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田中休愚

田中 休愚(たなか きゅうぐ、寛文2年3月15日1662年5月3日〉- 享保14年12月22日1730年2月9日〉)は江戸時代中期の農政家、経世家である。旧名は窪島 喜六田中 丘隅田中 休愚右衛門田中 喜古(たなか よしひさ)とも名乗り、号は冠帯老人・武陽散民。武蔵国多摩郡平沢村(現在の東京都あきる野市(平沢))出身。大岡越前守忠相に見出され、その下で地方巧者として活躍した。なお、共に大岡支配の役人として活動した蓑正高は休愚の娘婿にあたる。

略歴

平沢村の名主で絹物商を兼業する農家・窪島(くぼじま)八郎左衛門重冬の次男として生まれる[注釈 1]

子供のころから「神童」の誉れが高かった休愚は、兄の祖道とともに八王子の大善寺で学んだ後、絹商人となる。その後、武蔵国橘樹(たちばな)郡小向村(神奈川県川崎市)の田中源左衛門家[注釈 2]で暮らすようになる。これが縁で東海道川崎宿本陣の田中兵庫の養子となり、その家督を継いで[1]宝永元年(1704年)、43歳の時、川崎宿本陣名主と問屋(といや)[注釈 3]を務める[2]。宝永6年(1709年)に関東郡代伊奈忠逵(ただみち)と交渉して、江戸幕府が経営していた多摩川の六郷渡しを、川崎宿が請け負う許可を幕府から得たことで、付近の村の村民が人足に駆り出されることがないようにし、同時に川崎宿の復興と繁栄をもたらす基礎を築く[2]

正徳元年(1711年)、50歳になった休愚は猶子の太郎左衛門に問屋を譲り[2]江戸へ出て荻生徂徠から古文辞学を、(成島道筑)から経書と歴史を学ぶ。享保5年(1720年)、四国33カ所の巡礼から帰宅した後、自分が見聞きしたことや意見等をまとめた農政・民政の意見書『民間省要』全15巻の執筆を開始し[2]、田中丘隅名義で翌6年(1721年)に完成させる。『民間省要』を上呈された師の成島道筑は、当時関東地方御用掛を務めていた大岡忠相を通じて幕閣に献上。時の将軍・徳川吉宗は、大岡と伊奈忠逵を呼んで休愚の人柄を尋ねた後、享保8年(1723年)に休愚を御前に召す。当時62歳になっていた休愚は、将軍からの諮問に答え、農政や水利について自身の意見を述べる。

この一件で休愚は支配勘定並に抜擢され、10人扶持を給され、川方御普請御用に任命されることとなる[2]荒川の水防工事、多摩川の治水、二ヶ領用水大丸用水六郷用水の改修工事、相模国神奈川県酒匂川の浚渫・補修などを行い、下僚として手代3、4名も附属されるようになる。

富士山宝永大噴火の影響で洪水を引き起こしていた酒匂川治水の功績が認められ、支配勘定格に取り立てられて30人扶持を給され[3]、30000石の地の支配を任される。享保14年(1729年)7月19日に代官となり[4]、正式に大岡支配下の役人として、地元の武蔵国多摩郡と埼玉郡のうち3万石を支配する。殖産政策にも携わり、享保14年には、橘樹郡(生麦村)(横浜市鶴見区)からろうそくの原料)の作付状況が報告されたという記録が残されている[5]

享保14年12月22日、江戸浜町(現・中央区日本橋)の役宅で病死。享年68。墓は妙光寺(神奈川県川崎市幸区)と広済寺(東京都秋川市)にある。死後、子の田中休蔵が遺跡を引き継ぐ。なお、休愚の急死は、六郷用水の補修で世田谷の領地を突っ切ったことで、伊奈家から大岡に苦情があったため、切腹したとされる伝説も残っている[6]

『民間省要』の他、『走庭記』『玉川堂稿』『続夢評』『玉匣』『作法書』『治水要法』『冠帯筆記』などの著書がある。大正4年(1915年)、従五位を追贈された[7]

酒匂川補修

相模国の酒匂川は、宝永4年(1707年)の富士山噴火宝永大噴火)の降灰の影響で氾濫を繰り返していた。

かつて休愚は、著書『民間省要』で、「噴火後の被災地復興を命じられた大名は、領民から徴収した大金を投じたがその効果は無く、その金はただ商人の手元にわたっただけで、慈愛の心が民衆へ届かないことが口惜しい」と述べていた。享保8年に酒匂川を巡察した後、同10年(1725年)に酒匂川の浚渫・補修を承る。翌11年(1726年)に酒匂川西岸73カ村は小田原藩領から幕府領となり、復旧に取りかかった休愚は自ら創案した手法で堤防の改修を行った。丈夫な木製の枠に丸石を詰めた弁慶枠や、丸く細長く粗く編んだ竹籠の中に栗石や砕石などを詰めた蛇籠を作って、これを川の流れに沿って並べることで従来のものよりも強固な堤を築いたのである。後に蓑正高も普請事業に加わり、享保12年(1727年)5月に工事は終了。

酒匂川の補修が成功した後、休愚は褒章として受け取った金100両を用いて、同地に夏王朝の始祖・[注釈 4]の碑を建て、普請の顛末を記した[4]。この補修により酒匂川下流の村落は、水害に見舞われることは無くなったという。堤は「丘隅堤」または「文命堤(ぶんめいづつみ)[注釈 5]」と呼ばれ、現代も同地に残されている[注釈 6]

脚注

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注釈

  1. ^ 生家の窪島家は元・武田家の家臣だったが、主家滅亡後に平沢村で農家となった。
  2. ^ 窪島家と同様、武田家の旧臣の家系。
  3. ^ 問屋は、宿駅の公私旅行者に対して、人馬逓送・宿泊などの役務を総理する役人といわれ、宿場運営の全責任を負った[2]
  4. ^ 禹王は、かつて黄河の治水を成し遂げたとされる人物。
  5. ^ 文命は、禹王のこと。
  6. ^ 神奈川県足柄上郡山北町に文命西堤碑、南足柄市に文命東堤碑。

出典

  1. ^ 東京大学社会情報研究所廣井研究室、2003年11月14日
  2. ^ a b c d e f 武部健一 2015, p. 110.
  3. ^ 『撰要類集』。
  4. ^ a b 斎木一馬・高柳光寿 1966, p. 146.
  5. ^ 神崎・福島・大貫・西川 1996, p. 187.
  6. ^ 古川愛哲 2010, p. 144.
  7. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.39

参考文献

  • 安藤優一郎『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』NHK出版〈生活人新書〉、2007年。ISBN (978-4-14-088238-2)。 
  • 大石慎三郎『大岡越前守忠相』岩波新書〈岩波新書〉、1992年。ISBN (4-00-413107-3)。 
  • 大石学『大岡忠相』吉川弘文館〈人物叢書:新装版〉、2006年。ISBN (4-642-05238-0)。 
  • 大石学『吉宗と享保の改革』東京堂出版〈教養の日本史〉、1995年。ISBN (4-490-20427-2)。 
  • 大石学『享保改革の地域政策』吉川弘文館、1996年。ISBN (4-642-03329-7)。 
  • 神崎彰利、福島金治、大貫英明、西川武臣『神奈川県の歴史』山川出版社、1996年。ISBN (4-634-32140-8)。 
  • 国史大辞典編集委員会 編『国史大辞典』 第9巻、吉川弘文館、1988年。ISBN (4-642-00509-9)。 
  • 斎木一馬、高柳光寿『新訂 寛政重修諸家譜』 第二十(新訂版)、続群書類従完成会、1966年。ISBN (4-7971-0224-1)。 
  • 武部健一『道路の日本史』中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。ISBN (978-4-12-102321-6)。 
  • 辻達也『大岡越前守 名奉行の虚像と実像』中央公論社〈中公新書〉、1972年。 
  • 西沢淳男『代官の日常生活 江戸の中間管理職』講談社〈講談社選書メチエ〉、2004年。ISBN (4-06-258314-3)。 
  • 古川愛哲『悪代官は実はヒーローだった江戸の歴史』講談社〈講談社+α新書〉、2010年。ISBN (978-4-06-272690-0)。 

外部リンク

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