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真田風雲録

真田風雲録』(さなだふううんろく)は、福田善之戯曲および、その映画化作品である1963年公開の日本映画。本項では主に映画作品について記述する。

真田風雲録
Sasuke And His Comedians
監督 加藤泰
脚本 福田善之
(小野竜之助)
神波史男
原作 福田善之
出演者 中村錦之助
渡辺美佐子
ジェリー藤尾
ミッキー・カーチス
千秋実
佐藤慶
(原田甲子郎)
音楽 林光
主題歌 ジェリー藤尾、ブルーリボン・グループ
『真田隊軍歌』
『あなたなんだかおしえてよ』
撮影 古谷伸
編集 (宮本信太郎)
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 1963年6月2日
上映時間 100分
製作国 日本
言語 日本語
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戯曲は(劇団三期会)などによって1962年に初演された[1]真田十勇士を題材にした、全編にミュージカルレビューのシーン、現代語によるセリフ回しを盛り込んだ異色のアクション時代劇である。シナリオは『福田善之作品集 真田風雲録他』(三一書房、1963年)に収録。同年の第8回岸田戯曲賞の候補作となったが、受賞を逃した[1]

同年のうちに東映京都撮影所によって製作が開始され、翌年公開された。フォーマットは富士フィルムカラー、画面アスペクト比はシネマスコープ(2:35:1)、映倫番号は13145。加藤泰監督、中村錦之助(のちの萬屋錦之介)主演。加藤泰監督作品中でも極北に位置する異色作と評される[2][3][4]

封切り時は興行的に振るわなかったものの、数年を経て、若者の間で自主上映されるなど評判を呼び、熱狂的な人気を得るにいたった(後述)。

封切り時の同時上映作品は『(恋は神代の昔から)』(主演:畠山みどり、監督:伊賀山正光、脚本:宮川一郎・(山村英司)。畠山の同名曲の映画化)。

ストーリー

1600年(慶長5年)。戦乱のために親を失った4人の少年少女(六、清次、伊三、お霧)は浮浪の果てに関ヶ原にたどり着き、そこで敗残兵の十蔵、甚八、そして超能力を持つ少年・佐助と知り合って仲よくなる。佐助は生国の信州で赤ん坊のときに隕石の放射線を浴びたことで不思議な力を授かったと話し、やがて姿を消す。残りの6人は力を合わせて生きていくことに決める。

十数年後。成長した6人は東海道で、南蛮の楽器・ギタルを手に徳川政権批判する歌を弾き語る男・鎌之助と知り合う。鎌之助は「大坂豊臣方が戦のために日本中の浪人を集めている。恩給がたっぷりと出るそうだ」と6人に教える。6人は鎌之助とともに大坂へ向かうことを決める。そんな7人の前に、成長した佐助も姿を現す。

大坂城の兵士受付所では、(百姓)たちが押し寄せ、徴募の対象となっていないことに不満の声を上げていた。佐助ら8人のほとんども百姓身分であったため、城の警護兵たちと小競り合いとなり、やがて佐助を除く7人が逮捕される。城内に縛られた7人と、救出に来た佐助の前に、真田幸村とその側近・小助が現れる。幸村は自身の独立部隊を編成するため、身分を問わず闘志のある若者を求めていた。しかし幸村の態度はどこか醒めていた。城内を抜け出た幸村と9人のもとに、隠密活動中だった幸村のもうひとりの側近・望月が現れ、幸村に、豊臣方の武将は比較的少数に終わる、との旨を報告する。幸村は「この戦いには勝ち目がない。みなが自分の目的のために戦うだけなのだ」と告げる。8人はそれでも指導者・豊臣秀頼の若さや、豊臣方に有力大名がいないことによる政権の平等性に期待して誘いに応じ、「どうせ死ぬならカッコよく死にたい」と歌いながら、幸村の部隊に加わる。

1614年(慶長19年)10月。大坂城は徳川方の各大名に完全に包囲された((大坂冬の陣))。大坂城内は籠城によって徳川方との講和を引き出そうとする(大野道犬)らの派閥と、先制攻撃をかけ、徹底的に進軍を図ろうとする木村重成後藤又兵衛らの派閥に分裂し、議論がまとまらないでいた。幸村は自身の隊による奇襲作戦と、大坂城近辺の防衛との二段構えをとる折衷案を提案し、紛糾は回避されるかに思われたが、道犬の子で議長役の大野修理により幸村案は却下される。幸村は「みな、はじめから戦う気などないのだろう」とつぶやく。

幸村隊は独断での作戦遂行を決める(真田丸の戦い)。佐助の超能力により、大坂城を包囲していた多くの部隊が総崩れとなったが、徳川方忍者部隊隊長の服部半蔵が佐助の前に立ちはだかる。半蔵も佐助同様の超能力者だった。佐助は手傷を負い、なんとか撤退する。初めて自分の超能力が簡単に通じない相手に巡り合った佐助は、半蔵と戦うことに喜びを感じていた。

作戦は一定の効果をあげたものの、会議の決定にそむいた幸村隊には恩給停止という制裁が下され、幸村は城内で強い権力を持つ大野兄弟に冷遇されるようになる。また、又兵衛隊が白昼に前線を正面突破する愚策を遂行したために、徳川方の陣形がかえって強固になり、幸村隊の奇襲作戦は水泡に帰してしまった。その後戦線は膠着状態となり、たびたび和議が開かれるようになる。民衆はこの様子を冷淡にながめ、「八百長」と噂するようになっていた。民衆の不満や兵士の鬱憤は、夜ごとに行われる「心身健康活動的舞踊大会」で晴らすよりほかなかった。ある「舞踊大会」の夜、半蔵は大坂城へ出向き、織田有楽斎に講和の条件として、城の外堀を埋めることを要求する。講和派の有楽斎は即座に条件を飲む。半蔵は講和文書をその場で焼き捨てる。

幸村隊はふたたび無断での奇襲作戦を実行する。講和派の大野修理配下の鉄砲隊があとに続いたが、実は鉄砲隊は主戦派の幸村隊を暗殺する命を受けていた。暗殺部隊と徳川方の挟み撃ちになった幸村隊のうち、六、十蔵、小助が戦死する。お霧も重傷を負い、佐助との子供を流産する。生き残った幸村は、反乱指揮者として重成・又兵衛の部隊に逮捕され、入牢する。修理の企みを知った佐助は大坂城へ向かい、刀を突きつけてテレパシーで修理の心を読むが、修理の心の中から「徳川方と最も戦いたかったのはこの私だ。私はまとめ役だが、民衆が勝手に立ち上がり、事態がまとまらなければどれほどよかったか」と返され、困惑する。

1615年(元和元年[5])春。突如大坂城の内堀が徳川方により埋め立てられ始めた。前年の講和条件では、外堀だけを埋める約束だったが、条件を詳述した講和文書が焼却されたために、堀に関する扱いが口約束になっていて、異議申し立ては不可能だった。当時の窓口だった有楽斎はすでに行方をくらませていた。街を歩く佐助は、大坂の民衆たちの心が徳川方に傾きつつあることをテレパシーで知る。佐助たちは多くの兵士を集めて修理のもとへ出向き、「今度こそ自分たちのための戦をやろう」と訴える。修理は幸村を釈放し、部隊の再編成を認める。

4月になり、戦闘が再開された((大坂夏の陣))。塙団右衛門、後藤又兵衛、木村重成が相次いで戦死し、(天王寺合戦)で幸村隊も、佐助とお霧を残して全滅する。大坂城には火が放たれ、千姫のみ、お霧によって救出される。お霧は戦いの混乱の中で佐助と離れ離れとなり、千姫や、彼女を迎えに来た徳川方の坂崎出羽守とともに江戸へ向かうことを決める。

実は、佐助は姿を消してお霧が旅立つところを見ていた。人の心が読める佐助は、惚れ合ったお霧の心がすべてわかることに疲れ、そんな自分はいずれ嫌われるだろうと恐れ、別れを選んだのだった。半蔵も姿を消してその場にいた。半蔵は佐助に「決着をつけよう。もう俺たちには、ほかにすることがないだろう?」と告げ、刀を抜く。一瞬の間があり、ふたりは倒れる。死んだのは半蔵だった。佐助は立ち上がり、無人の荒野をさまよい歩き始める。

キャスト

[6][7]

スタッフ

[6][7]

  • 監督:加藤泰
  • 原作:福田善之三一書房刊)
  • 脚本:福田善之、(小野竜之助)、神波史男
  • 企画:(小川貴也)、(翁長孝雄)
  • 撮影:古谷伸
  • 照明:(井上義一)
  • 録音:(中山茂二)
  • 美術:(井川徳道)
  • 音楽:林光
  • 振付:関矢幸雄
  • 色彩考証:重達夫
  • 編集:(宮本信太郎)
  • 助監督:鈴木則文
  • 記録:田中美佐江
  • 装置:木津博
  • 装飾:宮川俊夫
  • 美粧:林政信
  • 結髪:桜井文子
  • 衣裳:三上剛
  • 擬斗:(足立伶二郎)
  • 進行主任:(並河正夫)
  • 主題歌:ジェリー藤尾『真田隊軍歌』『あなたなんだかおしえてよ』(作詞:福田善之、作曲:林光)東芝レコード

製作

企画

当初予定された監督だった沢島忠が「企画は主演の中村錦之助(萬屋錦之介)さんで、福田さんの舞台を観に行った錦之介さんが気に入り(親友である)自分とのコンビを想定して会社に企画を提出した」と話している[8]一方で、共同脚本神波史男は「俺が『真田風雲録』の舞台を見て、面白いってわいわい騒ぎだして(本作の(チーフ助監督))鈴木則文と一緒に企画部長に、真田十勇士が活躍する講談話をミュージカル仕立てにしていると上手く話し、企画を通した」と話している[9]

監督

監督に決まった沢島は、神波史男が書いた脚本の初稿を見て「この脚本、もろた![9]」と言った。その後神波は脚本の裏に現代日本の(安保闘争)のモチーフを隠したが、このことで原作者で共同脚本の福田善之が「グズグズ言い出し」、一方沢島も政治的匂いのするものに興味がなく[2]、「脚本も長いので二部構成にしたい」と提案した[9]ことで、やがて福田と沢島が衝突[2]、そのすえに沢島は降板、監督が加藤泰に交代した[8][9]

会社から半ば強引にチーフ助監督に就けられた鈴木則文は「加藤さんという人は、権力に対しては何か言い続けたいというものを持っている人だから監督を引き受けた。ただ、加藤さんだとどうしても重くなってしまうので、沢島さんのように軽快なフットワークでいった方がいい内容になりそうだと思っていた」と話している[9]

撮影

最初は1963年の正月映画を予定していたが、前述の監督交代トラブルで(クランクイン)が遅れた[10]。加藤が監督を引き受けたのが1962年12月半ば[9]。製作主任を引き受けてくれる人物がいなかったが、最終的に並河正夫が引き受け、1963年2月28日にクランクインした[9]。加藤が撮影を「ネバリにネバリ[2]」、1963年5月に入っても撮影を続け、当時のプログラムピクチャーとしては異例の長期間のために撮影現場は大混乱となった[9][2]

試写後、京都撮影所所長・(高橋勇)が「これは左翼の映画だ」「大坂冬の陣をカットせよ」とスタッフに迫ったが、チーフ助監督の鈴木が大詭弁で高橋を言いくるめカットを免れた[9]

作品の評価

興行成績

当時、加藤の監督作は「当たらない」という定評があり[9]、そのとおりに「お客が『分からない』とキョトンとなり」、公開は6日間で打ち切られ[2][10]、東映始まって以来の不入りを記録し興行は大惨敗となった[3][2][11][12]。脚本の神波史男は1972年の『女囚701号/さそり』の大ヒットを生むまで「岡田茂東映社長から顔を会わせる度、『真田風雲録』みたいなもん作りやがって、大赤字や、といわれ続けた」と話している[9][13]

本作で原作の福田善之が中村錦之介と親しくなり、次は自身原作の戯曲『オッペケペ』を「中村嘉葎雄主演でやろう」と言い出した[12]。錦之介の兄・小川三喜雄をプロデューサーに、監督には当時社会派監督として売り出し中の深作欣二が抜擢され、深作は『(誇り高き挑戦)』の次作を予定していた[12]。脚本は本作と同じ、小野竜之助と神波史男だったが[12]、神波は本作がコケていたからやばいな、と思っていたが、ともかく題名が『オッペケペ』では企画は通らないとだろうと『後家殺しオッペケ野郎』の題名で会社に提出したら、やっぱり岡田茂に一発で却下された[12]

評論

公開当時は評論家筋にも一部を除いて無視され、「正に呪われた映画」といわれた[2]。このまま忘れ去られていくかに思われたが、公開から6、7年経ってから、「凄い映画だ、こんな面白い映画は観たことがない」と若者が熱狂し[2]、各地の大学祭や自主上映会で上映され[11]、若者対象の人気映画ランキングに常にランク入りされるようになった[11]

60年安保闘争の前線を担った全学連などに代表される若者たち「抵抗勢力の戦いと挫折[2]」の政治的色彩濃い姿が、形を変えてミュージカル喜劇仕立ての戦国ドラマに投影されていたことに対し、半世代あとの学生たち(全共闘世代)が好奇心や共感を抱いたことが理由であった[11]

井筒和幸は「メチャクチャ面白い。傑作です。今で言えば"インディ・ジョーンズ"です」と評している[10]

映像ソフト

ネット配信

  • YouTubeの「東映 Xstream theater」(現:東映シアターオンライン)で、2021年8月1日から同年同月7日21:00(JST)まで期間限定無料配信が行われた。
  • 同じくYouTubeの「東映時代劇YouTube」から、2023年4月の企画「ミュージカル時代劇特集」の一環として、2023年4月21日21:00から同年同月30日23:59(JST)まで期間限定無料配信が行われている。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 『(真田風雲録)』 - コトバンク
  2. ^ a b c d e f g h i j 冬のつらさを 2008, pp. 89–96.
  3. ^ a b 真田風雲録|映画|WOWOWオンライン
  4. ^ 『真田風雲録』トークショー 第10回京都ヒストリカ国際映画祭
  5. ^ 作中表記ママ。実際の改元は大坂の陣終結後のため、慶長20年。
  6. ^ a b “真田風雲録”. 映画-Movie Walker. 2017年2月7日閲覧。
  7. ^ a b “真田風雲録 : 作品情報”. 映画.com. 2017年2月7日閲覧。
  8. ^ a b 金澤誠「萬屋錦之介 追悼と再発見 沢島正継監督、萬屋錦之介を語る」『キネマ旬報』1997年6月上旬号、キネマ旬報社、111 - 117頁。 
  9. ^ a b c d e f g h i j k 加藤泰映画華 2013, pp. 314–317.
  10. ^ a b c 加藤泰映画華 2013, pp. 200–201.
  11. ^ a b c d 加藤泰の映画世界 1986, pp. 170–175.
  12. ^ a b c d e 荒井晴彦「神波史男インタビュー 『作さんとの五十年を語る』」『映画芸術』2003年 第403号、編集プロダクション映芸、13頁。 
  13. ^ 「神波史男全映画自作を語る」『映画芸術』12月増刊号 『この悔しさに生きてゆくべし ぼうふら脚本家 神波史男の光芒』 編集プロダクション映芸、2012年12月10日発行、pp.322–323、333

参考文献

  • 『加藤泰の映画世界』北冬書房、1986年。 
  • 鈴村たけし『冬のつらさを 加藤泰の世界』ワイズ出版、2008年。ISBN (9784898302262)。 
  • 加藤泰、鈴村たけし『加藤泰映画華 ―抒情と情動―』ワイズ出版〈ワイズ出版映画文庫4〉、2013年。ISBN (9784898302712)。 

外部リンク

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