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木元教子

木元 教子(きもと のりこ、1932年12月19日 - )は、日本の評論家ジャーナリスト。旧姓、町田(まちだ)[1][2][3][4]

北海道苫小牧市生まれ。中国(旧満州)で育つ。都立豊島高校立教大学文学部英文科立教大学法学部卒業。

夫はTBSを経て、現在青森テレビ監査役、息子二人(内の一人は、お笑いサイエンスライターの植木不等式)。実母は、生活評論家の(町田貞子)。

来歴・人物

4歳の時、父の仕事で旧満州の吉林省敦化に移住。終戦の1年前に、父が南方に出征したため、北朝鮮の羅津から新潟港へ最後の貨客船で帰国している。そのため同年代の中国残留日本人や、北朝鮮による日本人拉致問題に対しては深い思い入れがある。

大学在学中の1956年5月TBS(当時・ラジオ東京)に嘱託採用され編成局嘱託アナウンサーとして勤務したのち、[1][3]1957年4月、社員採用され5期生アナウンサーとしてTBSに正式に入社する[2][4][注釈 1]。TBS朝の情報・報道番組として、生のニュース番組のはしりとなった「(ニュースレーダー)」を、時の政治評論家細川隆元とともに出演、話題となる。細川は、今日の木元を育てた一人でもある。

1958年3月、TBSを退社し[2][4]、フリーとなり、二人の子供を育てながら、フジテレビ「小川宏ショー」(1965年5月 - 1966年11月)、その後、同じくフジテレビ「3時のあなた」(1968年4月 - 1969年3月)の、各初代司会者となった。

その後、フジテレビと契約、初のメイン女性ニュースキャスターとなる。キャスター引退後、評論活動を中心とし、報道番組、社会情報番組等のコメンテーターをはじめ、フリーランスの立場で講演、執筆、シンポジウム等の総合企画・プロデュースを手がけ現在に至る。

近年は、エネルギー、特に原子力にウエイトを置き発言。原子力発電推進の急先鋒の一人である。一般国民とのパイプ役としての役割を意識し、原子力委員会に「市民参加懇談会」(2001年 - )を立ち上げた。木元の原子力へのかかわりは、「小川宏ショー」特番で毎年「原爆の日」に広島、長崎から生レポートを担当したことや、その後のニュースキャスターで、被爆国なのに「なぜ原子力か」との疑問から始まっている。だがその前の1963年 - 1964年に当時のNET(現在のテレビ朝日)で、「マンガのおじさん」という生番組の司会を木元が担当、手塚治虫と週一回の共演をしていた。木元が、エネルギー、原子力に取り組む原点には手塚治虫と『鉄腕アトム』が存在し、原子力委員になった木元の「原子力の平和利用」の主張に、大きな影響を与えている。2002年6月5日朝日新聞の朝刊2面。当時の福田康夫官房長官、また安倍晋三代議士が早稲田大学で、核兵器の保有は日本国憲法に違反しないとか、非核三原則の見直し発言を行ったことにつき、6月4日の原子力委員会で、木元委員が「原子力の平和利用に限っている原子力基本法にもそぐわない」と発言、抗議表明を求めた。しかし委員長は継続して検討するに留まった。その後、6月18日の朝日新聞「私の視点」に、木元の「核論議『平和利用限定』を忘れるな」の原稿が載っており、平和利用の番人とされる原子力委員会でただ一人、その立場を明確にしていた。また、1978年、当時小学5年の次男が学校から社会科の参考として「こわい原子力発電」 というガリ版刷りの資料を持ち帰ってきた事に関心を抱き、自分の目で勉強し、確かめようと考え行動を起こしたと、原子力委員就任(1998年1月5日)の際に語った。またその時に、「見える」「逃げない」「行動する」原子力を委員のモットーとすると言明している。

2007年春、旭日中綬章を受章。

長男である木元俊宏植木不等式のペンネームまたは本名で著作活動をしている。1979年9月、本名にて『母親への公開状』(青娥書房)を出版している。

主な公職

  • 内閣府 原子力委員会委員(1998年1月 - 2006年12月)
  • 経済産業省 総合資源エネルギー調査会・委員(1989年1月 - )
  • 文部科学省 中央教育審議会・スポーツ振興特別委員会委員(1998年8月 - )
  • 農林水産省 21世紀村づくり塾 100人委員会委員(1989年10月 - )
  • ETT『フォーラム・エネルギーを考える』運営企画委員(1990年7月 - )
  • 食の教育推進協議会 共同創設者・実行委員(1993年11月 - )
  • 生活構造改革フォーラム・代表(1994年3月 - )
  • (財)社会経済生産性本部・評議員(1994年4月 - )
  • NPO法人『21世紀の食は私達が作る会』代表(2005年12月 - )

ほか

著書

  • 結婚も仕事もしたいあなたに(大和出版、1980年7月)
  • 『子離れ親離れのすすめ』経済界、1981年12月14日。(NDLJP):12142221。 
  • 『キャンパスへの旅』サンケイ出版、1982年6月25日。(NDLJP):12122610。 
  • 結婚・こども、どう考えますか(三笠書房、1985年5月)
  • 姑ばなれ、嫁ばなれ(海竜社、1988年2月)
  • わたしの人生、今が一番(海竜社、1993年10月)
  • ちょっと待って!暮らしとエネルギーを考える(株式会社エネルギーフォーラム、2001年12月)
  •  絵本「100年後の地球」(株式会社エネルギーフォーラム、2003年11月)

ほか

資格

など

出演番組

その他

脚注

注釈

  1. ^ 『TBS50年史』では「1957年5月社員採用」となっている。

出典

  1. ^ a b c d e 東京放送 著「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」、東京放送 編『TBS50年史 資料編』2002年1月、236頁。"1956.5<嘱託採用> 町田教子 R「かなりやゲーム」「歌くらべ学校めぐり」司会など。 TV「ホモちゃんの天気予報」 〜(1957.5社員採用)"。 
  2. ^ a b c d 東京放送 著「III.放送関係 7.アナウンサーの活動記録」、東京放送 編『TBS50年史 資料編』2002年1月、236頁。"1957.4<5期生> 1957.4<5期生> 15人入社(男5・女10) 町田教子[1958.3退社] TV「僕も私も会いたい人(1958)」"。 
  3. ^ a b c d e 東京放送 著「TBSアナウンサーの動き」、東京放送 編(DVD-ROM & PDF)『TBS50年史 ハイブリッド検索編』2002年1月、9頁。"56.5 <嘱託採用>3人 編成局嘱託 町田 教子・・・立教大学在学中、1955年KR「かなりやゲーム」「歌くらべ学校めぐり」の司会など TV「ホモちゃんの天気予報」〜(57.5 社員採用)"。 
  4. ^ a b c d 東京放送 著「TBSアナウンサーの動き」、東京放送 編(DVD-ROM & PDF)『TBS50年史 ハイブリッド検索編』2002年1月、11頁。"57.4 <5期生> 15人入社(男5・女10) 応募2600人 町田 教子・・・[58.3退社] TV「僕も私も会いたい人(58)」"。 

参考文献

  • TBS50年史(2002年1月、東京放送編・発行)…国立国会図書館の所蔵情報
    • 資料編
    • 付属資料のDVD-ROM『ハイブリッド検索編』
      • 『TBSアナウンサーの動き』(ラジオ東京→TBSの歴代アナウンサーの記録を、同社の歴史とともにまとめた文書。PDFファイル。全34ページ)

外部リンク

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