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第二次木津川口の戦い

第二次木津川口の戦い(だいにじきづがわぐちのたたかい)は、戦国時代、織田信長本願寺顕如との間で十年にわたって争われた石山合戦における緒戦の一つで、天正6年(1578年)11月6日に毛利水軍九鬼水軍との間で起こり、石山合戦の大局に多大な影響を与えたとされる海戦である[3]

第二次木津川口の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日1578年12月4日(グレゴリオ暦)
場所木津川口
結果:織田方  九鬼水軍の勝利
交戦勢力
毛利水軍
村上水軍
九鬼水軍
指導者・指揮官
村上武吉[要出典] 九鬼嘉隆
九鬼澄隆[注釈 1]
戦力
主に小早500[1]~600[2] 鉄甲船6隻
損害
2000程度[要出典]
24隻拿捕[注釈 2]
100[要出典]
織田信長の戦い

概略

戦闘までの経緯

戦闘

天正6年11月6日、先の前哨戦に起因[注釈 7]したのか或いは荒木村重の謀反に呼応[注釈 8]したのか、毛利村上水軍の船約600隻の軍勢が木津川河口を襲撃。これに対して九鬼嘉隆率いる大安宅船6隻の九鬼水軍が応戦し午前8時前後から正午にかけての海戦となった。始めのうちは九鬼水軍が囲まれ戦況は毛利村上水軍が押しているかのように思われたが、九鬼嘉隆は敵船を近くまで引き寄せ大安宅船6隻に備えた数多の大鉄砲・大砲をもって敵旗艦に斉射をしかけた。それ以後、毛利村上水軍九鬼水軍に接近できなくなり、敗走した[2]。『信長公記』の本項最後は「見物の者共九鬼右馬允手柄成と感せぬㇵなかりけり」と結んでいる[2]

また『九鬼御伝記』には『信長公記』には無いやや詳細な内容が記されている。

堺の沖二十から三十里あたりに何かが見え、嘉隆が人家の屋根に上り毛利村上の大軍が押し寄せてきた事を確認すると、「十死ニ一生ノ合戦シ運ノ程ヲタメサン(中略)敵船少クトモ五百艘ハアルベシ、又我等ガ船は六艘ナリ、弥々無勢ト思フベカラズ、惣テ船軍ハ敵大勢程仕良キモノ也」と配下を鼓舞した。そして勝つための詳細な作戦(省略)を説明したが、堺の人々は「是非叶ヒ申スマジキ由ニテ止メ申ス」と無謀な戦いをしないよう忠告した。しかし嘉隆はその忠告には耳を傾けずに海戦に向かった[1]。以下、原文

"然レドモ聞キ入レズ則チ船出ス。(中略)伯父甥三艘ヅツノ大将トリ、ソノ間三丁計リ沖ヘ出張リタル二十艘バカリナル所ヘ両脇ヨリ取リカヽル相図ナレバ右馬之丞方ヨリ船一艘漕ギ出シ出張リタル、二十艘ノ所ニテ鉄砲打チ払ヒソノママ弥五助ガ船ノ方ヘカヘル時、船歌ニテ漕ギツクル、又船玉コメタル一艘漕ギ出シ、右ノ如ク鉄砲打チ払ヒ右馬之丞方ニモドルトテ船歌ニテ帰ル、是ノ如クシテ漕ギカヘル事十度程シテ敵追々漕ギ連ネ、前後トモナク鉄砲ヲ打ツ、右馬之丞申スゴトク後ヨリ打ツ、鉄砲ニテ前ナル味方ヲ打ツ、(中略)コノ時右馬之丞敵船ノ内へ漕入ル、弥五助之ヲ見テコレモ首尾ヨク敵ノ内ヘ漕ギ入リ、散々ニ相戦フ、(中略)味方ノ船ヲ取リ争ヒ、討チ合ヒタルモノ多シ、サルニヨリ右馬之丞申セシ如ク跡ヨリジネンニ引ク先船コレヲ見テ一度ニドット漕ギモドス、右馬之丞之ヲ見テ追懸ケ敵船二十四艘乗取リ西国船敢エテ大坂ヘ入ラズ、"[1]

このように第二次木津川口の戦い直前の雰囲気や戦術、戦況、戦果などの描写が伝わる。

結果

第二次木津川口の戦いの戦果について、その戦略的な意味が兵糧攻めにあった事は、『信長公記』第9巻7月15日(本願寺第一次木津川口の戦いで得た戦果)[注釈 9]や『同記』第11巻7月17日[注釈 10]の記述を見て十分に理解できる他、『パードレ・オルガンチノの都より發したる書翰』と『多聞院日記』・『(志摩軍記)』の中からそれぞれ下記の通り汲み取る事が出来る。

"信長が其建造を命じたるは、四年来戦争をなせる大坂の河口に之を置き、援兵又は糧食を搭載せる船の入港を阻止せんが為めにして、之に依りて大阪の市は滅亡すべし"[10][注釈 11]
"堺浦ヘ近日伊勢ヨリ大船調付了、(中略)大坂ヘ取ヨリ、通路トムヘキ用ト云々、"[6][注釈 12]
"御坊せめ落すべき事難かるへし、故を如何と申すに、西国より兵糧を通はし候と覚えたり、堺口へ船をふせがせ兵糧づめに致しなば落へき事は必定"[5]

事実、この戦役ののち、本願寺顕如は僅か17ヶ月(天正8年4月)ほどで和睦の意思を固め石山御坊を退去する事となる。その後も、新門跡となった本願寺教如は継戦を望む門徒を率いて抵抗を続けたが、荒木村重花隈城の落城[注釈 13]など八方ふさがりの戦況を受けて同年中に降伏。このように、元亀元年から天正六年本戦までの約8年の長きに亘って続いた石山合戦を終結に至らしめる大きな切っ掛けとなっている[19]

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 「コノ時弥五助同道致スニ由リテ、弥五助ヘ三艘右馬之丞ヘ三艘、伯父甥三艘ヅツノ大将トリ、」(九鬼御伝記)[1]
  2. ^ 「右馬之丞之ヲ見テ追懸ケ敵船二十四艘乗取リ」(九鬼御伝記)[1]
  3. ^ 実際に鉄の装甲を備えていたのか?[7]又その大きさ[8]など諸説あり、議論の詳細は鉄甲船の項を参照。
  4. ^ この日に多聞院英俊の関係者が新造の大安宅船を目にしこれを7月20日付の日記に書き記した[6]
  5. ^ 宣教師オルガンチノがこの観艦式に立ち会いルイス・フロイスに報告書を送っている[10]
  6. ^ 九鬼嘉隆が首級二つをあげた戦果に対する織田信長感状(黒印状)[13]
  7. ^ 「毛利水軍は、天正六年十月十二日の海上戦で撃退されたが、織田水軍による海上封鎖は本願寺一向一揆衆にとり致命的であったから、再度の攻撃は必至の情勢にあった。」=『九鬼嘉隆 ―戦国最強の水軍大将―』引用[14]
  8. ^ 「村重は大坂湾北部の尼崎城や花熊城(神戸市)を属城としており、その転向によって、毛利水軍の大阪湾における行動や、大坂本願寺への海上支援は一層容易になった。こうした状況の中で、毛利氏の水軍は十一月六日に木津川口に出動して、九鬼嘉隆などの水軍と交戦した。」=『水軍と海賊の戦国史』引用[15]
  9. ^ 「七月十五日の事候中國安藝(中略)七八百艘大船を催し(中略)西國舟ㇵ得勝利大坂へ兵粮入」=『信長公記』引用[4]
  10. ^ 「寅七月十七日堺の津へ着岸候し也見物驚耳目候し也翌日大坂表へ乘出し塞々々に舟を懸置海上之通路を止堅固仕候也」=『信長公記』引用[9]
  11. ^ 「ここで特に注目すべきは、建造の目的を、石山本願寺への兵員と兵糧の補給路を遮断するためとしていることと、その具体的な用法として河口に置くとしていることである。」=『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』引用[16]
  12. ^ 「ここでもオルガンチノの報告書と同様、これらの大型船を、大坂への通路を遮断するためのものと明言している」=『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』引用[17]
  13. ^ 『九鬼嘉隆 ―戦国最強の水軍大将―』では九鬼嘉隆が花隈城落城に貢献した事に対する北畠信雄感状と併せて「本願寺の城に留った新門主教如は、いったん籠城を決意していたが、花隈城の落城もあって信長と和し、八月二日に石山城を信長に明け渡した。」と三重県史の引用を紹介している。[18]

出典

参考文献

  • 近藤瓶城編集 (1901), 信長公記』=史籍集覧.19(国立国会図書館デジタルコレクション)p124p146p148p150p195p197 
  • 岩田準一 (1972), 『志摩のはしりがね』付録『(志摩軍記)』 
  • 辻善之助編集 (1936), 多聞院日記』.第3巻(巻24-巻31)(国立国会図書館デジタルコレクション)p21p22 
  • 村上直次郎編集 (1928), 『パードレ・オルガンチノの都より發したる書翰』=異国叢書.第3(国立国会図書館デジタルコレクション) p434 
  • 鳥羽市史編さん室編集 (1991), 『鳥羽市史(上巻)』(鳥羽市役所) 
  • 鳥羽市教育委員会編集 (2011), 『九鬼嘉隆 ―戦国最強の水軍大将―』(鳥羽市教育委員会) 
  • (小川雄) (2020), 『水軍と海賊の戦国史』(平凡社) 
  • 藤本正行 (1993), 『信長の戦国軍事学―戦術家・織田信長の実像―』(JICC出版局) 
  • 宇田川武久 (1986), 『毛利氏の水軍編成』((河合正治)編『毛利元就のすべて』(新人物往来社)収録) 
  • 池上裕子 (2012), 『織田信長』(吉川弘文館) 

関連項目

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