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笠智衆

笠 智衆(りゅう ちしゅう[1]1904年明治37年〉5月13日[1] - 1993年平成5年〉3月16日)は、日本俳優。身長171cm[2]

りゅう ちしゅう
笠 智衆
1940年ごろ
本名 同じ
生年月日 (1904-05-13) 1904年5月13日
没年月日 (1993-03-16) 1993年3月16日(88歳没)
出生地 日本 熊本県玉名郡玉水村立花(現在の同県玉名市
死没地 日本 神奈川県横浜市
身長 171 cm
職業 俳優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1928年 - 1992年
配偶者 あり
著名な家族 笠兼三(孫)
主な作品
映画
父ありき』(1942年)
東京物語』(1953年)
秋刀魚の味』(1962年)
』(1990年)

テレビドラマ
たまゆら
波の盆
 
受賞
日本アカデミー賞
会長特別賞
1994年
ブルーリボン賞
助演男優賞
1951年我が家は楽し』、『(命美わし)』
その他の賞
毎日映画コンクール
男優演技賞
1948年手をつなぐ子等
1951年『命美わし』『海の花火
助演男優賞
1970年家族
(テンプレートを表示)

1925年大正14年)に松竹に入社し、10年間ほど大部屋俳優として過ごした後、小津安二郎監督に見いだされ、彼の『大学よいとこ』で助演。以降『晩春』『東京物語』など、小津作品には欠かせない俳優となった。小津作品以外にも黒澤明木下惠介岡本喜八山田洋次等、名匠の作品に数多く登場し、貴重なバイプレーヤーとして活躍。一貫して日本の父親像を演じてきた。日本を代表する老け役の1人である。

経歴

映画俳優へ

熊本県玉名郡玉水村[1](現玉名市)立花で父淳心、母トシの次男として生まれる。生家は浄土真宗本願寺派来照寺[3]で、父が住職を務めていた。「笠智衆」という名前は本名である。玉水村立玉水尋常小学校、熊本県立玉名中学校(現熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業[3]後、旧制の東洋大学[1]印度哲学科に入学。大学は実家の寺を継ぐために進学すると両親には告げていたが、実際にはその気はなかったという。

1925年大正14年)2月[4]大学を中退し[要出典]、自身の意志ではなく、友達が新聞で研究生募集の広告を見てひやかし半分で勧められ[4]松竹蒲田撮影所の俳優第一期研究生の募集に合格、入所した[1]。俳優になることは本心ではなく、住職以外ならどのような職業でもよかったのだという。それでも同年7月に父の死で仕方なく4ヵ月住職を継ぐが[4]、結局翌1926年(大正15年)1月、兄にその座を譲って再度上京し撮影所に復帰[3]。以来、松竹映画の俳優としての道を歩み出す。しかし当初は大部屋俳優時代がしばらく続き、映画は大半が通行人などの端役での出演であった[1]。月給25円で食べていけるギリギリの額だったという[4]。また、大部屋での生活は10年以上も続いた。

小津安二郎作品の出演 - 名俳優へ

 
晩春』(1949年)左は原節子
 
東京物語』(1953年)。左は原節子

1928年(昭和3年)、小津安二郎監督の『若人の夢』に端役で出演、以降『学生ロマンス 若き日』などサイレント期の小津作品に断続的に出演した(いずれも端役)。1936年(昭和11年)公開の『大学よいとこ』で主演級の役を演じ、同年公開の『一人息子』では、当時32歳ながら初めて老け役を演じた。これが出世作となり、他の監督の作品にも脇役や主要な役で出演するようになった。また、1937年(昭和12年)公開の『仰げば尊し』(斎藤寅次郎監督)で初主演した。

1942年(昭和17年)に公開した小津監督の『父ありき』で主演(小津作品の中では初主演)、7歳年下の佐野周二の父親を演じ、以降小津作品に欠かせない存在となった。戦後の小津作品には全作出演している。『晩春』では原節子の父親を演じ、『宗方姉妹』では4歳下の田中絹代の父親、『東京物語』では1歳しか歳の変わらない杉村春子、5歳下の山村聡らの父親で15歳も年上の東山千栄子と夫婦を演じるなど、老け役として見事な演技を披露した。逆に、『麦秋』では2歳年下の菅井一郎の長男役で出演している。そのほか、『秋刀魚の味』でも岩下志麻の父親を演じた。小津作品の出演によって声価を高めた笠は、日本映画界を代表する俳優となり、小津作品で多く父親役を演じたことから「日本の父親像」を確立したと評された。

小津作品では主演で迎えられ、そのほかの作品では脇役として活躍。

1969年からは山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズに柴又帝釈天の御前様(坪内住職)役で出演したことで知られている。

黒澤明監督作品には3本出演した。

1965年、『たまゆら』の主演でテレビドラマへ進出。

生涯で約90本のドラマに出演し、向田邦子倉本聰山田太一といった名高い脚本家からは指名で出演することも多かった[注釈 1]

1993年3月16日、満88歳で没[5]。墓所は北鎌倉の成福寺。亡くなる数年前からは膀胱癌を患うなど健康を害していたが、最期まで現役をまっとうし存在感を維持し続けた。亡くなる約3か月前に封切られた映画『男はつらいよ 寅次郎の青春』(シリーズ第45作、1992年)が遺作となった。『サラダ記念日』から『青春』までは癌になっていた影響で出演シーンは笠の自宅で撮影しており、出番は少なくなっている。

没後

没後も2000年キネマ旬報による「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の5位に選ばれるなど、根強い人気を誇っている。

没後30年となる2023年には、玉名市歴史博物館で企画展「俳優 笠智衆」が開催された[6]ほか、1月22日にはテレビ熊本の「ドキュメンタリードラマ 郷土の偉人シリーズ」の第30作として、智衆の一生を描いた伝記ドラマ『名優 笠智衆 〜春風のあるがごとし〜』(演:(小日向春平)→小日向文世)が放送された[7]

人物

「明治の男は泣かない」

笠は演技について演出家と対立するようなことはなかったが、自ら泣くシーンを演じることは拒否していた。「明治生まれの男が泣くことはめったにない」というのがその理由である。小津作品でも小津の「言われたとおりに演技をした」笠であるが、『晩春』のラストで笠が林檎の皮を剥いてから慟哭するというシーンに対して「これはできません」と申し出、小津がそれを認めて、うなだれるシーンに変更した。後にこのシーンを「居眠りをしている」と批評した評論家に対して大変憤りを感じたと語っている[8]

泣くシーンとしては1982年のテレビドラマ『ながらえば』[9]で入院している妻に「寂しい」と言って涙を拭うシーンとして登場するが、これは涙を拭う真似をしているだけで、実際には泣いていない。初めて泣くシーンは1983年のテレビドラマ『波の盆』で、日本の敗戦に悔し涙を流し死期の迫った妻の前で号泣する老人の役を演じた。2年後の『冬構え』では、自殺を図るが未遂に終わり旅館で1人泣くシーンの撮影に際しても笠は泣くことを拒否したが、脚本を担当した山田太一の依頼に応じ演じた。後に山田は「美しい」と感動した[10]が、笠自身は違和感を覚えていた[8]

小津に対して

シティロード』1983年1月号でのインタビューは、小津や小津組に対して辛辣な意見を述べている。「小津組では自分じゃ何をやっているのかちっとも分からなかったですけど、小津先生の言われるままに(笑)。他力本願っていうのか、みんな監督のいう通りです。科白の上げ下げから、動きまで全部。僕だけじゃなく、全員そうですから。撮影の前に全員集められて、科白の稽古するんです。ホンに高低を書き込んで、音符みたいに覚えるわけです。その通り言わないとOKにならないから、もう必死で(笑)。総て監督中心でねえ、大道具、小道具からカメラの位置、衣装と、全部監督が決めちゃうんです。俳優も道具としか見てなかったんじゃないですねえ。説明は何もないです。この科白や動きが何のためにあるのか、こっちは分からない(笑)。言われた通りやるしかないです。小津組に慣れない俳優さんがね、『先生、ここはどういう気持ちでしょうか』って尋ねるとね、『気持ちなし』って(笑)。言われた通りやりゃいいんだってことですね。役作りなんてそんなものは無いです。映画の出来がいいのはホンがいいからです。怖いっていうより厳格なんですね。僕と北竜二さんがテストが多くてね、手間くって仕方ないって、言われてました。原節子さん、佐分利信さん、杉村春子さんは殆どいっぱつでOKでしたね。原さんと僕とは、全然交流がないんですよ。彼女はセットでも黙ってましたしねえ。もの言いませんね。仕事が終わったらさっさと帰ってしまいますしね。小津作品の俳優さんはみなセットで別れたら他で逢うこともないです。監督だけのつながりで、横のつながりはなかったです。監督の作品に出演が決まったら、監督が掛け持ちを嫌がりますから、小津作品しか仕事出来ないんです。だから貧乏してました(笑)。でも松竹は蒲田から大船に移る頃なんて、どんな映画でもお客が入りましたからねえ。1館の1週間のあがりで制作費が出たんですから。松竹は濡れ手に粟以上に儲けたんじゃないですかねえ」などと述べている[4]

「日本の父親」から「日本のおじいさん」へ

1990年代に入ってからは『男はつらいよ』の「御前様」の印象から、特に若い女性層から「優しいおじいさん」として人気が高かった。NHKでは笠の亡くなった直後に追悼番組として主演ドラマ『今朝の秋』を放映したが、放映後に笠を悼む感想が多数寄せられた。その中でも多かったものが、笠を自分の祖父のように思い、笠の死が自分の祖父が亡くなったように思えて悲しい、という内容であった。NHKではこれらの感想を中心に構成された番組を放映。笠との共演が多かった杉村春子がナレーションを担当した。杉村自身も手紙の多さに驚き、笠の人気の高さに感動したと述べている。

熊本訛り

笠には出身地である熊本の強い訛りがあった。この訛りは生涯抜くことができず、笠の台詞回しの大きな特徴となっている。デビュー当初は、この訛りが障壁となって、俳優としての出世を遅くさせる結果となった。しかしこの強い訛りが、笠の実直で朴訥とした性格を滲み出し、他の俳優にない独特の個性を引き出すことになった。戦後小津安二郎以外の多くの著名な監督の作品に出演できたのも、この熊本訛りにより表出される実直さや素朴さによるところが大きい。

昭和初期から中期までの映画の世界では、俳優は関東・関西出身でなくても関東・関西の言葉で台詞を話すのが基本となっていた。その中でこのように訛りを個性にした俳優は、他には「シェイ(姓)は丹下、名はシャゼン(左膳)」で知られた福岡県豊前市出身の大河内傳次郎がいる程度で、日本の俳優では稀有な存在であった。

なお、山本夏彦は、『写真コラム』に『笠智衆だいっきらい』という、笠の熊本訛りを批判した一文を記している。このコラムは大きな反響を呼び、抗議の投書が殺到したという。

家族

長男の笠徹は東宝に入社。社員だったが、映画『日本のいちばん長い日』では俳優として智衆と共演した。没後の1994年に『春風想 - 父・笠智衆の思い出』を著した。孫の笠兼三は俳優。

主な受賞歴

出演

映画

 
父ありき』(1942年)。左から倉田勇助、河原侃二
 
『晩春』(1949年)右は原節子
 
東京物語』(1953年)。左から山村聡三宅邦子、原節子、杉村春子東山千栄子

テレビドラマ

テレビCM

文献

著書

関連文献

  • 『俳優 笠智衆』写真集 (撮影 岩切卓士 文 : ヴィム・ベンダース ジム・ジャームッシュ 山田洋次他 :ホワイトスタジオ出版 1992年)
  • 『おじいさん - 笠智衆写真集』(撮影:小沢忠恭、文:小田豊二、朝日新聞社、1993年)
  • 笠徹『春風想 - 父・笠智衆の思い出』(扶桑社、1994年)

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 放映時、83歳だった『今朝の秋』はテレビドラマ最高齢主演だった。
  2. ^ 初クレジット[1]
  3. ^ 公開版はカット。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 東宝特撮映画全史 1983, p. 535, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  2. ^ 1955年増刊「日本映画大鑑・映画人篇」[要文献特定詳細情報]
  3. ^ a b c "俳優 笠智衆メモリアル". 2014年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月27日閲覧
  4. ^ a b c d e 黒田邦雄「追っかけインタビュー 笠智衆 『正月になるとやって来る、ご存知柴又の御前さまの映画人生を小津監督の想い出をからめて語った1時間半』」『シティロード』1983年1月号、エコー企画、14–15頁。 
  5. ^ “笠智衆さんのこと”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 4. (1993年4月9日) 
  6. ^ “企画展「俳優 笠智衆」の開催について|玉名市”. 玉名市 (2022年9月20日). 2023年2月5日閲覧。
  7. ^ "名優 笠智衆〜春風のあるがごとし〜". テレビ熊本. 2023年1月22日. 2023年1月13日時点のオリジナルより。2023年2月11日閲覧
  8. ^ a b 『大船日記』より[]
  9. ^ ドラマ ながらえば - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
  10. ^ 『あるがままに』より[]
  11. ^ "第8回川喜多賞 笠智衆氏". 公益財団法人川喜多記念映画文化財団. 1990年3月22日. 2023年2月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年2月3日閲覧
  12. ^ 東宝特撮映画全史 1983, pp. 536–537, 「主要特撮作品配役リスト」

参考文献

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN (4-924609-00-5)。 

関連項目

外部リンク

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