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藤原泰憲

藤原 泰憲(ふじわら の やすのり)は、平安時代中期から後期にかけての公卿藤原北家勧修寺流、(駿河守)・藤原惟孝の孫。(播磨守)・藤原泰通の子。官位正二位権中納言

 
藤原泰憲
時代 平安時代中期 - 後期
生誕 寛弘4年(1007年
死没 承暦5年1月5日1081年2月16日
官位 正二位権中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇後三条天皇白河天皇
敦良親王春宮坊
禎子内親王中宮職
章子内親王((太皇太后宮職))
藤原寛子((太皇太后宮職))
氏族 藤原北家勧修寺流
父母 父:藤原泰通、母:(源隆子)
兄弟 惟憲、泰憲、邦通、源円、円高、藤原行家室、源経成室、藤原公信
師国、定俊、心覚、憲尊、藤原師家室、藤原保家母
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経歴

後一条朝にて、乳兄弟であった春宮・敦良親王の春宮蔵人から典薬助左近衛将監を経て、長元3年(1030年)親王の御給により従五位下叙爵する。その後も、春宮権大進として敦良親王に仕える傍ら、長元7年(1034年)従五位上次いで正五位下と順調に昇進した。

長元9年(1036年)敦良親王が即位後朱雀天皇)すると、民部権少輔に(阿波守)を兼ね、さらに長元10年(1037年禎子内親王中宮に冊立されると中宮権大進も兼帯した。長暦4年(1040年左衛門権佐検非違使佐)に任ぜられるが、この人事について後朱雀天皇、関白藤原頼通上東門院の強縁によるものとして批判を受けている[1]。さらに、翌長久2年(1041年)には五位蔵人右少弁を兼ね三事兼帯の栄誉を得た。

寛徳2年(1045年後冷泉天皇が即位すると引き続き五位蔵人を務め、永承3年(1048年)左少弁、永承5年(1050年)従四位上・右中弁、永承7年(1053年正四位下、天喜6年(1058年)権左中弁、康平5年(1062年)左中弁と、後冷泉朝でも弁官を務めながら昇進を続ける。またこの間、(近江守)・(因幡権守)・(播磨守)などの地方官も務めた。康平6年(1063年蔵人頭(頭弁)に補せられ、治暦元年(1065年参議兼左大弁に任ぜられて公卿に列した。

議政官の傍らで、左大弁・勘解由長官などを兼帯し、この間に治暦2年(1066年従三位、治暦3年(1067年正三位延久2年(1070年従二位と順調に昇進。後三条朝末の延久4年(1072年権中納言に任ぜられ、30年以上の長きに亘って務めた弁官の職を離れた。白河朝初頭の延久5年(1073年正二位に至る。

承保3年(1076年)病気のために辞表を上申するがまもなく却下される。承暦4年(1080年)には権中納言を辞して民部卿のみを帯びた。承暦5年(1081年)正月5日(薨去)。享年75。

官歴

公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

脚注

  1. ^ 『春記』長久元年6月8日条

参考文献

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
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