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ガザ地区等撤退(ガザちくとうてったい)は、イスラエルが2005年に行った、ガザ地区全域とヨルダン川西岸の一部からの、ユダヤ人入植地の撤退である。
ガザ地区からの制空権及び制海権を維持した上で軍が全面撤退したうえで、全ユダヤ人入植者約8500人が退去し、加えて、ヨルダン川西岸の小規模入植地が解体された。アリエル・シャロン首相が2004年2月2日に計画を発表し、2005年8月から9月にかけて実行された。
ガザ撤退、ガザ地区撤退、ガザ地区撤退計画などとも。英語では Israel's Disengagement Plan(イスラエルの撤退計画)などとも[1]。
経緯
ガザ地区は、1967年の第三次中東戦争によりイスラエルの占領下となり、ユダヤ人入植地の永続化がなされてきた。
計画の波紋
2004年2月シャロン首相は地元紙ハアレツの取材に対し、突如として、ガザ地区の全21箇所・ヨルダン川西岸入植地の4か所の解体を打ち出し、全世界を驚愕させた。なぜならシャロンは2001年に首相に就任して以来、パレスチナに対し一貫して強硬姿勢を崩していなかったからである。
かねてよりパレスチナに融和的だった労働党は、即座にこの計画を支持。パレスチナ人による一向に終わりを見せないインティファーダや自爆テロ攻撃によって厭戦気分が高まっていた国内世論も総じてシャロンの計画に好意的だった。また、シャロンとは首相就任以前から親密なアメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領も歓迎の意を示し、2004年4月14日に行われた首脳会談でもイスラエルへの全面的な支持が確認された。
国内外からの支持を得たシャロンだったが、自身が党首をつとめる右派政党リクードの反応はまるで違っていた。旧約聖書に基づく領土拡張が党是であるリクードにとって、シャロンの行動は裏切り以外の何物でもなかった。シャロンは、撤退計画を党員投票にかけ、党内の信任を得た上で国会での採決に持ち込む構えだったが、その目論見は見事に打ち砕かれた。シャロンの政敵であるベンヤミン・ネタニヤフ元首相は多数派工作を公然と拒否、最側近だったリモール・リブナット教育相もシャロンからの離反を始め、強硬派のウジ・ランダウに至っては入植者と一体になって反対運動を展開し公然と叛意を示す始末だった。5月2日に実施された党員投票日に、ガザ地区のグッシュ・カティーフで、入植者の母子5人がパレスチナ人の男に惨殺される事件が勃発した。これにより否決への流れは決定的になり、実に60%以上が反対し、シャロンは面子をつぶされた[2]。
閣議決定・国会上程
党員からノーを突きつけられたシャロンだったが、高い世論の支持を背景に不退転の決意は揺るがなかった。6月6日、計画に反対する国家統一党の閣僚を解任し閣議決定に持ち込む。閣議決定後、この計画を非とする国家宗教党の閣僚2人が抗議の辞任に出る。党内の強硬派との溝がますます深まる中、10月には国会に上程、リクードからは17人の造反を出しながらも、労働党や左派政党からの支持を取り付け67対45で国会を通過させた[3]。2005年2月16日には総額38億新シェケルに上る入植者補償法案が国会を通過。
2005年8月7日に、撤退計画が最終閣議決定された。閣議では17人の閣僚が賛成したが、5人が反対に回り、ベンヤミン・ネタニヤフ元首相は閣議後財務相を辞任し倒閣に乗り出すことになる。ともかく閣議決定はなされ、これにより計画は実行されることになった。
8月10日にはテルアビブで大規模な反対集会(主催者発表30万人、警察発表20万人が参加)が行われたものの、大勢に影響することはなかった。
撤退実行
8月15日、イスラエル国防軍(IDF)がガザ地区を全面封鎖し、入植者に対し48時間の自主的退去を呼びかけた。
8月17日にはIDFは、最後まで籠城を続ける入植者と、それを強く支援するユダヤ教原理主義者やより過激なカハネ主義者の強制排除に乗り出した。強制排除は人口2500人のネヴェ・デカリームから開始され、ガディードやクファル・ダロムなどでは反対派がシナゴーグに篭城し、IDFに対し激しく抵抗したが、8月22日には最後に残されていたネッツァリームも制圧。わずか1週間で全入植者が退去させられた。
8月23日には、西岸の小規模入植地4箇所の解体に乗り出した。ホメッシュやサヌール、とりわけサヌールでは入植者がオスマン帝国時代に建造された要塞に篭城し激しい抵抗にあうものの、結局これも1日で500人の入植者を退去させた。
9月12日までには入植地跡地の整地にも成功。IDFも完全にガザ地区から撤収した。
撤退した入植地
地区 | 数 | 入植地 | 英語名 |
---|---|---|---|
ガザ地区 | 21 | (ベドラー) | Bedolah |
(アツモン) | Bnei Atzmon | ||
(ドゥギト) | Dugit | ||
(エレイ・シナイ) | Elei Sinai | ||
(ガディード) | Gadid | ||
(ガン・オル) | Gan Or | ||
(ガネイ・タル) | Ganei Tal | ||
(カティフ) | Katif | ||
(クファル・ダロム) | Kfar Darom | ||
(クファル・ヤム) | Kfar Yam | ||
(ケレム・アツモナ) | Kerem Atzmona | ||
モラグ | Morag | ||
(ネベデカリム) | Neveh Dekalim | ||
(ネツァリム) | Netzarim | ||
(ネツェル・ハザニ) | Netzer Hazani | ||
(ニサニト) | Nisanit | ||
(ペアト・サデー) | Pe'at Sadeh | ||
(ラフィア・ヤム) | Rafiah Yam | ||
(スラヴ) | Slav | ||
(シラト・ハヤム) | Shirat Hayam | ||
(テル・カティファ) | Tel Katifa | ||
西岸 | 4 | (カディム) | Kadim |
(ガニム) | Ganim | ||
(ホメシュ) | Homesh | ||
(サヌル) | Sa-Nur |
撤退の理由
人口問題
シャロンが撤退を決断した理由としては、なによりもイスラエルが抱える人口問題が挙げられる。先進国は軒並みそうであるが、女性の社会進出が進み、それに付随し出生率が低下する。イスラエルもその例外ではない。イスラエル人[疑問点 ]の合計特殊出生率は2人強。それに対しアラブ人・パレスチナ人の合計特殊出生率は6人~20人にも及ぶ。仮にイスラエルが占領していたガザ地区・ヨルダン川西岸・ゴラン高原をすべてイスラエル領と規定した場合、早晩、アラブ人・パレスチナ人の人口がユダヤ人を上回ってしまう。パレスチナ人が多数派になればそれはユダヤ人国家であるイスラエルの終焉を意味する。シャロンはそのことを最も恐れた[要出典]。
西岸入植地の固定化
シャロンが撤退を決めたガザ地区のユダヤ人入植者はわずか8500人。それに対し西岸の入植者は、計画発表の時点で23万人、東エルサレムのユダヤ人を換算すると40万人を超える。宗教的必要性も薄く、ハマースの拠点で、100万人のパレスチナ人に囲まれているガザを捨て、その分の予算と兵力を、宗教的必要性が色濃く、かつ広大でパレスチナ人の人口が希薄な、西岸に投入する方がはるかに賢明といえる。
実際、2004年4月の米イスラエル首脳会談では、西岸にある6つの大規模入植地の維持が確認されており、ガザ撤退に着手した2005年8月15日には、シャロンの側近シャウル・モファズ国防相も6大入植地の維持を明言した。またシャロンは、西岸の既存の入植地拡大は「再開発」に過ぎないとして、拡大ではないとの立場をとり続けている。
撤退に際し、西岸の主要入植地の首長には事前に根回しがなされており、訪米前にシャロンは側近のリモール・リブナット教育相と共にマアレ・アドゥミームを訪問し、住民を前に講演を行っている。また、撤退計画をいち早く支持したのは、マアレ・アドゥミームのベニー・カシュリエル市長だった。
幻に終わった分党構想
これまでの立場を一夜にして豹変させたシャロンに対し、激しい怒りを抱いていたのが右派・宗教政党、とりわけリクード内の強硬派(モーシェ・ファイクリンなど)である。撤退計画を発表した時点で、強硬派とシャロン派の対立は決定的になっていたが、倒閣へのシナリオは幾つかあった。
まず第1に、シャロンの政敵であるベンヤミン・ネタニヤフ元首相を擁立して党首選を前倒しする。だが、このシナリオはネタニヤフが閣内にいたために実現には至らなかった[4]。ネタニヤフが倒閣に動いたのは、撤退の寸前になってからである。
もう1つは、集団離党し右派新党を結成、他の右派・宗教政党と連携し倒閣に乗り出すというもの。首班にはリクードきっての実力者ルーベン・リブリン国会議長を擁立を考えていた。だが、このシナリオも党内融和を優先したリブリンの固辞で失敗に終わった。
撤退後
2006年6月、IDFは再びガザに侵攻した。2006年7月には、レバノンへも侵攻した。