経歴
中京高等学校では主軸として活躍。当時のチームメイトには金本誠吉、岡田忠雄、湧川勉らがいる。 第46回選抜高等学校野球大会では初戦で滝川高等学校と対戦し、0-4で敗退した。
第47回選抜高等学校野球大会では(開幕試合)で岡山県立倉敷工業高等学校と対戦。中京投手陣が序盤から打ち込まれ、4回表終了時点で2-13と大量リードされるも倉敷工のエース兼光保明を徐々に攻略し、近沢の2点本塁打もあり一時は15-15の同点に追いつくという壮絶なシーソーゲームを展開。最終的に15-16で敗れた。この試合はセンバツで初めて金属バットが使われた試合だった[2]。また、この試合で近沢は投手としても登板しており、センバツの開幕戦で登板し本塁打を打つのは史上初の快挙だった[3]。
1975年のドラフト会議でヤクルトスワローズから4位指名を受け、入団した[4]。
1978年には左打ちに転向したが[1]、同年で退団した。
詳細情報
年度別打撃成績
- 一軍公式戦出場なし
背番号
- 38 (1976年 - 1978年)