ペドロ1世(ポルトガル語:Pedro I, 1320年4月8日 - 1367年1月18日)は、ポルトガル(ブルゴーニュ朝)の国王(在位:1357年 - 1367年)。「正義王」(o Justiceiro)あるいは「残酷王」(o Cru)と呼ばれる。アフォンソ4世と王妃ベアトリス・デ・カスティーリャの息子。1357年に父王の死去をうけて王位に即いた。
生涯
ペドロ1世は、2番目の妻コンスタンサ・マヌエルの侍女イネス・デ・カストロとの悲恋で知られる。最初の妻ブランカ(母ベアトリスの兄ペドロ王子の娘で、従姉にあたる)とは1325年、ペドロ1世がまだ5歳の時に結婚したが、1333年にこの結婚は無効とされた。次いで1339年に結婚したコンスタンサ・マヌエルも、カスティーリャ王族フアン・マヌエルの娘であった。
しかしペドロはコンスタンサの侍女イネスと恋に落ち、怒った父によって仲を引き裂かれてしまう。1345年にコンスタンサ・マヌエルが死去すると2人の仲は公然化し、子供も生まれるが、カスティーリャを恐れた父とその重臣たちは1355年、イネスをコインブラの(キンタ・ダス・ラグリマス)(涙の館)で暗殺した。それでも彼女に対する愛は消えず、即位した後ペドロ1世は暗殺にかかわった重臣を粛清し、自身がイネスと秘密裡に結婚していたとし、彼女を王妃として認めさせた。
ペドロ1世はイネスの暗殺に関わった貴族を残酷に殺害したが、それだけでなく身分にかかわらず罪人を処罰した。また、ポルトガル王位とポルトガルの教会からローマ教皇の影響を排除するために改革を実施するなど、ペドロ1世の政策は大きな成功を収めた。さらに、妻がカスティーリャ出身だったこともあり、カスティーリャ王国によるアラゴン王国への侵攻にも参加した。
ペドロ1世は1367年に死去し、アルコバサのサンタ・マリア修道院にイネスと並んで葬られている。王位はコンスタンサ・マヌエルとの間の息子フェルナンドが継承した。
子女
最初の妻ブランカとは少年期に分かれており、子供はいない。
2番目の妻コンスタンサ・マヌエルとの間には2男1女が生まれた。
3番目の妻としたイネス・デ・カストロとの間には3男1女が生まれた。
- アフォンソ(1346年)
- ベアトリス(1347年 - 1381年) - アルブルケルケ伯サンチョ(カスティーリャ王エンリケ2世の同母弟)の妻
- ジョアン(1349年 - 1397年) - 1383年から1385年の間、フェルナンド1世の王女ベアトリスの嫡出の不確かさを追及し、王位を請求した。
- ディニス(1354年 - 1397年) - 1383年から1385年の間、兄ジョアンと同じく王位を請求した。
イネスの死後、愛妾(テレサ・ロレンソ)との間に、庶子ながらアヴィス朝を興してポルトガルの黄金期の基礎を築いたジョアン1世(1357年 - 1433年)を儲けている。
系譜
ペドロ1世 | 父: アフォンソ4世 (ポルトガル王) | 祖父: ディニス1世 (ポルトガル王) | 曽祖父: アフォンソ3世 (ポルトガル王) |
曽祖母: ベアトリス[1] | |||
祖母: イサベル | 曽祖父: ペドロ3世 (アラゴン王)[2] | ||
曽祖母: シシリア王女コンスタンサ | |||
母: ベアトリス | 祖父: サンチョ4世 (カスティーリャ王) | 曽祖父: アルフォンソ10世 (カスティーリャ王)[3] | |
曽祖母: アラゴン王女ビオランテ[4] | |||
祖母: (マリア) | 曽祖父: モリナ公(アルフォンソ)[5] | ||
曽祖母: マヨール |
系図
関連項目
- (ペドロ1世年代記)
- (キンタ・ダス・ラグリマス)
外部リンク
- 『(ペドロ1世(厳格王))』 - コトバンク