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本省人

本省人(ほんしょうじん)においては、1945年の「台湾光復」以前より、中国大陸各地から台湾に移り住んでいた人々およびその子孫の人々について説明する。

本省人
各種表記
繁体字 本省人
簡体字 本省人
拼音 Běnshěngrén
注音符号 ㄅㄣˇ ㄕㄥˇ ㄖㄣˊ
発音: ベンションレン
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「本省人」と「外省人」という用語

「本省人」・「外省人」という用語は台湾に限る用語ではない[1]。まず本省人の本来的概念は、中国の当該省(どのでもよい)に自分もしくは父祖の本貫(本籍地)があって、現にそこに住んでいる、自分と仲間たちを自称する場合に多く使われる[1]。従って、当該省に本貫を持たない他省からの来省者は、「外省人」となる[1]。このように「本省人」・「外省人」の用語は一般的な用語であるが、台湾においては、エスニシティ(族群)としての両者の違いが強く意識される[2]

すなわち、1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾による日本の降伏により、台湾は連合国の一員であった中華民国の一つの省である「台湾省」に編入され、10月25日には、中国戦区最高司令官蔣介石の代理である陳儀が、最後の台湾総督安藤利吉から降伏を受けた[2]。さらに翌1946年(昭和21年)1月の国府行政院訓令により、当時の台湾の住民は、「1945年10月25日より中華民国の国籍を回復した」ものとされた[3]。この訓令で中華民国国籍を回復した男性とその子孫が本省人となり、この訓令によらず中華民国国籍を所有しており、主に国共内戦に敗れて台湾に移住するようになった中国国民党党員や国民党政府軍の男性と配偶者、さらにその子孫を外省人と呼ぶようになった[3][4]

先住系本省人と漢族系本省人

本来の意味での、台湾での「本省人」には、先住系本省人と漢族系本省人の二系統がある[5]。前者は、もともと台湾島に居住していた、人口は小さいが文化的には多様なマレー=ポリネシア系の先住諸民族である[6]オランダ人統治期になると対岸の中国大陸から漢族が移民してきた[6]。これはさらに二大分支に分かれ、一つは、福佬人である。福建省南部出身者(主は泉州府と漳州府)の母語を閩南語という。ただし総称としての閩南語には潮州語の流れがあり、これを含めた総称としての閩南語を福佬語ともいう。したがって台湾においては閩南人と福佬人は同義であり、閩南語と福佬語は同義である。もう一つが広東省北部出身で客家語を話す客家人の系統である[7][5]。客家は、もともと黄河流域の中原地帯に住んでいた漢民族の一分支であり、たび重なる戦乱のあおりで各地に離散し、その子孫が世界各地で活躍している[5]。台湾の客家語群には、「四県」、「海陸」、「饒平」の三系統がある[5]

外省人の入台と本省人

1895年から1945年までの日本統治時代を経て、ポツダム宣言受諾による日本の降伏以降、外省人が入台するが、その時期には大きく分けて二つある[4]。第1期は、「台湾光復」から1947年2・28事件の前後に入った、大陸からの日本資産の接収のため派遣された者を中心とする[4]。しかし、彼らは、資産接収の不正や失敗などから、台湾住民との間で激しい衝突事件すなわち2・28事件を引き起こした[8]。この事件で蔣介石の国民党によって中国大陸から秩序回復に派遣された軍隊によって、1万8000人から2万8000人が殺されたとされる[8]。この事件により、台湾の人口の少なからぬ部分が国民党政権による上からの国民統合政策に対して疎外感を持ってしまった[8]。外省人の入台の第2期は、大陸での国共内戦が国府に不利であることが明らかになりつつあった1948年末にはじまり、国府中央が全面的に台湾に移転する1949年末前後にピークとなる[4]。これ以降、国民党政権は自由を厳しく制限する権威主義的政治体制の下で、中央の政治権力を外省人エリートが独占し、本省人と外省人との間の権力分配の不平等が固定化されていった[8]

国民党独裁以降

しかし、1986年秋には一党独裁を通してきた国民党政権が野党民進党の結成を余儀なくされ、台湾政治の民主化が始まる[9]。1949年以降敷かれたままになっていた長期戒厳令が解除され、中国内戦期に中国大陸で選ばれた非改選の議員が大多数を占めていた国会が正常化し、1996年には総統の直接選挙が実施され、2000年には遂に総統選挙の結果により国民党から民進党への政権交代が実現した[9]。こうした民主化は、本省人の側から見れば、国民党独裁下で顧みられなかった土着言語や土着文化への回帰すなわちエスニック・リバイバルといえる[9]。台湾最大の群族集団である福佬人の話す福佬語が「台湾語」と呼ばれるようになり、さらに選挙などでも盛んに使用されるようになり、国会でも使用されるなど急速に地位を高めている[9]。そうなると客家人も危機感をもって客家語の復権などの文化運動を展開することになった[10]。このように近年では、台湾人各群族の要求が多元主義的な文化政策ないし国民統合政策として次第に定着しつつある社会を迎えている[10]。 このような中、台湾人のアイデンティティを肯定する動きが強くなった[11]。本省人や先住民族の文化や言葉が重要視されるようになり、小学校でも母国語教育が始まり、台湾語や客家語、先住民族の言葉も学習するチャンスが増えた[11]。また各民族それぞれの文化、風習、言葉を子孫に伝えていこうとする傾向も強まっている[11]。民族の違いは若い年代ではあまり意味を持たなくなりつつある[11]。外国人が台湾人(とりわけ一定の年代以上の人々)とビジネスする場合、面と向かって訪ねたりするのはやはり失礼だが、相手の台湾人がどのルーツを知り、たとえば福佬人に対して、台湾語で一言二言話しかけたり、客家人に対して客家料理をほめたりすると互いの距離がぐっと縮まるのも事実であるとされる[11]

2016年総統選挙と客家票

台湾の客家は推定約315万人であり台湾人口の約13パーセントを占める(行政院客家委員会調べ)[12]。選挙では一定の影響力がある[12]。政治大学教授・江明修によると、少数派の客家は国民党政権に接近して人口が多い他の移民に対抗してきた歴史があり、かつては約70パーセントが国民党支持だったという[12]。確かに2012年の総統選挙では、客家の人口が多い台湾北部の県・新竹県において、国民党の馬英九候補が民進党の候補に約2倍の得票差をつけ、馬候補が当選した理由の一つとなった。しかし、江教授によると、2014年の「ひまわり学生運動」で若者の政治意識が高まった結果、旧来型の政党と考え方のずれが広がり、国民党離れが進んでいるという[12]。そのため2016年1月の総統選挙では、国民党の有力大票田でもある新竹県において、客家票の争奪戦が激しくなり、国民党の朱立倫候補と民進党の蔡英文候補とが互角の戦いを繰り広げた[12]。このことが8年ぶりの政権交代の可能性を押し上げたのである[12]

出典

  1. ^ a b c 戴(1988年)5ページ
  2. ^ a b 若林(2001年)62ページ
  3. ^ a b 若林(2001年)63ページ
  4. ^ a b c d 戴(1988年)14ページ
  5. ^ a b c d 戴(1988年)12ページ
  6. ^ a b 若林(2005年)19ページ
  7. ^ 若林(2005年)20ページ
  8. ^ a b c d 若林(2005年)28ページ
  9. ^ a b c d 若林(2005年)29ページ
  10. ^ a b 若林(2005年)30ページ
  11. ^ a b c d e 光瀬(2008年)92ページ
  12. ^ a b c d e f 朝日新聞(2016年1月12日)朝刊「客家票、崩れる与党 旧来地盤、野党と互角」

参考文献

  • 若林正丈「台湾-変容し躊躇するアイデンティティ」ちくま新書(2001年)
  • 村田雄二郎、C・ラマール編『漢字圏の近代- ことばと国家』(2005年)東京大学出版会所収、若林正丈「1台湾の近代化と二つの『国語』」
  • 戴國煇「台湾―人間・歴史・心性―」(1988年)岩波新書
  • (光瀬憲子)「ビジネス指さし会話帳4 台湾華語」(2008年)情報センター出版局

関連項目

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