叔父のうち、3人を白人による暴力によって殺害されている[7]。ルイーズは初婚であったが、当時マルコムの父は二つの保険会社の生命保険に入っており、その内の一つは受け取りの金額が僅か数百ドルと小額だったため保険金が支払われたが、もう一つの保険会社は受け取りの金額が大きかったため、警察が自殺と判断したとの理由により「保険金は支払われなかった」。
母ルイーズは、黒人と白人の混血のムラートで、母親(マルコムの祖母)が白人に強姦されて生まれたと周囲では噂されていた[8]。一見すると褐色の肌の白人と間違えられ、そのお陰で職を得られたこともあったが、白人の血が入った黒人であることが発覚すると即座に解雇された。ルイーズは夫の死後、9人の子供を一人で育てることになったが、精神を病み、精神病院に送られた[注釈 1]。そして子供たちはそれぞれ別の家に里子に出された。
マルコムは近所に住み、以前よりよく食事に行っていたゴハナ家に里子に出された[9]が、自伝ではあくまでも高価あるいは珍しい動物としてしか扱われなかったと語っている[注釈 2]。マルコムは幼い頃から優秀な成績を収め学級委員長に何度も当選したが、引越し先ではやむを得ず白人の学校に一人だけ黒人として通うこともあり、席は常に一番後ろだった。白人教師から将来何になりたいかを聞かれた時、弁護士か医者と答えたが、教師からは「黒人はどんなに頑張っても偉くなれない。黒人らしい夢を見た方がいい」と諭され、手先の器用さと人当たりの良さを生かして「大工になることを勧められた」。後年マルコムはこれについて、「先生がその日私に忠告したことは善意だからとわかっている。私を傷つけようとする気はなかったのだ」と振り返っている。
マルコムは13歳の時に逮捕され、ミシガン州メイソン郡の少年鑑別所に入れられた後、ウエスト・ジュニア・ハイスクールに通う。中学校のマルコムのクラスで黒人はマルコムのみで他は白人だったという。ただ、マルコムは前述したように優秀な成績でクラスの人気者だったためマルコムのことが好きな女子がいたり、マルコムは白人の彼女が存在した[10]。ハイスクールを通った後、ミシガン州のハイスクールへ通ったが、卒業前に退学している[11][注釈 3]。マルコムは、異母姉エラ(アールと前妻の娘)と一緒に住むためにボストンへ転居、(リンディー・ナイトクラブ)で靴磨きの仕事を行った。自伝でデューク・エリントンや他の有名な音楽家の靴を磨いたと語っている。また歴史ある(オムニ・パーカー・ハウス・ホテル)でテーブル片付け係として働いていた。このホテルはジョン・F・ケネディがジャクリーン・ケネディ・オナシスにプロポーズした場所であり、ホー・チ・ミンがシェフを務めていた[12]。
その後、ニューヨークのハーレムで、ナンバー賭博の仲介、窃盗などの違法行為に手を染めた。彼は黒人の仲間達からその髪の色から「レッド」の愛称で親しまれていた。
1946年1月12日、20歳の時に逮捕され、裁判の結果、火器の不法所持・窃盗・住居侵入の罪で懲役8〜10年が宣告された[13]。通常の窃盗罪は初犯では懲役2年となることが多いが、マルコム自身は白人女性と継続的な性的関係を持っていたために通常よりも長い懲役刑を宣告されたと考えていた[14]。収監されたチャールズタウン州刑務所では、特に神と聖書を罵倒していた。マルコムは獄中で(イライジャ・ムハンマド)の教徒と彼の行っていた(ブラック・ムスリム運動)に出会い、その教えを勤勉に研究した。マルコムはイライジャと文通を行い、独学で知識を進歩させ、手紙を毎日書いた。異母姉のエラは、彼をより自由のきくノーフォークのマサチューセッツ州刑務所へ移送する支援をした。そこで彼は熱心な指導者となり、歴史上および哲学上にイライジャ・ムハンマドの教えとNOI(ネーション・オブ・イスラム)の正当性を発見した。彼は刑務所内の毎週の討論会に参加し、知識を広げ、筆跡を改善するために刑務所図書館の全辞書を筆写したりもした。その際、刑務所内で勉強するためとして割り当てられていた時間を越えて消灯後も独房内で月明かりや通路の照明だけを頼りに本を読み辞書を筆写していたため、収監前は2.0あった視力が0.2まで落ち、後にトレードマークとなるサーモント型の近眼鏡を常用するようになる。出所後、一躍名を知られるようになったマルコムはテレビやラジオ、雑誌等マスコミのインタビューで、刑務所内で磨かれた卓抜すぎる言葉遣いや知性の高さが窺える仕草から一流の大学を卒業しているのだろう、と勝手に推測され、出身大学はどこかと訊ねられた時には「刑務所内の図書館だ」、と答えている。
マルコムは1952年8月7日に仮釈放(正式な釈放は1953年5月[15])され[16]、スーツケースと眼鏡、時計を購入した。後に彼はこれらのものが「新たに始まろうとしていた人生に備えていた」と語った[17]。
マルコムは1950年12月の手紙において初めてマルコムXと名乗っている[18](1952年9月、彼はNOIから"X"という姓を授かり、これ以降「マルコムX」を名乗ったとする説もある)。アメリカ黒人の「姓」は本来の彼らの姓ではなく、奴隷所有者が勝手につけたものにすぎず、未知数を意味する「X」は、失われた本来の姓を象徴するものとNOIでは考え、同名の人物が同じモスクにいる場合には、入信順に「X」の前に番号をつけて○○2X、○○3X、とした。また、マルコムは"X"ではなく"シャバーズ"という姓を名乗る許可をNOIから得ており、1957年には広くマルコム・シャバーズと名乗っていた[19][注釈 4]。
1957年、NOIの一人が警察官に暴行を受け逮捕された。教団はこれに抗議、マルコムとFOI(Fruit of Islam、信者のうち、警護等を担当する部隊)メンバーらを中心とした群衆が留置所前で仲間を病院へ送るよう要求した。これが受け入れられ、NOIとマルコムは一躍名を知られることとなった。またマルコムはサム・クックやモハメド・アリ、ビリー・ホリディらと親しく、ライオネル・ハンプトン他のジャズを見に行くなど、文化人的な面も強かった。
1962年、イライジャ・ムハマドが十代の少女に子を産ませていたことが判明し、NOIに失望したマルコムは彼の行為を告発。その結果、NOIにおける立場を危うくすることとなった。1963年2月にNOIは彼を暗殺しようとしたが失敗に終わったが、その後、NOIを脱退したマルコムは1964年3月にムスリム・モスク・インクを組織する[21]。NOIの緊張はさらに強いものとなった。
NOIを脱退から数週間後、訪れた数名のイスラム教徒の勧めに従いマルコムはスンニ派に改宗[22][23]。翌1964年4月にアフリカ・中東に赴きメッカ巡礼成就の意味を込めたエル・ハジ・マリク・エル=シャバーズへと正式に改名した。またそこで白人でありながら自分たち黒人を肌で判断しないアラブ人に感化され、アメリカでの「白人」とは肌の色よりも黒人を対象にしたときの態度・行動であるという新しい視点を得ることとなった。また世界中から集まったあらゆる肌のイスラム教徒が同じ儀式に参加する光景にも感銘を受けた[24]。特にジェッダで出会った元アラブ連盟初代事務局長の(アブドゥル・ラフマーン・ハサン・アッザーム)博士の影響を受けて正統派のイスラム教に目覚めることとなり、サウジアラビアのファイサル王子からマルコムは国賓として扱われ[25]、巡礼の儀式を終えた後にファイサル王子とともに現地のイスラム教徒の歓声に応えた[26]。
さらにマルコムは、新たに立ち上げた(アフリカ系アメリカ人統一機構)のリーダーとしてアフリカ統一機構の会議に出席して汎アフリカ主義の指導者と親睦を深め[27]、エジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルやガーナのクワメ・エンクルマなどに招待されてアフリカ諸国を歴訪した[28]。
アフリカ・中東訪問後、それまでNOIに影響されて黒人至上主義者だったマルコムは、アメリカの黒人問題は公民権問題にとどまらない国際的な問題であるとの視点から、黒人は第三世界と連帯するべきだと主張するようになった[29]。
暗殺
NOIに侵入したFBIの潜入捜査官は、マルコムがNOIによって暗殺の対象になったと報告した。NOIの暗殺の対象となったマルコムは、護衛なしでは外を出歩かないようになった。ライフ誌は、M1カービン銃を持って窓から外を凝視するためにカーテンを開くマルコムの有名な写真を掲載した。写真は、彼と家族が毎日受けていた死の脅迫から自己防衛するというマルコムの宣言から公表された。
1965年2月14日に、ニューヨークの彼の自宅がNOIメンバーにより火炎瓶で襲撃されたが、マルコムと彼の家族は無事であった。
自宅襲撃事件から一週間後の2月21日、マンハッタン、ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場での集会にマルコムは登壇した。関係者からは危険があるため見合わせるようアドバイスもあったが、「爆破事件のことを皆が聞きたがっている」とマルコムは予定通りスピーチを始めた。そのとき約400人の群衆の中で男が「俺のポケットから手を離せ! ポケットにさわるな!」と叫び騒ぎが起こり、マルコムのボディーガードが騒動に対処しようとした時、最前列に座っていた別の男が前に突進し、短い散弾銃をマルコムの胸に向けて発射、さらに他の二人の男がステージに素早く近づき短銃をマルコムに向けて発砲した。マルコムは15発の銃弾を受け、コロンビア長老教会病院に運ばれたが死亡が確認された。
マルコムはニューヨーク州ハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。また、現場で取り押さえられたタルマージ・ヘイヤー(トーマス・ヘーガン)に加え、同じくNOIの信者のノーマン・3X・バトラー(ムハンマド・アブドゥル・アジズ)およびトマス・15X・ジョンソン(カリル・イスラム)の三人が殺人罪で逮捕された。ヘーガンは犯行動機について、マルコムXが意見の相違を理由にNOIと袂を分かった為だと語り、またアジスとイスラムの二人は犯行とは無関係だと証言した(ただし共犯者が誰かは取り調べおよび裁判で証言しなかった)。二人もヘーガンと同様に自分たちは事件と何の関係もないと主張した。しかし1966年3月、三人全員が第一級殺人で有罪と判決された[30]。
判決から44年を経た2010年4月27日、暗殺犯の一人であるヘーガンが17回目の申請で仮釈放が認められた。ヘーガンは1966年暗殺の実行犯として20年の無期の禁固刑を言い渡されていたが、1992年以降は仕事を続けることを条件に週に5日間自宅に戻ることができ、残りの2日間を刑務所で過ごすプログラムが適用されていた。なおアジズは1985年に仮釈放された。またイスラムは1987年に仮釈放が認められ、2009年に死去した。
マルコムは生前、自分の命を狙っているのは教団だけでなく、FBIやCIAも協力しているのではないか、と漏らしていた。彼の死後もそのような噂は途絶えなかったが、2021年2月にはニューヨーク市警の元警察官だったレイモンド・ウッド(2020年11月死去)による手記が遺族によって公開された。それによれば、マルコムのグループに潜入し、身辺警護の責任者だった側近2人をマルコムから遠ざけることを任務としていたウッドは、2人をそそのかして犯罪に関与させ、ニューヨーク市警に逮捕させた(しかし当時はマルコムが標的だとは認識していなかった)という。ウッドはその結果として警備が手薄になったことがマルコムの暗殺に繋がったとしており、マルコムの暗殺にニューヨーク市警とFBIが関与していた可能性を示唆していた。この手記公開を受け、マルコムの遺族は真相究明を訴えた[31][32]。
2021年11月17日、アジズの弁護士やニューヨーク市の検察当局がアジズとイスラムが無罪である証拠が見つかったと発表し、「有罪判決が取り消される」見込みと報じられた[33][34]。翌18日、裁判所は2人の有罪判決を取り消した[35]。
自伝
1964年と1965年の間に、マルコムの死の直前まで行われたインタビューに基づき、アレックス・ヘイリーによって執筆された『マルコムX自伝』は1965年に出版され、タイム誌によって20世紀の10冊の最も重要なノンフィクションの中の1つに選ばれた。日本語訳は1968年に河出書房(現河出書房新社)より約半分の内容の抄訳版が『マルカムX自伝』と題して刊行された。全訳版は1992年に映画『マルコムX』(監督:スパイク・リー、主演:デンゼル・ワシントン)公開に合わせて同出版社より現在の『マルコムX自伝』として刊行された。
文化的影響
ジョージ・クリントンはマルコムの演説を初めて聞いた時の感想として、「たいへんだ。マルコムのせいで俺たちは皆、殺されてしまう」と感じたという。これらのほかに、(一般大衆へのメッセージ)と題した演説が良く知られている。また信奉者として、アーチー・シェップ[36]、ラスト・ポエッツ、ギル・スコット・ヘロン、スパイク・リー、KRSワンらがよく知られており、パブリック・エナミーやスクーリーDらの楽曲ではマルコムの音声がサンプリングされている。
キング牧師との関係
1964年3月26日、マルコムはキング牧師と最初で最後の対面をした。これは予定されていたものではなく、その日二人がたまたま公民権法に関する論議を聞くためにアメリカ合衆国議会議事堂を訪れていたために実現したものであり、会話も挨拶のみで短い時間で終わった[37]。
マルコムXは一時期、融和的なキング牧師を批判し、双方が対立していたとされてきたが、側近や親族の証言によると、晩年の2人の主張や姿勢は接近していたという。マルコムXは晩年イスラム教社会主義へ変わり、キング牧師と目指すところは同じだと語った。キング牧師は、暗殺される前の数年間、急進的になったとも言われている。
モハメド・アリとの関係
マルコムは生前及び没後もなお、多くの人物に影響を与えた。なかでもよく知られているのがモハメド・アリのケースである。
アリはマルコムと出会いその思想に影響されてNOIに入信する[38]。その時既に自身の旧名、カシアス・クレイでボクサーとして活躍し、世界チャンピオンになっていたが、NOIから授かったムスリム名であるモハメド・アリに改名し、周囲を驚かせた。また、マルコムの影響を受けて、アリはベトナム戦争の徴兵令を拒否する。これは世界タイトルの剥奪及び試合停止などの処分を伴う厳しい選択であったが、アリは自身の理念を貫いた。
NOIを脱退したマルコムは、アリにスンニ派イスラム教への改宗を勧めたが、アリはマルコムとの関係を絶ってしまった。これについてアリは「人生で最も後悔している出来事の1つ」と自伝で述べている[39]。
語録
- 「白人は黒人の背中に30cmのナイフを突き刺した。白人はそれを揺すりながら引き抜いている。15cmくらいは出ただろう。それだけで黒人は有難いと思わなくてはならないのか?白人がナイフを抜いてくれたとしても、まだ背中に傷が残ったままじゃないか(公民権運動は前進している、という主張に対して)」
- 「ニーチェ、カント、ショーペンハウアー、全て読んだが尊敬できない。彼らは、さして重要でないことを議論するのに多くの時間を使いすぎている。彼らはこれまでの私が出会った、多くの黒人のいわゆるインテリたちを思い出させる。彼らはいつも役に立たないことについて議論していた。だが、スピノザには感銘を受けた」
- 「私が思うに自業自得であり(チキンズ・カミング・ホーム・トゥ・ルースト)、白人の憎悪の拡大が容認され、ついには大統領を殺してしまった。起こるべくして起こった事件だ。(ケネディ大統領暗殺事件について)」
関連作品
- 映画
- 『マルコムX (映画)』(スパイク・リー監督)
- 『あの夜、マイアミで』(レジーナ・キング監督)
- 『(マルコムX暗殺の真相 )(英語: Who Killed Malcolm X?)』(レイチェル・ドレッツィン、フィル・ベルテルセン監督)
- 『(ブラッド・ブラザーズ:マルコムXとモハメド・アリ )(英語: Blood Brothers: Malcolm X & Muhammad Ali)』(マーカス・A・クラーク監督)
参考文献
- 『黒人は叛逆する』((長田衛)、三一書房、1966年)
- 『評伝マルコムX―黒人は叛逆する』(長田衛、第三書館、1993年)(ISBN 978-4807493111)
- 『黒人は武装する』(マルコムX著、長田衛訳、三一書房、1968年)
- 『マルコムX・スピークス』(マルコムX著、ジョージ・ブレイトマン編、長田衛訳、第三書館、1993年)(ISBN 978-4807493067)
- 『マルカムX自伝』(抄訳版、浜本武雄訳、河出書房(現河出書房新社)、1968年)
- 『マルコムX自伝』(アレックス・ヘイリィ執筆協力、浜本武雄訳、河出書房新社、1993年) (ISBN 978-4-309-90104-6)
- 『いかなる手段をとろうとも』(マルコムX著、(ジョージ ブレイトマン)編、長田衛訳、現代書館、1971年、1993年第2版)(ISBN 978-4768466179)
- 『マルコム・Xとは誰か?』((丸子王児)著、JICC出版局、1993年)(ISBN 978-4796605496)
- 『マルコムX最後の証言』((デビッド・ギャレン)編、アレックス・ヘイリィほか著、東郷茂彦訳、扶桑社ミステリー、1993年)(ISBN 4-594-01112-8)
- 『マルコムX―イラスト版』(FOR BEGINNERSシリーズ)((バーナード・アクィウィナ・ドクター)著、(阿木幸男)訳、現代書館、1993年)(ISBN 978-4768400647)
- 『マルコムX―アメリカでもっとも怒れる男』((中村直也)・宝島編、JICC出版局、1993年)(ISBN 978-4796606004)
- 『マルコムXワールド』(径書房編、径書房、1993年)(ISBN 978-4770501172)
- 『マルコムX最後の1年』(ジョージ・ブレイトマン著、(西島栄)訳、新評論、1993年)(ISBN 978-4794801753)
- 『マルコムXの暗殺』(ジョージ・ブレイトマン、(ハーマン・ポーター)、(バクスター・スミス)著、西島栄・(早川潤)訳、(柘植書房)、1994年)(ISBN 978-4806803355)
- 『キング牧師とマルコムX』((上坂昇)、講談社現代新書、1994年) (ISBN 4-06-149231-4)
- 『夢か悪夢か・キング牧師とマルコムX』((ジェイムズ・H・コーン)著、梶原寿訳、日本基督教団出版局、1996年)(ISBN 978-4818402508)
- 『Malcolm X speaks』((末吉高明)訳、ブルースインターアクションズ、2001年)(ISBN 978-4938339081)
- 『マルコムX事典』((ロバート・L・ジェンキンズ)編著、(エムファニア・ドナルド・トライマン)編集協力、荒このみ訳、雄松堂出版、2008年) (ISBN 978-4-8419-0500-7)
- 『マルコムX』(荒このみ、岩波新書、2009年) (ISBN 978-4-00-431224-6)
- マニング・マラブル 著、秋元由紀 訳『マルコムX 伝説を超えた生涯』 上、白水社、東京都、2019年(原著2011年)。ISBN (9784560096697)。
- マニング・マラブル 著、秋元由紀 訳『マルコムX 伝説を超えた生涯』 下、白水社、東京都、2019年(原著2011年)。ISBN (9784560096703)。
脚注
注釈
- ^ 後にルイーズは、マルコムと兄弟姉妹によって精神病院から引き取られたが、マルコムを含めて子供達を全く認識することができなかった。その状態から人権を侵害されるような取り扱いを受けていたと推測されたが、病院側はあらゆる質問を拒否し、彼女の「カルテも無断で破棄」していたためその真相は不明である。マルコムは自伝において、役所の人間が同じことを何度も尋ねるなど子供達を里子に出すことを強要したために母親は精神を病んだのだ、と記述している。
- ^ この時代のアメリカでは慈善事業と謳い、富裕層の白人が黒人の孤児を引き取ることが流行していた
- ^ 第8学年(ミドル・スクール)終了後。
- ^ NOIの教義ではシャバーズという姓は66兆年前に存在した13の部族のうち唯一生き残った部族で、NOIの信者はその子孫だとされていた[20]
出典
- ^ ブラック・パワー LAタイムズ 2022年2月24日閲覧
- ^ 『マルコムX 』 p.137
- ^ “Malcolm X selected for Nebraska Hall of Fame” (英語). WOWT (2022年9月13日). 2023年1月5日閲覧。
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- ^ 「マルコムX」荒このみ著。p.40
- ^ 『マルコムX 』 p.49
- ^ “マルコムXバイオグラフィ”. 2021年2月1日閲覧。
- ^ 『マルコムX 』 p.27
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- ^ Kingu bokushi to marukomu ekkusu. Noboru Kōsaka, 昇 上坂. 講談社. (1994). ISBN (4-06-149231-4). OCLC 674742681
- ^ Dozier, Vickki (February 21, 2015). "How Malcolm X's murder rippled through his hometown". Lansing State Journal. Lansing, Michigan.
- ^ https://kakaku.com/tv/channel=6/programID=271/episodeID=699703/
- ^ 『マルコムX 』 p.99-100
- ^ 『マルコムX 』 p.102
- ^ 『マルコムX 』 p.147
- ^ 『マルコムX 』 p.141
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- ^ “Malcolm X: Who was he, why was he assassinated, and who did it?”. ワシントン・ポスト (2021年11月18日). 2023年1月5日閲覧。
- ^ Marable, Manning; Felber, Garrett, eds. (2013). The Portable Malcolm X Reader. New York: Penguin. (ISBN 978-0-14-310694-4). pp. 300–301.
- ^ Perry, p. 261.
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- ^ The Last Speeches. Bruce Perry, ed. New York: Pathfinder Press, 1989. (ISBN 978-0-87348-543-2). pp. 263–265.
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- ^ Marable, Malcolm X, pp. 360–362.
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- ^ “New claims surrounding Malcolm X assassination surface in letter written on former NYPD officer’s death bed”. ABC News. ABC. (2021年2月22日) 2021年2月22日閲覧。
- ^ “マルコムX暗殺、潜入作戦実行の元警官新証言 当局関与の可能性は?”. TBS NEWS. (2021年2月22日)2021年2月22日閲覧。
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- ^ Natambu, pp. 296–297.
- ^ Ali, Muhammad (2004). The Soul of a Butterfly: Reflections on Life's Journey. with Hana Yasmeen Ali. New York: Simon & Schuster. (ISBN 978-0-7432-5569-1). p. 85.
関連項目
外部リンク
- CMG Worldwide公式サイト
- American Rhetoric 「Top 100 Speeches」にマルコムXの有名な演説 "The Ballot or the Bullet"(投票か弾丸か),"Message to the Grassroots"(草の根へのメッセージ)が収録されている。(英語)