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バトル・オブ・ブリテン

第二次世界大戦 > バトル・オブ・ブリテン

バトル・オブ・ブリテン: Battle of Britain, : Bataille d'Angleterre)あるいは日本語イギリス空中戦(イギリスくうちゅうせん)は、第二次世界大戦におけるドイツ空軍イギリス空軍の戦いのうちで、ドイツによるイギリス本土上陸作戦の前哨戦としてイギリスの制空権の獲得のために行われた一連の航空戦を指す。戦略目標を達することなく独ソ戦を前にしてヒトラーによって中止された。

バトル・オブ・ブリテン

英本土への爆撃を行うドイツ空軍の主力爆撃機ハインケル He111
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日:1940年7月〜1941年5月
場所イギリス上空
結果イギリス空軍の勝利
交戦勢力

ドイツ国

イタリア王国


大英帝国

カナダ
ニューファンドランド
オーストラリア
ニュージーランド
自由フランス
ポーランド
ベルギー
アメリカ合衆国
南アフリカ連邦
ジャマイカ
バルバドス
南ローデシア
パレスチナ

指導者・指揮官
ヘルマン・ゲーリング
アルベルト・ケッセルリンク
フーゴ・シュペルレ
ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ
(リノ・コルソ・フォギエレ)(英語版)
ヒュー・ダウディング
(キース・パーク)(英語版)
(トラフォード・リー=マロリー)
(クインティン・ブランド)(英語版)
(リチャード・ソール)(英語版)
(ロイド・サミュエル・ブリードナー)(英語版)
戦力
単座戦闘機1,107
複座戦闘機357
爆撃機1,380
急降下爆撃機428
偵察機569
沿岸哨戒機233
単座戦闘機754
複座戦闘機149
爆撃機560
沿岸哨戒機500
損害
戦死 2,500
航空機 1,900
戦死 1,500
航空機 1,700
民間人死者 27,450
民間人負傷者 32,138
第二次大戦ヨーロッパ戦線

ドイツ語ではイングランド航空戦: Luftschlacht um England )という[注釈 1]

概要

 
イギリス空軍の主力戦闘機スピットファイア

1940年7月10日から10月31日までイギリス上空とドーバー海峡でドイツ空軍とイギリス空軍の間で戦われた航空戦であり、史上最大の航空戦と呼ばれる。

緒戦でドイツ空軍はドーバー海峡付近の輸送船や沿岸の港湾を攻撃した。ロッテ戦術を使った戦法と軍用機の保有数において、ドイツ空軍が優位に立った。

数において劣るイギリスは、軍民一体となって空軍を支援した。レーダーにおいて当時世界で群を抜いていた[1]イギリスは近代的なレーダー網を活用した要撃体制を構築し、イギリス連邦諸国から人的支援、中立国(当時)アメリカ合衆国からは経済支援を得ることができた。

ドイツ空軍は7月中旬から内陸部の飛行場を狙った空襲を繰り返してイギリス空軍に打撃を与えた。しかし、目標選定の失敗や必要な軍用機の整備不足、途中で主要な空襲目標をロンドンに変えたことなどにより、ドイツ空軍も大きな被害を受けた。10月になってイギリス空軍はドイツのイギリス上陸作戦を断念させることに成功した。その意味でバトル・オブ・ブリテンの結果は第二次世界大戦の重大な転機となった。

イタリア空軍はドイツ空軍から航空機の派遣を少数受けたものの、効果なくイギリス軍に撃退された。

ドイツ空軍の攻撃は翌1941年5月頃まで継続された。

背景

1939年9月1日に開始されたポーランド侵攻スロヴァキアソ連の参戦で成功させたドイツは翌年の1940年5月、西方電撃戦を開始し、僅か1ヶ月ほどでフランスベルギーオランダを降伏させ、ヨーロッパ大陸における軍事的優勢と主導権を獲得した。しかし、完全勝利を目前にしてドイツ首脳部の判断ミスによってダンケルクに袋の鼠状態であった英仏連合軍将兵34万人がイギリスに撤収することを許した(ダンケルクの戦い)。

1940年7月16日にイギリス本土上陸作戦準備を決心したドイツは上陸作戦のための準備を開始し、舟艇や水陸両用戦車等の用意を始めた。さらに上陸部隊の安全を確保するためドーバー海峡における航空優勢及び制海権の獲得を目指し、ドイツ首脳部は1940年8月2日にイギリス空軍部隊の殲滅をドイツ空軍に指令した。ドイツ空軍は航空作戦を開始してバトル・オブ・ブリテンが始まった。

ドイツの戦略

ドイツ空軍はヨーロッパ大陸での作戦を念頭に置き、地続きの戦場において味方陸軍部隊への近接支援と敵の補給遮断を行うという陸空直協を前提に航空艦隊 (Luftflotte) を基本にして編制され、空軍単独での渡洋攻撃を想定していなかった。

この方針は空軍の研究開発に多大なる影響を与えた。主力戦闘機メッサーシュミット Bf 109は航続距離が短く、イギリス南東部までしか爆撃機を護衛できなかった。Bf 109よりも航続距離の長い双発戦闘機メッサーシュミット Bf 110は重武装ではあったがエンジンが2基ある分重いため、軽快な単発単座戦闘機と敵対した際の空戦能力で劣り、Bf 110もまた護衛任務に限界があった。

フランスを屈服させた後、ドイツ空軍の司令官ヘルマン・ゲーリングは2個航空艦隊を西方に移駐させた。アルベルト・ケッセルリンク率いる第2航空艦隊は、ネーデルラント(司令部:ブリュッセル)へ展開した。フーゴ・シュペルレ指揮する第3航空艦隊は、フランス西部(司令部:パリ)へ展開した。この2個航空艦隊は双発爆撃機1200機、急降下爆撃機280機、単発戦闘機760機、双発戦闘機220機の航空兵力を有した。爆撃機の内訳は、ドルニエ Do 17、ドルニエ Do 215、ハインケル He111、そしてユンカース Ju 87であった。この他にノルウェー第5航空艦隊(司令部:クリスティアンサン)も限定的な支援を行い、その航空兵力は爆撃機130機、双発戦闘機30機だった。

ヒトラーは、ポーランドと北欧で見せつけたドイツ軍の強さを外交材料にイギリスの降伏を望み、戦わずして屈服できると期待していた。そのため、イギリス本土上陸作戦を実施する必要性に懐疑的であった。また、西方電撃戦の成功により大した被害を受けることなくフランスを屈服させることができたため、ヒトラーを含めドイツ首脳部はイギリス本土上陸作戦の計画を速めなければならず、北欧侵攻ドイツ海軍の艦艇が大きな被害を受けたため慎重に検討された。イギリス海軍第一次世界大戦から第二次世界大戦に至るまで精強な艦隊を維持しており、ドーバー海峡とイギリス海峡にドイツ海軍の艦艇を派遣することは困難であり、ライン河などの内陸河川用運搬船を上陸用舟艇に転用して、また空軍輸送機で地上部隊を輸送させなければならなかった。

ドイツの苦心

この戦いはドイツにとって当初から予定されていたものではなかった。そのためパイロットの訓練や空軍のドクトリンの策定だけでなく、飛行場の整備や燃料供給体制の構築といった基本的な事項にも取り組んでいなかった[2]

その上、ヒトラーやゲーリングから度々横槍が入った。ヒトラーは英本土上陸のための「アシカ作戦」の準備を7月16日に命じたが、指揮官たち(第二航空艦隊[注釈 2]のアルベルト・ケッセルリンク上級大将、第三航空艦隊司令官フーゴ・シュペルレ上級大将)が詳細な指示を受けたのは、8月6日になってからだった。

ドイツの失策

ドイツ空軍は接収したフランス北部の航空基地を利用する予定だった。しかし設備には差があり、主脚が華奢なBf109戦闘機には負担となった。他にも弱点があった。ドイツのレーダーは英国よりもかなり遅れており、情報の質も悪かった。さらに上述の通り、ゲーリングやヒトラーが目標選定や近接護衛戦術などについて横槍を入れ、搭乗員には十分な休息がなかった。しかしそれによる波状攻撃は英パイロット達を疲労困憊させた[2]

ドイツは、軍事行動における主目標の見極めと最適な手段の選択を誤ったとの指摘もある。そもそも基本的な狙いが"制空権"という漠然としたものでしかなかった。9月初旬、ドイツ空軍はその狙いを果たせずに800機以上を失い、さらに多数に損傷を受けた。英空軍に多大な損害を与えることこそできたが、英国は海だけでなく空においてもドイツ軍を大幅にしのぐ戦闘能力を備えていることが明らかになった[3]

イギリスの戦略

   
ヒュー・ダウディング
キース・パーク

イギリス空軍の戦闘機軍団司令官ヒュー・ダウディング大将は初代トレンチャード子爵ヒュー・トレンチャードの協力を受けつつ戦闘機の存在意義を問う声を撥ね退け、軍用機の近代化を後押しした。イギリス空軍は世界恐慌の影響を受け、大戦勃発の直前になって軍用機の量産が開始されるという状況にあったが、ダウディング大将は航空省と計画を練ってイギリス本土防空計画を策定した。この計画では、戦闘機スーパーマリン スピットファイアと戦闘機ホーカー ハリケーンからなる46個戦闘機飛行隊が必要と見積もられ、1939年中に部隊編成を達成することができた。しかし、旧式機のグロスター グラディエーターだけでなくフェアリー バトルブリストル ブレニムといった軽爆撃機の転用で飛行隊が補完されていた上、チャーチル首相の戦闘機派遣命令を繰り返し受けたことによるフランス派遣軍での損失と北欧派遣軍の損失によって、計画以上の機数が必要であった。戦闘開始時には2000機以上を擁するドイツ軍に対してイギリス空軍の保有戦力は戦闘機620機、その他84機に過ぎなかった。

 
チェイン・ホーム・レーダー

チャーチル内閣が発足すると、初代ビーヴァーブルック男爵マックス・エイトケン航空機生産大臣として迎えられた。マックス・エイトケンは倉庫で眠っていた修理用の部品を民間企業に押し出して新造機を生産させ、定数の確保に貢献した。空軍が整備のみに徹することが出来るように損傷した航空機の修理も民間企業に委託させる契約を結んだ。また、スーパーマリン スピットファイア、ホーカー ハリケーン、ブリストル ボーファイターなどの新型戦闘機、アブロ ランカスターハンドレページ ハリファックスといった新型爆撃機に搭載されるエンジンであるロールス・ロイス マーリンの供給が滞らないようアメリカの企業にライセンス生産を交渉し、フォード・モーター社には断られたがパッカード社が生産を承諾した。

航空省は無線電波を飛ばして航空機を発見・捜索するシステムの実用化をワトソン・ワットに依頼した。それから5年余りでレーダー監視網の整備が行われた。高空探知用のチェイン・ホーム・レーダー (CH) と低空探知用のチェイン・ホーム・ロウ・レーダー (CHL) は、発信塔から連続的な長波を発信して受信したものはブラウン管モニターに映し出された。それぞれのレーダーサイトで互いに死角を補完することができた。敵の航空部隊がイングランドの海岸線に到達する前から、その規模、方位、高度が航空統制官に伝えられ、迎撃部隊は最適な迎撃ができた[4]。しかし、レーダー網は敵味方を区別できないため目視で確認する必要があり、人員を配置した監視所も設けられた。これらの防空監視システムは、まとめて「ダウディング・システム」と呼ばれる。

イギリスの備え

上述の通り、イギリスは指揮系統や統合防空態勢においてかなりの備えをしていた。世界最高のレーダー網、観測所、空襲警報、地域指揮所、航空交通管制はすべて、分散されながらもネットワーク化され、すべての情報がダウディングの戦闘機軍団の各指揮所に届けられるようになっていた。1930年代からイギリス政府は戦争への備えを進めており、ムッソリーニ政権下のイタリア王国ナチス政権下のドイツに対しミュンヘン会談などの宥和政策を打ち出していたネヴィル・チェンバレンですら、防空予算は出し惜しみしなかった。そして、1940年には世界最高の防空体制が整っていた[5]

バトル・オブ・ブリテンの経過

 
夜間に出撃するホーカー ハリケーン

前哨戦

西方電撃戦が開始されてからドイツ空軍は陸軍の支援とフランス空軍を殲滅しながら、イギリス本土に散発的な航空攻撃をしていた。しかし、ドイツ本土からでは航続距離の関係から護衛に戦闘機を随伴できないため、夜間空襲のみで、夜間では地上目標の確認が困難なため、効果的な空襲ができなかった。イギリスの戦闘機も軽爆撃機ブレニムを改造しレーダーを搭載した急造夜間戦闘機があったものの旧式で、ドイツの爆撃機に振り切られることが多かった。爆撃機をサーチライトで照射し昼間戦闘機のハリケーンで撃墜させる方法もあったがサーチライトが少なく、夜間に対抗できるのは高射砲のみで十分ではなかった。

1940年6月25日にフランスと休戦条約を締結、ドイツ軍はフランス北部沿岸と西部沿岸一帯を占領、旧フランス軍空軍基地を対英前進基地として使用可能になった。

戦闘の本格化

7月10日の朝、偵察機を護衛するドイツ戦闘機Bf 109Eと、これを迎撃に向かったイギリス戦闘機スピットファイアとの空戦がバトル・オブ・ブリテンの始まりと言われている[6]。同日の午後にはドーバー海峡付近を航行するイギリスの船団を巡って空戦が行われた。翌11日にドイツ空軍の攻撃隊が30から50機ほどでイギリス南東部の港湾に襲来し、12日にはイギリス海峡を航行する船団を攻撃した。

降伏勧告に近い和平案に対し回答を伸ばすことでイギリスは時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候で、港湾や船団へのドイツ空軍の攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れ、25日のイギリス海軍駆逐艦の護衛する輸送船団への攻撃では、10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。

ドイツ空軍の艦船攻撃は戦闘機と爆撃機のみで行われ、爆撃機を改修して航空魚雷を搭載させることはあっても本格的な雷撃機は保有していなかった。連日のようにイギリスの船団が攻撃を受けていたにも拘らず比較的少ない被害で済んだのは、ドイツ空軍が雷撃機の開発を怠っていたことに起因するという見方もある。一方でイギリス空軍は防空レーダー網であるダウディング・システムをフルに活用して港湾の上空で迎撃し、基本的に待ち伏せをした。実際、ドイツ空軍と英空軍の7月中に行われた空戦の損失割合は概ね2対1で、ドイツ空軍には爆撃機や偵察機が多数含まれたが、英空軍の戦闘機軍団は善戦した。

ドイツ空軍の標的変更

 
第51戦闘航空団 (JG 51) のメッサーシュミット Bf109

1940年8月1日、和平案を拒絶されたヒトラーは軍事侵攻によってイギリスを屈服させることを決定した。上陸作戦そのものはドイツ陸軍とドイツ海軍が実施することとなったが、制空権の確保が前提とされたため作戦決行の鍵はドイツ空軍が担うことになった。この作戦準備の第一目標がこれまで海上封鎖であったのに対し、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令が出された。3日にはドイツ空軍の上層部で初期攻撃の目標が選定され、それに向けての準備が開始された。このため、すぐにはイギリス空軍の戦闘機を狙った攻撃は行われず、引き続き艦船など港湾に対する攻撃が行われた。この期間中、双方は航空機の修復と補充を行ったが、イギリス空軍は早くも深刻になり始めていたパイロット不足を補う貴重な時間を得ることができた。11日になってドーバーポートランドの港湾を狙った大規模な空襲があったが、レーダー網が正確にドイツの編隊を捉え、無線管制を受けた戦闘機軍団の6個飛行隊が邀撃に成功し、イギリス側は戦闘機31機を失ったがドイツの戦闘機23機と爆撃機15機を撃墜した。

8月12日、メッサーシュミット Bf110に500 kg爆弾2発を搭載した戦闘爆撃機型のBf 110 C-4/Bがイギリスのレーダー・サイトを攻撃した。レーダー・サイトはそれまで攻撃の目標にされることがなかったが、ドイツ空軍は翌日から始まる作戦アドラーアングリフ (Adlerangriff) に備えた目潰しと露払いを兼ねて4箇所のレーダー・サイトを攻撃し、ポーツマスへの侵入機を察知するベントナー・サイトは完全にダウンした。この攻撃は第210実験飛行隊 (Erprobungsgruppe 210) によるものであった。同日、ドイツ空軍の約250機は、イギリス南部沿岸の港湾と工場を狙って出撃した。イギリスは、破壊されたレーダーに代わって目視による監視所からの情報で戦闘機50機を緊急発進したものの爆撃機邀撃には間に合わず、イギリス南部沿岸に大きな被害を受けた。一方でイギリス空軍の爆撃機軍団 (Bomber Command) もドイツ工業都市をつなぐドルトムント・エムズ運河に対して夜間爆撃を実施し、ライン川を経由する輸送航路の一時的な遮断に成功した。

アドラーアングリフ

 
戦闘機に向かって走るイギリス空軍のパイロット

8月13日、ヘルマン・ゲーリングはこの日予定されていたアドラーアングリフ作戦について天候不良を理由に延期を命じたが、延期の連絡が行き届かず、早朝に出撃する部隊の一部が予定通りに出撃してしまい、しかもこれらの部隊はイギリス戦闘機の迎撃を受けて多くが撃墜されてしまった。ドイツ空軍にとって衝撃であったのは、前日にレーダーを破壊しておいたので待ち伏せ攻撃を受けないはずが、イギリスのレーダー・サイトは復旧を終えていたという点であった。その日の午後に天候の回復が確認されるとドイツ空軍は、イギリス戦闘機軍団の飛行場攻撃のため出撃した。イギリス空軍も海上封鎖に対する防戦の経験から、ドイツ空軍の戦闘機が迎撃機を引きつける役を演じていることに気づいており、しつこく爆撃機を狙うことで空襲の被害を未然に防げるようになった。しかし、夜間にはバーミンガムのスピットファイアを製造する工場が爆撃を受け、僅かではあるがスピットファイア Mk. IIの生産に影響を与えた。

14日の午後にも双発戦闘機Bf 110に護衛された急降下爆撃機Ju 87がドーバーを空襲し、ドーバー上空では戦闘機同士の空中戦が生起した。15日の午後には13日を上回る約1,700機規模の大編隊がイギリス南部の飛行場に殺到し、イギリス空軍も(第10飛行群) (No. 10 Group) と(第11飛行群) (No. 11 Group) から150機の戦闘機が発進して大規模な空中戦を行った。ドイツ空軍のJu 87は防御が弱く、護衛のBf 110は鈍重で、この航空戦の過程でかなりの損害をこうむった。空戦での損失はイギリス側約30機に対して、ドイツ側は約75機に達した。飛行場で地上撃破されたイギリス戦闘機の存在を考慮しても、ドイツ側にとっては戦果より人的物的損害が大きく、15日を暗黒の木曜日と称した。

戦術の開拓

第一次世界大戦のような進歩性のないゲーリングの強引な戦術のため、現場では独自の戦法が生みだされていった。16日に行われたドルニエ Do 17による攻撃は高空に達してから緩やかな降下に入り、徐々に速度を増しながら攻撃地点に向かうというものであった。爆撃する頃には時速600キロを超える速度になり、スピットファイアでも追撃は難しかった。この攻撃でウェスト・モーリングが被害を受けた。その日の午後には第2航空艦隊がテムズ河口や(ホーンチャーチ)を爆撃し、1時間後には第3航空艦隊が西部を爆撃した。第11飛行群は補給のため基地に戻らざるをえず、第10飛行群が迎撃に向かったが、再びベントナー・サイトが爆撃されて復旧に一週間要する被害を受けた。夜間にはブライズ・ノートンが爆撃された。この日でドイツは約45機を撃墜され、イギリスは空戦で約21機、地上撃破で40機以上を失った。

8月17日、ドイツ空軍では4日間に渡って実施されたアドラーアングリフ作戦での損失に対処するため修理と補充に追われた。それと同時にゲーリングの指示によってメッサーシュミット Bf 109は爆撃機を攻撃してくる戦闘機を撃退するようにしていたが、逆に接敵してきた戦闘機を積極的に排除することとなった。この間、イギリス空軍でも同様に補給と補充が行われ、戦闘機パイロットを休ませる貴重な時間を割くことができた。しかし、イギリス空軍におけるパイロットの不足が明確になりつつあり、イギリス空軍内でやり繰りしきれずイギリス軍全体からかき集められ、フランスやポーランドオランダなどの亡命外国人パイロットやイギリス連邦、アメリカ合衆国などで義勇軍パイロットも募り、その編成を急ピッチで進めた。

 
イギリス戦闘機とドイツ戦闘機の空戦

18日にドイツ空軍は、また違った形の波状攻撃を実施した。攻撃の対象は、(ケンレイ)、(ビギン・ヒル)であった。まず、ドルニエ Do 17が低空から侵入して小型爆弾で施設に打撃を与え、続いてハインケル He 111やユンカース Ju 88が高空から爆撃して徹底的に叩くという段取りであった。これは低空侵入を行うDo 17が濃密な対空砲火と妨害を受け、高空侵入の爆撃隊も護衛機と迎撃機の空戦に妨害されて爆撃は計画通りにいかなかったものの、ケンレイの基地機能を麻痺させるほどであった。午後になってからは、イギリスの一部の地域で雲が立ち込めてきたため、ドイツ空軍の攻撃は難航した。それでも天候が崩れていない地域への攻撃は行われ、ハンプシャーやフォードの基地で格納庫が破壊されたほか、ポーリング・サイトも爆撃された。

18日はドイツは71機、イギリスは27機を失った。19日からは天候が悪化したため、午後になってポーツマス、サウサンプトンドーバーなど軍港を含む港湾への小規模な攻撃が行われた。ドイツ、イギリスともに3機を失った。

方針の転換

20日は雨天だったが、(イーストチャーチ)、(マンストン)、(ウェスト・メイリング)など南東部の基地が攻撃の対象となった他、沖合いの船団に対する攻撃も実施され、ドイツが6機、イギリスが2機を失った。この日ゲーリングは新たな方針を打ち出した。まず、損害の多かったユンカース Ju 87を上陸作戦後の地上支援に備えて温存させるため、運用停止とすることを決めた。次に、第3航空艦隊のBf 109を第2航空艦隊に転属させ、被害が増えているBf 110と爆撃機の護衛にあたるよう指示した。さらに、第2航空艦隊が昼間空襲を担う代わりに第3航空艦隊は護衛の必要性が薄い夜間空襲の専門になることで、24時間態勢でイギリス空襲を行う方針を定めた。一方イギリスでも大きな動きがあり、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが下院で有名な演説を行った。

人類の歴史の中で、かくも少ない人が、かくも多数の人を守ったことはない。 — イギリス首相ウィンストン・チャーチル、1940年8月20日 下院スピーチ[7][8]

この演説は、戦闘機軍団に対する賛辞を意図していた。キース・パーク空軍少将 (Keith Park) は自身の指揮する第11飛行群に2つの指示を出した。1つは戦闘機との戦闘を避け、爆撃機の排除を徹底することで、2つ目は戦闘機を配備した基地の防衛強化であった。前者については、敵戦闘機との戦闘を望み、騎士道精神に固執する熟練搭乗員の不満を買ったが、ドイツ空軍に打撃を与えつつも自身らの戦闘機を守るための方針であった。

ロンドン誤爆

 
ハンドレページ ハンプデンの編隊

8月21日~22日は悪天候のため、ドイツ空軍の昼間空襲は低調であった。第210実験飛行隊のBf 110 C-4/BとBf 109 E-1/Bによる小規模な強襲作戦や船団攻撃が行われた。しかし、夜間爆撃でドイツはフィルトンのブリストル社工場の爆撃に成功した。23日も基地、港湾への攻撃を続行。三日間でドイツが19機、イギリスが6機を損失。

8月24日、早朝からグレート・ヤーマスの港湾に攻撃が開始され、ホーンチャーチ、マンストン、(ノース・ウィールド)などへの大規模空襲が行われた。続いて、完全に復帰していないベントナー・サイトの隙をついて、ポーツマスが大規模な空襲を受け、これまで以上に港湾施設と周辺の施設が損害を受けた。

夜間空襲ではテムズ河口の施設を狙った攻撃があったが、事態はここで予期せぬ大きなターニングポイントを迎える。このテムズ河口への施設に向かう際、ドイツ空軍のHe 111が航法ミスにより河に沿ってロンドン市内まで達し、そこで爆弾を投下、単機のため被害は少なかったが爆撃されたのは市街地であった。この日、ドイツは約1,030機を出撃させ38機を損失、イギリスは24機を損失した。

25日の午後になってウォームウェルの爆撃に向かうドイツ空軍とイギリス空軍の要撃機がポートランドとウェイマス上空で空戦を行った。ドーバーやエスチュアリー上空でも空戦が行われ、ドイツが20機、イギリスが16機を損失。夜間には、ロンドン市街地爆撃を故意によるものであると考えたチャーチルの要請で、報復としてイギリス爆撃機がベルリン市内を空襲した。ウェリントンとハンプデンの約80機編隊であったが、大きな被害はなかった。

ヒトラーは都市爆撃が市民への無差別爆撃になれば、戦争の泥沼化は避けられないとしてロンドン市街地への爆撃を厳禁としていたため、このイギリス軍のベルリン市街地への爆撃に激怒した。

戦闘機軍団の危機

 
メッサーシュミット Bf 110 コクピット内の様子

8月26日になってドイツ空軍による広範囲な基地攻撃が行われたが、悪天候で成果がなく41機を失い、イギリスは28機を失った。翌日は大規模な戦闘がなく、28日になってドイツ空軍が2波に分かれてイーストチャーチとロックフォードを目標に攻撃、第3波では多数の戦闘機による地上掃射攻撃が行われ、イギリス空軍は散発的に反撃、20機を失い、ドイツは31機を失った。29日にはBf 109とBf 110のみによる大編隊がケント上空でイギリスの戦闘機を誘い出そうとしたが、この日のイギリス戦闘機部隊はパーク少将の指示を守って編隊に爆撃機がいないことを確認すると引き揚げた。

30日は戦闘機のみの編隊に戦闘を仕掛けてこないことを見ると、ケッセルリンクは少しずつ爆撃機を混ぜて行かせた。また、Bf 109の航続距離の問題を緩和するため、ドーバーにほど近い基地に集結させた。午前はケンレイ、ビギン・ヒルを狙った攻撃で、イギリス空軍もこの日は激しく抵抗した。しかし、ドイツの第3波攻撃が行われる直前に電力供給の不具合で各レーダー・サイトがダウンし、早期警戒機能を失ったイギリス空軍は苦戦した。ドイツ空軍は36機を失ったが、イギリス空軍は26機を失った上、ビギン・ヒルの基地機能を喪失、レーダー・サイトや交戦指揮所も被害を受けた。ドイツ空軍は引き続き31日もビギン・ヒルに水平爆撃を敢行、レーダー・サイトは一部復旧していたものの、ビギン・ヒルのみならずホーンチャーチやクロイドンも被害を受けた。

 
ハインケル He 111を攻撃するスピットファイアの銃弾

9月1日、ドイツ空軍は航空機工場も攻撃の対象に加え、ビギン・ヒル、イーストチャーチ、(デトリング)への基地攻撃を継続した。夜には夜間爆撃でスワンジー近辺の石油コンビナートが大きな被害を受けた。2日は基地攻撃がさらに強化され、イーストチャーチ、デトリングの基地施設が破壊された。夜間爆撃ではショート・ブラザーズ社やビッカース社の工場が爆撃された。3日~5日もドイツは基地と航空機工場への攻撃を続行したが、戦闘機軍団の司令官ダウディングが航空機工場の防空体制を整えさせたため、戦闘機の量産体制に支障は出なかった。6日には第11飛行群のパーク少将からも航空機工場の優先防衛が各飛行隊に指示された。

8月23日~9月6日の空戦でイギリス空軍は戦闘機295機を失い、損傷で171機が使用不能となり、新規生産や修理で補充された戦闘機は269機だった。頭を痛めていたのは搭乗員の消耗で、司令官ダウディングは策なき邪道の用兵と自ら評価したランク付けによる安定化を図った[9]。これは熟練者を上位カテゴリーに振り、空襲を受けやすい南東部の基地へ配属させるものであり、一方で新兵を抱える飛行隊は、戦闘機の護衛がついていない爆撃機の迎撃に振り分けられた。

ロンドン空襲

 
空襲直後の消防隊

8月30日、ヒトラーはゲーリングに報復の報復として爆撃目標をロンドンに集中するよう指示し、9月3日にゲーリングから航空艦隊司令に伝えられた。第3航空艦隊のシュペルレは賛同したが、第2航空艦隊率いるケッセルリンクは、あともう一歩で戦闘機軍団を制圧できるという点と回復のためロンドン北部へ移動した戦闘機部隊からの迎撃も受ける可能性があるという理由で反対した。ゲーリングは、ロンドン空襲となればイギリス空軍の戦闘機も全力で反撃してくると想定し、ロンドン上空で殲滅できると説得した。

9月7日、1000機を越える大編隊がロンドン空襲に向かった。欺瞞針路をとったため、イギリスの戦闘機軍団は混乱し、ロンドン空襲阻止に失敗。しかし、護衛戦闘機役であるBf 109の航続距離からいって、目標が沿岸からほど近い位置にあった飛行場からロンドンになったことで、基地に戻るまで護衛することはできなくなった。第11飛行群から15個飛行隊が迎撃に向かい、第12飛行群の4個飛行隊もこれに加わった。イギリス空軍は28機を失ったが、ドイツ空軍は約44機を失った。しかし、ロンドン空襲はイギリス国民に決死の覚悟を決めさせることとなった。ロンドンに無差別爆撃が集中している間に基地を修復、消耗し崩壊寸前だった戦闘機軍団を回復させる余裕も生まれた。

9月15日、午前と午後の2回にわたってドイツ空軍が行った大規模なロンドン空襲でも大きな損害を出した。パーク少将は22個飛行隊を全機出撃させ、ロンドン上空で迎撃した。この日のドイツ空軍の損害は、アドラーアングリフ作戦と比べると撃墜された機数こそ少なかったが、損傷を負った機体と搭乗員の死傷が多かった。17日には上陸作戦が無期延期となったが、作戦の準備は続けられ、18日にも中規模の航空攻撃が実施された。19日からドイツ空軍は昼間爆撃の縮小を行い、ヒトラーが正式に作戦準備の中止を命じた。

英国空軍の勝利

 
空襲を受けたロンドン

イギリス本土への上陸作戦準備は中止されたが、ドイツ空軍機による英本土に対する散発的な空襲や偵察、イギリス海峡上空での空戦はその後3年程度続いた。イギリスはスピットファイアの新型、ドイツはFw190といった新型戦闘機を繰り出して、制空権の確保と両軍支配地域への攻撃にしのぎを削ることとなる。

1942年、イギリス空軍はGCIと夜戦型のモスキートを投入、ドイツ空軍によるイギリス沿岸都市への夜間空襲を封殺した。続き1943年、スピットファイア LF.9 (Mk. IXの低空型) が投入されると、ドイツ空軍は昼間戦闘機も圧倒され、海峡上空の制空権は完全にイギリスに移行し、二度とドイツ優位に傾くことはなかった。

最終的にはイギリス本土上陸作戦の実施に向けた港湾施設・兵器工場の破壊が失敗に終わり、イギリス本土への一切の作戦を中止した。また1941年12月のアメリカ参戦により1942年以降、アメリカ陸軍航空隊の第8航空軍によるドイツ本土への昼間空襲が増加。さらにP-38など米軍の長距離戦闘機がドイツ本土まで爆撃機を護衛するようになると、独ソ戦でも消耗していたドイツ空軍は西部戦線では本土防空に専念せざるを得なくなり、海峡上空の航空戦は終焉を迎えた。

イギリス空軍の多国籍パイロット

バトル・オブ・ブリテン勝利の大きな要因として、外国人パイロットたちの多大な貢献があった。イギリス空軍は減少していくイギリス人パイロット人員を補うものとして、イギリス連邦諸国やイギリスの植民地さらには外国人パイロットを当初から受け入れていた。イギリス空軍名誉戦死者名簿には510人の外国人パイロットが1940年7月10日~10月31日にイギリス空軍あるいはイギリス海軍航空隊の正規部隊でそれぞれ少なくとも1回の正規出撃をしたと認定されている[10]

ポーランド人
1940年6月11日ポーランド亡命政府(pl)はイギリス政府と協定を締結、イギリスで自由ポーランド陸軍ポーランド空軍を編成、1940年8月に2個(最終的には10個)のポーランド人戦闘機中隊が参加、バトル・オブ・ブリテンには4個中隊(第300爆撃機中隊、第301爆撃機中隊、第302戦闘機中隊、第303戦闘機中隊)が投入され、89人のパイロットが参戦。さらに50人以上がイギリス空軍飛行中隊で戦い、全部で145人以上が参戦した。ポーランド人は最も老練なパイロットたちで、すでにポーランドの戦争フランスの戦争で実戦経験を積んでいたほか、戦前には高度な訓練を受けていた。ポーランドの英雄タデウシュ・コシチュシコ将軍に因んで名づけられた第303コシチュシコ戦闘機中隊は、8月30日(公式には8月31日)になってから参戦したにも拘らず126機を撃墜、バトル・オブ・ブリテン期間の全戦闘機中隊のなかで最高の記録を挙げた。イギリス側の全パイロットの5%にすぎないポーランド人が、バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を叩き出した。
チェコスロヴァキア人
多くのチェコスロヴァキア人パイロットも投入された。第310戦闘機中隊と第312戦闘機中隊である。他の連合国軍部隊に配属された者を合わせて、87人以上のチェコスロヴァキア人がイギリスの空を守った。そのうちの一人、ヨセフ・フランティシェクはチェコスロヴァキア人と共に行動することを嫌ってポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に加わり、不慮の事故で殉職するまでに敵機17機を撃墜して、バトル・オブ・ブリテンにおける最高のエース・パイロットとなった。
アイルランド人
バトル・オブ・ブリテンに参加したイギリス空軍パイロットのうちで特筆すべきは、1942年7月に戦死するまでに32機の撃墜記録を挙げたアイルランド人エース・パイロットブレンダン・フィニュケイン(Paddy Finucane)である。彼は1940年8月12日Bf109を仕留めて初の撃墜記録を挙げ、翌日にもう1機の Bf109 を撃墜した。1941年にはオーストラリア人部隊の第452戦闘機中隊 (452 Squadron) に加わり、51日間で16機の Bf109 を撃墜した。パディと呼ばれた彼は1942年6月27日に21歳でホーンチャーチを基地とする戦闘機部隊の指揮官となった。これはイギリス空軍で最も若い飛行隊指揮官であった(Wing Commander)。早くに戦死したにも拘らず、イギリス空軍エース・パイロットのうちでは2番目となる撃墜記録を挙げた。
カナダ人
80人のカナダ人が参加、26人がダンケルクの戦いの直後にイギリスに到着したカナダ空軍第一戦闘機中隊に所属しており、そのうち16人がイギリス空軍第242「カナダ人」戦闘機中隊に所属して出撃、残りは他のカナダ人たちとイギリス空軍の各飛行隊に配属された。幾人かのカナダ人は他の部隊に分散配置され、そのうちの1人はポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に所属し、1人は南アフリカ人の第74戦闘機中隊に所属した。他に200人のカナダ人航空兵がイギリス空軍(爆撃機軍団)(en)やイギリス空軍(沿岸軍団)(en)で戦った。
オーストラリア人
イギリス連邦の構成国のオーストラリアはいつもイギリスを支える立場にあり、1939年にドイツとの戦争が始まるとロバート・メンジーズ首相はすぐに軍を派遣しイギリスの戦いを支援した。しかし1941年12月に日本とイギリス、オーストラリア間が開戦した後に、瞬く間に日本軍がマレー半島香港をはじめとするアジアにおけるイギリスの植民地を制圧したのみならず、インド洋の制海権を握ったためにイギリスとオーストラリア間の交通が滞り、さらに1942年2月から1943年11月にかけて日本軍がオーストラリア本土を空襲したことから本土防衛に専念せざるを得なくなり、オーストラリア人の多くはバトル・オブ・ブリテンに参加できなかった。
パレスチナ人
イギリス空軍名誉戦死者名簿には1人のパレスチナ人がバトル・オブ・ブリテンに参加したと記録されている。ジョージ・アーネスト・グッドマン少尉(42598)はパレスチナ(現イスラエル)のハイファ出身だった。彼の貢献は「イスラエル人の貢献」とも紹介されることがある。グッドマン少尉の両親はユダヤ系イギリス人で、彼本人はイギリスの国籍を持ち、ハイゲート・スクール(Highgate School)で教育を受けた。なお彼はパレスチナ人でもイスラエル人でもなく、イギリス人航空兵と看做されることもある。
アメリカ人
イギリス空軍はバトル・オブ・ブリテンにおいて7人のアメリカ人の参加を認定している。(イーグル飛行中隊)(Eagle squadron)として知られるアメリカの義勇兵で編成された3個戦闘機中隊(第71イーグル戦闘機中隊、第121イーグル戦闘機中隊、第133イーグル戦闘機中隊)もイギリス空軍と共に戦ったが、最初の部隊が参戦したのはバトル・オブ・ブリテン後の1941年2月になってからで、それも昼間攻撃が終わった後の出撃だった。アメリカ参戦後、これら戦闘機中隊は1942年9月にアメリカ(第8航空軍)(第4戦闘航空群)に移管された。

脚注

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注釈

  1. ^ 「バトル・オブ・ブリテン」の日本語訳として「ブリテンの戦い」と表記されることもある。
  2. ^ ドイツ空軍独特の名称。様々な機種を組み合わせていることによる

出典

  1. ^ 「イギリスの暗号解読」ディスカバリー・チャンネル
  2. ^ a b 「第二次世界大戦影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p117
  3. ^ 「第二次世界大戦影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p122
  4. ^ 「第二次世界大戦影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p120
  5. ^ 「第二次世界大戦影の主役」(「Engineers of Victory」)Paul Kennedy p118 p119
  6. ^ 飯山幸伸著 『英独航空戦』 96頁
  7. ^ “Churchill's speech 'The Few' August 20, 1940 House of Commons”. The Churchill Society London.. 2008年6月6日閲覧。
  8. ^ 飯山幸伸著 『英独航空戦』 185頁
  9. ^ 飯山幸伸著 『英独航空戦』 213頁
  10. ^ Battle of Britain Roll of Honour, www.raf.mod.uk(英語)

参考文献

  • 野中郁次郎戸部良一、鎌田伸一、寺本義也杉之尾宜生、(村井友秀)『戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ』 日本経済新聞社、2005年
  • 飯山幸伸『英独航空戦 - バトル・オブ・ブリテンの全貌』 光人社、2003年 (ISBN 4-7698-2374-6)

イギリス空軍

  • Edward Bishop『栄光のバトル・オブ・ブリテン』山本親雄(訳)、 (サンケイ新聞出版局)、1972年
  • J.E.Johnson『編隊飛行』子出英一(訳)、 朝日ソノラマ、1983年
  • Len Deighton『戦闘機:英独航空決戦』内藤一郎(訳)、早川書房、1983年
  • (Alfred Price)『戦うスピットファイア』大出健(訳)、 講談社、1984年 (ISBN 4-06-187228-1)
  • Richard Hough / Denis Richards『バトル・オブ・ブリテン:イギリスを守った空の決戦』川合裕(訳)、新潮社、1994年、(ISBN 4-10-243001-6)
  • Malcom Brown Spitfire Summer, When Britain stood alone Carlton Books, 2000 (ISBN 1-84222-043-8)

ドイツ空軍

  • マーチン・ケイディン『メッサーシュミットMe109;ドイツ空軍のエース』加藤俊平(訳)、 サンケイ新聞出版局、1971年
  • (アーマンド・ファン・イショフェン)『栄光のメッサーシュミットBf109』川口靖(訳)、 講談社、1983年、(ISBN 4-06-187225-7)
  • (カーユス・ベッカー)『攻撃高度4000;ドイツ空軍戦闘記録』松谷健二(訳)、 (フジ出版社)、1974年
  • アドルフ・ガーランド 『始まりと終り;栄光のドイツ空軍』フジ出版社編集部(訳)、フジ出版社、1974年

市民生活

  • 工藤信一良、毎日新聞社ロンドン支局長 『悶ゆる英国』 成徳書院、1943年
  • Constantine Fitzgibbon(著) London's Burning(ロンドンは燃えている), 1970年
  • Ben Wicks 『ぼくたちの戦争:イギリスの学童疎開』 (ありえす書房)都留信夫 / 都留敬子(訳)、1992年、(ISBN 4-900535-04-4)
  • Colin and Eileen Townsend 『スミス婦人たちの戦争:第二次世界大戦下のイギリス女性』 近代文藝社、1993年、(ISBN 4-7733-1733-7)
  • Laura Wilson Daily Life in a Wartime House Hamlyn Childern's Books, 1995年, (ISBN 0-600-58694-4)

関連作品

映画

  • フーベルト・ドラペラ監督 『(壮烈303戦斗機隊)』 ポーランド映画、1960年、原題:Historia Jedego Myrliwca
  • ガイ・ハミルトン監督 『空軍大戦略』 イギリス、アメリカ映画、1969年、原題:Battle of Britain
  • エンツォ・カステラーリ監督 『空爆大作戦』 イタリア映画、1969年、原題:La battaglia d'Inghilterra
  • ジョン・ブアマン監督 『戦場の小さな天使たち』 イギリス映画、1987年、原題:Hope and Glory
  • デヴィッド・ブレア監督 『バトル・オブ・ブリテン 史上最大の航空作戦』 イギリス・ポーランド合作、2018年、原題:Hurricane

テレビドラマ

  • イアン・トレイトン監督 『バトル・オブ・ブリテン』 イギリス、1988年、原題:Piece of Cake

音楽

関連項目

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