第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、英: World War II、略称:WWII)は、1939年(昭和14年)9月1日から1945年(昭和20年)9月2日までの6年余りにわたって続いたドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中華民国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である。連合国陣営の勝利に終わったが、第一次世界大戦以来の世界大戦となり、人類史上最大の死傷者を生んだ。
第二次世界大戦 | |
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左上から時計回りに万家嶺の戦いでの中華民国軍、エル・アラメインの戦いでのオーストラリア軍、独ソ戦でのドイツ空軍の爆撃機、フィリピンの戦いでのアメリカ海軍の艦隊、連合国軍に降伏するドイツのヴィルヘルム・カイテル司令官、スターリングラード攻防戦で荒廃した街と赤軍の兵士たち。 | |
戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1939年9月1日 - 1945年8月15日[1] | |
場所:ヨーロッパ、東アジア、東南アジア、太平洋など[1]。 | |
結果:連合国側の勝利。米ソを両極とする冷戦が開始[1]。従来の欧米列強の植民地の独立が相次ぐ[1]。 | |
交戦勢力 | |
連合国 イギリス帝国 アメリカ合衆国 ソビエト連邦 中華民国 フランス共和国 ポーランド エチオピア帝国 デンマーク ノルウェー オランダ王国 ベルギー ルクセンブルク ギリシャ王国 ユーゴスラビア王国 | 枢軸国 ドイツ国 大日本帝国 イタリア王国 ハンガリー王国 ルーマニア王国 ブルガリア王国 フィンランド タイ王国 イラク |
指導者・指揮官 | |
ジョージ6世 ネヴィル・チェンバレン ウィンストン・チャーチル クレメント・アトリー フランクリン・ルーズベルト ハリー・S・トルーマン ヨシフ・スターリン 蔣介石 アルベール・ルブラン シャルル・ド・ゴール | アドルフ・ヒトラー カール・デーニッツ 昭和天皇 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世 ベニート・ムッソリーニ ピエトロ・バドリオ |
戦力 | |
計5083万6566人[2][] 各国の戦力
| 計2174万5000人[2][] 各国の戦力
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損害 | |
戦死者 蘇1450万人 中132万4000人 波85万人 米29万2000人 英27万1000人 仏21万1000人 蘭1万4000人 捷7000人 民間人犠牲者 中1000万人 蘇700万人以上 波577万8000人 捷31万人 蘭23万6000人 仏17万3000人 英6万1000人[3] | 戦死者 独285万人 日230万人 羅52万人 墺38万人 伊28万人 民間人犠牲者 独230万人 日80万人 羅46万5000人 墺14万5000人 伊9万3000人[3] |
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概略
1939年8月23日の独ソ不可侵条約と付属の秘密議定書に基づいた、1939年9月1日に始まったドイツ軍によるポーランド侵攻と同年9月17日のソビエト連邦によるポーランド侵攻が発端であり、終結後の2019年に欧州議会で「ナチスとソ連という2つの全体主義体制による密約が大戦に道を開いた」とする決議が採択されている[4]。そして同月のイギリスとフランスによるドイツへの宣戦布告により、ヨーロッパは戦場と化した。
その後、以前から日中戦争を戦っていた日本の1941年12月8日午前1時35分に開始されたマレー作戦による、イギリスやオランダの東南アジア植民地地域とオーストラリアへの攻撃で、太平洋戦争に拡大された。そして同日に行われた真珠湾攻撃によりアメリカとカナダとの間にも開戦した。同月にドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告し、これを皮切りに交戦地域は全世界へと拡大し人類史上最大の戦争となった。
この戦争は当初枢軸国軍が優勢を保ったが、1942年中半にはヨーロッパ戦線で、1943年中半にはアジア太平洋戦線で連合国軍が反攻に転じ、1945年5月にドイツが敗北、8月9日にソ連が日本に参戦したことで日本が8月10日にポツダム宣言の受託を決め、8月15日に戦闘停止、9月2日に降伏文書に調印したことで終結した。
なお、1945年8月6日には原子爆弾のリトルボーイが広島に、9日にファットマンが長崎に投下され、核兵器の運用が行われた史上唯一の戦争となった。
参戦した国
枢軸国とは1940年に成立した三国同盟に加入した国と、それらと同盟関係にあった国を指す。一方、連合国とは枢軸国の攻撃を受けた国、そして1942年に成立した連合国共同宣言に署名した国を指す。また、日本と中華民国のように、第二次世界大戦前より戦争状態(1937年に始まった日中戦争。これにはアメリカも義勇軍という形で事実上参戦していた[注釈 1])を継続している国もあった。
全ての連合国と枢軸国が常に戦争状態にあったわけではなく、一部の相手には戦地が遠いことなどを理由に宣戦を行わないこともあった。しかし1943年にイタリアが降伏し、大戦末期の1945年5月のドイツの降伏後には、中立国と占領地を除いた国家の大部分が連合国側に立って参戦した。
枢軸国の中核となったのは参戦順に日本、ドイツ、イタリアの3か国で、連合国の中核となったのは中華民国、ソビエト連邦、イギリス、フランス、アメリカ合衆国の5か国である。また、イタリア王国などのように、連合国に降伏した後、枢軸国陣営に対して戦争を行った旧枢軸国も存在するが、これらは(共同参戦国)と呼ばれ、連合国の一員とは見なされなかった。
戦域
第二次世界大戦の戦域は、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一帯(欧州戦線)と、東アジア・東南アジアと太平洋・北アメリカ・オセアニア・インド洋・東南アフリカ全域の一帯(太平洋戦線)に大別される。
欧州戦線ではドイツ、イタリアなどを中心にイギリス、フランス、ソ連、アメリカなどとの戦いが、太平洋戦線では日本などを中心にイギリス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなどとの戦いが繰り広げられた。
欧州戦線はドイツやイタリアを中心とした枢軸国とイギリス、フランス、オランダ、ベルギー、カナダ、アメリカ、ブラジルなどが戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、同じくドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った東部戦線(独ソ戦)に分けられる。
太平洋戦線は連合国により太平洋戦争と呼称され(日本側の呼称は「大東亜戦争」)、日本とイギリス、オーストラリア、アメリカ、ニュージーランドなどが太平洋の島々とアラスカやハワイ、アメリカ本土やアリューシャン列島を含むアメリカやその領土のフィリピン、カナダなどで戦った太平洋戦域、オランダ領東インドやイギリス領マラヤ、フランス領インドシナなどで日本とタイ王国がオランダ、イギリス、アメリカ、フランスなどが戦った(南西太平洋戦域)、イギリス領ビルマやイギリス領インド帝国、イギリス領セイロンやフランス領インドシナで日本とドイツがイギリスやオーストラリア、ニュージーランドなどと戦った(東南アジア戦域)。日本とドイツがイギリスやフランスと戦った東南アフリカ戦線。中国大陸などで日本や満洲国が中華民国とアメリカ、イギリスなどと戦った日中戦争に分けられる。
しかし、これら以外に中東や南米、中米、カリブ海などでも枢軸国と連合軍の戦闘が行われ、文字通り世界的規模の戦争であった。戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的、物的資源の全面的な動員、投入が行われた。当時の独立国のほとんどである世界61か国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費は総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。
比較
第一次世界大戦と比較すると、ともに総力戦ではあったが相違もあった。第一次世界大戦は塹壕戦と戦艦、ケーブル切断を主体に展開されたが、第二次世界大戦では航空機による空襲、空母と潜水艦を用いた機動戦、無線通信の結果戦線が拡大した。また、無線は電信と違い敵に傍受されるため、暗号による作戦伝達や、その解読による戦果がもたらされた[5]。
使用された兵器には、著しく発達した航空機や戦車、潜水艦などに加え、レーダーやジェット機、長距離ロケットなどの新兵器、さらに原子爆弾つまり核兵器という大量破壊兵器がある。
被害
総力戦も航空機の発達により、第一次世界大戦より徹底された。この戦争では主に航空機の進化により戦場と銃後の区別がなくなり、民間人が住む都市への大規模な爆撃や人類史上初の原子爆弾投下により、多くの民間人や捕虜が命を失った。またドイツは、戦争と並行して、自国および占領地でユダヤ人・ロマ・障害者の組織的大量虐殺を進めた。これはホロコーストと呼ばれる。これらによる大戦中の民間人の死者は、総数約5500万人の半分以上の約3000万人に達した。
また大戦末期から大戦後にかけては、ドイツ東部や東ヨーロッパから1200万人のドイツ人が追放され[6]、その途上で200万人が死亡している[6]。新たにソ連領とされたポーランド東部ではポーランド人も追放され、大幅な住民の(強制収容)が行われた。またアジア、太平洋、オセアニア、アメリカなどでは日本人が強制送還され、捕虜となった枢軸国の将兵や市民は戦後も数年間シベリアなどで強制労働させられた。
戦後
戦争中から連合国では、国際連合の設立など戦後の秩序作りが協議されていた。戦場となったヨーロッパと日本では戦後の国力は著しく低下しており、戦争の帰趨に決定的影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出して大きくなった。この両国は戦後世界に台頭する超大国となり、覇権争いで対立し、その対立は1990年代に至るまでの長い間冷戦構造をもたらし、世界の多くの国々はその影響を受けずにはいられなかった。
第二次世界大戦の結果により、アジア、アフリカ、中東、太平洋諸国にある有色人種の、欧州の植民地であった地域では、白人諸国家に対する民族自決そして独立の機運が高まり、大戦終結後数年から十数年後に多くの国々が独立した。その結果、大航海時代以来の欧州列強の地位は著しく低下した。
こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパ諸国と大多数の東ヨーロッパ諸国では、大戦中の対立を乗り越え、さらに1990年代まで続いた冷戦を超えて欧州統合の機運が高まった。しかし21世紀に入ると、ソ連の継承国のロシアなど一部の国はそこから外れ、かつての強国の座を取り戻そうとしている。
経過(全世界における大局)
1939年9月1日早朝 (CEST)、ドイツ国とスロバキア共和国がポーランドへ侵攻。9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告した。9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された。その後、西部戦線では散発的戦闘のみで膠着状態となる(まやかし戦争)。一方、ソ連もドイツの伸長に対する防御やバルト三国およびフィンランドへの領土的野心から、11月30日よりフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。ソ連はこの侵略行為を非難され、国際連盟から除名された。
1940年3月に、ソ連はフィンランドにカレリア地峡などを割譲させた。さらに1940年8月にはバルト三国を併合した。1940年春、ドイツはデンマーク、ノルウェー、ベネルクス三国、フランスなどを次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合軍をヨーロッパ大陸から駆逐した。さらにイギリス本土上陸を狙った空襲も行ったが、大損害を被り(バトル・オブ・ブリテン)、その結果9月にヒトラーはイギリス上陸作戦(アシカ作戦)を無期延期とし、ソ連攻略を考え始める。その9月下旬、ドイツはイタリア、そして1937年より日中戦争を戦う日本と日独伊三国軍事同盟を締結した。
また中東のイラクは1932年10月3日にイギリス委任統治領メソポタミアからイラク王国として独立したが、その後もイギリスによる石油支配は続き、またイギリス軍のイラク国内での自由な移動の権利も認められているなどイギリスとイラクの関係は依然として不平等なものであった。そのためその頃から汎アラブ主義やイスラム主義などの思想が勃興し始め、それが次第に反英闘争へと繋がっていった。そして第二次世界大戦が始まるとイラクはドイツと断交してイギリスを積極的に支援するが、それに反対した民族主義勢力が1941年3月に革命を起こし親英政権を打倒。4月3日には反英親独派のラシッド・アリー・アル=ガイラーニーが首相に就任し、独立以来のイギリスとの不平等な関係を打破しようとした。その結果イラクはイギリスと開戦、アングロ=イラク戦争となった。イギリス軍は4月18日にバスラ、ヨルダン、パレスチナからイラクに侵攻し、イラク軍に勝利して5月30日には首都バグダードを占領。その後ガイラーニーらは中立国のイランに逃れ、最終的にイタリア、ドイツへ亡命した[7]。
1941年にドイツ軍はユーゴスラビア王国やギリシャ王国などバルカン半島、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻した。6月にドイツはソ連への侵攻を開始し、ついに第二戦線が開いた(独ソ戦)。これによりドイツによる戦いは東方にも広がったため、戦争はより激しく凄惨な様相となった。日中戦争で4年間戦い続けていた日本は、12月8日午前1時(日本時間)にイギリスのマレー半島を攻撃し(マレー作戦)、ここに太平洋アジア戦線が始まる。日本軍は続いて午前5時(同)、アメリカのハワイも奇襲し勝利を収める(真珠湾攻撃)。ここに日本がイギリスとアメリカ、オランダなどの連合国に開戦し、11日にドイツやイタリアもアメリカに宣戦布告し戦争は世界に広がり、世界大戦となる。日本軍は12月中に早くもイギリスの植民地の香港やアメリカのグアム、ウェーク島などを瞬く間に占領し、アメリカ西海岸で通商破壊戦を開始した。
1942年に入っても戦勝を続ける日本軍は、イギリスの植民地のマレー半島一帯やビルマ、オランダ領東インド、アメリカの植民地のフィリピンを占領した。さらに日本軍による本土への空襲や砲撃を数度に渡り受けたアメリカやオーストラリアは、自国本土への日本陸軍上陸対策を検討するほどになり、2月以降はアメリカと中南米諸国を中心に日系人の強制収容までおこなった。しかし同時期のドイツはロストフの戦いとモスクワの戦いで敗北し、これにより対ソ戦での勢いが止まってしまう。しかし日本軍は勢いを増しインド洋からイギリス海軍を駆逐するとともにアフリカ大陸沿岸のマダガスカル島まで進出し、オーストラリアのシドニー湾まで攻撃の範囲を拡大した。日本軍は6月にミッドウェー海戦で敗北するものの、同月にアリューシャン列島のダッチハーバーを空襲し、その後アッツ島とキスカ島を占領しアメリカ領土を初占領した。さらに9月にアメリカ本土への空襲を数回にわたり行うなど勢いを増した上に、アメリカ海軍も各地で日本軍との戦いで敗北を続け、アメリカは年末には太平洋上で稼働空母が皆無になるなど各地で勝ち進んだ。
1943年に入っても日本軍はオーストラリア本土への激しい空襲を続け、また各地でイギリス軍やアメリカ軍に対する勢いも優勢を保ったが、中盤になるとようやくアメリカやイギリス、オーストラリアも体勢を立て直し、ソロモン諸島の戦いなどでは日本軍と一進一退を続けるようになる。またインド洋では日本海軍とドイツ海軍、イタリア海軍の共同作戦が活発になるが、イタリアが降伏しインド洋の潜水艦などはドイツ軍に鹵獲される。ヨーロッパ戦線においては同年には枢軸国が完全に劣勢となり、ドイツは2月にスターリングラード攻防戦、5月に北アフリカ戦線で敗北し、北アフリカを放棄。1943年7月に敗色が濃い中イタリアのベニート・ムッソリーニは失脚し、連合国側に鞍替え参戦する。同時に、救出されたムッソリーニを首班としたドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国(サロ政権)が北イタリアを支配する状況になる。また日本軍は昨年から続くガダルカナル島の戦い[8]で敗北するなど、戦線が拡大し補給線が国力を超えて延び切ったため、同年後半には勢いを失い以降劣勢となり、日本軍はついに11月にオーストラリア本土への空襲を中止する。
1944年にイギリス軍が日本軍にビルマでインパール作戦に勝利し、イギリス領インド帝国への侵略を阻止した。6月に行われたマリアナ沖海戦でアメリカ軍が勝利するなど連合軍の勢いがさらに増した。これに対し7月に日本陸軍が中華民国軍とアメリカ軍に対して中華民国内で行った大陸打通作戦でかつてない大勝利を収めたが、もはや大勢には変わりなかった。ヨーロッパの連合軍はついにフランスに上陸し、マーケット・ガーデン作戦など勝利を重ねオランダ、ベルギーなどを開放、ドイツに向けて侵攻を続けた。さらにソ連軍もドイツの東部国境に迫った。アジア・太平洋では8月のサイパン島陥落後、日本本土がアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機の戦略爆撃の行動範囲内となる。10月に行われたレイテ沖海戦で日本海軍は大敗北を喫するなど勢いは完全に連合軍に傾いた。冬にはアメリカ軍によるフィリピンへの再上陸と、小規模ながら日本本土への空襲が始まった。
1945年初頭に日本軍はフランス領インドシナに侵攻し(明号作戦)これに成功したが、もはや劣勢を変えるには至らなかった。連合軍はドイツ本土へ侵攻、東をソ連に、西をイギリスとアメリカに追い込まれた総統アドルフ・ヒトラーは4月30日に自殺、同政権は崩壊しイタリア社会共和国も崩壊、ムッソリーニもパルチザンに惨殺された。5月9日にドイツ国防軍は降伏しヨーロッパにおける戦争は終結した。日本も4月以降連日アメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍機の空襲を北海道を除く全土で受けたほか、春には本土周辺の制海権、制空権をほぼ失った。さらに友邦ドイツ降伏後は一国でソ連を除くほぼ世界中の国々と交戦状態という状態になるが、軍部主流派は降伏することをよしとせず本土決戦を行うべく戦いを続けた。しかし6月の沖縄戦で多くの死傷者を出し、日本との本土決戦でさらに大量の死傷者がでるとの予想に恐れた連合国軍は、8月6日に広島市に原子爆弾投下を行ったが、本土決戦を行うという日本の決意は揺るがなかった。しかし、8日未明の中立国かつ和平協定を持つソ連軍の参戦という予想すらしていなかった事態に急展開し、ようやく10日からの御前会議で降伏を決定した。さらに9日には長崎市への原爆投下が行われ、同14日にポツダム宣言を正式に受諾。15日に玉音放送で降伏を全国民に伝える。連合国は多くの将兵や武器を残した日本への上陸を慎重に進め、降伏から2週間後の28日に初上陸し、9月2日に降伏文書に日本軍と連合国が調印し、約6年間続いた第二次世界大戦は終結した。
背景(欧州・北アフリカ・中東)
ヴェルサイユ体制とドイツの賠償金
1919年6月28日、第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、翌年1月10日に同条約が発効、ヴェルサイユ体制が成立した。その結果、ドイツやオーストリアは本国領域の一部を喪失し、それらは民族自決主義の下で誕生したポーランド、チェコスロバキア、リトアニアなどの領域に組み込まれた。
しかしそれらの領土では多数のドイツ系人種が居住し、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民処遇問題は、新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、海外領土は全て没収され戦勝国によって分割されただけでなく、共和政となったドイツはヴェルサイユ条約により巨額の賠償金が課せられた。さらに、ドイツの輸出製品には26%の関税が課されることとなった[9]。
1921年、賠償の総額が1320億金マルクに定められた。1922年11月、ヴェルサイユ条約破棄を掲げるクーノ政権が発足すると[10]、1923年1月11日にフランス・ベルギー軍が賠償金支払いの滞りを理由にルール占領を強行[10]。工業地帯・炭鉱を占拠するとともにドイツ帝国銀行が所有する金を没収し、占領地には罰金を科した[11]。これによりハイパーインフレが発生し、軍事力のないドイツ政府はこれにゼネストで対抗したが、クーノ政権は退陣に追い込まれた[10]。その結果、マルク紙幣の価値は戦前の1兆分の1にまで下落、ミュンヘン一揆などの反乱が発生した。
国際連盟設立
第一次世界大戦の戦勝国のイギリス、フランス、大日本帝国、イタリア王国といった列強が、常設理事会の常任理事国となり1920年に国際連盟が作られた。講和会議後に締結されたヴェルサイユ条約・サン=ジェルマン条約・トリアノン条約・ヌイイ条約・セーヴル条約の第1編は国際連盟規約となっており、これらの条約批准によって連盟は成立した。
戦勝国は現状維持を掲げて自ら作り出した戦後の国際秩序を保とうとしたが、戦勝国のアメリカの当初の不参加や、新興国のソビエト連邦や敗戦国のドイツの加盟拒否によってその基盤が当初から十分なものではなく、国際連盟の平和維持能力には初めから大きな限界があった。
モンロー主義の動揺
ウィリアム・ボーラやヘンリー・カボット・ロッジら米上院議院がヴェルサイユ条約への参加に反対した。戦後秩序維持に最大の期待をかけられたアメリカは伝統的な孤立主義に回帰したが、モンロー主義は終始貫徹されたわけではなかった。すぐにヴァイマル共和政に対する投資を共にしてフランスとの関係が深まった。
そこで1930年5月、アメリカでは対イギリスとの戦争に備え、主にカナダを戦場に想定したレッド計画が作成された。レッド計画は1935年に更新されたが、同年には中立法も制定され、全交戦国に対して武器禁輸となった。1936年2月29日の改正中立法では交戦国への借款も禁止された。1937年5月1日にも改正され、限時法だったものが恒久化し、なおかつ一般物資に関してもアメリカとの通商は現金で取引し、貨物の運搬は自国船で行わなければならないとされた。中立法の完成にはナイ委員会の調査が貢献したが、上院外交委員会はナイ委員会に法案提出の権限がないとしたので、ナイは個人資格で法案を提出するなどの困難を伴った。
欧州大陸でのドイツの台頭により欧州の情勢が激変し、1939年レッド計画は更新されなかった。アメリカはカラーコード戦争計画において、日英独仏伊、スペイン、メキシコ、ブラジルをはじめ各国との戦争を想定した計画を立案しており、この計画がのちに第二次世界大戦を想定したレインボー・プランへと発展していく。
共産主義の台頭
ロシア革命以降、世界的に共産主義が台頭し、これの阻止を狙った欧米列強はシベリア出兵などで干渉したが失敗した[12]。ソ連政府は1917年12月、権力維持と反革命勢力駆逐のため秘密警察(チェーカー)を設置し、国民を厳しく監視し弾圧した。新たにソ連に併合されたウクライナでは1932年から強制移住と餓死、処刑などで約1450万人が命を落とし(ホロドモール)[13]、さらに1937年から1938年にかけてのヴィーンヌィツャ大虐殺では9,000人以上が殺害された。秘密警察は1934年、内務人民委員部 (NKVD) と改称され、ソ連国内とその衛星国で大粛清を行い数百万人を処刑した。
旧勢力駆逐後のソ連は対外膨張政策を採り、1921年には外モンゴルに傀儡政権のモンゴル人民共和国を設立、1929年には満洲の権益をめぐり中ソ紛争が引き起こされた。さらに、スペイン内戦や支那事変等に軍を派遣(ソ連空軍志願隊)し、国際紛争に積極的に介入。1939年には日本との間にノモンハン事件が起こった。このような情勢下でソ連の支援を受けた共産主義組織が各国で勢力を伸ばす。
ヴェルサイユ体制下の安定
戦勝国のイタリアでは「未回収のイタリア」問題や不景気により政情が不安定化した。このような状況でイギリスの支援[14]により勢力を拡大したムッソリーニのファシスト党は1922年のローマ進軍で権力を掌握し、権威主義的なファシズム体制が成立した。しかしこの頃のムッソリーニとファシズム体制は、イギリスやアメリカなどでも「新しい流れ」だと期待され、チャーチルさえも大いに絶賛した。
同じく戦勝国の日本では議会制民主主義化が進み、1918年9月、日本で初めての本格的な政党内閣である原内閣が組織された。「平民宰相」と呼ばれた原敬は1921年に暗殺されたが、その後1922年に日本はワシントン海軍軍縮条約に調印し、1923年には、四カ国条約の成立に伴い日英同盟が発展的解消された。1925年にはアジアで初の普通選挙制度が導入された。政党政治の下で議会制民主主義化が根付き、「大正デモクラシー」の興隆の中で外相幣原の推進する国際協調主義が主流となり、このまま議会制民主主義が浸透していくかに見えた。
一方、敗戦国のドイツでは、破滅の底に落ちたドイツ経済はルール占領時には混乱したものの、1924年のレンテンマルクの導入やドーズ案に代表される新たな賠償支払い計画とともに、戦勝国のアメリカやイギリスなどの資本も入り、一応は平静を取り戻し相対的安定期に入った。1925年にロカルノ条約が結ばれ、ドイツは周辺諸国との関係を修復し、国際連盟への加盟も認められた。これによって建設された体制を「ロカルノ体制」という。さらに1928年にはパリで不戦条約が結ばれ、63か国が戦争放棄と紛争の平和的解決を誓約。こうして平和維持の試みは達成されるかに思われた。
世界恐慌
しかし、1929年10月24日から起きた一連のニューヨーク証券取引所、ウォール街から世界に広がった大暴落を端緒とする世界恐慌は、このような世界の状況を一変させた。
ニューヨーク証券取引所1週間の損失は300億ドルとなった。これは連邦政府年間予算の10倍以上に相当し、第一次世界大戦でアメリカ合衆国が消費した金よりもはるかに多かった。アメリカは1920年代にイギリスに代わる世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。また1920年代後半に続いた投機ブームは数十万人のアメリカ人が株式市場に重点的に投資することに繋がり、少なからぬ者は株を買うために借金までするという状況であった。しかしこの頃には生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合した問題が生まれた。
世界恐慌を受けて英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかしニューディール政策が効果を発揮し始めるのは1930年代中頃になってからであり、それまでに資金が世界中から引き上げられ、1929年から1932年の間に世界の国内総生産は推定15%減少し、アメリカの失業率は23%に上昇し、一部の国では33%にまで上昇した。恐慌はその後の10年間世界を包んだ景気後退の象徴となった。
ファシズムの選択
第一次世界大戦で戦勝し列強となった国のうち植民地を持っていなかった国では、世界恐慌のあおりを受けて植民地を獲得すべく海外へ侵攻し、その結果軍事が権力を持ち、軍事独裁政権への移行が見られるようになる。
ファシスト党のムッソリーニ率いるイタリアは、1935年に植民地を獲得すべくエチオピアに侵攻し、短期間の戦闘をもって全土を占領した。
敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスでエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。対して全土を占領したイタリアは、イタリア王兼アルバニア王のヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国させた。結果として国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われた事例だが、イタリアに対して実効的ではなかった。第二次エチオピア戦争でエチオピア帝国に侵攻したイタリア王国は1937年に国際連盟を脱退した。
金解禁によるデフレ政策を採っていた日本の状況も深刻だった。大恐慌により失業者が激増した(昭和恐慌)。さらに黄禍論が渦巻くアメリカへの移民は禁止されるなど、世界恐慌と人種差別による打撃を受けてしまう。そのような中で、イタリアやドイツ同様解決策を海外へと向けた日本は、1931年9月の柳条湖事件を契機に中華民国の東北部を独立させ1932年(昭和7年)3月1日、満洲国を建国した。満洲国を主導する関東軍は陸軍中枢の言うことを聞かずなすがままにされた。翌年には国際連盟を脱退、さらに日中戦争が勃発するなど軍の暴走が止まらず、中華民国に利権を持つイギリスやアメリカ、イタリアからも大きな反発を食らった。
さらに既存の政党政治や議会制民主主義に不満を持つ軍部の一部が起こした「五・一五事件」や「二・二六事件」では相次いで政党政治家が暗殺され反乱者は処罰された。これ以降軍部による政府への介入がますます強くなり、軍部のプレッシャーから広田弘毅内閣時に軍部大臣現役武官制を再度導入し、その後の近衛文麿政権とともに政党政治を基にした議会制民主主義がわずか20年にも満たないまま終焉を迎える。
第一次世界大戦の敗者で、総額が1,320億金マルクと到底支払うことができないと思われた賠償金の支払いを続けながら、アメリカの資金で潤っていたドイツでも失業者が激増した。
政情は混乱し、ヴェルサイユ体制打破、つまり大恐慌下においても第一次世界大戦の莫大な賠償金の支払いを続けることに対する反発と、さらに反共産主義を掲げるナチズム運動が勢力を得る下地が作られた[15]。アドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は小市民層や没落中産階級の高い支持を獲得し、1930年には国会議員選挙で第二党に躍進。1931年には(独墺関税同盟事件)を端緒に(クレディタンシュタルト)が破綻し、恐慌はヨーロッパ全体に拡大した。1932年、その時点でのドイツの支払い額は205.98億金マルクに過ぎなかったが、国際社会の援助により、賠償金の支払いはようやく一時停止されることとなった。
1933年1月にナチ党は、民主的選挙でドイツ国民の圧倒的な支持を得て政権獲得に成功。ナチ党はその後全権委任法を通過させ、独裁体制を確立した。ドイツは1933年10月に国際連盟を脱退し、ベルサイユ体制の打破を推し進め始めた。英仏米など列強は圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦を牽制する役割をナチス政権下のドイツに期待していた。1935年、ドイツは再軍備宣言を行い、強大な軍備を整え始めた。イギリスはドイツと英独海軍協定を結び、事実上その再軍備を容認する。ドイツ総統ヒトラーはイギリスとフランスの宥和政策がその後も続くと判断し、1936年7月にラインラント進駐を強行。これによりロカルノ条約は崩壊した。
日本とイタリア、ドイツは、イギリスやフランス、アメリカなどと違い、莫大な富と雇用を生み出す植民地をほとんど持たず、国外進出は国際連盟を脱退または国際連盟からの経済制裁を浴びることとなり、孤立し、共通点を持つ3国は急接近を始める。
ドイツに対する宥和政策とその破綻
これらに対し国際連盟は効果ある対策を採れず、ヴェルサイユ体制の破綻は明らかとなった。日本、ドイツ、イタリアの三国間では連携を求める動きが顕在化し、1936年に日独防共協定、1937年には日独伊防共協定が結ばれた。
ヒトラーは、周辺各国のドイツ系住民処遇問題に対し民族自決主義を主張し、周辺国でドイツ人居住者が多い地域のドイツへの併合を要求した。
1938年3月12日、ドイツは軍事的恫喝によりオーストリアを併合。次いでチェコスロバキアのズデーテン地方に狙いを定め、英仏伊との間で同年9月29日に開催されたミュンヘン会談で、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエは、ヒトラーの要求が最終的なものであると認識して妥協し、ドイツのズデーテン獲得、さらにポーランドのテシェン、ハンガリーのルテニアなどの領有要求が承認された。
しかしヒトラーにはミュンヘンでの合意を守る気がなく、1939年3月15日、ドイツ軍はチェコ全域を占領し、スロバキアを独立させ保護国とした。こうしてチェコスロバキアは解体された。ミュンヘン会談での合意を反故にされたチェンバレンは宥和政策放棄を決断し、ポーランドとの軍事同盟を強化。しかしフランスは莫大な損害が予想されるドイツとの戦争には消極的であった。
勃発直前
ヒトラーの要求はさらにエスカレートし、1939年3月22日にリトアニアからメーメル地方を割譲させた。さらにポーランドに対し、東プロイセンへの通行路ポーランド回廊および国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒの回復を要求した。4月7日にはイタリアのアルバニア侵攻が発生し、ムッソリーニも孤立の道を進んでいった。
4月28日、ドイツは1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、ポーランド情勢は緊迫した。5月22日にはイタリアとの間で鋼鉄協約を結び、8月23日にはソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。反共のドイツと共産主義のソビエト連邦は相容れないと考えていた各国は驚愕し、日本はドイツとの同盟交渉を停止した。イギリスは8月25日に(ポーランド=イギリス相互援助条約) (en) を結ぶことでこれに対抗した。
1939年夏、アメリカの大統領ルーズベルトは、イギリス、フランス、ポーランドに対し、「ドイツがポーランドに攻撃する場合、英仏がポーランドを援助しないならば、戦争が拡大してもアメリカは英仏に援助を与えないが、もし英仏が即時対独宣戦を行えば、英仏はアメリカから一切の援助を期待し得る」と通告するなど、ドイツに対して強硬な態度をとるよう3国に強要した[16]。
独ソ不可侵条約には(秘密議定書)が有り、独ソ両国によるポーランド分割、またソ連はバルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を示し、ドイツはそれを承認した。一方、ポーランドは英仏からの軍事援助を頼みに、ドイツの要求を強硬に拒否。ヒトラーは宥和政策がなおも続くと判断し、武力による問題解決を決断した。
経過(欧州・北アフリカ・中東)
1939年9月1日、ドイツ国防軍およびスロバキア軍が、続いて9月17日にはソビエト連邦軍が相次いでポーランド領内に侵攻した。一方、イギリスでは首相チェンバレンがベルリンの大使館経由で呼びかけたものの、ヒトラーからの返事がないことを理由に、またフランスも9月3日にドイツに宣戦布告した。
まもなくポーランドは独ソ両国により分割・占領された。その国境線は、後の「カーゾン線(英語: Curzon Line)」に大きな影響を与えた。さらにフィンランドおよびバルト三国に領土的野心を示したソ連は、11月30日からフィンランドへ侵攻した(冬戦争)。そのため国際連盟から非難・除名されたが[17]、1940年3月にフィンランドから領土を割譲させた。さらにバルト三国に1940年6月、40万以上の大軍で侵攻し、8月にはバルト三国を併合した。
ポーランド分割直後から翌年春まで、戦争は西ヨーロッパで膠着状態になったが、1940年5月10日にドイツ軍は西ヨーロッパへ侵攻を開始。同年6月から日独伊三国同盟を組むイタリアが参戦し、6月14日ドイツ軍はパリを占領、フランスを降伏させた。さらに同年8月にドイツ空軍機がイギリス本土空爆を開始したが、航空戦(バトル・オブ・ブリテン)で大損害を被り、9月半ばにドイツ軍のイギリス本土上陸作戦は中止された。日独伊三国同盟を組んだものの日本は参戦しなかった。その後1941年6月22日、不可侵条約を破棄してドイツ軍はソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まった。フィンランドもソ連に割譲された領土奪回のため宣戦布告した(継続戦争)。一方、連合国はソ連側につき、ヨーロッパはソ連を加えた連合国と枢軸国に二分する大戦争となり、死者が増大し凄惨な様相となった。ドイツ軍はウクライナを経て同年12月、モスクワに接近するが、ソ連軍の反撃で後退する。1942年中盤までにドイツ軍はヨーロッパの大半および北アフリカの一部を占領し、大西洋ではドイツ海軍の潜水艦・Uボートが連合軍の輸送船団を攻撃し優勢を保っていた。
1943年2月、スターリングラードでドイツ軍は大敗。これ以降は連合国側が優勢に転じ、アメリカ・イギリスの大型戦略爆撃機によるドイツ本土空襲も激しくなる。同年5月、北アフリカ戦線でドイツ・イタリア両軍が敗北。9月にイタリアが連合国に降伏し、ドイツの傀儡政権イタリア社会共和国が設立され、イタリア半島に上陸してきた連合国軍と対峙することになる。
1944年6月にフランスのノルマンディーに連合軍が上陸し、東からはソ連軍が攻勢を開始、戦線は次第に後退し始めた。1945年になると連合軍が東西からドイツ本土へ侵攻し、ドイツ軍は総崩れとなる。2月のヤルタ会談でアメリカ・イギリス・ソ連の三国は、戦争犯罪人の処罰、ポーランド東部のソ連領化、オーデル・ナイセ線以東のドイツ領分割などを決定する。同年4月30日、ヒトラーはベルリンの地下壕で自殺、5月2日にソ連軍はベルリンを占領。5月8日、ドイツは連合国に降伏した。
1939年
9月1日早朝 (CEST)、ドイツ軍は戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など5個軍、機動部隊約150万人でポーランド侵攻を開始した。この際、ドイツによる事前の宣戦布告は行われていない。
ドイツ国総統アドルフ・ヒトラーは、開戦演説でポーランド侵攻を「平和のための攻撃」と称したが、ドイツ側は事前にグライヴィッツ事件など自作自演の「ポーランドによる挑発」を画策していた(偽旗作戦)。
ポーランド陸軍は、総兵力こそ100万を超えていたが、戦争準備が整っておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかったため、ドイツ軍戦車部隊とユンカース Ju 87急降下爆撃機の連携による機動戦により、なすすべもなく殲滅された。ただ、この当時のドイツ軍はまだ実戦経験に乏しく、9月9日にはポーランド軍の反撃で思わぬ苦戦を強いられる場面もあった。
ソ連は当時ノモンハン事件で交戦中の日本と停戦してまで8月23日に結んだ、独ソ不可侵条約の(秘密議定書)に基づき9月17日、ソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄しポーランドへ東から侵攻。カーゾン線まで達した。
一方、イギリスとフランスはポーランドとの間に相互援助協定があったが、ソ連に宣戦布告はせず、両国は2日後の9月3日にドイツに宣戦布告しここに第二次世界大戦が勃発した。しかしポーランド救援のためにドイツ軍と交戦はしなかった。
一方ヒトラーも、英首相ネヴィル・チェンバレンと仏首相エドゥアール・ダラディエはそれまで宥和政策を行っていたため、宣戦布告してくるとは想定していなかった。開戦からしばらくは西部戦線の動きがほとんどなかったことから(いわゆる「まやかし戦争」)、ネヴィル・チェンバレンは最前線のフランスに展開するイギリス陸軍を視察するなどしつつ、なおも秘密裏にドイツと交渉を続け、ホラス・ウィルソンを使者としてドイツの目をソ連に向けさせようとした。
9月3日までにアイルランド、オランダ、ベルギー、アメリカは中立を宣言した[18]。また1937年に日独伊防共協定を組んだイタリアと日本も参戦しなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホルシュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、9月27日、ワルシャワも陥落。10月6日までにポーランド軍は降伏した。ポーランド政府はルーマニア、パリを経て、ロンドンへ亡命。ポーランドは独ソ両国に分割され、ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。
ソ連軍占領地域でも約25,000人のポーランド兵が殺害され(カティンの森事件)、1939年から1941年にかけて、約180万人が殺害または国外追放された。
ポーランド分割直後の10月6日、ヒトラーは国会演説で「平和の提案」と「ヨーロッパの安全」という表現を用いて英仏両国に和平提案を行い、これ以降も両国へ和平工作が何度もなされたが、両国が要求するヒトラー政権退陣をドイツは受け入れず[19]、和平を模索する反面、ポーランドの未来は独ソ両国によって決定されるという見解を示した。
ポーランド侵攻後、ヒトラーは西部侵攻を何度も延期し、翌年春まで西部戦線に大きな戦闘は起こらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリスは軍隊をフランスに派遣したものの、国民の間に「クリスマスまでには停戦するだろう」という根拠のない期待が広まった。
11月8日、ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」で爆発があり、家具職人ゲオルク・エルザーによるヒトラー暗殺未遂事件が起きるが、その日、ヒトラーは早めに演説を終了し難を逃れた。その後も国防軍内の反ヒトラー派将校によるヒトラー暗殺計画が何回か計画されたが、全て失敗に終わった。
ソ連はバルト三国およびフィンランドに対し、相互援助条約と軍隊の駐留権を要求。9月28日エストニアと、10月5日ラトビアと、10月10日リトアニアとそれぞれ条約を締結し、要求を押し通した。
しかし、フィンランドはソ連の基地使用およびカレリア地方割譲等の要求を拒否。そこでソ連はレニングラード防衛を理由に、11月30日にフィンランド侵攻(冬戦争)を開始した。この侵略行為により、ソ連は国際連盟から除名処分となる。さらに12月中旬、フィンランド軍の反撃でソ連軍は予想外の大損害を被った。
1940年
2月11日、前年からフィンランドに侵入したソ連軍は総攻撃を開始し、フィンランド軍の防衛線を突破した。その結果3月13日、フィンランドはカレリア地方などの領土をソ連に割譲して講和した。
さらにソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国へ侵入。そこに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにし、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニア王国にベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアとブコヴィナ北部に侵入し、領土を割譲させた。
ドイツ占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。当時リトアニアはソ連軍に占領されており[注釈 2]、ソ連が各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは、まだ業務を続けていた日本の杉原千畝領事に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。杉原の発行したビザを持って日本に渡ったユダヤ難民の総数は約4,500人で、1940年7月から日本に入国し、1941年9月には全員出国した。
なお、杉原同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山[20]や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデス[21]がおり、ともに戦後のイスラエルの諸国民の中の正義の人に認定されている。
4月、ドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻し占領した(ヴェーザー演習作戦)。脆弱なドイツ海軍はノルウェー侵攻で多数の水上艦艇を失った。
5月10日、西部戦線のドイツ軍は、戦略的に重要なベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻(オランダにおける戦い)。オランダは5月15日に降伏し、政府は王室ともどもロンドンに亡命。またベルギー政府もイギリスに亡命し、5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。なおアジアのオランダ植民地は亡命政府に準じて連合国側につくこととなり、オランダ植民地に住むドイツ人は抑留され、外交官と婦女子のみが解放されドイツの同盟国の日本に送られた。同じ日、イギリスではウィンストン・チャーチルが首相に就任し、戦時挙国一致内閣が成立した。
ドイツ軍は、フランスとの国境沿いに、ベルギーまで続く外国からの侵略を防ぐ楯として期待されていた巨大地下要塞・マジノ線を迂回。侵攻不可能といわれていたアルデンヌ地方の深い森をあっさり突破して、フランス東部に侵入。電撃戦で瞬く間に制圧し(ドイツ軍のフランス侵攻)、フランス・イギリスの連合軍をイギリス海峡に面するダンケルクへ追い詰めた(ダンケルクの戦い)。ここで、イギリス海軍は英仏連合軍を救出するためダイナモ作戦を展開する。急遽860隻の船舶を手配し、ドイツ軍は消耗した機甲師団を温存し救出作戦に投入しなかったため、イギリス空軍の活躍により多くの兵器類は放棄したものの、331,226名の兵(イギリス軍192,226名、フランス軍139,000名)を9日間でフランスのダンケルクから救出し、精鋭部隊を撤退させることに成功した。この作戦では様々な貨物船、漁船、遊覧船および王立救命艇協会の救命艇など、民間の船が緊急徴用され、兵を浜から沖で待つ大型船(主に大型の駆逐艦)へ運んだ。イギリスの首相チャーチルはのちに出版された回想録の中で、この撤退作戦を「第二次世界大戦中でもっとも成功した作戦であった」と記述している。
さらにドイツ軍は首都パリを目指す。敗色濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しかできず、6月10日にはパリを戦火から守るべく無防備都市宣言をした。同日、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告した。
6月14日、ドイツ軍は無防備都市宣言を行ったことで、戦禍を受けていないほぼ無傷のパリに入城した。6月22日、フランス軍はパリ近郊コンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した[注釈 3]。
その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーがパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国。その後、ドイツはフランス全土を占領し、その直後に講和派のフィリップ・ペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立される。
これに対抗してフランス人の手でフランスを取り戻すべく、ロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールは「自由フランス国民委員会」を組織し、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取りつけてフランス国内のレジスタンス運動を支援した。
なお、フランス主要植民地のアルジェリアやモロッコ、インドシナ、マダガスカルなどはヴィシー政権につき、それぞれドイツ軍や日本軍との友好関係や軍の駐留を引き受けた。
7月3日、フランス領アルジェリアがドイツ側の戦力になることを防ぐため、イギリス海軍H部隊がメルス・エル・ケビールに停泊していたフランス海軍艦船を攻撃し、大損害を与えた(カタパルト作戦)。アルジェリアのフランス艦艇は、ヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。にもかかわらず、多数の艦艇が破壊され、多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスさえ、イギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月にフランス領西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがフランス軍に撃退された。
西ヨーロッパから連合軍を追い出したドイツは、イギリス本土への上陸を目指した。イギリスは降伏勧告に近い和平案に対する回答を延ばすことで時間を稼いだ。その間、イギリス特有の悪天候によりドイツ空軍の港湾や船団への攻撃は低調に終わった。しかし、7月16日にヒトラーはイギリス本土上陸作戦の準備を命じ、22日に行われたイギリスの国会演説で和平案が拒否されると、ドイツ空軍は海上封鎖に本腰を入れた。同月25日のイギリス海軍駆逐艦が護衛する輸送船団への攻撃では10隻近い艦船が被害を受け、イギリスは夜間を除いて船団の海峡通行を禁止した。
上陸作戦「ゼーレーヴェ作戦」の前哨戦として、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、8月13日に、本格的に対イギリス航空戦を開始するよう指令(ザ・ブリッツ)。この頃、イギリス政府はドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ避難する準備と、都市爆撃の激化に備えて疎開を実施した。イギリス国民と共に、国家を挙げてドイツ軍の攻撃に抵抗した。
イギリス空軍は、スーパーマリン スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時実用化されたばかりのレーダーを駆使して激しい空中戦を展開。ドイツ空軍は、ハインケル He 111やユンカース Ju 88などの爆撃機で、当初は軍需工場、空軍基地、レーダー施設などを爆撃していたが、ロンドンへの誤爆とそれに対するベルリンへの報復爆撃を受け、最終的にロンドンへと爆撃目標を変更した。しかし、メッサーシュミット Bf 109戦闘機の航続距離不足で爆撃機を十分護衛できず、爆撃隊は大損害を被り、また開戦以来、電撃戦で大戦果を上げてきた急降下爆撃機も大損害を被った。その結果、ドイツ空軍は9月15日以降、昼間のロンドン空襲を中止。ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期とし、ソ連攻略を考え始めた。
参戦したイタリアは9月、北アフリカの植民地リビアからエジプトへ、10月にはバルカン半島のアルバニアからギリシャへ侵攻した(ギリシャ・イタリア戦争)。しかし性急で準備も不十分なままであり、11月にイタリア東南部のタラント軍港が、航空母艦から発進したイギリス海軍機の夜間爆撃に遭い、イタリア艦隊は大損害を被った。またギリシャ軍の反撃に遭ってアルバニアまで撃退され、12月にはイギリス軍に逆にリビアへ侵攻されるという、ドイツの足を引っ張る有様であった。
9月27日にはドイツとイタリア、そしてまだ第二次世界大戦に参戦していないものの2国の友好国である日本は、日独伊防共協定を強化した相互援助である日独伊三国同盟を結んでいる。また第二次ウィーン裁定によりハンガリー・ルーマニア間の領土紛争を調停し、東欧に対する影響力を強めた。
1941年
イギリスはイベリア半島先端の植民地[注釈 4]ジブラルタルと、北アフリカのエジプト・アレクサンドリアを地中海の東西両拠点とし、クレタ島やキプロスなど東地中海[注釈 5]を確保し反撃を企図していた。2月までに北アフリカ・リビアの東半分キレナイカ地方を占領し、ギリシャにも進駐した。
一方、ドイツ軍は、劣勢のイタリア軍を支援するため、エルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入。2月14日にリビアのトリポリに上陸後、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を撃退した。4月11日にはリビア東部のトブルクを包囲したが、占領はできなかった。さらに5月から11月にかけて、エジプト国境のハルファヤ峠で激戦になり前進は止まった。ドイツ軍は88ミリ砲を駆使してイギリス軍戦車を多数撃破したが、補給に問題が生じて12月4日に撤退を開始。12月24日にはベンガジがイギリス軍に占領され、翌年1月6日には(エル・アゲイラ)まで撤退する。
中立国のアメリカは3月11日にレンドリース法を成立させ、自らは参戦しない代わりに、ドイツや日本、イタリアとの交戦国に対して、ソ連やイギリス、中華民国などへの大規模軍事支援を開始する。
4月6日、ドイツ軍はユーゴスラビア王国(ユーゴスラビア侵攻)やギリシャ王国などバルカン半島(バルカン戦線)、エーゲ海島嶼部に相次いで侵攻。続いてクレタ島に空挺部隊を降下(クレタ島の戦い)させ、大損害を被りながらも同島を占領した。ドイツはさらにジブラルタル攻撃を計画したが中立国スペインはこれを認めなかった。またこの間にハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加えた。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、北はフィンランド、南は黒海に至る線から、イタリア、ハンガリー、ルーマニア等、他の枢軸国と共に約300万の大軍で対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦)を開始し、独ソ戦が始まった[注釈 6]。冬戦争でソ連に領土を奪われたフィンランドは6月26日、ソ連に宣戦布告した(継続戦争)。開戦当初、赤軍(当時のソ連地上軍の呼称)の前線部隊は混乱し、膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。歴史的に反共感情が強かったウクライナ、バルト三国等に侵攻した枢軸軍は、共産主義ロシアの圧政下にあった諸民族から解放軍として迎えられ、多くの若者が武装親衛隊に志願した。また、西ヨーロッパからも(フランス義勇軍) (fr) などの反共義勇兵が枢軸国軍に参加した。
ドイツ軍は7月16日にスモレンスク、9月19日にキエフを占領。さらに北部のレニングラードを包囲し、10月中旬には首都モスクワに接近。市内では一時混乱状態も発生し、そのためソ連政府の一部は約960km離れたクイビシェフへ疎開した。ドイツ軍は急速に侵攻していたが、秋の雨の時期から泥まみれの悪路に悩まされ、補給も滞り、進撃の速度が緩んだ。また戦場に出現したソ連軍の新型T-34中戦車、KV-1重戦車や、「カチューシャ」ロケット砲などに苦戦。そして冬に備えた装備も不足したまま、11月には例年より早い冬将軍の到来で厳しい寒さに見舞われる。その厳寒の中、ドイツ軍は11月半ばにモスクワへの進攻を再開し、近郊約23kmにまで迫ったが12月5日、ソ連軍は反撃を開始してドイツ軍を150km以上も撃退し、第二次世界大戦勃発以来、ドイツ軍はかつてない深刻な敗北を喫した。
8月9日、イギリス・アメリカは領土拡大意図を否定する大西洋憲章を発表した。8月25日、ソ連・イギリスの連合軍は中立国イランに南北から進撃し、占領した(イラン進駐)。イラン国王は中立国アメリカに英ソ両軍の攻撃を止めさせるよう訴えたが、米大統領ルーズベルトは拒否した。ポーランドとフィンランドへの侵攻、バルト三国併合などの理由で、英・米両国はソ連と距離を置いていたが、独ソ戦開始後は、ヒトラーのナチス・ドイツ打倒のため、ソ連を連合国側に受け入れることを決定。イランを占領しペルシア回廊を確保した上で、アメリカの武器貸与法に基づき、ソ連へ大規模軍事援助を行うことになった。またアフガニスタンはこのような中でも第二次世界大戦の終戦まで独立を守った。
一方、ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけるが、日本は独ソ戦開始前の4月13日に日ソ中立条約を締結していた。また南方の資源確保を目指した日本は、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対ソ参戦を断念する。ソ連は日本に送り込んだリヒャルト・ゾルゲら、スパイの情報から日本の動向を察知し、極東ソ連軍の一部をヨーロッパに振り分けることができた。
ドイツの占領地では、秘密国家警察ゲシュタポとナチス親衛隊が住民を監視し、ユダヤ人やレジスタンス関係者へ過酷な恐怖政治を行った。特に独ソ開始後、アインザッツグルッペンと呼ばれる特別行動部隊による大量殺人で犠牲者数が激増した。それを見聞きした国防軍関係者の中には、反ナチスの軍人が増えていく。ヒトラーも軍の作戦に細かく干渉し、司令官を解任した。そのため軍部の中でヒトラー暗殺計画を企てるなど、ドイツの戦時体制は決して一枚岩でなかった。
12月7日(現地時間)、日本軍がマレー半島のイギリス軍を攻撃し(マレー作戦)ここに大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発した。またマレー半島を攻撃した数時間後に、日本軍はアメリカのハワイにある真珠湾の米海軍の基地を攻撃した。これに対し12月8日にアメリカとオランダが日本に宣戦を布告[22]。日本の参戦に呼応して12月11日、ドイツ、イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。日本が枢軸国の一員として、アメリカが連合国の一員として正式に参戦し、ここにきて名実共に世界大戦となった。
1942年
1942年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼーにナチス党の重要幹部が集結し「ユダヤ人問題の最終的解決」について協議したヴァンゼー会議が行われた。これ以後、ワルシャワなどドイツ占領下のゲットーのユダヤ人住民に対し、7月からアウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への集団移送が始まった。まずは、強制収容所に併設された軍需工場などで強制労働に従事させ、強制労働に従事できない高齢者や子供、身体障害者などをガス室を使った大量殺戮を初めに開始し、まもなく普通の男女へとその対象は広がった。その後、3月6日と10月27日に2度の最終解決についての省庁会議が行われている。
なお1942年初頭時点においてドイツ側は、「連行しているユダヤ人は失業中で未婚のユダヤ人のみであり、彼らはドイツ国内とドイツ占領下の労働収容所へ送っており、そこで公正な取り扱いのもとに強制労働に従事している」としており、イギリスやアメリカなどの連合国もそれを認めていた。しかし、1940年10月にドイツ政府は、バーデン・プファルツ・ザールラントのユダヤ人7500人ほどを南フランスの非占領地域 (ヴィシー政府領) へ移送させており[23]、このうち2000人以上のユダヤ人がフランスの収容所で病死し、残りもほとんどがポーランドへ再移送されてそこで殺害されたとみられるなど、1930年代よりドイツのユダヤ人に対する残虐な扱いは既に広く知られていた。
さらに当時のイギリスのBBCのラジオ放送などは「ユダヤ人はポーランドへ連れて行かれ、そこで虐殺されている」と報道しており[24]、連合国側もユダヤ人に対する大量殺戮が始まったことを概ね把握していた。しかし事実上、イギリスやアメリカ、カナダやオーストラリアも、戦況の悪化に押されてユダヤ人の状況に対して見て見ぬふりであった。
その後ドイツみならず占領下のポーランドやチェコスロバキア、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、アルバニア、フランス、オランダ、ベルギー、ギリシア、ノルウェー、また同盟国のイタリアでも行われた大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、1945年5月にドイツが連合国に降伏する直前までドイツ国民の強力な支持または黙認の元に継続され、ユダヤ人虐殺について連合国が騒ぎ立てるのは、第二次世界大戦後のことであった。
また、日本や汪兆銘政府などの同盟国に対しても在留ユダヤ人への殺戮を行うように、ドイツ政府は在日ドイツ大使館付警察武官兼SD代表のヨーゼフ・マイジンガーを通じて依頼したが、ユダヤ人に対する差別感情がないばかりか、日露戦争時にユダヤ人銀行家に世話になった恩義のある日本政府はこれを明確かつ頑なに拒否している[25]。結果的に日本やその占領地では終戦までユダヤ人に対する殺戮は行われていないばかりか、ユダヤ人をドイツの殺戮から徹底的に保護している。
最終的に、上記の地域におけるホロコーストによるユダヤ人(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、身体障害者、精神障害者、共産主義者を含めた政治犯など数万人を含めた)の死者は諸説あるが、600万人に達するといわれている。
日本とドイツ、イタリアと開戦したアメリカの大統領フランクリン・ルーズベルトからの圧力を受けて、ブラジルのジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領は1月に連合国として参戦することを決定し、ドイツやイタリア、日本との間に国交断絶、参戦したが、戦場から遠いことを理由に太平洋戦線には参戦せず、ドイツとイタリアなどと戦うヨーロッパ戦線に参戦した。また在ブラジルの日本人と日系人を沿岸から内陸地へ集団移住させたり、日本語新聞の発禁などの行動をとった。なお隣国でドイツやイタリア、スペインと友好関係を保っていたアルゼンチンは中立を保った。
北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、1月20日に再度攻勢を開始。6月21日、前年には占領できなかったトブルクを占領。同23日にエジプトに侵入し、30日にはアレクサンドリア西方約100kmのエル・アラメインに達した。しかし、補給の問題と燃料不足で進撃を停止する。10月23日に開始されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギリス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを奪回する。
同盟国イタリア軍は終始頼りなく、欧州戦域を事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻勢の限界を見ることとなる。さらに西方のアルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカのヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルラン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィシー軍は連合国側と休戦した。これに激怒したヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった南仏を占領(アントン作戦)した。
イギリス軍は、ヴィシー政権の植民地であるアフリカ沖のマダガスカル島を、南アフリカ軍の支援を受けて占領した。これに対しドイツからの依頼もありインド洋からイギリス海軍を駆逐した日本軍は、5月にマダガスカル島へ進出、日本軍の特殊潜航艇がディエゴ・スアレス港を攻撃、イギリスのタンカー1隻を撃沈、イギリス海軍の戦艦を1隻大破し、さらに上陸した日本軍兵士が陸戦を行いイギリス軍兵士を死傷するなどの戦果を上げている。しかしアフリカはドイツ軍の作戦範疇であったため、日本軍はこれ以上の攻撃は避けている。
ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートは、イギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、インド洋や東南アジアにまで出撃し、多くの連合国の艦船を撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与えた(大西洋の戦い)。しかし、この頃より英米両海軍が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したため、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢いは限定されることになる。
ここで日本海軍とドイツ海軍は、利害が一致し、互いの最新の軍事技術情報を入手し、両国の武官や技術者の交換をしたいという思惑があり、日本とドイツの間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。互いの潜水艦をドイツはドイツ占領下にあるフランスのキール、日本は日本の占領下にある昭南やペナンに送り、日本からドイツへ酸素魚雷や無気泡発射管などの技術が、ドイツから日本へはウルツブルク・レーダー技術や暗号機等の最新の軍事技術情報がもたらされた。遣独潜水艦作戦の1回目として、伊号第三十潜水艦が8月6日にフランスのロリアンに入港した。
またドイツ海軍は、大西洋とインド洋の一部地域における連合国の海上封鎖を突破して、同盟国である日本から酸素魚雷や小型船舶エンジンなどの軍需品や、水上飛行機などの設計図を、また日本がそのほぼ全域を支配していたアジアおよびインド洋水域からゴム、スズ、モリブデン等の戦略物資をドイツへ持ち帰るべく高速貨物船を派遣した。往路には日本の必要とする工作機械やレーダー等の軍需品を日本にもたらした。日本海軍はドイツ船舶を「柳船」という秘匿名称で呼び、昭南やペナンなどの基地を提供しただけでなく、日本国内の基地を提供し、日本海軍の艦艇を提供し燃料や物資補給を行うなど協同作戦を行った。
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコフ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月28日に攻撃を開始し、ドン川の湾曲部からヴォルガ川西岸のスターリングラード、コーカサス地方の油田地帯を目指す。
一方ドイツ軍に追い立てられたソ連軍は後退を続け、スターリングラードへ集結しつつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサスの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。8月9日、マイコープ油田を占領した。
8月23日にスターリングラード攻防戦が開始された。まずドイツ軍は空軍機で爆撃し、9月13日に市街地へ向けて攻撃を開始。連日壮絶な市街戦が展開された。しかし、10月頃よりドイツ軍の勢いが徐々に収まっていく。11月19日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に冬の装備に弱い枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向から救援作戦を開始し、同19日には約35kmまで接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃退され、年末には救援作戦は失敗する。
1943年
1月10日、スターリングラードを包囲したソ連軍は、総攻撃を開始、包囲されたドイツ第6軍は2月2日、10万近い捕虜を出し降伏。歴史的大敗を喫した。勢いに乗ったソ連軍はそのまま進撃し、2月8日クルスク、2月14日ロストフ・ナ・ドヌ、2月15日にはハリコフを奪回する。
しかし、ドイツ軍は3月にマンシュタイン元帥の作戦でソ連軍の前進を阻止し、同15日ハリコフを再度占領した。7月5日からのクルスクの戦いは、史上最大の戦車同士の戦闘となった。ドイツ軍はソ連軍の防衛線を突破できず、予備兵力の大半を使い果たし敗北。以後ドイツ軍は、東部戦線では二度と攻勢に廻ることはなく、ソ連軍は9月24日スモレンスクを占領。11月6日にはキエフを占領した。
北アフリカ戦線では、西のアルジェリアに上陸したアメリカ軍と、東のリビアから進撃するイギリス軍によって、イタリアとドイツ両軍はチュニジアのボン岬で包囲された。5月13日、ドイツ軍約10万、イタリア軍約15万は降伏し、北アフリカの戦いは連合軍の勝利に終わる。連合国軍はさらに7月10日、イタリア本土の前哨シチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、シチリア島内を侵攻。アメリカ軍は、アメリカへ移民したマフィアとの連携でシチリア島内で兵を進めた。8月17日にはイタリア本土に面した海峡の街メッシーナを占領した。
各地で連戦連敗を重ね、完全に劣勢に立たされたイタリアでは講和の動きが始まっていた。7月24日に開かれたファシズム大評議会では、元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵、ムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チャーノ外務大臣ら多くのファシスト党幹部が、ファシスト党指導者ムッソリーニの戦争指導責任を追及、統帥権を国王に返還することを議決した。孤立無援となったムッソリーニは翌25日午後、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
9月3日、イタリア本土上陸も開始された(イタリア戦線)。同日、ムッソリーニの後任、元帥ピエトロ・バドリオ率いるイタリア新政権は連合国に対し休戦。9月8日、連合国はイタリアの降伏を発表した。ローマは直ちにドイツ軍に占領され、国王と首相バドリオらの新政権は、連合軍占領地域の南部ブリンディジへ脱出した。
逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉されたムッソリーニは同月12日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊オットー・スコルツェニー大佐率いる特殊部隊によって救出された。9月15日、ムッソリーニはイタリア北部で、ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国」(サロ政権)を樹立し、同地域はドイツの支配下に入る。一方、南部のバドリオ政権は10月13日にドイツへ宣戦布告したが、これは形だけのものであった。
日本海軍は数度に渡り、遠くドイツの占領下にあるフランスのキールに連絡潜水艦を送っていたが、この3月にイタリア海軍がドイツ海軍との間で大型潜水艦の貸与協定を結んだ後に「コマンダンテ・カッペリーニ」など5隻の潜水艦を日本軍占領下の東南アジアに送っている。しかし昭南到着直後の9月8日にイタリアが連合国軍に降伏したため、他の潜水艦とともにシンガポールでドイツ海軍に接収され「UIT」と改名した(なお同艦数隻は1945年5月8日のドイツ降伏後は日本海軍に接収され、伊号第五百四潜水艦となった)。
なお船員らは日本軍に一時拘留されたが、イタリア社会共和国成立後、サロ政権についた者はそのまま枢軸国側として従事し、日本軍およびドイツ軍の下で太平洋およびインド洋の警備にあたった。しかし、イタリア租界のあった天津港などで活動していたイタリア海軍の艦船のうち「カリテア2」、「エルマンノ・カルロット」、「レパント」が、日本軍やドイツ軍の指揮下に入るのを拒否し神戸港や上海港などで自沈し、「エリトレア」がインド洋で「コマンダンテ・カッペリーニ」を護衛中に逃亡し、イギリス軍に降伏している。この突然の自沈と逃亡は、サロ政権につかなかったイタリア軍将兵に対する日本軍および政府の感情悪化につながり、その後のイタリア軍将兵の捕虜収容所での過酷な待遇につながった。
また、フランスの降伏後、亡命政権・自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかなかった自由フランス軍を率い、イギリス、アメリカなど連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランス植民地やフランス本国で対独抗戦を指導した。
さらにこの年、連合国の首脳および閣僚は1月14日カサブランカ会談、8月14日 - 24日ケベック会談、10月19日 - 30日(第3回モスクワ会談)、11月22日 - 26日カイロ会談、11月28日 - 12月1日テヘラン会談など相次いで会議を行った。今後の戦争の方針、枢軸国への無条件降伏要求、戦後の枢軸国の処理が話し合われた。しかし、連合国同士の思惑の違いも次第に表面化することになった。
1944年
1月下旬、ソ連軍はレニングラードの包囲網を突破し、900日間に及ぶドイツ軍の包囲から解放した。4月にはクリミア半島、ウクライナ地方のドイツ軍を撃退、6月22日に夏季攻勢(バグラチオン作戦)が開始され[注釈 7]、ソ連軍の圧倒的な物量の前にドイツ中央軍集団は壊滅。ソ連は開戦時の領土をほぼ奪回し、さらにソ連軍はバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。
1月17日にイタリアのモンテ・カッシーノで、連合国軍のイタリア戦線における、ドイツ軍の(グスタフ・ライン)の突破およびローマ解放のための戦いが開始された。
2月15日にカッシーノの街を見渡せる山頂にあった修道院に対し、アメリカ軍は1,400トンに及ぶ爆弾で修道院を爆撃し修道院は破壊された。ブラジル軍も参戦し、5月19日に連合国軍は勝利する。
一方、本格的な反攻の機会を窺っていた連合軍は6月6日、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハワー将軍の指揮の下、北フランス・ノルマンディー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そして自由フランス軍など、約17万5000人の将兵、6,000以上の艦艇、延べ12,000機の航空機を動員した大陸反攻を目的としたオーヴァーロード作戦(ノルマンディー上陸作戦)を開始。多数の死傷者を出しながらフランスに上陸した。
ノルマンディー在住の民間人に多数の犠牲者を出し[26]、女性たちは強姦された[26][27]。1940年6月のダンケルク撤退以来約4年ぶりに再び西部戦線が構築された。この上陸の2日前、6月4日にイタリアの首都ローマは連合軍に占領された。
連合軍のフランス上陸を許すなど敗北を重ねるドイツでは、軍部の将校の一部に、ヒトラーを暗殺し連合軍との講和を企む声が強まり7月20日、国内予備軍司令部参謀伯爵クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐により、ヒトラー暗殺計画が決行されたが失敗した。疑心暗鬼に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約200人を残忍な方法で処刑させた。また、国民的英雄エルヴィン・ロンメル元帥の関与を疑い、自殺するか裁判を受けるか選択させ10月14日、ロンメルは自殺した[注釈 8]。
またこの頃ドイツは、イギリス経済疲弊を目的としたイギリスポンド紙幣の偽造作戦「ベルンハルト作戦」を実施し、一部のヨーロッパ諸国でポンドの価値が急落するなど一定の成果を出していた。なお、7月から、戦後の世界経済体制の中心となる金融機構についての会議が、アメリカ・ニューハンプシャー州、ブレトン・ウッズで45か国が参加して行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争で多くの海外資産を失い、33億ポンドの債務を抱え、清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
ドイツ軍は、フランス上陸後の連合軍の進撃を辛うじて食い止めていたが、7月25日以降、連合軍はノルマンディー地方の西部を迂回したコブラ作戦の結果、ついにドイツ軍の戦線を突破し、ドイツ軍はファレーズ付近で包囲された。8月頭にイギリス軍やカナダ軍、アメリカ軍を筆頭に連合軍は東へ進み、パリ方面へ進撃を開始した。
ドイツ軍も8月7日にディートリヒ・フォン・コルティッツ歩兵大将をパリ防衛司令官に任命しパリを防衛するも、8月16日には南フランスにも連合軍が上陸し(ドラグーン作戦)、ドイツ軍のパリ防衛も時間の問題であった。
ヒトラーはパリが陥落する際、パリを焼きつくして撤退するよう言明した。パリを防衛するドイツ軍は崩壊し、8月25日に自由フランス軍とレジスタンスによってパリは解放された。しかしドイツ軍はヒトラーの指令に反しパリをほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的建造物や市街地は、大きな被害を免れた。フランス共和国臨時政府がパリに帰還し、フランスの大半が連合軍の支配下に落ち、ヴィシー政権は崩壊した。
フランスを占領中のドイツ軍に協力した「対独協力者(コラボラシオン)」の多くが死刑になり、またドイツ軍と親しかった女性が丸坊主にされるなどのリンチも横行した。さらに、ココ・シャネルのようにドイツ軍将校の愛人とドイツ軍のスパイを務めた上に、スイスなど国外へ亡命する者もいた。
8月1日、ポーランドの首都ワルシャワでは、ソ連の呼びかけでポーランド国内軍や市民が蜂起(ワルシャワ蜂起)したが、ロンドンの亡命政府系の武装蜂起のためソ連軍は救援しなかった。一方、ヒトラーもソ連が救援しないのを見越して徹底的な鎮圧を命じ、その結果約20万人が死亡、10月2日に蜂起は失敗に終わった。ほぼ同時期、スロバキア共和国でもソ連軍支援の民衆蜂起が起きたが、ドイツ軍は苛烈な方法で鎮圧した。
また8月23日にはルーマニア(ルーマニア革命)、9月にはブルガリアの政変で、親独政権が崩壊し枢軸側から脱落した。10月にはハンガリーも降伏しようとしたが、その動きを察知したドイツ軍はパンツァーファウスト作戦でハンガリー全土を占領、矢十字党による傀儡政権を樹立させ降伏を阻止した。しかしルーマニアのプロイェシュティ油田の喪失でついにドイツの石油供給は逼迫する。
9月3日、イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセルを解放した。次いで一気にドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日、オランダのナイメーヘン付近でライン川支流を越えるマーケット・ガーデン作戦を実行するが、拠点のアーネムを占領できず失敗する。また補給が追いつかず、連合軍は前進を停止。ドイツ軍は立ち直り、1944年中に戦争を終わらせることは不可能になった。
またこの頃、ドイツ軍は、世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット Me262やジェット爆撃機アラドAr234、同じく世界初の飛行爆弾V1、次いで世界初の弾道ミサイルV2ロケットなど、開発中の新兵器を次々と実用化し、実戦投入した。しかし、西からイギリスとアメリカ、東からはソ連を中心とした3か国の圧倒的な物量を背景にした連合軍の勢いを止めるのは、ドイツ1国ではもはや不可能だった。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワで、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアではソ連が90%、ブルガリアではソ連が75%の影響力を行使するほか、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした[28]。
その後、12月16日からドイツ軍はベルギー、ルクセンブルクの森林地帯アルデンヌ地方で反攻(バルジの戦い)を試みた。アルデンヌ地方の冬の悪天候を突いた奇襲で連合軍はパニック状態に陥り、ドイツ軍により戦線は一時的に約130km押し戻された。
また、オットー・スコルツェニー指揮のコマンド部隊がアメリカ軍に偽装し、後方撹乱を行った。しかし、ドイツ軍は連合軍の拠点バストーニュを占領できず、天候の回復とその後、態勢を立て直した連合軍の反撃で後退を余儀なくされる(バストーニュの戦い)。
1945年
1月12日、ソ連軍はバルト海からカルパティア山脈にかけての線で攻勢を開始。1月17日ポーランドの首都ワルシャワ、1月19日クラクフを占領し、1月27日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した。その後、2月3日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約65kmのキュストリン付近に進出した。
ポーランドは、1939年9月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域がソ連の支配下に入った。2月4日から11日まで、クリミア半島のヤルタで米英ソ3カ国首脳によるヤルタ会談が行われた。そこでドイツの終戦処理、ポーランドをはじめ東ヨーロッパの再建、ソ連の対日参戦および(南樺太)や千島列島・北方領土の帰属問題が討議された。
1月にはイタリア社会共和国 (RSI) 軍の攻勢終了によって再び防戦へと戻り、ムッソリーニは厳冬の中で絶望的な戦闘を続けるRSI軍の前線を訪れ、閲兵式を行って兵士達を激励している。少年兵を含めた兵士達はムッソリーニの期待に応えて希望の失われた状況下で戦いを続け、冬の間は連合軍の攻撃も停滞した。しかし春を迎えた4月になるとゴシックラインは完全に突破され、C軍集団とRSI軍はポー川ラインにまで戦線を後退させ、ミラノでの市街地戦が視野に入り始めた。これを裏付けるようにムッソリーニも「ミラノを南部戦線のスターリングラードにしなければならない」と演説している。
西部戦線のドイツ軍は1月16日、アルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。その後、連合軍は3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃する。4月11日にはエルベ川に達し、4月25日にはベルリン南方約100km、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手する(エルベの誓い)。南部では4月20日ニュルンベルク、30日にはミュンヘン、5月3日にはオーストリアのザルツブルクを占領した。
4月29日にはアメリカ陸軍の日系人部隊の第442連隊戦闘団隷下の第522野戦砲兵大隊は、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所の解放を行った。しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は1992年まで公にされることはなかった。
ハンガリーでは1944年12月に赤軍・ルーマニア軍によってブダペストが包囲され、1945年2月13日に残存していたブダペスト防衛部隊が無条件降伏した。ソ連軍はここでも一般兵士から将官までもが略奪・暴行に参加し、10歳から70歳まで、およそ目に付くほとんどの女性が強姦された[29]。ドイツ軍は3月15日から、ハンガリーの首都ブダペスト奪還と、油田確保のため春の目覚め作戦を行うが失敗する。この作戦で組織的兵力となりうる軍部隊をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ民族は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、ドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(ネロ指令)を発する。しかし、軍需相アルベルト・シュペーアはこれを聞き入れず破壊は回避された。
これ以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送の演説も止め、ベルリンの総統地下壕に立てこもり、国民の前から姿を消す。ソ連軍はハンガリーからオーストリアへ進撃し4月13日、首都ウィーンを占領した。
4月16日、ベルリン正面のソ連軍の総攻撃が開始され(ベルリンの戦い)、ベルリン東方ゼーロウ高地以外の南北の防衛線を突破される。4月20日、ヒトラーは最後の誕生日を迎え、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツらの政府や軍の要人はそれを祝った。その夜、彼らはヒトラーからの許可によりベルリンから退去し始めたが、ヒトラー自身はベルリンの総統地下壕から動こうとしなかった。
4月25日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した(詳細はベルリンの戦いを参照)。このような絶望的状況の中、ドイツ軍はヒトラーユーゲントなどの少年兵や、まともな武器も持たない兵役年齢を超えた志願兵を中心にした国民突撃隊まで動員し最後の抵抗を試みた。
ベルリンを脱出したゲーリングは4月23日、連合軍と交渉すべく、ヒトラーに対し国家の指導権を要求する。マルティン・ボルマンにそそのかされたヒトラーは激怒し、ゲーリング逮捕を命令するが果たされなかった。4月28日にはヒムラーが中立国スウェーデンのベルナドッテ伯爵を通じ、連合軍と休戦交渉を試みていることが公表され、ヒトラーはヒムラーを解任、逮捕命令を出した。
一方、イタリア北部では連合軍の進撃と(パルチザン)の蜂起により、4月25日、C軍集団はイタリア臨時政府・国民解放委員会 (CLN) の代表団との直接会談に望んだが、C軍集団の休戦交渉を知ったCLNは無条件降伏の要求以外は受け入れなくなった。ムッソリーニは会談の中でC軍集団の降伏交渉について知らされ、最後の最後にヒトラーから裏切られたと感じた。しかし2日後に総統地下壕のヒトラーから戦局の逆転を確信しており、「独伊同盟の最終的勝利」に希望を持っているという電報が届き、ヒトラーもまた周囲から欺かれていることを知った。ここにイタリア社会共和国は名実ともに崩壊した。
ムッソリーニは逃亡中、スイス国境のコモ湖付近の村でパルチザンに捕えられた。捕えられた一行はムッソリーニと愛人ペタッチ、それ以外の閣僚や将兵と分けられ、残されたムッソリーニはペタッチと共にミラノ方面へ車両で移動させられ、しばらくの間ジャコモ・デ・マリアという人物の所有する民家に幽閉されている[30]。
程無くしてパルチザンはムッソリーニについても略式裁判による即時処刑を決定、ムッソリーニはミラノ近郊のメッツェグラ市の郊外にある(ジュリーノ・ディ・メッツェグラ)に設置された処刑場へ護送された。4月28日の午後4時10分にペタッチと共に射殺され、懸念されうるムッソリーニの生存説を払拭することや、依然として残る威厳を失わせることを図って、その死を公布することを計画した。ドンゴで射殺された何人かの重要な幹部の遺体と一緒にムッソリーニの遺体を貨物トラックに載せ、辺境のメッツェグラ市から主要都市の一つであるミラノ市へと移送した。
4月29日朝、ミラノ中央駅にトラックが到着すると駅にある大広場であるロレート広場の地面の上に遺体を投げ出した[31][32]。続いてパルチザンは反乱者への見せしめである「遺体を建物から吊るす」という行為への意趣返しとして逆さ吊りにした。括り付けられたのはスタンダード・オイル社のガソリンスタンドの建物だった[33]。ただし逆さ吊りについては中世時代に行われていた懲罰を再現したという説や、むしろこれ以上死体が損壊することを避けたという説もある[34](ベニート・ムッソリーニの死)。イタリア駐在のC軍集団も5月4日に降伏している。
ムッソリーニが殺害された2日後、4月30日15時30分頃にヒトラーは、ベルリンの総統地下壕で前日結婚したエヴァ・ブラウンと共に自殺した。死体は遺言に沿って総統地下壕脇に掘られた穴で焼却された。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官に海軍元帥デーニッツを、首相に宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスを、ナチ党担当相および遺言執行人に党官房長マルティン・ボルマンを指定していたが、ゲッベルスもヒトラーの後を追い5月1日、妻と6人の子供を道連れに自殺した。
イギリス軍とアメリカ軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見されたことにより、ユダヤ人絶滅計画(ホロコースト)をはじめとする、ドイツの犯罪が明るみに出された。なお先にドイツ軍を駆逐したソ連軍は各地で行われていたホロコーストを先に知っていたが、イギリス軍とアメリカ軍はこれをソ連のプロパカンダと思い信じなかった。
またソ連が新たにソ連領としたポーランド東部からポーランド人とユダヤ人を追放したため、送還先のポーランドではポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きた(ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動)。
5月2日、首都ベルリン市はソ連軍に占領された。その際、ベルリン市民の女性の多くがソ連兵に強姦されたといわれている。女性、果てや8歳の少女までもが強姦され、犠牲者総数は数万から200万と推測されている[35]。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた女性のうち、その後、約10分の1の女性が死亡し、その大半が自殺だった[36]。また東プロイセン、ポンメルン、シュレージエンでの被害者140万人の死亡率は、さらに高かったと推定される。全体で少なくとも200万のドイツ人女性がレイプされ、繰り返し被害を受けた人もかなりの数に上ると推定される(同上より)。
ドイツ政府と軍の無条件降伏
ヒトラーの遺言に基づき、彼の跡を継いで指導者となったカール・デーニッツ海軍元帥はフレンスブルクに仮政府を樹立し(フレンスブルク政府)、連合国との降伏交渉を開始した。5月7日、フレンスブルク政府の命によってドイツ国防軍と政府は連合国に無条件降伏することが決定した。これはドイツ政府と軍による完全な無条件降伏であった。
アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハワーの司令部に赴き、国防軍代表として降伏文書に署名し、停戦が5月8日午後11時1分に発効すると定められた((ドイツの降伏文書))。翌午後11時にはベルリン市内のカールスホルスト (Karlshorst) の工兵学校で、降伏文書の批准式が行われ、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥と連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥、(アーサー・テッダー)元帥が降伏文書の批准措置を行った。なお日独伊三国同盟には、降伏前に同盟国の日本と協議を行う決まりであったが、いまやドイツは日本政府と協議する余裕はもうなかった。
なお同盟国であるはずの日本と連合国はフレンスブルク政府に対し、(政府としての承認)は行わなかった[37]。5月23日には全閣僚が連合国に逮捕され[37]、その機能を失った。その後6月5日のベルリン宣言により中央政府がドイツに存在しないこと(中央政府=ナチ党であり、ドイツ国の降伏とともに消滅したこと)が確認された。敗戦後に中央政府がドイツに存在しない点は、敗戦と占領後に中央政府が存在し続けた日本と大きく異なる[38]。
これによりドイツ国、イタリアの2国の枢軸国が連合国側に降伏し、ヨーロッパでの戦いは終結した。その後も欧州では小規模かつ局地的な戦闘は続いたものの、国家間での戦闘行為は最後の枢軸国である大日本帝国と満洲国など数少ない友好国、そしてそれに対するイギリスやオーストラリア、アメリカや中華民国などの連合国による東南アジアと東アジア、太平洋地域のみとなった。
停戦後
5月8日午後11時1分に停戦が発効され、8日と9日の2日間はヨーロッパ全土は祝日となった。各地の枢軸軍は順次降伏していったが、ソ連軍らとドイツ軍の戦闘はドイツが無条件降伏したにもかかわらず、プラハの戦いが終結する5月11日まで続いた。なおソ連軍が停戦後も停戦を無視して戦いを継続するのは、無条件降伏ではない対日戦でも同様であり、戦時国際法に明らかに違反するものであった。
ドイツ占領下のノルウェー南端から日本へ向かっていたドイツ海軍のUボート「U-234」が、大西洋上でアメリカ海軍の艦船に降伏しようとした矢先の5月14日に、便乗していた庄司元三と友永英夫の2名の海軍中佐が服毒自殺した。2人の持ち物の中には、当時日本も開発していた原子爆弾の開発に欠かせないウラン235が560キログラム含まれていた。
なおこの前後に、多数のナチス親衛隊員やドイツ軍人、ファシスト党員が、潜水艦や船舶、徒歩でバチカンやスペイン、ポルトガルやノルウェーなどを経由して、アルゼンチンやブラジル、チリやボリビアなどの南アメリカ諸国に逃亡し、その後も数千人が身分を隠して逃亡を続けた。またナチス親衛隊員やドイツ軍人が、残る枢軸国の日本へUボートで逃亡したとの報道もあったが、これは上記のような事件と混合した誤りであった。
ソ連軍に降伏した枢軸国の将兵はシベリアなどで強制労働させられた。さらに終戦直前から戦後にかけて、ソ連を含む中欧・南欧・東欧からは1200万人を超えるドイツ人が追放され、200万人以上がドイツに到着できず命を落とした[6][39]。
この後、ドイツとの戦いを終えたイギリスやアメリカ、イギリス連邦諸国の将兵が残る日本との戦いの元へ次々に送られたほか、日本との和平条約があるソ連軍も満洲国との国境に隠密裏に送られた。
ポツダム会談
その後7月17日から、ベルリン南西ポツダムにて、ヨーロッパの戦後問題を討議するポツダム会談が行われた。イギリスの首相ウィンストン・チャーチル(会談途中、7月25日の総選挙でチャーチル率いる保守党が労働党に敗北し、クレメント・アトリーと交代する)。4月12日のルーズベルトの急死に伴い、副大統領から昇格・就任したアメリカの大統領ハリー・S・トルーマン、ソビエト連邦のヨシフ・スターリンが出席した。この会議で、ドイツの戦後分割統治などが取り決められたポツダム協定の締結が7月26日に行われた。
さらに、この会談のさなかには残る枢軸国の日本に対し降伏を勧告するポツダム宣言の発表も英米中の3か国の合意の元行われ(中華民国の蔣介石総統は無線電話での承認。日本と開戦していないソ連は開戦後の8月9日に承認)、日本に向けて送信され、日本側では外務省、同盟通信社、陸軍、海軍の各受信施設が第一報を受信した。
条件付きのポツダム宣言の受託とその行使により、ドイツと違って、敗戦と占領後にも日本には中央政府が存在し続けることとなった。
背景(アジア・太平洋・オセアニア・北アメリカ・東アフリカ)
満洲事変(1931年-1933年)から、日中戦争と日本の参戦までの経緯(1937年-1941年)
満洲事変と満洲国
1931年9月18日に南満洲鉄道が爆破されたとして、日露戦争の勝利後にロシア帝国から獲得した租借地、関東州と南満洲鉄道の付属地の守備をしていた日本陸軍の関東都督府陸軍部が前身の関東軍と中華民国軍の間で戦闘が勃発。日本が勝利し関東軍が奉天、南満洲を占領する(満洲事変)[40]。
12月に中華民国政府の提訴により、国際連盟では満洲での事態を調査するための調査団の結成が審議されていた。英仏伊独の常任理事国に、当事国の日本と中華民国の代表からなる6ヵ国、事実上4四ヵ国の調査団の結成が可決された。日本の主張も認められて、調査団結成の決議の留保で、満洲における匪賊の討伐権が日本に認められた[41]。
1932年1月28日に日本海軍と中華民国十九路軍が衝突する第一次上海事変が勃発し、3月1日に、中華民国軍が上海から撤退し、同日、満洲国が中華民国から独立して建国宣言をした[40]。3月3日に、中華民国国軍を制圧した日本軍に停戦命令が下ると、聞く耳を持たなかった英仏伊独の国際連盟各国代表も、日本の態度を正当に了解しかけた。
3月に国際連盟から第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする調査団(リットン調査団)が派遣された。この調査団は、半年にわたり満洲国と日本、中華民国を調査し、満洲国皇帝の愛新覚羅溥儀とも面会し9月に報告書(リットン報告書)を提出した。翌1933年2月24日、このリットン報告を基にした勧告案(内容は異なる)が国際連盟特別総会において採択され、日本を除く連盟国の賛成および棄権・不参加により同意確認が行われ、国際連盟規約15条4項[注釈 9]および6項[注釈 10]についての条件が成立した。
前後して上海事変の勃発で日本への疑念を深めていたイギリスでも、1932年3月22日の下院審議において、与党保守党の重鎮オースティン・チェンバレンは、「労働党議員の対日批判を諌め、日中ともに友好国であり、どちらにも与しない」とした上で、中華民国には「国内秩序をきちんと保てる政府が望まれること、日本が重大な挑発を受けたこと、条約の神聖さを声高に唱える中華民国が少し前には、一方的行動で別の条約を破棄しようとしたこと」を指摘し、「銃剣はボイコットへの適切な対応ではない」としつつ、対日制裁論を退け、国際連盟に慎重な対応を求めた。国際連盟の対応を受けて5月5日に上海停戦協定が結ばれ、日中両軍が上海市区から撤退し、騒ぎは収まるかに思えた。
国際連盟脱退
だが、翌年の1933年2月23日に日本軍が熱河省に侵攻するなど、中華民国との関係がさらに悪化すると、日本に対する国際連盟加盟各国の態度も硬化した。
翌日にはジュネーブで行われた国際連盟総会で「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」確認の投票が行われ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム)の圧倒的多数で勧告が採択された。さらに満洲国建国などを国際連盟の場で非難され、松岡洋右代表以下日本代表はこれを不服として、あらかじめ準備していた宣言書を朗読して会場から退場し、日本のマスコミからは大喝采を受けた。
日本代表はジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは首相ベニート・ムッソリーニと会見している。帰国後の3月27日に国際連盟を脱退する。またドイツも同年脱退した。
なお、日本脱退の正式発効は、2年後の1935年3月27日となり、脱退宣言から1935年までの猶予期間中に日本は分担金を支払い続けていた。また正式脱退以降も国際労働機関 (ILO) には1940年まで加盟していた(ヴェルサイユ条約等では連盟と並列的な常設機関であった)。そのほか、アヘンの取り締りなど国際警察活動への協力や、国際会議へのオブザーバー派遣など、一定の協力関係を維持していた。
五・一五事件と二・二六事件
1932年5月15日には、海軍の軍人らに首相の犬養毅らが殺害されるという「五・一五事件」が起きていた。さらには、内大臣官邸や立憲政友会本部を攻撃し、これによって東京を混乱させて戒厳令を施行せざるを得ない状況に陥れ、その間に軍閥内閣を樹立して国家改造を行う計画であったが、未遂のままで鎮圧された。
後継首相の選定は難航した。従来は内閣が倒れると、天皇から元老の西園寺公望に対して後継者推薦の下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺は政党内閣を断念し、軍を抑えるために元海軍大将で穏健な人格であった斎藤実を次期首相として奏薦した。
西園寺はこれは一時の便法であり、事態が収まれば「憲政の常道(=民主主義)」に戻すことを考えていたが、ともかくもここに8年間続いた「憲政の常道」の終了によって、まともな政党政治は大戦後まで復活することはなかった。
さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らはクーデターを図り、1,483名の下士官兵を率いて、首相官邸や大蔵大臣高橋是清私邸、内大臣斎藤実私邸や教育総監渡辺錠太郎私邸などを襲ったが、このクーデターは未遂に終わる(「二・二六事件」)。首相の岡田啓介は辛くも大丈夫だったが、大蔵大臣の高橋や内大臣の斎藤、教育総監・陸軍大将の渡部などはこの事件で殺害された。
この事件の結果広田弘毅が首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平が出た。「好ましからざる人物」として指名されたのは吉田茂(外相)、川崎卓吉(内相)、小原直(法相)、下村海南、中島知久平である。吉田は英米と友好関係を結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田が辞退し広田が外務大臣を兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後の粛軍人事として皇道派を排除し、陸軍内部の主導権も固めた。
1931年には「三月事件」、1934年には「陸軍士官学校事件」が起こり、当時の日本では、このように選挙で選ばれたわけでもない単なる軍人(役人)が、国が自分の気に入らない方向に向かうと、武力でクーデターを起こして自らの向かう方向に仕向け、さらに陸海軍が組閣に口を出すことが度々起き、まかり通るようになった。
軍部大臣現役武官制復活
さらに1936年5月に軍部は広田内閣に圧力を加え、一度は廃止された軍部大臣現役武官制を復活させた。この制度復活の目的には、「二・二六事件への関与が疑われた予備役武官(事件への関与が疑われた荒木貞夫や真崎甚三郎が、事件後に予備役に編入されていた)を、軍部大臣に就かせない」ということが挙げられていた。
広田内閣は腹切り問答によって陸軍大臣と対立し、議会を解散する要求を拒絶する代わりに1937年2月に総辞職に追い込まれた。その後、宇垣一成予備役陸軍大将に対して天皇から首相候補に指名されて大命降下があった際、陸軍から陸軍大臣の候補者を出さず、当時現役軍人で陸軍大臣を引き受けてくれそうな小磯国昭朝鮮軍司令官に依頼するも断られ、自身が陸相兼任するために「自らの現役復帰と陸相兼任」を勅命で実現させるよう湯浅倉平内大臣に打診したが、同意を得られなかったため、組閣を断念した。この様に、1910年代以降日本に浸透してきていた議会制民主主義は、1930年代中盤以降急激に軍国主義に傾いていく。
西安事件と国共合作
1933年5月31日の塘沽協定により満洲事変は停戦したが、中華民国政府は満洲国も日本の満洲占領も認めてはおらず、日本軍や中国共産党軍との散発的な戦闘は続いていた。1936年10月に蔣介石は共産党軍の根拠地への総攻撃を命じたが、国民党軍の身分ながら共産党と接触していた張学良と楊虎城は、共産党への攻撃を控えていた。
12月12日に張学良と楊虎城はいわゆる「西安事件」を起こし、張学良の親衛隊第2営第7連120名で蔣介石を拉致、拘束した。蔣介石の拘禁は、上海や国外で「張学良のクーデター」と報じられ、その後の動向が着目された[42]。
張学良と楊虎城は日本軍に対して中国共産党との共闘をするよう要求したが、監禁された蔣介石は張学良らの要求を強硬な態度で拒絶した。さらに国民政府は張学良の官職剥奪と軍事討伐を検討し、軍事委員会の緊急強化を決定した[42]。また、中華民国全国の将軍から中央政府への支持と張学良討伐を要請する電報が国民政府に続々と到着していった[43]。
張学良の目算通りに人民戦線派および各地将領が動かず、世論は張学良と反対の立場であった。形勢が不利となった張学良は、北支の閻錫山の下に特使を派遣して調停を依頼、妥協条件と旧東北軍の処置について協議を求めた。また事情を知った世論からも張学良は強い批判を浴びることとなった。
12月23日にいったん蔣介石と張学良の和解が成立したが、2日後の12月25日に張学良は「西安事件」の敗北を洛陽で認め、その後に西安に戻った。反逆罪により張学良は逮捕され南京に連行、宋子文公館に幽閉された。
しかし張は極刑や国民党から永久除名にされず、12月31日に軍事委員会高等軍法会議により懲役10年の刑を受けたが、結局1991年まで国民党から軟禁の身で過ごし、軟禁解除後の2001年にハワイのホノルルで生涯を閉じた。しかしこの事件をきっかけに、国共合作が進むことになる。
日中戦争
1937年2月に開催された中国国民党の三中全会の決定に基づき、中華民国の南京政府は国内統一の完成を積極的に進めていた[44]。地方軍閥に対しては山西省の閻錫山に民衆を扇動して反閻錫山運動を起こし[45]、金融問題によって反蔣介石側だった李宗仁と白崇禧を中央に屈服させ[46]、四川大飢饉への援助と引き換えに四川省政府首席劉湘は中央への服従を宣言し[47]、宋哲元の冀察政府には第二十九軍の国軍化要求や金融問題で圧力をかけていた[48]。
一方、南京政府は1936年春頃から各重要地点に対日防備の軍事施設を用意し始めた[49]。上海停戦協定で禁止された区域内にも軍事施設を建設し、保安隊の人数も所定の人数を超え、実態が軍隊と何ら変わるものでないことを抗議したが中国側からは誠実な回答が出されなかった[50]。また南京政府は山東省政府主席韓復榘に働きかけ[51]対日軍事施設を準備させ、日本の施設が多い山東地域に5個師を集中させていた[52]。この他にも梅津・何応欽協定によって国民政府の中央軍と党部が河北から退去させられた後、国民政府は多数の中堅将校を国民革命軍第二十九軍に入り込ませて抗日の気運を徹底させることも行った[53]。
しかし、第二十九軍は抗日事件に関して(張北事件)、豊台事件をはじめとし[54]、盧溝橋事件までの僅かな期間だけでも邦人の不法取り調べや監禁・暴行、軍用電話線切断事件、日本・中国連絡用飛行の阻止など50件以上の不法事件を起こしていた[55]。
盧溝橋事件前、第二十九軍はコミンテルン指導の下、中国共産党が完成させた抗日人民戦線の一翼を担い[56][57]、国民党からの中堅将校以外にも中国共産党員が活動していた[58]。副参謀長張克侠[59]をはじめ参謀処の肖明、情報処長靖任秋、軍訓団大隊長馮洪国、朱大鵬、尹心田、周茂蘭、過家芳らの中国共産党員は第二十九軍の幹部であり、他にも張経武、朱則民、劉昭らは将校に対する工作を行い、張克侠の紹介により張友漁は南苑の参謀訓練班教官の立場で兵士の思想教育を行っていた[58]。
第二十九軍は盧溝橋事件より2カ月余り前の1937年4月、対日抗戦の具体案を作成し、5月から6月にかけて、盧溝橋、(長辛店)方面において兵力を増強するとともに軍事施設を強化し、7月6日、7日にはすでに対日抗戦の態勢に入っていた[60]。
そしてついに1937年7月7日、第二次世界大戦がヨーロッパで始まる約2年2か月前に、日本軍と中華民国軍の衝突である盧溝橋事件が勃発、ここに全面戦争である日中戦争が始まった。
一旦中華民国側は遺憾の意思を表明し、「責任者を処分すること」、「盧溝橋付近には中華民国軍にかわって保安隊が駐留すること」、「事件は藍衣社(青シャツ隊)、中国共産党など反日暴力団体が指導したとみられるため今後取り締る」という内容の停戦協定が締結されたが、その後中華民国側でも日本軍を挑発し対日武力行使決定が決定した。
8月13日に近衛内閣は閣議決定により上海への陸軍派遣を決定[61]。また同日にはイギリス、フランス、アメリカの総領事が日中両政府に日中両軍の撤退と多国籍軍による治安維持を伝えたが戦闘はすでに開始していた[62]。8月14日には中国空軍は(上海空爆)を行うが日本軍艦には命中せず上海租界の歓楽街を爆撃、外国人を含む千数百人の民間人死傷者が出た[61][63]。通州事件や第二次上海事変、北平占領など日中戦争は瞬く間に中華民国全土に拡大していく。
1937年8月に中華民国は中ソ不可侵条約を結んで、ソ連空軍志願隊とともに在華ソビエト軍事顧問団を再招聘し、1941年に日ソ中立条約が結ばれるまで中華民国軍を援助し続けた。しかしその後もソ連は中国共産党などへ様々な援助を続けた。
アメリカの新聞の論調は、未だ直接介入を主張するものは少なく、その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかであった。反対に、孤立主義の立場から、中華民国からのアメリカ勢力の完全撤退論を主張するものもあった。1938年1月のギャラップ調査によると、約70%のアメリカ人が中華民国からの完全撤退を望み、孤立主義的態度を示していた[64]。
しかし1938年3月に起きたドイツのオーストリア併合(アンシュルス)の翌週、第1次近衛内閣の下で野党は反対勢力を失い、日中戦争を鑑みた国家総動員法が成立した。さらに日中戦争が激しさを増す中、陸海軍の強い反対を受けて、日本政府はベルリンオリンピックに次いで1940年に開催される予定であったアジア初、有色人種初のオリンピックである札幌・東京オリンピックを7月に返上した。
欧米諸国でも中華民国内に租界を置く国は多く、自国の権益を守るためもありイギリスやフランス、アメリカ、イタリア、そして日本と「五大国」はこぞって租界を置いた。そして日本と同盟関係にあるにもかかわらず、租界があるイタリアやドイツなど親中的な政策をとる国も多かった。
さらに日中戦争が起きると日本陸軍とこれら列強の駐留軍との間にいざこざが起き始め、例えば上海でのヒューゲッセン遭難事件、揚子江のパナイ号事件、蕪湖の(レディバード号事件)等が起きたが、近衛内閣の外相広田弘毅(元首相)が何とか善処し、イギリスのロバート・クレイギー大使とアメリカのジョセフ・グルー大使から高く評価された。
日独伊の急接近
なお上記のように、ナチス政権下のドイツの極東政策は、1936年11月に広田内閣下の日本と日独防共協定を結ぶ一方で、中独合作で中華民国とも結ばれていた。
中華民国は孔祥熙をドイツに派遣しヒトラーと会談、ドイツ軍は日中戦争を戦う中華民国軍に、蔣介石の個人顧問として中将アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンをドイツ軍事顧問団団長として派遣するなど、ドイツは日本と中華民国との間で大きく揺れていた。1937年5月には軍事顧問団は100名を超えるまで膨れ上がり、ナチス政権発足前の1928年の30名から大きく増加していた[65]。ナチ党のヨアヒム・フォン・リッベントロップ等は日本との連携を重視していたが、ドイツ外務省では日本との協定に反し中華民国派が優勢だった。さらにドイツはモリブデンやボーキサイト等の軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、中華民国とバーター取引を行っていた。
しかし1937年7月に日中戦争が始まると、日本からの抗議を受け中華民国に派遣されていたドイツ軍事顧問団は撤収、イタリアに続きドイツ製武器の供給も停止することになり、完全に親中派は止めを刺された。さらに中華民国が1937年8月21日に結んだ中ソ不可侵条約によりヒトラーの態度は硬化し、中国系ロビイストやドイツ人投資家から執拗な抗議を受けても変わらなかった。ヒトラーは、中国からの既に注文済みの品の輸出の妨害こそしなかったものの、以後新たな対中輸出が認められることはなかった。しかし、ハインケルやフォッケウルフなどのドイツ製の武器の現金調達は日本の抗議を受けながらも、中華民国との契約が完全に切れる1938年中頃まで続いた。
ドイツは在華大使オスカー・トラウトマンを介して、中華民国と日本の和平交渉を仲介しようとしたが、1937年12月に南京が陥落してからは、両国が納得できるような和解勧告をすることはできず、ドイツ仲介による休戦の可能性は全く失われた。1938年前半に、ドイツは満洲国を正式に承認した。その年の4月、ヘルマン・ゲーリングにより、中華民国への軍需物資の輸出が禁止された。さらに同5月には日本の要請を聞き入れ、ドイツは顧問団を完全に引き上げた。また同年8月から11月にかけては、ヒトラーユーゲントの訪日が行われるなど[66]両国の親密な関係は続いた。
一方、天津に租界を持つイタリアも、1930年代中盤に元財務相アルベルト・デ・ステーファニを金融財政顧問として、さらに空軍顧問のロベルト・ロルディ将軍と海軍顧問を中華民国に常駐させ、フィアットやランチア、ソチェタ・イタリアーナ・カプロニやアンサルドなどのイタリア製の兵器を日本からの抗議を受けつつも大量に輸出した。
しかし、1935年に始まった第二次エチオピア戦争での対イタリア経済制裁に中華民国が賛同したことに対して、上海総領事として勤務した経験もあった伊外相ガレアッツォ・チャーノは「遺憾」とし、1937年11月には日独に次いで防共協定に調印し、ここに日独伊三国防共協定となった。
さらに1938年5月から6月にかけて、イタリアは大規模な経済使節団を日本と満洲国に送り、長崎から京都、名古屋、東京など全国を視察し、天皇や閣僚、さらに各地の商工会議所などが歓迎に当たった。その後8月にイタリアは中華民国への航空機売却を停止し、12月にはドイツに次いで空海軍顧問団の完全撤退を決定。完全に日本重視となった。さらに同年11月、イタリアは満洲国を承認し、両国は公使館を置き正式な外交関係を開始している。
これらの返礼もあり、日本陸軍や満洲陸軍はイタリアからの航空機や戦車、自動車や船舶などの調達を進め、相次いで日中戦争の戦場に投入した。またイタリアも満洲国からの大豆の全輸出量が5%を占め、アメリカからの輸入を停止するなど、イタリアもドイツも完全に同盟関係にある日本重視となる。
なお、中華民国はドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまこれらとの関係が悪化している、アメリカやソ連、イギリスやフランスとの武器調達契約を結び、1939年以降はこれらの国が主な武器の調達先となった。
オトポール事件とユダヤ人対策要綱
ドイツでは、ナチ党政権は国民からの絶大な支持を受け、国単位で反ユダヤ主義政策を進めていたが、同盟国の日本ではヨーロッパ各国で行われているようなユダヤ人差別などは歴史的に皆無であり[67]、むしろ日本では民官軍によるユダヤ人擁護がドイツ政府の反対を受けつつ、1930年代後半から終戦まで行われた。
1937年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満洲国で開催された際に、この席で日本陸軍の陸軍少将樋口季一郎は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い、「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた[68]。これを知ったドイツの外相リッベントロップは、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。
また同年3月8日に、ユダヤ人18人が害下から逃れるため、満蘇国境沿いにあるシベリア鉄道のオトポール駅(現:ザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。しかし、亡命先である上海租界に到達するために通らなければならない満洲国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らと共に即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、さらには膠着状態にあった出国の斡旋、満洲国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。これで逃れることができたユダヤ人の数は数千人から2万人ともいわれる。
日本は日独防共協定を結んだドイツの同盟国だったが、樋口は南満洲鉄道の総裁松岡洋右に直談判して了承を取り付け、満鉄の特別列車で上海に脱出させた[69]。これは「オトポール事件」と呼ばれることとなる。
この事件は日独間の大きな外交問題となり、日本にはドイツの外相リッベントロップからの抗議文書が届いた[70]。また、陸軍内部でも樋口への批判が一部で高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった[70]。そのような中、樋口は関東軍司令官植田謙吉大将に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東條英機中将と面会した際には「ヒトラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる[71]。この言葉に理解を示した東條は、樋口を不問とした[72]。
東條の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり[73]、独国からの再三にわたる抗議も、東條は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した[74]。
さらに12月には日本政府が、五相会議で人種平等の原則によりユダヤ人を排斥せず、諸外国人と同等に公正に扱う「猶太人対策要綱」を作成。ユダヤ難民の移住計画である「河豚計画」で、世界で唯一ユダヤ人保護を国策として宣言した[75]。またその後も日本政府は「ユダヤ人は外国籍保有者と同様に扱い、ドイツ国籍を持つユダヤ人は白系ロシア人と同様に無国籍者として取り扱う」とし、ユダヤ人に寛容な保護の継続を指示していた[76]。
またその後の1939年6月には、駐ベルリン満洲国公使館書記官の王替夫がユダヤ難民にビザを発給を開始した。これは1940年5月まで続き、ユダヤ難民含む合計12,000人以上が出国できた。
ノモンハン事件
1939年5月から同年9月にかけて、関東軍とソ連軍の間で、満洲国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)が断続的に発生した。
なお満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力を配置せず、それぞれ満洲国軍とモンゴル軍に警備を委ねていたが、日ソ両軍の戦力バランスは、ソ連軍が日本軍の3倍以上の軍事力を有していた。これに対し日本軍も軍備増強を進めたが、日中戦争の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた影響もあって容易には進まず、1939年時点では日本11個歩兵師団に対しソ連30個歩兵師団であった。
8月に発生したノモンハン事件は満洲国軍とモンゴル人民軍の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった日本陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。
独ソ不可侵条約締結と防共協定違反
そのような中で起きた8月23日の独ソ不可侵条約の締結は、ドイツと防共協定を持ち親密な傍ら、ソ連とノモンハン事件を通じ敵対関係にある日本に衝撃を与えた。
この条約と同時に秘密議定書が締結されていた。これは東ヨーロッパとフィンランドをドイツとソビエトの勢力範囲に分け、相互の権益を尊重しつつ、相手国の進出を承認するという性格を持っていた。
独ソ不可侵条約の締結を受けて、当時の首相平沼騏一郎は「欧洲の天地は複雑怪奇」との言葉を残し、ドイツの防共協定違反という重大な政治責任から8月28日に総辞職した。またドイツ政府と「蜜月の仲」で知られたはずの大島浩大使も、ソ連とのノモンハン事件が起きる中で、同盟国のドイツからこの締結を前もって知らされなかった責任を取り、即座にベルリンより帰朝を命ぜられた(帰国後の12月27日に大使依願免職した)。
また、これ以後のドイツとの交渉は一切中止となるなど、日本の政界も揺るがす大混乱となった。なお次の駐独大使には、大島とは逆にドイツとの対独同盟に懐疑的で「親米」といわれた来栖三郎が継いだ。
第二次世界大戦開戦と対独同盟派の停滞
さらに9月1日にドイツがポーランドに侵攻した。これに対して9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、ついにヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。
独ソ不可侵条約の締結を、日独防共協定を締結したばかりの同盟国である日本に事前通告をしなかっただけでなく、ポーランドへの参戦(とそれに次いで起きることが予想できたイギリスとフランスのドイツ参戦)も、一切日本への事前通告がなかったドイツとの関係は壊滅的なものとなり、度重なるドイツの態度に怒った日本は、日独防共協定を無視して参戦しなかった。
また8月30日に任命された阿部内閣もわずか140日余りと短命に終わり、日本政府内の対独同盟派の勢いはここで完全に停滞した。
なおオランダとベルギー、アイルランド、アメリカも中立を宣言した[18]が、後にドイツはオランダとベルギーの中立宣言を無視することになる。
ノモンハン事件の終焉とソ連のポーランド侵攻
モスクワでは、9月14日から日本の東郷茂徳駐ソ特命全権大使とソ連のヴャチェスラフ・モロトフ外務大臣との間で停戦交渉が進められていた。
ソ連側は有利に戦争を進めており強硬な姿勢で交渉に臨んでいた。しかし、モスクワに前線方面軍司令シュテルンから、「日本軍が4個師団以上の大兵力を集結させ、どんなに犠牲を払っても8月の敗戦の報復に出るべく準備を進めている」との報告が挙がっており[77]、ソ連側は日本軍が攻勢に転じれば、今までの戦闘経過から見てかなり長期の消耗戦になると懸念していた。
ソ連はこの後にドイツとの密約によるポーランド侵攻を計画しており、ノモンハンとポーランドの二方面作戦は回避したく停戦を急ぐ必要があった[78]。当時のソ連はポーランド侵攻の密約の他にも、フィンランドやトルコへの進出を計画しており、各地で頻発する紛争事件を抱えてモロトフは疲労
日本との戦いの心配もなくなったソ連は、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき9月17日にソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄し、ポーランドへ東から侵攻した。
日本による汪兆銘擁立
日中戦争の勃発に伴い、中華民国の蔣介石は日本との徹底抗戦の構えを崩さず、日本側も首相の近衛文麿が「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とした近衛声明を出し、和平の道は閉ざされた。汪兆銘は「抗戦」による民衆の被害と中華民国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[80][81][82][83]。汪は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[83]。
1938年3月から4月にかけて湖北省漢口で開かれた国民党臨時全国代表大会では、国民党に初めて総裁制が採用され、蔣介石が総裁、汪が副総裁に就任して「徹底抗日」が宣言された[82][84]。すでに党の大勢は連共抗日に傾いており、汪としても副総裁として抗日宣言から外れるわけにはいかなかったのである[82]。
一方、3月28日には南京に梁鴻志を行政委員長とする親日政権、中華民国維新政府が成立している[82]。こうした中、この頃から日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになった[85]。この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[82][83][85][86]。
6月に汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触。高宗武自身は日本の和平の相手は汪以外にないとしながらも、あくまでも蔣介石政権を維持した上での和平工作を考えていた[85]。10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蔣介石との対立は決定的となった[83]。
1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心の曽仲鳴を射殺するという事件が起こった(汪兆銘狙撃事件)[87]。蔣介石が放った暗殺者は汪を狙ったが、その日はたまたま汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が犠牲になった[87]。ハノイが危険であることを察知した日本当局は、汪を同地より脱出させることとした[87][88]。4月25日、影佐と接触した汪はハノイを脱出し、フランス船と日本船を乗り継いで5月6日に上海に到着した[88][89]。ハノイの事件は、汪が和平運動を停止し、ヨーロッパなどに亡命して事態を静観するという選択肢を放棄させるものとなった[90]。
日本は蔣介石に代わる新たな交渉相手として、日本との和平交渉の道を探っていた汪の擁立を画策した。しかし1940年1月に、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件が生じた[91]。最終段階で腹心とみられた部下が裏切ったことに汪は大いに衝撃を受けたが、日本側が最終的に若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった[91]。
南京国民政府/汪兆銘政権成立
汪は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日に蔣介石とは別個の国民政府を南京に樹立、ここに「南京国民政府」が成立した。
汪は自らの政府を「国民党の正統政府」であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」と称した。国旗は、青天白日旗に「和平 反共 建国」のスローガンを記した黄色の三角旗を加えたもの、国歌は中国国民党党歌をそのまま使用し、記念日も国恥記念日を除けば、国民党・国民政府のものをそのまま踏襲した。
政府発足後に、イタリア王国やフランスのヴィシー政権、満洲国などの枢軸国、バチカンなどが国家承認した。しかし蔣介石政権とのしがらみがあったドイツが最終的に承認したのは1941年7月になってからだった[92]。さらに日本との間で日泰攻守同盟条約を結んでいたタイ王国が汪の南京国民政府を承認した[93]のは、対英米戦が始まってからの1942年7月になってからであった。
悪化しつつある日米情勢と米内内閣
その後ポーランドを占領したドイツとフランス、イギリスの間で大きな戦闘は起きなかったが、そのような中、1940年1月には日米通商航海条約が失効し、日米関係は両国開国以来の無条約時代に突入した。これを深く憂慮した昭和天皇は陸軍からの首班を忌避し、むしろこうした風潮に抗するには海軍からの首班こそが必要だと考えていた。
防共協定を結んだ日本を軽視した同盟国のドイツとの関係が悪化する中で、こちらも悪化しつつある日米情勢の打開が1月に就任したばかりの親英米派の米内内閣に求められた。
しかし米内は親英米派であるだけでなく、日独伊三国同盟反対論者だったこと、さらに近衛らによる新体制運動を静観する姿勢を貫いたことなどにより、陸軍や親軍的な世論から不評を買う。
ドイツの快進撃
4月にドイツは中立国デンマークとノルウェーに突如侵攻。5月にはベルギー、オランダ、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻し、これらもすぐに降伏した。さらに6月には、フランスが敗北濃厚になったのを見たイタリアのムッソリーニも、ドイツの勝利に相乗りせんとばかりにイギリスとフランスに対し宣戦布告した。
ヒトラーの快進撃とそれに乗るムッソリーニという、ヨーロッパでの枢軸国の勢いが伝えられつつあると、昨年の独ソ不可侵条約締結やポーランド侵攻、ドイツのユダヤ人迫害などで一度はドイツに対して冷め切った日本でも、親独派や右翼、軽薄なマスコミが騒ぎ出し、右派の朝日新聞などは「(枢軸国という勢いに乗った)バスに乗り遅れるな」などと紙上で煽る始末であった。
第2次近衛内閣
同年7月には、参謀総長閑院宮載仁親王と陸軍三長官会議により、1月に就任したばかりの親英米派の米内内閣は早くも辞任に追い込まれた。
日独伊三国同盟に消極的であった米内内閣の後を受け、7月22日に誕生した第2次近衛内閣では、今や勢いのいいドイツやイタリアなどの同盟国との提携を再度主張する、松岡洋右外相らの声が高まった。
同じ日には第2次近衛内閣により「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定され、いったん冷め切った日独伊の関係は、ドイツやイタリアの快進撃にあやかろうと、より密接になってゆく。
亡命ユダヤ人の「命のビザ」
1939年9月に第二次世界大戦の発端となるドイツのポーランド侵攻が始まると、ソ連はドイツほどではなかったがユダヤ人には冷淡で、同国のユダヤ人は亡命を余儀なくされその一部は隣国リトアニアへ逃れた。だが、(独ソ不可侵条約付属秘密議定書)に基づき、9月17日にソ連がポーランド東部への侵略を開始する。10月10日にリトアニア政府は、軍事基地建設と部隊の駐留を認めることを要求したソ連の最後通牒を受諾する。
さらに1940年6月15日にソビエト軍がリトアニアに侵略する。当時、ドイツ占領下のポーランドなどから逃亡してきた多くのユダヤ系難民などが、各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていたが、ソ連が各国に在リトアニアのカウナス領事館・大使館の閉鎖を求めたため、もはや逃げ道はシベリア鉄道を経て極東(日本と満洲、中華民国)に向かうルートしか難民たちには残されていなかった。ユダヤ難民たちはまだ業務を続けていたカウナスの日本領事館に名目上の行き先(オランダ領アンティルなど)への通過ビザを求めて殺到した。
在カウナスの杉原千畝領事は情報収集の必要上、亡命ポーランド政府の諜報機関を活用しており、「地下活動にたずさわるポーランド軍将校4名、海外の親類の援助を得て来た数家族、合計約15名」などへのビザ発給は予定していたが、それ以外のビザ発給は外務省や参謀本部の了解を得ていなかった。しかし杉原領事の権限でこれらのユダヤ系難民たちにビザを出すことを決め、1940年8月31日までの間にソ連によってカウナスの日本領事館を退去させられ、杉原領事がカウナス駅を出る直前まで、杉原領事と妻、スタッフたちによって発行された日本を経由するビザに救われることとなった。なお途中から杉原領事はビザの発行手数料の徴収を取りやめている。
またカウナスではアメリカ領事館も開いていたものの、これらのユダヤ人に対する通過ビザ発行を99パーセント拒否している[94]。なお杉原はこの後プラハ、さらにドイツのケーニヒスベルクに転任している。
1940年7月からユダヤ系難民は、シベリア鉄道でソ連のウラジオストク、および満洲国の満洲里[95]経由で、約6,000人が通過ビザを手に敦賀港などを経由して日本に入国した。ウラジオストク総領事代理の根井三郎やJTB職員たち、満鉄顧問の小辻節三や神戸に住む在日ユダヤ人などの助けで、ゾラフ・バルハフティク(のちのイスラエル宗教大臣)をはじめとするユダヤ人が合法的に日本に入国することができ、その後アメリカやオランダ領キュラソー、上海などに旅立つことができた。
なおこの杉原領事によるユダヤ人に対する通過ビザ発行に対し、これを知ったイギリスのロバート・クレイギー駐日大使は、通過ビザを持ったユダヤ人がイギリス領パレスチナに来ることを警戒し、松岡外相に苦情を申し立てているが、この通過ビザ発行を事前に承知していた松岡外相は当然無視をしている[94]。
そして1941年9月には、日本以外への亡命を希望する全員が神戸港などを経由し出国し、アメリカやキュラソー、もしくは中華民国の上海の国際共同租界にある「上海ゲットー」や虹口地区などに亡命した[96]。さらにドイツは「上海ゲットー」の存在に対しても、日本政府へ1945年5月のドイツ敗戦に至るまで再三抗議していたが、日本政府はこれを黙認し、エリアこそ狭いながら亡命ユダヤ人の安全な滞在を認めて保護していた。
日本軍の北部仏印進出
フランスでは、1940年に入りドイツの猛攻が続く中、フィリップ・ペタンがマキシム・ウェイガン陸軍総司令官と共に対独講和を主張した。6月21日にフランスはドイツに休戦を申し込み、翌6月17日に独仏休戦協定が成立した。その後7月10日にペタン率いる親独のヴィシー政権が成立した。
これを受けて6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した[97]。当時のフランス領インドシナ総督(ジョルジュ・カトルー)将軍は、(シャルル・アルセーヌ=アンリ)駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団((西原機関))の受け入れを行った[98]。
ヴィシー政権はこの決断をよしとせず、カトルーを解任して(ジャン・ドクー)提督を後任の総督とした[99]。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、むしろヴィシー政権はこれを進め、日本の外務大臣松岡洋右とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し松岡・アンリ協定が締結された。その後9月22日に日本はフランス領インドシナ総督政府と「西原・マルタン協定」を締結し、これを受けて平和裏に日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。
また、フランス海軍の船舶は武装解除の上サイゴンに係留されることになったが、日本政府は仏印植民地政府との間で遊休フランス商船の一括借り上げの交渉を開始していた[100]。フランス側のドクー総督は、イギリス海軍による拿捕のおそれや、仏印とマダガスカル島や上海との自国航路の維持に必要なこと、フランス海軍が徴用中であることなどを理由に難色を示し[101]、交渉は1942年まで持ち越すことになった。
なお、同様に仏印領内に残ったフランス船籍・仏印船籍の商船は、1941年末時点で500総トン以上のものが27隻(計10万総トン)、うち10隻は4000総トン以上の船であった[102]。
日独伊三国同盟締結
日独の関係も独ソ不可侵条約とポーランド侵攻、第二次世界大戦勃発以降完全に悪化し、さらに「オトポール事件」や「命のビザ」などユダヤ人問題でも対立を見せたが、1940年初頭のドイツ軍のヨーロッパ戦線の好調を見て両国が急速に近づいたため持ち直した。そこで9月7日に新同盟締結のためにドイツから特使ハインリヒ・ゲオルク・スターマーが来日し、松岡との交渉を始めた。
スターマーは「ヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止するため」として同盟締結を提案し、松岡も対米牽制のために同意した。9月27日にはイタリアを含めた日独伊三国同盟が締結された[103]。
これにより実質的に対英米同盟となり日独伊三国同盟は拡大し、1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロバキア独立国が、1941年3月にはブルガリア、6月にはクロアチア独立国が加盟した。これに対して中立を保つアメリカの大統領ルーズベルトは「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけた。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「(日米諒解案)」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。
しかし、日独伊三国同盟実現による更なる関係強化には、「親米」といわれた来栖三郎では「力不足」との声が上がり、そこで1940年12月に、独ソ不可侵条約やポーランド侵攻の際の不手際により、これまで左遷されていた陸軍の大島浩が駐独大使に再任された。
また枢軸国の一員となったフィンランドは1940年8月にドイツと密約を、やはり枢軸国として名を連ねたタイも1941年12月日本と日泰攻守同盟条約をそれぞれ結んだが三国同盟には加盟しなかった。満洲は三国同盟に加盟しなかったものの、軍事上は事実上日本と一体化していた。中華民国南京政府と防共協定に加盟したスペイン(フランコ政権)も三国同盟には加わらなかったが、ドイツとのスペイン戦争以来の密接な関係もあり、戦争の前半期においては枢軸国と協力的な関係を持った。
泰仏戦争勃発
1940年6月にフランス本国がドイツに敗れたこと、(独仏休戦)(1940年6月17日)前にフランスが不可侵条約を批准していなかったこと、その上に日本軍による仏印進駐が迫っていたことなどの状況から、タイはフランスに対して旧領回復への行動を開始した[104]。
タイのプレーク・ピブーンソンクラーム政権は、フランスのヴィシー政権に対し、1893年の(仏泰戦争)でフランスの軍事的圧力を受けて割譲せざるを得なかったフランス領インドシナ領内のメコン川西岸までの(フランス保護領ラオス)の領土と主権や、フランス保護領カンボジアのバタンバン・シェムリアップ両州の返還を求めたが、ヴィシー政権下の仏印政府はこの要求を拒否した。
ついに11月23日にタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、物量と地の利に勝るタイ軍は仏印軍に対して優位に戦いを進め、本国が占領下に置かれ武器や兵士の追加もままならない仏印軍は数多くの戦死者や負傷者を出すこととなった。
戦闘が拡大を続け終息する気配を見せない中、日本は、アジアにおける数少ない独立国かつ友好国のタイと同じく友好国のフランスが戦い国力が疲弊することを憂慮し、タイとフランスの間の和平を斡旋し始めた。しかし両国の主張は平行線をたどり、タイとフランスの間の戦いは日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。しかしタイ王国はこの紛争でフランスが奪った旧領を回復し、事実上の勝利を収めた。
アメリカの対日禁輸とレンドリース
1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、アメリカは、日本にとって最大の輸出国であることを逆手に取り、日中戦争を戦う日本へ圧力をかけてくることとなった。7月26日に日本への輸出切削油輸出管理法を成立させる。8月に石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)などの輸出を許可制にし、10月16日に屑鉄を輸出禁止にするなど次々と禁輸攻勢を打ち出した。
これに対して日本海軍などでは民間商社を通じ、ブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、年内に民間ルートでの開拓を断念した。
さらにアメリカは中立法に現れていた非介入主義を米大統領フランクリン・ルーズベルトがさらに緩和し、1941年3月にはレンドリース法を設置し、大量の戦闘機・武器や軍需物資を中華民国、イギリス、ソビエト連邦、フランスその他の連合国に対して供給した。1945年8月の終戦までに、総額501億ドル(2007年の価値に換算してほぼ7000億ドル)の物資が供給され、そのうち314億ドルがイギリスへ、113億ドルがソビエト連邦へ、32億ドルがフランスへ、16億ドルが中華民国へ提供された。
なお日中戦争中の中華民国は、日本からの抗議を受けて1937年から1938年にドイツやイタリアとの武器の契約が切れた後、すぐさまアメリカとの武器調達契約を結び、その後も第二次世界大戦に参戦しなかったアメリカとレンドリース法案を結び、大戦を通じてアメリカが主な武器の調達先となった。
アメリカの日中戦争への軍事介入
さらにアメリカは、1940年8月に日中戦争で追い込まれつつあった蔣介石総統と宋美齢夫人からの数度にわたる軍事支援の要請を受け、大統領ルーズベルトの指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group, AVG) を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる本格的な軍事介入を開始した。
アメリカ陸軍将校のクレア・リー・シェンノートはルーズベルトの後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットの募集を開始したが、なかなか人が集まらず「日本軍の飛行機は旧式である」というならまだしも、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と人種差別的な見通しを述べてまで募集する面接官もいた[105]。
最終的に、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年3月に中華民国に送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。またシェンノートは健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蔣介石は空戦経験の豊富な彼をアメリカ義勇軍航空参謀長の大佐として遇した。義勇兵は月給1000ドルであった[106]。
シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで「民間人」として、友好国イギリスの植民地のビルマに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、イギリス−領ビルマのラングーン(現:ヤンゴン)の北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。ここでのAVGの目的は、中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蔣ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権を確保することであった。
だがフライングタイガースは、日本軍の最新鋭の零式艦上戦闘機をはじめとした最新の航空機と練度が高い戦闘機乗りの多さ、さらに中華民国軍の事故の多さに悩まされて苦戦を強いられた。
さらに、撃墜数による出来高制の給与(日本軍機を1機撃墜することに500ドルのボーナス)のために、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。さらに1941年12月に正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって「義勇軍」の意味はなく、1942年7月3日にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。
ハル四原則
1941年2月には、アメリカが管理するパナマ運河の利用がアメリカ船とイギリス船のみに制限された。このまま悪化が続くと思われた日米間も、4月からは東京とワシントンD.C.で行われていた日米交渉が本格化され、「全ての国家の領土保全と主権尊重」、「他国に対する内政不干渉」、「通商を含めた機会均等」、「平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持」という「ハル四原則」を提示し、日本側も首相の近衛や陸軍の東條ら政府や軍もこれを歓迎した。
「四原則」から、日米間の交渉が本格化すると思ったが、ドイツやイタリア、ソ連を訪問中で、この4月に日ソ中立条約を結んだばかりの外相松岡洋右は、この案が自身が関わることなく作成されたものであったためメンツをつぶされたと思った松岡は、強硬な反対によって提案を白紙に戻させた[107]。
独ソ戦と外相松岡の更迭
さらに松岡は、日独伊三国同盟にソ連を加えた「ユーラシア四ヶ国同盟締結」を構想していたが、1939年8月に独ソ不可侵条約を結んだばかりのわずか1年10か月しか経たない6月22日にドイツがソ連を奇襲攻撃し独ソ戦が始まり、その望みは打ち砕かれた。なお松岡の考える「ユーラシア四ヶ国同盟締結」も、ドイツのソ連への奇襲計画も、3月にヒトラーと会談した時には伏せられていた。
松岡はドイツのソ奇襲攻撃に合わせ即時対ソ宣戦を主張し、ドイツも強くそれを望んだが、そもそも日本が日ソ中立条約を結んだばかりのソ連に参戦する大きな根拠もなく、さらに先に起きたノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、閣内にあって「暴走状態」にあった松岡の更迭は、政権存続のための急務となっていた。
ここに近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日に内閣総辞職し、松岡を外した上で第3次近衛内閣を発足させ、松岡はここで内閣から完全に外された。
しかし、松岡は常々からイギリスやソ連との戦争は避け得ないと考えていたが、自らのかつての留学先でもあり、知人も多かったアメリカと日本との戦争は望んでいなかった[108]。松岡は「英米一体論」を強く批判し、たとえイギリスと戦争中であるドイツと結んでも、アメリカとは戦争になるはずがないと考えていた[108]。
日本軍の南部仏印進駐
1941年6月25日の大本営政府連絡懇談会で「南方施策促進に関する件」が策定され(南進論)、フランスの同意の下で南部仏印への進駐が決まった。一方、7月に対ソ連の戦争(北進論)準備行動として関東軍特種演習を発動した。その中で仏領インドシナを日本にとられることを危惧したアメリカは、日本に対する石油の輸出許可制を敷くことで日本を揺さぶった{"@context":"http:\/\/schema.org","@type":"Article","dateCreated":"2023-05-22T21:18:04+00:00","datePublished":"2023-05-22T21:18:04+00:00","dateModified":"2023-05-22T21:18:04+00:00","headline":"第二次世界大戦","name":"第二次世界大戦","keywords":[],"url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/第二次世界大戦.html","description":"第二次世界大戦 この項目では 実際に行われた戦争について説明しています その他の名称については 曖昧さ回避 をご覧ください だいにじせかいたいせん 英 World War II 略称 WWII は 1939年 昭和14年 9月1日から1945年 昭和20年 9月2日までの6年余りにわたって続いたドイツ イタリア 日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と イギリス フランス 中華民国 アメリカ ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争である 連合国陣営の勝利に終わったが 第一次世界大戦以来の世界大戦となり 人類史上最大の死傷者を生んだ 左上から時計回りに万家嶺の戦いでの中華民国軍 エル アラメインの戦いでのオ","copyrightYear":"2023","articleSection":"ウィキペディア","articleBody":"この項目では 実際に行われた戦争について説明しています その他の名称については 第二次世界大戦 曖昧さ回避 をご覧ください 第二次世界大戦 だいにじせかいたいせん 英 World War II 略称 WWII は 1939年 昭和14年 9月1日から1945年 昭和20年 9月2日までの6年余りにわたって続いたドイツ イタリア 日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と イギリス フランス ","publisher":{ "@id":"#Publisher", "@type":"Organization", "name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az", "logo":{ "@type":"ImageObject", "url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/logo.svg" },"sameAs":[]}, "sourceOrganization":{"@id":"#Publisher"}, "copyrightHolder":{"@id":"#Publisher"}, "mainEntityOfPage":{"@type":"WebPage","@id":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/第二次世界大戦.html","breadcrumb":{"@id":"#Breadcrumb"}}, "author":{"@type":"Person","name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az"}, "image":{"@type":"ImageObject","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/images\/wiki\/84.jpg","width":1000,"height":800}}