『東京ギャング対香港ギャング』(とうきょうギャングたいホンコンギャング)は、1964年公開の日本映画。鶴田浩二主演、石井輝男監督。東映東京撮影所製作、東映配給。併映『宮本武蔵 一乗寺の決斗』(中村錦之助主演、内田吐夢監督)。
概要
石井輝男監督による"ギャング映画"6作目[1]。東映(東映東京撮影所、以下、東撮)製作の"ギャング映画"全11作では9作目に当たる[2]。東映初の海外ロケーションを実施し[3][4]、香港、マカオで一週間ロケを敢行した[3][5]。麻薬取引を巡り東京と香港のギャング組織が血で血を洗う死闘を繰り広げる[1][2]。
ストーリー
北原修治は薬の取引に香港に降り立つ。最初は竜と取引するつもりだったが値段を吊り上げられやめた。北原は新興勢力の毛の配下チャンと取引を決めたが約束の日、竜に狙撃され京劇スター李淑華に薬の包みを渡し息絶える。東京の大岡興業は幹部藤島を香港に送った。藤島は李淑華から薬を受け取るも竜一味に横取りされた。マカオの毛は情報部将校だった藤島の戦友だった。毛が来日。毛は大岡興業に取り入りながら密かに藤島に拳銃を渡す。竜一味がダルマ船で薬を運び出す日が来た。大岡組と竜一味の相打ちを毛は目論んでいた。毛は香港麻薬取締官だったのだ。
スタッフ
出演者
製作経緯
企画
企画は当時の東撮所長・岡田茂(のち、同社社長)[6]。岡田と共に企画としてクレジットされているのは、1972年に東映動画(現・東映アニメーション)の大リストラを岡田と共に敢行したことでも知られる登石雋一[7]。東撮の"ギャング映画"は、石井輝男が先鞭を付け[8][9]岡田茂が路線化し[8][10][11]岡田が井上梅次や深作欣二、小沢茂弘らを参加させてメイン路線とした[10][12]。マンネリを避けるため、岡田の肝煎りで[1]ギャング映画のスケールの大きさを狙い、東映初の海外ロケを行ったのが本作となる[1][3]。1960年代前半に日本映画の海外ロケブームがあり[3]、1961年岸惠子主演、イヴ・シャンピ監督『スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜』(日仏合作)、1962年宍戸錠主演、蔵原惟繕監督『メキシコ無宿』(日活)、石原裕次郎 松尾昭典監督『金門島にかける橋』(日活=中央電影公司)、1963年早川保主演、川頭義郎監督『(ローマに咲いた恋)』、宝田明主演、千葉泰樹監督『(ホノルル・東京・香港 Honolulu-Tokyo-Hongkong)』(キャセイ・オーガニゼイション=東宝合作)、加山雄三主演、福田純監督『ハワイの若大将』(東宝)などが作られた[3]。しかしその大半はもの珍しさを狙い、題名に地名を入れ、外国風景を観光地的になぞる作品がほとんどだった[3]。岡田は「ギャング映画もスケールの大きいものを狙わないといけない。しかし観光映画にするな」と石井に指示した[3]。
撮影
石井はその指示通り一週間の海外ロケで大きな効果を上げた[1][2][13]。香港の裏街やサンパンのある港などを隠し撮り、路上生活者やゴミゴミしたスラム街の情景を丹念に拾った[1][3]。(ズームレンズ)を使った粗い画面がドキュメンタルな迫力を生み、魔窟としての香港を活写した[1]。前述のように当時は海外ロケが流行っていたが、裏通りまで行って撮影した映画は本作以外ないといわれる[3]。人通りの多い場所ではビルの上から望遠で撮影[3]。高倉健が路上で殺されるシーンはぶっつけ本番、通行人が行き交う中でのゲリラ撮影が行われた[1]。高倉は前半で早々に殺され、後半は鶴田浩二を中心に展開する構成上の弱点は、少数スタッフ・キャストによる海外ロケを余儀なくされたためとされる[1]。当時はキャメラもまだ小型の物がなく、大きなキャメラを担いでスラム街に入った[3]。スタッフは10人も満たず、移動の際は高倉が大きな望遠レンズを担いだという[3]。
脚本
共同脚本の村尾昭は1962年の『暗黒街最後の日』(井上梅次監督)の後、岡田が大映から引き抜いた[14]。本作の後、岡田が東映京都撮影所に転任し本格化させる"(任侠路線)"のメインライターに笠原和夫、野上龍雄と共に抜擢されている[14][15]。
その他
石井監督の次作『ならず者』(1964年4月5日公開)も『東京ギャング対香港ギャング』同様、香港、マカオでロケが行われ、こちらはマカオに重点を置いた。今度は会社が予算を出してくれ二週間と余裕のある撮影が出来たという[3]。『ならず者』は、石井のアクション映画の傑作の1本と評される[3]。『ならず者』の後も海外ロケ路線を発展させ、高倉・石井コンビで東南アジアやソウル、モンテカルロ、ラスベガスを舞台にした企画が上っていたが、このコンビで翌年から「網走番外地シリーズ」が始まるためそれは実現しなかった[3]。
東映ギャングシリーズ
脚注
- ^ a b c d e f g h i 高護(ウルトラ・ヴァイヴ『日本映画名作完全ガイド 昭和のアウトロー編ベスト400 1960‐1980』シンコーミュージック、2008年、18頁。(ISBN 978-4-401-75122-8)。
- ^ a b c d 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、222頁。(ISBN 4-89215-904-2)。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 石井輝男・福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、126-133、313-314頁頁。(ISBN 4-948735-08-6)。
- ^ 東京ギャング対香港ギャング - 社団法人・日本映画製作者連盟
- ^ アクションとカルト 二つの顔…石井輝男 : カルチャー : 読売新聞
- ^ 東京ギャング対香港ギャング - 日本映画情報システム
- ^ 昭和47年 - WEBアニメスタイル、WEBアニメスタイル | アニメーション思い出がたり「五味洋子」その42 労働争議の中で - Style.fm、なぜアニメ産業は今の形になったのか 〜アニメ産業史における東映動画の位置付け〜 、『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』文化通信社、2012年、156頁。(ISBN 978-4-636-88519-4)。「東映不良性感度映画の世界」『映画秘宝』、洋泉社、2011年8月、44頁。渡辺泰・山口且訓『日本アニメーション映画史』有文社、1978年、131-133頁。布村建「極私的東映および教育映画部回想」『映画論叢』第18巻、国書刊行会、2014年7月号、14頁。岡本明久「東映東京撮影所の血と骨 泣く 笑う 握る」『映画論叢』第36巻、国書刊行会、2014年7月号、69頁。
- ^ a b 『石井輝男映画魂』、103、117-120頁。
- ^ 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI 『日本映画テレビ監督全集』キネマ旬報社、1988年、21-22頁。
- ^ a b 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕
- ^ 「〔トップに聞く〕 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る」『キネマ旬報』1969年6月下旬号、127頁。春日太一『仁義なき日本沈没 東宝VS.東映の戦後サバイバル』新潮社、2012年、27 102-103頁。(ISBN 978-4-10-610459-6)。
- ^ 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN (4-8222-0158-9)。(. 日経ビジネス. (2006年2月6日). オリジナルの2011年8月10日時点におけるアーカイブ。 2015年7月3日閲覧。)岡田茂『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年、180頁。(ISBN 4-04-883871-7)。「証言 製作現場から 『映倫カット問題が格好の宣伝効果を生む』 岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』 1巻、東映、1992年、174-175頁。西脇英夫「東映アクションの真率なる世界(中)」『キネマ旬報』1975年7月上旬号、185頁。
- ^ 東京ギャング対香港ギャング/東映チャンネル
- ^ a b 山平重樹『任侠映画が青春だった 全証言伝説のヒーローとその時代』徳間書店、2004年、21-31頁。(ISBN 978-4-19-861797-4)。
- ^ 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年、20-25頁。(ISBN 978-4104609017)。俊藤浩滋・山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、116頁。(ISBN 4-06-209594-7)。小沢茂弘・高橋聡『困った奴ちゃ―東映ヤクザ監督の波乱万丈』ワイズ出版、1996年、59-62、72頁頁。(ISBN 4948735574)。松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年、121-125頁。(ISBN 4-06-206226-7)。嶋崎信房『小説 高倉健 孤高の生涯(上・任侠編)』音羽出版、2015年、238-239頁。(ISBN 978-4-901007-61-0)。
外部リンク
- 東京ギャング対香港ギャング - allcinema
- 東京ギャング対香港ギャング - KINENOTE
- 東京ギャング対香港ギャング - 日本映画データベース
- 東京ギャング対香港ギャング - IMDb(英語)