松本 奎堂(まつもと けいどう、天保2年12月7日(1832年1月9日) - 文久3年9月25日(1863年11月6日))は幕末の志士。通称謙三郎、名は孟成、衡。字は士権。奎堂は号。別の号に嬬川、洞仏子がある。
三河国刈谷藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂学問所で学び俊才として知られた。強い尊王の志を持ち脱藩して私塾を開き尊攘派志士と交わった。孝明天皇の(大和行幸)の先駆けたるべき天誅組を結成して大和国で挙兵。吉村寅太郎(土佐脱藩)、藤本鉄石(岡山脱藩)とともに三総裁の一人となった。だが、八月十八日の政変で大和行幸は中止となり、孤立した天誅組は幕府軍の攻撃を受けて敗退し、松本も戦死した。
生涯
刈谷藩士(松本印南惟成)の二男として天保2年12月7日(1832年1月9日)、三河国刈谷に生まれる。幼い頃から学を好み、10歳にして詩文をつくり神童と称えられた。秀才であったが、三味線や胡弓を奏で、美声の持ち主で歌も上手な芸達者だった。豪胆でもあり18歳の時、槍術の稽古中に左眼を失明したが、平然としていた。
初め尾張国沓掛村の伊藤両村に師事し、嘉永5年(1852年)に藩より選ばれて昌平坂学問所に学び、舎長になる。江戸藩邸の教授兼侍読に任じられるが、過激な言論のために禁固されている。
松本の出身地三河国刈谷は徳川家にゆかりの地で、藩主土井氏は譜代大名であり、幕府創業の功を誇る藩風であったが、松本は早くから尊王の志が高く、徳川家を称賛することを恥とし、久能山東照宮廟を訪れたときに徳川家康の狡猾を憎み、志を得た暁には墓を暴き骨を鞭打ってやると罵り、居合わせた人々は彼を狂人だと言い合ったという話が伝わる。譜代藩出身で昌平坂学問所で舎長(塾頭)まで勤めたエリートであり、体制側に身をおけば将来は安泰であったというところが他の志士の経歴と比べて異質である。当時もっとも先鋭的な志士の一人であった。
安政2年(1855年)再び昌平坂学問所で学んだが、勤皇思想の正当性を確信した彼は職を辞して脱藩し、名古屋、大坂に出て私塾を開いた。名古屋での塾生に織田完之がいる。松本は四国の博徒の大親分、日柳燕石とは大変懇意であったし、私塾にはいつも何人もの博徒がいたりもした。非常な教養人であったが、型破りな人物でもあった。頼三樹三郎や梅田雲浜らと親しく、安政の大獄の時、彼らと共に要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。万延元年(1860年)大坂で松林飯山、岡鹿門(岡千仞)と3人で雙松岡(そうしょうこう)塾を開いたが、京都所司代から問題視され塾は6ヶ月で閉鎖された。
文久2年(1862年)京都に上り、薩摩藩国父島津久光の率兵上京を期した平野国臣(福岡脱藩)や吉村虎太郎(土佐脱藩)らによる浪士の挙兵計画(伏見義挙)に参加するが、寺田屋騒動で薩摩藩の過激派は粛清され、主だった浪士たちも捕縛されてしまった。この時、浪士の中には青蓮院宮(中川宮)を奉じて比叡山に籠ろうという議論があったが、松本は大和国十津川の険に拠ることを主張したという。後年の天誅組の挙兵で、松本はこの案を実行している。
松本は淡路島へ逃れ、同地の勤皇派大地主古東領左衛門や河内国の勤皇派大地主水郡善之祐とも親し交わり、後に彼らは天誅組のために莫大な私財をなげうつことになる。
同3年(1863年)5月、長州藩は外国船への砲撃を行い攘夷を決行。だが、翌月には米仏艦隊の反撃にあって敗北する(下関戦争)。松本は吉村らと長州へ赴き高杉晋作と国事を論じ、藩主毛利敬親に謁見した。
8月13日、孝明天皇の(大和行幸)の詔が下る。松本は吉村や藤本鉄石(岡山脱藩)と議して、行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを決め、前侍従中山忠光を擁して、39人の浪士が京都を出立。17日に大和国五条天領に入り、代官所を襲撃し代官鈴木正信(源内)の首を刎ねて兵を挙げた。挙兵した浪士たちは天誅組と呼ばれるようになる。
天誅組は自らを「御政府」と称し、五条を「天朝直轄地」とし、年貢半減などの触書を出した。職制を定め中山を主将とし、松本は吉村、藤本とともに三総裁の一人となる。趣意書、軍令書、布告など天誅組が公にした文書はほとんどが松本の手にものとされる。教養と文章力は天誅組の中で随一であった。
だが、天誅組の挙兵の直後に八月十八日の政変が起きて京都の政情は一変。攘夷派公卿は失脚し、大和行幸は偽勅とされた。
孤立した天誅組は十津川郷士1000人余を募り、高取城を攻撃するが失敗。9月に入り、周辺諸藩の大軍が動員され、天誅組は善戦するも各地で敗退。十津川郷士が離反するに及び、中山は兵の解散を命じ、残党は脱出すべく山中の難路を彷徨った。松本は窮状から右目の視力が低下し、左目と合わせて盲目となっていた。吉村も負傷して歩行困難になり一行から脱落している。
9月24日、天誅組残党は鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵に捕捉され、壊滅した。失明していた松本は混乱の中で一行とはぐれてしまう。主将の中山は脱出するが、他はほとんどの者が戦死するか捕縛された。
翌25日、紀伊藩兵に銃殺された(または自刃とも)。享年33。同日には総裁の中で唯一五体満足で脱出していた藤本が、鷲家口へ引き返してきて、紀州藩本陣に突撃した末に、壮絶な戦死を遂げている。松本の首は京都に運ばれ、翌10月、同じく鷲家で無念の最期を遂げた吉村、藤本ら12名の同志の首と共に粟田口に晒された。
辞世の歌は「君が為め みまかりにきと 世の人に 語りつきてよ 峰の松風」。法名は天誅院殿忠誉義烈奎堂居士。
脚注
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.6
参考文献
- 大岡昇平 『天誅組』(『大岡昇平全集 (8) 』収録、筑摩書房、1995年)(ISBN 4480702687)
- 坂本犬之介『天誅組』(『歴史群像 2006年12月号』、学研)
- 『勤王家百傑』(嵩山堂, 1911年)