マルクス・ウァレリウス・ウォルスス(Marcus Valerius Volusus)またはウォレスス(Volesus)またはマルクス・ウァレリウス・ウォルスス・マクシムスは紀元前505年の共和政ローマの執政官(コンスル)である。同僚執政官はプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスであった。
マルクス・ウァレリウス・ウォルスス Marcus Valerius Volusus (M. Valerius Volusi f. Volusus) | |
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出生 | 不明 |
死没 | 紀元前496年 |
死没地 | レギッルス湖畔 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | ウァレリウス氏族 |
官職 | 執政官(紀元前505年) トリブヌス・ミリトゥム(紀元前508年) |
後継者 | ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス |
経歴
初期のキャリア
紀元前508年、前年追放された元ローマ王タルクィニウス・スペルブスの亡命先である、クルシウムの王ラルス・ポルセンナが軍を率いてローマへ侵攻すると、指揮官の一人として防衛戦に加わったと思われる。
コンスルシップ
紀元前505年、執政官就任中に(サビニ族との戦闘)に勝利し凱旋式を挙行している。リウィウスはただその事実を伝えるのみで、詳細は不明。
最後
紀元前496年、ラテン同盟との間にレギッルス湖畔の戦いが発生、ローマは戦闘には勝利したものの、ウォルススは戦死した。ラテン同盟軍にはタルクィニウス・スペルブスとその子セクストゥスが加わっていたが、ウォルススはセクストゥスを殺そうとして敵陣に突っ込み、逆に彼の兵に殺害されたとされる。
一族
父はウァレリウス・ウォルススであり、兄弟に紀元前509年、508年、507年、504年の執政官を務めたプブリウス・ウァレリウス・プブリコラ、紀元前494年の独裁官であるマニウス・ウァレリウス・マクシムスがいる。
子息のルキウス・ウァレリウス・ポティトゥスは紀元前483年と470年に執政官となっている。