» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

奴隷王朝

奴隷王朝
インド・マムルーク朝
سلطنت مملوک

奴隷王朝(どれいおうちょう、英語: Slave Dynasty)またはマムルーク・スルターン朝[1]ペルシア語: سلطنت مملوک‎ 転写:Sulṭanat Mamluk英語: Mamluk Sultanate)は、北インドを支配したデリー・スルターン朝最初のテュルク系イスラム王朝1206年 - 1290年)。首都はデリー

1220年完成のクトゥブ・ミナール

概要

クトゥブッディーン・アイバクシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュギヤースッディーン・バルバンという3人の君主スルターン)の子孫たちが相次いで支配した。いずれもマムルークの出身であり、これを英語では Slave Dynasty と訳し、さらに日本語において奴隷王朝と訳した。

ただし、マムルークを奴隷とするのは適切な訳ではない。マムルークは奴隷ではなく解放奴隷である。イスラーム世界では奴隷を解放する事は善行とされて盛んに行われ、解放された奴隷は元主人の忠実な家来となったため、逆説的に忠実な家来を得るために奴隷を買い求める事が行われた。マムルークもそのひとつであり、騎馬民族がむしろ栄達のために子弟を奴隷商人に売り渡した経歴を持つ。そのため一般的な奴隷とは全く異なる存在である。

奴隷王朝という語では誤解を招くおそれもあるので、同じくマムルーク出身者がエジプトシリアに立てた王朝がマムルーク朝と呼ばれているのにならって「インドのマムルーク朝 (Mamluk Dynasty of India)」という呼び方も行われている。

歴史

アイバク家

奴隷王朝の初代クトゥブッディーン・アイバクは、ゴール朝シハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)に仕えて北インドの征服事業を委ねられたマムルークの将軍であった[2]1206年のムハンマドの死後、ゴール朝が後継者争いから解体に向かったときに任地のデリーで自立したアイバクによってゴール朝の北インド領を支配する政権として打ち立てられたのが奴隷王朝である[2]

アイバクは一代でデリーを中心に北インドに版図を広げ、首都デリーの建設を進めたが、1210年ポロ競技のさなかに死去した[3][4]

イルトゥトゥミシュ家

アイバクの死後、その子のアーラーム・シャーが即位したが、父のマムルークたちを統御する力がなかったために、マムルークの最有力者でアイバクの娘婿であったシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュが即位する[4][5][3]

イルトゥトゥミシュは自身の同輩であるアイバクのマムルーク将軍たちを一掃してベンガルビハールパンジャーブまで領有して奴隷王朝の北インド支配を確立した[5]

またイルトゥトゥミシュは軍事・内政機構の整備やスルターン権力の強化を進め、奴隷王朝を安定政権に発展させることに成功する[5]。イルトゥトゥミシュは元マムルークではあっても、もともと中央ユーラシアのテュルク系遊牧民であるキプチャクの有力部族イルバリーの遊牧貴族であったので、イルトゥトゥミシュの時代に「四十人(チャハルガーニー)」と呼ばれるイルバリー系のテュルク系貴族集団が形成されて、支配層となっていった[6]

イルトゥトゥミシュはこうして絶大な君主権を背景にスルターン位の世襲制を実現したが、自らの後継者に人材を得ないことに悩み、娘のラズィーヤを王位に即けることを決めた[7]

はじめ貴族やウラマーたちは女王ならば傀儡にできると考えて、イスラーム世界では異例の女王の誕生を容認したが、ラズィーヤはきわめて優れた政治家で自ら権力を握る意欲を見せたために、イルトゥトゥミシュの死後、スルターンと貴族たちとの争いが深まった[8][9]

バルバン家

1240年にラズィーヤが最終的に位を追われたあと、実権のないイルトゥトゥミシュの息子たちが次々に担ぎ出されるが、1266年にイルトゥトゥミシュのマムルーク出身の有力貴族ギヤースッディーン・バルバンが自らスルターン位に就き、イルトゥトゥミシュ家から王位を奪った[10]

即位後もバルバンは貴族の第一人者としてふるまいつつ、軍制を改革して当時アフガニスタンに駐屯して頻繁にインドに侵入してきていたモンゴル軍(モンゴルのインド侵攻)を防ぐ一方、スパイ網を整備したり、スルターンの神聖化に務めるなど、君主権の更なる強化を推し進めた[11]

しかし、1287年にバルバンが死ぬと、貴族たちの推挙によって、まだ20歳前後の孫ムイズッディーン・カイクバードがデリーで即位した[12][13]。年若いスルターンは貴族たちを抑える力がなく、再び君主権が弱まったので、党争や内乱が激化して奴隷王朝の屋台骨を揺るがした[14]

また、テュルク系の貴族ばかりが政権の中枢を担うことに対し、非テュルク系や、テュルク系ながら他系統の民族の混血として扱われていたハルジー族の人々の不満が高まっていた[15][14]。中央での出世を諦めたハルジーや非テュルク系の人々はベンガル・ビハール・パンジャーブなどの辺境で兵士として活躍しつつ、次第に軍隊に浸透していた[16]

このような状況を背景に台頭したハルジー族の長ジャラールッディーン・ハルジーは、1290年にカイクバードを殺害、自らスルターンに即位してハルジー朝を開き、奴隷王朝は滅亡した[15][14]

歴代君主

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.73
  2. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.109
  3. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.74
  4. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.110
  5. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.112
  6. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.75
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.114
  8. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.115
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.116
  10. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.119
  11. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.122
  12. ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.123
  13. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、p.89
  14. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.124
  15. ^ a b チャンドラ『中世インドの歴史』、p.90
  16. ^ チャンドラ『中世インドの歴史』、pp.88-89

参考文献

  • (フランシス・ロビンソン) 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。 
  • (サティーシュ・チャンドラ) 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。 

外部リンク

  • デリーの最初のモスクとクトゥブ・ミナール (ユネスコ世界遺産)
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。