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生涯
蜂須賀隆矩(徳島藩第2代藩主・蜂須賀忠英の四男)の長男。母は紀州藩士・松平宣助の娘・お七。初名は龍之(たつゆき)。
延宝6年(1678年)、従兄の第4代藩主・蜂須賀綱通が23歳で実子なくして亡くなったため、その養子という形をとって第5代藩主となる。若年のため、伯父の蜂須賀隆重の補佐を受ける(延宝6年10月7日~元禄4年(1691年)閏8月28日)。慣例により、綱通と同様、第4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて綱矩(「矩」は実父・隆矩の1字)と改名する。
延宝6年(1678年)、伯父の蜂須賀隆重に5万石の分知を与えて(阿波富田藩)を立藩させている。
延宝8年(1680年)5月8日に家綱が死去したが、先代の頃から預かっていた堀田正信が5月30日に殉死、責任を問われて7月19日に第5代将軍・徳川綱吉から閉門を命じられた。11月27日には閉門を免ぜられた。
なお、綱矩の代の享保12年(1727年)、陸奥守山藩主松平頼貞のとりなしで、初代以来不通であった福岡藩主黒田家と和解している。松平頼貞正室は、伯父・蜂須賀隆重の次女である。
長命であり多くの子をもうけたが、嫡男・吉武には夭折され(享保10年5月2日(1725年6月12日)没)、支藩阿波富田藩の蜂須賀隆長のもとに養子に出ていた四男・宗員を呼び戻して嗣子としている。享保13年(1728年)隠居し、家督を宗員に譲った。宗員は富田藩3代藩主だった為に跡継ぎが居なくなり廃藩。本家に吸収された。
享保15年(1730年)死去。享年70。
系譜
参考文献
- 『蜂須賀家記』