» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

武豊

武 豊 (たけ ゆたか、1969年昭和44年)3月15日[1] - )は、日本中央競馬会(JRA)所属の騎手日本騎手クラブ会長(2010年~)。

武 豊
2023年大阪杯
基本情報
国籍 日本
出身地 滋賀県栗太郡栗東町
(現・栗東市
生年月日 (1969-03-15) 1969年3月15日(54歳)
京都府京都市伏見区
身長 170 cm[1]
体重 50 kg[1]
血液型 O型[1]
騎手情報
所属団体 栗東トレーニングセンター[1]
所属厩舎 武田作十郎厩舎(1987年 - 1992年2月29日)
→フリー(1992年3月1日 - )[2]
初免許年 1987年3月1日
免許区分 平地[3]
重賞勝利 481勝(中央353勝、地方115勝、海外13勝)
G1級勝利 122勝(中央80勝、地方33勝、海外9勝)
通算勝利 24070戦4425勝(中央)
896戦201勝(地方)
(テンプレートを表示)

デビューの年に新人最多勝記録(当時)を更新し2年目の菊花賞でGIを制覇。3年目で全国リーディングを獲得。その後も活躍を続けJRA全国リーディングジョッキーは18回獲得(歴代最多)し[4]騎手大賞は9回獲得(歴代最多)[4]。通算GI勝利数は地方、海外含めて100勝以上を記録(歴代最多)[5]。その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録[4]、および歴代最多騎乗数記録[6]東京優駿最多の6勝を挙げるなど数々のJRA記録を更新、保持し「日本競馬界のレジェンド」と称されているほどの[7]日本を代表する騎手である[8]

来歴

祖先は薩摩国出身の武家であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる[9]。祖父芳彦は馬主協会元会長[9]。父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である[10]。妻は元タレントの佐野量子[11]。小中学校時代の同級生に調教師の池江泰寿がいる[12]

少年時代

1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた[13]。翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した[注 1][13]。住まいのそばに厩舎があるため、厩舎にいる馬にニンジンを与えてから出かけるのが武の日課になっていた[注 2][15]。物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという[15]1975年栗東町立金勝小学校に入学[13]。このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた[16]。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており[13]、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた[17]。小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた[13]。当時指導員だった(竹之下満義)は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」[13]1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業[13]。そして(栗東中学校)に入学し、中学生になっても相変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた[13]1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学[13]。同期には蛯名正義塩村克己芹沢純一などがいる[18]。当時教官だった(荻野忠二)、(真家眞)らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している[注 3][15]。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという[13]。またアメリカの競馬雑誌、ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度もリピートしたりと[15]、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた[19]。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った[15]。武は実技はもちろん(馬学)などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した[13]

騎手時代

新人最多勝記録を更新する

1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業[2]。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす[20]。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった[21]。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗[20][1]。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利[1]。9月12日、(ケイアモール)で42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した[21]。10月11日、京都大賞典トウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす[21]。11月14日、(リードトライデント)で59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した[21]。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した[21]

競馬ブームの主役へ

1988年(昭和63年)菊花賞スーパークリークに騎乗[1]。最後の直線入口で、以前自身が騎乗経験のあるカツトクシンに前を塞がれていたが、カツトクシンが外に膨れる癖を知っていた武は慌てず、内が開くまで動かずに待機[22]。思惑通り開けた内を通り、最後は2着に5馬身突き放して勝利[23]。GI競走初勝利を飾り、19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した[注 4][22]。そしてこの冷静で頭脳的な騎乗を周囲から絶賛され[23]「天才」として脚光を浴びるようになった[25]。さらに武はこの年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングを獲得[26]。競馬サークルの内外に強烈なインパクトを与えた[22]

1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグライナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得[11]。 武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった[27]。武はデビュー当時、競馬関係者や競馬ファンから「タケクニさんの息子」と認識されていたが、このころには父である邦彦が競馬ファンから「タケパパ」と呼ばれるようになり、認識度の上ではすでに父を逆転していた[27]。折しも日本はバブル景気による空前の好景気であり、その波に乗って日本中央競馬会がCI戦略を含む一連のキャンペーンを成功させたことなどにより、日本に(第二次競馬ブーム)が巻き起こり[28]、同時期に頭角を現した武はこの競馬ブームの主役となった[29]

1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念有馬記念を制した[30][11]。とりわけすでに「燃え尽きた怪物」と言われていたオグリキャップを、引退レースで復活勝利に導いた有馬記念は「奇跡のラストラン」として語り継がれるレースとなった[31]。武とオグリキャップの活躍により、日本中央競馬会の売上げは爆発的に伸び、競馬ブームの盛り上がりはピークに達した[32]。武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった[32]

競馬界の主役へ

武は競馬関係以外のメディアから脚光を浴びるようになると、時間の許す限り各方面のメディアの取材に積極的に応じていった[25]。その理由について武は、「競馬サークルが世間一般から偏見の目[注 5]で見られているのを子供の時から感じていたんです。競馬サークル外に自分が積極的に出ることで、こうした偏見を無くしたいと思ったんです」と語っている[25]。武はこうした競馬界そのものを変革したいという意思を持って競馬サークルの外へ積極的に飛び出していき、若い女性を中心とした競馬を知らなかった層の目を引き付け、競馬に付きまとっていた暗い賭博のイメージを明るいスポーツのイメージに変革させることに貢献し、競馬界の主役的役割を担うようになっていった[25]

武は競馬界における自分の立場、自分の使命について、「競馬の世界では自分が発信力のある立場であることは感じている。例え自分が気が進まなくても、『武豊』が競馬界のためにやらなければならないと思うからこそやることもある。『武豊』というキャラクター的な存在を感じている部分はある」と、自分が発信力のある立場であることを自覚しつつ、自分とは別に『武豊』というキャラクターの存在を意識して行動することを心掛けているという[12]

武が競馬界の顔として競馬サークルの外で仕事をこなし続ける一方[33]、本業の記録においても史上初・史上最年少・史上最速の名がついた数々の金字塔を打ち立てていき[1]、1989年から2008年までの20年間で合計18回リーディングジョッキーを獲得[11]。2007年にはJRA通算2944勝に到達。岡部幸雄が保持していたJRA最多勝記録を更新し[11]、名実ともに日本競馬界の第一人者となった[4]。(主な達成記録については#記録年表を参照のこと)

ダービージョッキーとして

競馬の祭典と呼称され、全てのホースマンの夢舞台といわれる東京優駿(日本ダービー)[34][注 6]。 武はその日本ダービーについて、「子供のころ、騎手になりたいと思って将来の自分を思い描いた時、浮かんでくるのは日本ダービーを勝つ姿であった」と述べており、子供のころからダービージョッキーに憧れを抱いていた[35]。そんな武の初めての日本ダービー騎乗はデビュー2年目の1988年(昭和63年)、(コスモアンバー)に騎乗し16着[36]。武本人曰く、「何もできずに終わった」日本ダービー初騎乗であった[36]。以後、1989年に(タニノジュリアス)(10着)、1990年にハクタイセイ(5着)、1991年に(シンホリスキー)(19着)、1993年にナリタタイシン(3着)、1994年にフジノマッケンオー(4着)、1995年に(オースミベスト)(8着)、1996年にダンスインザダーク(2着)、1997年にランニングゲイル(5着)[36]。計9回の挑戦を繰り返すも勝利することはできなかった[36]。武はすでに日本ダービー以外の八大競走をすべて勝利しており[37]、日本ダービーのみ勝利を逃し続けるうちにいつしか競馬サークルでは、「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスが囁かれるようになっていた[38]。武自身は感情に流されずコントロールするのもプロフェッショナルとして必要な素養であると考えていたため[36]、マスコミの取材で日本ダービーへの思いについて聞かれた時には、「日本ダービーは特別なレースじゃない」、「他のGIと価値は一緒」、「いつか獲れると思うから焦っていない」、というように努めて冷静に受け答えしていた[39]。しかしこれらは表向きのコメントであり、本心では次のように思っていたと語っている[39]

「自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、ダービージョッキーの称号が欲しくて欲しくてたまらなかった」[36]

そして1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。10度目の挑戦でついに悲願を達成した[38][注 7]。武は事前に、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と考えていたが[40]、実際の勝利時は体中から湧き上がってくる喜びを抑えきれず[40]、武自身が後にビデオで見た時に恥ずかしくなるほど夢中で何度もガッツポーズを繰り返していた[36]。17万人の観衆によって埋め尽くされた東京競馬場では「ユタカ」コールが沸き起こり、武はこの瞬間を「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」と振り返っている[36]

翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成(当時のダービー最多勝利タイ記録・11人目となる2勝ジョッキー[41]でもあった)[42]。そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった[43]。その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利[1]。2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録を「5」に更新した[1]。なお競走馬の親子2代日本ダービー制覇は数組あるが、その中で同一騎手が親子それぞれの馬に騎乗して日本ダービーを優勝したのは武のみである[44]。また2022年にはドウデュースで勝利を収め,日本ダービー最多勝利記録を「6」に更新した。

武は日本ダービー制覇への思いについて以下のように語っている。

積み重ねてきた経験と何度も噛みしめた苦い思い、そして、何よりも、自分の手で掴み取ろうとする強固な意志があってはじめて、辿り着ける最高の場所です。 — 武豊、勝負師の極意 p.183より引用

海外での騎乗

武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している[45]

武の海外初騎乗はデビュー3年目の1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである[45]。同年9月2日、アーリントンパーク競馬場で(グランマジー)に騎乗し勝利。海外デビュー2戦目で海外初勝利を挙げた[19]。以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカフランスオーストラリアドイツイギリスUAE香港韓国サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている[46][47]

1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3(セネカハンデキャップ)でエルセニョールの手綱を取ることになり[48]、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞競走に騎乗することが決定した[48]。しかし当時はまだ日本の競馬が世界水準の評価を得ていなかった時代であり、アメリカの競馬専門紙には「22歳の日本人がトリッキーなサラトガを乗りこなせると思っているのか」などと[48]、競馬後進国の若輩者に対する批判的な記事が多く掲載され、「もしユタカ・タケが勝ったら私は裸踊りをする」と書いたハンデキャッパーすらいた[48]。さらに管理調教師である(ウィリアムズ・ライト)ですら、メディアに対して武のことを「ビギナー」と侮辱的な言葉を発した[48]。そして武自身もサラトガ競馬場の芝コースは騎乗経験が無く[48]、さらにライトは、武にエルセニョールの調教に乗る機会を与えなかったため、ぶっつけ本番で挑むこととなった[49]。そんなマイナス材料が多く揃った中、迎えた本番ではライトが「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した[48]。武は勝利後、現地の騎手達に馬上から祝福の握手を求められ、一生の思い出になったという[50]

1992年9月、セクレタリアトステークスで(ワールドクラススプラッシュ)に騎乗し、海外G1初騎乗を果たす[51]

1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、、凱旋門賞ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗[52]。同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した[1]

2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した[53][注 8]。アメリカ西海岸を選択した理由について、「世界を代表するトップジョッキーが集うアメリカ西海岸の競馬で自分の腕を試してみたかった」と語っている[55]。同月のハリウッドパーク開催から本格参戦し、夏のデルマー開催では人気薄の馬で勝利を重ね、当地のメディアに「穴ジョッキー」と紹介されるようになり、存在感を示した[56]。しかし、11月のハリウッドパーク開催では騎乗数が激減[56]。1日1鞍を確保するのがやっとであり、騎乗馬を確保するために厩舎を挨拶回りする毎日であった[55]。結局このアメリカ長期滞在は最後まで満足な結果を得ることなく終了した[55]。しかし武はアメリカ長期滞在を決断したことについて、「ほんの1ミリも後悔していません。悔しさとか、もどかしさとか、勝てない、乗れないというジレンマも含めてすべてがいい経験です」と前向きにとらえている[55]

2001年1月、フランスの調教師(ジョン・ハモンド (競馬))(英語版)から「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾[57]。フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した[57]。同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3の(グロット賞)(英語版)を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した[58]。10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞に(インペリアルビューティー)で勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。同じ日の凱旋門賞では(サガシティ)に騎乗し、3着に入る健闘を見せた[59]。武は「2001年のフランス滞在で最も印象に残ったレースは?」と質問されたら迷うことなくこの凱旋門賞と答えるという[60]。フランス長期滞在中、落馬骨折による1か月半のブランクがあったが、最終的にはフランスでG1勝ちを含む35勝を挙げ、武本人曰く「まずまずの成績」を残した[61]。翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている[46]

2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した[11]

武は自身の様々な海外での騎乗経験を踏まえ、若い騎手達の海外への積極的な挑戦に期待を寄せ、次のようなメッセージを送っている。「海外で騎乗するチャンスがあるなら日本で経験を積んでからなんて考えずにどんどん挑戦した方がいい。長く日本を留守にして騎乗馬がいなくなることを恐れていたら何もできない。チャレンジする騎手が登場するのを楽しみに待っています」[45]

落馬事故と成績低迷(2010年 - 2012年)

2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯で(ザタイキ)に騎乗[62]。最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症(左中手骨開放骨折=予後不良)し転倒[62]。武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した[62]。この落馬事故により、武は左鎖骨(遠位端骨折)、(腰椎横突起骨折)、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された[62]。特に左鎖骨遠位端骨折の症状が重く、鎖骨を骨折したというより肩関節が破壊されたような負傷であった[62]。3月30日、左肩にプレートを入れる手術を受け、4月2日には退院してすぐに歩けるようにはなった[62]。しかし左肩は全く動かすことができず、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった[62]。武は当初、5月に復帰する青写真を描いていたが、5月1日の時点でまだ左肩の可動域が極度に小さく、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りねばならない状態であり、さらには医師からリハビリの許可も出ていなかった[62][63]ゴールデンウィーク明けにようやくリハビリの許可が下り、日本ダービー前の復帰を目指し、左肩の可動域を広げるためのリハビリを続けたがすぐには症状は好転せず、5月16日、ヴィクトワールピサでの日本ダービーの騎乗を断念し、リハビリに専念することを発表した[62]。武は馬に乗れないと何もすることがなく、「俺は競馬で乗ることしかできない人間なんだな」と改めて痛感させられたという[62]。6月中旬、左肩のプレートを除去する手術を受け、リハビリのピッチが上がった[62]。7月に入ると左肩の可動域が広がり、回復の兆しを見せた[62]。7月22日、栗東トレセンで約4か月ぶりに馬に騎乗[62]。小学校5年生の時に乗馬を始めてからこれほど長い間馬に乗らなかったのは初めてだったという[62]。8月1日、小倉競馬場で127日ぶりに実戦復帰した[62]。復帰後初めてパドックに姿を現すと、復帰を待ち望んでいたファンから拍手と歓声が沸き起こった[62]。しかし後に武は、「あの時はまだ左肩の状況が悪く、誤魔化しながら乗っていたところがあったかもしれません」と、怪我を抱えたまま無理して復帰したことを告白している[12]。その影響からか、復帰後は思うように勝てない日々が続き[64]、2010年は年間69勝[11]。2011年はデビュー以来最低の年間64勝[11]。2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった[11]。武はこの時期の成績低迷について、「年間200勝していたのが数年後に年間50勝になるのは正直きつかった。『武豊』でも結果が出ないとこういう状況になる。シビアな世界だからしょうがないんですが、2011年、2012年あたりは競馬が楽しくなかった気がします」と当時の苦しかった心境を回顧している[12]。しかしその苦境の真っ只中にいながらも、「『武豊』の真価が今問われているんだぞ」と自分を叱咤激励し続けていたという[12][65]

苦境からのダービー制覇、そして通算4000勝達成(2013年 - 2018年)

2013年3月、キズナで毎日杯を勝利[66]。武はこの勝利により、3年前の同レースで落馬した時から抱いていた嫌なイメージを払拭し、吹っ切れたという[66]。同馬は次の京都新聞杯も勝利し、日本ダービーの有力候補となった[66]。そして迎えた5月26日の第80回日本ダービーでは、1番人気に応えてキズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した[66]。14万人近いファンの「ユタカコール」につつまれて勝利騎手インタビューでスタンド前に立った武に対し、多くのファンから「お帰り」の声がかけられた[66]。武はその声に「僕は帰ってきました!」と力強く応えた[66]。この言葉は事前に用意していた言葉ではなく、ファンの「お帰り」の声が胸に響いて自ずから出た言葉だったという[66]。武は苦境の中で掴んだこの5度目の日本ダービー勝利について、「キズナで日本ダービーを勝てたことは僕のジョッキー生活において分岐点となっています。それぐらい大きい勝利でした」と後に語っている[66][67]。武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した[68][69]。2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成[11]。2016年と2017年はキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導くなど大舞台で存在感を示した[70][71]。2018年9月29日、阪神競馬場で行われた芦屋川特別で(メイショウカズヒメ)に騎乗して勝利し、JRA通算21235回目の騎乗で前人未踏のJRA通算4000勝を達成した[4]。次なる目標を問われた武は、「明日のレースです。早く4001勝をしたいです」と笑顔で答えた[72]

50代に突入、そして史上最多6度目のダービー制覇(2019年 - 現在)

2019年3月15日、50歳の誕生日を迎え、50代に突入[73]。10月20日、ワールドプレミアで菊花賞を勝利し、50歳7カ月6日での史上最年長菊花賞制覇を達成[74]。史上最年少と史上最年長で菊花賞を勝利した騎手となった[74]。また、この勝利で、昭和平成令和の3元号に跨いでGI競走を優勝した史上初の騎手となる[注 9]。11月23日、4年ぶり通算22度目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目の記録となった[75]。11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が保持していた50代騎手の年間最多勝記録を更新[76]。最終的に年間111勝まで記録を伸ばし、騎手リーディング3位に入る活躍を見せた[77][68]。2020年11月15日、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成[78]。12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が記録した50代での年間最多勝記録を更新[79]。最終的には直近10年で最多の勝ち数となる115勝まで記録を伸ばした[80]

2021年3月20日、阪神競馬10Rでソウルトレインに騎乗していた際、ゲート内で馬が暴れて右足を負傷。右足部靭帯損傷と診断され、翌21日に騎乗予定だった全6鞍は、乗り替わりとなった[81]。同月22日、自身のサイトで右足甲を骨折したことを明らかにした[82]他、同日京都市内の病院で精密検査を行ったところ、右第2、第3、第4中足骨骨折が判明した。これにより、高松宮記念のレシステンシアは浜中俊、大阪杯アドマイヤビルゴは岩田望来、桜花賞メイケイエール横山典弘皐月賞ディープモンスターは、戸崎圭太騎手に乗り替わりとなった[83]。 同年12月19日、朝日杯フューチュリティステークスドウデュースで制し、JRA・GI完全制覇に王手をかけた(残るはホープフルステークスのみ、ホープフルステークスは前身のラジオNIKKEI杯2歳ステークス(G III)の頃に勝利したことがあり、また同名のオープン特別(既に廃止)でも勝利したことがある)。

2022年5月29日、東京優駿ドウデュースで制し自身の所有していた日本ダービー最多記録を「6」に更新した。同レースでドウデュースの走破タイムは2:21.9のダービーレコードでの勝利になる。 今回の勝利をもって20代、30代、40代、50代の4代に渡って日本ダービーを勝利した事になる。53歳2か月15日での日本ダービー勝利はそれまでの増沢末夫の48歳7か月6日を塗り替えて史上最年長記録である[84]

2023年2月4日、小倉1Rの3歳未勝利戦をスマートアイで制し前人未到のJRA通算4400勝を達成。この日は福永祐一の現役騎手として最後の小倉競馬場での騎乗日であった。

同年4月2日(54歳0ヶ月19日)にはジャックドールで大阪杯を制覇。これにより岡部の持っていた最年長GI勝利記録(53歳11ヶ月28日)を更新した。

エピソード・逸話

競馬に関して

  • 子供のころの憧れの騎手は福永洋一であった[12]。洋一と邦彦に多年の親交があった事、また福永家と武家は家が斜向かい[85]であった事もあり、毎年正月には洋一から多額のお年玉をもらっていた事も語っている。
  • 20歳の時、自身が初めてアメリカに遠征した時、朝の調教で最初に騎乗したのが、1990年のケンタッキーダービー馬のアンブライドルドだった。初めて跨った時には「古馬かと思った」と語っており、調教後スタッフに「この馬は何勝しているのか」と聞いたところ「まだデビュー前だ」と言われて驚いたという。
  • 天皇賞は春秋合わせて前人未到の通算14勝を挙げており、春が8勝秋が6勝である[38]。天皇賞(春)では1989年から1992年までの4連覇を達成し『平成の盾男』と呼ばれている[38]
  • デビュー戦で騎乗したアグネスディクターは本来前開催で出走させるローテーションであったが、師であった武田作十郎が武のデビュー戦に合わせ出走させたという。コースを回ってくるだけで勝てる程に馬体は仕上がっていたが、4コーナーで少しインへ切り込んだと同時に後方で南井克巳が落馬し審議ランプが点灯した。武はそれに動揺して馬体をアウトへ膨らませてしまい、追い出すタイミングが微妙に遅れ、勝利を逃した。レース後に南井の落馬は武のコース取りとは関係無いと判明したが、武は一生に一度しか存在しない「初騎乗初勝利」を逃した事が心残りであると悔やみ、もしもやり直しが出来るレースがあればこのデビュー戦が間違いなくやり直したいレースの一つであると語っている[20]
  • とあるレースにおいてラチ沿いに蛇がいるのを見つけ、レース後他の騎手へ確認するも誰も蛇に気づかず、レースリプレイで確認したところ本当に蛇がいた。
  • 1998年、サイレンススズカに騎乗して臨んだ第118回天皇賞(秋)で、レース中に故障したサイレンススズカを安楽死で喪った。レース後の落胆ぶりは相当なもので、普段から酒に酔わないことで知られていた武はこの日、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武本人も後に「泥酔したの、あの時が生まれて初めて」と振り返っており、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も当時について「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言しているほどだった。サイレンススズカは武に強烈な印象を残した馬の一頭であると言え、後年インタビューにて「ディープインパクトに騎乗した武豊に挑むとしたら?」との問いに「サイレンススズカで挑む」と答えたという。
  • 2011年にJRAでのGI連続勝利記録は途絶えてしまうがスマートファルコンで地方GI制覇は達成していた。しかし2018年、JRAでも地方でもGI勝利を挙げることは叶わず、ついにGI連続勝利記録がストップすることとなった。2020年もGI未勝利に終わっている。
  • 2019年ダービー前のインタビューで一番好きな馬はシンボリルドルフで大ファンだったと明かしている。ルドルフの三冠レースは全部生で見ており、引退式も中山競馬場で観戦した。また、岡部が一冠、二冠、三冠と指を立てていくポーズはいつか自分もやりたいと憧れていたという(後年、ディープインパクトで実現)。余談としてルドルフ三冠時の岡部の年齢が36歳で自身のディープでの三冠も36歳であったことも語っている[86]
  • 2019年7月30日に逝去したディープインパクトへ向けて、「ジョッキーを続けていくのがディープインパクトへの恩返し。あと10年は引退しません[87]」と語っている。
  • 2020年1月自身のコラムの中で「心が震えたのは、ともに時代を駆け抜けた最大の友・ディープインパクトの死です。日本の競馬史上、最強馬と呼べる馬は、何頭かいると思いますが、僕にとっては、ディープインパクトが最大で最強、最速の名馬でした」と自身の思う最強馬について触れている[88]。また10月にはドラえもんひみつ道具を1つもらえるなら「“タイムマシン”です。 (中略) 使うのは未来ではなく過去。それも、一度だけでいい。 (中略) 2006年10月1日。ディープインパクトが出走した、凱旋門賞の日付です。 (中略) なぜ、勝たせてあげられなかったのか――今でも夢で見るほど、悔しさだけが残っています」と語っている[89]。同馬については他にも「僕はずっとこういう馬を探していた気がする。すごくシンプルに、走るのが速い馬。スピードがあるとか持久力があるとか、全てを通り越して、圧倒的に足の速い馬が現れるのを待っていた。」「強くて、速くて、かっこいい。どんな距離でも、どんな条件でも、どんな状況になっても勝ち切る。こんな馬が本当にいたらいいのになぁ。彼は、そんな思いを体現して僕の前に現れたヒーローでした[90]。」「キズナの日本ダービー勝利は、結果が出せず苦しんでいた僕へのディープインパクトからのプレゼントだと感じた」「ディープインパクト、キズナ、その孫の三代で日本ダービーを制す事、ディープインパクト産駒で凱旋門賞を勝利する事は夢」とも語っている[91]。同馬が種牡馬生活をスタートさせると「普段乗っていた馬には会いに行かないがディープインパクトは毎年夏に会いに行っていた[92]」とその後の交流にも触れた。2006年 第51回有馬記念ラストラン後は「僕は今でも世界一強い馬だと信じています。だってディープの一番のファンは僕ですから」「一言で言い表すのは難しいですが、本当に特別な馬でした」と想いを語り、ディープインパクトに何度もキスをするという彼自身の公の場に於いては非常に珍しい光景も観られた。
  • 騎乗時に装着するジョッキーブーツは荒川靴店のもの[93]。父・邦彦も荒川靴店が製作したブーツを使用しており、親子2代の付き合いとなる。

その他

成績

記録年表

※なおこの年表には騎乗成績以外の事柄も記述していく。

1987年
3月7日、1回阪神3日第3競走のダイナビショップで初勝利を挙げる[1]
11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新[21]
この年最終的に69勝まで記録を伸ばし、最多勝利新人騎手を受賞した[26]。この新人最多勝記録は2008年三浦皇成が更新するまで21年間保持された[112]
1988年
4月16日、史上最年少(19歳1ヶ月)でJRA通算100勝達成[26]。 (史上最速記録は2009年2月7日に三浦皇成が更新) [113]
11月6日菊花賞スーパークリークで勝利し初のGI競走勝利を飾る[1]。史上最年少(19歳8か月)のクラシック制覇達成であった[26]
この年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングジョッキーとなる[26][114]
1989年
3月4日、史上最速・最年少 (19歳11か月) でJRA通算200勝達成[26]
4月29日、イナリワンで天皇賞春を勝利し、天皇賞春、初騎乗初勝利を達成[115]
10月29日、スーパークリークでオグリキャップを負かし、天皇賞秋を制覇[115][116]
11月25日、史上最速・最年少 (20歳8か月) でJRA通算300勝達成[26]
この年133勝を挙げ、初のJRA全国リーディングジョッキー(最多勝利騎手)を獲得し、さらに最多賞金獲得騎手も受賞した[26][114]
1990年
4月29日、スーパークリークで天皇賞春を制覇し、自身天皇賞3連覇(天皇賞春は2連覇)を成し遂げ、「平成の盾男」と呼称されるようになる[116]
5月13日、オグリキャップに初騎乗し、安田記念を制する[11]
8月5日、史上最速・最年少 (21歳5か月) でJRA通算400勝達成[26]
12月16日、父である武邦彦調教師の管理馬バンブーメモリーに騎乗し、スプリンターズステークスを制覇。武親子コンビでGI制覇を達成[11]
12月23日、オグリキャップに騎乗し、有馬記念を制覇。同馬のラストランを勝利に導く[1]
この年116勝を挙げ、2年連続2度目のリーディングジョッキーを獲得[26][114]
1991年
4月28日メジロマックイーンに騎乗して天皇賞春を3連覇。メジロ関係者悲願の天皇賞親子3代制覇に導いた[115]
7月21日、史上最速・最年少 (22歳4か月) でJRA通算500勝達成[26]
8月22日アメリカサラトガ競馬場のセネカハンデキャップ (G3) でEl Senor (エルセニョール) に騎乗し、初めての海外グレード競走(およびグループ競走)制覇を達成[1]
10月27日、天皇賞秋でメジロマックイーンに騎乗し、1位入線するも進路妨害の判定で18着に降着[115]
この年天皇賞秋で降着後にスランプに陥り、デビュー以来最悪の42連敗を喫した(12月は0勝)[115]。最終的な勝ち鞍は96にとどまり、リーディングジョッキーの座を岡部幸雄に明け渡した[117]
1992年
3月1日、所属していた武田作十郎厩舎の解散に伴い、フリー騎手となる[11]
4月26日、天皇賞春でメジロマックイーンに騎乗し、「天下分け目の決戦」と言われたトウカイテイオーとの対決を制し、天皇賞春4連覇を達成[118]
8月29日、史上最速・最年少 (23歳9か月) でJRA通算600勝達成[119]
この年130勝を挙げ、3度目のリーディングジョッキーに返り咲いた[118]
1993年
4月17日、史上最速・最年少 (24歳1か月) でJRA通算700勝達成[119]
この年桜花賞、皐月賞、優駿牝馬と春のクラシックを3連勝するなどクラシック戦線で存在感を見せつけた[118]。最終的に137勝を挙げ、2年連続4度目のリーディングジョッキーを獲得[115]。さらに自身初の(フェアプレー賞)を受賞した[115]
1994年
1月6日、史上最速・最年少 (24歳10か月) でJRA通算800勝達成[119]
7月23日アスコット競馬場イギリス)で開催されたにホワイトマズルで初騎乗し、2着となる[115]
9月4日ロンシャン競馬場フランス)で開催されたムーラン・ド・ロンシャン賞スキーパラダイスに騎乗し、JRA所属の騎手としては初めての海外G1競走勝利を達成する[1]
9月11日ツルマルガール朝日チャレンジカップを勝ち、史上最速・最年少 (25歳5か月) でJRA通算900勝達成[119]
この年海外遠征で日本を留守にすることも多かったが、134勝を挙げ、3年連続5度目のリーディングジョッキーを獲得した[120]。また、この年初めて勝率で岡部幸雄を上回り、自身初の最高勝率騎手を受賞したが、獲得賞金では岡部幸雄を下回り、騎手大賞(勝利数、勝率、獲得賞金3部門で全て1位)受賞はならなかった[121]
1995年
5月6日スキーキャプテンで日本人騎手として初めてケンタッキーダービーに参戦(結果は14着)[115][122]
5月14日、外国馬ハートレイクで安田記念を勝利。自身初の外国馬によるJRAGI制覇を達成[115]
7月23日、史上最速・最年少 (26歳4か月) でJRA通算1000勝を達成[1]
この年前年と同じく134勝を挙げ、4年連続6度目のリーディングジョッキーを獲得した[123]
1996年
4月13日、史上最速・最年少 (27歳1か月) でJRA通算1100勝達成[119]
11月3日、菊花賞をダンスインザダークで勝利。年間重賞勝利数が15となり、河内洋が保持していた年間重賞最多勝記録を更新[124]
11月9日、史上最速・最年少 (27歳7か月) でJRA通算1200勝達成[119]
この年159勝を挙げ、岡部幸雄が保持していた年間最多勝記録(138勝)を更新。5年連続7度目のリーディングジョッキーを獲得[11]
1997年
6月28日、史上最速・最年少 (28歳3か月) でJRA通算1300勝達成[42]
7月20日、ダンディコマンドで北九州記念を優勝し、史上最速・最年少 (28歳4か月) でJRA重賞通算100勝達成[42]
7月27日アグネスワールド函館3歳ステークスを優勝し、史上2人目の中央競馬全10場重賞制覇達成[42]
この年168勝を挙げ、自身が前年に樹立した年間最多勝記録を更新[114]。6年連続8度目のリーディングジョッキーを獲得[114]。さらに勝利数、勝率、獲得賞金の3部門全てで1位となり、自身初の騎手大賞を受賞した[42]
1998年
1月24日、史上最速・最年少 (28歳10か月) でJRA通算1400勝達成[42]
6月7日スペシャルウィーク東京優駿 (日本ダービー) を優勝[42]。自身初の東京優駿制覇を果たすとともに、保田隆芳に続き史上2人目となる八大競走完全制覇達成[42]
8月9日ドーヴィル競馬場フランス)で開催されたモーリス・ド・ギース賞シーキングザパールに騎乗し優勝。同馬を日本調教馬初の海外G1制覇に導く[42]
8月23日、史上最速・最年少 (29歳5か月) でJRA通算1500勝達成[42]
この年169勝を挙げ、自身の年間最多勝記録をさらに更新[125]。7年連続9度目のリーディングジョッキーを獲得し、2年連続2度目の騎手大賞を受賞[125]。また自身が保持していた年間最多重賞勝利記録を22に更新した[125]
1999年
3月28日、史上最速・最年少 (30歳1か月) でJRA通算1600勝達成[42]
6月6日アドマイヤベガ東京優駿 (日本ダービー) を優勝し、史上初となる日本ダービー連覇達成[42]
10月30日、史上最速・最年少 (30歳7か月) でJRA通算1700勝達成[42]
この年自身の最多勝記録をさらに更新する178勝を挙げ、8年連続10度目のリーディングジョッキーの座につき、3年連続3度目の騎手大賞を受賞[126]
2000年
4月23日、史上最速・最年少 (31歳1か月) でJRA通算1800勝達成[42]
この年騎乗拠点をアメリカに移しながらも日本でも精力的に騎乗し[1]、年間130勝を挙げ[114]、9年連続11度目のリーディングジョッキーを獲得[42]。4年連続4度目の騎手大賞を受賞した[42]
2001年
11月3日、史上最速・最年少 (32歳7か月) でJRA通算1900勝達成[42]
12月16日香港ヴァーズステイゴールドで優勝し、日本産馬で日本調教馬として初の海外G1制覇に導く[127]
この年3月から9月まで騎乗拠点をフランスに移していたため、国内での騎乗数355鞍、年間勝利数65勝にとどまり[114]、リーディングジョッキー獲得はならなかった[11]
2002年
2月23日、阪神競馬第9競走で史上最速・最年少で通算1万回騎乗達成[11]
5月26日タニノギムレットで東京優駿 (日本ダービー) を優勝[128]し、史上初となる東京優駿 (日本ダービー) 3勝目を挙げる[43]
9月21日、史上最速・最年少 (33歳6か月) でのJRA通算2000勝達成[43]
12月7日、阪神競馬場でJRA新記録(世界タイ記録)となる1日8勝を達成[1]
この年騎乗拠点の半分をフランスに置き[1]、さらに落馬骨折によるブランクがあったため、国内での騎乗数は457鞍にとどまったが、年間133勝(勝率は自己最高の2割9分1厘を記録)[129]を挙げ、12度目のリーディングジョッキーを獲得し、5度目の騎手大賞を受賞した[129][42]
2003年
3月2日、史上最速・最年少 (33歳11か月) でJRA通算2100勝を達成[43]
9月14日、史上最速・最年少 (34歳5か月) でJRA通算2200勝を達成[43]
12月27日、当時「不可能」とも「夢」とも言われていたJRA史上初となる年間200勝を達成[130][1]
この年日本に騎乗拠点を戻し、年間204勝を挙げて4年ぶりに自身の最多勝記録を更新[129]。2年連続13度目のリーディングジョッキーを獲得し、6度目の騎手大賞を受賞した[43]。さらに年間を通じてJRA・地方における全GIへの騎乗を達成し[1]東京競馬記者クラブ賞関西競馬記者クラブ賞を同時受賞[43]
2004年
2月15日、史上最速・最年少 (34歳11か月) でJRA通算2300勝を達成[43]
8月22日、史上最速・最年少 (35歳5か月) でJRA通算2400勝を達成[43]
11月14日アドマイヤグルーヴエリザベス女王杯を優勝し[70]、史上初となる同競走4連覇を達成[43]
12月8日、香港のハッピーバレー競馬場で行われたインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップを勝利し、海外通算100勝を達成[43]
12月12日中央競馬で年間200勝を達成[1]
この年211勝を挙げ、前年自ら樹立した最多勝記録を記録を更新[131]。3年連続14度目のリーディングジョッキーを獲得し、7度目の騎手大賞を受賞した[131]
2005年
1月23日、史上最速・最年少 (35歳10か月) でJRA通算2500勝を達成[43]
2月26日、ビッグプラネットでアーリントンカップを優勝し、中央競馬史上初の重賞競走通算200勝を達成[11]
5月29日ディープインパクト東京優駿 (日本ダービー) を優勝し[1]、同競走4勝目を挙げる[43]。またこの勝利により、年間100勝最速記録を更新する[1]
7月17日、史上最速・最年少 (36歳4か月) でJRA通算2600勝を達成[43]
9月24日、1日の騎乗機会6連勝のJRA新記録を達成[132]
10月23日ディープインパクト第66回菊花賞を制覇し、中央競馬クラシック三冠を達成[1]。史上2頭目となる無敗の三冠馬に導く[1]
この年3年連続200勝を達成し、最終的に212勝を挙げ、自身が前年に樹立した最多勝記録を更新[133]。4年連続15度目のリーディングジョッキーを獲得し、8度目の騎手大賞を受賞[133]。さらにJRA新記録であるGI年間6勝(地方統一GIを加えると11勝)を記録[133]。自身が樹立した年間最多重賞勝利記録を23に更新するなど、記録ずくめの年となった[133]。また、競馬関係者として初めてSports Graphic Number年間MVP賞を受賞[134]
2006年
1月8日京都競馬第9競走 (騎乗馬フサイチジャンク) にて史上最速・最年少 (36歳10か月) でJRA通算2700勝を達成[43]
7月23日小倉競馬第12競走にて史上最速・最年少 (37歳4か月) でJRA通算2800勝を達成[43]
この年4年連続200勝達成はならなかったが、GI6勝を含む178勝を挙げ、5年連続16度目のリーディングジョッキーを獲得し、9度目の騎手大賞を受賞[135]
2007年
4月21日、京都競馬第7競走にて史上最速・最年少 (38歳1か月) でJRA通算2900勝を達成[136]
7月21日、JRA歴代最多勝記録を更新する2944勝(これまでの記録は岡部幸雄の2943勝)を達成[1]
8月11日騎手招待競走シャーガーカップ (ステイヤーズ) を勝ち、アスコット競馬場で日本人騎手の初勝利を挙げる[136]
11月3日、京都競馬第1競走で史上初となるJRA通算3000勝を達成 (38歳7か月) [136]
11月24日ヴァーミリアンでジャパンカップダートを優勝し[70]、重賞250勝を達成[136]
この年156勝を挙げ、6年連続17度目のリーディングジョッキーを獲得[137]。しかし安藤勝己に勝率で及ばず、騎手大賞は受賞できなかった[137]
2008年
5月10日、京都競馬場における通算1000勝を達成[138]
6月15日、JRA通算3100勝を達成 (39歳3か月) [136]
11月2日、天皇賞秋をウオッカで勝利。春秋あわせて天皇賞11勝目を挙げ、保田隆芳が保持していた天皇賞最多勝利記録(10勝)を更新した[139]
この年重賞勝利数3勝にとどまるなど精彩を欠いた年であったが、年間143勝を挙げ、7年連続18度目のリーディングジョッキーを獲得[140][68]
2009年
4月12日、JRA通算3200勝を達成 (40歳1か月)[136]
6月27日、阪神競馬場における通算1000勝を達成[141]
12月13日、JRA通算3300勝を達成 (40歳9か月)[136]
この年リーディングジョッキー争いで前半から内田博幸の後塵を拝し、後半に追い上げるも、最終的には140勝で内田博幸に6勝届かず、リーディングジョッキーの座を明け渡した[142]
2010年
4月12日日本騎手クラブの東西役員総会で柴田善臣の後任として会長に選出[143][144]、同年9月に会長へ就任した[1]
11月28日ローズキングダムジャパンカップを勝利。23年連続でJRA主催GI競走勝利を達成[注 12][1]
この年落馬負傷による長期休養が響き、年間69勝に終わった[145]
2011年
6月4日、JRA通算3400勝を達成 (42歳3か月)[136]
この年JRA主催のGI競走での勝ち鞍はなく、23年連続で続いたJRA主催GI競走勝利記録が途切れる[115]
2012年
2月12日トレイルブレイザー京都記念を優勝し[1]、デビューから続いている連続重賞勝利記録を26年に更新する[1]
11月18日サダムパテックマイルチャンピオンシップを初優勝。同時に2年ぶりにJRA主催のGI競走を制する[1]
2013年
1月13日、JRA通算3500勝を達成 (43歳10か月)[1]
5月26日キズナで東京優駿 (日本ダービー)を優勝し、自身の史上最多記録を更新する同競走5勝目を挙げる[146]
11月17日トーセンラーマイルチャンピオンシップを勝利し、GI級競走100勝 (地方交流、海外含む) を達成する[147]
2014年
1月26日、メイショウインロウで史上初のJRA通算3600勝達成(44歳10か月)[1]
2月9日トーセンスターダムきさらぎ賞を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を28年に更新[1]岡部幸雄が持つJRAでの連続重賞勝利記録に並ぶ(デビュー年からの連続記録は既に更新している[148])。
10月14日、京都競馬12競走でピエナトップガンに騎乗。JRA通算騎乗数を18,648回とし、岡部幸雄が保持していたJRA最多騎乗記録を更新した[149]
2015年
1月11日グァンチャーレシンザン記念を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を29年に更新[1]
3月8日、ローズマンブリッジでJRA通算3700勝達成 (45歳11か月) [1]
10月3日アウォーディーシリウスステークスを優勝し、史上初のJRA重賞300勝達成[1]
2016年
1月24日ディサイファアメリカジョッキークラブカップを初優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を30年に更新[150]
1月31日、エイシンニトロでJRA通算3800勝達成[1]
9月4日、小倉競馬第1競走でベルウッドカペラに騎乗し、JRA通算騎乗数2万回を達成[151]
10月4日ケイティブレイブ白山大賞典を優勝し、地方全場での交流重賞制覇を達成[152]
2017年
1月5日エアスピネル京都金杯を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を31年に更新[153]
4月30日キタサンブラック天皇賞(春)を優勝し、同レース8勝目を挙げた。これにより保田隆芳天皇賞(秋)で達成した7勝を抜き、同一のJRA・GI競走での最多勝利記録を更新した[154]
6月24日、メイショウヴォルガで阪神3Rを制し、JRA通算3900勝を達成[1]
9月10日ソウル競馬場韓国)で開催されたコリアスプリントグレイスフルリープで優勝。韓国での初騎乗初勝利を達成[155]
10月9日スマートレイアー京都大賞典を制覇し、GII競走100勝を達成[156]
12月11日国際競馬統括機関連盟より2017年度ロンジンIFHA国際功労賞を受賞する[11]
12月24日キタサンブラックにて有馬記念を勝利し、同レースでの3勝目を挙げた。これにより八大競走全レースで3勝以上の勝利を収めた[157]
2018年
1月6日ブラックムーン京都金杯を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を32年に更新[1]
6月24日宝塚記念ダンビュライトに騎乗し、JRA主催GI競走500回騎乗を達成[158]
9月29日、メイショウカズヒメでJRA通算4000勝を達成[159]
2019年
1月20日インティ東海ステークスを優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を33年に更新[1]
2月17日、インティでフェブラリーステークスを逃げ切って優勝。約1年2ヶ月ぶりのGI制覇を達成[1]
4月26日農林水産省より、農林水産大臣表彰を受賞する[160]
6月18日 - 22日ロイヤルアスコット開催にてアンバサダーに就任。長年にわたりアスコット競馬場との関係を築き、同競馬場の理事・役員会から高く評価されている武に対し、アスコットから就任依頼があったもの[161]
9月16日、パラーティウムでJRA通算4100勝を達成[162]
10月20日ワールドプレミアで菊花賞を優勝。昭和・平成・令和の3元号においてGI競走および菊花賞を制覇した初の騎手となった[1]
11月4日ヤマニンアンプリメJBCレディスクラシックを優勝。同競走初勝利・JBC競走通算10勝を挙げるとともに、交流JpnI全競走制覇を達成[163]
11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が持つ50代騎手の年間最多勝記録を更新[164]。最終的にこの年は111勝まで記録を伸ばした[79]
2020年
2月29日サウジアラビアキングアブドゥルアジーズ競馬場で行われたサンバサウジダービーをフルフラットで優勝。当地で日本人騎手初勝利を挙げ、自身海外9カ国目の勝利となった[165]
3月8日報知杯弥生賞ディープンパクト記念サトノフラッグで優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を34年に更新[166]
7月21日スポーツ庁より令和元年度スポーツ功労者顕彰を受賞する[167]
8月9日、ドゥラモットでJRA通算4200勝を達成[168]
12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が到達した50代での年間最多勝記録を更新[79]。最終的にこの年は115勝まで記録を伸ばした[80]

2021年

3月6日チューリップ賞メイケイエールで優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を35年に更新[169]
10月24日、スーパーウーパーでJRA通算4300勝を達成[170]
12月19日朝日杯フューチュリティステークスドウデュースで勝利し、2019年菊花賞以来のGI勝利とともに同競走初勝利を達成[171]

2022年

1月15日愛知杯ルビーカサブランカで優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を36年に更新[172]
5月29日東京優駿(日本ダービー)をドウデュースで優勝し、2013年キズナでの勝利以来9年ぶりの同競走勝利を達成[173]。53歳2か月15日での歴代最年長勝利となり、同競走歴代最多の6勝目を飾った[174]
7月13日ジャパンダートダービーノットゥルノで制し、2005年以来となる自身三度目の芝とダートのダブルのダービー制覇となった。また、この勝利によって自身の持つジャパンダートダービー最多勝記録を4に伸ばした。[175]

2023年

1月8日シンザン記念ライトクオンタムで優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を37年に更新[176]。また、同重賞にてJRA重賞通算350勝を達成[177]
2月4日、小倉競馬場、第1レース、3歳未勝利戦スマートアイでJRA通算4400勝を達成[178]
4月2日大阪杯ジャックドールで制し、JRA・GI通算80勝を達成。また岡部幸雄の持っていた史上最年長GI勝利記録を更新。

成績表

出典:[179]、競馬予想のウマニティ

年度 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率 複勝率 連対率 表彰歴
1987年 69 63 57 559 .125 (.238) JRA賞 (最多勝利新人騎手)[26]
1988年 113 92 68 671 .169 (.306) 史上最年少関西リーディングジョッキー[26]
1989年 133 729 .183 (.340) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[26]関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[26]
1990年 116 729 .160 (.324) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[26]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]ゆうもあ大賞[181]
1991年 96 645 .150 (.291) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
1992年 130 607 .215 (.345) JRA賞 (最多勝利騎手)[119]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
1993年 137 700 .196 (.392) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) ・フェアプレー賞[119]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[119]
1994年 134 584 .230 (.388) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手)[119]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
1995年 134 695 .193 (.343) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[119]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
1996年 159 757 .211 (.340) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[119]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[119]
1997年 168 724 .233 (.371) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[42] ・フェアプレー賞[42]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[42]
1998年 169 757 .226 (.366) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[42]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
1999年 178 815 .220 (.396) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[42] ・フェアプレー賞[42]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
2000年 130 553 .236 (.362) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[42]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
2001年 65 358 .183 (.315)
2002年 133 458 .291 (.435) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[43] ・フェアプレー賞[43]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[180]
2003年 204 874 .236 (.384) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[43]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[43]
2004年 211 917 .232 (.372) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[43]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[43]
2005年 212 859 .248 (.398) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[43]Sports Graphic Number年間MVP賞 [43]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[43]
2006年 178 792 .225 (.375) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[43]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[43]
2007年 156 715 .219 (.372) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手・特別賞) [136]、関西スポーツ賞[182]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[136]
2008年 143 654 .219 (.355) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手)[136]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[136]
2009年 140 774 .182 (.320) JRA賞 (最多賞金獲得騎手)[136]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[136]
2010年 69 418 .167 (.281) フェアプレー賞[136]
2011年 64 639 .101 (.211)
2012年 56 592 .095 (.198) フェアプレー賞[136]
2013年 97 649 .149 (.245)[183] JRA賞 (特別賞)[184] ・フェアプレー賞[185]関西競馬記者クラブ賞[186]
2014年 86 678 .128 (.257)[183]
2015年 106 765 .139 (.256)[183]
2016年 74 669 .111 (.244)[183]
2017年 82 611 .136 (.278)[183] ロンジンIFHA国際功労賞[187]
2018年 76 560 .137 (.255)[183] JRA賞 (特別賞)[184]
2019年 111 663 .168 (.303)[183] 優秀騎手賞[188]
2020年 115 668 .172 (.327) 優秀騎手賞
2021年 75 527 .144 (.263)
2022年 73 606 .120

GI・JpnI競走勝利一覧 (年度別)

(斜字は統一GI・JpnI太字は海外GI、*印はJpnIを指す。)

重賞勝利一覧

テレビ出演


備考

連載

その他出演

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 栗東トレーニングセンター内に住まいがある。
  2. ^ この時「ニンジンは馬が食べるもの」という見方が刷り込まれ、武自身はニンジンが苦手な食べ物になった [14]
  3. ^ 武と中途退学してしまったが馬乗りの上手かった生徒だけが、他の生徒たちより高い障害を跳ぶことを許されていたという。
  4. ^ この記録は1954年、JRA設立後以降の記録である。それ以前には保田隆芳が1938年に、18歳8カ月で阪神優駿牝馬(現オークス)をアステリモアで制している[24]
  5. ^ 競馬は賭博のイメージが強くて一般の人は競馬場に近寄れない雰囲気があった。
  6. ^ 騎手として勝利すれば晴れてダービージョッキーとなる。
  7. ^ 父・邦彦も1972年の日本ダービーを優勝しており、中島時一・啓之親子、伊藤正四郎・正徳親子に次ぐ史上3組目の親子2代のダービージョッキーとなった。
  8. ^ ただし週末は日本に帰国して騎乗することも多く、完全な移籍というわけではない[54]
  9. ^ なお、令和改元時点でこの記録を達成する可能性がある現役騎手は熊沢重文のみ
  10. ^ 競輪のダービーは「日本選手権競輪」、中央競馬のダービーは「東京優駿」を指す。2013年に、村上は第66回日本選手権競輪を、武は第80回東京優駿を、それぞれ制覇。
  11. ^ 村上は長塚智広武田豊樹と共にこの騒動を主謀したとして日本競輪選手会より翌2014年5月1日から1年間の競走出場自粛を言い渡されていたが、後に3ヵ月間に短縮された。
  12. ^ 1位入線のブエナビスタの降着により、2位入線のローズキングダムが繰り上がり1着となった。
  13. ^ ホープフルステークスの前身として開催されたGII・GIIIレースでは通算5勝を挙げている。
  14. ^ 2024年に大井競馬場で施行されている羽田盃東京ダービーダートグレード競走(JpnI)に昇格、また浦和競馬場でJpnII競走として施行のさきたま杯がいずれもJpnI競走に格付される予定のため本記録は暫定のものとなる(なお、東京ダービーは2008年と2012年に騎乗経験がある)。また、ジャパンダートダービーも同年に春季から秋季に移設の上レース名が「ジャパンダートクラシック」に変更となる予定。
  15. ^ 武はJRA所属のため、競馬関係者(騎手)として中央競馬では馬券を購入することは競馬法29条によって禁止されているが、園田競馬場は管轄が異なる地方競馬で且つ騎乗予定がない為規制対象外となり、馬券を買うことができる。
  16. ^ 「思わず衝動買いしてしまいました」(2005年10月20日)にこの記述がある(※武豊オフィシャルサイト "日記・コラム"、2005年10月より引用)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av “プロフィール”. 武豊オフィシャルサイト. 2016年2月18日閲覧。
  2. ^ a b Sports Graphic Number』913、32-33ページ
  3. ^ “令和3年度 騎手免許試験(更新)合格者” (PDF). 日本中央競馬会 (2021年2月9日). 2021年9月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e “【JRA】武豊騎手が阪神10Rで史上初のJRA通算4000勝達成!”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2018年9月29日閲覧。
  5. ^ “【マイルCS】池江氏 武豊の金字塔に「常識では考えられない数字」”. スポーツニッポン. 2018年1月8日閲覧。
  6. ^ “武豊騎手、JRA通算最多騎乗数記録を9年ぶりに更新”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2018年1月8日閲覧。
  7. ^ “【ホープフルS】武豊アスクワイルドモアとJRA平地G1完全制覇へ”. 日刊スポーツ (2021年12月24日). 2021年12月24日閲覧。
  8. ^ 小林正明 (2019年12月24日). “一年を振り返り、改めて武豊の偉大さ痛感”. デイリースポーツ. 2021年9月5日閲覧。
  9. ^ a b ビジネス哲学研究会編著「ビジネスに活かす一流選手の言葉」196ページ PHP研究所
  10. ^ “武邦師引退の日に四男幸四郎が孝行の白星”. 日刊スポーツ新聞社 (2009年3月1日). 2016年2月18日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『優駿』2018年12月号 58-63頁
  12. ^ a b c d e f Number(ナンバー)913号 武豊 四千勝のすべて。 Yutaka Take 4000 19頁
  13. ^ a b c d e f g h i j k 『優駿』2018年12月号 34-36頁
  14. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 25頁
  15. ^ a b c d e 誰も書かなかった 武豊 決断 24-31頁
  16. ^ “武豊と池江師が幼なじみ対談/凱旋門賞”. nikkansports.com. 日刊スポーツ (2013年10月1日). 2020年2月24日閲覧。
  17. ^ ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 195頁
  18. ^ “騎手卒業生名簿”. 日本中央競馬会. 2015年6月12日閲覧。
  19. ^ a b 誰も書かなかった 武豊 決断 51頁
  20. ^ a b c 勝負師の極意pp.93-97
  21. ^ a b c d e f 誰も書かなかった 武豊 決断 35-37頁
  22. ^ a b c 誰も書かなかった 武豊 決断 41-42頁
  23. ^ a b ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 188頁
  24. ^ 競馬殿堂入りの元祖“盾男”保田隆芳さん死去
  25. ^ a b c d しなやかな天才たち 頁87-93
  26. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “達成記録”. 武豊オフィシャルサイト. 2020年5月9日閲覧。
  27. ^ a b 誰も書かなかった 武豊 決断 56-57頁
  28. ^ 「武豊」の瞬間 稀代の天才騎手10年の歩み 22頁
  29. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 38頁
  30. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 58頁
  31. ^ Number(ナンバー)913号 武豊 四千勝のすべて。 Yutaka Take 4000 52頁
  32. ^ a b 誰も書かなかった 武豊 決断 78頁
  33. ^ ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 214頁
  34. ^ “【本日の注目ポイント】競馬の祭典・日本ダービー!最終Rは伝統の目黒記念”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年6月28日閲覧。
  35. ^ “武豊/ダービーのすべてを語ろう”. uma-jin.net. UMAJiN.net (2011年1月28日). 2020年6月26日閲覧。
  36. ^ a b c d e f g h 勝負師の極意pp.177-183
  37. ^ a b c d e f g h i j “GI勝利”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  38. ^ a b c d 島田明宏「徹底検証 武豊 GI100勝の軌跡」『優駿2014年1月 通巻841号』、日本中央競馬会、2014年1月、46-48頁。 
  39. ^ a b この馬に聞いた!最後の1ハロン 244頁
  40. ^ a b この馬に聞いた! 43頁
  41. ^ 歴代のダービージョッキー(ホースプレイヤーベータ版)
  42. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y “達成記録”. 武豊オフィシャルサイト. 2020年5月9日閲覧。
  43. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa “達成記録”. 武豊オフィシャルサイト. 2020年5月9日閲覧。
  44. ^ 和田美保 (2013年5月27日). “武豊復活V!キズナ凱旋門賞へ/ダービー”. nikkansports.com. 2013年12月15日閲覧。
  45. ^ a b c “世界での戦い常に最前線で「世界」と戦う”. 日本中央競馬会. 2020年2月14日閲覧。
  46. ^ a b 『優駿』2018年12月号 50-51頁
  47. ^ “武豊がサウジ初V!9カ国制覇だ”. SUNSPO.COM. 2020年5月9日閲覧。
  48. ^ a b c d e f g 誰も書かなかった 武豊 決断 95-99頁
  49. ^ 武豊インタビュー集 戴冠 91頁
  50. ^ この馬に聞いた!フランス激闘編 191頁
  51. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 101頁
  52. ^ 武豊インタビュー集3 躍動 112頁
  53. ^ 武豊インタビュー集 戴冠 177頁
  54. ^ ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 199頁
  55. ^ a b c d 勝負師の極意pp.18-23
  56. ^ a b 武豊インタビュー集 戴冠 218-223頁
  57. ^ a b 誰も書かなかった 武豊 決断 171-172頁
  58. ^ 武豊インタビュー集 戴冠 239頁
  59. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 181頁
  60. ^ この馬に聞いた!フランス激闘編 206頁
  61. ^ 武豊インタビュー集 戴冠 253頁
  62. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 誰も書かなかった 武豊 決断 227-234頁
  63. ^ ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち、207頁
  64. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 259頁
  65. ^ 勝負師の極意pp.3
  66. ^ a b c d e f g h 誰も書かなかった 武豊 決断 273-279頁
  67. ^ GOETHE 2021年2月号 108頁
  68. ^ a b c “武豊 年度別成績”. netkeiba.com. 2020年2月24日閲覧。
  69. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 287頁
  70. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak “GI勝利”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  71. ^ “キタサンブラックがJRA年度代表馬 2年連続”. r.nikkei.com. 日本経済新聞 (2018年1月9日). 2020年2月24日閲覧。
  72. ^ “武豊、前人未到のJRA通算4000勝! 縁深い“メイショウ”で記録達成”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2021年3月5日閲覧。
  73. ^ “50歳迎えた武豊、ワインのように円熟味増す騎乗”. https://www.nikkansports.com/. 2021年3月5日閲覧。
  74. ^ a b “【競馬】一年を振り返り、改めて武豊の偉大さ痛感/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online. 2020年10月20日閲覧。
  75. ^ 『優駿』2020年2月号、71頁。
  76. ^ “武豊騎手が50代最多勝 - サンスポZBAT!競馬”. race.sanspo.com. 2020年12月18日閲覧。
  77. ^ “【競馬】一年を振り返り、改めて武豊の偉大さ痛感/デイリースポーツ online”. デイリースポーツ online. 2020年10月20日閲覧。
  78. ^ “武豊騎手がJRA年間100勝達成、通算23回目「クリアしなくてはいけない数字」 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2020年11月16日閲覧。
  79. ^ a b c “武豊が50代最多の年間112勝 4勝の固め勝ちで自身の記録を更新”. スポーツ報知 (2020年12月12日). 2020年12月18日閲覧。
  80. ^ a b “51歳・武豊は今年115勝 最近10年で最多の勝ち数” (2020年12月27日). 2021年1月9日閲覧。
  81. ^ “武豊が靭帯損傷で21日の阪神競馬全レース乗り替わり”. 日刊スポーツ. 2021年4月14日閲覧。
  82. ^ “ファンの皆さんに報告です”. 武豊オフィシャルサイト. 2021年4月14日閲覧。
  83. ^ “【次走】武豊騎手骨折のためヨーホーレイクは岩田望来騎手との新コンビで皐月賞へ”. Yahooニュース. 2021年4月14日閲覧。
  84. ^ “【日本ダービー・記録アラカルト】武豊は36年ぶりに史上最年長V記録を更新! 注目したい6つのトピック”. 東スポ競馬. 2022年5月30日閲覧。
  85. ^ “武豊「僕のおかげ」福永のダービー3勝アシスト?「福永祐一らしい調教師になって」「たまにいい馬乗せて」”. スポーツニッポン (2023年2月13日). 2023年3月26日閲覧。
  86. ^ “VS. in your dreams 2019年日本ダービー戦”. JRA. 2020年5月31日閲覧。
  87. ^ “武豊「ディープインパクトへの恩返し。あと10年は現役を」”. 日刊大衆. 2019年12月8日閲覧。
  88. ^ “武豊「最大の友・ディープインパクトの死…数多くの名馬が亡くなりました」”. 日刊大衆. 2020年1月3日閲覧。
  89. ^ “武豊「ディープインパクトで出走した凱旋門賞」”. 日刊大衆. 2022年4月25日閲覧。
  90. ^ “武豊「亡くなったディープインパクトは僕のヒーロー」”. 日刊大衆. 2019年8月16日閲覧。
  91. ^ “ディープインパクト-受け継ぐものたち-”. BSテレ東. 2019年10月10日閲覧。
  92. ^ “戦え!スポーツ内閣”. MBSテレビ. 2019年12月18日閲覧。
  93. ^ “4300勝以上の勝ち星を挙げた『武豊』を支え続けたジョッキーブーツ|テレビ東京スポーツ:テレビ東京”. テレビ東京. 2022年1月7日閲覧。
  94. ^ 『勝負師の極意III』双葉社、10/23。 
  95. ^ “”. 競馬ニホン. 2016年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月15日閲覧。
  96. ^ “”. 競馬ニホン. 2016年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月15日閲覧。
  97. ^ a b 片山良三 (2009年8月28日). “武豊「今のままの顔でまた表紙を飾りたい」”. Sports Graphic Number Web. pp. 2. 2013年12月5日閲覧。
  98. ^ “【マイルCS】池江氏 武豊の金字塔に「常識では考えられない数字」”. スポニチアネックス (2013年11月18日). 2013年11月18日閲覧。
  99. ^ a b c d 二宮清純 (2013年10月23日). “競輪・村上義弘、武豊と約束したダービー制覇”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2013年11月18日閲覧。
  100. ^ a b 武豊. “特別対談企画 武豊×村上義弘”. 武豊オフィシャルサイト. 2013年12月2日閲覧。
  101. ^ “ファン無視に武豊も参戦! 競輪界の仁義なき“走路妨害”. 週刊朝日 (2014年4月10日). 2022年3月23日閲覧。
  102. ^ “武豊騎手、甲子園球場で始球式”. netkeiba.com (2006年7月14日). 2013年12月15日閲覧。
  103. ^ “武イチローと自主トレ/フェブラリーS”. 日刊スポーツ. (2015年2月20日). https://www.nikkansports.com/race/news/1436733.html 2015年2月20日閲覧。 
  104. ^ “武豊もイチローの勇姿を見届けた 東京Dで生観戦”. スポニチ Sponichi Annex. (2019年3月23日). https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2019/03/23/kiji/20190322s00004048622000c.html 2019年3月23日閲覧。 
  105. ^ “ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー1993年~2008年:「いい歯は毎日を元気に」プロジェクト”. ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー運営事務局. 2022年3月23日閲覧。
  106. ^ “身に余る光栄”. 武豊オフィシャルサイト (2005年12月5日). 2013年12月15日閲覧。
  107. ^ “武豊騎手にラブコール 愛知・武豊町が“一日町長”要請”. 中日新聞社 1989年6月28日 朝刊 東海社会面: p. 25. (1989年6月28日) 
  108. ^ 山田一晶 (1999年6月16日). “「武豊」…知名度あやかりたい 町が本人招き、トークショー --来月21日 /愛知”. 毎日新聞社1999年6月16日 愛知地方版 
  109. ^ 武豊さん「しがスポーツ大使」に 栗東市育ち 「少しでも楽しんでもらえるよう全力で」毎日新聞2020年3月19日
  110. ^ “キティちゃんから取材を受けました”. 武豊オフィシャルサイト (2014年5月5日). 2014年5月6日閲覧。
  111. ^ “京都で武豊さんが愛用する"相棒"。メルセデス・ベンツEQCのある風景|Mercedes-Benz LIVE!(メルセデス・ベンツ ライブ)”. 2021年6月4日閲覧。
  112. ^ “三浦皇成、武豊の新人最多勝記録を21年ぶり更新”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  113. ^ “三浦皇成騎手、史上最速でJRA100勝達成”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  114. ^ a b c d e f g “通算成績”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  115. ^ a b c d e f g h i j k Number(ナンバー)913号 武豊 四千勝のすべて。 Yutaka Take 4000 32-37頁
  116. ^ a b ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 189頁
  117. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 87頁
  118. ^ a b c ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 191頁
  119. ^ a b c d e f g h i j k l m “達成記録”. 武豊オフィシャルサイト. 2020年5月9日閲覧。
  120. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 123頁
  121. ^ 武豊インタビュー集3 躍動 84頁
  122. ^ ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 193頁
  123. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 126頁
  124. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 135頁
  125. ^ a b c 誰も書かなかった 武豊 決断 153頁
  126. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 156頁
  127. ^ “香港インターナショナルレース結果”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  128. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad “GI勝利”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  129. ^ a b c 誰も書かなかった 武豊 決断 189頁
  130. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 190頁
  131. ^ a b 誰も書かなかった 武豊 決断 192頁
  132. ^ “武豊騎手、1日騎乗機会6連勝の新記録”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  133. ^ a b c d 誰も書かなかった 武豊 決断 205頁
  134. ^ “身に余る光栄”. 武豊オフィシャルサイト (2005年12月5日). 2015年6月12日閲覧。
  135. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 214頁
  136. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “達成記録”. 武豊オフィシャルサイト. 2020年5月9日閲覧。
  137. ^ a b 誰も書かなかった 武豊 決断 218頁
  138. ^ “武豊騎手、京都競馬場での1000勝達成”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  139. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 222頁
  140. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 224-225頁
  141. ^ “武豊騎手、阪神競馬場1000勝達成”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  142. ^ 誰も書かなかった 武豊 決断 225-226頁
  143. ^ “武豊騎手、騎手会長に”. ラジオNIKKEI (2010年4月21日). 2013年12月15日閲覧。
  144. ^ “関西初! 日本騎手クラブ新会長に武豊を選出”. スポニチアネックス (2010年4月22日). 2013年12月15日閲覧。
  145. ^ ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち 208頁
  146. ^ “キズナだ!これが豊の真骨頂だ!!大外一気で世代の頂点へ/日本ダービー”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  147. ^ a b “トーセンラー直線一気でGI初制覇! 武豊GI通算100勝達成!/マイルCS”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  148. ^ 「東京スポーツ」2012年12月5日
  149. ^ “武豊騎手、JRA通算最多騎乗数記録を9年ぶりに更新”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2018年1月8日閲覧。
  150. ^ “【AJC杯】ディサイファ重賞4勝目、武豊は30年連続重賞制覇”. スポーツニッポン. 2016年1月26日閲覧。
  151. ^ “武豊が史上初のJRA通算2万回騎乗を達成”. ニッカンスポーツ. 2016年9月4日閲覧。
  152. ^ “3歳馬ケイティブレイブV 武豊騎手が地方全場重賞制覇!/白山大賞典・金沢”. netkeiba.com. 2016年10月10日閲覧。
  153. ^ “エアスピネルが接戦を制しV! 武豊騎手は31年連続重賞勝利!/京都金杯”. netkeiba.com. 2017年5月5日閲覧。
  154. ^ “今年2勝、通算73勝/武豊騎手のJRA・G1勝利”. ニッカンスポーツ. 2017年5月1日閲覧。
  155. ^ “【コリアスプリント】武豊、韓国初騎乗で会心V グレイスフルリープ追撃振り切る”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  156. ^ “7歳牝馬スマートレイアーV! 武豊騎手は同一重賞9勝の新記録/京都大賞典”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  157. ^ “GI勝利”. 武豊オフィシャルサイト. 2020年5月9日閲覧。
  158. ^ “武豊 史上初のJRA・GI「500回」騎乗” (2018年6月25日). 2018年7月3日閲覧。
  159. ^ “騎手・武豊「4000勝」の数字が持つ意味 名手を突き動かす誇りと競馬愛、感謝の心”. Sportsnavi (2018年10月2日). 2020年8月9日閲覧。
  160. ^ 武豊騎手らに農林水産大臣表彰 農水省初の競馬関係者表彰スポニチアネックス 2019年4月26日
  161. ^ 武 豊騎手の2019ロイヤルアスコットアンバサダー就任について 日本中央競馬会、2019年6月1日、2020年9月15日閲覧
  162. ^ “武豊が前人未到のJRA通算4100勝「JRAアニバーサリーデーなので狙っていました」”. スポーツ報知 (2019年9月16日). 2020年8月9日閲覧。
  163. ^ “武豊騎手が地方競馬のGI・JpnI全競走を制覇”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  164. ^ “武豊騎手が50代最多勝 - サンスポZBAT!競馬”. race.sanspo.com. 2020年12月18日閲覧。
  165. ^ “武豊がサウジ初V!9カ国制覇だ”. SUNSPO.COM. 2020年5月9日閲覧。
  166. ^ “【弥生賞ディープ記念】サトノフラッグが3連勝で重賞制覇!武豊Jは34年連続重賞V!/JRAレース結果”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  167. ^ “中村均元調教師、武豊騎手がスポーツ功労者顕彰を受賞”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年8月13日閲覧。
  168. ^ “武豊騎手がJRA通算4200勝を達成!”. 産経スポーツ (2020年8月9日). 2020年8月9日閲覧。
  169. ^ “【チューリップ賞結果】メイケイエールとエリザベスタワーの1着同着 武豊騎手は35年連続JRA重賞制覇 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2021年3月6日閲覧。
  170. ^ “武豊騎手がJRA通算4300勝を達成 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2021年11月2日閲覧。
  171. ^ “【朝日杯FS】武豊 22度目で悲願初V!競馬界のジンクスついに破った「久しぶりのG1勝利うれしい」”. 2021年12月19日閲覧。
  172. ^ “【愛知杯】武豊騎手、ルビーカサブランカで36年連続重賞V 歴代1位独走に「年がバレちゃいますね」”. スポーツ報知. 2022年1月16日閲覧。
  173. ^ "【日本ダービー】武豊がドウデュースで歴代最年長の53歳で制す 夢の続き凱旋門賞へ「胸が躍る」". スポーツ報知. 報知新聞社. 30 May 2022. 2022年5月30日閲覧
  174. ^ "【日本ダービー】武豊 ドウデュースで最年長53歳&6度目V! さあ凱旋門賞制覇". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 30 May 2022. 2022年5月30日閲覧
  175. ^ “【大井・ジャパンダートダービー結果】ノットゥルノが押し切り3歳ダート王!武豊騎手は17年ぶりのV | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2022年7月13日閲覧。
  176. ^ “【シンザン記念】武豊騎手がライトクオンタムで自身37年連続重賞V 「SDGsな感じでいいんじゃない」”. スポーツ報知. 2023年1月8日閲覧。
  177. ^ “武豊騎手がJRA重賞通算350勝を達成「また重賞400勝を目指して頑張る」 | 競馬ニュース”. netkeiba.com. 2023年1月8日閲覧。
  178. ^ “武豊騎手が小倉1RでJRA通算4400勝を達成! 福永祐一騎手とのたたき合い制す”. 日刊スポーツ. 2023年2月4日10時50分閲覧。
  179. ^ “通算成績”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  180. ^ a b c d e f g h i “”. JRA関西. 2015年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月12日閲覧。
  181. ^ “”. ゆうもあ・くらぶ. 2016年4月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年4月2日閲覧。
  182. ^ “”. 朝日新聞. 2015年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月12日閲覧。
  183. ^ a b c d e f g “武豊 年度別成績”. netkeiba.com. 2018年7月3日閲覧。
  184. ^ a b “JRA賞”. JRA. 2015年6月12日閲覧。
  185. ^ “2013年度厩舎関係者表彰の表彰式を開催【中山競馬場・京都競馬場】”. JRA. 2015年6月12日閲覧。
  186. ^ “武豊に関西競馬記者ク賞 ダービー制覇、G1・100勝快挙”. スポニチ. 2015年6月12日閲覧。
  187. ^ “日本人初!武豊がロンジンIFHA国際功労賞受賞”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月24日閲覧。
  188. ^ “【19年度厩舎関係者表彰】菜七子、女性騎手初のフェアプレー賞受賞”. スポーツ報知 (2020年1月5日). 2020年2月7日閲覧。
  189. ^ “レース紹介(1989年10月29日天皇賞・秋)”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  190. ^ “レース紹介(1990年04月29日天皇賞・春)”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  191. ^ “シーキングザパールの競走成績”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  192. ^ “第12回南部杯(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  193. ^ “凱旋門賞はサーキーが圧勝!”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  194. ^ “ジュライカップ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  195. ^ “香港ヴァーズ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  196. ^ “第4回ジャパンダートダービ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  197. ^ “第17回ダービーグランプリ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  198. ^ “第48回東京大賞典(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  199. ^ “第5回ジャパンダートダービ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  200. ^ “第54回全日本2歳優駿(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  201. ^ “第49回東京大賞典(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  202. ^ “第4回JBCスプリント(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  203. ^ “第54回川崎記念(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  204. ^ “第28回帝王賞(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  205. ^ “第7回ジャパンダートダービ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  206. ^ “第20回ダービーグランプリ(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  207. ^ “第5回JBCクラシック(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  208. ^ “第7回JBCクラシック競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  209. ^ “第53回東京大賞典競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  210. ^ “第8回JBCクラシック(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  211. ^ “第32回帝王賞競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  212. ^ “第9回JBCクラシック(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  213. ^ “第59回川崎記念[指定交流(G1)]”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  214. ^ “第10回JBCクラシック(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  215. ^ “第56回東京大賞典競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  216. ^ “第34回帝王賞競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  217. ^ “第11回JBCクラシック競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  218. ^ “第56回東京大賞典競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  219. ^ “第61回川崎記念[指定交流(G1)]”. netkeiba.com. 2015年6月12日閲覧。
  220. ^ “レース紹介(2012年11月18日マイルCS)”. 武豊オフィシャルサイト. 2015年6月12日閲覧。
  221. ^ “第37回帝王賞競走(G1)”. netkeiba.com. 2015年6月13日閲覧。
  222. ^ 【JBCクラシック】コパノリッキー連覇でGI5勝目! サンケイスポーツ 2015年12月7日閲覧
  223. ^ “【香港カップ】日本馬ワンツー!エイシンヒカリ、G1初V”. スポーツニッポン. 2015年12月13日閲覧。
  224. ^ “【天皇賞・春】キタサンブラック勝つ、サブちゃん歓喜G1・2勝目”. Sponichi Annex. 2016年5月1日閲覧。
  225. ^ “コパノリッキーV、14年に続き2勝目/かしわ記念”. 日刊スポーツ新聞社. 2016年5月6日閲覧。
  226. ^ “Full Result 1.50 Chantilly (FR) | 24 May 2016 | Racing Post”. レーシング・ポスト. 2022年3月23日閲覧。
  227. ^ “コパノリッキー鮮やか押し切りV! GI・7勝目!/帝王賞・大井”. netkeiba.com. 2016年6月29日閲覧。
  228. ^ 【JBCクラシック】アウォーディー政権交代!6連勝で一気に砂の頂点に netkeiba.com 2016年11月4日閲覧
  229. ^ “第36回ジャパンカップ(G1)”. netkeiba.com. 2016年12月4日閲覧。
  230. ^ “【かしわ記念】コパノリッキー史上4頭目G1・9勝馬 1位にあと1勝”. スポーツニッポン. 2020年5月12日閲覧。
  231. ^ 【有馬記念】キタサン感動のラストラン 武豊は声震わせ出会いに感謝「光栄」「騎手として幸せ」 スポーツニッポン、2017年12月24日閲覧
  232. ^ 【フェブラリーS】武豊インティが破竹の7連勝で戴冠!. サンケイスポーツ(2019年2月17日付). 2019年2月17日閲覧
  233. ^ “武豊騎手が地方競馬のGI・JpnI全競走を制覇”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  234. ^ “武豊騎手が地方競馬のGI・JpnI全競走を制覇”. 株式会社ネットドリーマーズ. 2020年5月9日閲覧。
  235. ^ “武豊TV!II”. フジテレビ. 2015年6月12日閲覧。
  236. ^ a b “武豊騎手が「ごくせん」に出演”. netkeiba.com. 2016年5月19日閲覧。
  237. ^ “沢口靖子と共演 武豊の心配は「棒読み」”. スポーツニッポン. 2015年7月9日閲覧。
  238. ^ “「ウマ娘 プリティーダービー」第5話に武豊騎手が本人役で登場”. コミックナタリー (ナターシャ). (2018年4月23日). https://natalie.mu/comic/news/279211 2018年4月23日閲覧。 
  239. ^ “中村倫也&吉田鋼太郎、レジェンド2人と共演「光栄」「お会いしたかった」”. マイナビニュース (マイナビ). (2022年4月9日). https://news.mynavi.jp/article/20220409-2317265/ 2022年4月9日閲覧。 
  240. ^ 武豊が馬券買うってよin園田 - (安井友梨オフィシャルブログ、2022年3月21日閲覧
  241. ^ 武豊 本人役でドラマ出演!平手友梨奈主演NHKドラマ「風の向こうへ駆け抜けろ」
  242. ^ “三菱自動車 新型SUV『アウトランダー』 新たなイメージキャラクターに騎手の "武豊さん" を起用 ~ 2005年11月5日(土)よりTV-CMを放映 ~”. 三菱自動車 (2005年11月2日). 2022年10月22日閲覧。

参考文献

  • 『武豊・武幸四郎徹底分析―天才騎手の系譜』四條たか子
  • 武豊『勝負師の極意』双葉社、2013年10月。ISBN (978-4-575-30576-0)。 
  • 優駿』2018年12月号、日本中央競馬会。 
  • 島田明宏『誰も書かなかった 武豊 決断』徳間書店、2017年10月。ISBN (978-4-19-894259-5)。 
  • 鈴木学『しなやかな天才たち―イチロー・武豊・羽生善治』しなやかな天才たち―イチロー・武豊・羽生善治 (Ariadne entertainment)、1996年7月。ISBN (4-384-02315-4)。 
  • Sports Graphic Number』2016年10月号、文藝春秋。 
  • 島田明宏『武豊インタビュー集3 躍動』廣済堂、2004年9月。ISBN (4-331-51064-6)。 
  • 島田明宏『武豊インタビュー集 戴冠』廣済堂、2002年11月。ISBN (4-331-50931-1)。 
  • 武豊『この馬に聞いた!フランス激闘編』講談社、2002年4月。ISBN (4-06-273422-2)。 
  • 島田明宏『「武豊」の瞬間 稀代の天才騎手10年の歩み』集英社、1997年4月。ISBN (4-08-783109-4)。 
  • 島田明宏『ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち』イースト・プレス、2020年3月。ISBN (978-4-7816-1868-5)。 
  • 武豊『この馬に聞いた!最後の1ハロン』講談社、2001年4月。ISBN (978-4-06-273140-9)。 
  • 武豊『この馬に聞いた!』講談社、2000年4月。ISBN (978-4-06-264838-7)。 
  • 優駿編集部「武豊 第一人者としての止まらぬ歩み」『優駿』914号、日本中央競馬会、2020年、p71。 
  • GOETHE』2021年2月号、幻冬舎。 

関連項目

外部リンク

  • 武豊オフィシャルサイト
  • 系図でみる近現代 第37回 武豊・武幸四郎 武彦七 園田実徳
  • [1]
  1. ^ “武豊の過去成績データ|馬ランド-無料競馬予想サイト-”. 武豊の過去成績データ|馬ランド-無料競馬予想サイト-. 2022年10月21日閲覧。
ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。