貝原 好古(かいばら よしふる、1664年(寛文4年) - 1700年7月9日(元禄13年5月23日))は江戸時代前期の筑前国の儒学者、国学者、教育者。号は恥軒、字は敏夫。通称は市之進。名前は「かいはらこうこ」とも読まれる。
生涯
1664年(寛文4年)、筑前福岡藩の浦奉行で儒学者、本草学者の(貝原楽軒)の長男として生まれた。弟に歌人の(貝原和軒)がいる。のちにこれも儒学者、本草学者の叔父である貝原益軒の養子となる。
父とともに福岡藩に仕え、藩命により益軒の「筑前国続風土記」編集にも関わった。
イギリス帝国の外交官の男爵ミットフォードは、1866年から4年間の日本滞在中に日本語を学んでいたが、貝原の『(諺艸)』を知り、著者までは分からなかったらしいものの、内容の一部を英訳して本国で紹介し、初めて英語に翻訳された日本の本であろうと述べている[1][注釈 1]。
編著
脚注
- 注釈
- 出典
- ^ 貝原好古他 1910.
- ^ 『諺艸』 - 国立公文書館。
参考文献
関連項目
外部リンク
- 『(貝原好古)』 - コトバンク
- 「人名事典や百科事典以外に、貝原好古について書かれている書物あるいは論文が知りたい。」(大阪府立中央図書館) - レファレンス協同データベース