ブロンスキ・ビート(Bronski Beat)は主に1980年代中盤に活躍したイギリスのシンセポップ、ニュー・ウェイヴ、(トリオ)。デビューアルバム『(エイジ・オブ・コンセント)』と、このアルバムからシングルカットされ彼らにとって唯一のBillboard Hot 100入りを果たした『(スモールタウン・ボーイ)』などで知られる。またメンバー全員がゲイをカミングアウトし、楽曲のテーマや歌詞にゲイにまつわるメッセージが色濃く反映された点でも話題となった[4]。
来歴
1983~1985年: 全盛期
1983年、ブロンスキ・ビート結成時のメンバーは、グラスゴー出身のジミー・ソマーヴィル(ボーカル)と、スティーブ・ブロンスキ(キーボード、パーカッション)、そしてサウスエンド=オン=シー出身のラリー・スタインバチェク(キーボード、パーカッション)で、彼らはロンドンのブリクストンにあるマンションで共同生活を送っていた。ドキュメンタリー映画『(実録:性的マイノリティであるティーンエイジャーたちの逆襲)』制作中に、ソマーヴィルの悲鳴の如き歌声を聞いたブロンスキとスタインバチェクは一緒に音楽を作ろうと誘った[4][5]。彼らはおとなしくてお行儀の良い当時のゲイパフォーマーたちに不満を抱いており、もっとストレートで政治的な活動をしたいと考えていた[4]。バンドデビューの舞台となったのは、1983年ロンドンで初めて開催されたレズビアン&ゲイの芸術祭「セプテンバー・イン・ピンク」だった[6]。
ブロンスキ・ビートは計9回のライブを経て1984年にロンドンレコードと(レコーディング契約)を結んだ。デビューシングルの『(スモールタウン・ボーイ)』は、ゲイのティーンエイジャーが親元を離れ故郷を去る悲哀を描いており、全英シングルチャートで3位、全米シングルチャートで48位となり、オランダやベルギーでもチャート入りを果たした[7][8][9][10][11]。バーナード・ローズが監督したミュージック・ビデオはドラマ仕立てとなっておりバンドメンバー全員が参加した[12]。ソマーヴィル扮するゲイの少年が見つめる先は、思いを寄せる男子が泳ぐプールだった。ゲイの友人(ブロンスキとスタインバチェク)にも後押しされ、勇気を持って男子に話し掛けたソマーヴィルだったが、忌み嫌われた挙句男子とその友人たちにリンチされてしまう。結局警察沙汰になり、親とも心底理解し合うことは叶わず、列車に乗って街を去る姿が描かれていた[注釈 1]。 Hi-NRGテイストを纏った第2弾シングル『(ホワイ?)』は、一層明確にゲイに対する偏見に焦点を当てた作品となっており、イギリス、オランダ、スイス、ドイツ、フランス、オーストラリアでトップ10入りした。
1984年10月、ファーストアルバム『(エイジ・オブ・コンセント)』がリリースされた。この「性的同意年齢(Age of consent)」と題するアルバムのレコードジャケット内側には、ヨーロッパ各国のゲイ同士における性的同意年齢が列挙されていた[13]。イギリスの場合は異性間の性行為同意年齢16歳に対し、男性同士の同意年齢は21歳と厳しく、ヨーロッパにはイギリスより同性愛者に寛大な国が多く存在した。当時の苦労についてブロンスキは、「ロンドンは地方に比べればゲイにとっては住みやすい環境だったね。僕らはデビュー当初からカミングアウトしていたから、ファンに嫌われたり売り上げが落ちる心配をすることもなかったよ。」と回想している[5]。アルバムは全英アルバムチャートで4位と大ヒットしたほか[7]、アメリカで36位、オーストラリアで12位を記録した。
同じ頃バンドはロンドンの(エレクトリック・ボールルーム)で開催された、(レズビアンズ・アンド・ゲイズ・サポート・ザ・マイナーズ)(LGSM)の資金調達を目的としたライブイベント「鉱山と性的マイノリティ」でオープニングアクトを務めた[14][15]。このイベントの様子は映画『パレードへようこそ』でも紹介され、同作のサウンドトラックに『ホワイ?』が収録された。 1984年のクリスマス前にリリースされたサードシングルは、『ポーギーとベス』からのジョージ・ガーシュウィンとアイラ・ガーシュウィンによる名作『(そんなことはどうでもいいさ)』をカバーした『エイント・ネセサリリー・ソー』で、全英トップ20に入るヒットとなった[7]。
1985年、バンドはマーク・アーモンドと組んでドナ・サマーの『(アイ・フィール・ラブ)』のカバーバージョンを録音した。フルバージョンは同じくサマーの『(ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー)』と(ジョン・レイトン)の『(霧の中のジョニー)』の一部を交えたメドレー仕様となっていた。このコラボレーションは成功し、全英3位に入るなど『スモールタウン・ボーイ』に次ぐヒットとなった[16]。なおマーク・アーモンドは『アイ・フィール・ラブ』が大のお気に入りだったにもかかわらず、元の歌詞を見ていなかったため「Falling free, falling free, falling free」と歌うべき部分を、誤って「Whatll it be, whatll it be, whatll it be」と歌っている[17]。
この時期バンド内では個人的な確執あるいは音楽性の相違から緊張が高まり、遂に1985年の夏ソマーヴィルの脱退に至ってしまった。ソマーヴィルは(リチャード・コールズ)と(コミュナーズ)を結成し、ブロンスキ・ビートは代わりのボーカルを探すこととなった。 ソマーヴィル脱退前に完成していたニューシングルの『ラン・フローム・ラブ』は、既にポリグラム[注釈 2]によりプロモーションが開始されていたが、この事態を受けてリリースは中止された。『ラン・フローム・ラブ』はその後、リミックス曲やB面を集めたコンピレーション・アルバム『(ハンドレッズ&サウザンズ)』に、『アイ・フィール・ラブ』と共に収録され日の目を見た。
1985~1995年: ジミー・ソマーヴィル脱退後
1985年11月、新ボーカリストにジョン・フォスター[注釈 3]を迎えたブロンスキ・ビートは、『(パーフェクト・ビート)』をリリース、全英3位を筆頭にヨーロッパでヒットを飛ばし[16]、やがてオーストラリアにも波及した[11]。この曲はまた同年の映画『(ブレジネフへの手紙)』で使用され、サウンドトラックアルバムに収録された[18]。 続くシングル『カモン、カモン』は全英チャート20位、1986年5月リリースのアルバム『(トゥルースデア・ダブルデア)』は全英チャート18位を記録した。ニューヨークに住むゲイの生活を描いた映画『(別れの一瞥)』のサウンドトラックに、ブロンスキ・ビートのファーストアルバムから『ホワイ?』、『ラヴ&マネー』、『スモールタウン・ボーイ』が採用された。更にバンドはプロデューサーのマーク・カニンガムと組んでスージー・クアトロやキンクスらと共に、BBCのチャリティ番組『(チルドレン・イン・ニード)』のためのシングル作成に参加、デヴィッド・ボウイの『ヒーローズ』をカバーした。このシングルはB面にカニンガムらの手によるオリジナル曲『ア・ロング・ウェイ・トゥ・ゴー』を収録した7インチ盤が、ザ・カウンティ・ライン名義[注釈 4]でリリースされた[19]。
1987年、フォスターがバンドを去った。ブロンスキとスタインバチェクは二人だけで次のアルバム『アウト&アバウト』の制作を開始した。レコーディングはブライアン・パグスレーをエンジニアに迎え、ロンドンの(ベリー・ストリート・スタジオ)で行われた。ストロベリー・スウィッチブレイドの(ローズ・マクドール)をボーカルに迎えた『ピース・アンド・ラブ』を始め、『ファイナル・スピン』、『ヨーロピアン・ボーイ』などの曲が生まれ、新曲を携えたツアーも好評を得た。しかしバンドがロンドンレコードから離脱したため、アルバムは完成することなくプロジェクト中止となった。これらお蔵入りした曲のうち、『ヨーロピアン・ボーイ』は1987年ブロンスキ・ビートプロデュースのもと、イギリスのディスコグループ、スプラッシュが7インチ及び12インチのシングルでリリースした。『ピース・アンド・ラブ』は2006年頃から複数のインターネットサイトに投稿されたほか、現在ではブロンスキのSoundCloudアカウントで聴くことができる[20]。同じく1987年、ブロンスキとスタインバチェクはニュー・オーダーと共に国際エイズデー[注釈 5]のためのライブを開催。ロンドンブリクストン・アカデミーの会場で、このイベント限定の復帰を果たしたソマーヴィルとトリオでのライブパフォーマンスを披露した[21]。
1989年、ジョナサン・ヘリヤーをボーカリストに迎えたバンドは、バッキングボーカルにアニー・コンウェイを加えアメリカとヨーロッパを精力的にツアーした。全英32位のヒットとなった『チャ・チャ・ヒールズ』では、俳優兼シンガーのアーサー・キットとのコラボが実現した[16]。この曲は元々同じく俳優兼シンガーのディヴァインに捧げられたが、1988年の急死によりレコーディングは実現しなかった。1990年~1991年に掛けて、マイク・ソーンのプロデュースによりゾンバ・レコードレーベルから3枚のシングル、『アイム・ゴナ・ラン・アウェイ』、『ワン・モア・チャンス』、『ホワット・モア・キャン・アイ・セイ』がリリースされた。
1993年フォスターがバンドに復帰し、テクノチューンの『ホワイ???』と対照的なアコースティックバージョンの『スモールタウン・ボーイ'94』が、ドイツの(ZYXミュージック)レーベルからリリースされた。翌年リリースされたアルバム『レインボー・ネイション』にフォスターは参加せずヘリヤーが復帰した。このアルバムにはまたキーボード及びプログラミング担当としてイアン・ドナルドソンが参加した。
しばらくツアーを続けた後1995年、ブロンスキ・ビートは解散し各々の道に進んだ。スティーブ・ブロンスキはプロデューサー稼業に勤しみ、イアン・ドナルドソンはSordid Soundz名義でDJとして成功を収めた。ラリー・スタインバチェクは、(マイケル・ラウブ)の劇団「リモート・コントロール・プロダクションズ」[注釈 6]の音楽監督に就任した。
ゲイの高校生の成長を描いた1998年の映画『エッジ・オブ・セブンティーン』で、『スモールタウン・ボーイ』と『ホワイ?』が使用された。1984年が舞台のこの映画では曲がサウンドトラックとして使用されただけでなく、ゲイに目覚めつつあった主人公が人目を忍んで『エイジ・オブ・コンセント』を購入したり、自室でこっそり『ホワイ?』を聞いているところに母親が突然現れ、慌てて見入っていた歌詞カードを隠すシーンなど、映像としてもブロンスキ・ビートの作品が登場した[22]。
2007年以降: スティーブ・ブロンスキソロと新生ブロンスキ・ビート
2007年、ブロンスキはイギリスのオルタナティブ・ロックバンド、オール・リビング・フィアーの『ストレンジャー・トゥ・ナン』のリミックスを4バージョン制作し、うち1曲は彼らの回顧的なアルバム『フィフティーン・イヤーズ・アフター』に収録された。また同年北アイルランドのエレクトロニックバンド、エレクトロブロンズの『フラワーズ・イン・ザ・モーニング』をリミックスし、曲のスタイルをクラシックからHi-NRGに変身させた。
2015年、ブロンスキは1989年に作った曲のカバー制作のため、ジェシカ・ジェームズ(別名バーバラ・ブッシュ)とチームを組んだ。彼女のルックスとアーサー・キットのようなサウンドは、ディヴァインを思い起こさせたとブロンスキは語った[要出典]。
2016年、ブロンスキはリリースされなかった1987年の幻のアルバム『アウト&アバウト』全11曲を、自身のオフィシャルウェブサイトなどでダウンロード販売した[23][24]。
2017年1月12日、スタインバチェクの姉、ルイーズ・ジョーンズは、弟のラリーが家族に看取られながら前月亡くなったことをBBCに明かした。享年56歳であった[25]。ソマーヴィルは「僕らは若く勇気があり、確固たる決意を持っていた、二度と巡り合えない一瞬、あの時をありがとうラリー。」とメッセージを寄せた[26]。
2017年7月、ブロンスキとドナルドソンはボーカルにスティーヴン・グランヴィルを迎え、新生ブロンスキ・ビートとして『エイジ・オブ・コンセント』の再録アルバム『エイジ・オブ・リーズン』をリリースした[27]。
2021年12月、ブロンスキが61歳で亡くなったことが明かされた[28]。バンド創設メンバーで唯一の生存者となってしまったソマーヴィルはブロンスキの死を悲しむと共に、「スティーブは才能あふれるメロディーメイカーだった。彼と作った曲が僕らの人生を変え、そして多くの人の人生に影響を与えたあの日々、とても楽しく刺激的だった。ありがとうスティーブ。」とメッセージを寄せた[29]。
メンバー
結成時のオリジナルメンバーは(ジミー・ソマーヴィル)、スティーブ・ブロンスキと ラリー・スタインバチェク。ソマーヴィルの脱退後(リチャード・コールズ)、ジョン・フォスター、ジョナサン・ヘリヤーなど度々メンバーチェンジが行われた。
現在のメンバー
- スティーブ・ブロンスキ – キーボード、プログラミング、パーカッション、アコースティック・ギター (1983-1995, 2016–2018)
- イアン・ドナルドソン – キーボード、プログラミング (1994-1995, 2016–2018)
- スティーヴン・グランヴィル – ボーカル (2016–2018)
過去のメンバー
- (ジミー・ソマーヴィル) – ボーカル (1983–1985, 1987)
- ラリー・スタインバチェク – キーボード、パーカッション (1983–1995) (2016年死亡)
- ジョン・フォスター – ボーカル (1985–1987, 1994–1995)
- ジョナサン・ヘリヤー – ボーカル (1989–1994, 1995)
- (リチャード・コールズ) - サクソフォーン (1983-1984)
- スティーブ・ブロンスキ – キーボード、プログラミング、パーカッション、アコースティック・ギター (1983-1995, 2016–2018) (2021年死亡)
賞
年 | 賞 | 作品 | カテゴリー | 結果 |
---|---|---|---|---|
1984 | NMEアワーズ | (バンドとして) | 最優秀新人 | 受賞 |
(スマッシュ・ヒッツ・ポール・ウィナーズ・パーティ) | ノミネート | |||
最優秀グループ | ノミネート | |||
(エイジ・オブ・コンセント) | 最優秀LP | ノミネート | ||
(ホワイ?) | 最優秀シングル | ノミネート | ||
(スモールタウン・ボーイ) | ノミネート | |||
1985 | (ブリット・アワード) | (最優秀ブリティッシュシングル) | ノミネート | |
(バンドとして) | (最優秀ブリティッシュグループ) | ノミネート | ||
1986 | アイヴァー・ノヴェロ賞 | (パーフェクト・ビート) | 最優秀テーマ曲または主題歌 | ノミネート |
2017 | ゲイ・ミュージック・チャート・アワーズ | (スモールタウン・ボーイ) ((アルノー・レボティーニ)リミックス) | 最優秀サウンドトラック[30] | ノミネート |
主要ディスコグラフィ
- スタジオ・アルバム
- 1984年 - (エイジ・オブ・コンセント) (全英4位)
- 1986年 - (トゥルースデア・ダブルデア) (全英18位)
- 1987年 - アウト&アバウト
- 1995年 - レインボー・ネイション
- 2017年 - エイジ・オブ・リーズン
- シングル
- 1984年 - (スモールタウン・ボーイ) (全英3位、全米48位)
- 1984年 - (ホワイ?) (全英6位)
- 1985年 - (アイ・フィール・ラブ) with マーク・アーモンド (全英3位)
- 1985年 - (パーフェクト・ビート) (全英7位)
関連項目
- (ジミー・ソマーヴィルのディスコグラフィ)
- ニュー・ウェイヴのアーティストの一覧
注釈/出典
注釈
出典
- ^ Andrews, Marc; Isaac, Claire; Nichols, David (2011). Pop Life: Inside Smash Hits Australia 1984 - 2007. Affirm Press. p. 39. ISBN (978-0-98713-267-3)
- ^ Here Publishing (November 1999). Out. Here Publishing. p. 117
- ^ Graham, Bill (14 December 1984). "Critics Roundup 1984". (ホットプレス). 2017年1月28日閲覧。
- ^ a b c Hoskyns, Barney (May 1985). “What is Bronski Beat?”. Spin: 41 .
- ^ a b “The Godfathers of Pop: Steve Bronski interview”. classicpopmag.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ “The Women's Liberation Music Archive -P-”. womensliberationmusicarchive.co.uk. 2021年6月3日閲覧。
- ^ a b c Roberts, David (2006). British Hit Singles & Albums (19th ed.). London: Guinness World Records Limited. p. 79. ISBN (1-904994-10-5)
- ^ “” (オランダ語). VRT. Top30-2.radio2.be. 2012年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月22日閲覧。 Hoogste notering in de top 30 : 1
- ^ "Nederlandse Top 40 – Bronski Beat - Smalltown Boy search results" (in Dutch) ネーダラントス・トップ40. Retrieved 20 December 2013.
- ^ "Dutchcharts.nl – Bronski Beat – Smalltown Boy" (in Dutch). シングル・トップ100 (オランダ). Retrieved 20 December 2013.
- ^ a b (Kent, David) (1993). Australian Chart Book 1970–1992. (セント・アイヴス): Australian Chart Book. ISBN (0-646-11917-6)
- ^ Parker, Lyndsey (2019年6月26日). “How '80s LGBTQ band Bronski Beat's haunting 'Smalltown Boy' made a difference: 'It was very bold'”. (Yahoo! Music). 2019年10月17日閲覧。
- ^ “Bronski Beat – The Age Of Consent”. discogs.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ Robinson, Lucy (2007). Gay men and the left in post-war Britain: how the personal got political. (Manchester University Press). ISBN (978-0-7190-7434-9)
- ^ “Pits and Perverts poster - The British Library”. bl.uk. 2021年6月3日閲覧。
- ^ a b c “OfficialCharts.com”. 2016年1月10日閲覧。
- ^ Marc Almond (2013年3月19日). “Marc Almond & Bronski Beat - I Feel Love”. youtube.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ “Letter To Brezhnev (From The Motion Picture Soundtrack) | Discogs”. discogs.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ “”. 45cat.com. 2021年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月3日閲覧。
- ^ Steve Bronski. “Peace And Love by Steve Bronski | Free Listening on SoundCloud”. soundcloud.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ @JD_Central. "#OTD 1987: New Order, performed for International Aids Day at O2 Academy Brixton, London with Bronski Beat" (ツイート). Twitterより2021年6月3日閲覧。
- ^ Michael D. Klemm. “Edge of Seventeen”. cinemaqueer.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ “80er Jahre: Steve Bronski publiziert Bronski Beat’s unveröffentlichtes Album „Out & about“ von 1987 digital im Web.”. kulturclashing.wordpress.com (2016年8月29日). 2021年6月3日閲覧。
- ^ “Steve Bronski - Out & About (2016, 320 Kbit/s, File) | Discogs”. discogs.com. 2021年6月3日閲覧。
- ^ “Bronski Beat keyboardist ラリー・スタインバチェク dies at 56”. BBCニュース. (2017年1月12日) 2017年1月12日閲覧。
- ^ “Jimmy Somerville leads tributes to Bronski Beat bandmate Larry Steinbachek”. independent.ie (2017年1月13日). 2021年6月3日閲覧。
- ^ “ブロンスキ・ビート 22年ぶりの新アルバムは1stアルバム『The Age of Consent』の再録盤”. amass.jp (2017年6月28日). 2021年6月3日閲覧。
- ^ “Bronski Beat founder Steve Bronski dies at 61”. bbc.com (2021年12月10日). 2021年12月11日閲覧。
- ^ Somerville, Jimmy [@JimmySomerville] (2021年12月9日). "Sad to hear Steve Bronski has died. He was a talented and a very melodic man" (ツイート). Twitterより2021年12月11日閲覧。
- ^ “Gay Music Chart: Gay Music Chart Awards 2017 : the nominations”. Gaymusicchart.blogspot.com (2018年4月23日). 2021年6月3日閲覧。
外部リンク
- ブロンスキ・ビート - Discogs