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オホーツク海縦貫線

オホーツク海縦貫線(オホーツクかいじゅうかんせん)とは、北海道の北東のオホーツク海沿岸、南稚内-網走間を鉄道路線で結ぼうとする構想。オホーツク本線[1]などと称されたが、現実化しなかった。

概要

オホーツク海沿岸に断続的に敷設されていた鉄道路線の未成区間を建設して、網走と南稚内間約335キロメートルを一本の鉄道路線としようという構想である。1980年代の特定地方交通線廃止の過程で鉄道路線廃止を食い止めるため、網走管内総合開発期成会が管内開発と赤字ローカル線問題の検討の中で着想し網走支庁を通じ釧路・宗谷方面へと呼びかけた[1]

この構想が生まれた当時、オホーツク海沿岸には、以下の路線が敷設されていた。

いずれの路線も相互連絡が悪く、赤字で経営環境は厳しく廃止対象に上がっていた[2]。北見枝幸と雄武の間は、興浜線未成区間で、この区間が開通すれば網走から稚内までが鉄道でつながる。このことから、上記路線の沿線自治体は、未成区間を完成させオホーツク海側の鉄道を一本化し乗り換えを減らす直通運転の実施や[2]、水産物を中心とした貨物や流氷を中心とした観光需要の掘り起こしなどによって経営を改善させ[2]、国鉄路線としての存続もしくは第三セクター化の形での存続を構想した。

1981年8月に沿線の宗谷・網走・上川管内の開発期成会主要メンバーが東京で国鉄・運輸省・自民党へ最初の陳情活動を行い[2]、10月には紋別市で「オホーツク本線建設促進期成会」を設立[1]、紋別市の金田武市長が会長を務め[3]、事務レベル研究会には興浜南・北線沿線の4町と期成会事務局の紋別市とオブザーバーとして網走・宗谷支庁と北海道庁が参加した[4]

1982年時点では第一段階として興浜線未成区間を建設した上で興浜線全線を第三セクター運営とし年1.4億円・10年間で14億円の赤字を見込み沿線開発・振興のため存続させるとして国策による廃止のため国や道からの支援を当て込む試算とし期成会は転換交付金の上積み・国鉄による除雪実施・第三セクターへの道の出資を求めていた[5]。同年10月には期成会が既存鉄道と未成区間(雄武 - 北見枝幸間)を繋ぐバスを使って網走から稚内まで約11時間かけての体験乗車デモを行う活動も見られ[6][7]、その後1984年12月に道が第三セクター方式での存続を断念したことから1985年には興浜南線・北線の廃止とバス転換が決定したものの本線構想の検討を続けるとしていたが[8]、結果的には未成区間の工事が再開されることはなく、上記5路線は1985年から1989年にかけてすべて廃止された。

なお、構想路線には網走―東釧路間の釧網本線[2]根北線標津線を含める見解もある。釧網本線は網走 - 斜里(現・知床斜里)間でオホーツク海沿岸を通る。根北線は斜里から内陸の根北峠を越えて標津線根室標津へ至る予定線だった。

関連項目

脚注

  1. ^ a b c 釧路-稚内500キロ鉄路で未来はバラ色 オホーツク本線期成会旗揚げ-北海道新聞1981年10月29日朝刊
  2. ^ a b c d e 赤字線"反撃"つくるぞ「オホーツク本線」稚内-釧路廃止路線一本化 貨物は増えるし観光の目玉にも 沿線自治体活発な動き-北海道新聞1981年9月4日朝刊
  3. ^ 興部-浜頓別結ぶ興浜線第三セクター化検討 オホーツク本線建設期成会 - 北海道新聞1982年1月31日朝刊
  4. ^ 23日に事務研究会オホーツク本線期成会 - 北海道新聞1982年4月18日朝刊
  5. ^ 瀬戸際の赤字線2 興浜南・北線 存続への夢乗せて オホーツク本線 - 北海道新聞1982年10月1日朝刊
  6. ^ 夢を乗れ"オホーツク本線"きょう発車 実現訴えて、町長らが試乗会 - 北海道新聞1982年10月27日
  7. ^ "オホーツク本線"発車 65人が試乗、実現へ示威 - 北海道新聞1982年10月27日夕刊
  8. ^ 興浜南、北線バス転換正式決定 - 北海道新聞1985年2月8日朝刊
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