アルフレート・エルンスト・ローゼンベルク(ドイツ語: Alfred Ernst Rosenberg, 1893年1月12日 - 1946年10月16日)は、ドイツの政治家、思想家。国家社会主義ドイツ労働者党(対外政策全国指導者)。第二次世界大戦期には東部占領地域大臣も務めた。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑された。
アルフレート・ローゼンベルク Alfred Rosenberg | |
---|---|
| |
生年月日 | 1893年1月12日 |
出生地 | ロシア帝国 レヴァル(現: エストニア タリン) |
没年月日 | 1946年10月16日(53歳没) |
死没地 | 連合国軍占領下のドイツ バイエルン州 ニュルンベルク |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
称号 | ドイツ芸術科学国家賞 |
サイン | |
内閣 | ヒトラー内閣 |
在任期間 | 1941年7月17日 - 1945年5月8日 |
総統 | アドルフ・ヒトラー |
国家社会主義ドイツ労働者党 対外政策全国指導者 | |
在任期間 | 1933年6月2日 - 1945年5月8日 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 | 1930年 - 1945年 |
生涯
1893年ロシア帝国領エストニアのレヴァル(現タリン)に、ドイツ系商館の支配人を務めていたバルト・ドイツ人の子として生まれた[1]。ローゼンベルク姓はユダヤ人に多い姓だが、バルトでは非ユダヤ人にも一般的な姓だった[2][注 1]。
母はアルフレートを産んでまもなく死亡し、父親も若くして病死した。そのためサンクトペテルブルクにあった母方の親戚の家に預けられて育った。彼はレヴァルの実科学校で、ドイツ人教師と出会い、ドイツの古い文化や地理、北欧神話やインド哲学への興味を持つようになった[1]。中でも17歳の時に読んだヒューストン・ステュアート・チェンバレンの著書『十九世紀の基礎』は、彼が反ユダヤ主義やゲルマン民族至上主義に傾倒するきっかけとなった[3]。その後、建築家になるべく、リガ工科大学に進んだ。リガ工科大学在学中より古代インドのアーリア人神話や神秘主義哲学に傾倒、ラスプーチンやグルジエフの影響を受けたロシア神秘主義サークルに参加したオカルティストでもあった。
第一次世界大戦によるドイツ軍の侵攻によってローゼンベルクはモスクワに移り、モスクワ高級工科学校(現在のバウマン記念モスクワ国立工科大学)に入学した。しかしまもなくロシア革命が発生し、ローゼンベルクは革命の進展を目の当たりにした。彼は革命期のアナキズムに強い嫌悪感を持ち、また共産主義革命を「ユダヤ人の陰謀」ととらえ、これらに強く反感を持つようになった[4]。1915年にはヒルダ・リースマン(Hilda Leesmann)と結婚した。1918年には建築学の資格を取得し、レヴァルに進軍してきたドイツ軍に入隊を志願したが認められなかった。その後締結されたボリシェヴィキ政府とドイツの休戦協定に衝撃を受け、11月には「祖国を得るため我が家を棄て」ベルリンに向けて旅立った[5]。
初期のナチ党幹部
しかし、ベルリンは当時戦争敗北のため混乱の極みにあった。1919年初頭、ローゼンベルクは職を得るためミュンヘンに移ったが、亡命者救済委員会の世話になって暮らした[6]。ある日、路上で妻ヒルダの友人と出会い、政治運動家で詩人のディートリヒ・エッカートと出会うよう進められた。ローゼンベルクはエッカートに対し「あなたは、エルサレムに対し戦う人間を雇いますか」と問いかけると、彼は「もちろん」と答え、世話を引き受けた[7]。ローゼンベルクはエッカートが主宰する新聞『良いドイツ語で』に記事を書き、彼の主催するトゥーレ協会にも参加した[7]。
1919年末頃にはアドルフ・ヒトラーと出会い、ドイツ労働者党(DAP)の党員となった。党員番号は626番だった[7]。DAPは1920年に国家社会主義ドイツ労働者党へと改称した。ローゼンベルクはロシア語に堪能で、東方問題に詳しかったため、初期のナチ党幹部の中で一種独特の地位を築くことになった[8]。党は12月に『ミュンヒナー・ベオバハター』紙を買い取って『フェルキッシャー・ベオバハター(「民族の観察者」の意)』と改め、ローゼンベルクはエッカートの補佐として編集助手となった。その後エッカートが体調を崩して党務から退くと、かわってヘルマン・エッサーが主筆となった。ローゼンベルクはこの人事に不満であり、素行の悪いエッサーを軽蔑したため両者の間は険悪となった[2]。1922年に『フェルキッシャー・ベオバハター』主筆となった[9][要文献特定詳細情報]。
この頃、ローゼンベルクはその外交に対する視野からヒトラーに大変気に入られており、彼は「自分が意見を聞くのはローゼンベルクだけである」と(クルト・リューデッケ)に告げていた[10]。またエルンスト・ハンフシュテングルもヒトラーが彼の大きな影響下にあったと指摘している[10]。これらの点を(コンラート・ハイデン)は「エッカートとローゼンベルクはヒトラーの教師だった。ヒトラーは数年の間、彼らの口真似をしているに過ぎなかった」と評している[11]。ただし、事務や政務の能力には欠け、党内の有力な役職はエッサーやマックス・アマンらに握られていた[10]。1923年には『国家社会主義ドイツ労働者党の本質、原則および目的』という綱領解説書を出版し、5万部ほどを売り上げた[10]。
ヒトラーの代理人
1923年11月8日のミュンヘン一揆では、翌日の失敗に至るまでヒトラーと行動を共にした。ローゼンベルクは逮捕を逃れ、ミュンヘンの各地に潜伏していた[12]。ヒトラーは収監後、ローゼンベルクに党指導を一任した。ローゼンベルクは大ドイツ民族共同体という偽装団体を立ち上げ、ナチ党の運動を再開した。しかしこの運動の実権はまもなくエッサーやユリウス・シュトライヒャーに握られ、ローゼンベルクの権力はほとんど無きに等しかった[13]。1月31日にはザルツブルクの幹部会合で党指導者代理に指名された[14]が、ミュンヘンに残っていた幹部、エッサー、シュトライヒャー、アマンとローゼンベルクの関係は最悪であり、彼を「部分的ユダヤ人」や「フランス[注 2]のスパイ」であると罵った[15]。
このころ、党の問題となっていたのが、エーリヒ・ルーデンドルフのドイツ民族自由党との合併問題であった。ローゼンベルクは党の合併には反対したが、合法的な選挙によってナチ党の勢力拡大を図るべきと考え、選挙での協力関係を結ぶことには同意した。これらの運動の連合である「国家社会主義自由運動」は5月の国会選挙で200万近い票を集めることに成功した。しかしヒトラーは当初選挙にも反対しており、合併問題についても意見をはっきりさせないなど、ローゼンベルクの方針にはっきりとした同意を与えなかった[15]。さらに6月16日にはヒトラーが「誰も自分の代理で行動したり声明したりする権限はない」と表明したことで、ローゼンベルクの党指導代理の地位は失われた[16]。ローゼンベルクは反ユダヤ主義の新聞・雑誌の発行等の活動しか行えず、運動の主導権は他の幹部にすっかり奪われていた。ヒトラーは後にローゼンベルクがこの時期不忠であったと彼を激しく非難している[15]。結局この体制は民族自由党との決裂と、ヒトラーの出獄によって終焉した。
1929年には(ドイツ文化闘争連盟)を創設した。1930年には国会議員となり[15]、外務委員会に属した。
ゲルマン神秘主義者
ローゼンベルクは中世ドイツの神秘主義者エックハルトを信奉して真の宗教をドイツ神秘主義とし、1930年に『二○世紀の神話』を、1934年には『マイスター・エックハルトの宗教』を上梓[9][17]した。
ローゼンベルクは反ユダヤだけでなく、反キリスト教会の立場にもあり、イエスが神であることや、イエスの復活などは信じていなかった[9]。ローゼンベルクはキリスト教のアガペー(愛)、謙遜、ヘセド(憐憫)、ヘーン(恩寵)よりも、魂の美、自由で高貴な魂を重視し、ユダヤ教には不死の信仰や形而上学的な宗教がないとして、ユダヤ的=ローマ的世界観に代わって、北方種族のゲルマン的人間の内的側面を称揚した[9]。
ローゼンベルクらドイツ右翼はパラケルススやヤーコプ・ベーメなどのドイツの黙示録的伝統こそを「ドイツ革命」と呼び、神と自然が一体となるゲルマン民族をユートピアとし、千年王国的、終末論的な革命待望の思想は右翼を強力にした[18]。
ナチス政権下
この節は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2018年12月) |
1933年4月にはナチ党の対外政策全国指導者に就任し、(ナチ党外務局)のトップとなった[19]。外務局の任務は、東ヨーロッパとバルカン諸国のファシスト集団との連絡を維持することであり、海外政策についてコンスタンティン・フォン・ノイラートの外務省やヨアヒム・フォン・リッベントロップのリッベントロップ機関、エルンスト・ヴィルヘルム・ボーレの(ナチ党国外大管区)と争った。
1934年にナチス全精神的・世界観的教育と育成の監視のための総統受任者となった[9]。
1934年からは(ローゼンベルク事務所)を立ち上げ、ナチス理論の宣伝と国内の言論活動を監視とした。1937年にはノーベル賞に対抗して制定された「ドイツ芸術科学国家賞」を受賞する。1939年にはエーリヒ・レーダーとノルウェー国粋党の仲介などを行った。
1939年にはフランクフルト・アム・マインにユダヤ人問題研究所(Institut zur Erforschung der Judenfrage)を設立した[9]。
1941年に独ソ戦が始まると、ヒトラーに命じられて新しい占領地域に3つの(弁務官区)を作る計画を立案し、東部占領地域大臣に任命された。しかし東部占領地域省はハインリヒ・ヒムラーやヘルマン・ゲーリングらとの政争において終始劣勢であり、東方における実権はほとんどなかった[注 3]。1941年7月16日に行われた総統大本営での会議では、占領したウクライナの住民に対して友好的な政策を採用してもらいたいと訴えるが、ヒトラーに一蹴された。
第二次世界大戦の勃発後、外務局の下に全国指導者ローゼンベルク特捜隊が設置され、占領地からの文書・美術品の押収に当たった。1942年6月のユダヤ人への住居退去指令によって、税務署員が押収した中でも「著作とそのほかのユダヤ的源泉の文化・芸術作品」が、ローゼンベルク特捜隊に渡され、フランクフルトのユダヤ人問題研究所に送られた。この特捜隊はオランダやフランス、ベルギーなどに権限を拡大し、ラビの神学校・(スピノザ協会)などから個人の蔵書・美術品を押収し、その中にはローゼンタール文庫のような貴重な史料も含まれていた。
1943年3月に東部占領地域省はユダヤ人の「家具」の処分を単独で行うことを宣言し、その売り上げは東部占領地域省の予算に入れるべきだと主張。1944年5月の段階でローゼンベルクの東部占領地域省は「ユダヤ人問題が親衛隊の管轄であることを認める、ただし収容所における賃金差益は帝国弁務官の財務局に支払われるべきだ」と主張する書簡を送った。
1943年には連合国との和平案として「私有財産と信教の自由、ソ連の少数民族の自治権回復を約束する」という方針を推薦したが、これもヒトラーに容れられなかった。同年5月にヒトラーに支持されて、農業条例を発表した。これはソ連農民の協力を得て生産力を高め食料をより多く獲得する目的のために、農民が耕作した土地の永久所有を認めることを謳ったものであったが、その秋には軍事情勢が悪化し、ローゼンベルクの宣言は完全な失敗に終わった。
処刑
ローゼンベルクは1945年5月19日、イギリス軍によって(フレンスブルク=ミュルヴィク)の海軍歩兵部隊の野戦病院で逮捕された。ニュルンベルク裁判では「侵略戦争の共同謀議」「侵略戦争の実行」「人道に対する罪」「戦争犯罪」の4つの罪で訴追された。裁判ではローゼンベルクが「認識された党のイデオローグ」だけでなく、外務大臣だったリッベントロップに次ぐ外交政策の責任者と見なされた事も重視された。1946年10月1日にすべての罪状が有罪となり、死刑判決が下った。
ニュルンベルク刑務所付心理分析官グスタフ・ギルバート大尉が、開廷前に被告人全員に対して行ったウェクスラー・ベルビュー成人知能検査によると、ローゼンベルクの知能指数は127だった[20]。
1946年10月16日に刑が執行され、直前に刑吏から最後の言葉はないかと問われ、「ない(Nein)」とだけ答えた。これが彼の最期の言葉となった。自殺したゲーリングを含めてローゼンベルクら11人の遺体は、アメリカ軍のカメラマンによって撮影された。撮影後木箱に入れられ、アメリカ軍のトラックでミュンヘン郊外の墓地の火葬場へ運ばれ、そこで焼かれた。遺骨はイーザル川の支流(コンヴェンツ川)に流された[21]。
人物と思想
この節は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2018年12月) |
- ローゼンベルクはヒトラーに忠実に仕え、ヒトラーも様々な地位を与えたが、ローゼンベルクはどれ一つとして首尾よくこなすことが出来なかった。ヒトラーは彼を、人種論の担当者、そして文化宣伝の責任者にしたが、最終的には彼を疎んじるようになっていった。ヒトラーの他の部下たちよりは人柄が高尚で、権力闘争はおろか自分の政策を実行するための根回しすらできないため、マルティン・ボルマンやエーリヒ・コッホなどが彼の頭越しに意見を通すこととなった。権力機構から見られるローゼンベルクの権力の大きさと、それに相反した発言力の無さは奇妙な印象を与えるが、これはローゼンベルクがナチス内部での権力闘争に敗北していた事を意味している。
- 初期の彼の民族論・文化論は、1930年に発行された著書『二十世紀の神話』(Der Mythus des 20.Jahrhunderts) にまとめられている。しかしながら、その思想が偏狭で融通に欠けていることからヒトラーの側近には侮られ、後にはヨーゼフ・ゲッベルスにも「イデオロギー(観念)のげっぷ」と軽蔑された。彼の民族論によれば、人種の多元性を認め、未来のドイツ帝国から排除される人種はユダヤ人だけであるとしている。それゆえか、ゲルマン民族以外は人類から排除するという徹底的な主張の持ち主であったヒムラーやボルマンらがヒトラーの信頼を勝ち得、ローゼンベルクは次第に実質的な権力を喪失していった。
- 近年では定型的な批判とは別に、ゴシック様式の評価などの内容をはじめ、思想的内容も常識的であるとする見方も思想史的に登場しつつある。
- 米軍の拘留記録によると身長は180センチである[22]。
東方政策
この節は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2018年12月) |
- ローゼンベルクは、ポーランド・ウクライナ・バルト海沿岸へとドイツの生存圏を拡げるべきだという東方生存圏の思想をたびたび表明しており、ヒトラーへの影響も指摘されている。1927年の著書『ドイツ外交将来の道』では、その立場はより明確となっている[23]。ただし、大ロシア人(現代で言うロシア人)とユダヤ人についてはヒトラーと一致した見解を持っていたが、ロシア人をソ連の他の民族と区別していた。ローゼンベルクの反ソ連思想は強固なものであり、時に対ソ宥和をとなえたナチス左派とは相容れなかった[23]。
- ローゼンベルクはモスクワ大公国を「ロシア=モンゴルの後進性」の中心と見なしていた。彼によれば、ロシア人は帝政時代にもソヴィエト政権下においても民族的に異なるウクライナ人・エストニア人・グルジア人・タタール人を抑圧し、ロシア化を強制したとしている。ドイツがボリシェヴィキの圧政からの解放者として振舞えば、ソ連国内にいる大ロシア人以外の何百万という住民の支持が得られ、ロシア人国家を解体できると信じていた。ウクライナ人国家を建設し、バルト諸国やカフカースも分離させることで大ロシア人の侵略を阻止できる、という彼の主張は、ゲーリングの「ドイツ人の入植と直接支配」という方針転換に斥けられた。
- 独ソ戦でドイツが勝利できた場合の戦後構想も考えていた。ローゼンベルクの案では、東方に親ドイツの国民国家をつくる予定で、ソ連は4つの国に分割する。第一は、モスクワ周辺のロシア北西部、北極地方からトルキスタンまで広がる地域で、昔の国名「モスクワ大公国」とする。第二はコーカサス。第三はウクライナ。第四はバルト三国・ベラルーシ周辺の「オストラント(東方地域)」だった[24][25]。
著作
- 1920年に『シオン賢者の議定書』のドイツ語翻訳を出版。ロシア語以外の最初の言語による『議定書』がドイツで出版されました。
- Unmoral im Talmud. Deutscher Volksverlag, München 1920
- Die Spur des Juden im Wandel der Zeiten. Deutscher Volksverlag, München 1920
- Die Verbrechen der Freimaurerei. Judentum, Jesuitismus, Deutsches Christentum. Hoheneichen-Verlag, München 1921.
- Pest in Rußland! Der Bolschewismus, seine Häupter, Handlanger und Opfer. Deutscher Volksverlag, München 1922
- Der staatsfeindliche Zionismus auf Grund jüdischer Quellen erläutert. Deutschvölkische Verlagsanstalt, Hamburg 1922, DNB 575892668.
- Die Protokolle der Weisen von Zion und die jüdische Weltpolitik. Deutscher Volksverlag, München 1922.
- Wesen, Grundlagen und Ziele der national-sozialistischen deutschen Arbeiterpartei : Das Programm der Bewegung. Deutscher Volksverlag Dr. E. Boepple, München 1923, DNB 577383639.
- Zentrum und Bayerische Volkspartei als Feinde des Deutschen Staatsgedankens. Deutscher Volksverlag, München 1924, DNB 362187436.
- Houston Stewart Chamberlain als Verkünder und Begründer einer deutschen Zukunft. H. Bruckmann, München 1927, DNB 577383531.
- Dreißig November Köpfe. Kampf-Verlag Gregor Strasser, München 1927, DNB 362187363.
- Der Zukunftsweg einer deutschen Außenpolitik. Franz-Eher-Verlag, München 1927, DNB 575892684.
- Der Sumpf. Querschnitte durch das „Geistes“-Leben der November-Demokratie. Franz-Eher-Verlag, München 1927, DNB 577383604.
- Der Weltverschwörerkongreß zu Basel. Franz-Eher-Verlag, München 1927, DNB 577383620.
- Freimaurerische Weltpolitik im Lichte der kritischen Forschung. Franz-Eher-Verlag, München 1929, DNB 36218741X.
- Der Mythus des 20. Jahrhunderts. Eine Wertung der seelisch-geistigen Gestaltenkämpfe unserer Zeit. Hoheneichen-Verlag, München 1930.
- Das Wesensgefüge des Nationalsozialismus : Grundlagen der deutschen Wiedergeburt. Franz-Eher-Verlag, München 1932.
- Krisis und Neubau Europas. Junker & Dünnhaupt, Berlin 1934, DNB 362187339.
- Die Religion des Meister Eckehart. Hoheneichen-Verlag, München 1934
- An die Dunkelmänner unserer Zeit. Eine Antwort auf die Angriffe gegen den „Mythus des 20. Jahrhunderts“. Hoheneichen-Verlag, München 1935.
- Der entscheidende Weltkampf: Rede auf dem Parteikongreß in Nürnberg 1936. Franz-Eher-Verlag, München 1936, DNB 575892536.
- Blut und Ehre Band I. Ein Kampf für deutsche Wiedergeburt. Reden und Aufsätze von 1919–1933. Franz-Eher-Verlag, München 1936.
- Blut und Ehre Band II. Gestaltung der Idee. Reden und Aufsätze von 1933–1935. Franz-Eher-Verlag, München 1936
- Protestantische Rompilger. Der Verrat an Luther und der „Mythos des 20. Jahrhunderts“. Hoheneichen-Verlag, München 1937, DNB 575892382.
- Der Kampf zwischen Schöpfung und Zerstörung: Kongreßrede auf dem Reichsparteitag der Arbeit am 8. September 1937. Franz-Eher-Verlag, München 1937, DNB 575892102.
- Blut und Ehre Band III. Kampf um die Macht. Aufsätze von 1921–1932. Franz-Eher-Verlag, München 1937, DNB 575892064.
- Weltanschauung und Glaubenslehre [Vortrag, gehalten am 4. Nov. 1938 an der Martin Luther-Universität Halle-Wittenberg]. Niemeyer, Halle/Saale 1939, DNB 362187398.
- Der geschichtliche Sinn unseres Kampfes : Rede vor Soldaten der Westfront (16. April 1940), aus: Tornisterschrift des Oberkommandos der Wehrmacht, Abteilung Inland ; Jahrgang 1 1939/40, Heft 9. M. Müller, Berlin 1940, DNB 365055441.
- Blut und Ehre Band IV. Tradition und Gegenwart. Reden und Aufsätze von 1936–1940. Franz-Eher-Verlag, München 1941
- Das Parteiprogramm : Wesen, Grundsätze und Ziele der NSDAP. Franz-Eher-Verlag, München 1939
- Gold und Blut. Rede am 28. November 1940 in der französischen Abgeordnetenkammer zu Paris. Franz-Eher-Verlag, München 1941
- Schriften und Reden Band 1. 1917–1921. Hoheneichen-Verlag, München 1943
- Schriften und Reden Band 2. 1921–1923. Hoheneichen-Verlag, München 1943
- Pest in Russland: Der Bolschewismus, seine Häupter, Handlanger und Opfer: Gekürzt herausgegeben von Georg Leibbrandt. 5. Auflage. Franz-Eher-Verlag, München 1944
- Portrait eines Menschheitsverbrechers: Nach den hinterlassenen Memoiren des ehemaligen Reichsministers Alfred Rosenberg. Zollikofer, St. Gallen 1947
- Letzte Aufzeichnungen. Plesse-Verlag, Göttingen 1956.
- Das politische Tagebuch Alfred Rosenbergs aus den Jahren 1934/1935 und 1939/1940. Hrsg. und erläutert Hans-Günther Seraphim nach der photographischen Wiedergabe der Handschrift aus den Akten des Nürnberger Prozesses. Musterschmidt, Göttingen 1956, DNB d-nb.info.
- Großdeutschland, Traum und Tragödie. Rosenbergs Kritik am Hitlerismus. Selbstverlag H. Härtle, München 1970.
- Selected Writings: Edited and introduced by Robert Pois. Cape, London 1970, DNB 57813098X.
- Race and race history, and other essays / Edited and introduced by Robert Pois. Harper Torchbooks, New York 1974, DNB 100907525X.
- Jürgen Matthäus, Frank Bajohr (Hrsg.): Alfred Rosenberg: Die Tagebücher von 1934 bis 1944. Fischer, Frankfurt am Main 2015, (ISBN 978-3-10-002387-2).
日本語訳:
脚注
注釈
- ^ 一部のジャーナリストの説では、ローゼンベルク家はドイツ系の血統ではなく、ラトビア人、あるいはユダヤ人であるとされているが、立証はされていない[1]。
- ^ 彼は第一次世界大戦勃発直前である1914年の夏にフランスを旅行しており、3週間パリに滞在していた。
- ^ ヘルマン・ゲーリングに次ぐ「東部占領地域大臣」として、また党の「外務部長」としてのローゼンベルクは、当然、ポーランドやロシア・バルカン諸国・バルト諸国でのユダヤ人の扱いを知悉し、責任を分担すべき地位にあった。しかしローゼンベルクの官庁は、占領された民政地域の経済事項を決定する権限しか与えられておらず、軍政を掌握するゲーリングの組織と競合する立場にあった。ユダヤ人労働者の強制労働、食糧供給((飢餓計画))、財産の没収についてローゼンベルクは介入できなかったし、するつもりもなかった。東部占領地域省が支配する地方へのユダヤ人の移動について1941年10月に2度ほどフランス軍司令部やポーランド総督府に相談されたことがあるが、いずれも結論は出ていない。
出典
- ^ a b c 井代彬雄 1972, pp. 25.
- ^ a b 井代彬雄 1972, pp. 36.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 25–26.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 27.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 28.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 29–30.
- ^ a b c 井代彬雄 1972, pp. 30.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 36–37.
- ^ a b c d e f 上山安敏2005,p.251-257.
- ^ a b c d 井代彬雄 1972, pp. 38.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 43.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 44.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 45.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 45–46.
- ^ a b c d 井代彬雄 1972, pp. 46.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 46–47.
- ^ Die Religion des Meister Eckehart. Hoheneichen-Verlag, München 1934.
- ^ #モッセ1996,p.73-93.
- ^ 井代彬雄 1972, pp. 35.
- ^ レナード・モズレー著、伊藤哲訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、1977年、早川書房 166頁
- ^ パーシコ(1996)、下巻p.313
- ^ “”. 2016年8月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月1日閲覧。
- ^ a b 井代彬雄 1972, pp. 34.
- ^ リチャード・オウヴァリー(永井清彦:訳)『地図で読む世界の歴史 ヒトラーと第三帝国』河出書房新社、2015年新装版、p86~87
- ^ P.カルヴォコレッシーほか(八木勇:訳)『トータル・ウォー 第二次世界大戦の原因と結果(上巻) 西半球編』河出書房新社、1991年、p266~268
参考文献
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 創設 | 東部占領地域大臣 1941年 - 1945年 | 次代 廃止 |