高木 盛兼(たかぎ もりかね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。通称は十郎左衛門、諱は守之とも。美濃国(高須城)主。
生涯
豊臣秀吉に仕え、九州平定、小田原征伐に従軍する。その功として文禄元年(1592年)、美濃高須城主として海西郡、石津郡内において1万石を領した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与し、前哨戦において居城高須城の守りを固めていた。そんな折に東軍に属した徳永寿昌が開城を促しに来た。隣地の西軍に属した丸毛兼利の福束城が落城し、盛兼は東軍との戦力差を感じていたが、近くに同族が守る城もあり、不戦敗では面目が立たない、空砲を撃って、空戦を演出した上で城を出て降伏したいと願い、話合いはまとまった。しかし8月19日、徳永寿昌と市橋長勝が兵1000余で攻めてきて、空砲どころが実弾を撃ってきたので、欺かれたと思い、交戦こそするが城兵の士気が低く、支えきれずに船で縁者の(高木八郎左衛門正家)が守る(津屋城)へ退却した。しかし、こちらでも一緒に東軍と戦うが抗しきれず、正家ともども大垣城に退却した。
戦後、没落した盛兼は出雲国松江藩の堀尾吉晴の食客となり、同地で没した。