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フィリップ (神聖ローマ皇帝)

フィリップ・フォン・シュヴァーベン(Philipp von Schwaben, 1177年 - 1208年6月21日)は、ホーエンシュタウフェン朝第5代ローマ王(ドイツ王、在位:1198年 - 1208年)[注釈 1]ヴェルフ家の対立王オットー4世を下して事実上の皇帝(神聖ローマ皇帝)となったが[注釈 2]、正式な戴冠を果たす前に暗殺された。皇帝フリードリヒ1世と2番目の妃ベアトリクスの末子。兄のハインリヒ6世皇帝が崩御し、後継者として共同王となっていた甥のフリードリヒ2世を一旦後見したが、ヴェルフ家との対抗上自らローマ王となった。志半ばの死で帝位はオットー4世に奪われ、ホーエンシュタウフェン朝は一時途絶える。

生涯

当初は聖職にあり、ヴュルツブルク司教となっていたが、1191年還俗して、兄のハインリヒ6世シチリア遠征に従った。1196年シュヴァーベン公になり、1197年東ローマ皇帝イサキオス2世アンゲロスの娘でシチリア王ルッジェーロ3世妃だったイレーネー・アンゲリナと結婚した。

1197年に兄が死去すると既にローマ王(実質的な皇太子及びドイツ王)に就いていた幼少の甥フリードリヒ2世の後見者となったが、ヴェルフ家オットー4世が帝位を主張し、ローマ教皇もこれを支持したため、幼いフリードリヒ2世では対抗できないと見たホーエンシュタウフェン家派の諸侯は、1198年にフィリップをローマ王に推戴した。

その後、ローマ教皇インノケンティウス3世が推すオットー4世とフランスフィリップ2世の支持を受けたフィリップの抗争は続いたが、1204年頃から形勢はフィリップに有利となり、1207年にはほぼフィリップが勝利を収めつつあった。この形勢を観てインノケンティウスはオットーの支援から手を引き、フィリップの破門を解いてローマ王として承認した上で、ローマで皇帝として戴冠する約束をした[1]。しかし、1208年にフィリップは娘の結婚問題からヴィッテルスバッハ家のバイエルン宮中伯(オットー8世) (deによって暗殺された。このためローマ皇帝にはオットー4世が就くことになった。

なお、1201年頃に義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオス(アレクシオス4世アンゲロス)がフィリップの元に滞在していたが、同時期に第4回十字軍の指導者だったモンフェッラート侯ボニファーチョ1世がフィリップの元を訪れており、この時にコンスタンティノープル攻撃が計画されたと推定されている。また、内乱期にボヘミアオタカル1世のボヘミア王位を承認、以後ボヘミアは帝国の中でも特別な国家となっていった。

子女

イレーネーとの間には4人の子が生まれた。

次女クニグンデと四女エリーザベトが生んだ2人の孫、オタカル2世アルフォンソ10世がホーエンシュタウフェン朝断絶後の大空位時代にローマ皇帝になるべく立候補したが、いずれも即位出来ずに終わった。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは存在途上である。またイタリアブルグントへの宗主権を備える。
  2. ^ 神聖ローマ皇帝は歴史学的用語で実際の称号ではない。当時はまだ神聖ローマ帝国という国号もなく、古代ローマ帝国内でローマ人と混交したゲルマン諸国及びその後継国家群の総称を漠然とローマ帝国と呼び、皇帝は古代帝国の名残であるローマ教会の教皇に認可され戴冠していた

出典

  1. ^ カントローヴィチ『皇帝フリードリヒ二世』、63頁


参考文献

先代
(コンラート2世)
シュヴァーベン公
1196年 - 1208年
次代
オットー4世
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