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バグラチオン作戦

バグラチオン作戦(バグラチオンさくせん、ロシア語: Белорусская операция英語: Operation Bagration)は、独ソ戦開始から、ちょうど3年目にあたる1944年6月22日ベラルーシで開始された、赤軍ドイツ軍に対する攻勢作戦の名称である。この作戦の結果、ドイツ中央軍集団は回復不可能な大打撃を受け、戦線は大きく西に押し戻される事になり、ほぼポーランドまで移動した。作戦名はロシア帝国時代におけるナポレオン・ボナパルトとの祖国戦争で活躍したピョートル・バグラチオン将軍に由来する。

バグラチオン作戦

1943年8月から1944年12月にかけての戦線
戦争第二次世界大戦独ソ戦
年月日:1944年6月22日 - 8月19日
場所ベラルーシソ連
結果:ソ連軍の勝利、ソ連領全域の解放
交戦勢力
ドイツ国 ソビエト連邦
指導者・指揮官
エルンスト・ブッシュ
ヴァルター・モーデル中央軍集団
ゲオルク=ハンス・ラインハルト第3装甲軍
クルト・フォン・ティッペルスキルヒ第4軍
ヴァルター・ヴァイス第2軍
ハンス・ヨルダン(第9軍
ゲオルギー・ジューコフ
アレクサンドル・ヴァシレフスキー
イワン・バグラミャン(第1バルト方面軍)
イワン・チェルニャホフスキー(第3白ロシア方面軍)
コンスタンチン・ロコソフスキー(第1白ロシア方面軍)
ゲオルギー・ザハロフ(第2白ロシア方面軍)
戦力
850,000[1]
戦車 553輌
航空機 839機
火砲 9,500門
1,250,000
戦車、自走砲 4,070輌
航空機 5,372機
火砲 24,363門[1]
損害
ドイツ側発表
第2軍:戦死7,080、負傷32,833、行方不明12,976[2]
第9軍:戦死2,955、負傷13,957、行方不明64,762[2]
第4軍戦死8,015、負傷 29,383行方不明113,155[2]
第3装甲軍:戦死8,311、負傷33,508行方不明72,066[2]
合計:戦死行方不明290,000、負傷120,000、捕虜150,000[3]
戦死178,507[4]
負傷、戦病590,848[4]
独ソ戦

作戦前の状況

1941年6月の独ソ戦開幕以来苦戦を強いられていたヨシフ・スターリンは、イギリスおよびアメリカに対してヨーロッパ西部に第二戦線を開くことを強く要求していた。連合軍は1943年7月にシチリア島上陸作戦を、9月にはイタリア本土上陸を行ったが、スターリンはあくまでフランスへの上陸を強く求め、1943年11月に開かれたテヘラン会談において北フランスへの上陸作戦が正式に決定した。翌年6月6日に開始されたノルマンディー上陸作戦により、ようやくスターリンが求めていた第二戦線が開かれた。

連合軍による北フランス上陸作戦が不可避であることはドイツ軍も察知しており、二正面化はもはや避けられない事態に陥っていた。それまでの西部戦線は二線級の部隊の配置・訓練、もしくは壊滅状態になった部隊の再編成の場であった。そのような状態から従来の主戦場である東部戦線から西部戦線に部隊の移動、補充が実施された。さらに、可能な限りの予備が抽出され、西部戦線に送られていた。一方、激しさを増してきた米英両軍によるドイツ本土及び占領地区への空襲に対抗するために、空軍、特に戦闘機部隊が西部戦線に移動されたため、かつてヴェルナー・メルダースの活躍で知られた第51戦闘航空団など一部の精鋭部隊が残ったとはいえ、東部戦線の防空力は大幅に低下していた。

南部と北部での後退

1943年7月のクルスクの戦い後、主導権は赤軍にわたり、8月にハリコフ、11月にキエフを奪回した赤軍は、冬の泥濘期で攻勢は終息するだろうというドイツ軍側の期待を覆し、1943年末から1944年5月にかけて攻勢は続いた。まず、ウクライナでは、1944年1月28日にドニエプル川西岸のチェルカースィでの第1ウクライナ方面軍(ニコライ・ヴァトゥーチン大将)および第2ウクライナ方面軍(イワン・コーネフ元帥)が攻勢を開始し、ドイツXI軍団とXXXXII軍団の6万人をコルスンに包囲し、壊滅的打撃を与えた(コルスン包囲戦)。ドニエプル河流域より駆逐された南方軍集団(エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥)は、3月にカームヤネツィ=ポジーリシクィイでの第1装甲軍(ハンス=ヴァレンティーン・フーベ上級大将)が包囲された(カメネツ=ポドリスキー包囲戦)。その後、第2SS装甲軍団などの協力を得て突破に成功したが、戦線はガリツィア地方にまで後退した。3月30日に、ヒトラーは、マンシュタインとクライストに休養を命じ、4月5日には、南方軍集団は北ウクライナ軍集団に改称され、ヴァルター・モーデル元帥が、後任に起用された。

A軍集団(エバルト・フォン・クライスト元帥)も、第3ウクライナ方面軍(ロディオン・マリノフスキー大将)に攻撃され、ブーク河を支えきれずベッサラビアまで後退した。4月5日には、A軍集団は南ウクライナ軍集団に改称され、クライストの後任には、フェルディナント・シェルナー歩兵大将が任命された。なお、クリミア半島に取り残された第17軍(エルヴィン・イェーネッケ上級大将)は大部分が海上からの脱出に失敗し、7万5千の将兵を失って5月13日にセヴァストポリは陥落した。

一方、北方では1月14日に、900日にわたり包囲されていたレニングラードの正面、ノヴゴロド付近のヴォルホフ川の両方向から攻勢が開始され、北方軍集団(ゲオルク・フォン・キュヒラー元帥)は、3月にナルヴァプスコフのパンター線まで撤退して(ナルヴァの戦い)、レニングラードはようやく包囲を解かれた。その後、赤軍はエストニアへの圧迫を強めるとともに、フィンランドを戦争から脱落させるために、カレリア地峡およびラドガ湖北側の東カレリアからフィンランドへの攻撃に転じ、1940年のモスクワ講和条約で定められた国境線まで、フィンランド軍を押し戻した(ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢)。

ベラルーシの軍事的状況

 
司令官エルンスト・ブッシュ(左端)ら中央軍集団の首脳(1944年5月、ロシア

上記のように複数方面での攻勢を連結させた一連の戦役の結果、5月末の時点で回復していないソ連領は、いまやベラルーシバルト三国のみとなっていた。ベラルーシは、東部戦線におけるドイツ軍の主力で、装甲軍を含む多くの野戦部隊を抱えた兵力50万の中央軍集団が三年来占拠していたが、バルト海から黒海にいたる戦線のうち、上記のように南方軍集団と北方軍集団が大きく後退した結果、中央軍集団の作戦地域は「バルコン」(バルコニー)とよばれる大きな突出部を形成していた。

一方、赤軍からみると、前年9月の第2次スモレンスク攻防戦によってモスクワ前面の要衝スモレンスクを奪回したとはいえ、バルト海に注ぐダウガヴァ川(ドヴィナ川)沿いのヴィテプスク(ヴィチェプスク)と、黒海に至るドニエプル川流域のオルシャ(ヴォルシャ)との間に展開した、東西に鉄道と幹線道路が走る「モスクワへの陸橋」を抑える「ヴィテプスクの門」は、ドニエプル東岸の橋頭堡を含めてドイツ軍に押さえられたままだった。したがって、今後の戦局を有利に進めるためにも、中央軍集団を排除してベルリンへの最短経路でもあるベラルーシを奪還し、さらに北方軍集団・中央軍集団・北ウクライナ軍集団の間隙にくさびを打ち込むことは、戦略上極めて重要だった。とはいえ、ベラルーシは沼沢地帯と深い森が点在し、大規模な兵力展開が困難な地形で、とくに装甲部隊が攻勢をかけられる地域は限定されており、当然ながらドイツ軍はそうした地区に強力な防禦拠点を構築していた。しかし、かつて帝政ロシアの名将アレクサンドル・スヴォーロフ元帥が言った「鹿の通れる所、そこはロシア兵も通れる」。この言葉の意味をソ連の将軍たちはよく心得ていた。

ドイツ軍側の予測

ドイツ側も、赤軍の夏季攻勢が近いことは予期していた。ヒトラー総統と陸軍総司令部は、コーネフによるウクライナでの春の攻勢に連続するかたちで、ガリツィア方面からバルト海にめがけて突出部を切断する大攻勢を加え、北方・中央両軍集団の背後を遮断してドイツ本土への退路を一気に断つ可能性が高いと判断した。赤軍による厳格な通信封鎖と夜間移動の徹底、巧妙な偽装による大軍の隠ぺいに加え、ベラルーシでは赤軍は防御拠点の構築に力点を置いて守勢に回り、一部の部隊はウクライナに移動していると見せかけた欺瞞行動が、こうした判断に確信を加える。その結果、中央軍集団は第4装甲軍[要出典]など主力部隊を コヴェリなど側面に移動させ、北ウクライナ軍集団との協調にあてた。これにより、ミンスク―モスクワ街道の正面は戦力が大きく低下することとなる。

一方、ソ連空軍はドイツ空軍がドイツ本土および西部戦線に重点を移したため制空権を掌握し、補給線に対する徹底した航空攻撃を加えることができた。また、鉄道や道路への妨害工作など後方攪乱を行ってきた14万人のパルチザンは、作戦が近づくにつれて活動を激化させた。この結果、中央軍集団は補給に困難をきたすようになり、多くの兵力を後方警備に割かざるをえなくなる。

作戦第一段階

 
1944年6月22日 - 8月29日の戦線。朱色は作戦第一段階。オレンジは第二段階におけるソ連軍の進撃。黒はドイツ軍の反撃。

赤軍は、作戦開始日を3年前のバルバロッサ作戦開始日と同じ6月22日に設定し、南から第1ベロルシア[5]、第2ベロルシア、第3ベロルシア、第1バルト、第2バルトの各方面軍[6](合計189個師団、兵力242万人)を1000キロにわたる前線に配置した。このうちドイツ軍中央軍集団の正面に展開したのは総兵力82万人、戦車5200両、大砲31,000門、航空機6,000機という空前の規模で、22日未明、猛烈な砲撃ののち、一斉に三方向から中央軍集団への攻撃を開始する。ドイツ軍が予測した、南部から左回りに旋回する攻勢ではなく、中央部を平押しするという作戦だった。ドイツ軍の6倍という圧倒的な航空支援と、濃密な重砲・カチューシャロケット砲の援護を受け、突破区域に戦車と歩兵を集中させて急進する赤軍に、戦力の劣るドイツ軍は各所で分断・包囲され、統一した作戦のもとで連携して反撃することは困難だった。特に圧倒的に優勢になったソ連空軍の攻撃力は絶大で、ソ連地上軍の前進にとって最大の障害となるドイツ軍の砲兵陣地を徹底的に破壊するとともに、移動中のドイツ地上部隊を空襲して大きな損害を与えた[7]

赤軍の作戦全般を統括していたのは、スターリングラード攻防戦クルスクの戦いと同じく、今回の大攻勢も最高指揮官代理ゲオルギー・ジューコフ元帥と参謀総長アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥だったが、実戦経験の積み重ねとともに師団長クラスも状況に応じて臨機に行動することが許されるほど能力が向上しており、戦車の運用、砲兵・工兵など支援部隊との連携、空軍との協調も緻密になっていた。また、T-34-85中戦車やIS-2重戦車などの新兵器も大量投入されている。

これに対してドイツ中央軍集団司令部は、当初は予測されていたガリツィアからの攻勢に対する陽動作戦と判断し、さらにヒトラーの死守命令に沿うかたちで、拠点を維持して赤軍を引き付ける方針をとっていたが、これが完全に裏目に出た。包囲された各部隊は猛砲撃と航空攻撃を受け、急速に潰滅していった。ようやく赤軍の主攻勢が正面に展開しているドイツ軍拠点の包囲殲滅に向けられていると気づいた中央軍集団司令官エルンスト・ブッシュ元帥は、27日にヒトラーに繰り返し撤退を要請するが、拒絶された。ヒトラーは翌日、ブッシュを更迭して、北ウクライナ軍集団司令官だったヴァルター・モーデル元帥を後任に起用した。7月1日には、前日に撤退の進言をヒトラーに却下されて敬礼なしで退室した陸軍参謀本部総長クルト・ツァイツラー上級大将が病気休暇を要請し、ヒトラーはこれを受け入れ、7月21日に装甲兵総監ハインツ・グデーリアン上級大将を後任に起用した。

ヴィテプスク

ドイツ軍の指導部が混乱する間、中央軍集団は急速に崩壊していった。まず、ミンスク-モスクワ街道北側のヴィテプスク(ヴィチェプスク)正面では、イワン・バグラミャン大将の第1バルト方面軍とイワン・チェルニャホフスキー大将の第3ベロルシア方面軍が、ゲオルク=ハンス・ラインハルト上級大将の第3装甲軍を挟撃し、6月27日に街を奪回したのちフリードリヒ・ゴルビツァー歩兵大将が率いる3万人のドイツ第53軍団を包囲殲滅する一方、空白域となったダウガヴァ川(ドヴィナ川)沿いにチェンチバッジェ中将のソ連第2親衛軍を先頭にバルト海方面へと急進撃を開始し、7月13日にリトアニアの首都ヴィリニュスを奪回した。

モギリョフ

中央部のモギリョフ(マヒリョウ)正面では、ゲオルギー・ザハロフ大将の第2ベロルシア方面軍が、フォルカース歩兵大将のドイツ第27軍団を撃破して6月27日にヴォルシャを確保した第3ベロルシア方面軍の左翼と協同し、6月28日にモギリョフを奪回するとともに、ミンスク東方のボリソフクルト・フォン・ティッペルスキルヒ大将の第4軍を包囲し、指揮を引き継いだヴィンツェンツ・ミュラー中将らが7月11日に降伏するまでに、戦死者4万人と捕虜6万人の損害を与えた。

ボブルイスク

さらに南部の、ベレジナ川を抑えるボブルイスク(バブルイスク)でも、6月24日にコンスタンチン・ロコソフスキー上級大将の第1ベロルシア方面軍が、湿地帯に丸太を敷いて戦車部隊を突破させるという、スターリンですら再考を促す大胆な作戦で二方向から攻勢をかけた。この作戦は、二方面攻勢の片方は助攻という常識を覆す内容だった。包囲された街から脱出したハンス・ヨルダン(Hans Jordan)大将の第9軍は、プリピャチ川沼沢地に追いつめられ、7月5日の降伏までに戦死4万人、捕虜2万人の大損害を出して潰滅した。

作戦第二段階

ミンスク解放

戦線正面のドイツ軍主力の包囲殲滅という作戦第一段階の達成に成功した赤軍は、ミンスクを解放し、さらに旧国境までドイツ軍を後退させ、各軍集団を分断させるという作戦第二段階に、休むことなく移行する。まずザハロフ大将の第2ベロルシア(第2白ロシア)方面軍がドイツ第4軍を東側の正面から攻撃する一方、戦線を突破したイワン・チェルニャホフスキー大将の第3ベロルシア(第3白ロシア)方面軍に属するパーヴェル・ロトミストロフ中将の第5親衛戦車軍と、ロコソフスキー上級大将の第1ベロルシア(第1白ロシア)方面軍に属するパーヴェル・バトフ中将の第65軍が、ベラルーシの首都ミンスクの西側(背後)で南北から合流し、7月4日に3年ぶりにミンスクを解放した。

南北からの攻勢

バグラチオン作戦に呼応し、イワン・コーネフ元帥の第1ウクライナ方面軍は、ガリツィア方面に集結したゴットハルト・ハインリツィ大将の第1装甲軍およびヴァルター・ネーリング大将の第4装甲軍による支援行動を阻止するため、7月14日にリヴォフ=サンドミール作戦を開始した。ルイバコフ中将の第3親衛戦車軍とワシーリー・ゴルドフ中将の第3親衛軍は、ヨーゼフ・ハルペ上級大将の北ウクライナ軍集団を攻撃し、ブロドゥイで2万5000人の第13軍団を包囲し、重火器の大半を遺棄して敗走させた。さらに7月27日にリヴィウ、8月1日にはポーランドのルブリンを占領し、カルパチア山脈以東からドイツ軍を駆逐している。

一方、北方ではイワン・バグラミャン大将の第1バルト方面軍がシャウレイ作戦を開始し、7月末にラトビアの首都リガ西方でリガ湾に達し、中央軍集団と北方軍集団を寸断することに成功している。さらに8月にはアンドレイ・エリョーメンコ上級大将の第2バルト方面軍とイワン・マスレニコフ大将の第3バルト方面軍、レオニード・ゴヴォロフ大将のレニングラード方面軍がエストニアにむけて攻勢を開始した。一方、フェルディナント・シェルナー大将の北方軍集団は、グロースドイッチュラント装甲擲弾兵師団や重巡洋艦プリンツ・オイゲンの支援を得てミタウ(現、イェルガヴァ)を奪還し、中央軍集団との連絡線を一時的に回復する(バルト海攻勢)。しかし、第1バルト方面軍に属するワシーリー・ヴォリスキー中将の第5親衛戦車軍によって10月10日にメーメルが包囲され、主力の第16軍第18軍は東プロシアから遮断されてクールラント半島に孤立し、ロタール・レンデュリック大将のもとでクールラント軍集団に再編され、海上からの補給に頼ってそのまま敗戦を迎える(クールラント・ポケットの戦い)。

ポーランドへの進撃

中央軍集団を撃破しミンスクを確保した第1・第2ベロルシア方面軍は、バラーナヴィチ付近で装甲部隊の機動防御を受けるものの、休むことなく第二段階の進撃を開始し、7月13日までには最前線がイドリツァ-ビリニュス-ピンスクのラインに到達、7月18日にはロコソフスキーの第1白ベロルシア方面軍に属するアレクサンドル・ルチンスキー中将の第28軍が、大戦以前の国境線だったブレスト・リトフスクを占領し、ブーク川を渡ってポーランドに入った。28日にはカウナス-ルブリン線に達し、さらにヴィスワ川のブーワビ、マグヌシェフ、サンドミエシュに橋頭堡が築かれる。8月初旬には、モスクワ防衛の殊勲者ミハイル・カトゥコフ大将の第1親衛戦車軍、スターリングラードを守り抜いたワシーリー・チュイコフ大将の第8親衛軍、ポポフ中将の第70軍など精鋭部隊が、ワルシャワ東方20kmのヴィスワ川東岸まで進んだ。しかし、双方による鉄道施設や橋梁など交通路の破壊と急速な進撃のために赤軍は補給の限界に達する。また、ドイツ中央軍集団も後退に成功した兵力の再編と増援によって強い阻止線を構えたため、ようやく戦線は膠着し、ここに作戦は大成功のうちに終結した。

赤軍は5週間で700キロ近くも前進し、ドイツ軍のお株を奪う縦深攻撃を成功させた。短期間にドイツ側の発表でも25万人の戦死者と11万を越す捕虜を出すという大打撃を与え、独ソ戦に事実上の決着をつけた戦いといえる。なお、この作戦の驚異的な成功は、冷戦下の西側世界で大いなる脅威として記憶されることとなった。

結果

この作戦前に兵力90万人とされたドイツ軍中央軍集団は、38個師団のうち28個師団を失い壊滅的な打撃を受けた。死傷者は40万人に達し、47人いた将官も31人が戦死・行方不明もしくは捕虜となった。10万を越える捕虜はスターリンの発案により、決定的な戦果を自国民に示して士気を鼓舞するとともに、ドイツはもちろん米英からの誇大な数値という疑念や逆宣伝を粉砕する目的で、7月17日モスクワ市街を市民の前で行進させられた後[8][9]、各地の収容所に送られた。東部戦線は南北に分断されて事実上崩壊し、以後ドイツ軍は絶望的な防御戦と後退戦に徹することになった。

ノルマンディー上陸作戦によって西側にも強力な戦線が構築されたことと相まって、挟み撃ち(二正面状態)になったドイツの敗戦は必至となり、7月20日には総統大本営(ヴォルフスシャンツェ)でクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺計画が実行されるが失敗に終わる。

赤軍も17万8千人以上もの戦死・行方不明者を出したが、スターリンとジューコフら赤軍上層部にしてみればその規模の損害は「織り込み済み」であり、8月以降引き続きバルカン半島ヤッシー=キシナウ攻勢)およびバルト三国への進攻作戦を始める。この攻勢は枢軸国からの離反を誘発させ、8月28日にルーマニア、9月24日にはブルガリアが降伏した。

戦後に向けた動きとして、ソ連は7月23日にモスクワで設立し戦後ポーランド共産党の母体となった「ポーランド国民解放委員会」(PKWN)を、占領したばかりのルブリンに移転させた(いわゆるルブリン政府)。8月に入って進撃が止まり、翌年1月までソ連軍がヴィスワ川から動こうとしなかった理由については、前述のように赤軍の兵站線が伸び切ったうえ、増援を得たドイツ中央軍集団の抵抗が強まったことがあげられる。しかし、ロンドンにあるポーランド亡命政府の影響下にあるポーランド国内軍によるワルシャワ蜂起が成功することを嫌ったスターリンが進撃を一時停止させ、ワルシャワ蜂起軍を見殺しにしたという見方もある(ソ連は国内軍に決起は呼びかけたが、赤軍の進撃停止は知らせなかった)。その結果蜂起は失敗、ワルシャワはドイツ軍の報復攻撃によって廃墟と化し、国内軍のわずかな生き残りは進駐してきた赤軍によって粛清された。

参考文献

  • 『独ソ戦―WW2 EASTERN FRONT (歴史群像シリーズ 歴史群像アーカイブ VOL. 7) 』学習研究社。2009年。(ISBN 4-056-05443-6)
  • パウル・カレル著、(吉本隆昭)監修、松谷健二訳、『焦土作戦(上、下)』、学習研究社、1999年。
  • Bergstrom, Christer. (2007). Bagration to Berlin: The Final Air Battles in the East: 1944–1945, Ian Allen. (ISBN 978-1-903223-91-8).

出典

  1. ^ a b 歴史群像アーカイブ独ソ線』学習研究社p.125
  2. ^ a b c d Bergstrom 2008, p. 82.
  3. ^ Bergstrom
  4. ^ a b Россия и СССР в войнах ХХ века - Потери вооружённых сил, Moskow, Olma-Press, available on-line http://www.soldat.ru/doc/casualties/book/chapter5_10_1.html#5_10_36
  5. ^ ソビエト連邦当時、ベラルーシは日本では「白ロシア」と呼ばれていたが、現地では軍事的・政治的にはモスクワに合わせ、ロシア語読みで「ベロルシア」と呼ばれていた。英語の表記も1st Belorussian Frontである。以下、作戦域の地名も、当時の基準に合わせてロシア語読みで表記し、ベラルーシでの読み方を括弧で示した。
  6. ^ ロシア語のфронтを直訳すると「戦線」だが、作戦境界を戦術的に指す用語との混同を避けるために、旧日本陸軍に合わせて「方面軍」とする文献が多い。
  7. ^ 焦土作戦(下)P.358 - 362
  8. ^ “第二次大戦中にモスクワを行進したドイツ兵たち(写真)”. ロシア・ビヨンド日本語版 (2019年7月4日). 2021年5月7日閲覧。
  9. ^ “ビフォーアフター:第二次大戦時と現在のモスクワの街路”. ロシア・ビヨンド日本語版 (2019年5月11日). 2021年5月7日閲覧。
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