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- ポルトガル王国
- Regnum Portugalliae (ラテン語)
Reino de Portugal (ポルトガル語) - 国歌: Hymno Patriótico(1809年 - 1834年)
Hino da Carta(ポルトガル語)(1834年 - 1910年)
イーノ・ダ・カルタ
ポルトガル王国の地図(1800年)
ポルトガル王国(ポルトガルおうこく、ラテン語: Regnum Portugalliae, ポルトガル語: Reino de Portugal)は、イベリア半島西部、現在のポルトガルにあたる地域(当初はその一部)に1139年から1910年まで存在した王国である。1415年から1580年までは(ポルトガル・アルガルヴェ王国)、1815年から1821年まではポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国としても知られている。また、海外植民地を含めたポルトガル帝国を指すこともある。
ポルトガルの歴史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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概要
1129年、ポルトゥカーレ伯アフォンソ1世がポルトゥカーレ公を名乗りカスティーリャ王国より独立、1139年より王を称した。国土回復運動(レコンキスタ)によって勢力を拡大した。1242年、サンシュ2世はアルガルヴェ地方を征服してアルガルヴェ王国を建国し、それ以降のポルトガル王はアルガルヴェ王を兼ねるようになった。1383年、フェルナンド1世が嗣子なく没すると、フェルナンド1世の娘でカスティーリャ王国の王妃であったベアトリスが王位を請求し、フェルナンド1世の庶弟であるジョアンと争った。ジョアンはカスティーリャ王国軍を退け、ジョアン1世として即位した(アヴィス朝)。
大航海時代においてスペイン王国とともに活躍し、アフリカ・アジア・南米に広大な植民地を領有した(ポルトガル海上帝国)。エンリケ王子が死去する1460年までに、ポルトガルは遠洋航海に耐える船を改良してヨーロッパ最先端の海洋開発国に成長した。(ジョアン2世)(在位:1455年~95年)の治世下の1488年には、バルトロメウ・ディアスが喜望峰迂回に成功し、胡椒の地インドへの道が開けた[1]。1580年、エンリケ1世が嗣子なく死去すると、スペイン王フェリペ2世がリスボンを占拠し、ポルトガル王に即位した。ポルトガルはスペインに併合こそされなかったものの、1581年から1640年の期間、スペイン王がポルトガル王を兼ねる同君連合の状態にあった(イベリア連合)。しかしスペインに対するポルトガル貴族の反発は根強く、1640年のポルトガル王政復古戦争によって同君連合は解消され、アヴィス朝の分家であるブラガンサ家のジョアン4世が新たな王となった。
1808年にはナポレオン戦争から逃れ、最大の植民地ブラジルに宮廷を移した(ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国)。1821年に宮廷は本国に復帰したが、ブラジル帝国の独立を許すこととなった。1828年には王位継承をめぐってポルトガル内戦が勃発し、1834年まで続いた。以降も内政の混乱が続いて共和主義者が台頭し、1910年の共和政革命によって王国は消滅した。
歴代王朝
参考文献
- 金七紀男「図説ブラジルの歴史」、2014年10月24日、河出書房新社[1]