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来歴・概要
1979年に当時「熊田にげろう」名義で活動していた熊は、元弟子であるゆーとぴあ・ホープの紹介で石倉三郎と「ラッキーパンチ」を結成し[1]、初めて世に出た。しかし熊は元々、持病である結核の為に体調不良気味であり、休養する事が多くそれが要因で仕事も減り、収入も安定しない日々が続いてしまう。その為1年弱でコンビを解散する形となる。石倉は一旦芸能界を引退し、その後はマザー牧場で働いていた。
一方熊は、解散直後に弟子である後のブッチー武者と「熊田うつぞう・にげろう」[2]を組み、間もなく「コント・レオナルド」[3]に改称したが、命名者であるポール牧に許可もなく無断で改名した為に(破門)されてしまった。
芸名を新たに活動を始めたが、元弟子とのコンビ仲は良くなかった。熊の執拗ないじめを受けたのが元で武者がノイローゼ(神経症)に掛かる深刻な症状となり、さらに『花王名人劇場』出演直前にコント中の舞台で転倒する不運も重なった。この転倒により足を骨折する負傷で休演せざるを得なくなった為、ホープと澤田隆治が取り成して芸能界を引退した後、マザー牧場で勤務していた石倉を説得。再び呼び戻して1981年、二代目「コント・レオナルド」(レオナルド熊・石倉三郎)として再結成させた。
鋭い社会風刺で、お笑いブームの一角を占めて安定した人気を得ていたが、コンビ仲は「ラッキーパンチ」の頃と同様に良くなかった。熊にとって『コント・レオナルド』は、自ら作・演出をしており「自分の名を冠した自身の持ち物」という強い意識を常に持ち続けており、自分で『コント・レオナルド』の知名度を上げたんだ、というプライドがあった[4]。しかしその姿勢に対して我慢が出来ず石倉が愛想を尽かし、熊も石倉の酒癖の悪さを批判するなど人気絶頂期であったが、1985年10月に喧嘩別れする形で再び解散してしまう。
二代目のコント・レオナルドとしての活動期間は4年間であった。
コント・レオナルドを解散後、熊は劇団で俳優・主宰[5]として活躍する一方、妻と共に副業も行っていた。石倉は俳優として現在も活躍している。
石倉と熊はその後絶縁しており、1994年12月に熊が死去した葬式までの9年間以上、一切顔を合わせなかった。
メンバー
- 北海道出身、台本とボケ担当。
- 初代に参加
- 長野県出身。後に「ブッチー武者」へ改名。水島びんと「(アッパー8)」を組み、『オレたちひょうきん族』でお馴染みになる。
- ラッキーパンチ時代、二代目に参加
芸風
不条理コントを基本に、社会・時事問題の深層を抉る切れ味があった。締めは、(熊)「いつもニコニコ現金払い」(石倉)「違う!」。