長生院(ちょうせいいん)は、戦国時代から江戸時代にかけての女性、尼僧。浅野長政の正室。名は「やや(良々)」または「お祢々[2]」、末津姫(まつひめ)[3]など。晩年は出家して宗玉と名乗る。
略歴
通説では、父は杉原定利で、母は朝日殿((杉原家利)の娘)とされ、姉おねとともに、浅野長勝とその後妻で(ややの叔母にあたる)七曲殿の養女となり、ややが安井重継の子長政(長吉)の妻となって、これを浅野家の婿養子として迎え入れたとされる。しかし杉原氏、木下氏の系図にややに関する記述がなく、別に浅野氏の系図には、ややの父は浅野長勝で、母はその先妻の勝福院(樋口美濃守の娘)であると記述するものがあり、ややは長勝の実の娘で、おねとは義理の姉妹だったとする説がある[1][4]。
兄弟姉妹に、おね(豊臣秀吉の正室・高台院)、木下家定、くま(長慶院、(三折全友)室)がいる。長政との間には浅野幸長、浅野長晟、浅野長重、豊姫(杉原長房室)、女(堀親良室)、(智相院)(松平定綱室)をもうけた。
慶長16年(1611年)、長政(伝正院殿)の死後は出家して、一宝宗玉と号した(長生院は諡号)。また、長重領の真岡2万石のうち3千石を隠居料とした[1]。
慶長18年(1613年)、長男幸長にも先立たれる。この際、幸長に男子がいなかったため、世継ぎ争いとなり、三男長重に遺領を継がせるように希望したが、結局、次男長晟が継いだ。
元和2年(1616年)江戸にて死去。葬儀の際に徳川義直より銀100枚が贈呈された。墓は、夫と同じく天目山(伝正寺)にある。戒名は長生院殿一宝宗玉大姉。
演じた人物
脚注
参考文献
- 手島益雄国立国会図書館デジタルコレクション 『浅野長政公伝』東京芸備社、1920年 。
- 浅野史蹟顕彰会 編国立国会図書館デジタルコレクション 『浅野荘と浅野氏』浅野史蹟顕彰会、1917年 。