サトラップ大反乱[1] (サトラップだいはんらん) または三サトラップの乱は、紀元前4世紀後半、アケメネス朝のサトラップ(太守)たちがアルタクセルクセス2世に対して起こした反乱である。反乱側の主要人物は(カッパドキア)太守(ダタメース)、(フリュギア)太守(アリオバルザネース)、(アルメニア)太守(オロンテス1世)らである。またカリアの王マウソロスも、基本的には名目上の宗主アルタクセルクセス2世に従いつつ、時には反乱側に寝返ることもあった。
サトラップ大反乱 | |||||
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サトラップ大反乱の指導者の一人(ペリクレス)の墓に描かれたファランクス | |||||
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衝突した勢力 | |||||
サトラップ反乱軍 | アケメネス朝 | ||||
指揮官 | |||||
(ダタメース) (アリオバルザネース) (オロンテス) | アルタクセルクセス2世 |
エジプトのファラオであるネクタネボ1世やネクタネボ2世は、反乱軍から派遣されてきた将軍レオミトレスに50隻の軍船と500タレントを与え、これらは反乱軍のために使われた。
ダタメースの反乱 (紀元前372年-紀元前362年)
(カッパドキア)太守(ダタメース)は優れた軍才を持つ人物で、紀元前384年以降に父カミサレスからサトラップ職を継承した。しかしアケメネス朝の宮廷における問題がもとで、彼は紀元前372年に反乱を起こした。宮廷は近隣の(リュディア)太守(アウトフラダテス) やリュキア太守(アルトゥンパラ)らに反乱鎮圧を命じたが、ダタメースはこれに耐え続けた[2]。
紀元前362年、ダタメースは反乱の味方と偽る義理の息子(ミトロバルザネース)に暗殺された[2]。
アリオバルザネースの反乱 (紀元前366年-紀元前363年)
(フリュギア)太守(アリオバルザネース)は、ポントスの支配者の息子で、ヘレスポントス・フリュギアのサトラップ職の正統な継承者(アルタバゾス)が成長するまでの代理サトラップを務めていた。しかしアルタバゾスが任に就けるまでになった時、アリオバルザネースは地位を譲り渡すのを拒否し、紀元前366年にダタメースの反乱に合流した[2]。
アリオバルザネースはスパルタ王アゲシラオス2世の支援を獲得した[3]。紀元前366年カリアのマウソロスとリュディアのアウトフラダテスに(アドラミティオン)を包囲されたが、アリオバルザネースはここを守り抜き、アゲシラオス2世の交渉もあって包囲軍は撤退した[4]。アテナイもアリオバルザネースに同調する意図から、彼とその3人の息子にアテナイ市民権を与えた。しかし最後には、アリオバルザネースは息子の(ミトリダテス)に裏切られ、アルタクセルクセス2世により一族もろとも磔刑に処された[5][3]。
オロンテスの反乱 (紀元前362年)
紀元前362年、(アルメニア)太守(オロンテス1世)はアルタクセルクセス2世にミュシアへの国替えを命じられたのに反発し、反乱を起こした。高貴な生まれである彼は反乱諸侯から指導者に担ぎ上げられたが、間もなく当のオロンテス1世がアルタクセルクセス2世と妥協して他のサトラップたちを裏切ったため、反乱軍は急速に崩壊していった[6]。オロンテス1世がエーゲ海沿岸の広範囲を与えられた[6]のに対し、ダタメースは義理の息子ミトロバルザネースに裏切られて殺され[2]、アリオバルザネースは処刑された。しかしその他の反乱軍に味方したサトラップたちは赦免され、ここに大反乱は終結した[6]。
脚注
参考文献
- Brosius, Maria (2006). The Persians: an introduction. Taylor & Francis. ISBN (9780415320894)
- Gershevitch, Ilya (1985). The Cambridge history of Iran: The Median and Achaemenian periods. Cambridge University Press. ISBN (9780521246996) p386
- Heskel, Julia (1997). The North Aegean wars, 371-360 B.C. Franz Steiner Verlag. ISBN (9783515069175) p94
- Nelson Frye, Richard (1984). The history of ancient Iran. Vol 3. C.H.Beck. ISBN (9783406093975)
- 三津間康幸「セレウコス朝およびアルシャク朝時代の王権の展開と都市バビロン : 『日誌』を主要資料とした研究」2009年、doi:10.15083/00005618。