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藤原氏

藤原氏ふじわらしは、日本氏族

藤原氏

下がり藤(代表的な家紋
※ 各、藤原氏によって異なる。
氏姓 藤原朝臣
始祖 天児屋命
出自 中臣氏
氏祖 藤原鎌足
種別 神別天神
本貫 大和国高市郡藤原
著名な人物 藤原鎌足
藤原不比等
藤原冬嗣
藤原仲麻呂
藤原道隆
藤原道長
藤原頼通
その他は藤原氏の人物一覧参照
後裔 藤原南家(長男藤原武智麻呂
藤原北家(次男藤原房前
藤原式家(三男藤原宇合
藤原京家(四男藤原麻呂
記上藤原不比等の子、4家以後については、各家項目を参照
(凡例) / (Category:氏)

姓(カバネ)は朝臣。略称は藤氏とうし

飛鳥時代藤原鎌足を祖とする神別氏族で、多くの公家が輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。

概要

の代表的なものの一つとして源氏平氏橘氏とともに「源平藤橘」(四姓)と総称され、その筆頭名門氏族である。

中臣鎌足大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」のが、子の藤原不比等の代に認められたのに始まる。鎌足が中臣氏の出身であるため、祖は中臣氏と同じく天児屋命と伝える。

奈良時代南家北家式家京家の四家に分かれ、平安時代には北家が皇室と姻戚関係を結んで摂関政治を行った。北家の中でも権勢を誇った藤原道長の嫡流子孫(摂家)は院政期以降も摂政関白をほぼ独占し、臣下としては最高の家格を保った。藤原氏の一族は、奈良時代から平安時代までは本姓の「藤原」を称したが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、「近衛」「鷹司」「九条」「二条」「一条」などの苗字に相当する家名(家格)を名のり、公式な文書以外では「藤原」とは名乗らなかった。これらをあわせると特に朝廷における比率は圧倒的であり、地方に散った後裔などもふくめ、日本においては皇室(およびその流れを汲むなど)に次いで大きな広がりと歴史を持つ家系である。江戸時代の朝廷において大臣就任の資格を持つ上位公卿17家系(摂家清華家大臣家)のうち14家系が藤原氏、残り3家系が源氏であり、徳川をはじめとした主要武家の多くも源平や藤原流を称していることを併せると、皇統と藤原氏の二つだけの血流が支配階級をほぼ独占するという世界でも稀な状態であった。

ただし全国に散らばる藤原氏同族とされる雄族の多くが、藤原氏と氏神を共有せず、地方への赴任事情が不明であり、系図上でも親子関係などで疑問が残るものも存在する。これらの事情には、他の氏族の後裔が藤原氏の一族の養子・猶子となるか、先祖の系図を藤原氏に無理矢理接続させたという類例が武家では非常に多いためとされる。また地方の古族(国造県主など)で先祖が不詳になったものには、中央の権門勢家にかこつけ藤原氏一族と称したものも数多く存在したと見られ、佐藤・斎藤・伊藤・加藤・後藤・武藤・近藤・安藤・尾藤・遠藤などはその多くが本来藤原氏とは無関係であったとも見られる[1]

出自

藤原氏の祖である中臣鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった。その後功績を称えられ、死の直前に天智天皇から藤原朝臣姓を与えられたとされる。藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむ[2]。通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。

他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説[3]もある。この見解は、鎌足の死後中臣氏を率いた右大臣中臣金壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)方について敗北し処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。乱平定ののち、天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は「中臣連(後に朝臣)」と名乗っていたとする。そして『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年(685年)9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められた、とするものである。

いずれにしても、当時不比等がまだ若かったこともあって不比等以外の成員にも藤原朝臣が与えられ、鎌足の一族であった中臣大嶋や中臣意美麻呂(鎌足の娘婿でもある)が、不比等が成長するまでの中継ぎとして暫定的に「氏上」(うじのかみ)に就いていたとみられている[3]

のちに不比等が成長して頭角を現すと、藤原氏が太政官を、中臣氏が神祇官を領掌する体制とするため、文武天皇2年(698年)8月鎌足の嫡男である不比等の家系以外は元の「中臣」姓に戻された。

なお、鎌足の死は、庚午年籍が編纂されて全ての臣民が戸籍に登録される前年であるが、藤原の姓の由来が大和国高市郡にもかかわらず、戸籍上の藤原朝臣は全て京戸として扱われている。これは天智・天武両天皇の子孫である諸王及び諸氏と同じ待遇であった[4]

皇別の藤原氏

また、奈良時代には皇族臣籍降下した際、母の姓を受け継いで藤原朝臣を賜姓されることもあった。藤原弟貞(山背王、長屋王の子)や藤原仲麻呂の養子となった石津王が該当する。しかし弟貞の子孫は(永原)朝臣を賜姓されて藤原氏を称することはなくなり、石津王は仲石伴と改名したとも伝えられるが、いずれにせよ後裔は不明なため、皇孫の藤原朝臣は残らなかった。

藤原氏分離後の中臣氏

中臣意美麻呂は中臣姓に復帰後に不比等の推薦で中納言となり、その七男の清麻呂は右大臣まで昇った。そのため、以後はこの子孫が中臣氏の嫡流とされて特に「大中臣朝臣」と称されるようになった。平安時代以降になると他の中臣氏も大中臣氏を名乗るようになるが、清麻呂の系統が嫡流であることは変わらず、藤波家として堂上公家に列する。

歴史

飛鳥時代

持統天皇末年頃に少壮官僚であった藤原不比等は、天武7、8年頃(678年頃)に蘇我連子の娘・蘇我娼子を嫡妻として迎えた。これによって不比等は、大臣家である蘇我氏の尊貴性を自己の子孫の中に取り入れることができ、藤原氏は氏として成立したばかりであるにもかかわらず、蘇我氏の地位を受け継ぐ氏であることを支配者層に示した[5]文武天皇元年(697年)8月には、持統天皇の譲位により即位した軽皇子(文武天皇)に不比等の娘の藤原宮子が夫人となっており、中央政界に台頭する。これと同時に藤原朝臣姓の名乗りが不比等とその子孫に限定されており、不比等は鎌足の後継者として認められて「藤原氏 = 不比等家」が成立する。藤原不比等は、下毛野古麻呂らとともに大宝律令と、それに続く養老律令を編纂して律令制度の確立に貢献した。さらに宮子が首皇子(後の聖武天皇)を産むと、皇子後宮にも娘の光明子(後の光明皇后)を入れて、天皇の姻戚としての地位を確立した。文武天皇以降、天皇のほとんどの后・妃が藤原氏の娘となる[6]

なお、不比等の出生について『興福寺縁起』には「公避くる所の事有り」とあり、これは不比等が天智天皇の御落胤であることを意味するとされる。『大鏡』、『公卿補任』、『尊卑分脈』にはその旨が明記される。

奈良時代

不比等の死後、外孫である首皇子(聖武天皇)が皇位に就くと、不比等の男子である武智麻呂房前宇合麻呂藤原四兄弟と天武天皇の孫である長屋王皇族を中心とする一派の対立が深まっていった。729年天平元年)、長屋王の変が起こり長屋王は自害する。これは、藤原四兄弟が自分達の異母妹で天皇の妃である藤原光明子を史上初の皇族以外出自の皇后に立てるため、反対する長屋王を讒言により陥れた陰謀事件であったとされる。なお、光明子の立后によって藤原氏の地位が向上することは、藤原氏を母方の実家とする聖武天皇にとっても好都合であることから、天皇の意向を受けた政変であったとも解される。

藤原四兄弟は、それぞれ武智麻呂南家房前北家宇合式家麻呂京家の4家に分かれ、藤原四家の祖となった。731年(天平3年)、役人達の投票によって四兄弟全員が議政官に昇った。これは藤原氏が単に後宮政策のみならず、不比等以来律令編纂に関わってきた実績をもって官僚組織を掌握していったことの証でもあった。この中で、京家は最も振るわず早々に政治の舞台から姿を消すこととなる。

737年(天平9年)、天然痘の大流行で藤原四兄弟が相次いで病死する。それを受けて橘諸兄玄昉吉備真備らが藤原氏の突出を抑えようと努めたが、光明皇后の信任を得た南家・藤原仲麻呂(武智麻呂の子)の台頭により抑えられた。仲麻呂は757年天平宝字元年)には諸兄の子・橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。仲麻呂は独裁的な権力を振るい、仲麻呂の一家には特に「恵美」を姓に加えられ、「藤原恵美朝臣」を称した。しかし光明皇太后の死後孝謙上皇の寵愛を得た道鏡が台頭し、764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱で敗死した。

藤原仲麻呂の失脚で藤原氏は沈みがちであったが、式家の藤原良継百川や北家・藤原永手の尽力で再興する。以降は南・北・式の3家が競い合うが、やがて政争や一族の反乱で南家・式家は平安時代前期には衰退し、北家が最も栄えることとなった。

平安時代

以降の歴史は藤原北家も参照。

平安時代中期以後は、藤原北家のみが栄えた。藤原良房清和天皇外戚となり、人臣で初めての摂政となった。そして、良房の養子・基経もまた、陽成天皇の外戚として摂政と関白を務めた。皇室と姻戚関係を結んで他氏の排斥と権力増強を行う路線は代々引き継がれ、842年承和9年)承和の変から969年安和2年)安和の変に至る一連の事件で藤原北家の他氏排斥が完了する。藤原道長頼通父子の代になると摂関政治の最盛期を極めた。

だが平安後期になると、藤原氏と姻戚関係を持たない上皇による院政が始まり、さらに両氏の武家政権と移行するにつれ藤原氏の権勢は後退した。

鎌倉時代以降

鎌倉時代に入ると、藤原氏の嫡流近衛家(後に首相となる近衛文麿の氏族)・鷹司家松平信平の氏族)・九条家二条家一条家五摂家に分立した。五摂家が交代で摂政関白を(豊臣氏を除き)独占し続け、政治の中枢とは隔絶されるが公家社会では幕末に至るまで一定の影響力を持ち続ける。

五摂家以外にも、三条家西園寺家(後に首相となる西園寺公望の氏族)・閑院家花山院家御子左家四条家勧修寺家日野家(浄土真宗の宗祖・親鸞、足利義政の妻・日野富子の氏族)・中御門家など数多くの支流・庶流がある。

また公家の他に、北家の藤原道兼の子孫の宇都宮氏流や、同じく北家の藤原長家の子孫の那須氏流、同じく北家の藤原房前の子・藤原魚名の子孫の藤原利仁藤原秀郷からは多くの武家も輩出した。

系譜

藤原氏系図(藤原四家成立まで)[7]
藤原氏諸家略系図
堂上公家に限定して記載。江戸時代末には、堂上公家である5摂家・9清華家・3大臣家・66羽林家・28名家・26半家(計137家)のうち、5摂家・7清華家・2大臣家・55羽林家・25名家・2半家(計96家)が藤原氏出身であった。
系図の詳細については各家項目の系図を参照。

主な藤原氏

氏族

人物

その他、著名な藤原姓の人物に関しては藤原氏の人物一覧を参照。特に摂政・関白については摂政・関白の一覧を参照。

現代の藤原氏

現在の研究では、庶民の苗字は明治初めにもともと先祖伝来のものを戸籍に載せた場合が多いとされる。

また、藤原氏の公家諸家は平安末期・鎌倉時代以降、公式文書以外で「藤原」または「藤原朝臣」を使わず「近衛」「九条」「鷹司」「二条」「一条」など各家の名称(家格)を名乗り、維新後もそれを名字とした。現代の藤原氏は親類やゆかりのある人間と考えられている。真偽はともかくとして、明治の元勲では大久保利通が「藤原朝臣利通」、大村益次郎が「藤原朝臣永敏」と公文書に姓(カバネ)と諱(いみな)を記載している。

現代の藤原氏の家紋も下がり藤である。「藤裔会」会長で藤原氏男系血統上の宗家藤原北家九条家九条道弘をはじめとして、現在は会長代理及び名誉会長が務める「藤裔会」では年1回秋頃に全国の藤原氏の末裔が奈良市春日大社に集合し、親睦を兼ねた会合などが執り行われている。

藤原氏由来の苗字

藤原氏由来とされる苗字の代表例を以下に示す。 十六藤 (じゅうろくとう) - 以下の16の苗字の総称(読みは「とう」または「どう」、人口の多い順)

十六藤以外で、藤原氏由来とされる苗字。藤を「とう」と読まない場合もある[8]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 宝賀寿男「藤原氏概覧」『古樹紀之房間』、2007年。
  2. ^ 藤氏家伝』。
  3. ^ a b 高島正人「藤原朝臣氏の成立」(初出:『政治経済史学』第164号(1980年1月)/所収:高島『奈良時代の藤原氏と朝政』(吉川弘文館1999年) (ISBN 978-4-642-02342-9) 第一章
  4. ^ 市川理恵『王朝時代の実像2 京職と支配 平安京の行政と住民』(臨川書店、2021年) (ISBN 978-4-653-04702-5) P184-185.
  5. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  6. ^ 鎌田東二「」(PDF)『公共研究』第3巻第1号、千葉大学、2006年6月、56-78頁。 
  7. ^ 尊卑分脈』1巻 P23~24。
  8. ^ a b ビーバップ!ハイヒール2009年7月2日放送(ABCテレビ(朝日放送))

関連項目

神社
元は「多武峯妙楽寺」という名の寺院。鎌足の子・定恵の創建。
伝・鎌足墓所、伝・不比等墓所が所在。
祭神は下記4柱で、合わせて「春日神」と呼ばれ、藤原氏から氏神として崇敬を受けた。全国の(春日神社)は、当社や藤原氏子孫による分祠に由来する。
寺院
その他
  • 藤氏家伝』 - 奈良時代に成立した藤原氏の家伝書
  • 勧学院 - 藤原氏による平安時代の大学別曹
  • (「藤原」で始まるページの一覧)
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