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東京国際空港

東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英語: Tokyo International Airport)は、東京都大田区羽田空港に所在する日本最大の空港通称羽田空港(はねだくうこう、: Haneda Airport)。

東京国際空港
(羽田空港)
Tokyo International Airport
(Haneda Airport)

IATA: HND - ICAO: RJTT
概要
国・地域 日本
所在地 東京都大田区羽田空港
母都市 東京
種類 公共
所有者 国土交通省
運営者 国土交通大臣
運用時間 24時間
開港 1931年8月25日 (91年前) (1931-08-25)
ターミナル 3
拠点航空会社 日本航空
全日本空輸
スカイマーク
エアドゥ
ソラシドエア
敷地面積 1,516 ha
標高 6.4 m (21 ft)
座標 北緯35度33分12秒 東経139度46分52秒 / 北緯35.55333度 東経139.78111度 / 35.55333; 139.78111座標: 北緯35度33分12秒 東経139度46分52秒 / 北緯35.55333度 東経139.78111度 / 35.55333; 139.78111
公式サイト tokyo-haneda.com
地図
HND
HND
HND
東京国際空港の位置
滑走路
方向 ILS 長さ×幅 (m) 表面
16R/34L I 3000×60 舗装
04/22 I 2500×60 舗装
16L/34R IIIb 3360[注 1]×60 舗装
05/23 I 2500×60 舗装
統計(2018年)
旅客数 84,893,742
貨物取扱量 1,271,143t
出典: 国土交通省(空港管理状況調書)[2]
リスト
空港の一覧
(テンプレートを表示)

(IATA空港コード)はHND。 (ICAO空港コード)はRJTT。航空便の時刻表において表記される「東京」とは基本的に同空港を指すことが多いが、成田国際空港と併せて東京(羽田・成田)とされるケースも少なくない。

成田国際空港と共に首都圏並びに日本の空の玄関口である[3]。2019年の乗降客数は、世界5位となった[4]

概要

東京都心から南に約15 km、東京都大田区の海老取川を挟んだ東方[5][6]東京湾側に所在する。1931年8月25日に「東京飛行場」として正式開港以来、東京及び首都圏を代表する空港である。2019年には世界で5番目に乗降客数の多い空港となっている[7](2018年は5位となっている[8])。年間の航空機発着回数は約38万4000回[要出典]、航空旅客数は約8,489万人であり[2]、それぞれ国内第1位である。航空貨物取扱量は約84.9万トン[2]成田国際空港についで国内第2位である(1日あたり約2246トン。)。全日本空輸日本航空、スカイマークソラシドエアAIRDOが国内線ハブ空港として利用している。このほか、チャーター便ビジネスジェットが乗り入れている。

埋め立てによる拡張により、成田国際空港を超える日本最大の面積を有する空港となり[9]、現在の羽田空港の敷地面積は約1,522ヘクタール[10]である。これは空港を有する大田区全体の面積のおよそ4分の1を占めている。また、24時間運用が可能な空港の1つである[注 2]。深夜から未明の時間帯にかけては国際線や貨物便が発着している。第3ターミナルビルの開館時間は24時間である。ただし、国内線については、定期便の運航時間帯に合わせ、国内線の各ターミナルビルの開館時間を第1ターミナル、第2ターミナルとも5:00 - 24:00頃としている。

羽田空港は、東京23区内にあり利便性が高い反面、航空法上の混雑空港およびIATAのWSGで最も混雑レベルが激しい「レベル3」に指定されており[11]、騒音問題、増便規制、小型機の乗り入れ禁止などのいわゆる「羽田空港発着枠問題」がある。これらの問題を解決するため、現在までに沖合展開事業再拡張事業、(横田空域)の調整が行われている。空港騒音に関しては羽田空港一帯(羽田空港一丁目 - 羽田空港三丁目、これらに接する地先および水面)のみ騒音規制法(昭和43年法律第98号)第3条第1項の規定に基づき、大田区長が指定する地域から除外されている。

羽田空港は成田空港より都心に近く、沿道の警備が比較的容易なため、天皇皇族内閣総理大臣などが政府専用機を使用する場合や、国賓や公賓が専用機や特別機で訪日する際はほとんどの場合、羽田空港を使用する[注 3]。このため、専用施設としてVIP機専用スポット (V1、V2、VN、VS)[要出典]や旅客ターミナルビルとは別棟の中に設けられた貴賓室がある[12]。国内路線における航空機の記念飛行(ファーストフライト、ラストフライトetc)では、基本的に拠点とされる(例:ファーストフライトの出発空港、ラストフライトの最終到着空港)。

2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において、日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した[13][14]。2019年3月、スカイトラックスは、世界の空港を格付けする「ザ・ワールズ・ベスト・エアポーツ・オブ・2019」において、2018年の第3位から順位を上げてシンガポール・チャンギ国際空港に次ぐ第2位として選出し、「世界一清潔な空港」「世界一の国内線空港」「世界一バリアフリーな空港」にも選出した。米情報サイト「Flight State」で、世界35カ国の国際空港のうち、定時運航率の高かった空港2位に選ばれた[15][16]。(95.04%、因みにトップは大阪国際空港(伊丹空港)の95.88%で、成田国際空港は86.38%。)

運営

空港法第4条に定める「国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港」の一つであり、国土交通大臣が設置、管理する[17]。また、旧・第一種空港としては唯一の国管理空港である。国土交通省東京空港事務所は、羽田空港に関する飛行場管制業務のほか、羽田空港、成田国際空港下総飛行場木更津飛行場館山飛行場に関する進入・ターミナルレーダー管制業務を実施している。また、伊豆諸島の各小規模空港(リモート空港)に関する情報提供等を航空管制運航情報官が実施している。なお、コールサインについて、新島空港神津島空港は「伊豆リモート」、三宅島空港は「三宅リモート」、八丈島空港は「八丈リモート」を使用する。

空港の設置および空港機能の管理、運用については国土交通省東京空港事務所が行なっているが、各ターミナルビルの管理、運用についてはそれぞれ次のようになっている。なお、2010年10月に開業した国際線地区については日本の空港としては初のPFI事業として、国との間で事業契約を締結した民間事業者が各施設の建設・管理・運用を行なっている。

施設 管理、運用会社 備考
国内線地区 第1・第2旅客ターミナル 日本空港ビルデング株式会社
国際線地区 第3旅客ターミナル 東京国際空港ターミナル株式会社(TIAT=ティアット)[注 4]
国際貨物ターミナルビル 東京国際エアカーゴターミナル株式会社
国際線地区エプロン 羽田空港国際線エプロンPFI株式会社

統計

利用者数

元のウィキデータクエリを参照してください.

東京国際空港の2020年(1月-12月)の国内線と国際線を合わせた総旅客数は、前年比64.3%減の3105万5210人[18]羽田空港 旅客ターミナル利用実績(2020年度) (PDF)

就航路線別旅客数

(東京国際空港発)2019年度就航路線別旅客数/順位[19]
行先 旅客数 国内線順位
新千歳空港 約881万人 1位
福岡空港 約836万人 2位
那覇空港 約587万人 3位
大阪国際空港 約529万人 4位
鹿児島空港 約234万人 5位
広島空港 約186万人 6位
熊本空港 約183万人 8位
長崎空港 約162万人 10位
松山空港 約146万人 12位
宮崎空港 約135万人 13位
関西国際空港 約125万人 14位
高松空港 約124万人 15位
大分空港 約118万人 18位
北九州空港 約116万人 19位
小松空港 約104万人 26位
函館空港 約102万人 27位
徳島空港 098万人 28位
岡山空港 096万人 29位
旭川空港 090万人 31位
高知空港 090万人 32位
山口宇部空港 089万人 33位
秋田空港 080万人 36位
神戸空港 070万人 38位
帯広空港 059万人 42位
長崎空港(神戸経由) 057万人 45位
出雲空港 055万人 47位
新石垣空港 055万人 48位
米子空港 054万人 49位

歴史

開港前の羽田

 
羽田穴守海水浴場
 
羽田飛行場を訪れた菊池寛ら(1931年)
 
エプロンと滑走路(1930年頃) 右奥に「トウキヤウ」の文字
 
ターミナルおよび日本航空輸送の格納庫 左は同社の九五式二型練習機(1937年)

新田開発

現東京国際空港にあたる地域は「羽田浦」などと呼ばれ、元禄天明の頃にはが一面に密生した干潟であった[20]

当時の羽田一帯は、江戸近郊の漁師町として栄えていたが、武蔵国荏原郡羽田猟師町で代々名主をしていた鈴木彌五右衛門という人物がいた。天明年間(1780年代頃)、この彌五右衛門は羽田浦の東方にある干潟に目をつけ、その数町歩にわたる干潟を埋め立てて、新しい田畑を開発することにした。そこで彌五右衛門はこの干潟を羽田村の名主石井四郎右衛門より譲り受けて、この干潟に堤防を作って開墾を始めた。この際、彌五右衛門は猟師町の名主職を嗣子に譲り、 自ら移り住んで開拓に取り組んだという[21]

1815年頃には、近在農村の分家層でとくに大森村からの出百姓らが居住するようになり、新田としての形態が整えられた[22]。この開墾事業は無事に成功したが、東京湾多摩川に面する埋立地という環境のため、常に高潮洪水などの水害の危険を孕んでいた土地であった。そのため彌五右衛門は、作物を植えるところは高く土を盛り、また堤防を強くするために数千本のの木を植えることにした。この松の防潮林は、その後成長すると、沖から眺めると非常に美しい景観となった。それでこの地は、その地形から「扇ヶ浦」とか、元々一つの小さな島があったことから「要島」と人々から呼ばれるようになる。また、彌五右衛門は堤防のほとりに小さなを建て、毎年の五穀豊穣と海上安全の守護を祈願して、のちの穴守稲荷神社となる稲荷大神を祀ることにする[23]

1829年には、羽田猟師町から分かれて「鈴木新田」と名付けられた[21]幕末には東側に拡張され、江戸防衛のための砲台が設置された(御台場)。

これらの土地は、現在の第3ターミナル地区・整備場地区、HANEDA INNOVATION CITY羽田エアポートガーデンなどに相当する。

門前町としての発展

明治時代以降は、穴守稲荷神社の鳥居前町鉱泉宿街花街として発展し、その繁栄ぶりをみた京浜電鉄によって、1902年6月28日には穴守稲荷神社への参拝者輸送の為に穴守線(現在の京急空港線)が建設された[24][25]。京浜電鉄が経営する羽田運動場や羽田穴守海水浴場、更には羽田競馬場もあり、穴守稲荷神社を中心とした東京近郊の一大観光地・保養地であった[26][27][28][29]

品川より電車にのりて大森蒲田を経て、羽田に至る。橋をわたれば両側数町の間、物うる家、立ちつづき、赤き鳥居密接してトンネルを成す。そのきはまる処小祠あり。穴守稲荷とて、近年にはかに名高くなり、その参詣者の多きことは、ここに電車が通じたるにても知らるべく、鳥居のトンネルにても知らるべく、鉱泉宿、料理屋、商店など僅々十年の間、洲渚に市街を現出したるにても知らるべし。(中略)十年前、稲荷に接近せる鉱泉宿の要館に数日逗留して、著述に従事したこともありしが、その時は二三の鉱泉宿が出来て居り、祠前に十数軒出来て居りしのみなるに、十年の後には、かくまでに市街が出来るものかと、茫然として、しばし祠前に彳立す — 大町桂月著『東京遊行記』より抜粋
蒲田區羽田穴守町。京濱電車穴守終點下車。品川から直通電車運轉、所要二五分、賃片道二四銭。蒲田から七分、一一銭。 豊宇氣比賣命を祀る稲荷神社があり、穴守神社とも云ふ。四時参詣者多く、午の日には殊に賑はふ。祠を去る五十米許りの海濱は風光よく、海は遠浅で潮干狩及び海水浴に適し附近に東京飛行場がある。また穴守神社後の近くには東京附近に珍らしい鵜の群棲林がある。 — 「旅程と費用概算」(ジャパン・ツーリスト・ビューロー)より抜粋

大正時代に入ると京浜間の工業地帯化が始まり、東京湾岸の埋め立てが進んでゆく中で、羽田穴守地域にも行楽地以外の要素が生まれてくるようになる。1916年には、穴守稲荷神社総代を務める鉱泉宿・要館主人の石関に建物を借り、相羽有玉井清太郎日本飛行学校と日本飛行機製作所を設立。多摩川が海にそそぐ羽田穴守の海岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になり、平坦で、軽い飛行機の滑走には好適であり[30]、羽田一帯が飛行場好適地として注目されるきっかけになった[31][32][33]

大正五年(一九一六)、弱冠二十一才で、東京府荏原郡羽田町穴守の稲荷神社の近くに、日本飛行学校と日本飛行機製作所とを創立した。(中略)六郷川の海にそそぐ両岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になる。平坦であり、軽い飛行機の滑走には好適であった。(中略)それから十余年の空白期間を過ごした羽田穴守が、東京国際空港として再び浮かびあがる奇縁をもったのは、昭和四年のことである。(中略)そこへ日本飛行学校が羽田を開拓した功労者だからとて特別の承認を得、(中略)昭和二十年、終戦とともに、米軍命令で、えびとり川以東の穴守一帯は、稲荷神社、数百戸の住居全部が一夜にして立退きを強制された。弁天橋と稲荷橋も交通を遮断された。この前代未聞の不測の運命に泣いた方々に、ここに半世紀前に飛行場を創始したことに発端することを顧み、申しわけないと思っている。 — 昭和41年刊『日本民間航空史話』羽田飛行場の生い立ち(相羽有)より抜粋

1923年の関東大震災の際には、鉄道が壊滅的被害をうけたことで帝国飛行協会副会長の長岡外史は飛行機による物資輸送の重要性を主張し、羽田に飛行場が必要だと提言した。

開港

当初、民間航空会社は立川陸軍飛行場を使用していたが、軍民共用のため制約が多かった。そこで民間の航空需要の高まりを受け、飛行機の適地であり、東京中心部からの利便性も高く、京浜間の中間に位置し、水陸両用飛行場として利用可能だとして羽田地域に目を付け[34]、鈴木新田北側(現在の整備場地区付近)に空港を建設することが決定。飛島組(現・飛島建設)が工業用地として造成した埋立地が買収され、1930年1月に空港施設の建設工事が始められた[35]

1931年8月25日、東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田の北側(翌年に東京市蒲田区羽田江戸見町となる)に、逓信省航空局管轄の民間飛行場として羽田飛行場(東京飛行場)が開港した[35][36]。ただ、コンクリート敷の滑走路以外はほとんど草地であったうえ、無線による管制が行われていないため管制塔もなかったなど、設備は簡素なものであった(面積53ha、滑走路300m、幅15m)。滑走路脇にカタカナの右読みで「トウキヤウ」と書かれたコンクリート製の標識文字が設置されていた[35][36]

記念すべき第1便は、日本航空輸送大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいなかったため、代わりに大連のカフェに送る松虫鈴虫6000匹が載せられた[36]。個人の利用としては1931年8月29日、広島県の飛行場からマルガ・フォン・エッツドルフが到着している。

実は開港前の時点で、この東京飛行場から離陸を果たした機体もあった。それは日本初の学生訪欧飛行を完遂した、法政大学青年日本号である。1931年5月29日にここから飛び立つと、地図と羅針盤だけに頼る有視界飛行で、東京京城満州モスクワベルリンブリュッセルロンドンパリリヨンマルセイユへと、中国大陸ユーラシア大陸などの各主要都市を経由しながら、1931年8月31日に最終目的地のローマに到着している[37]

発展

羽田飛行場は、開港翌月の1931年9月25日には初の税関設置飛行場に指定されており、当初から国際飛行場としての役割が期待された[35]。1932年には気象台羽田出張所が開設されて航空気象観測が行われるようになり[35]、1933年には立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。

また、日本航空輸送や満州航空拠点となり、大阪福岡台北や京城などの当時の大日本帝国国内主要都市に向けた国内線のみならず、満州国へ向けた国際線の運航も活発化。空港ターミナルビルやハンガー(格納庫)、滑走路、各種航法設備などの充実が行われた[38]

また、1937年5月には欧亜連絡飛行を行った「(神風号)」の帰着地に、同月には後に公認世界記録を樹立する「航研機」の初飛行場所になった。1939年8月には国産航空機として初の世界一周飛行に挑んだ「ニッポン号」の発着地となるなど、羽田は日本の航空史に名を残す数々の偉業の舞台となった。さらに、1938年にルフトハンザドイツ航空フォッケウルフ・Fw200コンドルが、1939年にはユンカースJu 52が、ドイツの首都ベルリンと羽田の間を飛行した。

1938年から1939年にかけて飛行場の隣接地が買収され、最初の拡張工事が実施された。羽田球場はこの買収の対象となり消滅した[39]。面積は72haとなり全長800メートル・幅80メートルの滑走路2本が十文字型に配置されるレイアウトになった。これにより、当時としては近代化された民間飛行場となった[36][40]

本町は都の隅に在り、多摩川口の左岸に位し、東は東京灣に面してゐる。 穴守稻荷の存在に依つて古くから知られた漁村であるが最近東洋一の飛行場の設置に依つて共の名は世界的となつた。 — 昭和7年刊『市域拡張記念 大東京概観 第六節 蒲田區 羽田町』より

戦時下

1940年東京オリンピックのため、東京市は羽田を上回る規模の飛行場(東京市飛行場)の建設工事を現在の江東区夢の島で進めていたが、日中戦争の影響で工事が中断した(その後、計画は廃止)。

1940年9月には国産旅客機三菱 MC-20の完成披露式が、同月28日の航空日(後の「空の日」)には朝日新聞社主催の航空ページェントが開催された。後者ではモーリス・ファルマン機鹵獲ポリカルポフI-16が飛行し、また陸軍航空部隊戦闘機爆撃機によるアクロバット飛行・展示飛行や東京湾上での実弾演習が披露されている。なお、航空ページェントを報じる10月1日公開のニュース映画日本ニュース』第17号では本地を「羽田の東京空港」と紹介している。

 
日本陸軍に鹵獲され、日の丸国籍標識を描き展示飛行中のボーイングB-17

1941年10月には海軍航空要員の訓練を行う霞ヶ浦海軍航空隊の一部が分遣隊として移駐[41]軍用飛行場としても使用されることとなった。同年12月に太平洋戦争大東亜戦争)が勃発すると日本の民間航空は事実上停止した。

これ以降、終戦までの間は、国内線や同盟国の満州国やタイ王国のほかに、日本軍南方作戦で占領した勢力圏とした各地へ向けて、福岡第一飛行場を中継地とし、陸軍の特務航空輸送部が定期便を就航させた(徴用された大日本航空が委託運航)。目的地は香港のほか東南アジアジャカルタマニラシンガポールニューギニアウェワクラバウルなどであり、日本軍占領前はイギリスアメリカ合衆国オランダなどの植民地であった。

また、南方作戦などで鹵獲されたアメリカ軍中華民国軍オランダ軍オランダ領インド航空ボーイングB-17カーチス・ライトP-40ダグラス DC-5などの展示会も行われた。大戦末期には日本本土を爆撃機銃掃射する連合国軍機の爆撃目標となったため、飛行場内外に陸海軍が高射砲高射機関砲を配置してこれに備えた[39]

強制退去

 
連合国軍駐留下のターミナル

第二次世界大戦終結後、連合国による占領下に置かれた日本は、一般命令第一号によって各地の飛行場や航空施設を良好な状態で保存するよう命じられた。羽田飛行場については1945年9月12日に連合国への引き渡しが命じられ、翌13日には自動小銃で武装した兵士らがジープで乗り付けて飛行場にいた者を追い出して接収した[42][43]。羽田飛行場は日本に駐留する連合国軍(実態は関東地域の占領を担当したアメリカ軍)が使用する基地となり、Haneda Army Airbase(ハネダ・アーミー・エアベース)と呼ばれることになった[43]

しかし、アメリカ軍から見て当時の羽田飛行場の規模(面積72ha)はローカル空港程度でしかなく、早急な拡張整備が求められた。そのため、初めの案では羽田穴守町などを避けて拡張する案も検討されたが、結局それは叶わず、飛行場の南側に隣接する羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町・羽田御台場・鈴木御台場・猟師町御台場の全域が拡張用地に充てられることになった。9月21日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)と蒲田区区長を連名とした「住民は48時間以内に強制退去」の命令が下された。当初は12時間以内であったが、住民代表による決死の訴えで48時間になった。この地区には1,320世帯・2,894人[44]が居住していたが、敗戦国であった日本政府に拒絶の余地はなかった。住民らは短時間のうちに立ち退くことを余儀なくされた[43][45][46]

マッカーサー司令部では羽田飛行場を連合軍の日本駐屯軍に引き渡すよう十二日我が当局に申し入れた。同時に滑走路拡張のため海岸線埋め立て設備を提供するよう要求してきたが、飛行場再建のためには二箇月乃至三箇月を要すると見ている。なお、飛行場付近の一部住民に対して立ち退きが命ぜられることになった。 — 『朝日新聞』昭和20年9月13日付けより

制限時間経過後も忘れ物を取りに戻る者がいたこと等から、その後GHQから日中に限り町への出入りが1週間だけ認められたというが、住民の退去後旧居住区は稲荷橋に設けられた入場ゲートや武装したアメリカ軍憲兵によって封鎖され、住民たちは完全に排除された[43]。何ら補償も行われないまま[47]この地を追われた住民らは、アメリカ軍の重機によって家が取り壊されていく様を海老取川の対岸から見ることしかできなかった[43]

 
駐車場内に取り残された大鳥居

一方、敷地内にあった穴守稲荷神社の旧一の大鳥居は住民たちが去った後にも残された[注 5][43][45]。この大鳥居は後に1980年代から始まった沖合展開事業に伴う新B滑走路の建設計画での障害となったため、移設されることとなる[49][50][51]

11月から本格的に開始されたアメリカ軍808飛行場建設部隊による空港拡張工事はまたたく間に進展し、広大な敷地を造成した[42]。この工事には「占領軍労務者」として雇われた約2000人の日本人労働者も参加していた。拡張工事は1946年6月までに竣工し、旧A滑走路(2000m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が完成した[43][46][52][53]

終戦時に空港内あった上述の航研機日本軍の軍用機は米軍によって投棄されており、現在も敷地内の地中に埋まっていると言われている[42][43][54]

日本国政府はその後土地の所有者に金銭を支払い、登記を国に移す作業を続けてきたが、全てを取得するには至らず、2012年に所有者不明の土地について登記移転の訴訟を起こしている[55]。この裁判では「時効取得」が成立するかが争点となり、一審では「国に所有の意思はなかった」として棄却されたが、2015年に高等裁判所が「国はGHQの要求で、法的根拠も契約もなく占有した。所有の意思がないと証明されたとは言えない」として逆転判決を言い渡した[56]

占領下

 
ダグラス DC-3 の前に立つ JAL 客室乗務員 (1951年8月27日)

連合国の占領下の日本においては、民間航空を含む全ての日本籍の航空機による活動が禁止されていたため、ノースウェスト航空パンアメリカン航空(両社ともに1947年)、英国海外航空(1948年)やフィリピン航空(1949年)、カナダ太平洋航空(1949年)、民航空運公司(1950年)などの、連合国の民間航空の定期便の乗り入れが開始された。

なお、英国海外航空のショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇で運航されていたイギリス南海岸のプールと香港を結ぶ路線を延長すべく、1946年3月にイギリス連邦占領軍(サー・セシル・バウチャー)(英語版)少将が東京国際空港沖への乗り入れを連合国軍最高司令官総司令部のダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、飛行艇用の滑水路やハンガー、ターミナルの施設が無いため拒否された[57]。このため、1948年3月19日以降暫くはイギリス連邦占領軍の拠点である岩国基地へ乗り入れていたが、その後、羽田空港への陸上機での乗り入れが許可された。

やがてサンフランシスコ講和条約が締結され、連合国による日本占領が終結に近づいた1951年10月25日には、日本の航空活動が解禁されたことを受けて、第二次世界大戦後初の国内民間航空定期便として日本航空マーチン2-0-2型機「もく星号」が、羽田空港 - 伊丹空港(大阪) - 板付空港(福岡)間の定期旅客運航を開始した[58]

返還と再出発(東京国際空港)

 
空港返還セレモニーの様子 アメリカ空軍C-97輸送機が見える(1952年7月1日)
 
1950年代のターミナル
 
旧ターミナルビル屋上にあった羽田航空神社(右)と穴守稲荷神社の空港分社(左)
 
タイ国際航空コンベア990の前で記念撮影に収まる昭和天皇ラーマ9世(1963年)

1952年7月1日[40]、滑走路・誘導路・各種航空灯火等の諸施設がアメリカ軍から日本国政府に移管され[59]、同日に「東京国際空港」に改名した[60]。しかし、「東京国際空港の共同使用に関する日本国と在日米軍との間の取極」により、管制権や一部施設は引き続き在日米軍の管轄下に置かれ、この時点では一部返還にとどまった[59]

また同月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットMk.Iが英国海外航空によって初飛来し、その後、ロンドンヒースロー国際空港との間に南回りヨーロッパ線で定期就航した。

翌1953年には、日本航空のダグラス DC-6によって、日本のフラッグキャリアによる第二次世界大戦後初の国際線定期路線の就航(東京 - ウェーク島 - ホノルル - サンフランシスコ)が開始された。

国内線も日本航空のほか、富士航空などのローカル線就航により本格化した上に、連合国以外に日本の空が解放されたことや、この頃から日本の経済状況が急激に回復してきたこともあり、POAS(1950年)やKLMオランダ航空(1951年)、エールフランス航空(1952年)やエアインディア(1955年)、スイス航空(1957年)やキャセイパシフィック航空(1957年)などが就航するなど、外国航空会社の就航開始が相次ぎ、国際線の旅客も急増した。

これを受け、全面返還に先立つ1955年5月17日、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に近代的な設備を持つ新しい旅客ターミナルが開館した。また、このターミナルビルの建設地が、強制退去となった穴守稲荷神社の本殿跡に当たることから、ターミナルビル屋上には穴守稲荷神社空港分社が祀られた。

進駐軍から空港が返還された4年後の31年に、旧社殿地付近に空港ビルが完成する。その時屋上に新たに航空神社を祀り出すとともに、穴守稲荷の分霊を祀った社も建立した。 そして以後今日に至るまで、祀り始めの17日を両社の縁日として、毎月穴守稲荷社の神官による祭祀が欠かさず続けられているのである。 — 大田区史編纂委員会編 大田の史話 その2より

同年8月には旧A滑走路が2550mに延伸され[61]、1956年7月には空港整備法に基づく第一種空港に指定された[59]。その後1958年6月[59]に全面返還された[62]

東京オリンピック

 
共同運行する日本航空のロゴが入ったアエロフロートTu-114(1965年)
 
旧羽田空港の白黒空中写真(1965年11月撮影)
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成

1960年代に入ると、1964年東京オリンピックのための空港設備の整備拡張が行われた。旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)されたほか、旧A滑走路が3,000mに延伸され[62]、旧C滑走路(3150m×60m)の新設[62]東京モノレールの乗り入れや貨物や検疫施設の拡充などが行われ、旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープンした。また、1963年には、航空業界と空港の守り神として、旅客ターミナルに羽田航空神社が建立された。

日本航空や外国航空会社により、ダグラス DC-8ボーイング707コンベア880などの大型ジェット旅客機が次々と就航したほか、ルフトハンザドイツ航空(1961年)やガルーダインドネシア航空(1962年)、ユナイテッド・アラブ航空(現在のエジプト航空、1962年)やアエロフロート航空(1967年)、マレーシア-シンガポール航空(現在のマレーシア航空シンガポール航空、1968年)など新規乗り入れ航空会社が相次ぎ、さらに地方空港の整備が進んだことで地方路線が増加した。

1966年には、空港周辺で単独機としては当時世界最悪の事故となった全日空羽田沖墜落事故が発生し、その1か月後にはカナダ太平洋航空402便着陸失敗事故が発生するなど悲劇も起きた。そのような中で、「かつて空港内に鎮座していた穴守稲荷神社の祟りであり、神社を空港の中に祀らないと事故がこれからも多発する」のような噂が流布し、神社の遷座を国会議員に陳情する者も現れた[63]。この陳情に「祟りはともかく、神社復興は必要だ。」と、当時の中村寅太運輸大臣瀬戸山三男建設大臣なども賛同し、大臣等を会長・顧問とした「穴守稲荷復元奉賛会」が設立された[64]。結局、社殿再建後であることやターミナルビルの屋上に分社が祀られていることなどから、空港内に穴守稲荷神社を復興する計画は頓挫したが、再建予定地とされた三愛オブリ株式会社が、事務所屋上に穴守稲荷大神を分霊した一祠を設けている[63]

空港関係者にとっては、旧地主神の稲荷神の祀りは、安全保持のため欠かせない関心事となっているのである。 — 大田区史編纂委員会編 大田の史話 その2より

その後1971年に旧B滑走路が2500mまで延伸[62]し、旧羽田空港が一応の完成を見た。

混雑

一方で、1964年に一般旅行者の海外旅行自由化が行われたことや、地方路線の機材大型化やジェット化が進んだことなどもあり、高度経済成長期真っただ中の1960年代後半には、羽田空港の施設では増大する一方の離着陸をさばくのが困難になった。ターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じられたが、それでも増加する乗り入れ機の対応が難しくなった。また、旧A滑走路の使用停止により発着便の増加が事実上不可能になったうえに、旅客ターミナルにボーディング・ブリッジが設置されていないほか、旅客ターミナルの混雑や貨物ターミナルの処理能力も限界に達し、抜本的な解決を望む声が多くなった。

この様な声に対し、当時の運輸省は羽田空港の沖合展開(更なる埋め立て)を検討したものの、当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたことや、アメリカ空軍横田飛行場の管理していた東京西部空域との兼ね合いもあり、1962年11月16日に、首都圏第二空港の開設が閣議決定された。その後行われた候補地の検討と紆余曲折の結果、1966年7月4日千葉県内陸部(成田市芝山町)での新東京国際空港(現・成田国際空港[注 6]、成田空港)建設が閣議決定される。

成田空港への国際線移管

 
日本航空のダグラスDC-8 (1969年)
 
パンアメリカン航空(Pan Am)のボーイング747(1976年)
 
新東京国際空港計画(青・緑)と1966年当時の羽田空港の規模(黄)

1970年には、パンアメリカン航空と日本航空が相次いで当時の主力機材であったボーイング707型機やDC-8型機の倍以上の座席数を持つボーイング747型機を就航させ、ノースウエスト航空英国海外航空エールフランス航空KLMオランダ航空などの他の乗り入れ航空会社もその後を追ったものの、ボーディング・ブリッジを備えたスポットがわずか3か所しかないなど、大型機の就航に施設拡充が間に合わないような状況は続いた。

成田空港(当初案は富里空港)の位置は元々、羽田空港の存続を前提に検討・決定されたものであるが、運輸省は羽田空港を廃止してでも東京湾内に大空港を建設する案を提唱した産業計画会議に対して非常識と退けつつも「都心から極めて近く、施設もすでに完備されており、国内線用空港として得難い貴重な存在である」とも回答しており、羽田の既存の施設を残してあくまで補完的に使用を続けていく方針であった[65]。しかし、成田空港問題の発生により、成田開港は当初計画の1971年から大幅に遅れた。

そのうえ、日本の高度経済成長が続いていた1970年代中盤には、日本航空がボーイング747型機を国内線に投入したほか、国内線のみを運航する全日本空輸や東亜国内航空ロッキード L-1011 トライスター型機やエアバスA300型機などのワイドボディ機の就航を開始したことから、首都圏の航空需要を一手に引き受けていた羽田空港は、国際線のみならず国内線ターミナル・貨物ターミナルの処理能力も限界に達してしまう。

そして1978年5月20日に漸く成田空港が開港を果たすと、外交的問題から成田空港への移転を行わなかった中華民国台湾)の中華航空(現・チャイナエアライン)を除く全ての国際線が成田に移転した[注 7]。なお、その後の1990年代に就航開始した中華民国のエバー航空も羽田空港を利用することとなった。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照のこと。

沖合展開事業

 
沖合展開事業の埋め立て工事中
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成1984年撮影の15枚を合成作成

かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあった。3本の滑走路はターミナルの北側にB滑走路(04/22)が、ターミナルの東側にA滑走路(15R/33L)とC滑走路(15L/33R)のクロースパラレルが配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できないうえに国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数をさばききれなくなり、空域では航空機同士が急接近することが常にあった。このため、1970年代には旧A滑走路を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。

新設された成田空港は激しい反対運動によって拡張が進められなかったために羽田空港から移転された国際線のみで処理能力が飽和し国内線を引き受けられる余力はなく、さらに国内線需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路のみであった当時の羽田空港は間もなくキャパシティの限界を再び迎えた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。

これら空港機能の改善および騒音対策を目的として[66]東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が計画された。1971年5月には既に航空局内部に「東京国際空港拡張計画作成委員会」が設置されていたが、革新知事として知られる当時の東京都知事である美濃部亮吉が羽田拡張に反対して国内線専用とすることを主張し、地元では拡張どころか羽田からの空港移転を主張する声さえあった。また、運輸省内部でも「羽田を拡張すれば、成田は不要」と主張する成田空港反対派を刺激したくないとの判断が働き、調査開始から10年余りの停滞があった。しかし、増大を続ける航空需要を背景に、鈴木俊一への知事交代に前後して沖展の調整が進められ、1984年1月26日には、東京国際空港沖合展開事業着工式が穴守稲荷神社で執り行われ、沖合展開事業が開始された[67][68][69][70][71]

沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。「ごみ戦争宣言」を出した美濃部都政下、沖展用地は東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場として、1975年度から土砂の投棄が続けられており、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。

この場所は、含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから、工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め(「おしるこ層」とも[72])、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている[73][74]。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキ油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した[注 8]

この埋め立てによって新たに生まれた広大な土地が全て大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。

1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。

 
当時は「新・羽田空港ターミナル(ビッグバード)」展望デッキ(1997年)
「現:第1旅客ターミナル展望デッキ」

1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディング・ブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除く全ての航空会社が移転した[注 7][75]。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれに「ビッグバード (Big Bird)」 という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港第1・第2旅客ターミナルの総称としても用いられている。

また、旧ターミナルビルの屋上に祀られていた羽田航空神社も新国内線ターミナルビルに遷座、穴守稲荷神社空港分社は本社に返霊されることになった。尚、航空関係者からは隣り合って祀られてきた2社を別々にする事に対して、反対する声もあったという。又、当初は神殿ではなく神棚に祀るという簡素化の案もあったが、運輸省東京空港事務所等の反対により、規模を縮小するが今まで通り神殿で祀る形に落ち着いた。更に東京空港事務所等は新ターミナルビルでも屋上に祀る事を要望していたが、こちらは実現しなかった。

1994年には、羽田空港新B滑走路の供用が開始され、ついに空港内に唯一残されていた穴守稲荷神社の旧一の大鳥居の移築が実施されることになったが、その後も移築は難航し、ようやく1999年2月3日撤去、翌4日移築と決定した。移築までの間、1995年には運輸省によって、「鳥居参道」と「参拝者専用駐車場」が整備され、鳥居までお参りが出来るようになっていた。移築工事にあたって土台の周りを掘ると、鳥居が非常に頑丈にできておりロープで引きずり倒せるようなものではないことが判明した。作業の際は風がやや強く、鳥居をクレーンで吊り上げた時にクレーン車のワイヤーが揺れ動く一幕もあったというが、2日間の工事は滞りなく終わり、現在地の弁天橋のたもと(天空橋駅南、東京空港警察署弁天橋交番近く)に移設されて今に至っている。

2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に15基のボーディング・ブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始し[75]、全日本空輸グループ(以下「ANAグループ」)および業務提携している北海道国際航空(現・エアドゥ)の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空グループ(以下「JALグループ」)が、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、ANAグループなどが使用していた北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日より、ANAグループと業務提携しているスカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)も第2旅客ターミナルに移転し、2020年10月25日時点では次の通りである。

ただしANA便名でもスターフライヤー運航のコードシェア便は第1旅客ターミナルから出発・到着する。

各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている(就航路線を参照)。

なおこの事業は3期に分かれ、2013年4月の旧暫定国際線ターミナルビル跡地への第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット増築部竣工により終了した。

  • 第1期(1984年1月 - 1988年3月)
    • A滑走路移転・拡張(1988年7月供用開始)
  • 第2期(1987年9月 - 1993年8月)
  • 第3期(1990年5月 - 2013年4月)
     
    新B滑走路の整備に伴い移設された大鳥居(天空橋駅の南)
    • C滑走路移転・拡張
      1996年空の日には空港イベントの一環として供用前のC滑走路が一般公開された。
      1997年3月27日供用開始[76]。これ以降、2本の平行滑走路による同時離着陸が可能になった(それまでの平行滑走路でも同時に離陸と着陸を行うことは可能であった)。
    • 暫定国際線旅客ターミナル(1998年3月20日供用開始[77]
    • 京急空港線羽田空港駅(現:羽田空港第1・第2ターミナル駅)まで延伸(1998年11月開通)
    • B滑走路移転・拡張(2000年3月供用開始)
    • 第2旅客ターミナルビル(2004年12月1日供用開始)
    • 東京モノレール、羽田空港第2ビル駅(現:羽田空港第2ターミナル駅)まで延伸(2004年12月1日開業)
    • 空港連絡道路(2004年12月1日供用開始)
    • 第1旅客ターミナルビル北ウイングJALグループ利用拡張(2004年12月21日開始)
    • 第2旅客ターミナルビル南ピア(2007年2月15日供用開始。66 - 70番スポット)[78]
    • 第2旅客ターミナルビル第4駐車場 (P4) 立体化(2010年8月14日供用開始)
    • 第2旅客ターミナルビル本館南側(2010年10月13日供用開始)[79][80]
    • 第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット(2013年4月8日供用開始)[81][82][83][84]

国際チャーター便就航・沖展当初計画の完遂

 
暫定国際線ターミナル(2010年10月20日閉鎖)

第2旅客ターミナルビルの供用開始に先駆け、1998年3月20日に第2旅客ターミナルビルの南寄りに暫定国際線旅客ターミナルビルが完成した[85]。当初はチャイナエアラインのみが使用し[注 7]、2000年9月から同じく台湾系のエバー航空が就航していたが、2002年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアライン・エバー航空はともに成田空港発着となった[86]

これに伴い浮いた発着枠が活用されたのが、同年開催された2002年サッカーワールドカップ日韓大会開催に伴う日韓間の航路であった。成田開港後の羽田空港と同様、前年の仁川国際空港のオープンに伴い事実上の国内線専用空港となったソウル市内にある金浦空港との間でワールドカップ開催に合わせてチャーター(貸切便)運航が行われた。この日韓の首都中心部から程近い両空港を結ぶチャーター便が好評を博したため、翌2003年からは「定期チャーター便」という定期便に限りなく近い方式で昼間帯での旅客便運航が開設された[87][88][89]

その後第1次安倍内閣が打ち出したアジア・ゲートウェイ構想の後押しを受けて、2007年には同じく定期チャーター便方式で、羽田と中華人民共和国の上海虹橋国際空港の間に、2008年には香港国際空港との間に、2009年には北京首都国際空港との間に航路が開設された[87]

一方、2007年2月に東側ターミナルビル南ピアが供用を開始。これで第3期事業ひいては当初の沖合展開事業が完了し、空港用地は1,271haとなった[87]。さらに(高速離脱誘導路)[注 9]の整備などにより、同年9月には発着容量が830回/日(年間30.3万回)にまで拡充された[90]

再拡張事業

航空需要の増大から、羽田空港においては、ラッシュ時は2分間隔で発着が行われるなど、1990年代には発着能力が限界に達しており、増便は困難な状況になっていた。限られた発着枠でできるだけ輸送量を大きくするため、羽田空港では日本の空港としては唯一、小型機の乗り入れが原則として禁止されており、その結果、特に地方空港の利便性が低下し不満が高まっていた。そこで2000年9月から、首都圏第3空港調査検討会により、羽田空港の再拡張や、首都圏に羽田・成田に次ぐ第3の空港を設置し、航空需要の増加に対応する案が検討された。その検討の結果、日本国政府は2001年12月19日に、第3空港の設置より優位性のある羽田空港の再拡張を優先的に行うことを決定し、以下の事業が行われた[91]

D滑走路の建設

 
建設中のD滑走路(桟橋部)
 
上空からの画像((解説付き画像))
 
D滑走路の桟橋構造部分 2010年12月
 
D滑走路 南西から(手前が05。奥が23。) 2015年9月

D滑走路(05/23)は、神奈川県寄りの多摩川河口付近の海上に、従来の埋め立てとジャケット工法による桟橋[注 10]を組み合わせた、世界初の人工島と桟橋のハイブリッド滑走路として、既存のB滑走路(04/22)とほぼ平行に建設された。このD滑走路の設計耐久年数は、100年に設定[92]されている。

設計・施工・運用にあたっては制約条件がいくつかあり、対策が行われた。

  • 多摩川の流れを遮らないこと。→南側1100mおよび現空港との連絡誘導路を桟橋形式にして、川の流れをせき止めないようにした。
  • 既存の滑走路の離着陸を妨害しないように工事をすること。→進入コース直下での大型クレーンによる施工など、制限表面に抵触する作業は空港運用時間外の夜間に行い、高さを低く改造した作業船も用いた。
  • 東京港に入出港するタンカー、貨物船などの安全な航行を妨害しないようにすること。→空港東側にある東京港第一航路を一部移設した[93]。また、工事期間中は東京航行安全情報センターを設けて一般船舶が工事区域に侵入しないように警戒その他の業務を行った。

東京湾の羽田空港沖は、江戸前マアナゴなどで有名な漁場である。滑走路の建設工事の影響により、漁獲量減少が懸念されるとして、地元漁協国土交通省の漁業補償交渉が難航した。当初、同省は閣議決定されていた2009年末の供用開始に向け、2006年春頃の着工を目指していたが、結果的に目標は達成できなかった。工事は2007年3月31日に開始され、5月20日に関係者による着工記念式典が行われた。同省は、当初の計画に間に合わせるために工期短縮の方法などを模索した結果、2010年10月21日に完成し、供用を開始した。

このD滑走路の設置計画当初は既存のB滑走路と完全に平行な滑走路の建設を予定していたが、南風・荒天時に千葉県浦安市の市街地上空を通過すること、また東京ディズニーリゾートと直線距離300mの沖合いを通過することが問題視され、滑走路の方位を時計回りに7.5度変更した[94]。この変更により、神奈川県川崎市にある東京湾アクアライン浮島換気所のピラミッド状の装飾が制限表面上に出るため、装飾上部が撤去された[95]

この滑走路の整備により、発着枠が段階的に引き上げられる。引き上げの最短の見通しは以下の通りである[96]

  • 再拡張以前
    昼間30.3万回
    (別途、深夜早朝時間帯においてチャーター便等が運航)
  • 2010年度(10月時点)
    昼間33.1万回+深夜早朝4.0万回
    (うち国際線は昼間3万回+深夜早朝3万回)
  • 2011年度中:昼間35.0万回+深夜早朝4.0万回
    (昼間1.9万回の増枠は全て国内線)
  • 2013年度中:昼間40.7万回+深夜早朝4.0万回
    (ただし、D滑走路を含めた新しい運用方式の慣熟が前提条件。場合によっては、部分的増枠ないし増枠時期の遅れもありえる。)

なお、エアバスA380後方乱気流が大きく[97]、後続機との飛行間隔を広げざるを得ないことから、昼間時間帯の乗り入れは認められないとされた[98]

国内線については発着枠の増加により、より小型の飛行機を用いた多頻度運航化が可能となる。国際線については、国土交通省は将来の国内航空需要に対応した発着枠を確保した後の余裕枠を活用して年間6万回程度(短距離便と、深夜早朝時間帯の中・長距離便がそれぞれ3万回、1日約80便)の就航が可能になるという見解を示している。おおむね就航可能な国際定期便については、短距離便でソウルや釜山台北北京上海など。中・長距離便で北アメリカヨーロッパ東南アジアなどの主要都市である。当初は羽田発着国内線最長距離の石垣空港間1,200マイル (1,947 km) 以内の区間を目安としていたが、2008年4月1日には香港線が開設され既にこの目安を超えていた。

ただし、2010年5月17日の、国土交通省成長戦略会議最終報告では、国際線のアジア近距離ビジネス路線限定を廃止して、アジア長距離路線や欧米路線も含めた、高需要、ビジネス路線も発着できるルールに変更した[96]。また、これを可能とするため、発着枠40.7万回+4.0万回が達成される時点で、今後の首都圏における国内・国際の航空需要の伸びを勘案しつつ、昼間時間帯の残り5.7万回の半分強に当たる3万回の発着枠をさらに国際線に配分することを基本にした[96]

新管制塔

 
新管制塔

沖合に建設されているD滑走路を含む空港全体の視認性確保などを目的として[99]、新たに旧管制塔の南東側、第2駐車場に隣接する「バスプール」のエリアに世界で3番目(当時)・国内最高の高さとなる116mの新管制塔が設けられ、2010年1月12日に運用が開始された。これにより、それまでの旧管制塔の飛行場管制室は供用開始から16年で役目を終えたことになるが、新管制塔供用開始後も撤去されずバックアップ用の予備管制塔となった。なお、新管制塔で新設されるのは飛行場管制室とその付帯設備だけで、ターミナルレーダー管制室や航空局庁舎は従来の位置のままである。

また、発着能力増大に伴い(グランドコントロール)だけでは対処飽和になる可能性が出てくることから、グランドコントロールとは別にエプロン地区のみを管制する「ランプ・コントロール」導入が考えられた。仮に導入された場合、これまでの旧管制塔は成田国際空港の旧管制塔のように「ランプ・コントロール・タワー」として利用することも検討されたが見送られた。

国際線地区

 
新国際線旅客ターミナルビル

A滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、かつての国内線ターミナル(1993年まで)と国際線ターミナル(1998年まで)、日本航空のライン整備センターなどがあった区域に、新しい国際線旅客ターミナルビルと国際貨物ターミナル、エプロンなどを建設し、国際線地区としてPFI手法を用いて整備した。2008年4月8日に起工式が行われ、2010年7月末に完成し[100]、同年10月21日に供用開始された[101][102]。これに伴い、10月12日に旧・P5駐車場が営業を終了し、10月20日に暫定国際線旅客ターミナルビルが閉鎖された[103]

国際線旅客ターミナルビルは、5階建て延べ床面積約15万9000平方メートル(付属棟含む)のターミナルビルと6層7段の駐車場(約2300台収容、延べ床面積約67,000平方メートル)で構成される。空港ターミナルビルには、江戸の町並みを再現した商業ゾーン(4階「江戸小路」)や日本最大級の規模の免税店を設置して収益を確保する見通しである。国際旅客ターミナルビルの整備・運営は、国内線ターミナルビルを運営している日本空港ビルデングを筆頭株主とする特別目的会社「東京国際空港ターミナル株式会社 (Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT)」がPFI方式で実施している。

スポットは固定スポットとオープンスポットが各々10か所設置されるのみであるうえ、旅客ターミナルビルがA滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、更なる拡張も難しいと考えられたことから、前原誠司国土交通大臣が提唱した「羽田空港国際ハブ空港化」の実現には不十分な規模であるとの指摘もあった。

国際貨物ターミナルは、年間50万トンを処理する貨物上屋2棟、生鮮上屋、燻蒸施設などで構成される。国際貨物ターミナルの整備・運営は三井物産グループが設立した特別目的会社「東京国際エアカーゴターミナル株式会社 (Tokyo International Air Cargo Terminal LTD, TIACT)」がPFI方式で実施している。

エプロン・周辺道路などの整備は大成建設を筆頭株主とする特別目的会社「"羽田空港国際線エプロンPFI株式会社"」が実施している。

国際線ターミナルビルの開業に合わせ、同ターミナルへのアクセスとして、東京モノレール羽田線は一部ルートを変更し、ビルに隣接する形での新駅「羽田空港国際線ビル駅」を新設した。また、京浜急行電鉄空港線も、羽田空港駅 - 天空橋駅間のターミナルビル地下に新駅「羽田空港国際線ターミナル駅」を開業し、あわせて国内線ターミナルの最寄駅である羽田空港駅の名称を「羽田空港国内線ターミナル駅」に変更した。

羽田空港船着場の開設

観光面および防災面から、国際線ターミナル近くに羽田空港船着場を開設した。

多摩川左岸に三愛石油株式会社が所有していたタンカーバースを譲り受け、2011年5月より旅客用に改修する工事を行い[104]、同年7月に利用開始された。その後、陸上部分の2期工事が行われ、同年11月30日に待合室施設などが新設され、完成した[105]

再拡張後の整備、拡張

国内線第1ターミナルの整備

 
 
第1ターミナルの出発ロビー 改装前(左)と改装後(右)

2011年11月16日、国内線第1旅客ターミナルビルのリニューアル工事が完了した[81][106][107]。チェックインカウンターが並ぶ2階の出発ロビーの天井には、自然光を取り入れる開口部が設けられ、明るい雰囲気となった。また、保安検査場を通過した後の制限エリア内の商業施設を大幅に拡充したほか、屋上展望デッキも改装して航空機をより見やすくなるようフェンスを更新した[108]

国際線ターミナルの拡張

 
拡張後の東京国際空港(2014年3月)

2009年10月13日、国土交通大臣だった前原誠司は、日本の地方空港から韓国仁川国際空港を経由した海外渡航が増加している現状を問題視。その原因とされている「内際分離」の原則(国際線は成田空港、国内線は羽田空港)を改め、羽田空港と成田空港を一体的に運用し、羽田空港を24時間使用可能な国際ハブ空港とする方針を明かした[109][110]。この方針を受け、新設した国際線旅客ターミナルビルを2013年度をめどに夜間駐機場として整備された北側エプロン方面へ延長増築し、搭乗口を増設する拡張計画が打ち出された[111][112]

拡張部分についてもPFI事業として整備され、2011年6月21日、国土交通省東京国際空港ターミナルが国際線旅客ターミナルビル本館の改修と増築、北側エプロンへの固定スポット8か所分のサテライト増築、立体駐車場の増築、ホテルの新設を内容とする拡張計画に合意した[113][114][115]。また、2012年8月31日、国際線エプロンの増設などの拡充整備による事業契約の変更について、国土交通省関東地方整備局と羽田空港国際線エプロンPFI株式会社が変更契約を締結した[116]

2014年3月30日、拡張部の一部が供用開始。ターミナルビルはT字状になり、延べ面積は約15万9000m2から約23万6000m2に約1.5倍拡大、固定スポット(搭乗口)が10から18、チェックインカウンターが96から144、出発保安検査場が1カ所から2カ所に増加するなどした[117][118]

2014年8月28日、拡張部一般エリアが供用開始。イベントスペースや多目的ホール、レストランや物販店などの商業店舗が設けられた[119]

2014年9月30日、ロイヤルパークホテル ザ 羽田(現・THE ロイヤルパークホテル 東京羽田)開業[120]。またホテル開業に合わせ、ビジネスジェット専用ゲートの供用が開始された[121]

2020年3月29日、第2旅客ターミナル、66-73番スポットの、国際線運用を開始現在は閉鎖中。

(2023年5月20日現在)

C滑

2009年4月、政府与党が長距離国際線への対応としてC滑走路を南東(D滑走路側)へ360m延長して3,360mにする方針を固め、追加経済対策に盛り込むこととした[122][123]。これは長距離国際線の輸送力を増強、大型機の離着陸を可能にする施策で、特に深夜早朝時間帯に就航する長距離国際線の大型化が可能となる[124]2009年度中に着工し、2013年度完成予定であった[125][126]が、用地内の廃棄物対策の検討に時間を要したため事業期間が約1年伸び、2014年12月11日より施設供用開始となった[127][128][129]

供用開始に伴い、深夜帯の北向き離陸用途として、現在主に使用しているD滑走路に加え、C滑走路の深夜制限も緩和されるため[注 1]、エアバスA380型機やボーイング747型機などの大型旅客機も、深夜早朝にC滑走路を使用できるようになる。また関連する工事として、34Rに於けるILSの更新も行われ、2015年8月20日よりILSカテゴリーIIIa、2016年1月7日よりILSカテゴリーIIIbが供用開始となることで、視界不良時の着陸基準が新たに設定され、空港機能の冗長性向上が図られた。

管制機関・空域再編

羽田空港では、通常の管制業務のほかに、航空管制運航情報官の運航援助情報業務や、航空管制官・航空管制運航情報官を置かない三宅島空港神津島空港新島空港八丈島空港リモート管制を行う東京飛行援助センター(FSC)が設置されているが、東日本の業務集約を目的に2021年に東京運航拠点(FAIB)に改組され、仙台FSC・新千歳FSCの運航援助情報業務を集約した[130][131]。今後、航空管制運航情報官の運航援助情報業務に専念するため、2022年中に東京FAIBのリモート管制を新千歳対空センターに移管予定である[130]

また、2019年には「首都圏空域再編」「東京進入管制区拡大」および「R-116(チャーリー)空域変更」を行い、羽田空港を含めた管制空域の再編が実施された。

国際線の就航状況

成田空港開港まで

羽田空港には国内線・国際線ともに就航し、1930年代の開港当初から日本航空輸送満州航空の国際線が乗り入れていた。戦後は日本の表玄関として、日本航空の国際線ハブ空港となったほか、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックをピークに、世界各国からの国際線が乗り入れていた。

しかし、当時の羽田空港の設備では手狭となり、国内線を減便して国際線を運航していたこともあり、東京オリンピック開催後になると、羽田空港に代わる首都圏に新たな国際線空港を建設する動きが出始めた。そして、千葉県成田市に首都圏における事実上の国際線専用空港として、1978年(昭和53年)5月20日に成田空港(当初の正式名称は新東京国際空港)が開港した。

成田空港開港後

1978年(昭和53年)に新東京国際空港が開港し、中華民国(台湾)の航空会社であるチャイナエアライン(中華航空)を除く国際線定期便は全て成田空港に移り、羽田空港は、国内線専用空港となった[注 7][注 12]

成田空港の開港後も、羽田空港発着であったチャイナエアラインは都心に近く空港アクセスが良いうえ、空港旅客サービス料が無料であるほか、国内線との接続が良いなどのプラス面を享受した。同社の台北経由便を利用してアジア各国やホノルルへ行く利用者が増加し、同社はこの恩恵を四半世紀にわたり享受することとなる。1989年には中華民国の新規参入航空会社であるエバー航空も羽田空港発着で乗り入れを開始した。2002年には早朝・深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運航が始まったものの[87][134]、同年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となったが、2010年の再国際化に伴い再び羽田空港に発着するようになった。

定期チャーター便の就航と再国際化

 
国際線ターミナルと国内線ターミナル間を結ぶ無料シャトルバス

2002年に開催された日韓共催ワールドカップにおいて、羽田空港とソウル金浦国際空港との間に日韓両国の航空会社がチャーター便を運航した。このチャーター便が好評を博し、翌2003年からは毎日運航され、かつ個人旅客による航空券購入が可能であり、定期便に限りなく近い「定期チャーター便」という方式で羽田 - 金浦便の運航を開始した(#国際チャーター便就航・沖展当初計画の完遂を参照)。

その後、同じく定期チャーター便方式で中華人民共和国上海虹橋国際空港2007年)、香港国際空港2008年)、北京首都国際空港2009年)との航路が次々と開設された。今後は、大連大連周水子国際空港との間に航路を開設することが計画されており、同国東北部において特に経済発展が著しい大連と東京都心から近くて便利な羽田空港を結び、片道約2時間30分の「日中日帰りビジネス」の構築を目指している。

再拡張事業でD滑走路が完成すると、羽田空港の発着枠は大幅に増加することになるが、増加分の一部は同様の形式で近距離国際線向けとする方針とした。これに対し、横浜市は「ASEAN地域を含む6000キロ以内を含める」よう主張していた。

第1次安倍内閣が打ち出したアジア・ゲートウェイ構想に基づき、国土交通省は2008年5月19日、再拡張事業により2010年にD滑走路が完成し羽田空港発着枠が大幅に増加した暁には深夜早朝時間帯に限り国際線の中距離・長距離便の就航を自由化する方針を固めた。また20日の経済財政諮問会議で当時の国土交通大臣であった冬柴鐵三は「6時台および22時台に羽田空港からの国際線の就航を可能とし、欧米を始めとした世界の主要都市への国際旅客定期便の就航を実現したいと考えている」と表明した。

国土交通省は、再拡張事業完成による発着枠増加分11万回のうち、昼間における3万回を近距離国際定期便に割り振ることを決めている。同省は、周囲の騒音問題等で成田空港が運用できない午後11時から午前6時まで(リレー時間帯を含める場合は午後10時から午前7時まで)の深夜・早朝には通常の発着枠とは別途、距離に制限が無い3万回が割り当てられ、国際線枠6万回とすることにより成田空港を補完する活用が可能であると判断している。さらに新しい国際線ターミナルが2010年10月に供用開始されたことにより、32年ぶりとなる中華民国以外の航空会社の国際線定期便が、羽田空港に就航した[135]

国土交通省の成長戦略会議は2010年4月13日、日本の将来の成長に向けた政策提案の重点項目を公表。その中に羽田空港の国際線発着枠を9万回に拡大し国内・国際線の乗り継ぎ拠点となる「ハブ機能」を強化する、今後、昼の時間帯に段階的に増える発着枠について3万回を国際線に充て、欧米路線の定期便も含めるとの方針が盛り込まれた。2009年9月に国土交通大臣に就任した前原誠司は約11万回増える発着枠の半分程度を国際線に回すとしていたが、さらに3万回程度が上積みされた格好である。一方、成田空港では格安航空会社専用のターミナル新設を計画するなど、格安航空会社の受け入れを強化するとの方向性が示された。

国際航空貨物便の乗り入れも認められ、日本貨物航空が2007年4月に、D滑走路運用開始後の2010年10月末以降の深夜・早朝帯(午後11時 - 午前6時)に貨物定期便を就航させる方針を明らかにしていたが、2009年6月の経営見直しにより、羽田空港への就航を当面見送ることを決定した[136]。2010年12月より香港航空が、定期チャーター貨物便を就航させた。

拡張後の国際線就航協議・合意

国土交通省と各国の航空当局は2008年7月以降、羽田空港再拡張後の国際線就航について各国航空当局との間で協議・合意が進められていることを下記のように発表している。

  • 2008年
    • 7月 : 羽田空港再拡張後の深夜・早朝時間帯において、日本とマレーシア双方の航空企業がそれぞれ週7便まで就航できる枠組み設定で合意したと発表。
    • 8月 : 同月13日まで開かれていた日韓航空協議で、2010年の羽田空港再拡張後に日韓双方の航空会社が羽田 - 金浦間で1日それぞれ6便計12便の定期便を運航させることなどで合意したと発表。
    • 9月 : シンガポールとの航空協議において、2010年の羽田拡充後のシンガポール・チャンギ国際空港との路線の新設を合意した。
    • 10月 : 2010年10月以降に深夜・早朝枠を利用し、羽田とフランスの首都・パリにあるシャルル・ド・ゴール国際空港との間で、日仏両国の航空会社が1日1便ずつの定期直行便を運航することで日仏両国が合意したと発表。羽田に発着するヨーロッパとの定期路線の復活が決定するのは成田空港開港以来初めてである。なお、日本側の航空会社は日本航空が就航を検討していると報道されている[137][138]
    • 11月 : 2010年10月以降に羽田とイギリスのロンドン・ヒースロー国際空港との間で、日英両国の航空会社が1日1便ずつの定期直行便を運航することで日英両国が合意したと発表。ヨーロッパとの定期路線の復活はフランスに続いて2カ国目になる。なお、日本側は日本航空と全日本空輸が、イギリス側はブリティッシュ・エアウェイズヴァージン・アトランティック航空が就航に意欲を見せていると報道される[139]。(しかしヴァージン側は実現しなかった)
  • 2009年
    • 2月2日 : 日本・タイ航空当局間協議の結果、深夜早朝枠で羽田とバンコクとの間に日本・タイそれぞれの航空会社に1日1便の就航が可能とする合意[140]
    • 2月9日 : 日本・オランダ航空当局と日蘭それぞれの航空会社が週7便で羽田とアムステルダムとの間で就航できるよう合意[141]
    • 3月19日 : 日本・香港航空当局間協議の結果、羽田の第4滑走路供用開始後、日本、香港双方の企業に対し、羽田の昼間時間帯を使用して双方1日2便ずつ、羽田 - 香港路線の開設を可能とし、成田空港および羽田空港の深夜早朝時間帯と香港を結ぶ便数を旅客貨物の区別なく週70便まで可能とすることで合意したと発表。
    • 4月3日 : 日本・ドイツ航空当局間で、羽田の第4滑走路供用開始後に羽田とドイツを結ぶ定期便を1日2便(週14便)まで運航できる合意をする[142][143]
    • 4月6日 : 日本・カナダ航空当局間で、日本とカナダ双方の航空会社が羽田空港とカナダ国内の空港(バンクーバーもしくはトロント)との間にそれぞれ1日1便(週7便)まで定期便を運航できる枠組みが設定される。
    • 10月 : 羽田と台北松山空港(台北)との間で定期便を就航させることに向けて合意することを明らかにする[144]
    • 12月11日 : 日本の対中華民国窓口機関、財団法人交流協会と中華民国側の亜東関係協会は11日、羽田 - 台北(松山)路線の開設などで合意した。第4滑走路の供用が開始され次第、1日に最大8便(8往復)が運航される予定。
    • 12月12日 : アメリカの首都であるワシントンD.C.で開かれていた日米航空交渉の中で、航空自由化(オープンスカイ)協定で合意したと発表。羽田・成田両空港については発着便数に余裕のない混雑空港として、これまで通り政府間の協議で便数を決定するとしている。また、2010年10月の羽田空港再拡張事業完了後の夜間・早朝時間帯について、日米双方の航空会社が羽田とアメリカの空港を結ぶ旅客便の路線をそれぞれ4往復ずつ設定できることでも合意。同協定の枠組みに含まれる「以遠権」も羽田発着便に適用されることになり、アメリカの航空会社は羽田以遠への第3国運航も可能となる。
  • 2010年
    • 4月13日 : エアアジア Xは年内に羽田 - クアラルンプール間就航を表明[145]
    • 5月7日 : アメリカ運輸省が、10年秋以降、就航可能になる羽田への路線について、デルタ航空にロサンゼルスとデトロイトの2路線を、アメリカン航空にニューヨーク線を、新規のハワイアン航空にホノルル線を認可したと発表。ユナイテッド航空コンチネンタル航空も羽田線を申請していたが、いずれも却下される[146]
    • 5月10日 : シンガポール航空による羽田 - シンガポール線が1日2便就航することを正式発表。
    • 5月19日 : キャセイパシフィック航空が羽田 - 香港線への就航計画を正式発表。
    • 6月5日 : 国土交通省は、日本の航空会社に割り当てられるアメリカ行き路線4便のうち、日本航空に対してサンフランシスコ便とホノルル便の2便を、全日本空輸に対してロサンゼルス便とホノルル便の2便の就航を認可した。これにより、2010年10月以降の航空会社別の国際線運航便数は日本航空が計10路線、1日13便と最多となる[147]
    • 7月6日 : アメリカ運輸省は、羽田空港 - アメリカ間の直行便計4路線の配分を内定どおりデルタ航空2路線、アメリカン航空1路線、ハワイアン航空1路線に正式決定した。これにより、2010年10月以降の羽田空港 - アメリカ間の航空連合別の直行便数は、日本航空とアメリカン航空が加盟するワンワールドが最多になる[148]

今後の整備構想

発着容量拡大試算

都心上空飛行の規制緩和

 
新着陸ルートを試験飛行している旅客機。(2020年2月7日東京都港区赤坂にて撮影)

2014年6月6日、国土交通省の有識者会議は、現在は騒音問題に配慮して、現在、東京都心の上空6000フィート(約1800メートル)に制限されている飛行ルートを、3000フィート(約900メートル)以下に規制緩和することを提案した[149][150]

混雑する15時から19時の4時間の解禁により、年間2.6万回の発着枠拡大が見込める[149]。騒音問題や安全性に懸念があり、実現には航路上空の地方公共団体や地元住民の理解が課題となる[151]

2016年7月28日、国交省航空局は首都圏空港の機能強化について、関係自治体や航空会社など関係者間で協議した。進入開始高度の引き上げや一定条件下での運用時間後ろ倒し、海上ルートの活用など、運用を工夫することで、都心上空での騒音軽減対策を施し都心上空の通過離着陸経路は事実上認められた[152]

2019年8月8日、国交省は20年夏ダイヤが始まる20年3月29日から新経路の運用開始を発表[153]。その後8月30日から12月にかけて午前中実機飛行検査を実施[154]。12月には南風運用の新進入経路がパイロット用チャートとして発表され、進入角度が従来一般的な3度から急角度な3.45度に設定されていることが判明。

2020年になり1月にIATAのアジア太平洋地域安全施策責任者やデルタ航空パイロットが国交省に3.45度の進入着陸に「強い懸念を抱いている」と申し入れ、IATAも大規模な空港で「この角度で飛んでいるパイロットはいない」と説明し、長距離を飛行後に混雑の中を着陸する羽田特有のリスクがあるとし、国交省が急勾配進入設定の理由の一つにしている騒音についてもその都度の気象条件にも左右され「効果はほとんどない」と指摘した[155]が、1月30日から3月11日にかけて日中時間帯に商業運航されている各エアライン旅客便を使用した実機飛行確認が行われ2月11日までに完了し、期間中、南風運用でデルタ航空は「安全性が社内で確認できていない」として一時運用見合わせ、エアカナダは運用初日成田空港へ一時目的地変更し通常運用再開後羽田へ回航し、新進入経路を避けたと見られていて、国交省は「19年12月の以降の周知に努めてきていた」とし、ほかの外航に対し準備状況確認を進め、別の方法を外航から求められた場合「検討中」としていた[156]

しかし、3月に国交相と羽田乗り入れエアライン各社パイロットとの意見交換で日本航空、全日本空輸の安全性に問題はないとの認識を示し、国交省は両社の意見を「安全性についてクリアな説明だった」と評価した[157]。2020年3月24日、国土交通省は、2月にあった試験飛行の騒音データを分析した結果を公表した。大型、中型、小型に3分類した機体の大きさを踏まえて計19地点、のべ51か所で騒音を測定し、11か所(22%)で想定を1~3デシベル上回り、30か所(59%)で想定と同じ、10か所(20%)で想定を1~4デシベル下回り、3.45度の着陸角度での騒音軽減効果は3.0度での着陸にくらべ平均値で0.1~1.1デシベル低い値だったとし、[158]同年3月29日から運用開始した。

しかし、同年6月30日に国土交通省は関係自治体等から新経路の固定化回避等に関する要望があるとして、日本航空、全日本空輸の運航管理担当者を含めた羽田新経路の固定化回避に係る技術的方策検討会を開催するとしている[159]

羽田空港新飛行については羽田空港新飛行にて詳しく記載している。

A滑走路の南側延伸提言

現在、A滑走路とB滑走路は交差しているため独立運用ができず、発着容量を制限する一因となっている。

社団法人日本土木工業協会の空港技術専門委員会が報告した、「羽田空港の利用状況分析と処理容量の算定」[160]では、(現在B滑走路と交差している)A滑走路を南にスライドし、独立運用を可能とすることで、発着能力が43回/時(43.7万回/年)になるとされている。

また、財団法人運輸政策研究機構による「首都圏空港将来像調査」によれば、発着機材の戦略的順序付け等の関係運用の高度化により、発着枠が44.7万回/年、加えてA滑走路の南側延伸で45.8万回/年、さらに旧B滑走路の再活用も加えると47.8万回/年まで、発着容量の拡大が可能である。これに加え、A滑走路北側の東京方面への離陸を実施することで、48.8万回/年まで容量が増加する[161]

第5滑走路の建設提言

社団法人日本土木工業協会の空港技術専門委員会が報告した「羽田空港の処理容量拡大策の検討」[162]によれば、C滑走路の沖側760mにクロースパラレル方式、あるいは1310mにオープンパラレル方式で滑走路を建設した場合、発着能力は46回/時(46.8万回)となる。

オープンパラレル方式の場合、大井青海埠頭ガントリークレーンと第一航路の制限表面の問題をクリアするために、D滑走路と交差するまで南側に寄せる必要がある。そのため、本来ならオープンパラレルのほうがより発着能力が高くなるが、D滑走路と独立運用ができなくなるため、クロースパラレル方式とほぼ変わらない発着能力となる。なお、現行の空域制限が緩和された場合、発着能力はより拡大する。

また、財団法人運輸政策研究機構による「首都圏空港将来像調査」によれば、C滑走路の沖合に、C滑走路と並行する滑走路を建設し、D滑走路の東方延伸も行うことで、技術的には63.0万回まで容量の拡大が可能となる。ただし、この場合は騒音環境基準を超過してしまう。これに対し、発着回数を56.0万回/年まで制限すると、環境基準を超えるエリアをほぼ無くせる可能性があることが確認されている[161]

だがこの場合でも、都心方面からのA滑走路やC滑走路への直線進入、B滑走路から西側への離陸など、現在の千葉上空の飛行高度よりも、かなりの低高度の使用が必要である[161]

神奈川口

2004年から2006年にかけて、国土交通大臣、神奈川県知事、横浜市長、川崎市長を構成員とする「神奈川口構想に関する協議会」が4回会合を行い、神奈川県などからの提案について検討を進めた。神奈川県横浜市川崎市の1県2政令指定都市が共同で提案している、羽田空港の再拡張・国際化に合わせて多摩川にある首都高速湾岸線大師橋の間に空港に接続するまたは海底トンネルを建設し、多摩川の対岸にある川崎市側にも空港施設を設置するという構想で、いすゞ自動車川崎工場跡地の利用を想定していた。国際線旅客ターミナルビルの出国手続き施設を建設するほか、ホテル物流施設を併設し、経済的な地盤沈下が進む京浜臨海部再生の起爆剤になると考えられた。

この神奈川口構想に対しては、東京都大田区が強く反対したが、「アジア諸都市の国際ハブ空港競争激化の中にあって、日本の羽田空港がそれに勝ち抜くキーのひとつとしてあげられるのが、臨空関連施設やホテル他を擁する神奈川口構想の成立可否かもしれない」とする新聞記事[163]もある。

2014年9月8日、「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の初会合で政府は羽田空港と川崎市を直結する「連絡橋」と「海底トンネル」の新設を決定[164][165]。川崎市の15年来の悲願が実現することとなった[166]

2015年5月18日に開かれた「羽田空港周辺・京浜臨海部連携強化推進委員会」の第二回会合で、羽田連絡橋などの整備場所について「川崎区の殿町地区中央部に両地区を結ぶ新たな橋梁(2車線)」と初めて明記された[166][167]

ただ2017年現在、川崎市側のエリア(いすゞ工場跡地)についてはキングスカイフロントとして、既に医薬品関連の研究施設の集積拠点として整備が進められており、一般客向けの空港関連施設の設置は事実上困難となっている(ANAのケータリングセンターなど、業務用の施設は一部設けられている)。そのため新たな空港施設については、羽田連絡橋の大田区側に宿泊施設等を設ける案が検討された[168]

2017年1月24日、東京都が都市計画事業認可を取得し、事業に着手したと発表した[169][170]

2017年9月30日、「羽田連絡道路」(のちに橋梁部を多摩川スカイブリッジと命名)の起工式が川崎市殿町地区で行われた[171]。当初の予定より遅延したが、2022年3月12日に開通した[172][173][174]。またスカイブリッジ周辺(大田区側)の空港施設として、住友不動産羽田エアポートガーデンを2023年1月に開業した。

際内トンネル

国際線と国内線の両ターミナルを連絡する片側1車線の「際内トンネル」を新設。乗り継ぎ時のセキュリティーチェックを回避し、乗り継ぎ利便性の向上を図る。国際線地区貨物ターミナル付近を起点にシールド工法のトンネルでA滑走路の地下を横断し、日本航空第一テクニカルセンター付近に至る。2015年度に着工し、2020年5月末完成[175]

施設

滑走路

A滑走路(34L)着陸動画

滑走路は以下の4本。A滑走路とC滑走路は平行滑走路の(オープンパラレル配置)で、同時離着陸が可能である。南風の好天時にはB滑走路とD滑走路で(LDA) (Localizer-Type Directional Aid) を使用した同時進入が行われる。

方向 長さ・幅 日中帯の離着陸用途 ILS
設置場所
備考
A滑走路 16R/34L 3000 m×60 m 北風時着陸用および南風時離陸用 16R/34L側
B滑走路 04/22 2500 m×60 m 南風時離着陸用 22側
C滑走路 16L/34R 3360 m×60 m[注 1] 北風時離着陸用および南風時離陸用 16L/34R側 ILSのカテゴリーはIIIb
D滑走路 05/23 2500 m×60 m 北風時離陸用および南風時着陸用 23側 ILSのローカライザーオフセットは2.0度

上表中の離着陸用途は原則として日中帯(午前6時から午後11時まで)のものである。深夜帯(午後11時から午前6時まで)はC滑走路とD滑走路を優先的に使用し、これらが利用できない場合にのみA滑走路、B滑走路の優先順で使用する[176]

B滑走路については、D滑走路供用以前は横風着陸用滑走路としての位置づけ[94]であったが、2010年10月のD滑走路供用開始にともない、南風時着陸用としてD滑走路とともに使用されている[94][177]。B滑走路とD滑走路の方位は7.5度違い[94]で平行に近い。

旅客ターミナル

東京国際空港には、3つの空港ターミナルがある。

ターミナル名 主な発着航空会社 ターミナルビル
延べ床面積
ボーディング
ブリッジ基数
供用開始日
第1ターミナル(T1) JALグループSKYSFJ 29万1500平方メートル[178][179] 24基[75] 1993年9月27日[180]
第2ターミナル(T2) ANAADOSNA 約26万5290平方メートル 26基[178][181][182][183] 2004年12月1日
第3ターミナル(T3) 全ての国際線 約23万6000平方メートル
(供給処理施設棟を含む)
20基 2010年10月21日[101][178]
ターミナル連絡バス
  
2020年に採用されたカラーリング

空港ターミナル間の移動手段として、京浜急行バス連絡バスを5:00 - 24:00頃まで2パターン運行している。

第1・第2ターミナル相互間:黄色に赤帯のT1-T2と大書された無料連絡バス

  • 第1・第2ターミナルと第3ターミナル間:黄色に緑帯の車体にT1-T2-T3と大書された無料連絡バス

但し、通常の路線バスで運行する場合や、乗務員や車両の交替による途中のターミナルでの運行打ち切りがあるので、案内放送やバス表示板に注意が必要である。各ターミナルの無料循環バス乗り場は、

  • 第1ターミナル:到着階8番
  • 第2ターミナル:到着階9番
  • 第3ターミナル:0番

連絡バス以外にも、ターミナル間の移動手段がある。

第1ターミナル(T1)

地下1階・地上5階、一部6階建ての本館と中央南北の3箇所の(ウィング)から構成される[179]。年間4300万人もの旅客需要をこのターミナルで対応できるように設計されており、その規模の大きさは当時世界でも例がなかった[184]。そのため、単純で分かりやすく利用しやすい施設となるように目指した[185][186]

外観は「ターミナルビルとして機能している事を表現することで十分である」と出された結論に基づいて「かたまり」として機能を纏め、材料や色彩はシンプルにした[187]。材料は、維持管理や耐候性を考慮してタイルが使用されている[187]

西側に長く面している事から、窓ガラスには熱線吸収タイプのものを採用し、空調の負担軽減を図っている[187]。進入道路からの印象を強めるために、建物の南部と北部は、ガラスと金属パネルの構成によって表情を変えている[187]。建物内部は各施設の集約と、その配置がブロック分けされている[185]

また、4つの吹抜けがあり、中央のシースルーエレベーターのある部分に、地下1階から5階までの5層の吹抜けが、建物中央部にある店舗の集合する部分に2階から6階までの4層の吹抜けが、2階出発ロビーから5階までは4層の吹抜けが、2階から3階までは「アルカイダ」という2層の吹抜けがある[179]。吹抜け上部には天窓を設けて自然光を取り入れるようにした事により、明るく開放的な空間を実現している[179]。これにより、良好な視界と開放感を実現している[179]

柱間は全て12×12メートルで、各階の床に段差はない[186]。大阪国際空港・成田国際空港(第1ターミナル)・新千歳空港などのターミナル施設と同様に、建物中央部を商業区画として、店舗が集中する商業施設で構成され、名称は「マーケットプレイス」である。地下1階のフードコートには「東京シェフズキッチン」、エリアには「マーケットプレイス ガレリア」の名称が付けられている[179]

ガレリアには、アパレルブランドを扱う百貨店(三越髙島屋)のブティック様の小型売店、高級志向のレストランなどが入居しており、さながらデパートのような内装となっている。規模は有楽町マリオンと同規模である[186]。また、ガレリアには「銀座に出向かなくても買い物ができる」という意図も込められている[186]

1階には、航空業界の躍進と航空安全輸送を祈念する羽田航空神社があり、旅の安全を願う航空関係者や一般利用者が参拝に訪れる。

2階に噴水広場があり、待ち合わせ場所などとして使われるほか、稀にライブやトークショーなどのイベント会場として使われることがある。6階は宴会場・会議室があり、一般的な会合や結婚披露宴の開催が可能となっている。また、展望デッキへの出入口がある。また、2012年4月には1階にカプセルホテル(通常のカプセルホテルに比べると、旅客機のファーストクラスをイメージした高級な内装になっている)「ファーストキャビン羽田ターミナル1」がオープンした[188]

出発ロビーは2階、到着ロビーは1階にある[186]。出発ロビーのチェックインカウンターは、搭乗客が目指すカウンターを簡単に把握できる視認性が求められている[187]。そのため、柱を無くしたり表示サインや案内所を設置したりするなどの工夫が図られている[186]。セキュリティゲートは7か所に分散配置された[187]。旧ターミナルでは慢性的に混雑していたが、このターミナルでは、ピーク時と団体旅客の通過時を除いて混雑は解消された[187]

また、制限区域内への入口と認知されやすくなるよう門形のデザインとなっている[186]。セキュリティゲートから全ての搭乗口までは、最長でも300メートル以内に収まっている[187]。歩行軽減のために動く歩道が設置されている[187]。床はカーペット敷きである[187]

2階のコンコースと接続するボーディング・ブリッジは門形で、固定部分と可動部分からなる[187]車椅子を利用する搭乗客と高齢者に配慮して、傾斜は1/12以下に抑えられている[187]。ロビー中央には、モニュメントを配した「出会いの広場」が設けられ、送迎・待ち合わせを容易にしている[186]

第1ターミナルでは、出発客動線と到着客動線は分離されていない。到着客は搭乗口から出発待合エリアに出た後、到着専用階段を下り1階到着出口へと向かう。このため、第1ターミナル相互の乗り継ぎ客は、降機後すぐに次の搭乗口へと向かう。

羽田空港には、自動車のほか公共交通機関を利用する利用者の割合が高いと考えられ、特に空港に乗り入れる東京モノレール羽田空港線京急空港線との接続をスムーズにすることが、今回の動線計画の大きなテーマの一つであった[185]。そこで、地下1階の改札口から各フロアへの移動を容易とするために、中央南北4箇所に昇降動線を設置、モノレールの駅前にシースルーエレベーターを、2階の出発ロビーと1階の到着ロビーを直通で結ぶエスカレーターと、各階乗り継ぎのエスカレーターを設置した[185]

このほか、計画当時から第2ターミナル完成時に、地下1階で接続できるようになっていた[179]。ターミナル前の道路には国内で初めてダブルデッキ構造が採用された[185]。2層に分けられた道路は、上層が出発ロビー、下層が到着ロビーに面している[185]。なお、このデッキは土木構造物扱いである[187]

駐車場は、南北にP1とP2の2棟あり、約4700台収容可能である[185]。3階に設置された連絡橋と連絡橋に接続した昇降動線を通じて、雨に濡れずにスムーズにターミナル内にアクセスできるよう設計されている[185]

第2ターミナル(T2)

2004年の供用開始当初は、北ピアと南端にある上層部が全面ガラス貼りの吹き抜け部分(5階建、メトロハットと形状が似ている)のみで、商業区画「マーケットプレイス」は吹き抜け部分の各階に集中している。

その後、吹き抜け部分の南側で南ピアの建設が進められ、2010年10月に供用開始したことで、第1ターミナルと同様、吹き抜け部分が建物の中心に位置することになった。通常の商業施設のほかには、北ピアに羽田エクセルホテル東急が、南ピアには永青文庫熊本藩主である肥後細川家の収集・保存した美術品を保存・展示している)の所蔵品の一部を中心に展示する美術館「ディスカバリーミュージアム」[189]がある。

第2ターミナルでは、出発客動線と到着客動線が分離されており、出発客は2階よりスロープを下り搭乗、到着客は降機後スロープを降り、中2階の通路を到着出口へ向かう。第2ターミナル相互の乗り継ぎの場合、出口通路途中にある改札を通過した後2階に上る[190]。 セキュリティゲートから最も遠い搭乗口まではおよそ740メートル離れており、10分程度かかり、搭乗口まで旅客増加やターミナル拡張のため2018年12月から保安検査締め切り時間を早めている[191]

国際線増便に伴い、当ターミナルの一部を国際線対応とするため、2017年10月よりターミナルの南側を増築する工事に着手。駐機場は7スポットを国際線対応とし(うち5スポットは際内共用)、CIQ(税関・出入国管理・検疫)施設や免税店などを新設し、2020年3月29日に24時間運用の国際線施設を開業。ただし、開業直後にCOVID-19に伴う国際線旅客需要減退により、同年4月11日より当面の間、国際線施設を閉鎖し、再び第3ターミナルに国際線を集約している[192]

なお、増築工事に伴いターミナルから離れたオープンスポットでの運用が増えるため、2018年5月からターミナル北側C滑走路寄りの3スポットでPBB(搭乗橋)やエスカレーターなどを備えた「ボーディングステーション」(503・504・506スポット)を設置[193]。さらに同年12月からは、ターミナル北側ボーディングステーションの反対側東貨物地区前の3スポットに3か所の搭乗口を有する3階建てのサテライト(46-48搭乗口)を供用開始している[194]。このサテライトは通常、ANAグループ国内線専用で運用されているが、2020年初頭の新型コロナウイルス流行時中華人民共和国武漢市からの日本国政府チャーター機を運航した際、一般客と動線を完全分離できることから、特別にCIQ職員を派遣して貸切運用された[195]

第3ターミナル(T3)

第1・第2ターミナルと違い、24時間供用されており、一部店舗も24時間営業している。一般エリア4階には、「江戸小路」として日本色を濃く演出されたショップデザインがなされている。第1・第2ターミナルに出店しているマクドナルドスターバックスは、本ターミナルには無い。供用開始当初は国際線ターミナルであったが、第2ターミナルの国際線施設開業に伴い、2020年3月14日に現名称に変更された[196]

貨物ターミナル

西貨物地区と東貨物地区があり、第1、第2旅客ターミナルの北側にある。両ターミナルから空港内循環バスでアクセスできる。2010年10月には新たに国際線地区貨物ターミナルが開業した。

VIP用施設

日本国政府専用機を含む政府専用機などを利用する政府要人皇族王族国賓など、いわゆるVIPが利用できる貴賓室と、専用機専用の駐機スポットが東貨物地区横にある。ボーディングブリッジはなくタラップを利用する。一般道へ直結する専用の車道、ゲートも設けられているが、警備上、この道路の通行時は周辺道路(首都高速1号羽田線)が予告無く一時通行止め(迂回を要請される)となることがある。この駐機スポットでVIPが搭乗するときは、狙撃防止のために駐機スポットを望む空港ラウンジなどには警備員が配置され、窓にはカーテンが降ろされるなど、警備上の配慮が行われている。[要出典]

プライベート機用施設

遊覧目的の小型機は乗り入れできないが、企業や個人が所有するビジネスジェットなどのプライベート機専用スポットが第3ターミナルとN地区に約10箇所存在する。利用者は専用ゲートを使用し、一般の旅客の目に触れることのない専用動線を利用することができる。2014年時点で年間約2300便が利用しており、多くは国際線である[197]

国土交通省は近年国内外からのビジネスジェットの受け入れ条件を緩和し、発着枠に空きがあればいつでも発着でき、発着当日の手続きでも受け付け可能とするなどの受け入れ環境の整備を進めている[198]カルロス・ゴーン被告の関西国際空港からの無断出国を受け、搭乗時の検査が義務付けされた。

航空会社施設

航空会社が使用しているが基本空港施設が管理貸与している建物

  • 日本航空(格納庫・整備場・訓練施設)
  • 全日本空輸(格納庫・整備場)
  • スカイマーク(本社・格納庫・整備場・訓練施設)

羽田空港船着場

国際線ターミナル近くに羽田空港船着場がある。再拡張事業の一つとして開設された。

空港周辺への遊覧船が発着するほか、2013年7月から観光汽船興業が都内(芝浦、日本橋、豊洲、浅草)までの予約制水上タクシー「リムジンボート」を運行している[199]

施設がある機関

旧整備場地区(整備場駅)に、以下の事務所や格納庫がある。

旅客取扱施設利用料

国内線

2005年4月1日より徴収を開始した。

  • 出発・到着客 大人370円 小人180円(2022年3月1日発券分から)[200]
国内線旅客取扱施設利用料の変遷
期間 料金 出典
2005年4月1日搭乗分から 大人100円,小人050円 [201]
2011年4月1日搭乗分から 大人170円,小人080円 [202]
2014年4月1日搭乗分から 大人290円,小人140円 [203]
2022年3月1日発券分から 大人370円,小人180円 [200]


国際線

2010年10月21日より徴収を開始した。

  • 出発客:大人2,950円 小人1,470円(2022年3月27日発券分から)[204]
  • 乗継客:大人1,470円 小人 0730円(2022年3月27日発券分から)[204]


国際線旅客取扱施設利用料の変遷
期間 料金(出発客) 料金(乗継客) 出典
2010年10月21日搭乗分から 大人2,000円,小人1,000円 大人1,000円,小人500円 [205]
2014年2月1日発券分かつ
2014年4月1日搭乗分から
大人2,570円,小人1,280円 大人1,280円,小人640円 [206]
2019年10月1日発券分から 大人2,610円,小人1,300円 大人1,300円,小人650円 [207]
2022年3月27日発券分から 大人2,950円,小人1,470円 大人1,470円,小人730円 [204]

羽田国家戦略特別区域

羽田エリアは国家戦略特別区域に指定されており、国際空港至近であることを生かした開発プロジェクトが進められている。天空橋駅に直結する旧ターミナルでは、2020年7月に「HANEDA INNOVATION CITY」が開業した。自動運転車や先端医療の研究拠点、大型会議・展示場などを備える[208]。第3ターミナル隣接地では、住友不動産がホテルなど「羽田エアポートガーデン」を完成させた[209]が、新型コロナウイルス感染拡大に伴い開業が延期され、2023年1月に全面開業した。

ハブ空港(拠点空港)、焦点空港としている航空会社

下記の航空会社がこの空港をハブ空港(または焦点空港)としている。

就航路線

旅客便

国内線

国内線は日本一の旅客輸送規模を誇り、2018年度の路線別旅客輸送実績では、羽田~新千歳が最も多く約905万、二番目に羽田~福岡の872万などとなっている。詳細は(路線別旅客輸送実績)を参照。

第1ターミナル発着の日本航空においては各方面別に北ウイングと南ウイングに分かれており、北海道・東北・中部・近畿方面が北ウイング、中国・四国・九州・沖縄方面が南ウイングからの発着となっている[210]

第1ターミナル
北ウイング
航空会社就航地
日本航空 (JAL)(OW) [注 13]
【北海道地方】
札幌/新千歳女満別旭川釧路帯広函館
【東北地方】
青森三沢秋田山形
【中部地方】
小松名古屋/中部
【近畿地方】
大阪/伊丹大阪/関西南紀白浜
スカイマーク (SKY) 札幌/新千歳、大阪/神戸福岡鹿児島沖縄/那覇宮古/下地島
南ウィング
航空会社就航地
日本航空 (JAL)(OW) [注 14]
【中国地方】
出雲岡山広島山口宇部
【四国地方】
高松松山徳島高知
【九州地方】
福岡北九州長崎大分熊本宮崎鹿児島奄美
【沖縄地方】
沖縄/那覇宮古/宮古島石垣久米島[注 15][注 16]
スターフライヤー (SFJ)[注 17]北九州、福岡、大阪/関西、山口宇部
第2ターミナル
航空会社就航地
全日本空輸 (ANA)(SA)[注 18]
【北海道地方】
札幌/新千歳稚内紋別[211]中標津釧路函館
【東北地方】
大館能代秋田庄内
【関東地方】
八丈島
【中部地方】
富山小松能登名古屋/中部
【近畿地方】
大阪/伊丹大阪/関西大阪/神戸
【中国地方】
鳥取米子石見岡山広島岩国山口宇部
【四国地方】
高松松山徳島高知
【九州地方】
福岡佐賀長崎大分熊本宮崎鹿児島
【沖縄地方】
沖縄/那覇宮古/宮古島石垣
エアドゥ (ADO) [212] 女満別旭川、釧路、帯広、札幌/新千歳、函館
ソラシドエア (SNJ) [212] 宮崎、長崎、大分、熊本、鹿児島、沖縄/那覇

国際線

全日本空輸においては2020年3月29日以降は行き先ごとに第2ターミナル発着と第3ターミナル発着に振り分けられる予定となっていたが[213][214]COVID-19に伴う国際線需要の減退により、当面の間、第2ターミナル発着における国際線運用は休止となっている(全便第3ターミナル発着に集約)[192]。なお、第2ターミナルの国際線施設は2023年7月19日より運用再開される予定となっている。

第3ターミナル
航空会社就航地
  日本航空 (JL)(OW)
【東アジア】
北京/首都上海/虹橋上海/浦東広州ソウル/金浦台北/松山香港
【東南アジア】
マニラホーチミンシティバンコク/スワンナプームシンガポール
【南アジア】
デリー
【北米】
ニューヨーク/JFKサンフランシスコシカゴ/ORDダラス/フォートワースロサンゼルス/LAX
【ヨーロッパ】
パリ/CDGロンドン/LHRヘルシンキ
【オセアニア・太平洋】
シドニーホノルル
  全日本空輸 (NH)(SA)
【東アジア】
北京/首都上海/虹橋上海/浦東広州ソウル/金浦香港台北/松山
【東南アジア】
マニラホーチミンシティバンコク/スワンナプームクアラルンプールシンガポールジャカルタ
【南アジア】
デリー
【北米】
ニューヨーク/JFKシカゴ/ORDワシントンD.C./ダレスヒューストン/インターコンチネンタルロサンゼルス/LAXシアトルサンフランシスコバンクーバー
【ヨーロッパ】
パリ/CDGロンドン/LHRフランクフルトミュンヘンウィーン
【オセアニア・太平洋】
シドニーホノルル
  Peach Aviation (MM)★ ソウル/仁川台北/桃園上海/浦東
  チャイナエアライン (CI)(ST) 台北/松山
  エバー航空 (BR)(SA) 台北/松山
  タイガーエア台湾 (IT)★ 台北/桃園
  大韓航空 (KE)(ST) ソウル/金浦ソウル/仁川
  アシアナ航空 (OZ)(SA) ソウル/金浦ソウル/仁川
  中国国際航空 (CA)(SA) 北京/首都
  中国東方航空 (MU)(ST) 上海/虹橋上海/浦東
  中国南方航空 (CZ) 広州北京/大興
  海南航空 (HU) 北京/首都
  上海航空 (FM)(ST) 上海/虹橋上海/浦東
  吉祥航空(HO)(SA) 上海/浦東
  天津航空 (GS) 天津
  奥凱航空 (BK) 天津
  山東航空 (SC)済南
  春秋航空 (9C)★ 上海/浦東
  キャセイパシフィック航空 (CX)(OW) 香港
  香港エクスプレス航空 (UO)★ 香港
  フィリピン航空 (PR) マニラ
  ベトナム航空 (VN)(ST) ハノイ
  ベトジェットエア (VJ)★ ダナンホーチミン[215]
  タイ国際航空 (TG)(SA) バンコク/スワンナプーム
  ガルーダ・インドネシア航空 (GA)(ST) ジャカルタ
  シンガポール航空 (SQ)(SA) シンガポール
  マレーシア航空(MH)(OW)クアラルンプール[216]
  エアアジア X (D7)★ クアラルンプール
  カンタス航空 (QF)(OW) シドニーメルボルンブリスベン[217]
  ヴァージン・オーストラリア (VA) ケアンズ(2023年6月より就航予定)[218]
  アメリカン航空 (AA)(OW)ロサンゼルス/LAXダラス/フォートワース
  デルタ航空 (DL)(ST) ロサンゼルス/LAXミネアポリス=セントポールデトロイトアトランタポートランドシアトルホノルル
  ユナイテッド航空 (UA)(SA)サンフランシスコロサンゼルス/LAXニューアークワシントンD.C./ダレスシカゴ/ORD
  ハワイアン航空 (HA) ホノルルコナ
  エア・カナダ (AC)(SA) トロント
  エミレーツ航空 (EK) ドバイ
  カタール航空 (QR)(OW) ドーハ
  ターキッシュ・エアラインズ (TK)(SA)イスタンブール
  ブリティッシュ・エアウェイズ (BA)(OW)ロンドン/LHR
  エールフランス航空 (AF)(ST) パリ/CDG
  ルフトハンザドイツ航空 (LH)(SA) フランクフルトミュンヘン
  ITAエアウェイズ (AZ)(ST) ローマ/フィウミチーノ
    スカンジナビア航空 (SK)(SA) コペンハーゲン
  フィンエアー (AY)(OW)ヘルシンキ[219]

就航都市

※は成田国際空港便もあり

国内線

原則として到着都市名(リンク先は到着空港)のみを記述するが、同一都市圏に2つ以上の空港が存在もしくは空港名に到着都市名が含まれていないなどの場合は「都市名/空港名」の様式で記述する。

国際線

かつて定期便で就航していた航空会社

現存する会社

現存しない会社

運休・廃止路線

※は成田国際空港便あり

国内線