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セントラル・アーツ

株式会社セントラル・アーツ: K.K.Central Arts)は、日本の映画テレビ制作プロダクション、芸能事務所である。

株式会社セントラル・アーツ
K.K.Central Arts
種類 株式会社
本社所在地 日本
104-0045
東京都中央区築地1丁目12-22 コンワビル10階(東映ビデオ内)
設立 1980年
業種 (情報・通信業)
法人番号 1010001048086
事業内容 映画テレビ映画の製作
主要株主 東映ビデオ株式会社
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概要

東映ビデオの(関連子会社)。設立当初は所属俳優である松田優作主演作品や角川映画の下請けなどを中心に製作活動を行っていたが、1985年に公開された『ビー・バップ・ハイスクール』でヤング客層の拡大に成功し、東映の看板シリーズに成長させた[1][2]。さらに同社所属となった仲村トオルの人気上昇にともない、『新宿純愛物語』(1987年)など仲村主演映画を次々と制作[1]。また、テレビでは『あぶない刑事』をヒットさせるなど、多数の映像作品を製作した。

設立経緯

1977年4月、日活を退社した黒澤満が、当時の東映社長・岡田茂から誘いを受け[1][3][4][5] 東映に入社[6][7]、東映セントラルフィルム製作部門のプロデューサーに就任したことに端を発する[4][8][9][10][11][12]

映画秘宝』2010年12月号の特集「東映セントラルの世界 〜セントラル・アーツの世界」によれば、黒澤を中心とした日活出身のスタッフらとともに東映芸能ビデオの製作部門として立ち上げられた。東映セントラルは東映の下番線用の配給会社であり、いつしか東映セントラル自体がセントラル・アーツとなったが、このあたりの事情は複雑で経緯が不明な点も多いという[1]

丸山昇一は「セントラル・アーツはたまたま経理上の必要性からか、別会社として存在した。東映セントラルフィルムは単なる配給会社に過ぎず、黒澤がひとつだけ椅子を貰って映画の企画と制作を始めた」と述べている[1]。東映セントラルフィルムの設立者・岡田茂は「東映ビデオの中に、セントラル・アーツという製作会社を作った」[13]、「黒澤を東映ビデオの製作部門の長として抱きかかえ、これを東映セントラルフィルムと組ませた」[8] などと証言している。「黒澤はいつしか東映ビデオの企画、製作のボスとなっていった」と記された文献もある[14]。黒澤がプロデュースした[10]テレビドラマ探偵物語』(1979年9月〜1980年4月、日本テレビ系列)は、東映ビデオが製作している[10]伊地智啓は、「東映芸能ビデオ(東映ビデオ)の一角に黒澤の机が一つあった。岡田は黒澤を東映本体の役員に据えるのを避け、むしろ本体とは切り離してフリーハンドの製作拠点を作る戦略だったと考えられる」と述べている[12]

呼称

黒澤が東映入りして間もない『キネマ旬報』1978年12月号の特集「東映セントラルフィルム研究」〔座談会〕で黒澤も出席しているが、「セントラル・アーツ」という言葉は一度も出てこないことから、黒澤が製作部門を立ち上げた直後はセントラル・アーツという呼称は存在しなかったと思われるが、勿論、黒澤が東映に入社した時点で、その母体は出来ていたと考えられる。1979年の『探偵物語』スタート時にセントラル・アーツが出来たという見方もあるが[1]、現在発売されているBlu-ray Discなどにはセントラル・アーツとクレジットされているものの[15]、当時のドラマの(オープニングやエンドロール)にはセントラル・アーツというクレジットは見られない。

1981年4月に出版された『東映映画三十年』(東映)に「東映セントラルフィルム製作配給代表作品」と書かれた頁があるが、ここにもセントラル・アーツという記述がなく、1980年10月公開の『野獣死すべし』も製作は東映セントラルフィルムになっている[16]松田優作は黒澤を信頼し1981年に松田からの強い希望で、自身と熊谷美由紀マネジメントを黒澤に頼んできた[10]。黒澤は「俳優のマネジメントをする会社ではない」と断ったが、松田が強く希望するため異例の措置として了承したという[10]。黒澤に誘われ日活からセントラル・アーツに参加した伊地智啓は著書で、セントラル・アーツ設立時期は述べていないが、セントラル・アーツの名付け親は自分で、黒澤が「俺はアーツじゃない」と言うところを伊地智が「セントラルだけじゃストリッパーのプロダクションみたいだから、映画、アーツで行ってもいいんじゃないかと嫌がる黒澤を説得した」と話している[12]。文献によっては1983年にセントラル・アーツとなったと書かれたものもある[17]。岡田社長は1987年の「映画ジャーナル」(「文化通信ジャーナル」、文化通信社)のインタビューでセントラル・アーツを「黒澤プロ」と呼んでいる[8]。黒澤は1990年のインタビューで「セントラル・アーツになったのは『魔の刻』の後、『(友よ、静かに瞑れ)』からじゃないかと思う」と話していた[18]

歴史

設立の際に岡田が黒澤に出した製作の条件は「一本の製作費3000万円、撮影日数二週間、オールロケーション」であった[4]。当時の日活ロマンポルノが製作費750万円で[12]、ロマンポルノ以前の日活の澤田幸弘たちが作っていた「日活ニューアクション」が3000万から3500万円で、セントラル・アーツと同程度となる[12]。当初はオールロケの条件だったが、やはり撮影所での撮影も必要なケースも出たようで、この際に東映東京撮影所を使わず、1981年の『探偵同盟』(フジテレビ)、『プロハンター』(日本テレビ)から、日活撮影所で撮影を行った[19]。黒澤は「当初から東映に来たからには東映の撮影所を使いたいと思っていましたが、ただ東映本番線の製作が優先されて、なかなかステージ空かない。だから日活撮影所を使うことになってしまった」と述べている[20]東宝も百恵・友和映画などで日活撮影所を使ったが[21]、これは単に日活撮影所がレンタル料が安かったからであった[21]。岡田は「東映内部で作ったらあのカラーは出せなかった」と述べている[8]。しかし東映本社からの反発も強かったことから、後に岡田が黒澤を説得して[22]、他作品と同様に東映東京撮影所を制作拠点とした。

1989年には、長渕剛の初主演映画『オルゴール』を製作しヒットしたが、続く『ウォータームーン』は、内容が破綻しトラブルが頻発した失敗作として知られる[1]。セントラル・アーツ作品は、時おり強烈なカリスマ性を帯びた時代の申し子を起用してヒットに結びつけることがある[1]

1989年からは多数の東映Vシネマを製作している[1]

製作事業の一時休止

2018年7月2日、セントラル・アーツ側がJ-CASTニュースの取材に対し、「会社そのものは存続し、番組販売など版権業務を行っていく」 一方で、映画やドラマの製作は一旦休止すると表明した。長年在籍し、製作に携わっていた社員が退社したためであるとして、今後製作事業が復活する可能性もあると報じている[23]2018年11月30日に黒澤満代表取締役は死去した。

功績と評価

功績面では、松田優作をスターにしたこと[14]村川透をカムバックさせたこと[14]に加え、セントラル・アーツや東映Vシネマのスタッフに多くの日活OBを登用したことなどが挙げられる[7][11]。 評価面では、東映の岡田社長が「黒澤には一見まかせているようだが、全部指示したことが成功の要因」[24]、東映セントラルフィルムの設立から10年後の1987年のインタビューでは、「東映の体質が10年前と変わってきた底流のひとつには、黒澤らの地味な10年にわたる活動が物を言っている」などと評していた[8]

主な所属スタッフ

過去の所属スタッフ

過去の所属タレント

主な作品

映画

テレビドラマ

ダミー作品

下記の作品は東映本体が実製作を務めているが、裏番組との兼ね合いからセントラル・アーツ名義で放送された。いずれも実際は全く関与していない。

ビデオ映画

  • 狙撃シリーズ(1989〜1994年)
  • ベレッタM92F 凶弾(1990年)
  • 野獣駆けろ(1990年)
  • 裏切りの明日(1990年)
  • 悪人専用(1990年)
  • カルロス(1991年)
  • 夜のストレンジャー 恐怖(1991年)
  • 襲撃 BURNING DOG(1991年)
  • 傷だらけのライセンス(1991年)
  • DANGER POINT 地獄への道(1991年)
  • 名のない男 破壊!(1991年)
  • 死神の使者(1992年)
  • 復讐の掟(1992年)
  • ろくでなし LAST DOWN TEN(1992年)
  • DISTANT JUSTICE 復讐は俺がやる(1992年、日米合作)
  • ニューヨーク・アンダーカバー・コップ(1993年、日米合作)
  • BE-BOP-HIGHSCHOOLシリーズ(1996〜1997年)

ビデオアニメーション

受賞歴

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i #秘宝201012、39-46頁
  2. ^ #クロニクルⅠ、329頁
  3. ^ #キネ旬20151、193頁
  4. ^ a b c #キネ旬197812、84-90頁
  5. ^ 一般社団法人映画産業団体連合会(映画の日)
  6. ^ 松田優作ハードボイルドの傑作を一挙上映!『東映セントラルフィルムの栄光』2/7より開催
  7. ^ a b 高瀬 将嗣 「祝!東映Ⅴシネ25周年」 - 日本映画監督協会 、トークセッション「撮影所の流儀・日活篇」 - 日本映画監督協会
  8. ^ a b c d e #活動屋人生、213-215頁
  9. ^ #キネ旬19791、97頁
  10. ^ a b c d e #山口、43-45頁
  11. ^ a b talk & interview - _... moment ...._: 仙元誠三
  12. ^ a b c d e #映画の荒野、101-109、341-355頁「対談 黒澤満・伊地智啓 盟友プロデューサー、すべての始まり」。
  13. ^ #クロニクルⅡ、6-7頁
  14. ^ a b c #日活ロマン、311頁
  15. ^ 東映ビデオ:探偵物語 Blu-ray BOX
  16. ^ #三十年、250頁
  17. ^ #松田丸山324-327、412頁
  18. ^ 荒井晴彦「『松田優作とセントラル ストイックな本物の男だった。』 黒澤満インタビュー」『映画芸術』1990年春 No359、編集プロダクション映芸、123–124頁。 
  19. ^ 『日活100年史』日活、2014年、166頁。 
  20. ^ #東映の軌跡334頁
  21. ^ a b 高橋英一・西沢正史・脇田巧彦・黒井和男「映画・トピック・ジャーナル 百恵・友和作品打ち切りの波紋」『キネマ旬報』1980年4月下旬号、キネマ旬報社、172頁。 
  22. ^ #活動屋人生、236頁
  23. ^ セントラル・アーツ、製作事業を一時休止「あぶ刑事」「Wの悲劇」...会社は存続 J-CASTニュース 2018年7月2日 同年7月3日閲覧
  24. ^ #活動屋人生243頁

参考文献

  • 東映セントラルフィルム研究 プログラム・ピクチュアこそ日本映画のオリジンだ 〔座談会〕村川透 佐治乾 黒沢満 〔司会〕山根貞男」『キネマ旬報』1978年12月号、キネマ旬報社 
  • 荻昌弘ジャンボ対談(26) 東映社長岡田茂氏 '76年洋画界の地図を大きくかえる東映・岡田社長の野心と情熱ー B・リー A・ドロンで洋画界に殴り込み!」『ロードショー』1976年3月号、集英社 
  • 『キネマ旬報』1979年1月下旬号。 
  • 『東映映画三十年—あの日、あの時、あの映画』東映、1981年。 
  • 「映画40年全記録」『キネマ旬報増刊』1986年2月13日号。 
  • 『クロニクル東映:1947-1991』 Ⅰ、東映、1992年。 
  • 〈ドキュメント東映全史〉 多角化は進んでも東映の看板はやはり映画 岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』 2巻、東映、1992年。 
  • 山口猛『松田優作 炎 静かに』社会思想社現代教養文庫 1505〉、1994年。(ISBN 4-390-11505-7)。 
  • 松田優作丸山昇一『松田優作+丸山昇一 未発表シナリオ集』幻冬舎、1995年。(ISBN 4-87728-074-X)。 
  • 松島利行『日活ロマンポルノ全史 —名作・名優・名監督たち講談社、2000年。4-06-210528-4。 
  • 岡田茂『悔いなきわが映画人生:東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。(ISBN 4-87932-016-1)。 
  • 男の教科書! 東映セントラルの世界 〜セントラル・アーツの世界」『映画秘宝』、洋泉社、2010年12月。 
  • 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年。(ISBN 978-4-636-88519-4)。 
  • 『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社。 
  • 『映画秘宝』2015年1月号、洋泉社。 
  • 『キネマ旬報』2015年1月下旬号。 
  • 伊地智啓『映画の荒野を走れ プロデューサー始末半世紀』インスクリプト、2015年。(ISBN 978-4-900997-56-1)。 
  • 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年。 

関連項目

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