- ガズナ朝
- غزنویان
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ガズナ朝(ペルシア語: غزنويان, ラテン文字転写: Ġaznaviyān)は、現在のアフガニスタンのガズニーを首都として、アフガニスタンからホラーサーンやインド亜大陸北部の一帯を支配したイスラム王朝[1](955年 - 1187年)。ガズニー朝ともいう。
ガズナ朝は、王家の出自はテュルク系マムルークが立てたイスラム王朝であるという点において、セルジューク朝や後のオスマン朝のように部族的な結合を保ったままイスラム世界に入った勢力が立てたテュルク系イスラム王朝とは性質が異なり、むしろアッバース朝の地方政権であったトゥールーン朝などに近い。また、その言語、文化、文学、習慣はペルシャのものだったことから実質的にはイラン系の王朝とする見方もある[2][3][4][5][6]。
その歴史上における重要性は特に(インド)への侵入にあり、イスラム政権としては初めてとなるガズナ朝の本格的なインドへの進出は、以後のインドのイスラム化の契機となった。
歴史
サーマーン朝からの半独立
サーマーン朝の(アブド・アル=マリク1世)に仕えていたテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の有力アミール(将軍)だったアルプテギーンが、マリク1世の死後に失脚して、955年にガズナで半独立化して立てた政権を基礎としている。
アフガニスタン支配の確立
元アルプテギーンのマムルークで、ガズナ政権の5代目の支配者となったサブク・ティギーン(在位977年 - 997年)のとき勢力を拡張し、サーマーン朝に代わって現在のアフガニスタンの大部分を支配するようになり、南のパンジャーブにも進出した。スブクティギーンより政権の世襲が始まるため、スブクティギーンを王朝の初代に数えることが多い。
マフムードのインド侵攻
サブク・ティギーンの死後、998年にen:Battle of Ghazni (998)で弟(イスマーイール)(在位997年 - 998年 )を倒して即位したマフムード(在位998年 - 1030年)のとき、ガズナ朝は最盛期を迎えた。マフムードはサーマーン朝に対する攻撃を強めてこれを滅亡に追いやり、イラン方面のホラーサーンに勢力を広げるとともに、パンジャーブから本格的にインドに進んで北インドやグジャラートに対して17回にわたる遠征を連年行った。異教徒に対するジハード(聖戦)の名目のもとに行われた遠征により、ガズナ朝は1018年にはカナウジのプラティハーラ朝を滅ぼすなど勢力をインドに大きく広げる。マフムードの治世において、ガズナ朝の領域は北は中央アジアのサマルカンドに及び、西はクルディスタン、カスピ海から東はガンジス川に至るまで広がって、ガズナ朝のマフムードの権威は鳴り響いた。
マフムードの遠征を支えたガズナ朝の軍隊の中核は、テュルク系主体のマムルークからなっていた。文化面では、行政の実務はペルシア人の官僚が担当したので、ペルシア語が公用語になり、マフムードの時代には、その惜しみない援助を頼って『シャー・ナーメ』で名高い詩人フィルダウスィーを初めとする文人たちがガズナに集い、マフムードのもとでペルシア語文学が大いに盛行した。首都ガズナもまた繁栄を極め、文人たちはその壮麗さと征服者マフムードの名を称えた。その盛名は、ガズナ、ガズナ朝といえば、マフムードの名と永遠に結びつくといわれるほどである。マフムードが1030年に亡くなると、広大に過ぎる征服地を維持することはできなかった。
セルジューク朝の台頭
マフムードの後を継いだ息子の(マスウード1世)(在位1031年 - 1041年)は、1040年に新興のセルジューク朝にダンダーナカーンの戦いで敗れ、ホラーサーンなど支配領域の西半を失った。
その後、ガズナ朝は(イブラーヒーム)(在位1059年 - 1099年)の治世に幾分か勢いをとりもどしたが、かつてのような栄光や力はもはや失われ、12世紀前半にはホラーサーンを本拠地としたセルジューク朝のサンジャル(在位1118年 - 1157年)に臣従して貢納を行うほどであった。
滅亡
1150年、もとガズナ朝の宗主権下にある地方政権に過ぎなかったゴール朝によって、首都ガズナは陥落させられ、その略奪によってガズナの繁栄も地に落ちることとなった。ガズナ朝の残部はインドに南下してパンジャーブ地方のラホールでしばらく生きながらえたが、1186年に至り、ついにゴール朝によって滅ぼされた。
歴代君主
- アルプテギーン(962年 - 963年)
- (イブラーヒーム)(963年 - 966年)
- (ビルゲティギーン)(966年 - 975年)
- (ボリティギーン)(975年 - 977年)
- サブク・ティギーン(977年 - 997年)
- (イスマーイール)(997年 - 998年 )
- マフムード(998年 - 1030年)
- (ムハンマド)(1030年 - 1031年)
- (マスウード1世)(1031年 - 1041年)
- ムハンマド(復位)(1041年)
- (マウドゥード)(1041年 - 1048年)
- (マスウード2世)(1048年)
- (アリー)(1048年)
- (アブドゥッラシード)(1049年 - 1052年)
→1052年に(アブー・サイード・トゥグリル)支配
- (ファッルフザード)(1052年 - 1059年)
- (イブラーヒーム)(1059年 - 1099年)
- (マスウード3世)(1099年 - 1115年)
- (シールザード)(1115年)
- (アルスラーン・シャー)(1116年)
- (バフラーム・シャー)(1117年 - 1150年)
→ゴール朝によって滅亡
系図
参考文献
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p. 185
出典
- ^ Islamic Central Asia: an anthology of historical sources, Ed. Scott Cameron Levi and Ron Sela, (Indiana University Press, 2010), 83;The Ghaznavids were a dynasty of Turkic slave-soldiers..., "Ghaznavid Dynasty" Encyclopædia BritannicaJonathan M. Bloom, Sheila Blair, The Grove Encyclopedia of Islamic Art and Architecture, Oxford University Press, 2009, Vol.2, p.163
- ^ David Christian: A History of Russia, Central Asia and Mongolia; Blackwell Publishing, 1998; pg. 370: "Though Turkic in origin […] Alp Tegin, Sebuk Tegin and Mahmud were all thoroughly Persianized".
- ^ J. Meri (Hg.), Medieval Islamic Civilization: An Encyclopedia, "Ghaznavids", London u.a. 2006, p. 294: "The Ghaznavids inherited Samanid administrative, political, and cultural traditions and laid the foundations for a Persianate state in northern India. ..."
- ^ Sydney Nettleton Fisher and William L. Ochsenwald, The Middle East: a history: Volume 1, (McGraw-Hill, 1997); "Forced to flee from the Samanid domain, he captured Ghaznah and in 961 established the famed Persianate Sunnite Ghaznavid empire of Afghanistan and the Punjab in India".
- ^ Meisami, Julie Scott, Persian historiography to the end of the twelfth century, (Edinburgh University Press, 1999), 143. Nizam al-Mulk also attempted to organise the Saljuq administration according to the Persianate Ghaznavid model..
- ^ B. Spuler, "The Disintegration of the Caliphate in the East", in the Cambridge History of Islam, Vol. IA: The Central islamic Lands from Pre-Islamic Times to the First World War, ed. by P.M. Holt, Ann K.S. Lambton, and Bernard Lewis (Cambridge: Cambridge University Press, 1970). pg 147: One of the effects of the renaissance of the Persian spirit evoked by this work was that the Ghaznavids were also Persianized and thereby became a Persian dynasty.