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ジュリウス・ニエレレ

ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレJulius Kambarage Nyerere1922年7月19日 - 1999年10月14日)は、タンガニーカ及びタンザニア政治家であり、同国の初代大統領。タンガニーカの少数民族、(ザナキ族)の首長の家系に生まれる[1]。現ウガンダマケレレ大学卒業、エディンバラ大学修士取得[2]スワヒリ語Baba wa Taifa国家の父)と呼ばれている[3]カトリック教徒[3]

ジュリウス・カンバラゲ・ニエレレ
Julius Kambarage Nyerere


任期 1964年10月29日1985年11月5日

任期 1962年12月9日1964年10月29日

任期 1961年5月1日1962年1月22日

任期 1960年9月2日1961年5月1日

出生 (1922-07-19) 1922年7月19日
イギリス
(タンガニーカ植民地)(英語版)、(ブティアマ)
死去 1999年10月14日(1999-10-14)(77歳)
イギリス
イングランドロンドン
政党 (タンガニーカ・アフリカ民族同盟)(TANU)
タンザニア革命党(CCM)
1985年にオランダを訪問したニエレレ(左)

前半生

ビクトリア湖岸にて生まれる。生家は族長の家で母親は父親の22人いる妻の一人であった。国内での中等教育を経て、ウガンダのマケレレ大学卒業。卒業後は小学校に教師として勤務。この経験から長らく「先生」と呼ばれるようになった[4]1949年-1952年イギリスエディンバラ大学大学院に留学し、歴史学経済学を学んだ。

政治家へ

帰国後再び教職に戻ったが、同時に政治活動を開始。1954年にはタンガニーカ・アフリカ民族同盟(TANU)の創設者の1人となり党首に就任する。ニエレレは社会的平等、民族間の平和維持、タンガニーカの独立を掲げ政治活動を行い、その支持は全土へと急速に広まった。1960年の選挙でTANUが圧勝すると、ニエレレは植民地政府首相となり事実上政権を担う。1961年にタンガニーカの独立が承認されニエレレは初代首相となったが、翌1962年初めに辞任。独立により組織拡大などに追われていたTANUの建て直しなど、党務に専念した。

初代大統領

1962年にタンガニーカに大統領制が敷かれると、ニエレレは初代大統領に選出された。東アフリカ(東アフリカ連邦)(英語版)に統合する構想を掲げ[5][6][7]、1963年12月に独立を達成したザンジバル王国が翌1964年1月のザンジバル革命によって崩壊し、新たに成立したザンジバル人民共和国の(アベイド・カルメ)大統領がザンジバルとタンガニーカの連邦制を申し出ると、ニエレレはこれを受けて4月にタンガニーカとザンジバルの連合国家の大統領となった[8]

ニエレレ治下の1960年代から1970年代にかけては1967年2月に発令されたアルーシャ宣言に基づき、タンザニアの社会主義化を進め、ザンビアのケネス・カウンダ大統領とともに結びつきを強めた中華人民共和国から戦車戦闘機など様々な援助を与えられ[9]タンザン鉄道や軍事基地の建設[10]も行われた。それまで背広姿だったニエレレは毛沢東の影響を受け[11][12]タンザニアスーツと呼ばれる中国の人民服に似た服装を愛用するようになった[13]。同年6月には東アフリカ諸国と協力条約を締結し、タンザニアのアルーシャ東アフリカ共同体(EAC)の本部と事務局が設置された[14]。ニエレレは初等教育や成人教育を通じての、公用語としてのスワヒリ語教育の拡充も進めた[3]

1975年汎アフリカ主義アフリカ社会主義の精神に基づいて白人国家ローデシアアパルトヘイト体制の南アフリカ共和国と対決するボツワナザンビア(フロントライン諸国)(英語版)(FLS)を結成してタンザニアの大統領を退くまでニエレレは議長を務め[15]、ローデシアや南アフリカ共和国からの経済的な自立を目指して南部アフリカ開発共同体(SADC)の前身である(南部アフリカ開発調整会議)(英語版)(SADCC)を設立させ[16]、アフリカ諸国の反政府ゲリラ組織に支持を与えた[17]

1977年、中国[18]の支援で建設された(アマーン・スタジアム)(英語版)にてTANUとザンジバルのアフロ・シラジ党(ASP)を統合してタンザニア革命党を設立した。同時期、ケニアのジョモ・ケニヤッタがタンザニアやウガンダを上回る議決権を求めたことで東アフリカ共同体は解散した[19]

1978年には亡命したミルトン・オボテを匿っていたことから対立していた隣国ウガンダのイディ・アミン大統領がタンザニアに侵攻するも、逆にニエレレは猛反撃して1979年タンザニア軍がウガンダの首都カンパラにまで進撃し(タンザニア=ウガンダ戦争)、アミン体制を打倒した[20]。アフリカの国家が武力を用いて他のアフリカの主権国家の政権を打倒したという前例のないこの行為は前年の1977年に起きたセーシェルの軍事クーデターへのニエレレの関与とあわせて[21][22][23][24]内政不干渉の原則に反するとアフリカ統一機構(OAU、現アフリカ連合)の加盟国で物議を醸したが[25][26]、ニエレレはアミン体制が南アフリカの白人政権よりも大量虐殺を行っていたとして人道性を訴えた[27]

1980年代に入ると電気水道などのインフラストラクチュアの崩壊に加え、トイレットペーパーなどの日用品さえも不足する事態に至った[20]。このため、ニエレレは経済運営失敗の責任を取り、1985年の大統領選出馬を辞退。ザンジバル出身のアリ・ハッサン・ムウィニを後任として大統領職を辞した。

引退後

大統領辞任後も、1990年まではタンザニア革命党党首の座にあり一定の政治力を保持した。1999年に死去した。

ニエレレの評価

 
1000タンザニア・シリング紙幣のニエレレの肖像

彼の政策は一般にウジャマー村構想として知られる社会主義政策であり、アフリカ民族社会独自の社会主義的農業集団化方式である(ウジャマー)を重視し、銀行企業の国営化などの統制経済により社会の平等化を図る彼の理想主義の現れであった。この計画は旱魃による食糧生産高の激減、輸出作物生産の軽視、及び1970年代石油危機による原油価格高騰で失敗したものの、他のアフリカの政治家にありがちだった権力にしがみつく独裁者にならず、失政の責任をとって職を辞した彼のアフリカの平和・平等・安定を思う真剣な姿から、彼を「アフリカの父」の1人として尊敬する動きも少なくない。ニエレレにはムワリムという愛称があるが、これはスワヒリ語で「先生」を意味するものである[28]。また、ニエレレは金銭に清廉な人物であった[29]

ニエレレのウジャマー思想を紹介した論文に、井上順孝「J.K.ニエレレ―ウジャマーの志向するもの」(柳川啓一編『講座宗教学5・聖と俗のかなた』、東京大学出版会、1978年)がある。

受賞歴

脚注

[脚注の使い方]

註釈

出典

  1. ^ 根本(2006b:73)
  2. ^ 根本(2006b:72)
  3. ^ a b c 根本(2006b:74)
  4. ^ ニュースの顔 ローデシア解決に影響力を増す ニエレレ・タンザニア大統領『朝日新聞』1976年(昭和51年)10月3日朝刊、13版、7面
  5. ^ Arnold, Guy (1974). Kenyatta and the Politics of Kenya. London: Dent. (ISBN 0-460-07878-X). p. 173
  6. ^ Assensoh, A. B. (1998). African Political Leadership: Jomo Kenyatta, Kwame Nkrumah, and Julius K. Nyerere. Malabar, Florida: Krieger Publishing Company. (ISBN 9780894649110). p. 55
  7. ^ Kyle, Keith (1997). "The Politics of the Independence of Kenya". Contemporary British History. 11 (4): 42–65. doi:10.1080/13619469708581458. p. 58.
  8. ^ 根本(2006a:67-69)
  9. ^ Smith, William Edgett (1973). Nyerere of Tanzania. London: Victor Gollanz. (ISBN 9780575015104). p.137-164
  10. ^ Raj Narain Misra (1986). Indian Ocean and India's Security. Mittal Publications. pp. 134–. GGKEY:CCJCT3CW16S.
  11. ^ Huddleston, Trevor (1995). "The Person Nyerere". In Colin Legum and Geoffrey Mmari (eds.) (eds.). Mwalimu: The Influence of Nyerere. London: Britain-Tanzania Society. pp. 1–8. (ISBN 978-0852553862).
  12. ^ Bjerk, Paul (2017). Julius Nyerere. Athens, Ohio: Ohio University Press. (ISBN 978-0821422601). p.80
  13. ^ Smith, William Edgett (1973). Nyerere of Tanzania. London: Victor Gollanz. p. 13.
  14. ^ "TIlE TREATY FOR EAST AFRICANCO·OPERATION ACT 1967" (PDF) (Press release). Kenya Law. 2018-06-030閲覧 |accessdate=の日付が不正です。 ()
  15. ^ Arnold, Guy (6 April 2010). The A to Z of the Non-Aligned Movement and Third World. Scarecrow Press. pp. 126–127. (ISBN 9781461672319).
  16. ^ Joel D. Barkan(1994). Beyond Capitalism versus Socialism in Kenya and Tanzania. pp. 252
  17. ^ 根本(2006a:69)
  18. ^ Ogunsanwo, Alaba (1974). China's Policy in Africa, 1958-71. Cambridge: Cambridge University Press. p. 251.
  19. ^ “– Born in anonymity”. Ms.dk. 2007年7月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年6月2日閲覧。
  20. ^ a b 根本(2006a:71)
  21. ^ Atuhaire, Alex B. (2007年4月11日). “Uganda: Country Pays Tanzania Shs120 Billion Amin War Debt”. AllAfrica.com. http://allafrica.com/stories/200704110882.html 2019年6月1日閲覧。 ( 要購読契約)
  22. ^ Military power and politics in black Africa. Simon Baynham. p. 181
  23. ^ Leonard, Thomas M. (2006). Encyclopedia of the Developing World, Volume 1. Taylor & Francis. pp. 1402. ISBN (0-415-97662-6). https://books.google.com/books?id=3mE04D9PMpAC&pg=PA1402 
  24. ^ Cawthra, Gavin; Du Pisani, André; Omari, Abillah H. (2007). Security and Democracy in Southern Africa. IDRC. pp. 143. ISBN (1-86814-453-4). https://books.google.com/books?id=A6iT5yToNrwC&pg=PA143 
  25. ^ Avirgan, Tony; Honey, Martha (1983). War in Uganda: The Legacy of Idi Amin. Dar es Salaam: Tanzania Publishing House. (ISBN 978-9976-1-0056-3). p.124
  26. ^ May, Roy; Furley, Oliver (2017). African Interventionist States. Milton, Vale of White Horse: Routledge. (ISBN 978-1-351-75635-8).
  27. ^ Roberts, George (2017). "The Uganda–Tanzania War, the fall of Idi Amin, and the failure of African diplomacy, 1978–1979". In Anderson, David M.; Rolandsen, Øystein H. (eds.). Politics and Violence in Eastern Africa: The Struggles of Emerging States. London: Routledge. pp. 154–171. (ISBN 978-1-317-53952-0).
  28. ^ 根本(2006a:67)
  29. ^ 根本(2006b:75-76)

参考文献

  • (根本利通) 著「抵抗から建国――独立前後」、(栗田和明)、(根本利通) 編『タンザニアを知るための60章』(初版第一刷)明石書店東京〈エリア・スタディーズ〉、2006年7月10日、66-71頁。ISBN (4-7503-2354-3)。 
  • (根本利通) 著「「国父」として――ニエレレ」、(栗田和明)、(根本利通) 編『タンザニアを知るための60章』(初版第一刷)明石書店東京〈エリア・スタディーズ〉、2006年7月10日、72-77頁。ISBN (4-7503-2354-3)。 
  • (根本利通) 著「現在から未来へ――二代大統領以降」、(栗田和明)、(根本利通) 編『タンザニアを知るための60章』(初版第一刷)明石書店東京〈エリア・スタディーズ〉、2006年7月10日、78-80頁。ISBN (4-7503-2354-3)。 

関連項目

公職
先代
ジュリウス・ニエレレ
(タンガニーカ大統領)
  タンザニア連合共和国大統領
初代:1964年 - 1985年
次代
アリ・ハッサン・ムウィニ
先代
(新設)
  タンガニーカ共和国大統領
初代:1962年 - 1964年
次代
ジュリウス・ニエレレ
(タンザニア大統領)
先代
ジュリウス・ニエレレ
(タンガニーカ首相)
  タンザニア連合共和国首相
初代:1961年 - 1962年
次代
ラシディ・カワワ
先代
(新設)
  タンガニーカ共和国首相
初代:1960年 - 1961年
次代
ジュリウス・ニエレレ
(タンザニア首相)
外交職
先代
メンギスツ・ハイレ・マリアム
(アフリカ統一機構議長)
第22代:1984年 - 1985年
次代
アブドゥ・ディウフ
受賞
先代
(新設)
ガンディー平和賞
1995年
次代
アリヤラトネ
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