概要
トラック野郎シリーズの大当たりで意気上がる東映が、今度は松方弘樹の喜劇シリーズを作り、脱・(実録ヤクザ路線)の一つにしようと立ち上げられた新シリーズで[2][3][4][5]、松方が関西の大道商人・テキヤに扮する喜劇[3]。松方は本作が東映京都撮影所で、同時期に東映東京撮影所でも築地市場の魚河岸のいなせな兄いを描いた『お祭り野郎 魚河岸の兄弟分』が新シリーズとして企画されたが[3][6]、どちらも不入りに終わりシリーズ化されなかった[7]。
東映の製作ニュースに「主人公の本庄石松は「向こう見ずでお人好し、その上短気で喧嘩好き、"森の石松"にあやかって自ら石松を名乗るテキヤ」と書かれており[3]、松竹の寅さん(『男はつらいよ』)の関西版として企画された[3]。石松のホームグラウンドは大阪天王寺である[3]。
あらすじ
本庄石松は、大阪天王寺の借家住まいだが、ハンチングに背広、ニッカポッカという派手な格好で帳元の高級キャンピングカーを乗り回し、タンカバイには自信たっぷりなテキヤの最先端を行く男と自負している。妹マチ子(山本リンダ)を一流大学出の男と一緒にさせるのが夢。舎弟のガチャやん(岡八郎)はあわて者でサクラ専門。石松は女によくモテ、テキヤの花子(范文雀)に追いかけまわされる。ひょんな事情で石松は、岡山県倉敷市の果樹園で大前静香(檀ふみ)に出会い一目惚れ、借金返済の手助けを買って出る[3]。
出演
スタッフ
使用曲
製作
企画
岡田茂東映社長は、東宝はともかく年間(配収)では東映の半分程度の松竹に正月興行だけは寅さん(「男はつらいよシリーズ」)で長年負け続けていたことが悔しく[6][8]、東映の1976年正月映画『トラック野郎・爆走一番星』で、寅さん(『男はつらいよ 葛飾立志篇』と併映『正義だ!味方だ!全員集合』)に勝てるチャンスが到来し[8]、打倒"寅さん"を内外ともにチャンスを見つけてはPRに努め、社員の志気を鼓舞した[6][8][9]。結果、『トラック野郎・爆走一番星』は大当たりし、1975年暮れから1976年(松の内)まで、毎日1億円以上の金が東映にころがり込み[9]、岡田社長のオクターブも上がりっ放しで[9]、「全国各地で『トラック野郎』が『寅さん』に圧勝した」と吹聴した[6][9]。
トラック野郎シリーズの第一作、二作で、東映から離れていた客層である女・子どもの十数年来の大動員を大喜びした岡田社長は、関西の東映館主会からの要望を踏まえ[10]、1976年上半期に悪名高き"健全喜劇・スポーツ映画路線"を敷いた[10][11][12][13]。
このため、前年までヤクザ、脱獄囚と"不良性感度"の強い映画で売り出していた松方の"脱ヤクザ"、明朗快活な役柄へとイメージチェンジを構想し[3][4]、本作と『お祭り野郎 魚河岸の兄弟分』は、松方のヤクザ脱皮の決め手の一つとして企画された[4]。『トラック野郎・御意見無用』『トラック野郎・爆走一番星』で寅さんにショックを与えたことから[14]、徹底的なダメージを寅さんに与えるべく、寅さんを否定する映画の製作を決めた[7][8]。キャッチフレーズは「今どき、トランクひとつの商売なんて……時代変わればテキヤ稼業もデラックス。祭・(高市)・女に燃える無鉄砲ヒロキの口上!」で、寅さんの旧態依然たるトランク商法を馬鹿にし、こっちはもっとデラックスなやり方だと寅さんをなりふり構わず、潰す目的があった[8]。
岡田社長は1976年1月7日に東映本社で記者会見を開き[4][15][16]、1976年の製作方針として「これまでの(ヤクザ)・ポルノだけではなく、企画に幅を持たせねばならない。ことしは海外で人気上昇の千葉真一を大いに売り出し、東映のホープとして育てていく。ほかに松方弘樹もテレビを減らし、幅の広い企画で売る。また、北大路欣也、志穂美悦子、渡瀬恒彦、新人の岩城滉一、渡哲也を前面に押し出してアクション中心にラインアップを組む。松方を売り出すものとしては『関西テキヤ一家』(本作の最初のタイトル)を関西喜劇的に扱う」などと発表した[4][9][15][16]。
キャスティング
『週刊映画ニュース』1976年2月21日号の製作ニュースでは「出演松方弘樹、大谷直子、桂三枝他吉本喜劇陣」と書かれているため[17]、范文雀の役か、山本リンダの役を大谷直子が演じる予定だったのかもしれない。
同時上映
作品の評価
興行成績
大コケ[7]。1億円の赤字を出し、トラック野郎シリーズに続き、今度は松方弘樹で喜劇シリーズ第二弾を目論んだが[7]、シリーズ化を断念した[7]。松方は常日頃から、岡田社長に「役者は一般人より不良ができるんだから、不良しとけよ。不良性感度が一番大事だぞ」と言われ続けていて[18]、急に明朗活劇といわれたところでムリだった[5][7]。東映企画製作部は「企画が容易過ぎたのと宣伝不足がたたった」と宣伝にも問題があったと話したが、宣伝部は「宣伝不足といわれても、まさか"東映の寅さん"ですともいえなし、どうにも売りようがない」と反論し、社内の内ゲバが起こった[7]。これに松竹は「あれはテキヤの石松じゃなく、"テキヤのお粗末"。あんな映画がヒットするようじゃ世も末」とこき下ろした[7]。しかし当時松竹も寅さんの女版『男はつらいよ』を企画していたといわれる[7]。
批評家評
松田政男は「『トラック野郎』のバカウケは、予測をこえた事態を招来した。すなわち、西脇英夫いうところの東映アクションの真率な世界の終焉、である。...『トラック野郎』の松竹人情劇的部分がグロテスクにまで拡大され、菅原文太にイメチェンに続して、あの松方弘樹までが、三匹目のトラとして野に放たれる―いや逆であった、檻に繋がれることになる。その第一弾が『テキヤの石松』、今やこれは『トラック野郎』でさえなく、『男はつらいよ』の矮小な(リメーク)だ、むろんパロディならぬ超真面目、大ヒットへの願いをこめたホームドラマなのである。寅さん、じゃなかった、石松が恋焦がれるマドンナ役も、見るからに淫蕩な中島ゆたかやあべ静江に非ず、嗚呼、檀ふみ。むろん二代目お竜さん候補生というよりも東宝青春劇のヒロインとしての役どころを買われたのだ。かくて、あの東映活劇は去り、ヌエかヒトか、奇態な喜劇の時代が始まった。笑え、観客諸君!だがしかし、笑えるか観客諸君?『ルナの告白』(『修道女ルナの告白』)にも登場しかねないわが性豪、松方クンがふみチャン相手にプラトニックに身を焦がすなんてさ、喜劇ならぬ悲劇、泣いて涙がチョチョ切れるじゃないか。松方クンがノッてないのが画面からありありと見てとれる。そもそも、村尾昭らの脚本が喜劇的構成において投げやりなのだ。1億2千万の大詐話仕掛けが、二段構えまでは工夫されておりつつ、三段構え以降の詰めに甘く、全く駄目なドタバタで終わっちまうのがいい証左。唐獅子牡丹なら吼えようもあるが、こんな新路線ジャね、といった村尾らの自嘲が目に見えるようで、ベテラン小沢茂弘監督も手の尽くしようがなかったと見た。そんな中で仁鶴・三枝以下の吉本興業勢が大活躍―なーんちゃっても何故かムナしい。...今やわが日本映画、TV同様にどのチャンネル廻しても似たり寄ったりと相成っちまったのである。東映よ、(岩頭の波しぶき)よ、何処へ砕けようというのだ。そこへ行くと、ピンク映画は海千山千、はなっからパロディ専一である。『ポルノはつらいよ 女の股枕』(ミリオンフィルム)は、題名から按ずるに『男はつらいよ』のもじりかと見ればさにあらず、松竹は松竹でも、森崎東の新宿芸能社シリーズのいただきというあたり、まことに心にくい。...『テキヤの石松』なぞよりよっぽど面白い。ならば東映よ、堕ちよ、もっと堕ちよ!」などと評している[19]。
影響
岡田社長の敷いた"健全喜劇・スポーツ映画路線"で連打した『愉快な極道』、本作『テキヤの石松』、『キンキンのルンペン大将』、『ラグビー野郎』、『狂った野獣』、『お祭り野郎 魚河岸の兄弟分』はお客が全然入らず[7][11][20][21]、岡田社長が腹を立て[20][22]、"健全喜劇・スポーツ映画路線"からの撤退を表明[11]。"不良性感度"の再投入を指示し[11][20]、"見世物映画"へ大転換すると発表した[23]。その第一弾として『暴力教室』と『暴走の季節』に、自主制作買い上げの『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』を加えた三本立て興行を決めた[11]。
脚注
- ^ a b c テキヤの石松 映画村ライブラリーデータベース – 東映京都スタジオ
- ^ a b “テキヤの石松”. 日本映画製作者連盟. 2021年2月8日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 美浜勝久「洋画ファンのための邦画マンスリー 松方弘樹が新シリーズに! 『テキヤの石松』」『ロードショー』1976年5月号、集英社、175頁。美浜勝久「洋画ファンのための邦画マンスリー 松方弘樹のイメージ・チェンジ『お魚河岸の兄弟分祭り野郎』 エッちゃんの新しいアクションが!?『女必殺五段拳』」『ロードショー』1976年7月号、集英社、170頁。
- ^ a b c d e “東映岡田社長年頭懇談会『トラック…』の大ヒット等を語る”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): pp. 1. (1976年1月10日)
- ^ a b 杉浦孝昭「ANGLEアングル'77 新・すたあ論12 松方弘樹 揺れてる未来のエンターテイナー」『キネマ旬報』1977年1月下旬号、キネマ旬報社、198–199頁。
- ^ a b c d 「巻返しを計る各社の表情を探る 洋高邦低の声に必死の努力を続ける」『映画時報』1976年4月号、映画時報社、13頁。
- ^ a b c d e f g h i j 「ニューズオブニューズ とんだ"テキヤのお粗末"でした 不入りでシリーズ断念『テキヤの石松』」『週刊読売』1976年5月8日号、読売新聞社、33頁。
- ^ a b c d e 「'76正月興行の話題を探る東映」『月刊ビデオ&ミュージック』1975年11月号、東京映音、45–46頁。
- ^ a b c d e 「邦画3社正月5週間の揃い踏み' /再び邦高洋低で活気づく日本映画界 ―意欲的な邦画各社の製作・営業方針― ●興行資料●」『月刊ビデオ&ミュージック』1976年1月号、東京映音、13、20–22頁。
- ^ a b 「〔ショウタウン 映画・芝居・音楽げいのう街〕」『週刊朝日』1976年1月23日号、朝日新聞社、36頁。
- ^ a b c d e 川崎宏『狂おしい夢 不良性感度の日本映画 東映三角マークになぜ惚れた!? 』青心社、2003年、50-51頁。ISBN (978-4-87892-266-4)。
- ^ 黒井和男「興行価値 日本映画 東映・松竹激突」『キネマ旬報』1976年1月上旬号、キネマ旬報社、198–199頁。
- ^ 「邦画界トピックス」『ロードショー』1976年10月号、集英社、175頁。山根貞男「〈東映映画特集〉 東映の監督たち」『シナリオ』1977年7月号、日本シナリオ作家協会、29頁。
- ^ 「ジャック110番 『テキヤの石松』他」『月刊ビデオ&ミュージック』1976年4月号、東京映音、34頁。
- ^ a b 黒井和男「映画界の動き 東映岡田社長が七六年大攻勢を語る」『キネマ旬報』1976年3月上旬号、キネマ旬報社、181頁。
- ^ a b 「今年こそは希望のもてる年に順調なスタートをきった新年度」『映画時報』1976年1月号、映画時報社、36頁。
- ^ “東映GW迄の番組決る一本の差換え作は近日発表”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): pp. 1. (1976年2月21日)
- ^ ギルティ小林「松方弘樹インタビュー 『不良性感度は役者にとって一番大事なんだよ!』」『映画秘宝』2009年6月号、洋泉社、73頁。
- ^ 松田政男「日本映画批評 『テキヤの石松』 『ポルノはつらいよ 女の股枕』」『キネマ旬報』1976年5月下旬号、キネマ旬報社、160頁。
- ^ a b c 文化通信社 編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、82-86頁。ISBN (978-4-636-88519-4)。
- ^ 佐藤忠男、山根貞男『シネアルバム(52) 日本映画1977 1976年公開映画全集』芳賀書店、1977年、22-23,175頁。高橋英一・島畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿「映画・トピック・ジャーナル 東映、史上最高の半期決算を発表」『キネマ旬報』1976年5月下旬号、キネマ旬報社、182-183頁。
- ^ 「映画界の動き 東映、見世物映画へ大転換」『キネマ旬報』1976年9月上旬号、キネマ旬報社、179頁。「今月の問題作批評 中島貞夫監督の『沖縄やくざ戦争』」『キネマ旬報』1976年10月上旬号、キネマ旬報社、172-173頁。「邦画指定席 沖縄やくざ戦争」『近代映画』1976年10月号、近代映画社、171頁。
- ^ 「岡田社長"見せもの"重点の方向転換語る 東映、大香具師の精神で大攻勢展開/前途多難・楽観許さぬ日本映画界 百億配収を狙う各社には大型企画と作品の多様化を要望」『映画時報』1976年7月号、映画時報社、19、13-15頁。今村三四夫他「映画業界動向/製作・配給界 邦画配給界 展望 東映」『映画年鑑 1977年版(映画産業団体連合会協賛)』1976年12月1日発行、時事映画通信社、54、109–110頁。「邦画指定席 沖縄やくざ戦争」『近代映画』1976年10月号、近代映画社、171頁。“八月配収十六億円目標 東映下半期の協力番組編成”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 9頁. (1976年7月17日)「邦画界トピックス」『ロードショー』1976年10月号、集英社、175頁。「匿名座談会 下半期の日本映画を展望する」『月刊ビデオ&ミュージック』1976年8月号、東京映音、23-25頁。
外部リンク
- テキヤの石松 - KINENOTE
- テキヤの石松 - MOVIE WALKER PRESS