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ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝
ホラズム朝
خوارزمشاهیان

ホラズム・シャー朝の最大領土
公用語 ペルシア語
アラビア語(宗教)
テュルク語
宗教 イスラム教スンナ派
首都 クフナ・ウルゲンチ
1077年 - 1212年
サマルカンド
(1212年 - 1220年
ガズニー
(1220年 - 1221年
タブリーズ
1225年 - 1231年
スルターン
ホラズム・シャー
面積
1210年2,300,000km²
1218年3,600,000km²
人口
1220年5,000,000人
変遷
通貨ディルハム
現在 トルクメニスタン
ウズベキスタン
カザフスタン
キルギス
タジキスタン
アフガニスタン
パキスタン
イラン
イラク
アゼルバイジャン

ホラズム・シャー朝(ホラズム・シャーちょう、ペルシア語: خوارزمشاهیان‎ Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝1077年 - 1231年)。ホラズム朝フワーラズム朝コラズム朝とも呼ぶ。

ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが[1]、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀セルジューク朝から自立した政権を指す。

歴史

建国から拡大の時代

ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルークアヌーシュ・テギーンが、1077年にその30年ほど前まではガズナ朝の領土であったホラズム地方の総督に任命されたのを起源とする[2]。アヌーシュ・テギーンの死後、その子クトゥブッディーン・ムハンマドが1097年頃にセルジューク朝によりホラズムの総督に任命され、ホラズム・シャーを自称した[3]

ムハンマドの死後、ホラズム・シャーの位を世襲したアトスズは、1135年頃にセルジューク朝から自立の構えを見せた。1138年ホラズムの南のホラーサーンを本拠地とするセルジューク朝のスルターン・サンジャルによって打ち破られ、再びセルジューク朝に屈服した。この時にアトスズは長子のアトルグを捕殺されており、領土と息子を失った恨みからカラ・キタイ(西遼)を中央アジアに呼び寄せたという節もある[4]1141年カトワーンの戦いでサンジャルがカラ・キタイに敗れると再び離反し、以後もサンジャルとの間で反抗と屈服を繰り返した。しかし、カラ・キタイの将軍エルブズによってホラズム地方が破壊され、カラ・キタイに貢納を誓約した[5]

1157年、サンジャルの死をもってホラーサーンのセルジューク朝政権が解体すると、ホラズム・シャーは再び自立を果たすが、今度はセルジューク朝にかわって中央アジアに勢力を広げたカラ・キタイへと時に服属せねばならなかった。

1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。

テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権(イルデニズ朝)(英語版)の要請に応じて[6]、中央イランの(レイ)でイラク・セルジューク朝トゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた[7]1197年、テキシュはアッバース朝カリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。

もともとホラズム・シャーはマムルークの出身で部族的繋がりを持たないものの、王朝の軍事力はホラズム周辺のテュルク系遊牧民に大きく依存しており、テキシュの覇権にはアラル海北方のテュルク系遊牧民カンクリキプチャクの力が大きな役割を果たした。テキシュの妻の一人であるテルケン・ハトゥンはカンクリの出身であり、彼女の生んだ王子ムハンマド(アラーウッディーン)1200年にテキシュの後を継いで第7代スルターンに即位する。

大帝国の建設と崩壊

テキシュの子アラーウッディーン・ムハンマドの治世に、ホラズム・シャー朝は最盛期を迎えた[8]。アラーウッディーンはホラーサーンに侵入したゴール朝を撃退したうえ、逆にゴール朝のホラーサーンにおける拠点都市ヘラートを奪った。カラ・キタイの宗主権下で辛うじて存続していた西カラハン朝は臣従と引き換えにアラーウッディーンにカラ・キタイへの反攻を要請し、1208年(1209年)にカラ・キタイを攻撃した[9]。アラーウッディーンはカラ・キタイに敗れてホラズム内に彼が戦死した噂まで流れるが、1210年には西カラハン朝に加えてナイマン部と同盟してスィル川を渡り、キタイ人を破った[10]。同1210年(もしくは1212年)にホラズムへの臣従を拒絶した西カラハン朝を完全に滅ぼしてアム川とスィル川の間に広がるマー・ワラー・アンナフルを勢力下に置き、首都をサマルカンドに移した[11]

さらにはシハーブッディーンの死後急速に分裂し始めたゴール朝を打ち破って現在のアフガニスタン中央部までほとんどを征服、1215年にゴール朝を滅ぼした。アラーウッディーンはゴール朝のホラズム侵入をアッバース朝の扇動によるものと考え、バグダードの領有とカリフの地位を望んだ[12]。アッバース朝が招集したファールスアゼルバイジャンアタベク政権を破り[13]1217年にはイラクに遠征してアッバース朝に圧迫を加えてイランのほとんど全域を屈服させるに至り、ホラズム・シャー朝の勢力は中央アジアから西アジアまで広がる大帝国へと発展した。

しかし、ホラズム・シャー朝の没落もまた、アラーウッディーンの時代に劇的に進むこととなった。ホラズム・シャー朝が最大版図を達成したのと同じ頃、モンゴル帝国がカラ・キタイの政権を奪ったナイマン部のクチュルクを滅ぼし、ホラズム・シャー朝と中央アジアで境を接するようになっていた[14]。アラーウッディーンはモンゴル帝国のチンギス・ハーンと誼を通じていたが[15][16]1216年にスィル川河畔のオトラルで、ホラズム・シャー朝のオトラル総督イナルチュクが、モンゴルの派遣した商業使節が中央アジア侵攻のための密偵であると疑い[17][18]、一行400人を殺害してその保持する商品を奪う事件が起こった[19]。モンゴルからイナルチュクの引き渡しを要求する使者が到着するが、アラーウッディーンはテルケン・ハトゥンの親族であるイナルチュクの引き渡しを拒み、使者を殺害あるいは侮辱した[20]

モンゴル襲来と滅亡

おそらくかねてから中央アジア侵攻の機会をうかがっていたモンゴル帝国のチンギス・ハーンは、この事件を機にホラズム・シャーへの復讐を決し、1219年にハーン自ら率いるモンゴル軍の大規模な侵攻を開始した[14]。アラーウッディーンはカンクリ族を含む、遊牧民諸部族の寄り合いだったため、モンゴルの侵攻に対しては内紛と反抗の危険性に脅かされていた[21]。これにより、モンゴルの侵攻に対して寝返りの危険がある野戦で迎撃する作戦を取ることができず、兵力を分散してサマルカンドブハラなど中央アジアの各都市での籠城戦を行なった[22]。その結果、各都市は綿密に侵攻計画を準備してきたモンゴル側の各個撃破にあって次々に落城、破壊され、ホラズム・シャー朝は防衛線をほとんど支えられないまま短期間で事実上崩壊した[22]。アラーウッディーン・ムハンマドはイラン方面に逃れ、逃亡先のカスピ海上の小島で死亡した[22]

モンゴル軍の侵攻に際し辛うじて抵抗を続けることができたのは、アラーウッディーンの子ジャラールッディーンであった[23]。ジャラールッディーンはアフガニスタン方面でモンゴルと戦い[24]ながら次第に南へと後退し、一時はインダス川を渡ってインドに入った。ジャラールッディーンはインドの奴隷王朝に支援を求めるが拒絶され、奴隷王朝とインドの領主たちはジャラールッディーンを放逐するために同盟した[25]。ジャラールッディーンはイランに戻って各地を転戦、エスファハーンで独立した弟ギヤースッディーンを破る。イラクを経てアゼルバイジャンに入り、1225年に当地のアタベク政権イルデニズ朝を滅ぼしてタブリーズに入城した[26]

ジャラールッディーンはアゼルバイジャンを根拠にグルジア王国を攻撃して南カフカスから東アナトリアに勢力を広げるが、1227年にギヤースッディーンの裏切りによってモンゴル軍との会戦に敗れる[27]。ジャラールッディーンはギヤースッディーンを再び破り、イラクに進出した。アナトリア中央部を支配するルーム・セルジューク朝と婚姻関係を結ぼうと試みたが、東部アナトリアの領土を巡って交渉は決裂した[28]1230年、ジャラールッディーンは東部アナトリアのエルズィンジャン近郊でルーム・セルジューク朝とダマスカスを支配するアイユーブ朝の地方政権の連合軍に敗れ、その兵力の半数を失った[29]

1231年、チンギスの死後に後を継いだオゴデイ・ハーンはイラン方面に将軍チョルマグンを指揮官とする討伐隊を派遣する。宰相シャラフ・アル=ムルクをはじめとする配下と、モンゴル軍の到来を知ったアゼルバイジャンの住民はジャラールッディーンに反旗を翻した[30]。モンゴル軍の攻撃を受けたジャラールッディーンは東部アナトリアのアーミド(現在のディヤルバクル)近郊の山中に逃亡するが、怨恨を抱く現地のクルド人によって殺害される[31]。ジャラールッディーンの死により、ホラズム・シャー朝は滅びた。

文化

ホラズム・シャー朝の統治下で、ホラズム地方は中央アジアにおけるペルシア文学アラビア語による学術研究の中心地となった[8]アフマド・ヤサヴィー、スライマーン・バキルガニーらは、イスラームの布教のため、ホラズム・シャー朝の民衆に向けた文学作品を残した[32]。ジャラールッディーンの時代には、彼にトルコ語の文典が捧げられた[32]

クトゥブッディーン・ムハンマドの治世に、ペルシア語による医学書『ホラズム・シャーの貯蔵庫』が宮廷に献呈された[4]

歴代スルターン

  1. アヌーシュ・テギーン1077年 - 1097年
  2. クトゥブッディーン・ムハンマド1097年 - 1127年
  3. アトスズ1127年 - 1156年
  4. イル・アルスラン1156年 - 1172年
  5. ジャラールッディーン・スルターン・シャー1172年 - 1193年
  6. アラーウッディーン・テキシュ1172年 - 1200年
  7. アラーウッディーン・ムハンマド1200年 - 1220年
  8. ジャラールッディーン・メングベルディー1220年 - 1231年

系図

脚注

[脚注の使い方]

注釈

出典

  1. ^ ドーソン (1968)、p.154
  2. ^ 鳥井 (1993)、pp.190-191
  3. ^ 岩村 (2007)、p.169
  4. ^ a b 井谷 (1968)、p.126
  5. ^ ドーソン (1968)、p.154,p.332
  6. ^ 井谷 (1968)、pp.127-128
  7. ^ ヒッティ (1983)、p.266
  8. ^ a b 清水 (2002)
  9. ^ ドーソン (1968)、pp.156-157
  10. ^ ドーソン (1968)、pp.145-146,p.157
  11. ^ ドーソン (1968)、pp.158-159
  12. ^ ドーソン (1968)、pp.163-164
  13. ^ ドーソン (1968)、p.165
  14. ^ a b 杉山 (1997)、p.407
  15. ^ 岩村 (2007)、pp.179-180
  16. ^ ドーソン (1968)、pp.174-176
  17. ^ ドーソン (1968)、pp.178-179
  18. ^ 杉山 (1996)、p.50
  19. ^ 岩村 (2007)、p.180
  20. ^ ドーソン (1968)、pp.180-181
  21. ^ 杉山 (1997)、pp.407-408
  22. ^ a b c 杉山 (1997)、p.408
  23. ^ 岩村 (2007)、pp.186-187
  24. ^ 岩村 (2007)、p.187
  25. ^ ドーソン (1973)、pp.5-6
  26. ^ ドーソン (1973)、pp.14-16
  27. ^ ドーソン (1973)、pp.28-30
  28. ^ ドーソン (1973)、pp.42-44
  29. ^ ドーソン (1973)、p.48
  30. ^ ドーソン (1973)、pp.54-57
  31. ^ ドーソン (1973)、pp.64-65
  32. ^ a b バルトリド (2011)、p.205

参考文献

  • 井谷鋼造「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』永田雄三編、山川出版社、<新版世界各国史>、2002年。(ISBN 4634413906)
  • 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』講談社講談社学術文庫〉、2007年。ISBN (978-4-06-159803-4)。 
  • 清水宏祐「ホラズム・シャー朝」『新イスラム事典』、平凡社、2002年、p.446。(ISBN 4582126332)
  • 杉山正明『モンゴル帝国の興亡 上 軍事拡大の時代』講談社〈講談社現代新書〉、1996年。ISBN (4-06-149306-X)。 
  • 杉山正明 「第4章 元 2モンゴル帝国の成立」『中国史 3:五代 - 元』 松丸道雄、池田温、斯波義信、神田信夫、濱下武志編、山川出版社、〈世界歴史大系〉、1997年、pp.397-428 (ISBN 4-634-46170-6)
  • C.M.ドーソン 著、佐口透 訳『モンゴル帝国史』 1巻(初版)、平凡社東洋文庫〉、1968年。 
  • C.M.ドーソン 著、佐口透 訳『モンゴル帝国史』 4巻(初版)、平凡社〈東洋文庫〉、1973年。 
  • 鳥井順『中東軍事紛争史 I :古代 - 1945』(初版)第三書館〈パレスチナ選書〉、1993年。ISBN (4-8074-9362-0)。 
  • V.V.バルトリド 著、小松久男 訳『トルキスタン文化史』 1巻(初版)、平凡社〈東洋文庫〉、2011年。 
  • ヒッティ, フィリップ・K 著、岩永博 訳『アラブの歴史』 下(初版)、講談社〈講談社学術文庫〉、1983年。ISBN (4-06-158592-4)。 

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