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邪馬台国

邪馬台国
邪馬台国
xxxx年 - xxxx年
公用語 古代日本語
首都 不明
女王
xxxx年 - 248卑弥呼
xxxx年 - xxxx年台与
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
不明 xxxx年xx月xx日
現在 日本
 

邪馬台国やまたいこく/やまとのくに)は、2世紀 - 3世紀日本列島に存在したとされる(くに)のひとつ。邪馬台国は女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。古くから大和国(やまとこく)の音訳として認知されていたが[注釈 1]江戸時代新井白石が通詞今村英生の発音する当時の中国語に基づき音読した[注釈 2] ことから「やまたいこく」の読み方が広まった。日本の文献には邪馬台国や卑弥呼の存在は一切記載は無く日本では存在は立証されていない。所在地について、今も議論が続いている。

概要

中国の『三国志』における「魏志倭人伝」(『三国志』魏書東夷伝倭人条)では、卑弥呼は、約30の国からなる倭国の都としてここに住居していたとされている。

なお、現存する三国志の版本では「邪馬壹國」(新字体:邪馬壱国)と表記されているが、晩唐以降の写本で誤写が生じたものとするのが通説である(台の旧字体「臺」は壱の旧字体「壹」と似ているため)。現代人の著作の多くは、それぞれ「壱」「台」で代用しているので、本項でも「邪馬台国」と表記する。

倭国は元々男王が治めていたが、国の成立(1世紀中頃か2世紀初頭)から70-80年後、倭国で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱の時期は2世紀後半)。そこで卑弥呼という巫女を王に共立することによって混乱が収まり、邪馬台国連合が成立した。弟が彼女を補佐して国を治めており、他に官として伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮を置いていた。戸数は七万余戸あったとされるが、誇張ないし伝聞に基づくものとする意見もある。

女王は魏に使節を派遣し親魏倭王封号を得た。もとから狗奴国とは対立しており、狗奴国との戦いがあった時期から間もなく248年頃に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、卑弥呼宗女の「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が巫女女王になることで連合国が収まった。壱与女王は266年に晋の武帝に遣使、朝貢している。また、壱与の治世時期は、近畿ヤマト王権では崇神天皇治世時期に重なるとする説もある。

なお、倭人伝中に出現する表記上は、「邪馬台国」は1回に過ぎず、「女王国」が5回を数える。邪馬台国と後のヤマト王権の関係、邪馬台国の位置については諸説ある。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについても諸説がある。

「魏志倭人伝」中の“邪馬台国”

 
魏志倭人伝の原文の抜粋。

以下は「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国の概要である。

道程

魏志倭人伝には、の領土で朝鮮半島北部ないし中部に当時あった郡[注釈 3] から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東到 其北岸狗邪韓國七千餘里

始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗副曰卑奴毋離所 居絶島方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗副曰卑奴毋離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食亦南北市糴

又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛行不見前 人好捕魚鰒 水無深淺皆沈没取之

東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐

東南至奴國百里 官曰兕馬觚副曰卑奴毋離 有二萬餘戸

東行至不彌國百里 官曰多模副曰卑奴毋離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌副曰彌彌那利 可五萬餘戸

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

次有斯馬國次有巳百支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次有奴國 此女王境界所盡

其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王

自郡至女王國 萬二千餘里

(中略)

計其道里 當在會稽東冶之東

対海国一大国末廬国伊都国奴国不彌国投馬国、邪馬台国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置や道程の比定をめぐっては論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。

その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[注釈 4] があり、女王国の南には男王卑弥弓呼が治める狗奴国があり女王国と不和で戦争状態にあった。なお、天照大神の神話の系図によれば、薩摩等の隼人の部族もまた天照の子孫であり、天照と卑弥呼は置かれていた状況にも類似点がうかがえる。

倭地、女王国の地理

女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黑齒國復在其東南 船行一年可至


參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里

女王國から東に1,000里ほど海を渡ればまた倭種の国があることは、九州説を前提とすれば中国地方を、畿内説を前提とすれば東海地方や琵琶湖の対岸が倭種の国と想起される。その倭種の国からは南に、小人の国である侏儒国があると説明されている。それとは別にまた船行一年にて行ける所として裸国と黒歯国があった。倭地、女王国について説明があり、「倭地について參問(情報を収集)すると、海中の洲島の上に絶在していて、或いは絶え、或いは連なり、一周めぐるのに五千里ばかりである。」とある。この周旋5,000里については、女王国までの12,000里から帯方郡から狗邪韓国までの7,000里を引いたもので、倭国領域内での行程を机上で算出したものにすぎないという説[注釈 5] と、後述する短里説によれば一周400km弱となるから九州のことだという説、及びその他の諸説がある。

政治

收租賦 有邸閣 國國有市 交易有無 使大倭監之

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、国々には市場が開かれ、「大倭」[注釈 6] に交易を監督させていた[注釈 7]

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯

女王国より北には特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れていた。常に伊都国で治められており、中国でいう刺史[注釈 8] のようである。王が魏の都、帶方郡、韓の国々に使者を派遣する際や、郡の使者が倭国に来た際は、皆が津に臨んで調査、確認し、文書を伝送して贈物を女王に届けるので間違いは起こらなかった。

其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國 自為王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飲食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衛

倭国には元々は男王がいたが、70-80年くらい男王の時代が続いた間は戦乱があり毎年のようにお互いに攻撃していた[注釈 9] ので、一人の女子を共立し王とした。

名を卑弥呼といい、女王は鬼道を使い、能く人心を掌握し、既に高齢で、夫は持たず、弟が政治を補佐した。卑弥呼が王位と為ってからは、人は会見することが少なく、1,000人の女性が侍っていて、ただ一人の男子[注釈 10] が飲食の世話や取次ぎをしていた。宮室や楼観で起居し、険しい柵を設け、常に多数の兵士が守衛をしていた。

卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)であるとする見方がある[注釈 11] 一方、単に祭祀を行っていたとする見解[注釈 12] もある。

また、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治(ヒメヒコ制)とする見方もある[注釈 13]

卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與 年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹

卑弥呼の死去によって、大いに冢が作られ、直径が100歩ほど、奴婢100人あまりが殉葬された。その後男王が立てられたが、国中はこれに服さず更にお互いを誅殺し1,000人あまりが死んだ。再度、卑弥呼の親族で13歳の少女の壹與(臺與)を王と為し遂に国は定まった。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭した。壹與も魏に大夫率の善中郎將掖邪狗など二十人の使者を送り、男女の奴隷30人、白珠五千孔、大 句珠二枚、異文雜錦二十匹を朝貢した。「大作冢」とは大きいではなく大いに、又は多数の冢の意味である。

魏・晋との外交

「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。女王は景初2年(238年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、使者が狗奴国との紛争を報告しており、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。詳細は以下の通り。

  • 建安年間(196年-220年)公孫康が(屯有県)以南の荒地の一部に帯方郡を置いた、後漢の遺民を集めるため公孫模張敞などを派遣し兵を興して韓とを討伐したが、後漢の旧民は少ししか見い出せなかった。この後、倭と韓は帯方郡に服属した。
  • 景初2年(238年)、魏の明帝劉昕を帯方太守、鮮于嗣を楽浪太守に任じ、この両者は海路で帯方郡と楽浪郡をそれぞれ収めた(『三国志』魏書東夷伝序文)。
    • 6月[注釈 14] または景初3年(239年)6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
    • 12月、悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝(12月8日から病床、27日の曹宇罷免の詔勅も直筆できなかった。-『三国志』裴注引用 習鑿歯『漢晋春秋』)景初3年だとすると曹芳)は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
    • 8月23日帯方郡楽浪郡を支配していた公孫淵司馬懿により斬首される。
    • 帯方郡と楽浪郡が魏に占領される[1]
    • 景初3年(239年)春正月丁亥日(1月1日)明帝崩御(『三国志』魏書明帝紀)。
  • 正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
  • 正始4年(243年)12月、女王俾彌呼は魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした(『三国志』魏書少帝紀)。
  • 正始6年(245年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
  • 正始6年(245年)帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂は嶺東へ遠征してを討った後、郡内の韓族が反乱して崎離営を襲ったため、軍を出して韓族を討ち滅ぼしたが弓遵は戦死した。
  • 正始8年(247年)女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
  • 女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

また魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

この後、『日本書紀』の「神功皇后紀」所引の『晋起居注』(現存しない)に、泰初(泰始の誤り)2年(266年)に倭女王が使者を送り朝貢したとの記述がある。現存する『晋書』武帝紀にも泰始2年に倭人が朝貢したとあるので(女王という記述は無いが)現在では、時代的に考えるとこの女王は神功皇后ではなく邪馬台国の壹與であり、新女王の壹與が魏に代って成立したの皇帝(武帝)に朝貢したと考えられる。

言語

魏志倭人伝 には31の地名(「倭」を含む)と14の官名、そして8人の人名が出てくる。これら53の音訳語は日本列島で用いられた言語の最古の直接資料である。これら3世紀以前の邪馬台国の言語の特徴は8世紀(奈良時代)の日本語の特徴と同じであることが、森博達らによって指摘されている[2]。その特徴とは

  1. 開音節(母音終わり)を原則とする。
  2. ア行は原則として頭音にくること。つまり二重母音は回避されること。
  3. 頭音には原則としてラ行が来ないこと。
  4. 頭音には原則として濁音が来ないこと。

などである。こうした特徴が見出されることは現代日本語の基礎が邪馬台国時代にすでに形作られていたことを物語る。二重母音回避の規則性に従えば「邪馬台」を「ヤマタイ」と発音することは回避され、「ヤマト」あるいは「ヤマダ」等に発音されることになる。但し、同書には、八世紀国内資料から推定される発音と三世紀中国文書に示された地名、官名、人名の53語との連携は、不確実であることも示されている。

風俗

魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されているが、2ヶ所に分けて書かれており、両者間には重複や矛盾がある。以下は便宜上その2ヶ所を区別せず列記する。

  • 男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
  • その風俗は(淫ら)ではない。
  • 男子は冠をつけず、髪を結ってをつくっている。女子はざんばら髪。
  • 着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
  • 稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
  • 牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
  • 兵器は、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。((和弓#歴史)参照)矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
  • 土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
  • 家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
  • 人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
  • 倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
  • 真珠と青玉が産出する。倭の山には丹があり、倭の木には柟(だん、タブノキ)、杼(ちょ、トチ)、櫲樟(よしょう、クスノキ)・楺(じゅう、ボケあるいはクサボケ)・櫪(れき、クヌギ)・投橿(とうきょう、カシ)・烏号(うごう、クワ)・楓香(ふうこう、カエデ)。竹は篠(じょう)・簳(かん)・桃支(とうし)がある。薑(きょう、ショウガ)・橘(きつ、タチバナ)・椒(しょう、サンショウ)・蘘荷(じょうか、ミョウガ)があるが、美味しいのを知らない。また、猿、雉(きじ)もいる。
  • 特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
  • 集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
  • 敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
  • 長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
  • 身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
  • 女は慎み深く嫉妬しない。
  • 盗みは無く、訴訟も少ない。
  • 法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
  • 宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

邪馬台国のその後

3世紀半ばの壹與の朝貢を最後にして、5世紀の義熙9年(413年倭の五王(雄略天皇などヤマト王権の五天皇)の朝貢まで150年近く中国史書に倭、ないしは倭国に関する記録はない。この時期に、朝鮮半島の(または西晋)の植民地帯方郡の政情が不安定になり、のちに百済や高句麗に圧されて滅びたことの影響が考えられる。壹與以後に邪馬台国連合が衰えて中国に朝貢する国力も無くなったためであろう。あるいは、単に、東晋及び南朝諸国が南方に逼塞したため、地理事情の問題で容易に到達できなくなったためとも思われる。いずれにしろ、このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。

邪馬台国連合とヤマト王権との関係については諸説あるが、若井敏明は「邪馬台国の滅亡 吉川弘文館2010年出版」で、邪馬台国連合は九州北部にあり近畿のヤマト王権との関係は無かったとした。しかし西暦366年頃のヤマト王権の仲哀天皇・神功皇后の九州遠征により邪馬台国末裔は最終的に滅亡したとしている。

名称・表記

現存する『三国志(魏志倭人伝)』の版本では「邪馬壹國」と書かれている。『三国志』は晋の時代に陳寿(233-297)が編纂したものであるが、現存する刊本で最古のものは、12世紀の宋代の紹興本(紹興年間(1131年 - 1162年)刻版)と紹熙本(紹熙年間(1190年 - 1194年)刻版)である。一方、勅撰の類書でみると、宋代の『太平御覧』現存刊本は、成本時期が10世紀で現存の『三国志』刊本時期より古いが、『三国志』を引用した箇所をみると「邪馬臺国」の表記が用いられている。

『三国志』より後の5世紀の『後漢書』倭伝現存刊本では「邪馬臺国」、7世紀の『梁書』倭伝現存刊本では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』現存刊本では国について「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」(魏志にいう邪馬臺)、唐代の『北史』四夷伝現存刊本では「居于邪摩堆 則魏志所謂邪馬臺者也」となっている。これらの正史現存刊本は、用字が不安定であるが、現存の宋代の『三国志』より古い、不安定な諸写本を引用しているために不安定となっているものと推定される。

日本漢字制限後の当用漢字常用漢字教育漢字では、「壹」は壱か一にあたる文字(ただし通常は壱で代用する)であり、「臺」は台にあたる文字である。

表記のぶれをめぐっては、11世紀以前の史料の現存刊本に「壹」は見られないため、「壹」を「臺」の版を重ねた事による誤記とする説[注釈 15] のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いず「壹」を用いたとする説[3] などがある。

発音と表記

発音

邪馬臺(台)國(国)

秦 漢 ʎia mɔ dʰəɡ kwək

魏 -jia -ra -əї -ək (出典:丁邦新 魏晋音韻研究 「-」は頭子音不明を表す)

隋 jia ma dʰɑ̆i  kuək

現代 yé ma tái guó

実際にはさらに複雑多岐であり、元々中国語では、時代や地方によって発音が異なる上に、忘れ去られたと考えられる発音もある事から、倭人伝が編纂された時期の発音を知ることは、極めて困難である。

表記

日本語の「ヤマ」は通常「」を意味し、漢字では耶麻、耶馬などと表記されることがあるが、「邪馬台」の漢字も、九州の山と台地を表現したとすれば適切である。ヤマが「邪」と「馬」で表記された理由は明らかではないが、魏志倭人伝は倭国に馬がいなかったとしている(馬の輸入は古墳時代に九州とおそらく帯方郡との貿易により始まったものであり、大和朝廷においては蘇我馬子厩戸皇子の飛鳥時代に重要視されるようになったと思われる)。また、治安不安定のため伊都国一大率を設置させて治安を計る必要があったこともあろう(一大率の「率」は漢語系の用字なので、帯方郡の官僚が設置した機関である可能性もある[4])。中国語で山はシャン(shān)、軍事的な官職がシマ(司馬、馬を司る)であるなど、言葉の違いに由来することも考えられる。

やまと説

「邪馬壹國」と「邪馬臺国」の表記のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかと類推する説がある。これは、邪馬台国と同じく「魏志倭人伝」に登場する對海/対馬國を対馬,一大/一支國を壱岐,末廬國を肥前國松浦郡といったふうに発音の近さを手掛かりとしてあてはめるのと同様に、邪馬台国も発音から地名をあてはめようとするものである。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「邪馬台」を「やまと」に近い音と想定してその場所を比定したと考えられている。

「邪馬壹國」の表記から、三世紀の音符は【 】(つくり)にあり【 壹 】の旁は【 豆 】であって「登」あるいは「澄」と同様に「と」と発音されていたして、「やまと」と読む説もある[注釈 16]。 なお、一説に依れば、『隋書』『北史』は、邪馬臺国の発音に関する記述(邪靡堆、邪摩堆)があるが、堆は過去にも現在にも「壹」(イ)の音には発音しない[5]

一方、8世紀に成立した古事記日本書紀には神話時代のヤマタノオロチ退治伝説が現れるが、「やまた」(八又)もまた「やまたい」「やまと」と音韻が似通った言葉である[注釈 17]

現在「邪馬台国」は一般に「やまたいこく」と読まれる。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、「魏志倭人伝」の書かれた当時の中国における音が「やまたい」であったとは考えにくい[独自研究?]

邪馬台国に関する論争

日本における邪馬台国への言及は、『日本書紀』卷第九神功皇后摂政三九年、四十年および四十三年の注に「魏志」から引用[6] があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述となっていることが嚆矢である。[注釈 18]。なお、一般に「魏志倭人伝」の名称で知られるのは『三国志』魏書第三十烏丸鮮卑東夷伝の一部分で(参照→Wikisource)、以降に書かれた中国の正史もしくはそれ以外の史書にも、この「魏志」に由来すると思われる記事が少なくない。

三十九年。是年也大歲己未。魏志云。明帝景初三年六月。倭女王遣大夫難斗米等。詣郡求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。

四十年。魏志云。正始元年。遣建忠校尉梯携等。奉詔書印綬。詣倭國也。

四十三年。魏志云。正始四年。倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。
国史大系. 第1巻 日本書紀 p.172(国立国会図書館)

史料によって漢字表記が不安定である上に、「やまたいこく」と読むべきか否かも統一的な理解はなく、その場所や大和朝廷との関係についても長期的な論争が続いている。

古くは邪馬台国は大和の音訳として受け容れられていたとの説があり、であれば、この論争が始まったのは江戸時代中期ないしは後期となる。新井白石は「古史通或問」において、奈良に存在する大和国説を説いたが、後に著した「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。大和朝廷(邪馬台国)とはまったく別でつながることはない王国を想定し、筑紫(九州)にあった小国で神功皇后(卑弥呼)の名を騙った熊襲の女酋長であるとするものである。これ以来、政治的意図やナショナリズムを絡めながら、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。この論争は、すなわち、正史としての『日本書紀』の記述の信頼性や天皇制の起源に影響するものである。漢委奴国王印とともに、一般にもよく知られた古代史論争である。

位置に関する論争

「魏志倭人伝」の行程の距離と方角に追従すると、邪馬台国は太平洋の真ん中に行きつくとするとの説が、古くから知られている[7]。ゆえに、白石も宣長も、原史料に対してさまざまな読み替えや注釈を入れてきた。江戸時代から現在まで学界の主流は「九州」(白鳥庫吉ら)と「畿内」(内藤湖南ら)の二説に大きく分かれている。ただし九州説には、邪馬台国が“畿内に移動してヤマト政権となった”とする説(「(東遷説)」)と、邪馬台国の勢力は“畿内で成立したヤマト政権に滅ぼされた”とする説(若井敏明の2010年の著書「邪馬台国の滅亡」など)がある。若井は、筑後川下流域にあった邪馬台国後裔は仲哀天皇の九州遠征により365年頃に滅亡したとしている。

邪馬台国は魏志倭人伝にあるように卑弥呼が魏に朝貢した景初3年(239年)(魏志 景初2年(238年))に加え『日本書紀』所引の「晋起居註」に倭女王が晋に泰始2年(266年)に遣使し朝貢したとあることから、3世紀中期に存在したことが確かである。畿内説に立てば、3世紀の日本に大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、九州説に立てば九州に存在した「邪馬台国」からヤマトに政権が移ったことになる。「邪馬」は、山(ヤマ)と音訳できるとの説もある。

連続式と放射式

  • 「連続説」(連続読み)- 「魏志倭人伝」に記述されている順序に従うが、都度、方角を90度変更したり距離、日数を修正したりして各国を順次比定する読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国対海国一大国を経て北部九州に上陸し、末廬国伊都国奴国不弥国投馬国・邪馬台国までを順にたどる説。
  • 「放射説」(放射読み) - 榎一雄の説[8]。伊都国までは連続読みと同じだが、伊都国以降では、行程の表現方法、つまり、文型が変化していることから、伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点に放射状の行程が書かれていると読む説。
    • 同じ「放射読み」だが、伊都国ではなく、末廬国を起点とする説。
  • 伊都国を起点とする「放射読み」だが、投馬国への行程だけは、伊都国からでなく不彌国から起点として読む説。言い換えると、邪馬台国までの「連続読み」の行程に、不弥国から奴国、投馬国それぞれへの二つの「傍線行程」(支線)があると解釈するもの[9]
    • さらに古田武彦は、邪馬壱国への「水行十日・陸行一月」を「帯方郡から邪馬壱国」の全日程と読み、不弥国の南に邪馬壱国が「接している」とする。

距離の計算

「魏志倭人伝」の距離(里数)が大雑把に約5倍に誇張されているように見えるという問題については、後述するように短里が使用されていたとする説、当時は兵力などを10倍に誇大に記載する例があったことから、公孫氏を討伐する魏軍が帯方郡を接収した当時の軍事報告に基づいたためという説[10]、魏がを地理上挟み撃ちにできるとして威圧する目的で、実際より南の呉の近くにあるように見せかけるため書き換えたという説[11]曹爽の功績である西域の「親魏大月氏王」の距離と、曹爽の政敵の司馬懿の功績である東夷の親魏倭王の距離の東西のバランスをとるため誇張したという説[注釈 19]、などがある。

宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点は課題ではないとされている。

また「自郡至女王國萬二千餘里」の記述は、行程に関する重要な一文であるにも関わらず、多くの説において無視されていると見受けられる。

短里説

距離問題については「短里」の概念が提示されている。「短里」とは尺貫法の1里が約434mではなく75-90m程(観念上は76-77m)とする説である。魏志倭人伝では狗邪韓國から對海國(対馬)までが千里、對海國から一大國(壱岐)までが千里とあるが、地図上の「実距離」はそれぞれ約70kmであり、短里が採用されていたことを裏付けている。

古田武彦は、魏・西晋時代には周王朝時代に用いられた長さに改められたとした。[要出典]これを傍証するように、生野真好による『三国志』全編の調査では、「短里」で記述されていると思われる記述は「魏志」と「呉志」の一部に集中し、「蜀志」には全く見られない。また、「魏志」のうちでも後漢から魏への禅譲の年である西暦220年より以前の記事には「短里」での記事は見当たらず、220年以後の「魏志」に集中して現れると考察している。これは、陳寿が、三国志と雖も、「蜀志」については、蜀が漢の伝統を守っていたことを記したものと思われる。[要出典]これを「魏朝短里説」という。

中国正史の卑弥呼

  • 『後漢書』卷85 東夷列傳第75「桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王(桓帝・霊帝の治世の間(146〜189年)、倭国大乱があり、さらに互いに攻め合い、8年±数年も主無き状態となった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共立し王にした。)」とある通り、倭国大乱は、最も早くても146年に勃発し、最も遅くても189年までには終結して卑弥呼が女王に共立されたと推定される。
  • 『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿(其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国乱があり、8年±数年間も相互に攻め合った。そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。年齢は35歳を過ぎ、夫は無かった。)」とある通り、107年の倭王帥升の後漢遣使から70〜80年後となる177〜187年頃までには倭国大乱が集結して卑弥呼が女王に共立されたと推定される。
  • 『梁書』卷54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。((後)漢の霊帝の光和年間(178〜184)、倭国乱があり、8年±数年も相互に攻め合った。そこで、一人の女子卑弥呼を共立して王にした。)」とある通り、178〜184年までには倭国大乱が集結して卑弥呼が女王に共立されたと推定される。
  • 三国史記新羅本紀に「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」とある通り、遅くとも173年の旧暦5月には、倭国大乱の終結により卑弥呼が女王に共立されていた、と推定される。
  • 帯方郡は204年に設置され313年に廃された。
  • 三国志魏志は魏(220〜265)を対象とする。

露布説

古代中国には、軍事報告書を「実際の距離を正確に10倍して記載する」露布という慣習があった。
次に、古代中国における「里」の距離について。次の通り時代ごとに微妙に異なる。

魏志倭人伝三国時代の史書なので、当時の一里は459mであったことは確実である。 帯方郡は行政機関と軍事拠点を兼ねており、報告書は全て軍事報告書として書かれたと推定される。その場合、帯方郡の情報を元に書かれたと推定される魏志倭人伝は、露布で千里と記されていても、実際の距離はその1/10の45.9Kmであった可能性がある。 実際、魏志倭人伝には、釜山から対馬対馬から壱岐壱岐から九州北岸がそれぞれ千余里と記されているが、最短渡海距離で考えれば、釜山南端から対馬北端まで約50Km、対馬南端から壱岐北端まで約50Km、壱岐南端から九州北岸(糸島半島の付け根)まで約50Kmなので、露布で「正確に10倍した千余里」にほぼ合致する。

したがって、魏志倭人伝の里の距離は、古代中国の文献に明記される露布慣習で説明できる。

邪馬台国畿内説

邪馬台国畿内説には、琵琶湖湖畔、大阪府などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説がある。

  1. 箸墓古墳の付近から出土した土器の考古学的年代決定論で、その始期や変革期が三世紀であるという説があること[12]。ただし、現在では炭素による年代推定には100年程度の誤差があることが知られている。
  2. 吉備、阿讃播など広範な地域起源の文化に起源を求めうる前方後円墳が大和を中心に分布するようになり[13] が古墳期の時代が下るにつれて全国に広がっていること(箸墓古墳ほか)。
  3. 南関東など北九州以外の広い地域からの土器が出土していること[14]
  4. 卑弥呼の遣使の頃の景初三年、正始元年銘を持つものもある三角縁神獣鏡が畿内に分布していること。
  5. 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち12枚は235年-244年の間に収まって銘されたものが畿内を中心に分布していること。
  6. 日本書紀神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けている。中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現していること。また、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所邪靡堆を「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と同一視していること。

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 帯方郡から狗邪韓国までの行程で既に7000余里あり、南を東に読み替えても残り5000里ではおさまらない。
  2. 箸墓古墳を卑弥呼の冢とする説があるが、卑弥呼死後に男王が即位するも再び混乱したことが記録されており、国内が大混乱していた時期に当時最大の墳丘を持つ古墳を造営することは不可能に近い(箸墓古墳の築造は6年)。また古墳周囲には記録にある殉葬の跡も見られない。加えて服属先である魏朝自体が薄葬令で墳墓を縮小しており、朝鮮諸国の王墓や帯方郡の郡守墓も30メートル前後の方墳であるため、邪馬台国だけが飛び抜けて巨大な前方後円墳を築造したとは考えられない。
  3. 三角縁神獣鏡が中国、朝鮮の遺跡から一面も出土していないことに加え、全国での出土数が記録にある100面(確認されただけで500面以上)を遥かに上回っている。未だに大陸から一面の鏡も鋳型の出土もない。また古墳での埋葬例を見ると、扱いが非常に粗雑であることが指摘されている[15]
  4. 例え古墳時代の開始時期が3世紀に繰り上げられたとしても、そもそも北九州と畿内でそれぞれ別の勢力が並立していたとすれば、邪馬台国畿内説の論拠にはならない。つまり弥生式墳丘墓の邪馬台国と古墳の原始大和国があったとしても何ら不思議ではない。
  5. 奈良県立橿原考古学研究所が、箸墓古墳とほぼ同時期または先行して築造されたホケノ山古墳の年代について、発掘調査で出土した木槨木材の炭素年代測定結果の幅が4世紀前半をも含む範囲であることを報告し[16]ていること。
  6. 倭国の産物とされるもののうち、弥生後期までの鉄や絹は畿内に存在せず北九州からのみ出土する。鉄に関しては淡路島五斗長垣内遺跡舟木遺跡で、鉄器製作の痕跡が確認されたのみである。また三世紀の銅鏡の大半が北九州から出土している。
  7. 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗が温暖な南方系の印象を与え、また漁夫の記載が入念で海に近いことになっている。
  8. 「魏志倭人伝」の記述は北部九州の小国を紹介する一方で、畿内説が投馬国に比定する近畿以西の道程に存在したはずの(阿岐国)(安芸国)、吉備国出雲国の仔細には全く触れられておらず、伊都国から近畿圏まで含む道程の記述が全く欠けている。
  9. 「古事記」、「日本書紀」には、天皇による熊襲討伐など九州征伐が記載されており、4世紀前期から中期の大王と推定される景行天皇の頃までは北九州が大和朝廷の勢力圏外にあったと考えられる。3世紀の時点で畿内から北九州までを連合国家として治めていたのなら、6世紀に国造が設置されたという近年の研究にも疑問が生じる。
  10. 「魏志倭人伝」には邪馬台国は伊都国や奴国より南にあるとする記述が三箇所あり、また会稽東冶の東(緯度的にはほぼ沖縄県に一致する)にあるとしていること。また近傍に配置されるべき一大率が伊都国におかれたとしていること。旅程において方角は太陽や星から容易に知ることができるし、距離の誤りがあっても到達できるが、方角の誤りがあれば永久に到達できないことから方角の誤りはあり得ない。[注釈 20]

邪馬台国九州説

邪馬台国九州説では、福岡県の糸島市を中心とした北部九州広域説筑後平野説、福岡県の大宰府太宰府市)、大分県の宇佐神宮宇佐市)、宮崎県の西都原古墳群西都市)など、ほとんど九州の全域に渡って諸説が乱立している。その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[注釈 21]。 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権の関与はないとするものがある[注釈 22] 現代では古田武彦などによる九州王朝説がある[注釈 23]

邪馬台国が九州にあったとする説は、以下の理由等による。

  1. 邪馬台国は伊都国の南にあると三回書かれている。
  2. 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里(佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍)では短里説をとれば邪馬台国の位置は九州地方北部にかぎられること[注釈 24]
  3. 邪馬台国は海中の島の上にあり、一周が五千餘里(短里でおおよそ300-500 km)とあることから、九州に近い。また海に近いことをうかがわせる記載がある。
  4. 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[注釈 25]
  5. 福岡県久留米市には、宝賀寿男など複数の研究者が『魏志倭人伝』に記載される「卑弥呼の塚」と規模や副葬品、石棺はあるが槨が無いこと、石棺に朱が塗られていることなど主体部の形式がよく一致する[17]祇園山古墳がある。
  6. 『魏略』には投馬国も水行陸行の記事も存在せず、また里数記事において末廬国から伊都国への行程記事が不自然であることから、水行陸行の記事が後世の加筆と見られる。
  7. 卑弥呼の墓について倭人伝は「大いに冢を作る」とあり、冢はしばしば墳丘のない墓を指すところ、北九州には墳丘がない環濠集合墓が多数見つかっている。

逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

  1. 魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇である。
  2. 畿内の古墳築造の開始時期を、3世紀に繰り上げる説があること。
    1. ただ、炭素年代測定による推定年代は±100年程度の誤差があることがわかっている。
  3. 3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものであり、事実中国では三角縁神獣鏡は殆ど出土していない」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。
  4. 九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かない。

邪馬台国東遷説

九州で成立した王朝(邪馬台国)が東遷して畿内に移動したという説。東遷説には、この東遷を神武東征天孫降臨などの神話にむすびつける説と、特に記紀神話とは関係ないとする説の両パターンがある。東遷した時期や形態についても九州王朝説と関連して多くの説がある。白鳥庫吉和辻哲郎[18] が戦前では有名であるが、戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことは忌避された。しかしこの東遷説は戦後も主に東京大学を中心に支持され、(栗山周一)、黒板勝美、(林家友次郎)、飯島忠夫和田清[19]榎一雄[20]橋本増吉植村清二、(市村其三郎)、坂本太郎[21]井上光貞[22] らによって論じられていた。この他にも、森浩一中川成夫谷川健一金子武雄、(布目順郎)、奥野正男らが細部は異なるもののそれぞれの東遷説を論じていた。

倭国大乱で東遷したという説

久米雅雄は「二王朝並立論」を提唱し、「自郡至女王国萬二千餘里」の「筑紫女王国(主都)」と「海路三十日」(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の「畿内邪馬台国(副都)」とを想定し両者は別の「相異なる二国」であり、筑紫にあった女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に主都を遷しそこで卑弥呼が擁立されたのであるとした[23]。この説では卑弥呼も壹與も畿内にいたことになる。

卑弥呼と壹與の間に東遷したという説

大和岩雄は九州にあった女王国とは「畿内をも含む倭国全体の首都」であって、卑弥呼の死後、畿内の邪馬台国へ東遷して女王壹與を擁立したが、それは倭国の勢力圏の内部での移動にすぎないとした(ただし天岩戸や天孫降臨や神武東征などの神話と関係づけることはしていない)。この説では卑弥呼は九州に、壹與は畿内にいたことになる。

邪馬台国時代の後に東遷したという説

安本美典は「卑弥呼=天照大神」「壹與=万幡豊秋津師比賣(忍穂耳の妃)」だと同定した上で、その子孫である神武天皇が東遷してヤマト政権になったのであるとした。この説では卑弥呼も壹與も九州にいたことになる。

邪馬台国四国説

1970年代後半より注目され始めた新しい説。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる古代中国魏志倭人伝の(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は畿内説と同じく南を東と読みかえて陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い。

近年では数多くの書籍・メディアなどで紹介されているが当初は郷土史家の(郡昇)が四国説を唱え著書を自費出版で行った[24]。その後、古代阿波研究会なども四国説を主張し、[25]『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』には(多田至)、(板東一男)、(椎野英二)、(上田順啓)らが編集委員として名を連ねている。日本テレビの番組[26] で、番組プロデューサーの(山中康男)はその後『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。1980年代にはNHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=土佐(四国山頂)説を主張する(土佐文雄)が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版。他にも(浜田秀雄)や(大杉博)、(林博章)などが四国説を主張する著書を出版[27]、2009年にはテレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』で四国徳島説が放送された。

日本神話では我が国は淡路島の次に四国が誕生したとされることで、四国説は我が国の国産み神話に基づくものだとされる。また朝廷は徳島(四国地方)から始まり奈良へ移行されたとされる四国説・近畿説を共に主張する声もある。

作家・榊正志は下記のことを根拠に、小説『アマテラス・サーガ』の中で邪馬台国四国説を展開している。

邪馬台国は無かった説

これは、邪馬台国自体が存在しないということではなく、魏志倭人伝に記されたような規模や距離の邪馬台国という国が存在しなかったというもの。邪馬台国と国交を結んだのは司馬懿の功績であるが、司馬懿にとってライバルにあたる曹爽は西方の大月氏国と国交を結んだという功績があった。すなわち、司馬懿の功績を曹爽の功績に匹敵させるために、邪馬台国を大月氏国に匹敵する規模と距離の国家であるとして史書に記載したというもの。岡田英弘が提唱している。

フィクションにおける邪馬台国

フィクションの世界では邪馬台国は九州にありその後に近畿に東遷したとの説をとっているものが圧倒的に多い。

  • 横光利一の小説「日輪」(1923年)では、具体的な地理は出てこないが、卑弥呼は元々不弥国(本作では「うみ」とルビで宇美を示唆)の出身で、奴国との抗争の結果、耶馬台(「やまと」とルビ)に行ったとされている。これら三国はお互いにすぐに攻め込める程度の距離関係として描かれている(船に乗ったりする描写はない)。奴国は考古学上福岡に比定されている国である。
  • 手塚治虫の漫画『火の鳥 黎明編』(1967年)は邪馬台国を舞台としている。卑弥呼を連想させるキャラクターも登場する。邪馬台国は九州にある倭の大国(火の鳥が棲む火の山が九州にあり、海を渡る描写もある)だったが、卑弥呼の死後に大陸から渡った騎馬民族が滅ぼしその後日本を支配した。当時、一般に強い影響を与えた騎馬民族征服王朝説に立ち、騎馬民族の長のニニギが後の皇室の始祖と解釈している。この漫画は『(火の鳥)』のタイトルで1978年に実写映画化された。監督は市川崑、主演は高峰三枝子
  • 1974年篠田正浩監督、岩下志麻主演による映画『卑弥呼』が制作された。映画に出る火口は阿蘇を思わせるが撮影は吾妻小富士で行われた。映画の最後では近畿の古墳群が撮影されるなど、九州説と畿内説の両方が暗示されている。
  • 安彦良和の漫画『ナムジ』(1989年-1991年)は、ナムジ(おおなむち、すなわち大国主)を主人公に神話を独自解釈した作品。邪馬台国は九州にあり、スサノオ率いる強国出雲と敵対している。卑弥呼は天照大神に比定されている。続編の『神武』(1992年-1995年)は、卑弥呼の孫のイワレヒコが(政略結婚のため)畿内へ東征ヤマト王権の祖となる東遷説を採っている(市井の古代史研究者である原田常治の著書の影響を大きく受けている[28][29])。
  • 星野之宣による漫画『ヤマタイカ』(1986年-1991年)および『宗像教授異考録』第2集第2話:『割られた鏡』(2005年)では、九州・甘木と畿内・奈良、そして九州・日向と畿内・熊野の(地名相似)をひとつのキーワードとして、邪馬台国の場所は九州説、そして東遷説(甘木→阿蘇平野→日向→熊野→大和)を採用している。また、「火」をもうひとつのキーワードとして、卑弥呼(火を司る巫女の女王)-天照大御神(太陽神)-伊邪那美(火山神)の三者を同一の存在としている。
  • 作・寺島優、画・藤原カムイによる漫画『雷火』(1987年-1997年)は、邪馬台国の乗っ取りを図る張政(魏から派遣された役人)とライカたちとの神仙術を駆使した戦いを描く作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。
  • 矢吹健太朗による漫画『邪馬台幻想記』(1998年-1999年、連載前の読みきり分を含む)。卑弥呼亡き後、その意思を継ぎ倭国統一を目指していた壱与(台与)と、国王を暗殺し国を滅ぼす「国崩し」を行っていた少年、紫苑との出会いと触れ合い、壱与を亡き者にしようと企む敵との戦いを描いている。短期打ち切りのため様々な伏線を回収することなく唐突な終り方をしている。上述雷火の強い影響を受けたと思われる作品。邪馬台国の場所は九州説を採用している。
  • 都築和彦による漫画『(IZUMO)』および『(やまとものがたり)』では九州説を採用している。
  • (推敲堂) 著:(倭といふ国の物語) 副題:歩むべき道の彼方に(Independently published(アマゾン)ISBN-13:979-8847832014)長崎県、佐賀県、福岡県の、九州北部を舞台に、倭国大乱から女王卑弥呼が登場するまでを描いた歴史小説。「歴史は繰り返す」をテーマに、様々な史実や言い伝えを取り込んで描かれた作品。
  • 平岡陽明による小説『眠る邪馬台国』では、新聞社の古代史担当記者である叔父をワトソン役に、主人公である天才学者(の研究者)が、魏志倭人伝を読み解き九州説と畿内説を比較しながら邪馬台国の謎に迫っている。

脚注

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注釈

  1. ^ 又問耶馬臺耶摩堆之号若各有心哉?答師説雖有三号、其義不異。皆取称倭之音也。(釈紀第一 開題)
  2. ^ 『外国之事調書』新井白石。ただし未公刊の草稿であることから、流布した経緯は不詳。
  3. ^ ただし、郡とは景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺された時期に、魏が回復した朝鮮中部の帯方郡と考えられる、『三国志魏書』の倭人伝にも帯方郡の記述しかなく韓伝にも「倭韓遂屬帶方」とあり、楽浪郡あるいは玄菟郡などの可能性はほとんどない。
  4. ^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
  5. ^ 逆に女王国までの12,000里という数字の方が、韓内の行程7,000里と倭国周旋5,000里から作り出された観念的な数字にすぎないという説、どちらも根拠のある実数で合算が12,000里となるのは偶然とする説もある。
  6. ^ この場合の「大倭」とは倭人の中の大人(首長)の意とする説、邪馬台国が任命派遣した官とする説、大和朝廷のこととする説などがある。
  7. ^ 古田武彦の説では「使大倭」の3文字で一つの官名とする。
  8. ^ 刺史は大きな行政単位である州の巡察官のこと
  9. ^ この戦乱は、原文では「倭国乱」だが、魏志倭人伝に基づいたとされる後漢書東夷伝では「倭国大乱」と「大」の字を付加して書かれている。また後代の史料になるが梁書ではこの戦乱を霊帝光和年間のこととしている。ただしこれは梁書が107年の倭国王帥升をここでいう男王に同定して机上で算出した年代にすぎず、光和年間説には史料的はないとする説(『新版・魏志倭人伝』講談社1986 山尾幸久)もある。
  10. ^ 政治を補佐していたというとは別人とする説と同一人物とする説とがある。
  11. ^ 卑弥呼の「鬼道」についての解釈としてはシャーマン説、五斗米道道教の源流の一つ)と関係があるとする説、五斗米道ではなく「邪術」とする説などがある。以上の諸説は、いずれの説をとるにしろ、社会学的には呪術カリスマの概念でとらえるものである。
  12. ^ 呪術カリスマと見ない説としては「鬼道」をありふれた漢語として単に祖先祭祀の意とする説や、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという説もある。
  13. ^ 後の推古天皇聖徳太子との関係が例として挙げられる。
  14. ^ この景初2年6月(司馬懿が遼東の公孫淵攻撃のため出発した月)は『梁書』と『日本書紀』引用文では翌年の景初3年になっている。2年だと未だ帯方郡は公孫淵の支配下で遣使は困難であることから3年説がやや有力ではあるが確定的ではない。2年説を支持する根拠としては、卑弥呼の遣使は2人で貢物が奴婢10人布2匹2丈と、かつての奴国の貢物奴婢160人と比べて粗末なものにも拘らず魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められた為という観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦「邪馬台国」はなかった』 角川文庫 1977年)や、「魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の毌丘倹の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征していたことを語り、その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性があり、この場合、遣使困難とは言えない」という説、『日本書紀』引用文では3年としながら明帝ともあって矛盾しており3年が実は2年の誤記という方が明帝を誤写で書き入れたという想定よりは容易であるとの説、などがある。
  15. ^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。隋書では「邪靡堆」と国ではなく地域となっていることにも注意すべきであろう。
  16. ^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、「邪馬臺国」も「jamatö」に近い発音となると考えられている[要出典]
  17. ^ さらにのちの平家物語では、8 - 9世紀に九州豊国を支配した大神氏祖の大神惟基が蛇と人とのあいだの子であるという逸話が現れる。ヤハタとヤマタも音がやや似ているが大神氏と八幡神社の関係性は明らかではない。
  18. ^ 那珂通世は神功皇后と卑弥呼を同一人物とするこの日本書紀の記述を否定する。(市村其三郎)は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)を著している。
  19. ^ 岡田英弘の説。『後漢書』によると洛陽から大月氏まで16,370里で洛陽から帯方郡までが5,000里である。よって帯方郡から邪馬台国までは最短でも11,370里以上はないと洛陽からの距離が同等もしくはそれ以上にならないので、12,000里に設定されたという説。
  20. ^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれている、混一疆理歴代国都之図など[1]」では、日本を右回りに傾かせて描かれている(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。ただし混一疆理歴代国都之図は、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎない。他に15世紀以前に日本を右回りに回転させた地図が存在せず、『隋書』では正しい方向に基づいて行程を記述されている、という反論がある。
  21. ^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。神武東征とは関係ないとする説もある。
  22. ^ 一部で誤解が流布しているが、江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など)は九州勢力が独自に外交を行ったとはしているものの、あくまで「邪馬台国は大和、卑弥呼は神功皇后」であって、九州勢力はそれを僭称したのだという説である。
  23. ^ 日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降に衰亡したとする説。しかしながら大半は学術論文として発表されてなく、学会では議論の対象とされていない。
  24. ^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
  25. ^ 畿内説の中には狗奴国を東海地方とする説がある。この説では狗奴国を桑名加納久努国造、(久能)などの東海地方に当てる説、狗古知卑狗を菊川と関係付ける説がある。畿内説の内藤湖南は、彼が邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。

出典

  1. ^ 『三国志』魏書東夷伝序文
  2. ^ 森博達「倭人伝の地名と人名」(『日本の古代1、倭人の登場』、中央公論社、1985)
  3. ^ ただし、『三国志』には「臺獄」という表記や死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これに反対する説もある。
  4. ^ 世界大百科事典『(一大率)』 - コトバンク
  5. ^ 汪向栄『中国の研究者のみた邪馬台国』同成社、p.213。(ISBN 978-4886214096)
  6. ^ 『訓読日本書紀. 中』黒板勝美 岩波書店 p.128 (国立国会図書館)
  7. ^ 岡本健一『邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説
  8. ^ 「邪馬台国の方位について」(『オリエンタリカ』1、1948年8月)
  9. ^ 「邪馬台国」はなかった
  10. ^ 孫栄健『邪馬台国の全解決』六興出版 よってこの説では里数は5倍でなく10倍になっているとする。
  11. ^ 『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』中公新書2012 渡邉義浩
  12. ^ 『纏向:奈良県桜井市纒向遺跡の調査』(奈良県立橿原考古学研究所編1976)など
  13. ^ 『日本列島における国家形成の枠組み』寺澤 薫(纏向学研究センター研究紀要2013所収)など
  14. ^ 寺澤 前掲など、
  15. ^ 羽黒熊鷲「三角縁神獣鏡魏鏡説の否定と古墳編年大系の見直し」『古樹紀之房間』、年。
  16. ^ 奥山 2008, pp. 191–192.
  17. ^ 宝賀 2001, pp. 62–95.
  18. ^ 大正9年『日本古代文化』
  19. ^ 1956年「東洋史上より観たる古代の日本」
  20. ^ 1960年に刊行された「邪馬台国」、日向起源説。
  21. ^ 『国家の誕生』
  22. ^ 1960年に刊行された「日本の歴史1 神話から歴史へ」の中で邪馬台国の東遷が最も自然な解釈とした。
  23. ^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)
  24. ^ 『阿波高天原考』(1975年)
  25. ^ 『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』(新人物往来社)
  26. ^ 「いま解きあかす古代 史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」
  27. ^ 『邪馬台国の結論は四国山上説だ-ドキュメント・邪馬台国論争』(たま出版1993年大杉博著書)
  28. ^ 原田実『トンデモ日本史の真相 と学会的偽史学講義』文芸社、2007年6月。ISBN (978-4-286-02751-7)。 
  29. ^ ナムジ』1巻著者あとがき

参考文献

邪馬台国論争関連
  • 宝賀寿男「卑弥呼の冢補論-祇園山古墳とその周辺-」『季刊・古代史の海』第26巻、「古代史の海」の会、2001年12月20日、62-96頁、ISSN 13415522、NAID 40005104602。 
  • 佐伯有清 『邪馬台国論争』 岩波新書、2006年、(ISBN 4004309905) - 著者の遺著、ほかにも関連書籍を吉川弘文館で数冊出している。
  • 真野和夫 『邪馬台国論争の終焉』 、2009年、大分県教育委員会に長年勤務、考古学に携わってきた著者が退職記念として、邪馬台国に対して自らの見解をまとめ、自費出版した。
  • (邪馬台国研究大会) 『公式記録DVD』 ジャパンライム、2011年、JAN 4562301590100 -
  • 石原洋三郎 『邪馬台国』2019年(令和元年)10月 第一印刷-魏志倭人伝、さらには北史や南史などの中国正史を活用した形で邪馬台国の所在地を熊本県の阿蘇山に確定できると述べている。
その他
  • 奥山, 誠義「ホケノ山古墳中心埋葬施設から出土した木材の14C年代測定」『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所、2008年11月、191-192頁。ISBN (9784902777611)。 NCID BA89391331。 
  • 岡林, 孝作、水野, 敏典、北山, 峰生「実年代について」『ホケノ山古墳の研究』橿原考古学研究所、2008年11月、289-291頁。ISBN (9784902777611)。 NCID BA89391331。 

関連項目

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