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荘園 (日本)

日本荘園(しょうえん)とは、古代・中世(8世紀から16世紀)に存在し、権門(中央の貴族公家武家の棟梁)・大寺社など)が収入を得るために領有支配した農地とその周辺の山野を含む土地を指す[1]。なお中世日本の土地所有形態は、形の上では、荘園と国衙領公領)とにほぼ二分されたが、後者も同じく権門によって事実上領有支配された。

荘園制(しょうえんせい)とは、特に中世におけるそのシステムを指し[1]、日本の中世という時代区分とその社会を規定する社会制度、土地制度とされる[2][注釈 1]

室町時代中後期には、諸大名による土地(荘園および国衙領を含む)の押領が進み、将軍の権威・実力も衰え押し留めることができず、最終的には権門による土地領有形態(荘園と国衙領)は無くなった。

歴史

古代の荘園

律令以前の大土地所有

律令制以前には、大王とその一族は屯倉、各地の豪族田荘と呼ばれる所領を支配していた[3]。また、寺院(法隆寺など)の所領も存在した。

律令制期

7世紀に入ると646年の大化改新詔の発布により、従来の屯倉・田荘は廃止され、全国で豪族の所有していた土地は理念上は全て収公され、口分田として班給された[4]。寺院の所領は、寺田として引き継がれた[5]。しかし、実際には律令制以前からその土地を所有していた豪族やその一族に位田や職田として班給されたと見られている[4]

大化改新後、官僚制度や地方制度、法令制度などの整備が徐々に進んでいき、7世紀末~8世紀初頭には律令制が成立し、中央政府による統一的な土地・民衆支配が実現した(公地公民制[要出典]。その基盤となったのは班田収授戸籍などの制度である[注釈 2]

律令制において、地方の支配はと呼ばれる地方行政機関が担っていた[6]。国には中央政府から官人が4年毎に交代で派遣された[7]。彼らは上位から守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、主典(さかん)の四等級に任命され、国司と呼ばれた[7]。また、国司の役所は国衙とよばれ、国衙のあった場所を国府と呼んだ[7]。国は3から15のに分割され、それぞれに行政官である郡司が任命された[7]。郡司には律令制以前からその土地を支配していた地方の豪族が任命され、その地位は世襲された[7]

古代荘園

律令制の中では、全ての大土地所有が否定されたわけではなく、一部の皇族や貴族は自ら役人を派遣して支配する土地を所有していた[8]。これを「古代荘園」と呼ぶことがある[8]

開墾の奨励

奈良時代初期は、律令に基づいて中央政府による土地・民衆支配が実施されていた。

7世紀後半から8世紀初頭にかけて、国家主導の耕地開発が大規模に行われた[9]。この土地が班田収授法に基づき平等に分配されたことにより、日本の人口は増加した[9]。これにより、国家主導の更なる耕地開発が追いつかなくなり、8世紀初頭には、次第に口分田が不足するようになった[9]

なお農民自身が新たな耕地開発を行なった場合は、その墾田の耕作権を開墾者一代に対して認める律令の規定があり、口分田以外の耕作地が許され収入が増えたが、墾田も輸租田の扱いであることは変わらなかった(収穫の中から田租が課された)[10]。また、田の耕作権が死後に収公されることも同じであり、耕地開発の動機付けは弱かった。

そこで、722年長屋王の政権により「百万町歩開墾計画」が策定された[11][9]。この計画では、国司及び郡司に対して農民に食料と農具を支給して10日間開墾作業に従事させるように命ずるとともに、荒地を開墾して一定以上の収穫をあげたものに対する報償(勲位や位階)を定めるなどして、百万町の良田の開墾を目指した[9]。しかし、当時の日本の耕地の総面積が89万町歩であったことからも100万町歩というのはあまりに広大であり、農民の労役が10日間と極めて短く、報償が勲位や位階であったことなどから、この計画は非現実的なものであった[10]。したがって、「百万町歩開墾計画」はすぐに立ち消えとなった。

翌年(723年)にはより現実的な開墾奨励策として三世一身法が発布された[12][10]。三世一身法では、新たに池や用水路を設けて開墾した田地については三代(本人、子、孫もしくは子、孫、ひ孫)の所有、古い用水路や池を利用して開墾した田地については元来の規定通りに一代限りの所有を認め、期限付きではあるが開墾した農地(墾田)の耕作権の私有を認めた[10]

三世一身法の発布により、各地で郡司や官人、寺院、有力農民などによる開墾が行われることとなった[10]。この三世一身法が律令制(公地公民制、公地主義)崩壊の端緒とされる[12]。しかし一方で、期限が到来するとせっかくの墾田も収公されてしまうため期限が近づくと耕作意欲が失われて田地は荒れてしまうという問題もあり[12][10]、効果は限定的であった[12]

初期荘園

そこで政府は新たな推進策として743年墾田永年私財法を発布し、墾田の耕作権の永年私有を認めた。墾田永年私財法の内容は主に以下のようなものであった[13]

  1. 三世一身法では墾田の所有期限を定めていたため、期限が迫ると耕作が放棄されてしまっていたので、以後は墾田の私財としての永年所有を認める。
  2. 開墾の意思のあるものは国司に申請しする。他の百姓の妨げになる場所の開墾は認められない。また、3年が経過しても開墾が行われない場合は他のものが開墾することを認める。
  3. 位階によって所有できる墾田の面積の上限を定めた。
  4. 国司が開墾した田地は、任期が終了した時に収公する。
  5. 墾田の収穫物から国衙へ田租を納めることには変わりがなかった。

これにより、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪(かつての豪族層)は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなった。この、墾田永年私財法の発布によって、各地に作られた荘園を初期荘園とよぶ[14]。特に畿内に集中しており、全国に満遍なく拡がっていた訳ではない[要出典]

初期荘園は、墾田と開墾予定地に倉庫と管理事務所を兼ねた荘所が付属したものであり、後の中世の荘園のように、支配領域の境界が明確になったようなものではなかった[14]。この時代の荘園は専属の農民を持たなかったため、それぞれの荘園の周辺に居住する農民の出作により労働力を賄い、賃租として収められる収穫の2〜3割から収益を得ていた[14]。荘所には農民に貸与する農具や種籾、人夫への労賃や対価として渡す食料が収められており、管理人は荘所で執務した[14]

しかし荘園の直接管理は、人的・経済的な負担も大きく、また墾田の収穫の中から田租を納入する負担などにより、初期荘園は10世紀までに衰退した[要出典]

ただし、平安時代後期に成立する官省符荘の中には初期荘園に由来するもの、あるいは由来すると領主側が主張していたものもあり[注釈 3]、当時の人々の間では初期荘園と中世の荘園の間には連続性があると認識されていたとみられている[15]

著名な初期荘園には、越前の道守荘(東大寺領、荘園絵図が現存する)や播磨鵤荘法隆寺領)などがある。

摂関政治期の荘園

官省符荘・国免荘

荘園領主の中には、荘内の墾田の私有権に留まらず、中央政府と関係を築き、田租の免除(不輸)をも認めさせる者も現れた。田租に係る権限を有する太政官民部省が発するが国司へ通達され、指定された田が不輸租田の扱いとなった(免田と呼ぶ)。不輸が承認された荘園を官省符荘という。

10世紀に入ると戸籍班田収授による租税制度がほぼ崩壊し、国司請負へと移行し始め、国司が租税納入を請け負い、地方行政における国司の役割が強くなった。

その中で、国司が不輸権を認める荘園も現れた。これを国免荘という。国免荘は、それを承認した国司の在任中のみ有効とされた。

免田寄人型荘園

国司請負の流れの中で、10世紀後半ごろから国司は田堵(有力農民層)へ官物雑役などの租税を賦課していった[注釈 4]。こうした田堵は国司と一定の契約関係で仕えており、寄人(よりゅうど)とも言われた。租税の対象となる農地は名田という単位に分けられた。

田堵の中には、国司から免判の発行を受け、名田を免田(租税免除の田地)として認めてもらうことで負担軽減をはかる者も出てきた。これらの荘園を免田寄人型荘園という。免田寄人型荘園は、田堵(寄人)ごと、又は名田ごとに認可されたため、領域的な広がりをもたず、比較的小規模に経営された。

雑役免田

国司は中央政府から検田権を委譲されると、強い権限で、治田(ちでん、田堵の開発した小規模の墾田)、および公験(くげん、正式に土地所有を認めた文書)を欠いた荘園・私領(郡司・郷司など在地領主の所領)を次々に没収して国衙領に組み入れ[注釈 5]、税収を確保しようとした。

しかし一方では、国司免判により雑役免除を認めた雑役免田が急増するようになる。これは、貴族・寺社への国家的給付(封戸物・正税物)の代替というやむを得ない場合もあるが、ほとんどが任期終了間際に国司貴族・寺社から礼物をとり、雑役免除を認める国司免判を濫発したことによるものだった。なおこれは官物の不輸を認めたものではない(国司の在任を超える不輸は太政官民部省の許可が必要)。

雑役免型荘園

雑役免型荘園は、雑役免田を集積したもので散在的であり、一定の地域(郡・郷・荘)に一定の面積が指定されるだけで下地の固定されていない浮免(うきめん)だった。さらに国衙と給主(寺社・貴族)は官物・雑役を分け合う体制(半不輸)だったため、国衙に検田権があり給主の立場は不安定だった(当然、不入権もない)。したがって荘園としては未完成であり、完全な不輸権を得た12世紀の領域型荘園の前の過渡的性格のものと言える。ただし、摂関家島津荘の寄郡(よせごおり)のように、領家が検田権をもつ特殊な雑役免もあった。

寄進地系荘園

11世紀ごろから、中央政府の有力者へ田地を寄進する動きが見られ始める。特に畿内では、有力寺社へ田地を寄進する動きが活発となった。いずれも租税免除を目的とした動きであり、不輸権だけでなく、不入権(田地調査のため中央から派遣される検田使の立ち入りを認めない権利)を得る荘園も出現した。こうした権利の広がりによって、土地や民衆の私的支配が開始されていく。

田堵は、免田を中心に田地を開発し、領域的な土地支配を進めた。こうした田堵は開発領主(かいほつりょうしゅ)に含まれる。開発領主は中央の有力者や有力寺社へ田地を寄進し、寄進を受けた荘園領主は領家(りょうけ)と称した。さらに領家から、皇族摂関家などのより有力な貴族へ寄進されることもあり、最上位の荘園領主を本家(ほんけ)といった。本家と領家のうち、荘園を実効支配する領主を本所(ほんじょ)と呼んだ。このように、寄進により重層的な所有関係を伴う荘園を寄進地系荘園といい、領域的な広がりを持っていた。

開発領主たちは、国司の寄人として在庁官人となって、地方行政へ進出するとともに、本所から下司公文などといった荘官に任じられ、所領に関する権利の確保に努めた。開発領主の中には、地方へ国司として下向して土着した下級貴族も多くいた。特に東国では武士身分の下級貴族が多数、開発領主として土着化し、所領の争いを武力により解決することも少なくなかったが、次第に武士団を形成して結束を固めていき、鎌倉幕府樹立の土台を築いていった。

寄進により荘園は非常に増えたが、田地の約50%は公領国衙領)として残存した。11世紀以降の土地・民衆支配は、荘園と公領の2本の柱によっていた。すなわち公的負担が荘園という権門勢家の家政機関からの出費によっても担われたため、この支配形態を荘園公領制というべき体制であったとする網野善彦の説が現在一般的認識となっている[要出典]

寄進荘園の乱立を防ぐため、天皇の代替わりごとにしばしば荘園整理令が発出されたが、荘園整理の事務は国司が行っており実効が上がらない場合も少なくなかった。また、梅村喬上島享らの指摘にあるように、荘園整理令の対象は違法な手続によって立荘された荘園を禁じたものであり、正規の手続によって立荘された荘園を規制する法令ではなかった点にも注意が必要である。

1068年即位した後三条天皇は、1069年に(延久の荘園整理令)を発し、荘園整理事務を中央で処理するために記録荘園券契所を設置した。それまでの荘園整理令と異なり、この整理令では摂関家領も審査の対象となるなど、厳重な審査が行われ、大きな成果を上げた。これは、院政の開始へつながる画期となった。その一方で、延久の荘園整理令は「天皇の勅許のもとに太政官符・太政官牒の発給を得て四至が確定された荘園は公認される(荘園整理令の対象にはならない)」という荘園成立の原則が確立される画期となる。

更に院政の確立によってこれまで荘園整理事務の中心的役割を果たしていた上皇法皇)に対する開発領主からの寄進が相次ぐようになる。加えて、貴族官人や寺社に与えられていた封戸制度の崩壊もこれに拍車をかけた。太政大臣を務めた藤原伊通二条天皇のために著した『(大槐秘抄)』には、かつての貴族には封戸や節会などの行事における臨時の賜物などの収入があったが、今はそうしたものがないので荘園や知行国からの収入で公私の資を賄っているのであるとして、荘園整理令が現実と乖離していることを指摘している。また、当時、天皇や院が相次いで造営してきた御願寺には封戸が与えられたものの実質が伴うものではなく、寺の維持や行事のために封戸の代わりとなる御願寺領となる荘園を求める事態も発生した[16]。こうした自己矛盾によって荘園整理政策は破綻へ向かう事になるのである。

寄進地系荘園は、延久の荘園整理令が発せられた11世紀後半から全国各地へ本格的に広まってゆき、平安時代末期にあたる12世紀中葉から後期にかけて最盛期を迎えた。

本免と籠作

荘園には(本免)(ほうめ)と(籠作)(ろうさく)があった。本免とは特旨により雑役の賦課を免ずるもの。籠作とは荘司などが荘園領域内の他の所有者の土地や荘外の出作り地を荘園の一部として取り込むことを指した。

鎌倉時代の荘園

1180年に発足した鎌倉幕府は、治承・寿永の乱の中、東国で、荘園・公領の徴税事務や管理を司どっていた荘官などの職(警察権も含む)を御家人の中から任命し掌握した(地頭)。

これにより乱を勝ち抜くことに繋がった。また、御家人の在地領主としての地位は、本来の荘園領主である本所ではなく、幕府によって保全されることとなった。当然、本所側は反発し、中央政府と幕府の調整の結果、地頭の設置は平家没官領治承・寿永の乱の謀反人所領のみに限定された。しかし、幕府は1185年源義経謀叛を契機に、諸国の荘園・公領に地頭を任ずる権利を得ることとなった。源頼朝自身へも平家没官領の大半が与えられ大領主となった。後に北条家執権得宗家)も諸国の荘園の大領主となった。

1221年承久の乱の結果、後鳥羽上皇を中心とする朝廷は幕府に敗れ、上皇方についた貴族武士の所領はすべて没収された。これらの没収領は畿内・西国を中心に3000箇所にのぼり、御家人たちは恩賞として没収領の地頭に任命された(新補地頭)。これにより多数の東国武士が、畿内・西国へも移住し、幕府の勢力が広く全国に及ぶこととなった。

地頭たちは荘園・公領において、勧農の実施などを通じて自らの支配を拡大していったため、荘園領主との紛争が多く発生した。荘園領主はこうした事案(所務沙汰)について幕府へ訴訟を起こしたが、意外にも領主側が勝訴し、地頭側が敗訴する事案が多くあった(幕府の訴訟制度が公平性を確保していたことを表している)。しかし、地頭は紛争を武力で解決しようとする傾向が強く、訴訟結果が実効を伴わないことも多かったため、荘園領主はやむを得ず、一定額の年貢納入を請け負わせる代わりに荘園の管理を委ねる地頭請(じとううけ)を行うことがあった。こうした荘園を地頭請所という。地頭請は、収穫量の出来・不出来に関わらず毎年一定量の年貢を納入することとされていたため、地頭側の負担も決して少なくなかった。

別の紛争解決として、下地中分(したじちゅうぶん)があった。これは、土地(下地)を折半(中分)するもので、両者の交渉(和与)で中分する和与中分と荘園領主の申し立てにより幕府が裁定する中分とがあった。

このような経緯を経て、次第に地頭が荘園・公領への支配を強めていくこととなった。当時の荘園・公領で現地での生産活動の中心だったのが、上層農民の名主(みょうしゅ)である。名主は領主・地頭から名田の耕作を請け負いながら、屋敷を構え、下人や所従などの下層農民を支配し、屋敷近くに佃(つくだ。御作や正作とも称する。)と呼ばれる良田を所有した。名主が荘園領主や地頭に対して負担した租税は、年貢公事夫役などであった。

この時代、農業技術が著しく発達し、二毛作や鉄製農具の普及により、農業生産が飛躍的に増加した。このため、農民層にも経済力がつき始め、領主・地頭への権利意識が高まることとなった。

室町時代の荘園

1333年鎌倉幕府滅亡から建武の新政室町時代初期までの間は、全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の所有関係も非常に流動化した。このため、鎌倉期以前の荘園では、住居がまばらに点在する散村が通常であったが、室町期に入ると、民衆が自己防衛のため村落単位で団結する傾向が強まり、武装する例もあった。

新たに発足した室町幕府は、戦乱を抑えることを目的として、在地武士を組織するため、国単位におかれる守護の権限を強化した。1346年、幕府は守護に対して、刈田狼藉の取締と使節遵行の権限を付与した。さらに、1352年、守護が軍費調達の名目で荘園・公領からの年貢の半分を徴発する半済を、近江美濃尾張3国に限定して認めた。半済はあくまで限定的かつ臨時に認められていたが、次第に適用地域が拡がっていき、かつ定常的に行われるようになった。

こうして守護には強大な権限が集中することとなった。守護が荘園領主から年貢徴収を請け負う守護請も活発に行われ始め、守護による荘園支配が強まった。守護は一国全体の領域的な支配を確立したのである。室町時代の守護を守護大名という。

一方、荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していった。このような村落を惣村という。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かった。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともある。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもあった。

守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなった。ただし、この通説に対しては批判もあり、室町幕府が公武権力の頂点となり、守護に荘園・公領への賦課を認める一方で、荘園・公領に対する一円支配を安堵する政策を取り、百姓からの荘家の一揆土一揆に対しては守護と荘園が協力して鎮圧するなど、15世紀後期までは比較的安定していた時期が続いており、荘園制の解体段階ではなく「室町期荘園制」とでも呼ぶべき安定段階にあったとする説もある[17]

戦国時代の荘園

戦国時代戦国大名は、守護大名以上に、地域支配を強めていった。戦国大名は武力で自らの支配地域を確立していったため、従前の権利関係を解消して、支配地域を家臣や寺社へ分け与えることが多かった。その中で荘園も、戦国大名に蚕食され徐々に減少していった。荘園の所有を巡る紛争が発生しても、それを裁定しうる機関が存在しないため、実力を有する者が支配するようになったのである。中には土佐の一条氏(土佐一条氏)のように、荘園領主である中央貴族が荘園支配を維持するため、荘園へ下向し、そのまま土着して戦国大名となってしまった例もある。また、15世紀後半ごろから、庶民や現地の代官たちの荘園に対する見方が変わり、荘園を共同体として維持管理する考えから、自分たちの共同体である村などに荘園を組み込んでいく考えに移行していく[18]

終焉 - 荘園と検地

1580年代以降、羽柴秀吉により全国的に検地が施行された(太閤検地)。

秀吉の太閤検地は他の戦国大名の検地と違い、1つの土地に1人の耕作者のみ認めようとした。しかし帳簿の上では1人になっても、領主に提出するものとは別に村内向けのより実態に近い帳簿が作成され、それに従って年貢が納められるなど、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在していた[19]

なお室町期以来、全国的に年貢の納め方は地下請が主流になっていたが、戦国時代ではこの地下請を引き継いだ村請(むらうけ。年貢は村単位でまとめて納入する)が採用され、江戸幕府もこれを継続した。

その後

荘園が消滅した後も、その名残として庄屋の職名や○○荘(庄)などの地名が存続した。また、近代に入ると、荘園に関する学術的な研究の進展も見られ、1933年には『(荘園志料)』が編纂されたほか、石母田正らによる伊賀国黒田荘の研究は良く知られている[要出典]

更に20世紀末期頃から、かつて荘園だった史実がその地方のアイデンティティを形成する事例が増え始めている。例えば、大分県豊後高田市田染荘(たしぶのしょう)では、中世前期の荘園景観が残存している全国でも珍しい地区であり、このことを核として地域振興に取り組んでいる。

「荘園」をめぐる諸問題

  • 地方の土豪や有力農民の土地所有は荘園とは見做されず、荘園=私的大土地所有といった理解は誤りである[1]
  • 荘園制研究が始まった20世紀初頭には中世は日本全土が土地の私有=荘園制が布かれているものと思われていたが[20]、21世紀には荘園は土地の国家的領有制度として理解されており、研究の進展に伴い荘園についての評価は逆転した[21]
  • 荘園制は研究と教育の間の乖離が著しい分野でもある。既に1980年代には研究者から教育現場での荘園理解についての遅れが指摘されていたが[22]、この問題は21世紀に入っても依然として改善されていない[23]

脚注

注釈

  1. ^ すなわち荘園制が確認できる期間が日本の中世の時期であり、中世における日本国の範囲である。
  2. ^ 日本律令制下の土地制度は、唐の均田制をもとに構築されていた[要出典]
  3. ^ 中には応神天皇聖徳太子による寄進など、墾田永年私財法どころか公地公民制成立以前の由来を主張する荒唐無稽なものも含まれていた[要出典]
  4. ^ その後、官物は年貢に、雑役は公事になる[要出典]
  5. ^ この権限は強く、例えば、若狭国にあった摂関家の荘園が国司に公験不備を指摘され接収され、関白藤原頼通も、国司の判断を妥当とした例がある(『小右記』万寿2年9月1日・13日条)。

出典

  1. ^ a b c 岡野友彦「日本の荘園はなぜ教えにくいか」『歴史研究』51号、愛知教育大学歴史学会、2005年3月、1頁。
  2. ^ 佐藤 2007, pp. 114–115.
  3. ^ 『荘園史研究ハンドブック』 2013, p. 3.
  4. ^ a b 『荘園史研究ハンドブック』 2013, p. 5.
  5. ^ 『荘園史研究ハンドブック』 2013, pp. 4–5.
  6. ^ 伊藤 2021, p. 6.
  7. ^ a b c d e 伊藤 2021, p. 8.
  8. ^ a b 伊藤 2021, p. 7.
  9. ^ a b c d e 伊藤 2021, p. 11.
  10. ^ a b c d e f 伊藤 2021, p. 12.
  11. ^ 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ), 世界大百科事典. “百万町開墾計画とは”. コトバンク. 2021年12月7日閲覧。
  12. ^ a b c d 第2版,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,世界大百科事典. “三世一身法とは”. コトバンク. 2021年12月7日閲覧。
  13. ^ 伊藤 2021, p. 16.
  14. ^ a b c d 伊藤 2021, p. 17.
  15. ^ 保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』第1章 平安時代の国家と荘園制 (校倉書房、2015年)
  16. ^ 丸山仁「院政期における御願寺と王家領荘園の形成」(初出:『歴史』第94輯、2000年/所収:丸山『院政期の王家と御願寺』(高志書院、2006年))
  17. ^ 伊藤 2010, pp. 15–17, 479–482.
  18. ^ 『室町は今日もハードボイルド 日本中世のアナーキーな世界』、清水克行、2021年6月発行、新潮社、P229
  19. ^ 神田千里『信長と石山合戦―中世の信仰と一揆―』(吉川弘文館、2008年)
  20. ^ 坂本賞三「(荘園制成立のいくつかの間題)」『史人』6号、広島大学大学院教育学研究科下向井研究室、2015年12月、13頁。
  21. ^ 佐藤、2007年、115頁。
  22. ^ 梅野正信、川野恭司「日本史教育における「荘園」制学習の考察」 『鹿児島大学教育学部研究紀要. 教育科学編』41巻、 鹿児島大学、1990年3月、27頁。
  23. ^ 新出高久「寄進地系荘園をどうとらえるか」『日本史かわら版』第4号、 帝国書院、2017年11月、8頁

参考文献

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  • 伊藤, 俊一『荘園』中央公論新社、2021年。 
  • 梅野, 正信、川野, 恭司「日本史教育における「荘園」制学習の考察」『鹿児島大学教育学部研究紀要』第41巻、1990年。 
  • 神田, 千里『信長と石山合戦―中世の信仰と一揆―』吉川弘文館、2008年。 
  • 坂本, 賞三「荘園制成立のいくつかの間題」『史人』第6号、2015年、doi:10.15027/42861。 
  • 佐藤, 泰弘「荘園制の二冊をめぐって : 日本中世荘園史研究の一側面」『史林』第80巻第3号、2007年、doi:10.14989/shirin_90_491。 
  • 荘園史研究会 編『荘園史研究ハンドブック』東京堂出版、2013年。 
  • 保立, 道久『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年。 
  • 丸山, 仁『院政期の王家と御願寺』高志書院、2006年。 

関連文献

  • 稲垣, 泰彦『荘園の世界』東京大学出版会、1973年。 
  • 海老澤, 衷『よみがえる荘園』勉誠出版、2019年。 
  • 小川, 弘和『中世的九州の形成』高志書院、2016年。 
  • 鎌倉, 佐保『日本中世荘園制成立史論』塙書房、2008年。 
  • 川端, 新『荘園制成立史の研究』思文閣出版、2000年。 
  • 木村, 茂光『日本中世の世界1 中世社会の成り立ち』吉川弘文館、2009年。 
  • 工藤, 敬一『荘園の人々』教育社歴史新書、1978年。 
  • 瀬野精一郎 編『日本荘園史大辞典』吉川弘文館、2003年。 
  • 高橋, 一樹『中世荘園制と鎌倉幕府』塙書房、2004年。 
  • 永原, 慶二『荘園』吉川弘文館、1998年。 
  • 永原慶二『永原慶二著作選集1~10』(吉川弘文館、2007~2008)
  • 樋口, 健太郎『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年。 
  • 美川, 圭『院政』中央公論新社〈中公新書〉、2006年。 
  • 『新体系日本史』(山川出版社)
    • 『新体系日本史3 土地所有史』山川出版社、2002年。 
  • 『講座日本荘園史1~10』(吉川弘文館、1989~2005)
  • 日本思想大系 1~67』(岩波書店、1970~1982)
    • 『日本思想大系21 中世政治社会思想 上』岩波書店、1972年。 
    • 『日本思想大系22 中世政治社会思想 下』岩波書店、1981年。 

関連項目

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