» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

エルヴィン・ロンメル

エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル[# 1]ドイツ語: Erwin Johannes Eugen Rommel  (発音)[ヘルプ/ファイル]1891年11月15日 - 1944年10月14日)は、ドイツ軍人。最終階級は陸軍元帥

エルヴィン・ロンメル
Erwin Rommel
1942年頃の肖像(Röhr Verlagの(絵はがき))
渾名 砂漠の狐
: Wüstenfuchs, : Desert Fox
生誕 (1891-11-15) 1891年11月15日
ドイツ帝国
ヴュルテンベルク王国
ハイデンハイム
死没 (1944-10-14) 1944年10月14日(52歳没)
ドイツ国
(ヘルリンゲン)(ドイツ語版)
所属組織 ドイツ帝国陸軍
ヴァイマル共和国陸軍
ドイツ陸軍
軍歴 1911年 - 1944年
最終階級 陸軍元帥
署名
(テンプレートを表示)

第二次世界大戦フランス北アフリカでの戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、傑出した指揮官として知られる。広大な砂漠に展開された北アフリカ戦線において、巧みな戦略戦術によって戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、敵対する側の英首相チャーチルをして「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめ、アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名もあり一般的には名将として知られる[1]

貴族ユンカー)出身ではない、中産階級出身者初の陸軍元帥でもある。数々の武功・戦功だけでなく、騎士道精神を守った軍人として尊敬を集めたが、最終的には自決を強いられるという最期を遂げた(後述)。

1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着しており、日本でもほぼ同様の評価が行われてきた[2]。しかし、1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再度検証されるようになった[2]

生涯

誕生

エルヴィン・ロンメルは、1891年11月15日日曜日の正午、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国(ハイデンハイム・アン・デア・ブレンツ)(ドイツ語版)において生まれた[3][4][5][6]。この町はウルム郊外の町である[4][6][7]

父エルヴィンは、ハイデンハイムの実科ギムナジウム(Realgymnasium)の数学教師であり(ロンメルは父の名前をそのまま与えられた)[4][6][8]。また、祖父も教師だった[6][9]。父も祖父も多少だが数学者として名の知れた人物であり[4][6]、地元ハイデンハイムでは、かなり尊敬されていた人物であった[10]

母ヘレーネは、ヴュルテンベルク王国政府の行政区長官で地元の名士であるカール・フォン・ルッツの娘である[4][8][9][10]

父母ともにプロテスタントだった[11]

兄にマンフレート、姉にヘレーネ、弟にカールとゲルハルトがいた[4][8][10][12]。兄のマンフレートは幼いころに死去した[4][8][10]

父が若いころに砲兵隊にいたことを除いて、ロンメル家は軍隊とほとんど関係しておらず、軍部への有力な縁故もなかった[13]。また、教養市民階級出身という彼の出自は、貴族主義的なドイツ陸軍において、決して有利であったとはいえない[14]

幼少・少年期

子供の頃のロンメルは、病気がちで大人しい少年だったという[4][15]。姉ヘレーネによると、ロンメルは、色白で髪の色も薄かったので、家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた[4][10]。しかし、ロンメル本人は、人事記録の中に挟んだ覚書の中で、「幼い頃、自分の庭や大きな庭園で走り回って遊ぶことができたので、とても幸せだった」と述懐している[11]

1898年、父がアーレンの実科ギムナジウムの校長となったことで[10][16][17]、一家はアーレンに引っ越したが、アーレンには小学校(Volksschule)がなかったため、ギムナジウムに入学するまでの間、ロンメルは家庭教師から授業を受けていた[16]。そして、1900年には、父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した[16]。当初、ギムナジウムでは劣等生であり[15][16]、怠け者で注意散漫だったという[15][16]。あるとき、勉学に不熱心だったロンメルに勉強させるため、教師が「書き取りテストで間違いしなければ、楽隊と一緒に遠足に出かけよう」と彼に言うと、ロンメルは、これを真に受けて必死に書き取りの勉強をして、テストで間違いをしなかったが、約束の遠足につれて行ってもらえなかったので、また勉強をしない生徒に戻ってしまったという[15][16]。読書にも運動にも興味がない子供だったが、10代になると突然活発になった[15][16]。数学の成績が良くなり、スポーツにも関心を持つようになった[16][18][19]。また、飛行機の研究に夢中になり、14歳の頃には親友と二人で実物大のグライダーを作成した[9][13][16][20]。結局、まともには飛ぶことはなかったが、ヨーロッパでは1906年に初めて動力を備えた飛行機が飛行したばかりであった[9]

ロンメルは、航空機関連のエンジニアになることを希望していたが、父親がそれに反対したため、ヴュルテンベルク王国軍に入隊することになった[9][21]。軍に入ることについて、本人はあまり乗り気でなかったらしい[12][20]

軍人に

1910年7月19日(ヴァインガルテン)(ドイツ語版)に駐留する(ヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊))(ドイツ語版)に下級士官候補生(Fahnenjunker)として入隊した[12][14][22][23][24][25]。下士官として半年の部隊勤務[# 2]を経た後、1911年3月にプロイセン王国ダンツィヒの王立士官学校に進んだ[25][27]。士官学校在学中には、当時ダンツィヒに語学の勉強に来ていたルーツィエ・マリア・モーリン(Lucia Maria Mollin)と出会った[14][25][27][28]。士官学校卒業後もルーツィエと手紙で連絡を取り合い、二人は1916年に結婚した[29]

1912年1月27日少尉に任官し、第124歩兵連隊に戻った[14][22][28][30][31]。ロンメルは、新兵の訓練を担当した。この頃から、ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している[14][29]

1913年12月8日、ヴァルブルガ・シュテマー(Walburga Stemmer)との間に私生児の娘ゲルトルートをもうけ、生活費を送る代わりに表沙汰にしないことで合意した[32]。しかし、シュテマーは、1928年に肺炎もしくは自殺で死去した。ロンメルは、後に妻のルーツィエにゲルトルートの存在を打ち明け[32]、彼女はロンメルの「親類」として戦中から戦後まで一家と親しく付き合った。事情を教えられていなかった息子のマンフレート・ロンメルは、ゲルトルートを「従姉妹」と呼んでいた[33]

1914年3月に第124歩兵連隊と同じく第27歩兵師団の指揮下であるウルム駐留の(ヴュルテンベルク王国陸軍第3野戦砲兵連隊(ドイツ帝国陸軍第49野戦砲兵連隊))に転属となった[14][34][35]。しかし、第一次世界大戦の開戦により第124歩兵連隊に復帰し、同歩兵連隊隷下の第2大隊第7中隊に所属する小隊の小隊長に就任した[36]

第一次世界大戦

初めての実戦、ブレド村での戦闘

1914年7月末から8月初めにかけて、第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した[37]。ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、対フランス戦に動員された[38]

ロンメルがはじめて実戦に参加したのは、8月22日午前5時頃、ベルギー南部のフランス国境付近の村(ブレド)(フランス語版)だった[39][40]。この時のロンメルは、前日に一日中偵察をさせられるなど疲労困憊であり、また胃痛も発症していた[39][40][41]。しかし、実戦を前に逃げ出そうとしている卑怯者と思われるのが嫌で、上官にはそのことを黙っていた[38]

銃弾が飛び交う霧の中、ロンメル率いる小隊は、ブレド村に近づき、少数で村の中に偵察に入ってフランス軍に攻撃を仕掛けるも失敗し、村の外で待機していた小隊主力と合流した[42][43]。ロンメルは、自分の小隊を二つに分けてすぐに再攻撃を行った[44]。一隊がフランス兵が隠れた建物の正面から攻撃を仕掛け、もう一隊は建物側面から攻撃をかけて最初の建物を制圧した[44]。続いて他の建物にも次々と火を放っていった[42][44]。しかし、フランス軍の抵抗も強く、ロンメルの小隊から負傷者が多数出た。また、ロンメルが作戦中に疲労と胃痛でしばしば意識を失ったので、副官の軍曹が代わりに小隊の指揮を執ることがあった[44]。その後、同じ第2大隊に所属する別の小隊が応援に到着し、加えてブレド村北東325高地がドイツ軍によって占領されたことで、ブレド村のフランス軍は投降した[45][46]

戦闘が終わった後のブレド村は、兵士たちや巻き込まれた民間人、牛馬の死体があちこちに転がり、悲惨な状態になった。ロンメルの戦友も数人戦死し、彼はずいぶん落胆したという[47]

フランス領での激戦と負傷

第124歩兵連隊は国境を超えてフランス領へ侵攻し、ムーズ川ほとりの町デュンに到着(ヴェルダンから北28キロほど)。ムーズ川渓谷での激戦に参加した[48]。ムーズ川は天然の要塞であり、フランス軍砲兵部隊の激しい砲火が降り注ぐため、突破するのは極めて困難だった。ロンメルの小隊が属する第7中隊中隊長も負傷し、一時的にロンメルが中隊長代理に就任して指揮権を引き継いでいる[49]。ロンメルは中隊を率いてフランス軍砲兵陣地へ攻撃をかけるも失敗し、第2大隊主力を発見して合流した[50]。新しい第7中隊長が決まると、ロンメルは小隊長に戻った[50]

この頃、第124歩兵連隊への補給が途絶え、道端の草を食って飢えを凌いでいた兵士たちの中に腹痛を起こす者が続出し、連隊の戦力は大きく低下した。続いて9月12日のヴェルダンの敵拠点への攻撃に失敗したことで、連隊は大きな損害を出した[50]。同日に連隊は回復のため後方に下げられた[50]。その日の午後、ロンメルは疲れ切って第2大隊司令部で大隊長副官として勤務中に居眠りしてしまい、同僚や上官が起こそうとしても起きずに眠り続けたので、翌13日に目を覚ました時には、上官にこっぴどく叱られたという[51]

9月22日から第124歩兵連隊は、(モンブランヴィル)(フランス語版)での戦闘に参加した。9月22日の戦闘では、大隊長副官ロンメルの補佐により第2大隊は大きな戦果をあげた。しかし、9月24日のヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ付近の戦闘で、銃剣術に覚えのあったロンメルは、フランス兵3名に弾の入っていない銃剣を装着した小銃で立ち向かおうとし、片足の上腿部を撃ち抜かれて負傷した[42][52][53][54]。木の後ろに隠れたロンメルは、部下たちに救助されて簡易な野戦病院へと運ばれた[53][55]。さらに、翌朝には(ストゥネ)(フランス語版)の将校野戦病院へ移送された[55][56]。入院中の9月30日に二級鉄十字章の受章を受けた[22][55][56]

フランスで塹壕戦

 
1915年9月、アルゴンヌの森。フランス軍塹壕へ突撃を仕掛けようと身を低くして進むドイツ軍歩兵。

1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰した[54]。この頃から、ドイツ軍もフランス軍も、自分から攻撃するより相手が攻撃してきたところを返り討ちにする方が打撃を与えやすいと判断して、大規模な攻撃には出なくなった。そのため、西部戦線は、塹壕戦による消耗戦の様相を呈していた[57][58]。第124歩兵連隊もアルゴンヌ森の西部で塹壕戦を展開していた[54]。ロンメルは、第2大隊隷下の第9中隊長に任じられた[58]

ロンメルは、中隊を率いて匍匐前進しながらフランス軍の築いた有刺鉄線鉄条網を隙間を通り抜けて進み、フランス軍主陣地に突入し、(掩蔽部)4か所を占領した[54][59]。取り戻そうと襲撃してきたフランス軍の反撃を一度は退けたが、結局、新しい攻撃を受けるのを避けるため、自軍の陣地に後退するのを余儀なくされた[54][59]。しかし、ロンメルは、その後退を12人足らずの損害で達成した[42]。ロンメルは、この際の勇戦ぶりを評価されて、1915年3月22日に一級鉄十字章を授与された[22][54]。第124歩兵連隊の中尉・少尉階級の者の中では、初めての受章だった[54]

第124歩兵連隊は、その後もアルゴンヌに留まったままフランス軍と消耗戦を続けた[60][61]。7月にロンメルは向こう脛に砲弾の破片を受け、二度目の負傷をした[54]

山岳兵大隊

1915年9月に中尉に昇進するとともに、新たに編成される「(ヴュルテンベルク山岳兵大隊)」(Württembergischen Gebirgsbataillon)への転属を命じられた[22][54][59][61]。10月4日付けで正式に「ヴュルテンベルク山岳兵大隊」へ転属[62]。同大隊の中隊長となった[14][54]。これまでドイツ帝国のいずれの領邦も本格的な山岳部隊は持っておらず、急遽ドイツ帝国南部に位置するバイエルン王国ヴュルテンベルク王国が山岳兵部隊を編成することになったのであった[63]。ヴュルテンベルク山岳兵大隊は、同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国アルプス山脈スキー訓練など受けた後、1915年12月31日にヴォージュ山脈(ヒルツェン丘陵)でフランス軍と戦ったが、ここでの戦闘は緩やかで、比較的のんびりと1年ほど戦った[64][65]

ルーマニア戦線

1916年10月末、山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した[54][65]。同大隊は11月11日に(レスルイ山)の戦闘でルーマニア軍の守備隊を撃破した[66]。この後、ロンメルは一時休暇をもらって大隊を離れ、1916年11月27日にダンツィヒにおいてルーツィエと簡易な結婚式をあげた[65][66]ハネムーンなどはせず、すぐにルーマニア戦線に復帰した[66]。1917年1月7日にロンメルが率いる中隊は(ガジェシュチ)(ルーマニア語版)村で大戦果をあげ、360人ものルーマニア兵を捕虜にした[67]

1917年1月中旬に山岳兵大隊は、ルーマニア戦線からヒルツェン丘陵へ戻り、フランス軍と戦った。しかし、7月末には再びルーマニア戦線に送られた[68][69]。(コスナ山)に強固な要塞を作っていたルーマニア軍と激闘になった。8月10日には弾丸が左腕を貫通するという三度目の負傷をしたが、彼は構わず戦闘に参加し続けた[68][70]。傷口を放置したせいで高熱に浮かされたが、ロンメルはベッドの中から命令を発し続けたという[71]。ロンメルを初めとして、山岳兵大隊は奮戦したが、結局コスナ山を占領することはできず、8月25日に山岳兵大隊は第11予備歩兵連隊と交替することとなり、後方に下げられた[71]

負傷した腕の治療のため一月ほど休養に入り、その間は妻ルーツィエと一緒に過ごした[72]

イタリア戦線

 
1917年、イタリア戦線でのロンメル
 
プール・ル・メリット勲章

ヴュルテンベルク山岳兵大隊は1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された[68]。ロンメルは1917年10月上旬にイタリアで戦う山岳兵大隊に復帰し[73]、山岳三個中隊と機関銃一個中隊からなる任務部隊司令官に任じられた[74]

カポレットの戦いにおいてドイツ第14軍司令官オットー・フォン・ベロウは戦略的要衝である(マタイユール山)(イタリア語版)や(Template:コロヴラト山脈)の1114高地を最初に占領した部隊の指揮官にはプール・ル・メリット勲章を与えると布告した[75]。これは1667年制定の由緒ある戦功勲章でドイツ帝国一般軍人の事実上の最高武勲であった。これにより各部隊の指揮官の競争が凄まじいことになった[76]。ロンメルは自分の名誉欲で部下を犠牲にするような男ではなかったが、名誉に関心がないわけでもなく、ロンメルの部隊もこれらの要衝の占領を目指すことにした[75]

ロンメルの部隊は、コロヴラト山脈の陣地の占領にあたって大きな功績を果たした。夜間に敵陣地に偵察を行い、配備の隙間を発見してそこを通過してモンテ・クク山を強襲した。突然ロンメルの部隊が背後に現れたことにイタリア軍はパニックとなり、総崩れ状態となった[77]。部下に無茶な進軍をさせて前進を阻まれていたフェルディナント・シェルナー少尉率いるバイエルン軍部隊がその隙に1114高地を占領し、シェルナーがプール・ル・メリット勲章を受章した[76]。ロンメルはこれについて論功行賞のあり方が公正ではないと憤慨していた[77]

ロンメルは続いてマタイユール山の攻略を狙い、上官からバイエルン連隊に付随せずに右翼から単独で攻撃をかける許可をもらい[78]、50時間にも及ぶ行軍と戦闘の末に10月26日朝にマタイユール山を攻略した[79][80][81]。イタリア兵が異常に無気力だったこともあって、500人のロンメルの部隊は、5人の戦死者と20人の負傷者を出しただけで9,000人のイタリア兵を捕虜としていた[81][82]。ところがマタイユール山と間違えて別の山を占領した(ヴァルター・シュニーバー)中尉が「マタイユール山を占領した」と第14軍司令部に報告していたため、ベロウ将軍はカイザーヴィルヘルム2世にシュニーバー中尉を推挙し、結果彼がマタイユール山占領の功績でプール・ル・メリット勲章を受章することになった[82]。ロンメルはこれに激怒して正式に上官に抗議したが、決定は覆せないと認められなかったという[82][83]

しかしまだイタリアとの戦争は続いており、チャンスはあった。ロンメルは退却するイタリア軍の追撃戦で活躍し、ロンガローネのイタリア軍基地への攻撃において勇戦し、やはり無気力なイタリア兵を8000名も捕虜にした[84]。この結果、1917年12月13日にヴィルヘルム2世はついにロンメルにたいしてプール・ル・メリット勲章の受章を認めた。受章理由にはマタイユール山奪取とロンガローネの戦いの勇戦、どちらもあげられていた。しかしロンメルはマタイユール山奪取の功績でプール・ル・メリット勲章を手に入れたと主張していた[84]

第一次大戦末期

その後1918年2月に西部戦線へ転戦したが、まもなく幹部候補の一人として第64軍団司令部に参謀として配属されることとなった[85][86]。以降一次大戦中は敗戦まで前線に戻る事はなかった。1918年10月18日に大尉に昇進した[85][86]

1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機にドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、翌11日にはドイツ社会民主党の主導する新ドイツ共和国政府がパリコンピエーニュの森で連合国と休戦協定の調印を行った[87]。第一次世界大戦はここに終結した。

ヴァイマル共和政期

ロンメルは、1918年12月21日に古巣の第124歩兵連隊に再配属された[88][89]。1919年3月にはフリードリヒスハーフェンの第32国内保安中隊の指揮官に就任。この部隊には革命派の兵士が多く、彼らは上官ロンメルの命令を平気で無視し、プール・ル・メリット勲章にもまるで敬意を払おうとしなかったというが、ロンメルの人格によってまとめ上げられ、部隊は規律を回復したという[89][90][91]

敗戦国ドイツへの責任追及は過酷を極めた。1919年6月28日にドイツと連合国の間に締結されたヴェルサイユ条約によって天文学的賠償金が課せられた。また国境付近のドイツ領土は次々と周辺国に奪われ、ドイツ領土は大きく縮小した。軍については陸軍兵力を小国並みの10万人(将校4000人)に限定され、戦車、潜水艦、軍用航空機など近代兵器の保有を全て禁止された[92][93][94]。1919年7月31日にはヴァイマルで開かれた国会ヴァイマル憲法が採択され、ドイツは民主国家となった。所謂「ヴァイマル共和国」の時代が始まった。

ちなみに将校4000人という制限は、軍に残る事を希望するドイツ帝国将校6人のうち1人だけがヴァイマル共和国陸軍に残れるという倍率をもたらした[95]。そしてロンメルはヴァイマル共和国陸軍将校に選び残された者の1人であった[96]

この後、ロンメルは9年ほどシュトゥットガルトの第13歩兵連隊に所属し、1924年からは同連隊の機関銃中隊長となった[97][98][99]。この間、特筆すべきことはほとんどないが、1928年12月に長男のマンフレートが生まれている[99][100][101]。彼は戦後シュトゥットガルトの市長を長年務めている[102]

1929年10月1日にドレスデン歩兵学校の教官に任じられた[100][103]。多くの実戦経験を持つロンメルの講義は生徒たちに人気があったという[104][105][106]

ナチ党政権下

 
1934年9月30日、収穫祭でゴスラーを訪れたヒトラーがロンメル少佐の大隊を閲兵する。中央左がロンメル。2人はこの時に初めて出会った。

1933年1月30日国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりドイツ国首相に任命された[107]。ロンメルはこれまで政治にはほとんど関わらなかったが[108][109]、他の多くの軍人達と同様にヒトラーの登場には熱狂し、彼の反共主義再軍備の政策を歓迎した[110][111][112][113]

1933年10月10日少佐に昇進するとともにゴスラーに駐屯する第17歩兵連隊の第3大隊長に任じられた[22][103][114][115]。1934年9月30日に収穫祭のためにヒトラーがゴスラーを訪問した[116]。この時にロンメルの大隊はヒトラーを出迎える儀仗兵の任につき、ロンメルとヒトラーが初めて対面することとなった[116][117]。もっともこの時にロンメルが公的な関係以上に何か特別に扱われたという形跡はない[117]。またロンメルがヒトラーについてどう感じたかを示す証拠もない[116]。ただこの閲兵式の直前にロンメルは、警護問題をめぐってSSと揉めたとされ、「閲兵式においても警護のためSS部隊が最前列になるべきである」と主張したSS隊員にロンメルは激怒し、「ならば私の大隊は閲兵式には出席しない」と応酬して騒ぎになり、ヒトラーに随伴していた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーから直接に「部下の非礼を詫びたい」と謝罪を受けたという[109][114]

1935年3月1日に中佐に昇進した[22]。1935年10月15日に新設されたポツダム歩兵学校の教官に任じられた[118][119][120]。この学校でもロンメルは非常に好感をもたれる教官であったという[118]

1936年9月のニュルンベルク党大会で(総統護衛大隊)(Führer-Begleit-BataillonFHQ)の指揮官に任じられた[117][121]。この時にロンメルは「私の後続の車は6台に限定せよ」という総統命令を厳守し、ヒトラーに随伴しようと押し寄せてくる党幹部らの車を押し止めた。この件でヒトラーはロンメルに注目するようになったという[121]

しかしヒトラーがロンメルを決定的に評価するようになったのは、1937年初期にロンメルが(フォッゲンライター出版社)から『(歩兵攻撃)(Infanterie greift an)(ISBN 978-1-85367-707-6)』を出版したことだった[121][122]。これはロンメルが教官として行った講義をまとめた物であり、ロンメルの一次大戦での経験が分かりやすい文章と挿絵付きで書かれていた[103][122]。この本は50万部を売り切るベストセラーとなり[122][123]、各方面からの高評価を受け、当時、歩兵だったヒトラーも自身の経験に照らし合わせてこの本を激賞した[121][123][124][125]。なおロンメルはこの本の印税に関してフォッゲンライター出版社と結託して脱税をした。ロンメルは『歩兵攻撃』によって巨額の印税を得ていたが、この際にロンメルはフォッゲンライター出版社と結託して、1年間の生活に必要な1万5000ライヒスマルクだけを自分に支払わせ、残りは銀行預金にして寝かせ、税務署への所得申告において軍から支給されている給料以外の所得を1万5000ライヒスマルクと偽って申告した[126][127]

1937年2月にロンメルはナチ党の青年組織であるヒトラー・ユーゲントに国防省連絡将校として派遣された[117][128]。ロンメルは国防軍の下級将校の指導による軍事教練をユーゲント団員に施すことを企図し、全国青少年指導者バルドゥール・フォン・シーラッハとの折衝にあたったが、ユーゲントの指導権を軍に奪われることを恐れるシーラッハはこれに反対し続けた[129][130]。ロンメルとシーラッハの関係は悪くなる一方で二人は劇場での席次など些細なことでも争う様になった[130][131]。この任にあった頃の1937年8月1日に大佐に昇進した[130]

シーラッハとの衝突にもかかわらず、ヒトラーのロンメルへの信任は失せず、1938年9月にズデーテン併合にあたってヒトラーはロンメルを再び総統護衛大隊長に任じ、自らの護衛を任せた[129][131][132]。この頃にはロンメルは完全なヒトラー支持者になっており、次第にヒトラー讃美がエスカレートしていった[131][133]。妻への手紙には「(ヒトラーは)ドイツ国民を太陽の下へ導きあげるべく、神、あるいは天の摂理によって定められている」と書き[123]、友人への個人的な手紙には文末に「ハイル・ヒトラー、敬具、E・ロンメル」と記す程になっていた[131][133][134][135]。ヒトラーにとってもロンメルはお気に入りの将校だった[124]。ロンメルは貴族階級出身の将校ではなく、そうした貴族将校たち特有の平民出のヒトラーを見下したような態度がなかったこともヒトラーの好感につながったと思われる[136][137]

1938年11月10日にはウィーン郊外のヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長に任じられた[129][133][138][139]。ロンメルはこの学校をドイツ、そしてヨーロッパでもっとも近代化された士官学校にしようと張り切っていたが、ヒトラーの警護隊長にしばしば任じられたため、彼はあまりこの学校に訪れなかった[138][140]

1939年3月15日にチェコスロバキア併合があると、ヒトラーは再びロンメルを総統護衛大隊の指揮官に任じて、自分の警護にあたらせた[138]。チェコはオーストリアやズデーテンと違い、親ドイツ系が少ないため、ヒトラーが出向いても反発を招き暗殺される恐れがあった。ヒトラーがロンメルに「大佐、貴官が私の立場なら、どうするかね?」と聞くと、ロンメルは「オープンカーに搭乗し、重武装の護衛無しでプラハ城まで乗り込み、ドイツのチェコスロバキア統治が始まったことを内外に向けて示します」と答えた[124][141]。ヒトラーは、他の者たちの反対を押し切って、ロンメルの意見を容れ、ロンメルたちを護衛に付けたのみで無事にプラハ城に乗り込んでいる[135][141][142]。続く3月23日の(メーメル返還)でヒトラーがメーメルへ向かった時にもロンメルは総統護衛大隊長を務めた[134][138]

1939年8月1日に少将に昇進した。6月1日に遡及しての昇進である事を認められた[134][143]。これはロンメルを寵愛するヒトラーの特別な決定によるものである[134][143]。ロンメルは妻への手紙で「私が聞き知ったところによると先の昇進はひとえに総統のおかげだ。私がどれほど喜んでいるか、お前にも分かるだろう。私の行動とふるまいを総統に承認していただく事が私の最高の望みなのだ。」と書いている[135]

ヒトラーの寵愛は続いた。1939年8月22日を以ってヴィーナー・ノイシュタットの士官学校の校長職を辞し、8月25日に「総統大本営管理部長」に任じられた[143]。これまでのような期間限定の警護隊長ではなく、常時ヒトラーの警護を行うこととなった[134]

第二次世界大戦開戦

ポーランド戦中の総統警護

 
1939年9月、対ポーランド戦中のヒトラーの前線視察。ヒトラーの警護責任者として同伴するロンメル少将(ヒトラーの右)。
 
ヒトラーと共に地図を確認するロンメル(左端)(1939年9月)

1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって第二次世界大戦が開戦した。ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。妻に「君は9月1日のこと、つまりヒトラーの(ポーランドとの開戦を発表する国会での)演説をどう思うかな?我々がこのような人物を持っている事は実にすばらしいではないか。」と書き送っている[144]。彼は一次大戦の敗戦でポーランドに奪われたポーランド回廊国連の管理下に置かれたダンツィヒをドイツの手に取り戻す必要性を感じていた[145]

総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、総統専用列車「アメリカ」に乗って前線視察に出たヒトラーに同伴してポーランドへ向かった。ヒトラーはポーランド戦中、3週間も前線視察に出ていた[144]。なおヒトラーがポーランドの港町グディニャを訪れた際にロンメルはマルティン・ボルマンと揉めたという。総統大本営管理部長としてヒトラーの警護に責任を負うロンメルは、ヒトラー一行のグディニャ視察の際に急勾配で幅が狭い街路に通りかかると「総統の車と警護の車一車両のみが下るものとする!他はここで待て!」と指示した。しかし総統の側近であるマルティン・ボルマンはヒトラーと切り離されることに激怒し、ロンメルに抗議を行ったが、ロンメルは「私は総統大本営管理部長だ。これは遠足じゃない。貴方も私の指示に従っていただく!」と応酬してボルマンの車の通過を阻止したという。ボルマンはこの事を根に持ち、5年後にロンメルに復讐することになる[146]

1939年10月5日にワルシャワでヒトラー出席のドイツ軍の戦勝祝賀式典が行われることになり、ロンメルは10月2日にワルシャワに入り、会場とその周辺に警備上の問題がないかの視察を行った[147]。10月5日の戦勝祝賀式典ではヒトラーの隣に立つロンメルの姿が映像に残されている[148]

ポーランド戦後、装甲師団長に

 
ロンメルの第7機甲師団の多数を占めた38(t)戦車
 
1940年春、ドイツモーゼル川で川の流れを事前調査。右側で腕を組んでいる人物が第7装甲師団長ロンメル少将。

ヒトラーもロンメルもポーランドを落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた(実際に英仏は宣戦布告を行っただけでポーランド戦中、ドイツに攻撃が行われる様子はほとんどなかった[149]。しかし英仏はポーランドが陥落してもドイツの呼びかけに歩み寄る姿勢は全く見せなかった。軍部は軍事力の上で圧倒的に勝っている英仏と戦火を交えることを嫌がっていたが[148]、ヒトラーはこうした反対を退けフランス侵攻を決意した[150]

ポーランド戦後、ベルリンで退屈な日々を送ることになっていたロンメルは[148]、来るフランス戦では前線勤務を求め志願した[151]。陸軍人事部長は一次大戦での彼の経験に基づき山岳師団師団長をロンメルに提示したが、ロンメルはヒトラーに装甲師団の指揮を取りたいと求めた[137]。陸軍人事部長は歩兵科のロンメルに装甲師団を任せることに反対していたが、ヒトラーの介入で許可された[152]

こうして1940年2月15日にロンメルは新編成された第7装甲師団の師団長に任命されることとなった[136][137]。ちなみにフランス戦においてはドイツ軍136個師団のうち装甲師団は10個師団しかなく[153]、そのうちの一つである第7装甲師団が有する戦車の数は225両だった[154][# 3]I号戦車(機関銃のみ)34両、II号戦車(2センチ砲)68両、III号指揮戦車(火砲の代わりに指揮用の大型無線機が付いた車両)8両、IV号戦車(短砲身7.5センチ砲)24両、ドイツがチェコを併合した後に獲得したチェコスロバキア製の38(t)戦車(3.7センチ砲)91両である[156][157][要文献特定詳細情報]。師団の多数を占める38(t)戦車は装甲が薄いが、重量は9トン足らずであったので速度が速く、対フランス戦のような機動戦に非常に向いていた[158][159]。普通のドイツ軍装甲師団は2個装甲連隊と2個狙撃兵連隊で編成されたが、第7装甲師団は、狙撃兵連隊は通常通り2個連隊あったが、装甲連隊は第25機甲連隊が1個だけで(この装甲連隊は2個装甲大隊で編成された)、他に装甲連隊に属さない1個装甲大隊があるだけだった[154][155]

積極的な歩兵攻撃論者だったロンメルだったが、彼は驚くべき早さで戦車の運用知識を身に付けてゆき[155][158]、2月27日にベルリンへ飛び、ヒトラーに師団長就任の報告をした。ヒトラーより「楽しい思い出と共にロンメル将軍に贈る」と書き添えた『我が闘争』を贈られた[159][160]

参謀本部はヒトラーにフランス侵攻作戦案を提出したが、一次大戦のシュリーフェン・プランと大差ないことからヒトラーが却下し、紆余曲折の末、A軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタイン中将の立案による「マンシュタイン・プラン」が採択された[161]。これは装甲師団を中央のA軍集団に集中させ、ベルギー南部のアルデンヌの森(この森は道がないため、戦車の機動は困難と考えられており、フランス軍はここを手薄にして「アルデンヌの間隙」を作っていた)を突破し、英仏海峡まで一気に進軍させ、ベルギー・北フランスに展開する連合国主力を孤立させるというものだった[153][162][163]

ロンメルの第7装甲師団は、A軍集団(司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)隷下の第4軍(司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将)隷下の第15装甲軍団(軍団長ヘルマン・ホト大将)の隷下となった。同じ第15装甲軍団隷下に第5装甲師団があった[158][164][165]

第7装甲師団の任務は先頭に立ってアルデンヌの森を通過し、エヴァルト・フォン・クライスト大将率いる「クライスト装甲集団」(5個装甲師団から成る)を北の連合国主力の攻撃から守り、英仏海峡までの西進を邪魔されないようにすることにあった[164][165]。しかしロンメルは自分の師団も英仏海峡まで一気に進軍させようと思っていた[165]

西方電撃戦

1940年5月9日午後1時45分にフランス侵攻作戦「黄色作戦(Fall Gelb)[166]」の暗号「ドルトムント」がロンメルに伝達された[158][164]。これを受けてロンメルの第7装甲師団は同日午後11時40分に所定の位置に付いた[167]

戦局はドイツ軍に不利と思われた。ドイツ軍の戦車は2800両だったが、対する連合軍の戦車は4000両だった。戦車の装甲や火力も連合軍が勝っていた。ただ戦車の速度においてのみドイツ軍が勝っていた[153]。そして西方電撃戦では速さが一番重要だった。ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。ロンメルの搭乗する戦車は常に師団の先頭に立って前進した[168]。通常交戦が始まると身を隠すためや敵の規模・装備を確認するためにその場に停止するが、ロンメルは交戦中も常に前進を命じた。それによって敵に第7装甲師団がどこにいるのか分からなくし、敵に自ら拠点を放棄させることに繋げようとした[169]

ドイツ本国ではロンメルの師団は「全ドイツ軍師団のうち、最も西にいる師団」として評判だった[170]。必要とあれば航空機に乗って後続の砲兵部隊や自動車化歩兵部隊の下に駆けつけて指示を与えたり、叱咤激励をした[165]。部下の将兵たちの間で「不死身のロンメル」伝説が広まり、絶大な信頼を寄せられた[165]

第7装甲師団は、この戦争において主要な役割を割り当てられていたわけではない[165]。しかしその進軍スピードの速さから連合国は「いつの間にか防衛線をすり抜けている」という意味で「幽霊師団:Ghost Division、:Division Fantôme、:Gespensterdivision)」と呼んで恐れた[170][171]

アルデンヌの森通過

1940年5月10日午前4時35分にロンメルの第7装甲師団は国境を超えてベルギー領へ侵攻を開始した[172]

第7装甲師団の進路にベルギー軍が配置していたのは障害物(バリケードと橋の爆破)と軽装備のアルデンヌ猟兵第3連隊だけだった[172]。第7装甲師団はこれらを排除しつつ急ピッチで前進した。

ドイツ軍第7装甲師団がアルデンヌの森を通過しようとしていることを察知したフランス軍は第1・第4軽騎兵師団を差し向けたが(この両軽騎兵師団は騎兵旅団と機甲旅団で編成されていた)、第7装甲師団の奇襲を受けるとすぐに西に撤収していった[173]

ムーズ川渡河

 
2004年のディナン

5月10日から5月12日の3日間で第7装甲師団はアルデンヌの森を横断し、5月12日の夜遅くに一次大戦の頃にも悩まされた天然の要塞ムーズ川に面した町ディナンに到達した[168]。ロンメルはできれば撤退するフランス軍第1・第4軽騎兵師団の後に続いて一気に橋を渡りたかったが、ちょうど第7装甲師団が川に到着した頃にディナンにかかっていた橋が爆破されたため、ゴムボート舟橋を使っての渡河作戦を実施せざるを得なくなった[174]

ロンメルはまだ暗いうちに第7装甲師団の歩兵をゴムボートで西岸に渡し、明け方までに1個中隊ほどの歩兵を西岸に渡した。工兵たちに戦車を渡らせるための舟橋の建設を急がせた[175]。しかしやがてフランス軍に発見され、西岸の切立った堤防上のフランス軍陣地から激しい銃撃と砲撃に晒され、渡河作戦は停滞した[168][175][176]。ロンメルは河川にある民家に火を放って川に煙幕を張り[168][176]、また戦車や対戦車砲に西岸のフランス軍陣地があると思わしき場所に向けて絨毯砲撃を加えるよう命じた。その砲撃支援の下にディナンとその少し北方の(レフェ)(フランス語版)で渡河作戦を再開させた[175][177]。ロンメルは工兵たちに叱咤激励しながら自らも川の中に飛び込んで角材やロープを運んで舟橋建設を手伝った[137][178]。架橋材料を使い果たすとロンメルは同じ第15装甲軍団に属する第5装甲師団から資材を盗んでいる。第5装甲師団長はロンメルに返却を求めたが、ロンメルは「我々が最初に渡河するのだ」と言って聞かなかったという[165][179]

第7装甲師団は多くの死傷者を出しながらも5月13日中にはレフェに架橋することに成功し、戦車のムーズ川渡河を成功させた[180][181]

オナイユで負傷

5月14日早朝、すでに渡河していた30両の戦車だけでディナンの西約5キロの(オナイユ)(フランス語版)へ進撃を開始した[182]。これによりフランス軍が対応を決定するより早く部隊を浸透させることに成功した[165]

ところがオナイユ近くでロンメルの搭乗するIII号指揮戦車が対戦車砲を食らって坂から転がり落ちた。ロンメルは何とか脱出したが、顔を負傷した[180][183][184]フランス植民地から連れてこられた有色人兵士たちが、ロンメルを捕虜にしようと接近してきたが、隷下の(カール・ローテンブルク)(英語版)大佐率いる第25装甲連隊がこれを蹴散らしてロンメルを救出した[180]。ロンメルは自分の戦車がやられたのは移動しながら攻撃をしなかったためだと考え、改めて師団の各戦車に「敵と遭遇しても停止せずに砲弾を撃ちながら強行突破せよ」と命じた[184]。転倒したIII号指揮戦車は動かなくなったため、ロンメルはローテンブルク大佐の搭乗するIV号戦車に同乗するようになった[185]

(フランス軍第9軍)(フランス語版)司令官アンドレ・ジョルジュ・コラー中将はロンメルの第7装甲師団のこのオナイユへの進軍とハインツ・グデーリアンの装甲軍団のスダンでの渡河成功を恐れ、ムーズ川の防衛線を放棄してさらに西へ退却する事を命じた[186]

停止命令を無視して進軍

ロンメルの師団は(フラヴィオン)(フランス語版)重戦車ルノーB1の燃料切れで停止していたフランス軍第1機甲師団と戦闘した後、ここを後続の第5装甲師団に任せて、フィリップヴィルへ進撃した[168][187]

しかし5月16日にA軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将は先頭に立って進軍する装甲師団が突出しすぎていると判断して装甲師団に進軍停止を命じた。ヒトラーもそれに同意し、5月17日の総統命令で装甲師団の進軍停止を命じた。しかしロンメルはそれでは心理戦である電撃戦の効果が薄れると考え、ヒトラーやルントシュテットの命令を無視して進軍を続けた[188]。命令無視は本来は軍法会議にかけられるべきであるが、ヒトラーはロンメルを目覚ましい活躍をした装甲師団長として英雄化することを考えていたのでロンメルがこの命令無視によって何か処分を受けることはなかった[171]

ロンメルは(クルト・ヘッセ)大佐に「この戦争では指揮官の位置は第一線だ。私は椅子に腰かけている連中が出す戦略など信じない。今はザイトリッツツィーテンの時代と同じだ。我々は戦車をかつての騎兵とおなじように考えねばならない。かつて将軍たちが馬上で命令を下したように、今は移動する戦車の上で命令を下さねばならない。」と語っている[189]

マジノ線延長部分突破

 
点線の部分がマジノ線延長部分

ロンメルの師団は5月16日午後6時頃にベルギーとフランスの国境を超えて、フランス領へ突入した[190]

その30分後、フランスの国境要塞地帯マジノ線延長部分と遭遇した[191]。これはマジノ線そのものではなく、フランスが防衛線を西方にも延長しようとしてマジノ線から分離して作った物である[192]。ただロンメルを含めてドイツ軍側は区別せず、まとめて「マジノ線」と呼んでいた[192]。マジノ線延長部分はマジノ線と比べれば貧弱な防衛線であった。それでも頑強なトーチカと砲台と有刺鉄線地雷原で固められていた[190]

ロンメルは砲兵に激しい砲火を撃たせてマジノ線延長部分の各所に煙幕を張り、フランス軍を攪乱している間に工兵の火炎放射器爆薬でトーチカを破壊していった。火に照らされる明るい隙間となったその部分に戦車が砲撃しながら前進して強引に突破した[193][194](ソール・ル・シャトー)(フランス語版)(サール・ポトリ)(フランス語版)(スムージー)(フランス語版)を一気に通過してマジノ線延長部分を突破した[193]

マジノ線延長部分がロンメルの師団の攻撃で受けた損害は微々たるものだったが、凄まじい勢いで進軍するロンメルの師団にフランス軍はパニックを起こして、戦わずして次々と投降した[195]。マジノ線延長部分の突破で第7装甲師団が被った損害は戦死者35名、負傷者59名だけだった。戦果はフランス兵捕虜約1万人、戦車約100両、装甲車30両、大砲20門の鹵獲であった[196]

進軍の一時停止

ロンメルの師団は5月17日午前0時にアヴェーヌに到着、ついで午前6時にはサンブル川沿いの(ランドルシー)(フランス語版)に到着、さらに午前6時30分にはル・カトー東部の高地へ進軍した[191]。途中避難民と西へ撤退するフランス兵で道が大混雑していた[197]。フランス兵の大半はロンメルの師団が横を通過しても抵抗することはなく、おとなしく捕虜となった[198]。ロンメルは捕虜にしたフランス兵に対しては武装解除だけして自分で東の捕虜収容所に向かうよう指示した[198]

進軍中ロンメルは、第7装甲師団の全部隊が後ろから続いていると思っていたが[197]、ロンメルはじめ師団の先鋒がル・カトー東部の高地に到着した時、師団の主力はまだベルギーにいた[199][200]。師団主力はロンメル初め師団先頭部隊と連絡が取れなくなっており、師団参謀(オットー・ハイドケンパー)少佐がロンメル少将もローテンブルク大佐も戦死したとみなしたためだった。ロンメルは後に手紙の中で「私はできる限り早く奴を追い出してやる。この若い少佐参謀は第一線から32キロも後方にいながら自分と参謀本部要員が危険な目に合うのではと恐れていた」と激怒している[199]。ロンメルの手元にいたのは二個装甲大隊とオートバイ狙撃兵数個小隊だけだった[200][201]。これらの部隊はすでに弾薬や燃料を使い果たしていた[200]。軍司令部から「アヴェーヌで進軍を停止せよ」との命令が届いたこともあり(すでにアヴェーヌを超えてル・カトー東部にいたが)、ロンメルはやむなくル・カトー東部でしばらく停止することにした[200][201][202][203]

ル・カトーのフランス軍から攻撃を受けたが、ローテンブルク大佐に防衛を任せて、ロンメルは装甲車に搭乗して後続の部隊を誘導するために一度アヴェーヌまで戻った[201][204]。午後4時頃にアヴェーヌで第7装甲師団の主力と合流し、さらにフランス軍から40両のトラックを鹵獲した[196][205]

翌5月18日昼に前線のローテンブルク大佐たちと合流した[206]。補給と修理を済ませて午後3時に進軍が再開された[171][206][207]。抵抗を受けることなくカンブレーを占領したが、ここで再び進軍停止を命じられた。西方へ向けて進撃するハインツ・グデーリアンゲオルク=ハンス・ラインハルトの装甲軍団の側面を歩兵部隊の到着まで右翼のホト第15装甲軍団(ロンメルの師団はこの隷下)がベルギー・北フランスの連合国主力の攻撃から守ることになったのである[208]。ロンメルの師団はこの時間を補給と兵の休息に利用した[208]

アラスの戦い

ヒトラーは5月19日に進軍停止命令を解除し、グデーリアンとラインハルトの装甲軍団以外の装甲部隊も西方進撃を再開することになった[171]

第7装甲師団は5月20日にアラスへの攻撃を開始した[209]。しかし先陣の装甲部隊と後続の歩兵部隊の間にフランス軍が介入したため、まずその対処にあたらねばならなかった[209]。同日にグデーリアンの装甲軍団が英仏海峡に面するアブヴィルに到達し、ベルギー・北フランスにいる連合国主力を孤立させることに成功した[210]イギリス海外派遣軍司令官第6代ゴート子爵ジョン・ヴェレカー大将はこの封鎖の突破を図るため、5月21日午後にロンメルの師団や武装親衛隊髑髏師団が展開するアラス方面に攻勢をかけさせた[210][211]

この時、第7装甲師団は髑髏師団と共にアラス南西を北へ旋回して進軍していたところだったため、イギリス軍に右側面をつかれる形となった[210]。イギリス軍の戦力の中で最も厄介だったのはマチルダII歩兵戦車だった。マチルダの重装甲はロンメルの師団の3.7センチ対戦車砲をことごとく弾き返し、砲兵の砲弾さえもはね返した[212][213][214]。師団は88ミリ高射砲を対戦車砲として使用することでマチルダに対抗した[214][215][216]。さらにドイツ空軍急降下爆撃機シュトゥーカによる攻撃を受けてイギリス軍はようやく攻勢を諦めて撤退した[215]

しかしこの戦いで師団はかなりの損害を受けた。戦死と捕虜で250名を失い[217]、ロンメルの副官モスト中尉もこの戦いで戦死した[212][218]。IV号戦車3両、38(t)戦車6両[# 4]、軽戦車多数を失った[215][219]

ダンケルク包囲

 
1940年5月。部下たちと共に地図を見る第7装甲師団長ロンメル少将。

5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回してベテューヌまで前進し、同地のイギリス軍をその先にある運河線の向こうまで後退させた[220]

しかしながらこの直後の5月23日に第4軍司令官クルーゲより全装甲師団に対して歩兵師団が追いつくまで進軍を停止するよう命令があった。ヒトラーもこの判断を妥当として、5月24日に全装甲師団に対してダンケルクへの進軍停止命令を下した[221]。北部で孤立している連合国への攻撃はドイツ空軍の爆撃によって行うこととなった[222]

これはすでにベルギー・北フランスの連合国主力に対する包囲は完成していたので、来る南フランスへの進撃に備えて装甲師団を温存した方がいいという判断であったと思われる[219]。またドイツ空軍司令官ヘルマン・ゲーリングに花を持たせる判断もあったかもしれない[223]。さらにアラスの戦いがクルーゲやクライストに深い衝撃を与え、彼らを慎重にさせており、その意見を容れたルントシュテットがヒトラーに進言した結果でもあると思われる[213]。その意味においてはロンメルにも責任があった。ロンメルは自分の戦功を大きく見せかけるためか、アラスの戦いのイギリス軍の戦力を実際の2倍以上の「5個師団・戦車100両」などと報告しているからである[221]

いずれにしてもこの装甲師団停止命令によってロンメルの師団は5月26日まで停止してダンケルクの包囲の一翼を担った。しかしこの装甲師団の停止命令によって、5月26日から6月3日にかけて英仏軍30万人以上にダンケルクから大ブリテン島ドーヴァーへの撤退(ダンケルクの撤退)を許した[213][224]。5月24日からの2日間で英仏軍はダンケルクを防衛する配備を整え、5月26日の段階ではすでにダンケルクの撤退を阻止することは不可能となっていたのである[213]

ロンメルはこの停止期間中、師団の受けた損害の回復や補給にあたった[220][225]。5月26日にヒトラーの意向でロンメルは騎士鉄十字章を受章した[219]。ロンメルは対フランス戦で最初に騎士鉄十字章を授与された師団長となった[226]

また同日ヒトラーが進軍停止命令を解除した[219][226]。連合国主力の包囲の一翼を担うため第7装甲師団はリールへ向けて北進するよう命じられた[227]。進軍停止命令が解除されると第7装甲師団は(キャンシー)(フランス語版)から運河を渡河し、激しい抵抗を退けながらリールとその西方(エンヌティエール)(フランス語版)間の道路を抑えることに成功した[228]。これにより海の方へ向かう退路を断ち、フランス第一軍の半分近くの将兵を補足することに寄与した[229][230][231]。その後歩兵師団が到着し、リールを占領した[229]

ヒトラーと対面

5月29日にロンメルの師団はアラス西方に戻って休息に入るよう命じられた[217]

ロンメルは6月2日シャルルヴィレに召集され、ヒトラーと面会した[231]。召集されたのは軍司令官や軍団長ばかりであり、師団長クラスで召集されたのはロンメルだけだった[222][232]。ヒトラーはロンメルに「君が攻撃している間、君が無事かどうかずっと心配だったよ」と述べている[232][233][234]

この日、ヒトラーは召集した将軍たちに6月5日に攻撃を再開してフランスに止めを刺すことを通達した[232]

6月4日にダンケルクの撤退が完了し、ベルギー・北フランスの英仏軍は消えたのでドイツ軍にとって後は南へ向けて進軍するのみとなった[231]。なおベルギー軍国王レオポルド3世の決定により5月28日に降伏して武装解除を受けていた(ただベルギー政府は降伏を拒否し、国王大権剥奪決議を行っている)[235]

セーヌ川まで南進

 
草原に座り込んで即席の会議を行う第7装甲師団長ロンメル少将。左から二人目が第7装甲師団の主力である第25装甲連隊の隊長カール・ローテンブルク大佐。

6月5日朝に敵が爆破し損ねた橋を渡ってソンム川を渡河した[232][236]。川の渡河を妨害する敵砲兵隊の陣地を慎重に落としていき、同地に配備されていた大量のフランス植民地兵を捕虜にした[232]

ソンム川を突破した後、ロンメルは彼が「フレーヒェンマルシュ(広域進撃)」と名付けた陣形で前進した。これは全師団を幅1.5キロ、長さ20キロに及ぶ箱形陣形にし、正面と両脇に装甲大隊を置き、後方に装甲大隊と偵察大隊を置き、中央には歩兵連隊を置くという陣形である[232][237]。この陣形は外側にいる装甲大隊がいつでも全兵種の支援を受けられるため攻撃を受けた時に反撃しやすい利点があった[238]。欠点は進軍スピードが落ちることだが、ソンム川南方・西方のようにゆるやかな起伏が続く平坦な地形においてはそちらの方が有効であった[232][239]

ロンメルの師団は順調に快進撃を続け、6月7日には48キロ以上進軍し、アミアンから海岸に至る地域を防衛していたフランス第10軍を分断した[240]。6月8日にはさらに72キロも進撃した[241]

この頃には連合軍は至るところで崩壊していた[236]。ロンメルの師団も、大ブリテン島へ逃げ帰るために英仏海峡の方へ逃れようとするイギリス軍としばしば遭遇したが、すでに彼らの指揮系統は崩壊状態であったので大した戦闘にもならなかった[242]。テュロワで捕虜にしたイギリス軍のトラックからはテニスラケットゴルフクラブまで出てきたのでロンメルは「イギリス軍はこの戦争がまさかこんな結果になるとは思ってもいなかったのだな」と言って笑ったという[243]

6月8日真夜中にルーアン南方のセーヌ川に到達した[243][244]。セーヌ川への到達は全ドイツ軍でロンメルの師団が一番乗りだった[243](エルブフ)(フランス語版)の橋から一気にセーヌ川を渡河しようとしたが、フランス軍がひと足早くセーヌ川にかかる全ての橋を爆破したために失敗した。ロンメルの師団は突出しすぎており、背後にはまだ敵が残っている都市がたくさんあった。またルーアン上空に観測用気球があげられたため、ロンメルの師団はエルブフ付近の川がくねって半島のようになっている地域から一時撤退することにした[243][245]

英仏海峡沿岸での戦い

セーヌ川渡河に失敗した直後、ロンメルの師団は国防軍最高司令部より英仏海峡に面する港町(サン・バレリー)(フランス語版)を占領してイギリス軍(第51歩兵師団「ハイランド」)(英語版)が大ブリテン島に撤収するのを阻止する任務を与えられた[224]

進路を変えて北上し、(イヴト)(フランス語版)を通過して6月10日には英仏海峡に到達した。ロンメルの師団が英仏海峡に到達したのはこれが初めてだったので兵士たちは感動した様子で海水に足をいれて歩き回って楽しんだ。ローテンブルク大佐は搭乗する戦車を海水に乗り入れたという。ロンメルも軍靴を海岸の海水に付けてしばし余韻に浸った[245]

6月11日にサン・バレリーに接近して同市を包囲した。同市では英仏軍が大ブリテン島へ撤収するための船舶を待っていた。ロンメルは無駄な流血を避けるため、ドイツ語を話せる捕虜を使者に立てて同市の守備隊に21時までに降伏すべきことを勧告した[246][247][248]。守備隊のうちフランス軍将校は降伏したがっていたが、イギリス軍将校は降伏に反対する者が多く、結局この勧告を拒否することになった[246]。やむなくロンメルは21時から同市の北部や港に集中砲火を浴びせた[238][248]。さらにドイツ空軍の急降下爆撃機が激しい爆撃を行った[246]

英仏兵は次々と投降し、ついに英軍将校たちも抵抗を諦めた。ロンメルの師団は将官12人と1万2000人(他の師団の捕虜も含めるとサン・バレリーの捕虜数は4万6000人)の捕虜を獲得した[242][249][250]。その中にはイギリス軍ハイランド師団長(ヴィクター・フォーチューン)(英語版)少将とフランス軍の軍団長と3個師団の師団長たちが含まれていた[250][251]。フォーチューン少将はロンメルのような若造に捕虜にされてしまったことに屈辱を感じていたようで露骨に態度でそれを示した[246]。フランス軍の将軍たちはもう少し好意的だった。彼らはロンメルに「お若いの、君はあまりに速すぎました」「私たちは貴方たちの事を幽霊師団と呼んでいたんですよ」などと声をかけたという[252]

ロンメルの師団は英仏海峡沿いにさらに西進して6月14日にはル・アーブルを占領した。同市のフランス軍はすぐにも降伏している[242]。ちなみに同日には「無防備都市宣言」をしていたパリがドイツ軍第218歩兵師団によって無血占領されている[242][253]

シェルブールへ進撃

ヒトラーからシェルブール占領の命令を受けたロンメルの師団は6月16日ルーアンにドイツ軍が架橋した橋を通過してセーヌ川を超えて進軍を開始した[252]。一方同日にフランス大統領アルベール・ルブランフィリップ・ペタン元帥をフランス首相に任命し、ペタンは中立国スペインを通じてヒトラーに休戦要請を行っている[254][255]

これを聞いたロンメルはフランス軍の戦意はもはやガタ落ちであろうからほとんど抵抗もあるまいと考え、「フレーヒェンマルシュ」陣形を解除して再び全速力で進軍できる縦列の陣形に戻した[255]。予想通り、抵抗はほとんどなかったため、ロンメルの師団は6月16日には160キロ、6月17日には320キロ以上も駆け抜けた[252][256]。戦車がこれだけの走行に耐えたことが不思議なぐらいの前代未聞の大進軍であった[252]

(フレール)(フランス語版)クータンスを経て、そこから北上して6月17日真夜中には(ラ・アイユ=デュ=ピュイ)(フランス語版)に到着[257]。しかしそこからシェルブールへ向かおうとした時に道路要塞から激しい砲火を浴びた[257]。長距離の進軍に師団は疲れ切っていたので、ロンメルは砲兵や戦車の支援も無しに夜間に無理な進軍を行うのは止めた方がいいと判断し、ラ・アイユ=デュ=ピュイへ後退した[258]6月18日朝から要塞への攻撃を開始し、午前8時頃には早々に敵を後退させてシェルブールへの進撃を再開した[259][260]

6月18日午後1時頃にはシェルブール南西4.8キロほどのところのシェルブールを防衛する道路要塞から激しい砲撃を受けたが、午後5時頃にはシェルブール西の(ケルクヴィル)(フランス語版)南部の高地を占領し、歩兵連隊と二個装甲中隊がシェルブール郊外に突入した[260]。その日の夜のうちに師団の砲兵連隊が到着したので、翌6月19日朝にシェルブール要塞や海軍ドックに砲撃を加え、要塞の中で最も厄介だった中央要塞を沈黙させた[261]。歩兵部隊は更に郊外深くに侵入した[260]

激しい砲撃に耐えかねたシェルブールのフランス軍はついに午後5時に降伏した[262][263][264]。シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした[263][264]。シェルブール戦終了を以って西方電撃戦におけるロンメルの師団の戦闘は終わった。

フランス降伏

ヒトラーは一次大戦におけるドイツの雪辱を果たすため、独仏の休戦交渉の場を、一次大戦でドイツが屈辱的な休戦協定に調印させられた場所であるコンピエーニュの森列車(この列車はフランスの一次大戦戦勝記念としてパリに飾られていた。ドイツ軍パリ占領後にドイツに鹵獲された)の中とした。6月21日からここで独仏の休戦交渉が開始された。ドイツ側の過酷な要求にフランス側が調印を渋り、その日はまとまらなかったが、翌6月22日にドイツ側から「調印しないならば戦争続行」と脅迫されたため、フランス側はついに要求を受諾して独仏休戦協定を締結した[265]

しかし休戦協定調印の前後、ロンメルの師団はどんどん南進していた。6月21日にはレンヌを通過し、6月25日にはボルドーを占領した。更に師団の先遣隊はスペイン国境付近まで進んだ。とはいってもこの進軍に戦闘は発生しなかった。単に占領の既成事実化を図るための進軍であった[266]

ロンメルの師団の戦果と損害、またその評価

 
1940年6月、ドイツ軍占領下フランス・パリで行われた戦勝パレードに出席したロンメル少将。

西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団の戦果は、捕虜9万7000人の他、鹵獲兵器として戦車・装甲車458両、各種砲277門、対戦車砲64門、トラック4000両から5000両、乗用車1500両から2000両、馬車1500両から2000両、バス300両から400両、オートバイ300台から400台がある[267]。また敵航空機を52機撃墜し、うち12機を地上で鹵獲している[268]。師団の進軍スピードが速すぎたため、正確に数えられていないが、鹵獲兵器についてはこの数字よりもっと多かったといわれる[268]

一方で西方電撃戦を通じてロンメルの第7装甲師団が出した損害は、628名の戦死、296名の行方不明、戦車42両の喪失であった[256]

第7機甲師団の人的損害は他の師団より多い。ドイツ軍は西方電撃戦で4万9000人の戦死者・行方不明者を出しており、これを単純にドイツ軍135師団で割ると1個師団の平均の戦死者・行方不明者は363人になるが[269]、ロンメルの師団は戦死・行方不明者が924人も出ている。ただしこれについてはロンメルの師団は常に電撃戦の先陣を切って戦っていたことを考慮せねばならない[256]。戦果と比較すれば損害は少なかったといえる[268][269]

ロンメルの評価は賛否両論だった。概してナチ党政権からの評価は高かったが、軍部からの評価は低かった[270][271]

西方電撃戦中、ロンメルは何度も命令を無視して独断行動を取った。それらはすべて成功したとはいえ、上官たちからは当然不興を買っていた[270]。またロンメルが「ヒトラー子飼いの将軍」と看做されていたことも煙たがられる原因だった[272]。参謀本部総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを「命令無視ばかりの気が狂った将軍」と酷評した[270]。ロンメルの上官である第15軍団長ヘルマン・ホト大将はロンメルについて「機甲師団に新たな道を開いた。特に前線に立とうという意欲とテンポの速い戦闘でも決定的なポイントを察知する彼の天性の素質は称賛に値する」と評価する一方[270][273]、ロンメルが軍団長になるには「もっとたくさんの経験と、より優れた判断力が必要だ」と注文を付けた[179][271]。またホトや第4軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ上級大将は「ロンメルは自分の勝利に他の者が寄与していることを認めたがらない」と批判している。ロンメルは著書の中で彼の師団の左側から進軍した(第32歩兵師団)(ドイツ語版)を実際よりずっと進軍が遅かったかのように書いたり、またドイツ空軍の功績にほとんど触れていなかったり、確かにそうした面が多々見られた[179][271]

フランス戦後、しばしの平穏

1940年夏を通じてロンメルの師団は来る(と思われていた)イギリス本土上陸作戦に備えた訓練にあたっていた[274]。とはいえ英本土上陸にはまずドイツ空軍が英本土の制空権を握る必要があり、陸軍はそれまでは出番無しなので比較的のんびり過ごすことになった。ロンメルは勤務時間外には狩猟をしたり、戦後に出版しようと考えていた第7装甲師団の戦史書の草稿の執筆にあたっていた[275]

またこの頃、宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスから映画『西方における勝利』の撮影に協力してほしいと要請された。ロンメルは承諾して1940年8月中に数日を費やしてこの撮影に参加した[276]。その際にロンメルは事実上の映画監督となり、部下やフランス植民地黒人兵たち(捕虜収容所から連れて来られた)に演技指導をしていた。ずいぶん楽しかったらしく、こだわりの演技指導をしていた。ロンメルの戦車部隊が敵陣に突入するシーンの撮影で、ロンメルは黒人たちに両手をあげて怯えた表情で戦車に向かってくるよう指示したが、黒人たちはオーバーな演技をして白目をむいて悲鳴をあげた。これに不満を感じたロンメルはカメラを止めさせ、通訳を通して黒人たちに「感情を表現するにはもっと微妙な表現方法を取らなければならない」などと説教していたという[274]

1941年1月1日には中将に昇進した[22][277]。さらに2月には映画『西方における勝利』が公開された[277][278]。この映画の公開によりロンメルは銀幕のスターになった[270]

北アフリカ戦線

ドイツアフリカ軍団長に就任

 
1942年春のロンメル上級大将

1941年2月にロンメルはドイツアフリカ軍団の軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。

まず北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中は酷暑であり、夜は厳寒である(真夏の日中には気温が60度近くになるが[279]、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる[280])。しかも夏だけ長く、他の季節は短い[280]。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る[279]脱水症状熱中症赤痢皮膚病などになる者が多く、また砂塵眼病になる者も多い(防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる)[281]。加えて砂は兵器類や通信機器類の機能低下や故障も招く。砂嵐の場合はより地獄である。砂嵐にはジャミングに似た効果があり、通信機能がマヒする[280]

砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程が極めて重要な要素である[282]。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である[283]。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる[279]。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった[279]

砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給は最優先課題であり、オアシスの争奪戦によって命運が決することもある[279]。広大な砂漠を戦車が走り回るために燃料の補給も重要である。兵站拠点となる場所が少ない砂漠戦は海上戦と似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気に後退しなければならなくなる[284]。砂漠戦では補給がままならないので敵からの鹵獲兵器が重要である。1942年6月にロンメルは「我が軍の非常に多くの車両が英軍からの鹵獲品である。すでに遠くからは英軍と見分けがつかなくなってしまった」と書いている[285]。ロンメルと彼の幕僚も北アフリカ戦において英軍のドチェスター装甲車に搭乗して指揮を執っていた[285]。もちろん英米側もドイツ軍の兵器を鹵獲して使用している[285]

しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍と英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍はその分戦術でカバーしなければならなかった。戦術面では当時の英米軍は杜撰な面が多く、歴戦のドイツ軍の方が明らかに勝っていた[286]。ロンメルは迂回戦術[# 5]と(一翼包囲)戦術[# 6]を駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ、「砂漠の狐」(: Desert Fox)の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量と兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団は敗北を重ね、ついには北アフリカを放棄することとなる[287]

しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「騎士道の残った戦場」として記憶している者が多い[288]。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった[289]。アフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペンが付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった[289]。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った[288][290]。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである[290][291]。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。ガザラの戦いの際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している[289]

イタリアが北アフリカに戦線を開いて惨敗

イタリア19世紀末から地中海の覇者を目指していたが、その要所となる島や町、アフリカの領土などはすべて英仏に奪われた過去があった[292]。イタリア統領ベニート・ムッソリーニはイギリスが本土防衛で手いっぱいな今こそ、エジプト王国(名目上独立国だったが、事実上イギリスの軍事支配下にあった)をイギリスから奪うチャンスと見た[292]

1940年9月12日イタリア領リビアキレナイカ地方からロドルフォ・グラツィアーニ元帥率いるイタリア軍がエジプトへ侵攻した[293]。ヒトラーはドイツ軍一個機甲師団を応援に送ると申し出たが、ムッソリーニはこれを拒否した[293]。ムッソリーニは「ドイツには頼らない。これはドイツのための戦いではない。ドイツと肩を並べるイタリアのための戦いだ」と豪語した[294]。さらにムッソリーニは軍部の反対を押し切り、ドイツにも独断で10月28日にアルバニア(1939年にイタリアが占領しイタリア王がアルバニア王に即位して同君連合を結んでいた)からギリシャに侵攻を開始した[295]。しかし侵攻に動員されたアルバニア駐留軍では兵力が不足していることから本国で召集して急編成された部隊の錬度は低く、また険しい山岳地帯の多いギリシャの地形を考慮した準備も十分になされていないなど、侵攻計画は杜撰なものであり、ゲリラ戦法を採るギリシャ軍の前に進軍は遅々として進まなかった。さらに、イタリア軍部隊の兵力不足から編成したアルバニア人部隊の質は劣悪であり、侵攻部隊は不足する兵力を割いてアルバニア軍の監督や不良部隊の武装解除にまで当たらなければならず、侵攻は頓挫することになる。こうして侵攻から半月後の11月15日にはギリシャ軍が全戦線で攻勢に転じ、12月4日には逆にギリシャ軍がアルバニア領へ侵攻を開始した[296]。ムッソリーニは、セバスティアーノ・ヴィスコンティ・プラスカ将軍を罷免し、軍の増派を決定するが、その後数ヶ月に渡って泥沼の山岳戦を継続する結果を招き、その間に本来得られた増援戦力を得られなかったエジプト侵攻軍は壊滅することになる。

エジプトの英軍は、イタリアのギリシャ侵攻までは守勢に立っていたが[297]、ギリシャに増援を送ってイタリア軍をギリシャ戦に釘付けにするとともに、12月9日には「コンパス作戦」を発動し、大英帝国植民地から集めた部隊を含む3個師団(9万人)でもってイタリア軍3個軍団(25万人)を壊滅に近い状態に追いやった。この結果、イタリア領であったリビアにまで英軍の侵攻を許すことになり、ついにはキレナイカ地方全域が英軍に占領されてしまった[298]。こうしてムッソリーニは、同盟国ドイツに対して北アフリカおよびギリシャにおける支援を要請することとなる[294][299]

ドイツ・アフリカ軍団長に就任

ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。ヒトラーは「北アフリカの喪失は軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスはイタリアに拳銃を突きつけて講和を結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べている[298][300]。1940年12月13日にヒトラーはギリシャのイタリア軍を救出するための「マリータ作戦」を発令し[301]、ついで1941年1月11日には地中海のイタリア軍支援のための「ゾネンブルーメ作戦(ひまわり作戦)」を発動した[302]

これにより(ハンス・フォン・フンク)(ドイツ語版)少将を指揮官とする「リビア阻止隊」(まもなく増強を受けて「第5軽師団」と改名された)が創設された。まず彼らが北アフリカに派遣されたが、フンクは1月25日のヒトラーへの報告書の中で今の戦力では北アフリカの戦況は変えられないと断言した[303]。またフンクはその1週間後にヒトラーの下に参じてイタリア軍の深刻な域に達しているデタラメぶりを報告した[303][304]。ヒトラーは更に1個機甲師団を北アフリカに派遣することを決定し、その2つの師団を統括する軍団の指揮官としてロンメルを選んだ[305][306][307]

1941年2月5日にヴィーナー・ノイシュタットの自宅にいたロンメルはヒトラーの召集を受けて2月6日にベルリンに飛び、「リビア駐屯ドイツ軍部隊」司令官に任じられた[308]。この部隊は2月25日付けで「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps、略称:DAK)という戦史に名を残す名前に改名された[309][310]

アフリカ軍団は第5軽師団(のちに(第21装甲師団)(ドイツ語版)に改組)と(第15装甲師団)(ドイツ語版)の2個師団から成る[311]。両師団とも戦車の数は150台程度にすぎない[311]。あとはイタリア軍から一部の部隊の指揮を任されているというだけだった[312]。後の戦果が信じられぬほどアフリカ軍団は貧弱な戦力であった[311]

なおアフリカ軍団は名目上イタリア軍北アフリカ派遣軍の指揮下に入ることとなっていたが、ロンメルは国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥から「ドイツ軍は(ドイツにとって)無意味な戦闘には投入されないものとする」との命令書を受けていたので自分に一定の裁量権があるものと理解していた[305][313]

北アフリカ到着

 
1941年2月、イタリア植民地リビアトリポリ。イタリア軍将校に挨拶するドイツアフリカ軍団長ロンメル中将。ロンメルの左にいる同伴者はイタリア北アフリカ派遣軍司令官イータロ・ガリボルディ大将。

1941年2月12日昼にロンメルは北アフリカ・リビアのトリポリ空港に降り立った[311][314][315]。しかし戦車の輸送は困難であり、アフリカ軍団の戦車部隊が最初に到着したのは3月11日、第15装甲師団は5月にならねば到着しなかった[311]

ロンメルはただちにイタリア北アフリカ派遣軍司令官イータロ・ガリボルディ大将(解任されたグラツィアーニ元帥の後任)と会談した。この時英軍は(エル・アゲイラ)(英語版)で停止していたが、更に西進してくると思われた[311]。ガリボルディ将軍はトリポリ近くに防衛線を築く事を希望したが、ロンメルはエル・アゲイラ西方300キロのシルテに陣を置いて英軍に攻勢をかけることを希望した。ロンメルはベルリンとローマにシルテへの進軍を認めさせた[315]。シルテにイタリア軍2個歩兵師団と戦車師団を派遣し、ここに陣地を作らせた[311]。2月14日にドイツ軍の偵察大隊と砲兵部隊がトリポリに到着した。トラック、装甲車、大砲など6000トンの揚げ降ろしを夜通しで行わせ、彼らもシルテへ急行させた。とはいえ戦車はまだ到着しなかったので、ロンメルはフォルクスワーゲンの車に細工して偽装戦車を作らせている[316][317][318]

2月17日には英軍の動きが活発になり、エル・アゲイラから若干の西進を開始した。独伊軍も活発になったと見せかけるため、ロンメルはシルテの独伊軍に若干の東進を命じた。2月24日になって初めて英独で小規模な小競り合いが発生したが英軍はすぐに撤退した[319]。ロンメルが感じたのは英軍は予想より脆弱で前進の意思がないということだった[311][320]。実はエル・アゲイラの英軍はウィンストン・チャーチルの要望でギリシャに兵力を割かれていたため、弱体化していた[321][322]。加えてリチャード・オコーナー中将がエジプト司令官に栄転し、砂漠戦に不慣れな(フィリップ・ニーム)(英語版)中将がキレナイカ駐留英軍の司令官に就任していた[311]。また英軍側の北アフリカ戦線責任者である英軍中東軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将はドイツ軍の集中状況から見て5月以前にドイツ軍が攻勢に出てくることはなかろうと判断していた[311]

進軍を禁じられる

1941年3月11日から第5装甲連隊(第5軽師団隷下の唯一の機甲連隊)の戦車が徐々にトリポリに揚陸され始めた[323]。ロンメルはエル・アゲイラを攻撃する準備を命じてから3月19日にベルリンへ飛び、翌20日にヒトラーに報告を行った。ヒトラーはまずロンメルがかねてから欲しがっていた(騎士鉄十字章の柏葉章)を授与した[324]。この柏葉章を授与されるのはロンメルで10人目だった[325]

しかしロンメルが求めたエル・アゲイラ攻略やアフリカ軍団増強は認められなかった。参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はロンメルを嫌っていたのでロンメルの甘言に乗らぬようヒトラーに強く進言していた。またそもそも独ソ戦の準備を進めていたヒトラーや軍部にアフリカに余分な戦力を裂く余裕はなかった[326]。ヒトラーや軍部にとって北アフリカ戦線は主戦場ではなく、イタリア軍を元気づけて英軍を「軽くいなしておく」だけの場所だった[325]。結局エル・アゲイラ攻撃は5月に第15装甲師団が到着するまで待てと命じられた[311]

命令無視の進軍でキレナイカ地方奪還

 
1941年の北アフリカ戦線の地図。
 
1941年4月、砂漠を前進するロンメル軍団のIII号戦車

しかしロンメルはそのような命令に従う気にはなれなかった。英軍の戦力が分散して弱体化している今こそキレナイカ地方奪還の好機だった。1941年3月24日早朝にロンメルは「攻撃ではなく偵察」として戦車や装甲車を率いてエル・アゲイラに進軍した[311][327]。驚いたエル・アゲイラの英軍は、ほとんど戦闘すること無く約50キロ後方の(メルサ・エル・ブレガ)ヘ撤退した[328]。ロンメルはそのままエル・アゲイラを占領したが、総統命令もあり、さすがにこれ以上の進軍はためらった。ロンメルは1週間ほどエル・アゲイラに留まったが、その間、英軍の無線を傍受し、英軍が陣地の強化や兵力の増強を開始した事を知った。ロンメルはやはり5月まで待つことはできないと確信した[329][330]

3月31日にロンメルは独断で第5軽師団主力を率いてメルサ・エル・ブレガに攻撃を開始し、イギリス軍の第3機甲旅団と第2機械化旅団と交戦した。夕方まで続く激戦の末、英軍はメルサ・エル・ブレガを放棄して撤退していった[329][331][332]。ロンメルは更に進撃を続け、4月1日にはメルサ・エル・ブレガの東80キロにあるキレナイカの交通の要衝(アジェダビア)村を英軍から奪取した[329][331][333]

4月2日、ロンメルの独断行動に激怒したガリボルディ将軍は進軍停止を命じたが、ロンメルはこれを無視して4月3日に兵力を3つに分けて3ルートから英軍の追撃を開始させた[331][334]。同日ガリボルディはアジェダビアの司令部にいるロンメルの下に怒鳴りこみに来たが、ロンメルはのらりくらりとかわした。その時、部下が国防軍最高司令部総長カイテル元帥からの電報の命令書をロンメルに届けた。そこには「ただちに進軍を停止しろ」と書いてあったが、ロンメルはガリボルディに向き直ると「総統が私に完全な行動の自由を認めた電報です」と大ぼらを吹いて話を打ち切った[335][336]。ロンメルは同日の妻への手紙で「トリポリやローマの上官もベルリンの面々も頭を抱えているに違いない。しかし私は敢えて全ての命令を無視して進軍する。チャンスは活かしきる必要がある。恐らく私の行動は(後になって)承認されるだろう」と書いている[337]。4月3日のうちに北ルートを向かった第3装甲偵察大隊が戦略的要衝である港町ベンガジを占領した。ロンメルも装甲車に乗って北ルート軍を追い、4月4日早朝にベンガジを通過した[338]

一方、4月3日にエジプト・カイロではキレナイカ英軍の不甲斐なさに激昂した英軍中東軍司令官ウェーヴェル大将がニーム中将を解任してオコーナー中将をキレナイカ英軍司令官に復帰させると命じていたが、オコーナーはこのような流動的戦況において司令官を挿げ替えるのは危険であるとして自分とニームの二人で当たるべきであると主張した。ウェーヴェルも了承して二人にキレナイカ防衛を任せた[337]。しかしあまりに電撃的に侵攻してくるロンメルの軍団を前にキレナイカの英軍司令官は次々と捕虜になっており[337]、オコーナー中将とニーム中将を乗せた車も4月6日夜に道に迷っていたところをロンメル軍団のオートバイ部隊に発見されて捕虜になってしまった[339]。キレナイカ英軍はいきなり総司令官を失い、指揮系統が滅茶苦茶になった[340]

ロンメルは英軍の補給拠点となっている「キレナイカの心臓」と呼ばれる(メキリ)(英語版)の占領を狙い[341]、三手に分けて進軍させている三部隊をメキリに結集させることにした[342]。4月7日にメキリは完全包囲された。ロンメルはメキリの英軍に降伏を勧告したが、英軍は降伏を拒否した。英軍は暗くなったのを見計らって強引な包囲突破を図ろうとしたがドイツ軍に阻まれて失敗し、英軍第2機甲師団長(ギャムビエ・ペリー)准将以下英軍将兵2000人が捕虜となった[343]。また英軍の物資や各種車両を大量に鹵獲した。ロンメルはその中に英軍の対ガス用ゴーグル(アイシールド)を見つけた。これをやたら気に入った彼は自分の将官帽に取り付けた。以降このゴーグルはロンメルのトレードマークとなった[344]

メキリを失った英軍は総崩れになり、トブルクを除くキレナイカ地方からの撤退を余儀なくされた[345]。英軍中東軍司令官ウェーヴェルが二カ月かかって占領したキレナイカをロンメルは10日間で奪い返した。英軍が進軍ルートに立てていた「ウェーヴェルの道(ウェーヴェルズ・ウェイ)」の看板はドイツ兵によって「ロンメルの道(ロンメルス・ヴェーク)」と書き替えられた[346]

トブルク包囲戦

 
トブルク防衛にあたるイギリス軍オーストラリア兵たち。

トブルクはキレナイカ東部の港町であり、戦略的要衝だった。ロンメルももちろんトブルク陥落を狙ったが、チャーチルはトブルクからの撤退は認めないとして同市の英軍に死守命令を下していた[347][348]。チャーチルの命令通り英軍は決死の覚悟で抵抗したため、ロンメル軍団の攻撃はことごとく失敗した[330]。ロンメル軍団は多くの損害を出し、北アフリカに到着したばかりだった第15装甲師団長(ハインリヒ・フォン・プリトヴィッツ・ウント・ガフロン)(ドイツ語版)少将もこの戦いで戦死した[349]

ロンメルは「イタリア軍が全く当てにならない。イタリア人はイギリス戦車を極度に恐れている。イギリス戦車をみると逃げだしてしまうのだ。まるで1917年の時を見ているようだ。」「私は師団長からも本当に共同作戦らしい協力を得ていないのだ。だから彼らのうち何人かを解任してほしいと要請しているところだ」と妻への手紙に書いている[350]

独断で進攻作戦を起こしておいてトブルク攻略に失敗して多くの損害を出したロンメルに参謀総長ハルダー上級大将は警戒を強めた。1941年4月25日に参謀次長フリードリヒ・パウルス中将を現地に派遣している[330]。ロンメルはパウルスを説得してトブルク再攻撃の許可を得た[351]。4月30日から5月1日にかけてパウルスの監視の下にトブルク攻撃が行われたが、この頃には英軍はトブルクを地雷原で固めきっており、ドイツ軍の進軍は阻止された[330]。パウルスは5月早々にはベルリンへ戻った。彼は「ドイツアフリカ軍団は補給に問題があり、エジプトが占領できるかは極めて疑問だ」「トブルク攻撃は陸軍総司令部の許可なしにやってはならないと命じるべきだ」と報告している[351]。その後もロンメルの軍団はトブルクに包囲だけを続け、その間ドイツ空軍が1000回にも及ぶという空爆を加えたが、1941年のうちには占領はできなかった。

ロンメルは険悪な関係になっていた第5軽師団師団長(ヨハネス・シュトライヒ)(英語版)少将を更迭し、代わりに5月20日より(ヨハン・フォン・ラーフェンシュタイン)(ドイツ語版)少将が師団長に着任した[352]

エジプトのハルファヤ峠占領と防衛

トブルク陥落は困難と判断したロンメルはトブルクを包囲させたまま、マクシミリアン・フォン・ヘルフ大佐を指揮官とするドイツ軍第5軽師団の先遣部隊「ヘルフ戦闘団」を東進させた。1941年4月末にヘルフ戦闘団はエジプト国境の戦略的要衝(戦車が通過できる場所だった)である(ハルファヤ峠)(英語版)(サルーム)(英語版)の英軍を撃退して占領し[353]、英軍の防衛ラインを(ブク=ブク)と(ソファフィ)の線まで後退させた[330]。これにより英軍がトブルク救援に向かおうと思えばまずハルファヤ峠とサルームを攻略せねばならなくなった[354]

この後ヘルフ戦闘団は英軍からハルファヤ峠を防衛するのに活躍した。5月15日に英軍中東軍司令官ウェーヴェルは「(ブレヴィティ作戦)(簡潔作戦)」を発動して攻勢をかけ、ハルファヤ峠を取り戻したが、ヘルフ戦闘団は英軍のそれ以上の進撃は阻止した。そして5月27日にヘルフ戦闘団が反撃に転じ、ハルファヤ峠の英軍を掃討して再占領している[355][356][357]

「バトルアクス作戦」を撃退

 
リビア・エジプト国境付近の地図

その後、エジプトの英軍は英本土からマチルダ歩兵戦車クルセーダー巡航戦車など238両の戦車の増援を受けて強化された[344]。チャーチルはウェーヴェルにこの戦力を使ってトブルクの包囲を解くための反撃作戦「バトルアクス作戦(戦斧作戦)」を開始するよう命じた。イギリス側はパウルスの報告書を傍受してエジプト国境のドイツ軍部隊が軽装備であることを掴んでいた[354][358]。しかしドイツ側も無線の傍受で英軍が攻勢をかけようとしている事を察知した。ロンメルはエジプト国境付近の防備を整えさせた[344][359]

英軍は第4機甲旅団と第7機甲旅団の南北二手に分かれて進軍し、1941年6月15日早朝からハルファヤ峠に攻撃を開始した[360]。アラスの戦いでも悩まされた重装甲戦車マチルダII歩兵戦車も動員されていたが、アラスの戦いの時と同様に88ミリ高射砲を対戦車砲として使うことでこれに対抗した[361]。88ミリ高射砲の存在を悟られぬように隠し、また指揮官ヴィルヘルム・バッハ少佐の88ミリ高射砲の適切な運用によりマチルダII歩兵戦車を午前中の戦闘で11両、午後の戦闘で17両も破壊することに成功した[362][363][364]。その後もハルファヤ峠のドイツ軍は88ミリ高射砲を最大の武器として峠を死守した。88ミリ高射砲の恐るべき火力に英軍はハルファヤ峠を「ヘルファイヤ(地獄の業火)峠」と呼んで恐れた[365]

英軍は頑強なハルファヤ峠を迂回し、サルーム西方(カプッツォ砦)(英語版)に40両のマチルダII歩兵戦車でもって襲撃をかけてきた。オートバイ部隊が早々に潰走させられたが、(ヨハネス・キュンメル)大尉(Johannes Kümmel)の指揮の下にIV号戦車2両と88ミリ高射砲1門だけでマチルダII歩兵戦車を9両も破壊し、英軍を敗走させている。キュンメル大尉はこの活躍で騎士鉄十字章柏葉章を受け、また「カプッツォの獅子」の異名を得た[366][367]

ロンメルは英軍の第4機甲旅団と第7機甲旅団がほとんど連携が取れていないことを見抜き、第5軽師団と第8装甲連隊を並行して進軍させ、英軍の二つの旅団の間隙を突破するよう命じた。第5軽師団と第8装甲連隊は10キロも離れていたため、まず両部隊は目前の敵と交戦を続けたが、徐々に移動を開始し、6月16日夕刻には(シジ・オマール)東に到着した。そして6月17日の夕方にはハルファヤ峠に展開する英軍の背後に回り込むことに成功した[368][369]。突然背後に敵部隊が出現したことで英軍はパニックを起こして総崩れとなった。6月17日午後にウェーヴェル大将が戦況視察に訪れたが、その時にはすでに英軍は敗走中であり、それを知った彼は愕然とした[369]

物量的には英軍が圧倒していたはずであった。またこの戦域は英空軍が制空権を握っており、英軍は航空支援をたくさん受けていた。にもかかわらず、3日間に及んだ英軍の反撃作戦「バトルアクス作戦」は完全なる失敗に終わった[358][369][370]。この作戦で英軍戦車は100両以上大破した。対してドイツ軍戦車はわずか12両が大破しただけだった[371]

ロンメルの評価高まる

ベルリンのヒトラーはロンメルの活躍を高く評価した。ヒトラーは1941年7月1日付けでロンメルを装甲大将に昇進させた[22][370][372]。一方ロンドンのチャーチルはウェーヴェルの無能を呪った。チャーチルは6月21日付けでウェーヴェルを中東方面軍司令官から解任し、代わって7月5日付けでクロード・オーキンレック大将を就任させた[373][374]

ロンメルは8月6日にローマに赴き、ムッソリーニやイタリア軍参謀総長ウーゴ・カヴァッレーロ元帥と会談し、彼らの同意を得てイタリア軍の「アリエテ」戦車師団と「トリエステ」自動車化師団の指揮を認められた。このイタリア軍二個師団とドイツ・アフリカ軍団でもって「アフリカ装甲集団」が組織され、ロンメルはその司令官に就任した[312]。ドイツ・アフリカ軍団の軍団長の座はルートヴィッヒ・クリューヴェル中将に譲った[312][375][376]

この頃になるとイタリア軍の間でもロンメル人気が高まっていた。グラツィアーニやガリボルディなど自国の無能な将軍の指揮の下で戦うより、有能な外国人将軍ロンメルの指揮の下で戦いたがった。ガリボルディもロンメルの要求を色々認めるようになり、イタリア軍兵士の訓練をドイツ軍将校が行う事も許可された。ドイツ軍将校の指導の下、半年もしないうちに異常に低かったイタリア兵の練度が一気に向上して、イタリア兵たちの間に自分たちも北アフリカ戦の勝利に貢献できるという自信が付き始めた[377]

「クルセーダー作戦」で追い込まれる

 
「クルセーダー作戦」の両軍の部隊配置と進軍ルート
 
1942年1月12日、エル・アゲイラ。同地まで撤退を余儀なくされたアフリカ装甲集団司令官ロンメル大将と部下の将校たち。

その後、ロンメルは自軍の補給状態を改善するため、英軍から物資を鹵獲しようと1941年9月14日から15日にかけて「(ゾマーナハトラウム作戦)(真夏の夜の夢作戦)」を行い、エジプト領へ侵攻したが、英空軍の空襲を受けて戦車が打撃を受けたため、作戦はすぐに中止され、物資もほとんど鹵獲できなかった。いくつかの英軍の軍事文書を入手したが、それらに攻勢に関する記述がなかったため、ロンメルは英軍は当面攻勢に出る気はないと誤認した[378]

イギリスクルセーダー作戦の前にロンメルの誘拐・暗殺を計画したフリッパー作戦を実行するも失敗に終わっている[379]

しかし英軍は攻勢の準備を進めていた。英軍司令官オーキンレック大将は「ブレヴィティ作戦」と「バトルアクス作戦」の失敗を踏まえて地中海沿岸の狭い地域からではなく、内陸部の砂漠からキレナイカに侵攻する決意をしていた。11月18日午前に土砂降りの雨の中、英軍は「クルセーダー作戦(十字軍作戦)」を開始した。この日ロンメルはローマから司令部に戻ったばかりで午後になって初めて英軍の攻勢を知った[380]。また攻勢を知らされても初めは本格的な攻勢ではあるまいと思っていたという[381]

(アラン・カニンガム)(英語版)中将率いる英軍第8軍の第30軍団(第4機甲旅団、第7機甲旅団、第22機甲旅団)が内陸部砂漠からトブルク目指して進軍を開始した。英第13軍団は囮としてエジプト国境のドイツ軍部隊と対峙した。英第4機甲旅団と英第22機甲旅団の進軍は伊アリエテ師団と独第21装甲師団が阻止したが、英第7機甲旅団は阻止する部隊が進路上に無く、19日までにトブルク包囲のため伊第21軍団や独第90軽師団が展開するシディ・レゼグまで一気に進軍されてしまった[382]。トブルク守備隊も前進を開始し、独伊軍は挟み撃ちにあってしまった[383]。独第15装甲師団と独第21装甲師団をこの戦域に応援に駆け付けさせたが、英第4機甲旅団と英第22機甲旅団もこの戦域に増援に駆け付け、シディ・レゼグ南方で英独の激しい戦車戦が展開された。しかし英第7機甲旅団は戦力を二つに裂くという愚を犯し、ドイツ軍の対戦車砲の格好の餌食となり、141両の戦車のうち113両を撃破されるという壊滅的打撃をこうむった[381][383]。また「アリエテ師団」がシディ・レゼグに到着したことでシディ・レゼグの戦いの形勢はドイツ軍側に傾いた[380]

ドイツ軍の戦力は常に英軍より圧倒的に貧弱であったので、防御だけに徹していればやがてやられてしまうと判断したロンメルはここでまた敵の背後に浸透して攻勢に転じ、それによって敵に攻勢を諦めさせる方針を取ることにした。独第15装甲師団と独第21装甲師団が(ガブル・サレー)から英第13軍団が展開するエジプト領へ突入した。しかしオーキンレックはウェーヴェルの二の舞にはならなかった。ドイツ軍のエジプト突入に恐れをなしてトブルクへの攻勢を中止すべきと提案したカニンガム中将を第8軍司令官から解任し、自らの参謀長で44歳の最年少イギリス将官であるニール・リッチー少将を第8軍司令官に任じ、攻勢の続行を命じた[383][384]

英軍が予想通りに動いてくれず、戦局はロンメルとオーキンレックの「我慢比べ」となり始めたが、補給状況や兵力配置から考えて独第21装甲師団の方が先に壊滅する可能性が高かった[384]。ロンメルが前線視察で不在の間、ロンメルの作戦主任参謀(ジークフリート・ヴェストフェル)中佐(de)が独断で独第21装甲師団の撤収を命令した[384][385]。はじめロンメルはこれに激怒したが、司令部に戻って再検討した結果、ヴェストフェルの判断は正しいと判断して攻勢中止を決意した[386]

12月4日にトブルク包囲を解き、(ガザラ)へ撤退[387]。さらに12月26日には(アジェダビア)まで後退。さらに12月31日にはエル・アゲイラまで後退した。再びキレナイカ地方は英軍の手に落ちた[383]。ハルファヤ峠を勇敢に死守していたヴィルヘルム・バッハ少佐以下守備隊は英軍への投降を余儀なくされた[388]

だが独伊軍に以前ほどの悲壮感はなかった。英軍は何の戦略もなく単に物量差で強引に押しただけであり、しかも受けた損害は両軍痛み分けという感じだった。独伊軍は戦車300両を失ったが、英軍も270両以上失っていた[383]。また独伊軍は3万8000人の将兵を失っているが、その大部分はイタリア兵であり行方不明者だった(イタリア逃亡兵が多いと思われる)。一方英軍は1万8000人の将兵を失っているが、その大部分は戦死だった[389]。そのため独伊軍の将兵は戦略次第で巻き返しは十分可能と考えていた[388]。そして実際に独伊軍は今一度キレナイカ地方を奪還してエジプト領に攻め込むことになる。

キレナイカ地方東部を再奪還

ロンメルは将兵たちを激励して回り士気を高めつつ、部隊の再編成を進めた。1942年1月5日にはヒトラーから新年の贈り物として戦車55両と装甲車20両の増援を受けた[390][391][392]。またロンメルのアフリカ装甲集団は南方戦域総司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥の指揮下に入ることとなった[393]

戦力をある程度回復したロンメルのアフリカ装甲集団は、1月20日夜から英軍に対する攻勢を開始した[392][394]。当面はドイツ軍は反撃に出られないだろうと踏んでいた英軍は不意を突かれ、次々と敗走した。ドイツ軍は1月22日にはアジェダビア、1月25日にムススを奪還した[395][396]。さらにロンメルはそこからメキリに攻撃すると見せかけて英軍を陽動しつつ、1月29日にベンガジを攻略した[395][397]。英第8軍司令官リッチー中将は1941年3月から4月にかけてのロンメルのキレナイカへの攻勢の時と同様にメキリに攻撃をかけてくると思い、ここに英第1機甲師団の主力を置いていたので英軍はまんまと裏をかかれる形となった[398][399]。1月30日にリッチーはキレナイカの英軍にガザラの防衛線まで撤退を命じた[397][399]。ロンメルはただちに英軍を追撃し、2月6日までにキレナイカの大半の地域を取り戻した。しかしムッソリーニやカヴァッレーロ元帥らイタリア軍上層部は追撃に不同意でイタリア軍は追撃に協力しないと通達してきたので追撃は不十分に終わった[399]。英軍はその合間にガザラに防衛線を固めてしまった。やむなくロンメルの装甲集団も(トミミ)とメキリの線に防衛線を築き、(機動防御)の構えを取り、両軍はそこで睨み合って停止した[399]

ヒトラーはロンメルの功績に報い、1月20日付けでロンメルに(騎士鉄十字章の柏葉・剣章)を授与し(全軍で6番目)、ついで1月30日付けで上級大将に昇進させた[22][400]。また2月21日付けでロンメルのアフリカ装甲集団はアフリカ装甲軍( Panzerarmee "Afrika")に昇格した[22][397]

ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還

 
1942年6月のアフリカ装甲軍司令官ロンメル上級大将。
 
1942年6月、トブルク攻略戦の指揮を執るロンメル上級大将
 
英軍捕虜の様子を視察するロンメルと参謀長バイエルライン大佐(1942年6月、トブルク)

これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送はマルタ島の英海軍・空軍によってかなり妨害されていた(1941年11月にはイタリアからの輸送船の44%が沈められている)。英軍がこれほどイタリアから北アフリカへの物資輸送を妨害できたのはドイツ軍のエニグマ暗号を解読していたからだった。英軍は北アフリカへの物資輸送船の発着地、出港時刻、積載物まで正確に掴んでいた。それを知らなかったロンメルはイタリア軍上層部に裏切り者がいるのではと疑っていた[401]。そこでケッセルリンク元帥の指揮の下にマルタ島に独伊空軍による大空襲が行われ、結果北アフリカの独伊軍の補給状況はだいぶよくなった[402]

これによりアフリカの独伊軍の戦力が整い、ロンメルは再び攻勢に出られると判断した。一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「(ボックス陣地)」と呼ばれる地雷原と鉄条網の防衛線を作っていた[403]。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地の東側を北上して海まで突っ走り、ボックス陣地を陣取る英軍戦力を後方の英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙った[404][405]

ロンメルのアフリカ装甲軍は1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊にボックス陣地に攻撃を正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢を開始した。英軍第8軍司令官リッチー少将はロンメルがボックス陣地を迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにもかかわらず、前任者たちと同様に戦車を集中させずに各旅団に分散させて運用した[406]。結果ビル・ハケイム付近の戦闘で英軍第3インド自動車化旅団は早々に伊軍アリエテ戦車師団と独軍第21装甲師団によって粉砕された[407]。ついで英軍第4機甲旅団も独軍第15装甲師団によって粉砕された[407]

しかし圧倒的工業力を有するアメリカ合衆国の援助を受けていた英軍はグラント戦車や新対戦車砲6ポンド砲などを動員し、これらがドイツ軍戦車に大打撃を与えていた[408]。また英空軍がドイツ軍兵站線を的確に空爆した[409]

5月27日夕方にはドイツ軍にとって事態は深刻となった。迂回部隊の海岸へ向けた進軍は行き詰まり、東では独第90軽師団が包囲されていた(第90軽師団は囮のつもりで東部から向かわせたのだが、ロンメル自身も後に認めたようにこれは失敗であった)[410]。ドイツ軍は補給が途絶えて水がなくなり全軍崩壊の危機にさらされた[411]

ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地の中間部分を西から突破して東側に広がる地雷原を掃討して補給路を作る事を決意した[412]。5月29日にロンメルは迂回部隊の主力を(シディ・ムフタ)周辺に集め、円形陣地を形成させた。彼はこの陣地を「大釜(ケッセル)」と名付けた。その地域には英第150旅団が円形陣地を構えていたが、6月1日にはこの円形陣地を攻略に成功した[286]

この後の戦いの焦点は大釜陣地の南方にあるビル・ハケイムだった。ここから補給路を攻撃されないように抑える必要があった。同地を守備していた(第1自由フランス旅団)(フランス語版)は激しく独伊軍に抵抗した。伊トリエステ師団や独第90装甲軽師団が猛攻を加え、またドイツ空軍はここに爆撃を集中した。しかし第1自由フランス旅団は簡単に屈せず、ここでの戦闘は6月10日まで続いた[286]

その間の6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将が大釜陣地への総攻撃を命じた。英軍は砲撃に続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊を前進させたが、ロンメルは対峙するアリエテ師団を後退させて誘い込み、包囲攻撃をかけてこれを撃退した[286]。またこの英軍の攻勢中にロンメルは大釜陣地の南部の地雷原に間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団を出撃させ、大釜陣地に攻撃をかけてきている英軍の左側面に回り込むことに成功した。この動きに連携して大釜陣地からも(ゲオルク・フォン・ビスマルク)(ドイツ語版)大佐率いる独第21装甲師団が英軍を攻撃。これによって大釜陣地に攻撃をかけていた英軍3個旅団は壊滅的な打撃を受けた[413][414]

さらにロンメルは南の地雷原の隙間から戦闘団を派遣し、6月10日にはビル・ハケイムの北方の防衛線を突破。勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退を余儀なくされた[286]。しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落に近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性が下がってきていたのだが、そのような場所を陥落させるためにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカに甚大な損害を出したためである[415]。とはいえこれにより独伊軍の補給線が南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍が英軍の退路遮断のための海岸への北進に安心して邁進できるようになった事は間違いない[415]。なお第1自由フランス旅団はナチスの迫害から逃れてきた人々で編成されており、ユダヤ人が多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦いを遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合は秘密裏に射殺しろ」という非情の命令をロンメルに下していたが、ロンメルはこの命令を握りつぶして部下に伝達しなかった[416]

ロンメルはビル・ハケイムを陥落させると直ちに全軍にトブルクへの攻勢を命じて北進させた[417]。ビスマルクの独第21装甲師団は6月11日に大釜陣地を出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃をこうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走を開始したが、そのほとんどはドイツ軍の捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された[413][418][419]

英軍は生き残り兵を集めて部隊と陣地を作り、独伊軍のトブルク包囲を阻止しようとしたが、すでに英軍にまともな戦力は残っておらず無駄な抵抗に終わった[413]。6月18日には独伊軍はトブルク包囲を完了。ドイツ空軍の空爆と砲兵の砲撃によってトブルク守備隊の戦意は崩壊し、6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍に降伏した[420]。トブルクの物資は破壊されることなく残っており、ドイツ軍がまんまと5000トンの物資と2000台の車両を鹵獲できた[421]

ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった[421][422]。トブルク陥落によりチャーチルは庶民院から問責決議案を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された[421]

世界的な英雄に

 
1942年のロンメル元帥

ヒトラーは、ロンメルの戦いに感動し、6月22日付けで彼を元帥に昇進させた[423]。それにより、ロンメルは、史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。ロンメルは、戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、戦争が始まって3年足らずで中将、大将、上級大将、元帥と4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。元帥昇進の電報を受けた時のロンメルの反応については、複数の証言がある。副官の証言によると、ロンメルは、子供のようにはしゃぎ、普段は酒などをほとんど飲まなかったにもかかわらず、ウィスキーパイナップルで祝宴をあげたという[424]。一方、別の証言によると、ロンメルは冷めた様子で「一個師団の増援を送ってくれる方がありがたかったのだが」と述べたという[425]

ロンメルは、今やドイツに留まらず、世界的な英雄になっていた。連合国は、畏敬の念を込めてロンメルを「砂漠の狐」と呼んでいた。アメリカの世論調査によると、当時のアメリカでロンメルは、ヒトラーに次いで有名なドイツ人だったという[426]。また、エジプト人の間には、イギリスの長きに渡る冷酷非情な植民地支配から、ロンメルが解放してくれるという期待感が広がっていた[427]。ロンメルに散々戦力を壊滅させられた英国からも高い評価を寄せていた。チャーチルは、「ロンメル!ロンメル!ロンメル!奴を倒すこと以上に重要なことなど存在しない!」と語り、また庶民院における演説では、ロンメルを「天才的な能力を持った男」と評した[428]。英軍将兵の間にも、ロンメルへの尊敬の念が広まっていた。英軍中東方面軍司令官オーキンレック大将は「ドイツは勇猛で優れた将軍を数多く生み出してきた国だ。だが、ロンメルは別格だ。彼は、ずば抜けている」と評した[429]。一方、オーキンレックは、部下の指揮官たちに対して「我が部隊の兵士たちがロンメルを過剰に話題にすることで、我らの友人であるロンメルが我らにとって魔術師か化け物のようになってしまっている。リビアにいる敵軍を呼ぶ時に『ロンメル』という言葉を使わないようにすることは精神的に極めて重要である。追伸、私はロンメルに嫉妬しているわけではない」という命令書を伝達している[430][431]

トブルク陥落直後がロンメルの絶頂期であり、この後はドイツ軍の戦況悪化と共にロンメルのアフリカ軍団も後退を余儀なくされ、瞬く間に下り坂となっていき、ついに北アフリカから撤退することとなった。

エジプト進攻(第一次エル・アラメインの戦い)

 
1942年8月、破壊されたI号戦車の横を通過する英軍グラント戦車。

ロンメル率いる独伊軍はガザラの戦いで消耗していたが、英軍に回復の時間を与えぬために勢いに乗って1942年6月24日からエジプト領へ攻め込んだ。6月25日に独軍第15装甲師団と第21装甲師団はエジプトの港町マルサ・マトルーフに迫った。英軍第8軍司令官リッチーはマルサ・マトルーフをなんとしても防衛するつもりだったが、中東方面軍司令官オーキンレックはこれに不同意であり、リッチーを罷免して自らが第8軍司令官を兼務した[432]。オーキンレックはマルサ・マトルーフから東に150キロのところにあるエル・アラメインの方が防御が容易と判断していた[422]。ここはカッターラ低地の存在により作戦を展開できる領域が狭く、ロンメルが得意とする「内陸部からの大胆な迂回戦術」が使えない場所だった[433]

ロンメルは英軍がエル・アラメインで体制を整える前に一気に片付けることを企図し、マルサ・マトルーフからエル・アラメインに撤収していく英軍の急追を命じた[422]。6月29日には独軍第90軽師団、6月30日には独軍第15・第21装甲師団がエル・アラメインに接近した[434]。だが結果はおもわしくなかった。英軍第3南アフリカ旅団に攻撃をかけた第90軽師団は砂嵐で進路を見失い、パニック状態になって西に敗走した[433]。独軍第15装甲師団と第21装甲師団は英軍第18インド旅団を挟み撃ちにして攻撃したが、インド師団は持ちこたえた[435]。独軍に随分鍛えられていた伊軍アリエテ師団も第2ニュージーランド師団の激しい抵抗にあっていた[422][435]

ロンメルは7月4日に攻勢を中止させ、休息と次の攻勢の準備を急がせた。しかしその間の7月10日から14日にかけて英軍はエル・アラメインの西方エル・エイサ丘陵に陣取る伊軍を強襲してきた。この攻勢で伊軍サブラータ歩兵師団がほぼ壊滅し、アリエテ師団も大打撃を受けた[422][436]。これによりこれ以上の攻勢は難しくなった[422]。だが国防軍最高司令部は東部戦線のドイツ軍のコーカサス進攻作戦に影響を与えるという事でロンメルにエル・アラメインの線で頑張るよう指導し続けた[437]。その後7月を通じて英軍と独伊軍はエル・アラメインの線で一進一退の攻防を続けた[436]

逆転の兆候

8月4日、英国首相チャーチルがエジプト首都カイロを訪問し、オーキンレックに対してただちに攻勢に出るよう命じたが、オーキンレックは9月中旬以前に攻勢に出ることは不可能だとして拒否したため、彼を中東方面軍司令官から解任し、ハロルド・アレグザンダーを後任に任じた。そして第8軍司令官にバーナード・モントゴメリーが着任した[422]

一方ロンメルは8月初めころから体調を崩し、8月21日にベルリンに離任許可を求めたが、却下され、指揮を執り続けることになった[438]

この頃英軍と独伊軍で補給状態の差が広がりはじめた。英空軍・海軍による独伊軍の補給輸送船の撃沈が再び急増していた。1942年9月には独伊軍の物資の20パーセント、10月には44%が沈められている[439]。またこのとき独軍はトブルクやメルサ・マトルーを占領していたが、伊軍がこの二つの港に補給物資を届けるのは不可能であった(ほぼ確実に英海軍・空軍に沈められる)。結局そのはるか西のトリポリ港やベンガジ港に補給物資を輸送し、そこからトラックで運ぶしかなかったのだが、トリポリ港からエル・アラメインの前線は1800キロも離れていた。一方英軍はアレクサンドリア港から補給が可能であり、アレクサンドリアからエル・アラメインの前線までは100キロしか離れていなかった[440]

また情報収集能力にも差が広がっていた。独軍が暗号を解読することが可能だったカイロ駐在米国大使館付き武官が6月末に米国本土へ呼び戻されてしまったこと、またロンメルのアフリカ装甲軍の主力の情報部隊である第621無線傍受中隊が7月中旬の戦闘で事実上壊滅してしまったことで独軍の情報能力が大きく低下していた[290][441]。またこれまでロンメルはベルリンやローマの命令を無視して行動することが多かったため、英軍は独軍の通信を傍受できてもロンメルの行動が読めない場合が多かったのだが、エル・アラメインで進撃が停止したいま、ロンメルの通信は彼の部隊の困窮をそのまま伝える物ばかりであり、その内情が筒抜けになっていた。ロンメルが病気であることも英国側は把握していた[440]

アラム・ハルファの戦いで敗れる

 
1942年8月のロンメル元帥

ロンメルのアフリカ装甲軍は満身創痍状態のまま再び攻勢に出ることにした。これ以上時間をかけると補給能力の差で英軍ばかりがどんどん強化されるからである[442]。この時点で独伊軍の戦車総数は430両ほどに回復していたが、ガソリンが確保できていなかった(ロンメルは攻勢のために3万トンのガソリンを求めていたが、8000トンしか確保できていなかった)[442]。このためエル・アラメイン南の狭い地域から敵陣を突破してカイロまで一気に進軍するつもりだった当初の攻勢計画を、エル・アラメインの南から敵陣を突破した後に北上してエル・アラメイン東を取り、モントゴメリー率いる英第8軍の背後に浸透する計画に変更することとなった[443]

8月30日から8月31日にかけての真夜中に攻勢は開始された。しかし地雷が予想より多く、なかなか進軍できなかった[444]。また砲兵隊の激しい砲火を浴びて打撃を受け、第21装甲師団長ビスマルク少将が戦死した[443]。さらに朝になると英王立空軍の激しい空襲を受け、もっと激しい打撃をこうむり、アフリカ軍団長ネーリングも重傷を負い、戦線を離脱した[444]。ロンメルはアフリカ装甲軍の要であるこの二人の脱落に動揺し、各師団に進軍停止命令を下そうとした。普段のロンメルなら構わず「マールシュ!(前進)」と命じていたはずの局面であった。参謀長バイエルラインが「今作戦を中止すれば地雷原突破のため犠牲になった兵士の死がすべて無駄になります」と進言したことで思いとどまったものの、大胆な作戦を遂行できるだけの精神力がロンメルから無くなり始めたことを如実に示す一幕であった[445]

攻勢は続行することになったものの、ロンメルは攻勢にあたって再び判断ミスを犯した。当初の計画ではアラム・ハルファ高地を大きく迂回してエル・アラメイン東に浸透する計画だったのだが、残りのガソリンの量を心配していたロンメルは最短距離で進軍しようとしてアラム・ハルファ高地の通過を命じた。しかしここはモントゴメリーが独軍通過ルートの本命と予想していた場所だった。待ち伏せていた英軍砲兵隊の激しい砲火を浴びた。しかもロンメルが進軍ルートに選んだアラム・ハルファ高地南方は地面が柔らかい砂漠で戦車の進軍に全く向いていなかった。地形に足を取られながら、3方向から砲撃を受けるはめとなった。9月1日にはロンメルも勝機を失ったと判断して全軍に攻勢中止と発起点への退却を命じた。

この戦いにおいても失われた戦車の数は英軍の方が多かったが、「砂漠の狐」の攻勢を撃退したという事実は低下する一方だった英軍の士気を回復させるに十分な効果があった。

ドイツに一時帰国

一方ロンメルの病気はますますひどくなり、ドイツ本国へ一時帰国することになった。ロンメルは自分が不在の間、後任のゲオルク・シュトゥンメ装甲大将が今の戦線を保ってくれることを期待して「悪魔の花園(トイフェルガルテン)」と名付けた凄まじい密度の地雷原(地雷の総計44万個)を独伊軍正面に作らせた。その後の9月23日に北アフリカをあとにし、ローマを経由してベルリンへ帰還した[446]。9月25日には総統官邸でヒトラーから元帥杖を下賜された[446]。式典出席などの公務をこなした後、10月3日にはヴィーナー・ノイシュタットの自宅に帰り、療養した。

一方モントゴメリーは「すぐに攻勢を行え」と命じるチャーチルを抑えて、ドイツ軍のIV号戦車に対抗できる戦車であるアメリカ製のシャーマン戦車の到着を待ち、英軍戦車1000両VS独伊軍戦車300両という決定的な物量差が開いた後の10月23日夜中から「(ライトフット作戦)」を発動して攻勢を開始した。こうして第二次エル・アラメインの戦いが始まった。国防軍最高司令部から北アフリカで英軍の攻勢がはじまったこと、ロンメルの後任のシュトゥンメ装甲大将と連絡が取れなくなっていること(シュトゥンメは24日の戦闘中に心臓発作により死亡していた)を告げられたロンメルは10月25日に急遽北アフリカに戻った。

第二次エル・アラメインの戦いで惨敗

 
エル・アラメイン付近で吹き飛ばされたロンメル軍のIII号戦車

10月25日にドイツ=イタリア装甲軍(アフリカ装甲軍がこの名前に改名されていた)司令部に到着。モントゴメリー率いる英第8軍は北と南に分かれて攻めよせてきた。英軍の北部進攻部隊はアメリカ製の高価な砲弾を無数に撃ちまくって「悪魔の花園」をあっさりと掃討していた[447]。ロンメルはすぐに最北部に独装甲部隊を送りこんで防御を固めたが、英軍は最北部の独軍との戦闘を避け、そのやや南方の伊軍を攻撃した。そこから(キドニー丘陵)へ進撃し、独伊軍の防衛線を破った。

今こそ全面攻勢の時と見たモントゴメリーは「(スーパーチャージ作戦)」を発動し、北部での大攻勢を開始した。もはや為す術なしと判断したロンメルは、ヒトラーにエル・アラメイン戦線から大幅に撤退することの許可を求めた。だがそれに対するヒトラーの返答は死守命令であった[448]。この死守命令にロンメルは絶望して憔悴。その間も独伊軍は大打撃を受け続けた。隷下のアフリカ軍団長ヴィルヘルム・フォン・トーマ装甲大将は死守命令に激怒して「総統命令を遵守するため」自ら最前線に赴き、突撃をかけて英軍の捕虜となった。南方総軍司令官アルベルト・ケッセルリンクの取りなしにより11月4日になってようやくヒトラーの撤退許可が下りた。だがすでに撤退の好機は逃しており、英軍から激しい追撃を受けた。撤退に際して独軍は9000人、伊軍は2万人の戦死・行方不明者をだすことになり、敗走に近い撤退となってしまった[449][450]

米英軍西海岸上陸/チュニジアまで大撤退

 
1943年1月、ロンメル元帥(左)、バイエルライン大佐(中央)、ケッセルリンク元帥(右)

11月8日には「トーチ作戦」によりドワイト・D・アイゼンハワー米中将が指揮する米英軍がモロッコアルジェリアなどの北アフリカの西海岸に上陸した[450]。モロッコやアルジェリアはドイツ衛星国ヴィシー・フランスの植民地であり、はじめ同地に駐留するフランス軍守備隊が上陸してきた米英軍と交戦していたが、ヒトラーが独仏休戦協定に違反してヴィシー・フランス政府領を占領したことで現地のフランス軍は反独姿勢を強め、米英側に寝返った[451]

北アフリカ戦線はドイツ軍にとって二正面作戦になってしまった。これに対処するためヒトラーは急遽ヨーロッパ本土から独伊軍1万5000人をチュニジア(ヴィシー・フランス植民地)に送りこみ、第5装甲軍司令部を創設させた。はじめはエジプト国境付近で防衛線を作ろうと考えていたロンメルだったが、米英軍の西海岸上陸によりもはやエジプト攻略どころではなくなった[450]。ロンメルはエジプト、キレナイカ地方を放棄する大撤退を行い、11月23日には最初の攻撃地であったエル・アゲイラまで軍を後退させた。

ロンメルはリビア西部トリポリタニア地方も放棄してチュニジア南部の(マレト)まで後退することを決意していた。これに対してヒトラーはロンメルにエル・アゲイラを死守することを命じたが、アフリカ北岸は平坦地であり、撤退作戦で後退部隊を収容するには全く向かない地形であった。ロンメルは直談判を決意した[452]。11月28日に東プロイセン総統大本営ヴォルフスシャンツェ」へ赴き、ヒトラーと直接に会見。ロンメルはただちにトリポリタニアからの撤退許可を求めたが、これに対してヒトラーはヒステリックに怒声をあげて却下し、ロンメルを罵った。この頃になるとヒトラーが部下の将軍に罵声を浴びせるのは珍しいことでもなくなっていたが、ロンメルにとってはヒトラーに罵声を浴びせられたのは初めてのことだったのでかなり衝撃的だったらしい。そしてこの体験がこれまでヒトラーを高く評価し続けてきたロンメルのヒトラーへの評価を大きく変えたといわれる[453]。11月30日にはローマでムッソリーニとも会見したが彼もトリポリタニア保持をかたくなに主張し、撤退を許可しなかった[454]

リビアに戻ったロンメルは総統命令を無視して部隊の撤退を続けさせた。それによる処分は特になかった。結局のちになって独伊上層部もトリポリタニア防衛は難しいとの結論に達したのであった[452]。だがムッソリーニやイタリア軍部からは「ロンメルはろくに戦いもしないで独断でイタリア植民地を放棄した」と非難され、その抗議の声にヒトラーが屈した形で「ドイツ=アフリカ装甲軍はやがてイタリア第1軍に改組され、イタリア軍のジョヴァンニ・メッセ大将が司令官に就任する」旨が内定した。

ロンメル率いるドイツ=イタリア装甲軍は1943年2月16日にチュニジア・マレトに到着した。エル・アラメイン戦線からここまで約2200キロ。ロンメルの軍は1日21キロのスピードで撤退を行っていた計算になる[455]。一方それを追撃すべきモントゴメリーの英軍第8軍は補給線が伸び切っており、すぐには追撃できなかった[452]

ロンメルのドイツ=イタリア装甲軍がチュニジアに入った時、すでに上陸米英軍と独第5装甲軍の間で戦闘が始まっていた。しかしロンメルと第5装甲軍司令官ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将は折り合いが悪く、すぐに指揮権を巡って確執が生じた[456]

上陸してきた米英軍に敗北

チュニジア北西部を陣取る米英軍への反攻作戦にあたってロンメルは米英軍の補給拠点であるアルジェリアの要衝(テベサ)(fr)を陥落させてそこから地中海へ北上し、米英軍と後方のアルジェリア諸港を遮断して壊滅させることを提案した[457]。一方アルニムはそのような野心的な作戦を実行できる戦力は無いとして反対し、チュニジア・ファイド峠西方の米軍を強襲して北進しチュニス前方まで進出することを提案した[457]。両者の上官である南方総軍司令官ケッセルリンクは作戦を統一しようとせず、両者にそれぞれの作戦を実行させることとした。

1943年2月14日から第5装甲軍が「フリューリングスヴィント作戦(春風作戦)」、ついで2月17日からロンメルのドイツ=イタリア装甲軍が「モルゲンルフト作戦(朝風作戦)」をそれぞれ発動した。ロンメルの作戦は初戦はうまく運んだ。まず(スベイトラ)を占領し、ついでテベサへの入り口である(カセリーヌ峠)に進軍し、同地の米軍を潰走させた(カセリーヌ峠の戦い[458]。そこからドイツアフリカ軍団をテベサへ、第10装甲師団を(ターラ)へ北進させたが、テベサへ向かった部隊は航空支援を受けた米軍B戦闘団によって進撃を阻止され、ターラへ向かった第10装甲師団は一時的にターラを占領したものの英第6機甲師団と近衛旅団によってターラを追われてしまった[459]。ロンメルは2月22日にはテベサ占領が不可能であることを悟らされた[459]

ロンメルはこの攻勢の失敗で完全にやる気をなくしてしまったようだ。2月22日にロンメルの指揮所を訪れたケッセルリンクとヴェストフェル(ロンメルのかつての作戦主任参謀。この時にはケッセルリンクの参謀長になっていた)は別人のようにやつれて覇気の無い顔をしたロンメルを見たという[460]。彼は司令部に鳴る電話すらとらなくなり、さっさと前線を離れて後方のスベイトラに帰ってしまった。ケッセルリンクは2月23日に第5装甲軍とイタリア第1軍(ドイツ=イタリア装甲軍)を統括する「アフリカ軍集団(Heeresgruppe "Afrika")」を新設し、その司令官にロンメルを任じているが、この人事もロンメルにやる気を取り戻させることはできなかった。ロンメルは病気療養のため、ドイツへ帰りたがるようになった[460]

北アフリカから撤退

 
敗色濃厚の北アフリカ戦線 (1943年 中央がロンメル)

1943年3月9日にヒトラーはロンメルをアフリカ軍集団司令官から解任してベルリンに呼び戻した[453]。ヒトラーがロンメルを解任した理由についてはよく分かっていない。ロンメルが病気で衰弱していたという説、敗北に対する処分だったという説、どう考えても北アフリカの戦況は好転しないのでロンメルの名声を守るために彼をこの戦域から外したという説、この数週間前にソ連軍の捕虜となったパウルス元帥に続いてまた一人ドイツ軍元帥が捕虜になるのを恐れたという説などがある[453]。アフリカ軍集団の指揮はアルニム上級大将が引き継ぎ、彼らの戦いはその後も続いたが圧倒的な連合軍の物量に抗する術は無く次々と主要な拠点や港を失い、5月13日には降伏した[451]。わずかに脱出に成功した残存戦力は車両抜きで西部戦線へと移動した。

ヒトラーはロンメルがベルリンへ戻ってきた後、彼のこれまでのアフリカでの戦いの労をねぎらい、1943年3月11日付けで(騎士鉄十字章のダイヤモンド章)を授与した[22][461]

3月にドイツ本国に送還されてからしばらくロンメルは療養生活を送っていたが健康が回復したせいもあり、6月にはギリシャの防衛を担当していたE軍集団の指揮官に任命された。これは英軍によるギリシャ上陸を警戒しての人事であったが結局ギリシャに連合軍が上陸を仕掛けることは無かった。

西部戦線

イタリアへの転属

 
1943年9月12日、アクセ作戦中にドイツ軍に殺害されたイタリア人パルチザン

次にロンメルは、シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)によって、ベニート・ムッソリーニが失脚し、その後のピエトロ・バドリオ政権によって戦争からの脱落が懸念されていたイタリアの抑えのため、新設されたB軍集団の司令官に転属した。ヒトラーの懸念通り、バドリオは水面下で連合軍との交渉を行っており、1943年9月8日にイタリアは連合国に無条件降伏した。ヒトラーは8日の午後8時に、イタリア軍を武装解除しイタリアを制圧する(アクセ作戦)(英語版)を命じ、ロンメルが北イタリア、アルベルト・ケッセルリンク元帥が南イタリアの制圧を担当した。ロンメルは迅速に行動開始し、速やかにイタリア兵の武装解除を行っていたが、作戦途中の9月14日に盲腸炎となって入院を余儀なくされた。ロンメルが入院したあともB軍集団は迅速に行動し、10日間で北イタリアの制圧を完了、ヒトラーからはイタリア軍が抵抗した場合射殺しても構わないと命じられていたが、ロンメルがイタリア兵を処刑することはなかった[462]

やがて、一部のイタリア兵や住民が地下に潜ってパルチザンとしてドイツ軍に抵抗を開始した。そこで、今まで住民虐殺などの戦争犯罪に全く無縁であったロンメルも、パルチザン討伐のため苛烈な命令を発することとなった[462]

ドイツ軍人が、かつての戦友の軍服を着たバドリオ一派のパルチザンに対し、いかなるものであれ、情緒的なためらいを示すことは、全く適当ではない。そうしてドイツ軍人に敵対する者は、容赦を乞う権利を失ったものであり、突如として友人に武器を向けた無類の徒にふさわしい苛酷な取り扱いを受ける。

その間、シチリア島に上陸していた連合軍は1943年8月17日にはシチリア全島を解放、続く9月3日にイタリア半島の先端部に上陸(ベイタウン作戦)し、9月9日サレルノアヴァランチ作戦)、ターラントスラップスティック作戦)へ上陸を行ない、イタリア半島を北上していた。9月27日に退院したロンメルはケッセルリンクと総統大本営に呼び出されて、ヒトラーからローマの南で連合軍を押しとどめよと命じられたが、ロンメルはローマの北方のアペニン山脈に防衛線を構築すべきと主張して譲らなかった。ヒトラーはロンメルをイタリア方面の総司令官にしたいと考えており、10月17日に再度ロンメルを呼び出すとその旨を伝え、イタリア南部で連合軍を押しとどめるよう命じたが、ロンメルはヒトラーに「イタリアですと、(ドイツの)崩壊は目の前に迫っているのです」と言い放ち、自分が南イタリアを防衛できるという確信を持てない限りは、司令官を引き受けることはできないと答えた。ロンメルの答えに失望したヒトラーは、ケッセルリンクにイタリアを任せることとした。その決定を聞いたロンメルは落胆し「仕事は決まらなかった。誰に聞いても、総統は心変わりしたということだ。」という手紙を妻に送っている[463]

大西洋の壁

 
1943年12月当時のロンメル
 
ルントシュテット元帥(中)、(ガウス)大将(右)との作戦会議(1943年12月19日パリ

ヒトラーはロンメルを見限ってはおらず、B軍集団の担当地区を北イタリアから北フランスに変更し、1943年11月にロンメルはB軍集団とともに北フランスに移動を命じられ、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥率いるドイツ西方総軍の指揮下に入った。ドイツ軍は連合軍の次の侵攻地を突き止めるのに躍起となっていたが、ヒトラーは北フランスへの連合軍の上陸を恐れており、信頼していたロンメルをかの地に置いたのであった[464]。さらにヒトラーは「要塞をつくることにかけては、古今を通じ、私ほど偉大なものはない」と自信満々であった「大西洋の壁」の整備を監督させるため、「進攻正面防備特務査察監」という新たな役職まで作ってロンメルをその役職に任じた。イタリアで落胆したロンメルであったが、任務の重要性とヒトラーからの信頼を痛感して、着任するなりデンマークからフランスまで精力的に視察して回った[465]

1944年の1月になって、ドイツ軍は連合軍が西ヨーロッパで「第2戦線」を構築するため大規模な上陸作戦を展開するという情報を掴んでおり、2月にはその場所がヒトラーの懸念通り、北フランスになるという情報を掴んでいた[466]。連合軍の上陸地点としては、ドイツ軍はイギリスからもっとも至近距離となるパ・ド・カレーと予想していた[467]。ロンメルはドイツ軍の殆どの予想とは異なって、上陸地点はノルマンディになると唯一正しい予想をしていたという意見もあるが[468]、ロンメルは1943年12月23日付の報告書において「敵はまず第一にパ・ド・カレーを目指す」と書いていたり、連合軍上陸直前の1944年5月半ばには、指揮下の機甲師団の2個師団をパ・ド・カレーにより近いセーヌ川の北部に配置するなど、他のドイツ軍司令官らと同様に、連合軍の上陸地点をパ・ド・カレーと予想して作戦準備を進めていた[469]

一方で、連合軍の上陸に対抗する「大西洋の壁」の整備状況としては、上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、ノルマンディー地方に至っては20%と言う悲惨な状況でありとても難攻不落とは言い難かった。ロンメルは準備の遅れに危機感を抱きつつも、精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注した。ロンメルは「大西洋の壁」の整備と並行して、防衛計画の策定も進めていた。ロンメルは連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」「上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう、この日のいかんによってドイツの運命は決する。この日こそは、連合軍にとっても、我々にとっても最も長い一日(Der längste Tag)になる[470][471]、として「水際配置・水際撃滅」を主張した。これはロンメルが北アフリカで連合軍の圧倒的な航空戦力で叩かれた苦い経験に基づくもので、連合軍空軍の制空権下では、装甲部隊が戦線にたどり着くためには、小部隊に分散且つ時間をかけて移動する必要があり、反撃の機を逸してしまうため、海岸付近に歩兵、砲兵、装甲部隊全ての兵力を配置し、上陸部隊を速やかに撃滅するべきと考えたからである[472]。しかし、連合軍の大規模上陸作戦においては、必ず戦艦重巡洋艦などの大口径の艦砲による艦砲射撃が行われており、その射程内に配置されている陣地や部隊は大きな損害を被っていた。ロンメルは連合軍の大規模な艦砲射撃を経験しておらず、明らかにその威力を軽視していたと思われるが、実際には連合軍の上陸を撃破することは困難と認識しており、一縷のむなしい望みにかけたという意見もある[473]

1943年3月に西方総軍司令官に任命されたルントシュテットも、「大西洋の壁」などと喧伝されている陣地の構築状況が遅々として進んでおらず、これに頼らない作戦を検討する必要に迫られていた。そこで機甲部隊の運用の専門家でもあったルントシュテットは陣地に頼るのではなく、装甲部隊に重点を置くこととした[474]。しかし、最前線地区に配備してしまえば、上陸前の連合軍の圧倒的な航空攻撃と艦砲射撃で連合軍部隊が上陸前に大損害を被る懸念が大きかったため、ルントシュテットは装甲部隊をその射程の外に配置し、海岸陣地の歩兵が上陸部隊が押しとどめている間に、装甲部隊が海岸付近に駆けつけて、艦砲の射程外でまだ体制が整わない上陸部隊を一気に叩く作戦を考えた[471]。これは、ルントシュテットがハスキー作戦アヴァランチ作戦で、連合軍の圧倒的な艦砲射撃に大損害を被った戦訓に基づくものであり、ドイツ国防軍きってのアメリカ・イギリス通と言われたレオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク大将も賛同した[471]

ロンメルはルントシュテットを尊敬し立ててはいたが、一方のルントシュテットは、ロンメルの勇気と忠節ぶりには敬意を払っていたものの、戦略家としての評価は決して高くはなく「良き師団長になるための特性は全て備えているがそれ以上ではない」と評していた。またヒトラーの信頼でのし上がってきたナチの成り上がりものという見方もしており、作戦の全てを握られることに警戒を強めていた[468]

ロンメルとルントシュテットの意見の相違は、やがてドイツ軍を二分するような「装甲部隊論争」に拡大したが、最終的にヒトラーが問題解決に介入し、機甲4個師団を予備部隊とし国防軍最高司令部の指揮下におくこととした。この4個師団は国防軍最高司令部の許可なしでは動けないこととなり、結局のところ、ロンメルとルントシュテットは自分たちの対立によって余計な手枷足枷を付けることとなってしまった[475]

こうした将軍同士の対立の中で準備が進められたが、ロンメルは準備を進めていく中で次第に連合軍はノルマンディに上陸する公算が大きいと考えるようになった。そのため、ノルマンディへの視察の頻度を上げたロンメルは、のちに「オマハ・ビーチ」と呼ばれる海岸の防備の強化を命じ、鹵獲したフランス軍の戦車砲をトーチカに設置し海岸砲台とするなど徹底した強化が図られたため、ロンメルが北アフリカで苦戦させられたイギリス軍の拠点に因んで「トブルク」と名付けられた[476]。またロンメルは、自分でデザインしたロンメルのアスパラガスを空挺部隊の落下が予想される地域に設置したり、大量の地雷の埋設も命じ、一説にはその数600万個にも達したと言われるが、実際には地雷の数も足りておらず、ロンメルを満足させるためやむなくダミーの地雷が埋設された。ロンメルを誤魔化す目的で作られたダミー地雷原は、皮肉にも上陸してきた連合軍を混乱させるという予想外の効果もあげている。ロンメルの軍の実情を考慮しない命令によって、ドイツ軍将兵は防備を固めることに多くの時間を取られることとなり、訓練をする時間が殆どなかった。また、演習用の弾薬も不足しており、訓練度が少ないまま連合軍を迎え撃つこととなってしまったので、火器の命中率の低さに悩まされることとなった[477]

ノルマンディでの敗北

 
海岸のトーチカを視察するロンメル(左)
 
前線を視察する視察するロンメル(左)とヨーゼフ・ディートリヒ親衛隊上級大将(右)、1944年7月の写真でロンメルが負傷する直前

ロンメルの精力的な準備にも拘らず1944年6月時点ではまだ防備は不十分であった。しかし、ドイツ軍の気象班は6月上旬は天候が悪化するため、6月10日までは連合軍の侵攻はないと判断していた[478]。気象班の報告を信じたロンメルは、不覚にも妻の誕生日を祝うために[# 7]ドイツ本国に帰国することとした[479]。しかしロンメルらが信じたドイツの気象予測はお粗末なもので、肝心の観測所を西大西洋地域に設置しておらず、詳細なデータもなしに気象予測を行っていた[478]。気象班の報告を信じたドイツ空軍は、6月に入ってから1回も空中哨戒を行っておらず、盲目も同然であったが[480]、そのドイツ軍の油断をついて、D-Dayこと6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行された。

これらロンメルを始めとするドイツ軍の失策によって、連合軍の作戦は完全な奇襲になってしまい、易々と上陸を許すこととなった[481]。そして、海岸線の防備については、ロンメルとルントシュテットの対立もあって結果的にどっちつかずとなり、オマハ・ビーチを除いて殆ど満足な抗戦すらできなかった[482]。また、数少なかったドイツ軍機甲部隊による反撃のチャンスも、連合軍空挺部隊による欺瞞作戦にはまってその機会を失ってしまったため、満足な反撃ができなかった[483]。ロンメルは、午前10時15分に連合軍上陸の一報を妻の誕生日を祝うため帰宅していたドイツのヘルリンゲンの自宅で受け取ったが、そのとき「私はどうかしていた。大馬鹿者だ」と嘆いたという[484]

ロンメルは慌ててヒトラーとの会見をキャンセルし、(ラ・ロシュ=ギヨン)(英語版)にある司令部に向かった。前線では(第21装甲師団)(英語版)が反撃のために集結し増援を待っていたが、午後5時前にロンメルから軍参謀長ハンス・シュパイデル中将に連絡が入り、シュパイデルが連合軍の主作戦地がノルマンディとはまだ確定できないこと、第21装甲師団は増援を待って反撃に転じるとの報告を行うと、ロンメルはそれを一喝し、直ちに第21装甲師団単独で反撃を行うよう命じた[485]。ロンメルの命令に従って、同師団の第22戦車連隊は、第192装甲擲弾兵連隊第1大隊と協同で連合軍が上陸した海岸に向け突進したが、途中でイギリス軍第27機甲旅団と激突し、一方的にIV号戦車19輌を撃破されて撃退された[486]

司令部に到着したロンメルはその後も旺盛な攻撃意欲で指揮下の装甲師団に反撃を命じ続けたが、制空権もなく激しい艦砲射撃の中で兵力の集結もままならず、損害を出し続けた。戦略予備として留め置かれていた装甲教導師団もようやく前線に到着したが、空襲下の移動で装甲車輌85輌、戦車5輌、トラック123台(うち燃料車80台)が撃破される大損害を被っており、ロンメルは北アフリカで味わった制空権を失った装甲部隊の悲劇を、再びノルマンディで味わうこととなった[487]。ドイツ軍は連合軍の攻撃機をヤーボ(Jabo)と呼んで恐れたが、ロンメルも幾度となくヤーボに襲われ、6月10日に西部方面戦車軍司令部に車で向かったロンメルは到着までに30回もヤーボに襲われ、そのたびに車を捨てて腹ばいになってヤーボをやり過ごしたので、司令部に到着したときには泥まみれであった[488]

ノルマンディの戦況悪化に居ても立っても居られなくなったヒトラーは、“敗北主義者”の将軍らを叱咤するため、6月16日にフランスの(ヴォルフスシュルフトII)(英語版)にやってきた。特に信頼していたロンメルの戦いぶりに幻滅しており、論破すると意気込んでいた[489]。しかし、この頃には重要拠点シェルブールも陥落寸前で、もはや戦線を持ち堪えられないことは明らかとなっていた。そこでロンメルはルントシュテットと戦線を後退することをすり合わせると、フランス北西部を放棄して軍を撤退させ、ロワール川セーヌ川を今後の防衛線として各装甲師団を再配置し大規模反攻に備えるべきとヒトラーに上申した[490]。しかしヒトラーはロンメルの上申を拒否すると、「V1飛行爆弾が対イギリス戦の帰趨に決定的効果をもたらす」「ジェット機の大群が連合軍の航空優勢に引導を渡すはず」などと現実離れした長広舌をふるったのち[491]、「退却も作戦もあるか。立ち止まって保持するか、死ぬかだよ」と死守を命じた[492]

現実離れしているヒトラーに腹を立てたロンメルは「既にドイツは孤立し、西部戦線は崩壊の瀬戸際にあり、国防軍は東部戦線だけでなくイタリアでも敗北しつつある」と現状を分析し「できるだけ早い時期に、この戦争を終わらせるべきだ」とヒトラーに促した。ヒトラーは同席していた他の将軍や副官らが恐れるほどにロンメルに対して激怒し「あいつら(連合国)が交渉に応じるはずがない」と拒絶した。これほどまでにヒトラーが激怒したのは、これまで信頼し愛顧してきたロンメルの口から、ヒトラーはこのような言葉を聞きたくはなかったからであったと同席していたヒトラーの副官は回顧している[491]。 ヴォルフスシュルフトIIを去るにあたりロンメルはヒトラーに「我が総統、そもそも、今後の戦争の経緯について、どのようにお考えなのでしょう」と尋ねると、ヒトラーは不快そうにしながら「その問題は、貴官の職掌ではない。私に任せておかなければならないことだ」と突き放している[492]。ロンメルが帰った直後、ヒトラーが期待していたV1飛行爆弾がジャイロスコープの不具合でヴォルフスシュルフトIIに着弾した。これに驚いたヒトラーはその夜のうちにベルヒテスガーデンベルクホーフに戻ってしまい、この後二度とドイツ第三帝国から離れることはなかった[493]

6月29日にロンメルとルントシュテットは、戦況報告のためベルヒテスガーデンベルクホーフに呼び出された。そこでロンメルとルントシュテットは西部戦線の戦況は絶望的であり、再度、西側連合国との和平交渉を求めた。しかし、ヒトラーは前回と同様に2人の申し出を拒否し、軍事的なことのみ報告せよと言い放った。なおもロンメルが食い下がって政治的要求を口にしようとしたが、ヒトラーはそれを遮るとロンメルに退去を命じた。ロンメルはヒトラーの命令通りベルクホーフを後にしたが、これがロンメルとヒトラーの最後のやり取りとなり、この時点でロンメルのヒトラーに対する信頼は消え失せた[492]

その後の7月2日には、ルントシュテットがヒトラーの死守命令を破って装甲部隊の退却を許したため、ヒトラーから西方総軍総司令官を解任されると、7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車がカナダ空軍第602飛行隊のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院した[482]

ヒトラー暗殺未遂事件とロンメルの最期

ヒトラー打倒計画に関与

 
B軍集団司令部が置かれ、反ヒトラー派の拠点となったラ・ロシュ=ギヨン城

ロンメルのヒトラーに対する信頼はかなり早い時点で失われており、北フランスに着任し、精力的に「大西洋の壁」の整備を監督していた1944年の2月に、ロンメルはシュトゥットガルト市の市長であった(カール・シュトローリン)(英語版) と面談した。シュトローリンは熱心なナチ党員であったが、戦局が悪化するとカール・ゲルデラーと共に、ユダヤ人の虐殺やナチス党の法支配の中止を訴える上申書を提出しており、反体制派として有名となっていた。シュトローリンはロンメルに対して戦況が絶望的であることを指摘すると、現状を打開する唯一の策として「ヒトラー総統を捕えてマイクの前に立たせ、辞職を発表させることです」「既に一部の高級将校の同意も得ており、閣下の決起を期待します」と訴えた[494]。シュトローリンらがロンメルを仲間に引き入れようとしたのは、ドイツ国民の間で抜群の知名度と信頼を得ている存在だったからであるが、ロンメルはしばし黙考したのち「戦争は負けた。彼(ヒトラー)は幻想の中に生きている。彼は、自分が国家だといったルイ14世の再来だ、自身と国民との区別を知らぬ」とのヒトラー評を述べると「承知した。我々軍人の使命は国民を守ることにある」とシュトローリンの手を握った[495]

こうした反ヒトラー派はドイツ軍内にいくつも存在しており、ロンメルらはヒトラーの殺害までは考えておらず、ヒトラーに西側連合国との講和を迫り、ヒトラーが拒否すれば逮捕して裁判にかけるといったいわば穏健派であった。それに対してヘニング・フォン・トレスコウ少将やクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐などヒトラーの暗殺も辞さない強硬派もおり、ハンス・シュパイデル中将もその一員であった[496]。シュパイデルは第一次世界大戦のときからロンメルとは旧知の中であり、1944年4月にB軍集団参謀長に転属になると真っ先にロンメルと会談した。ロンメルは旧知のシュパイデルに対しては胸襟を開いて、北アフリカでの体験談でヒトラーを批判し、「この戦争は可及的速やかに終わらせるべきである」と自説を述べた。シュパイデルは、ロンメルのヒトラー批判を聞くと自らも秘密を打ち明けて、自分が反ヒトラー活動の指導者ルートヴィヒ・ベック上級大将と連絡を取り合っていること、ベックが現政権に引導を渡す準備をしていることを伝えた。その後もロンメルとシュパイデルは何度も密談を行ったが、ロンメルはヒトラー打倒には賛成ながらも殺害については同意しなかった[497]

ロンメルがヒトラーの殺害に同意しなかった理由としては、ヒトラーに失望はしていても、軍人としての忠節義務には逆らえず、上官の殺害までには踏み切れなかったというものと[498]、ロンメルが、第一次世界大戦でのドイツ帝国の敗戦は、ドイツ軍が負けたわけではなく、ドイツ本国内における戦争妨害・裏切りによるものというデマゴギーである、いわゆる「背後の一突き(匕首伝説)」を信じており、ヒトラーの殺害は「匕首伝説」の再来となるから逮捕にとどめておくべきと考えていたなど諸説ある[499]

5月15日にロンメルは旧友でフランス軍政長官カール=ハインリヒ・フォン・シュテュルプナーゲル大将との秘密会合に出席した。その席では戦争の早期終結とヒトラー政権打倒を一気に進める方策について話し合われたが、抵抗運動のリーダーとしてドイツ国民、ドイツ軍のみならず、敵の連合軍側にも議論の余地がないほどの尊敬をかちとっているのはロンメルただ一人であるということが確認された。この頃にはラ・ロシュ=ギヨンのB軍集団司令部は反ヒトラー活動の拠点みたいになっており、多くの反ヒトラー派の人物が訪れた[500]。ロンメルたちはヒトラー打倒後についても具体的な計画を話し合い、西側連合国と講和を急ぎ、講和成立後に西側の兵力を全て東部戦線に回して、戦線を縮小したうえでその維持に努めることや、新政権を樹立しその首班をゲルデラーとして、ロンメルが全軍をまとめるといった骨子ができあがったが、しかしこれはドイツ側に一方的に都合のいい現実離れした案であって、連合国側が受け入れる見込みがまったくないものであった[501]

6月29日にベルクホーフでの会談でヒトラーと物別れに終わったロンメルはもはや行動を起こすしかないと覚悟を決めて、ヨーゼフ・ディートリヒ親衛隊上級大将や後任の西部方面軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥にも協力を要請した。そしてロンメルは、7月13日にヒトラーに最後通牒を送りつけた。西部戦線の評価報告書という形式であったが、最後は「あなたに求めざるを得ません。マイン・フューラー。この状況から、遅滞なく、しかるべき結論を導かれんことを」で締められた。ロンメルはこれを至急電で打電させた後、シュパイデルに「私はヒトラーに最後のチャンスを与えた。もし彼がしかるべき結論を導きだせないのであれば、我々は行動を起こすしかない」と決意を述べている[502]。ロンメルは、自分の説得に応じないヒトラーの頑迷さに、次第に態度が強硬になっており、7月17日、ロンメルが西方装甲集団司令官ハインリッヒ・エーバーバッハ大将と作戦協議をした際に、「総統は殺されなければならない。他に手段がない。あの男こそが全てを推進している源なのだ」とヒトラー殺害もやむなしと述べている。しかし、その日にロンメルはヤーボによって重傷を負ってしまい行動を起こすことはできなかった[503]

最期

 
ウルムの市庁舎で行われたロンメルの葬儀。ルントシュテット元帥が弔辞を捧げた(1944年10月18日
 
ロンメルの棺を載せた10.5cm leFH 18榴弾砲(1944年10月18日)

同年7月20日シュタウフェンベルク参謀大佐主導のヒトラー暗殺未遂事件が発生。暗殺は偶然が重なって失敗に終わるも、ロンメルと懇意にしていたシュパイデルが計画の関与を疑われたこと、また、逮捕直前にシュテュルプナーゲルが自決を図って失敗した際にうわ言のようにロンメルの名を口にしたこと、シュテュルプナーゲルの副官(ツェーザー・フォン・ホーファッカー)(ドイツ語版)空軍中佐がゲシュタポによる拷問でロンメルが「私を当てにしてよろしい」と語っていたと供述したことからロンメルも計画への関与を疑われた。

ロンメルが暗殺計画に何らかの関与をしているとの疑いは濃かったが、確実な証拠は得られなかった。これらの情報はヒトラーに伝えられたが、ヒトラーはロンメルの関与を確信し、もっともお気に入りであった将軍を葬る決心を固めた。ただし、最後の慈悲として、裁判にかけられて惨めな思いをしたあげくに処刑されるか、英雄の名を保ったままで自決するかロンメル自身に選ばせてやることとした[504]

ロンメルが実際にシュタウフェンベルクらの計画に関与していたかについては、1970年代まで根強かったロンメル名将論[2]の影響もあって、ロンメルの心底には軍人の忠誠精神があり、上官であるヒトラー暗殺には最後まで賛同することはなかったとして、暗殺計画には関与していないとする見方が有力であった[498]。また、ロンメルを「名誉欲にかれらた無謀な作戦」を行った将軍と否定的な評価をした歴史作家デイヴィッド・アーヴィングも、本格的なロンメルの伝記となる「狐の足跡」で、ロンメルは最後までヒトラーに忠実な軍人であって、ヒトラーの暗殺計画には関与しなかったと主張した[499]。しかし、その後にロンメルの計画への関与を示す資料も発見されており、2013年にはドイツの歴史家ペーター・リープが「エルヴィン・ロンメル 抵抗の闘士か、それともナチか」という論文を発表し「ロンメルは、7月20日のクーデターを知っていたのみならず、これを支持し、暗殺計画者たちの陣営に身を投じた」と指摘している[504]

10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れたヴィルヘルム・ブルクドルフ中将とエルンスト・マイゼル少将は、ロンメルに「3秒間で効力を発揮する毒薬で自決すれば反逆を不問にして国葬で弔い、家族には年金を支給する」もしくは「人民法廷で裁く」の選択をヒトラーが迫っていることを伝えた。ロンメルの副官は使者を射殺して前線に脱出することをすすめたが、「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」とだけ言い、家族の安全を保証させた上で、ブルクドルフが乗ってきた軍用車に同乗すると、車のなかでブルクドルフから渡されたシアン化物の錠剤を飲んで自決した[505]。ロンメルの自宅周囲には抵抗に備えて、親衛隊の部隊が配置されていた。圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。ヒトラーがあえてロンメルを処刑せずに自決に追い込んだのは、国民の圧倒的人気を誇るロンメルを処刑すれば、国民や軍の反感をかきたてると判断したからであった[498]。ヒトラーは自ら会葬はせず、事情を知らなかったルントシュテットを代理として会葬させた。

戦後、残った軍命令書、戦況報告書、日記等を戦史家リデル=ハートが編集して「The Rommel Papers」として出版された。


評価

人物評

 
ロンメル(左)とヒトラー(右)

ロンメルを愛顧し続けて元帥まで引き上げた恩人ともいえるヒトラーであったが[506]、北フランスで敗戦を続けるロンメルの姿を見て「ロンメル元帥は、勝利のさなかにあっては、偉大にして、人々に霊感を与えるようなリーダーだが、ごくわずかでも困難が生じると、完全な悲観主義者に豹変してしまう。」と評している[507]

ロンメルの上官の評価も厳しくゲルト・フォン・ルントシュテットは「良き師団長になるための特性は全て備えているがそれ以上ではない」と評し、ヘルマン・ホトも同様な評価であった[504]

部下であった(ヨハネス・シュトライヒ)は「中隊長として勇敢であり、放胆であることと、非常に天才的な野戦軍司令官であることは、全く別なのです」と酷評し[504]フリッツ・バイエルラインによれば、「ロンメルは基本的に歩兵で、機甲師団を指揮していても、その戦術は歩兵のものであった」という。また、常に楽天的で、作戦にもそれが現れていた。

ヨーゼフ・ディートリヒは、ニュルンベルク裁判に証人として出廷した際に、レオン・ゴールデンソーンのインタビューの中で、ロンメルについて次のように語った。「別種の部隊からの移動は、簡単なことではない。本来、ロンメルは、歩兵科の将校だった。ロンメルは、衝動的に行動する男で、何でもすぐにやりたがっては、早々に興味を失った。私は、ノルマンディーでロンメルの指揮下にあった。ロンメルが優れた将軍ではなかったとは私には言えない。戦況が有利なとき、彼は立派だった。しかし、逆の場合は意気消沈していた」[508]

名将論

戦中の行為、また敗戦国であることからナチス指導者や他の多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけは、ドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将(彼は捕虜を丁寧に扱っていたため)として、あるいは人格者として、肯定的に評価されることが多かった。例えば、イギリスのチャーチル首相は、アフリカ北部でロンメルの手痛い打撃にさらされたとき、「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残している。

1970年代まで欧米では「名将ロンメル」論がほぼ定着していたといわれている[2]。戦後のドイツでも評価は高く、リュッチェンス級駆逐艦ロンメルにその名が冠されている。

また、ロンメルは、エジプトでも人気が高い。シワ・オアシスの町では、ロンメルが訪れた際、丁重なもてなしへの謝礼として紅茶を渡すなどしたことがあり、戦後からロンメルの写真が飾られている。このようなエジプト人からの好感には、イギリスによる過酷なエジプト植民地支配への反発もあるが、軍人としての規律と誇りを貫いたこともある。

軍事史における再検証

 
ブラウシュタイン市ヘルリンゲンにあるロンメルの墓

1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再検証されるようになった[2]

イスラエルの軍事史家マーチン・ファン・クレフェルトは、1977年の著書『補給戦』において、ロンメルがヒトラーより十分な支援が受けられず、常に補給に苦しんでいたという従来からの見方を、綿密な資料の調査で覆して以下の様にロンメルの補給軽視の姿勢を指摘した[509]

ヒトラーがロンメルを十分助けなかったという、しばしば聞かれる説は正しくない。ロンメルは北アフリカで維持できる最大の部隊を与えられたし、それ以上の兵数も与えられた。これらの部隊を維持するために、ロンメルは同程度の規模と重要性を持つ他のドイツ軍団よりも、比較にならぬほどの多くのトラックを与えられていた。リビアの港湾能力が低く運搬距離が非常に遠かった以上は枢軸国側の中東進撃を補給する問題は解決不可能だったことは明らかだ。北アフリカでは限られた地域を守るために部隊を送るというヒトラーの最初の決定は正しかった。そしてロンメルが再三にわたってヒトラーの命令に挑戦して基地から適当な距離を超えて進撃を試みたことは誤りであって、決して黙認すべきことではなかったであろう[510]

その後に連合国に押収されていた大量の資料が返却されると、ドイツ国内でも反ヒトラーの象徴として英雄視されていたロンメルの再評価が始まった。1984年にはドイツ連邦国防軍事史研究局が編纂した公式第二次世界大戦史「ドイツ国と第二次世界大戦」では北アフリカ戦線のトブルク要塞攻撃などを分析し、ロンメルは不十分な攻撃準備しか行わず、結果的に自軍に大損害を出したと批判している[511]

2000年代になると、欧米の軍事史では、ロンメルは軍人として戦略的視野や高級統帥能力の面で欠けるところがあったが、戦術的な次元では有能な指揮官だったという評価が定着したといわれている[509]

一方、2010年代に入るとドイツではヒトラーが率いた軍の軍人としてのロンメルという政治面での問題提起が行われるようになった[509]

ヨーロッパでのナチスの迫害を逃れて、パレスチナに避難してきたユダヤ人にとって、ロンメルは恐怖の代名詞であった。多くのユダヤ人避難民は、ロンメル率いるアフリカ軍団が勝利してエジプトを占領すれば、英委任統治領であるパレスチナにも侵攻してくると恐れていた。この時期は「不安の200日」と呼ばれ、ユダヤ人の武装勢力ハガナーはドイツ軍侵攻に備えて常備軍パルマッハを結成している。そのため、イスラエルでは「犯罪者(ヒトラー)に仕えた者も犯罪者」という理由で評価は低い。

2011年以降、ドイツのハイデンハイムにあるロンメルの記念碑の取り扱いを巡って論争が起きている[512]

人物像

英雄として

ドイツアフリカ軍団時代のロンメルは、「砂漠の狐」(独:Wüstenfuchs、英:Desert Fox)と渾名された。英中東軍司令官のクロード・オーキンレック将軍は、「我らが敵ロンメルは、巧みな戦術家ではあるが、人間である。あたかも彼が超自然的能力を持っているかのように評価するのは危険であり、戒めねばならない」、「アフリカの枢軸軍を指すときは、ドイツ軍や敵軍と呼ぶべきで、ロンメルという名前は用いないことが好ましい」と異例の布告を出した。

一方、ドイツ国内では英雄視され、「ゲルマン人らしい」[# 8]端正な風貌からも宣伝に大いに利用された。しかし、ロンメル自身は華やいだ場が苦手だったらしく、ある日妻にせがまれて渋々ナチスの舞踏会に参加したときには、着飾った女性たちに囲まれて、身動きができなくなったという[513]

軍人として

 
部下に鉄十字勲章を授与するロンメル

騎士道溢れる軍人でもあり、火力で敵を押し込むハード・キルより、相手を撹乱することで降伏に追い込むソフト・キルを好んだ。また、捕虜に対しては、国際法を遵守して非常に丁重に扱った。また、1941年には、ロンメル暗殺を企図してドイツ軍施設を奇襲攻撃した英国コマンド部隊の死者を丁重に扱っている。以後も英国コマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視していた。ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部から全員を虐殺せよとの命令が下ったが、ロンメルはその命令書を焼き捨てた。彼は、最後までナチス党に入党することはなく、あくまで一人の軍人として戦い続けた[513]

また、大隊長である第一次世界大戦の頃から、自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解することに努めた。本来、通信手段が発達した近代戦では、高級将校は前線に出ず、後方で全般的な指揮を行うのが普通であった。しかし、ロンメルは、瞬時に変遷する電撃戦では「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨とした。このため、ロンメル自身も幾度となく危険に晒されており、また、最高司令官の所在が不明となることがよくあった。北アフリカ戦線において、イタリア軍は度々ドイツ軍の足を引っ張ったが、ロンメルはそのようなイタリア軍兵士を労わった。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもあったが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていた[513]。 ただし、陣頭にばかり立つあまり、後方の事務や補給などの裏方には疎かったと言われている。

大衆文化への影響

音楽

映画

逸話

 
英軍のゴーグルを着用するロンメル達
 
ライカIII c型
  • ロンメルは北アフリカ戦線のリビアでの戦いの際に捕獲した英軍のゴーグルを好んで着用し、これは彼のトレードマークとなった。しばしばゴーグル自体が防塵用であるかのように言われるが、正確には「Anti-Gas Eye Shield Mk.II」と称される、柔らかな合成樹脂製の対毒ガス用ゴーグルで、英軍のガスマスクの標準的な付属品である。このゴーグルは、ロンメルが戦場から持ってきた最初で最後の戦利品であった。
  • 戦時中においても妻と手紙による交流を欠かさず、週に毎日手紙を交わす時もあった。内容は日常的なものから戦況や同盟軍に対する不満まで書き綴っていた。その手紙は現在でも保管されている。
  • 幼年時代に航空機技術者になる夢を持っていたせいか機械に対する興味が旺盛で、気軽に軽飛行機に搭乗して偵察を行ったり宣伝大臣のゲッベルスからプレゼントされたカメラを愛用して欧州やアフリカで数千枚の戦場写真を残したりした。息子マンフレートによると元々写真撮影が好きだったというが、同僚からは写真家将軍と揶揄されていた。ロンメル自身が指揮装甲車の屋根からカメラを構えている姿を撮った写真も残っている。アフリカ軍団が危機的状況に陥った1943年2月にはエルンスト・ライツ社からライカIII c型を贈られている。このカメラは現存し、ロンメルからの感謝状も同社に残っている。
  • 長男マンフレートがアーリア民族の人種的優越の話をしていると「私の前でそういう馬鹿げたことを喋るな」と叱責したといわれる。また、マンフレートは武装親衛隊への入隊を希望していたものの、それを禁じたという。
  • ロンメル自身の遺稿があり、側近のフリッツ・バイエルラインとルチー=マリア夫人が整理編み1950年に発行された。
    • 訳書『「砂漠の狐」回想録 アフリカ戦線1941~43』、大木毅訳(作品社、2017年)

語録

  • 「汗を流せ、血は流すな」
  • 「指揮官は部下のなかに入っていき、彼らとともに感じ、ともに考えなければならない」
    • 訳書『ロンメル語録 諦めなかった将軍』ジョン・ピムロット、岩崎俊夫訳(中央公論新社、2000年)

脚注

注釈

  1. ^ ファーストネームのErwin日本語では「エルウィン」「エルヴィン」と表記される事が多い。より実際の発音に近く「エアヴィン」、英語読みで「アーウィン」とカタカナ表記されることもある。姓のRommelは、実際の発音は「ロメル」に近い。
  2. ^ 当時のドイツ帝国軍では、士官候補生をいきなり士官学校に入学させず、まず野戦部隊に配属することで、下士官や兵士と一緒に寝起きを共にさせていた。これは、ナポレオン戦争の時に露呈したプロイセン軍の将校と下士官・兵士の相互不信の問題を解消するためである。この部隊勤務に馴染んだ者だけが、士官学校へ進むことが許可された[26]
  3. ^ ベイジル・リデル=ハートによるとロンメルの第7機甲師団の戦車総数は218両とされる[155]
  4. ^ ロンメルはアラスの戦いで「III号戦車6両」を失ったと書いているが、恐らく38(t)戦車の間違いである[219]
  5. ^ 迂回戦術とは敵陣地正面から歩兵が助攻撃をして陣地内の敵部隊を拘束しつつ、その間に主力の機甲部隊が敵陣地の後方に回り込み、戦闘を継続するのに必要な後方連絡線を遮断し、敵部隊が敵陣地から出てくるよう差し向ける戦術である。敵が入念に準備しているであろう敵陣地内での決戦を避け、陣地外での決戦を強要するのに有効な戦術である[287]
  6. ^ 一翼包囲戦術とは迂回戦術が取れない場合に使用する戦術である。敵陣地の中では防御力が弱い部分である側面部分(この側面部分のことを一翼と称している)に主力の機甲部隊が攻撃を加え、そのまま側面部分を通って敵中枢や補給拠点に攻撃を加える戦術である。ただし敵が入念に準備しているであろう地域内での戦闘になるから迂回以上に歩兵の助攻撃がしっかりしていないといけない[287]
  7. ^ また、前線の防備施設や配置兵力を強化するためヒトラーに直談判する予定でもあった。
  8. ^ 人種民族は異なるものであるが、ナチズムは「民族の人種的優越」を掲げていた。アーリアン学説なども参照されたい。

出典

  1. ^ “北フランスの英仏海峡沿いにドイツが築いた…:ノルマンディー上陸作戦”. 時事ドットコム. https://www.jiji.com/jc/d4?p=ddy601-000_SAPA990119147990&d=d4_mili 2020年11月30日閲覧。 
  2. ^ a b c d e 大木毅 (2019年4月2日). “「名将」ロンメルの名声はいかにして堕ちたか 「砂漠の狐」ロンメルの知られざる姿 第1回”. Japan Business Press. p. 1. 2019年4月3日閲覧。
  3. ^ クノップ(2002)、p.24
  4. ^ a b c d e f g h i ピムロット(2000)、p.11
  5. ^ 山崎(2009)、p.24
  6. ^ a b c d e ヤング(1969)、p.34
  7. ^ ヴィストリヒ(2002)、p.326
  8. ^ a b c d 山崎(2009)、p.26
  9. ^ a b c d e アーヴィング(1984)、上巻p.37
  10. ^ a b c d e ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。