ブリティッシュ・レーシング・パートナーシップ(British Racing Partnership, BRP)は、1958年から1964年にかけてF1に参戦していたイギリスのチーム。1962年まではクーパーやBRM、ロータスのシャシを購入して参戦していた。
参戦年度 | 1963 - 1964 |
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出走回数 | 13 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 11 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1963年ベルギーGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1964年メキシコGP |
歴史
スターリング・モスの父アルフレッド・モスと、スターリングのマネージャーだったケン・グレゴリーの手によって参戦。クーパーのF2マシンで1958年の最終戦モロッコグランプリに初エントリー(ドライバーは(トム・ブリジャー)、決勝リタイア)。
1959年はクーパーのF2マシンとBRMのシャシで3戦にエントリー。BRMのシャシを駆ったスターリングが、出走した2戦でファステストラップを記録。またそのうちのイギリスグランプリでは2位を獲得した。
1960年には(ヨーマン・クレジット)のスポンサーを受け、ヨーマン・クレジット・レーシング・チーム(Yeoman Credit Racing Team )として参戦(シャシーはクーパーを使用)。1961年には(UDT (United Dominion Trust) レイストール)のスポンサーを受け、UDTレイストール・レーシング・チーム(UDT Laystall Racing Team )として翌シーズンまで参戦した(ロータスのシャシーを使用)。
1963年からはロータスのシャシーを改造してオリジナルマシンを制作し、コンストラクターとして出場。ドライバーは初年度は(イネス・アイルランド)のみの1台体制、翌年には(トレバー・テイラー)が加わり2台体制になった。しかし、非選手権戦では1勝を挙げることができたものの、選手権戦での最高位は1963年シーズンにおける2度の4位に留まり、1964年シーズンを以て撤退した。
変遷表
※コンストラクターとしての参戦以前のも含む
年 | エントリー名 | 車体型番 | タイヤ | エンジン | ドライバー | ランキング | 優勝数 |
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1958年 | British Racing Partnership | クーパーT45 | D | クライマックスL4 | (トム・ブリジャー) | - | 0 |
1959年 | British Racing Partnership | クーパーT51 BRM・P25 | D | クライマックスL4,ボルクヴァルトL4 BRM L4 | (アイバー・ヒューブ) クリス・ブリストウ スターリング・モス ハンス・ヘルマン | - | 0 |
1960年 | Yeoman Credit Racing Team | クーパーT51 | D | クライマックス L4 | フィル・ヒル トニー・ブルックス オリヴィエ・ジャンドビアン ヘンリー・テイラー (ブルース・ハルフォード) クリス・ブリストウ | - | 0 |
1961年 | UDT Laystall Racing Team | ロータス18,21 | D | クライマックス L4 | (クリフ・アリソン) オリヴィエ・ジャンドビアン (ファン-マヌエル・ボルデー) ルシアン・ビアンキ ヘンリー・テイラー (マステン・グレゴリー) | - | 0 |
1962年 | UDT Laystall Racing Team | ロータス24 | D | クライマックス V8 | (イネス・アイルランド) マステン・グレゴリー | - | 0 |
1963年 | British Racing Partnership | BRP1,ロータス24 | D | BRM V8 | イネス・アイルランド | 6 | 0 |
1964年 | British Racing Partnership | BRP1,2 ,ロータス24 | D | BRM V8 | イネス・アイルランド (トレバー・テイラー) | 7 | 0 |
F1での戦績
(コンストラクターとして)((凡例))