ジャッキー佐藤(ジャッキーさとう、本名:佐藤 尚子(さとう なおこ)、1957年10月30日 - 1999年8月9日)は、日本の女子プロレスラー。神奈川県横浜市港南区出身。
経歴
川崎市立桜本小学校在校時から長身で、横浜市立浜中学校在学中はバスケットボール部で活躍。その後結局は1975年3月に神奈川県立商工高等学校を2年で中退し全日本女子プロレスに入門。デビュー戦は同年4月27日のマキ上田戦。 1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得した。ビューティ・ペアは「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットする。当時のビューティ・ペア人気は凄まじく[1]、試合前の(リング)で歌を披露する際には観客席から投げ込まれた紙テープや紙吹雪でいっぱいになった。ジャッキー佐藤名義で「美しい決意」、「ポケット一杯の涙」、「もしも旅立ちなら(B面:Ciscoを探せ)」というシングルレコードも出している。
1977年11月1日にはマキが持つWWWA世界シングル王座に挑戦。この試合はビューティ・ペア同士の対決として注目され、互いに譲らず60分時間切れ、判定でタイトルを獲得。1979年2月27日には「敗者引退」という過酷なルールでのマキとの再対決は48分7秒、エビ固めで勝ち、マキは引退、ビューティ・ペアに終止符が打たれた。マキ引退後はモンスター・リッパーにWWWA世界シングル王座を奪われるも奪還したが、1981年2月25日のジャガー横田(当時:横田利美)戦で同王座から転落。1981年5月21日に引退式が行われた。
その後、新団体「ジャパン女子プロレス」の設立に参加。1986年8月17日、対神取忍(当時:神取しのぶ)戦で現役に復帰する。しかし、団体内でのトラブルから神取との確執が表面化し、1987年7月18日の神奈川・大和車体工業体育館大会において行われた神取との一騎打ちが壮絶なセメントマッチとなり、敗れたジャッキーは1988年3月20日での試合を最後に現役を引退した。
引退後
引退直後の1988年に体操教室の会社「ジャムナ」を設立。スポーツプログラマー、ヘルスケア・トレーナーの資格を取得し、中高年女性を中心に自らが考案した「ジャムナ体操」の指導や講演活動を行っていた。
同年10月にがんを告知され、手術。術後の11月29日に全女30周年記念大会(横浜アリーナ)に殿堂入り選手として出席したのが、公の場に姿を見せた最後となった。1999年3月に再入院、同年8月9日8時41分、胃がんのため神奈川県川崎市内の病院で死去。41歳没。生涯独身だった[2]。
大のタバコ好きで、棺にはタバコが納められた。引退後に卵巣がんを患った全女の後輩ナンシー久美の治療生活を精神的に支えており、最期まで私生活でも仲がよかった。ナンシーはジャッキーの姉、弟と共に入院中のジャッキーの看護[3]・死後の諸々の後始末にもあたった。
ジャッキーは病名をマキには伝えず、マキはそのことについて「哀しいけど、いつまでもライバルとして見ていてくれたことが嬉しい」と話している。ジャッキーは死の前年に故郷の鳥取で暮らしていたマキを訪ねており、それが今生の別れとなったという[4]。
タイトル歴
メディア
テレビドラマ
脚注
- ^ 【大人のMusic Calendar】本日8/9は伝説の女子プロレス・タッグ ”ビューティ・ペア” ジャッキー佐藤の命日 ニッポン放送OnlineNews 2017年8月9日
- ^ “”. ウェイバックマシン(2009年7月9日アーカイブ分) (2000年7月9日). 2021年10月29日閲覧。
- ^ “ジャッキー佐藤を看取った元女子プロレスラーの現在”. ライブドアニュース(2019年4月6日). 2021年11月15日閲覧。
- ^ “元ビューティ・ペアのマキ上田さんは、浅草で釜飯屋の女将に…相方・J佐藤さんとの別れ、そしてコロナ禍|まいどなニュース”. まいどなニュース(2020年8月31日). 2021年11月15日閲覧。
外部リンク
- - ウェイバックマシン(2016年7月29日アーカイブ分)