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2002 FIFAワールドカップ

2002 FIFAワールドカップ: 2002 FIFA 한일 월드컵、: 2002 FIFA Korea/Japan World Cup)は、2002年5月31日から6月30日にかけて日本韓国で開催された17回目のFIFAワールドカップ

2002 FIFA 日韓 ワールドカップ
2002 FIFA Korea/Japan World Cup

横浜国際総合競技場
大会概要
開催国 日本
韓国[1]
日程 2002年5月31日 - 6月30日
チーム数 32 (5連盟)
開催地数 20 (20(それぞれ10)都市)
大会結果
優勝 ブラジル (5回目)
準優勝 ドイツ
3位 トルコ
4位 韓国
大会統計
試合数 64試合
ゴール数 161点
(1試合平均 2.52点)
総入場者数 2,705,197人
(1試合平均 42,269人)
得点王 ロナウド(8点)
最優秀選手 オリバー・カーン
 < 19982006
東京タワー・ジャパンブルーライトアップ(2002年5月25日

アジアで初めて行われた大会で、初の2カ国共同開催という大会でもあった。このため、本大会については「日韓ワールドカップ」といった表現がみられる(大会表記については後述)。

大会招致の経緯

アジアでのワールドカップ計画

これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジアアフリカ大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会(JFA)が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で1988年にFIFAワールドカップの日本開催を構想、1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった[2]。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。

一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、1994年の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の一騎討ちとなった。1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した[2]

苦渋の共同開催

開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とUEFA会長のレナート・ヨハンソンを次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった[2]。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。

直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった[2]。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な日本招致委員会実行委員長で当時JFA副会長(後に会長)の岡野俊一郎だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという[2]。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長の宮澤喜一が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに長沼健JFA会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の5月31日午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)(マーティン・ヘーゲレ)らの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった[2]。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。

結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関して(マーティン・ヘーゲレ)は「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人がフランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している[3]

その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った[4]。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年アメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し[5]、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった[6]。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。

なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表を4位に導いた業績を背景に2002年大韓民国大統領選挙への立候補を表明したが、投票日前日に盧武鉉との取引に応じて立候補を取り止めた。

ワールドカップを巡る騒動は日韓友好ムードのマスコミとそれに対するネット世論で温度差があり、2011年以降の日韓関係の急速な冷え込みの遠因となったと指摘される[7]

日本側の資金提供疑惑

2015年5月27日、アメリカ合衆国司法省国際サッカー連盟(FIFA)の幹部や関係者ら計14人を起訴[8] して以降、FIFAの不正に対する追及が活発化している。フランクフルター・アルゲマイネの記者であるジャン・フランソワ・タンダは、電通(当時の会長は成田豊)が、1995年11月16日にISL(インターナショナル・スポーツ&レジャー)と「サービス合意書」を締結し、電通がISLに巨額資金を支払う見返りとしてISLがW杯選出投票での日本への投票を働きかけていたと主張[9]。また、6月19日にスペインのスポーツ紙「Diario AS」は、長沼健が開催地決定の投票に対する謝礼として南米サッカー連盟に150万ドルを支払ったと報道した[10]。ただし、開催地決定に際して投票は行われていない[11]

予選

本大会に出場できるのは32か国で、各地域の出場国の出場枠数は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5であった。これに、予選を免除された前回大会優勝国のフランスと開催国の日本、韓国が加わる(なお、2001年に2006年大会からの前回優勝国枠廃止が決まったため、フランスは最後の前回優勝による予選免除国となった)。

南米予選では過去最多の優勝を誇るブラジルが予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かった。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱とされる。大の飛行機嫌いで知られるデニス・ベルカンプが早々に代表から引退した影響がなかったとはいえない。なお、これがオランダ人の映画プロデューサー、(ヨハン・クレマー)による世界最弱代表チーム同士の対戦、アザー・ファイナル構想のきっかけとなった。

日本と韓国が抜けたアジア予選では、サウジアラビアと中国が勝ち抜いた。中国代表にとっては初出場で、ユーゴスラビア出身のボラ・ミルティノヴィッチ監督は5大会連続で別の国から本大会に参加する記録を作った。また、イラン代表は2大会連続で大陸間プレーオフに回ったが、アイルランド代表に敗れ、連続出場を逃した。オセアニア予選1位のオーストラリアは南米予選5位のウルグアイとの大陸間プレーオフに敗れた。

本大会前には、ロベルト・バッジョロマーリオらが代表に選ばれなかったことがトピックの一つとされた。

出場国

出場選手は2002 FIFAワールドカップ参加チームを参照。

大陸連盟 出場
枠数
予選
予選順位
出場国・地域 出場回数 備考
AFC 2+2.5 開催国   日本 2大会連続2回目
  韓国 5大会連続6回目
最終予選 1組 1位   サウジアラビア 3大会連続3回目
2組 1位   中国 初出場
UEFA 1+13.5 前回優勝国   フランス 2大会連続11回目
欧州予選 1組 1位   ロシア 2大会ぶり9回目[注 1]
2位   スロベニア 初出場
2組 1位   ポルトガル 4大会ぶり3回目
2位   アイルランド 2大会ぶり3回目
3組 1位   デンマーク 2大会連続3回目
4組 1位   スウェーデン 2大会ぶり10回目
2位   トルコ 12大会ぶり2回目
5組 1位   ポーランド 4大会ぶり6回目
6組 1位   クロアチア 2大会連続2回目
2位   ベルギー 6大会連続11回目
7組 1位   スペイン 7大会連続11回目
8組 1位   イタリア 11大会連続15回目
9組 1位   イングランド 2大会連続11回目
2位   ドイツ 13大会連続15回目[注 2]
CONMEBOL 4.5 南米予選 1位   アルゼンチン 8大会連続13回目
2位   エクアドル 初出場
3位   ブラジル 17大会連続17回目
4位   パラグアイ 2大会連続6回目
5位   ウルグアイ 3大会ぶり10回目
CONCACAF 3 最終予選 1位   コスタリカ 3大会ぶり2回目
2位   メキシコ 3大会連続12回目
3位   アメリカ合衆国 4大会連続7回目
CAF 5 最終予選 A組 1位   カメルーン 4大会連続5回目
B組 1位   ナイジェリア 3大会連続3回目
C組 1位   セネガル 初出場
D組 1位   チュニジア 2大会連続3回目
E組 1位   南アフリカ共和国 2大会連続2回目
OFC 0.5 地区予選 出場国無し
  • 備考欄の「☆」は欧州予選プレーオフ、「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。

本大会

 
日本×ベルギー戦 (埼玉スタジアム) 2002年6月4日

概要

21世紀に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、アジアで開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国(1996年(平成8年)の時点)での開催地決定であった(1998年のフランス大会で初出場を決めている)。

2002年(平成14年)5月31日から6月30日の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。ブラジルが5度目の優勝を遂げた。開催国である日本は決勝トーナメント進出(ベスト16)の成績を残した。

大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった(当初は6月1日開幕、6月30日決勝予定であったが、開幕まで2年を切った2000年6月6日のチューリッヒにおけるFIFA理事会で、大会期間を1日増やす形で開幕日を5月31日に繰り上げることにした)。[12] これは、欧州南米とは異なる日韓の気候、つまり梅雨を考慮したためと言われている。大会前は、フーリガン暴動などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに赤字が懸念されたが、円安の影響などで大幅な黒字となった。また高円宮夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。

ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。EURO2000コンフェデ杯2001で優勝して前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、アンリトレゼゲシセと3か国のリーグ得点王を擁しながらグループリーグで1得点もあげられずに敗退した。

開催国の日本は、初戦でベルギーと2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次のチュニジア戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初のノックアウトステージ(ベスト16以上)進出も決める[13]

もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。フィーゴなどの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが第3戦の韓国戦で2名が退場となり敗れたことによりグループリーグで敗退するという波乱があった。

 
アルゼンチンvsイングランド
試合を決めたベッカムのPK

アルゼンチンナイジェリアスウェーデンイングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。南米予選を1位で通過して、フランスに次ぐ優勝候補と目されていたアルゼンチンがグループリーグで敗退するという波乱があった。

次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや新星FWクローゼの活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。

ノックアウトステージでは、日本はラウンドオブ16でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリアスペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手の過度なラフプレーに審判が笛を吹かない、相手のゴールが理由を明示されずにファールとして取り消されるなどの審判の誤審が問題となった。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、地区予選で大苦戦して前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWのロナウド(8ゴール)。

大会呼称問題

1996年11月、FIFA本部で行われた共催検討委員会で、大会の呼称を慣例に従ったアルファベット順で「2002 FIFA World Cup Japan/Korea」とする提案がなされたが、鄭夢準大韓サッカー協会会長が強硬に反対した。会議は紛糾したが、最終的に国名表示順を「Korea/Japan」とする一方で決勝戦を日本で行うことで決着とした[14][15]。尚、この際、日本側は日本国内で大会名を呼称する時は日本/韓国で構わないとの確約を得ていたが、検討会が非公開だった為に、FIFAに公的な議事録を残すことを求めなかった[2]。これが後に大きな問題になる。

日本語の表記は、当初「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」と表記していた。その後、5年ほどは何事もなかったが、2001年1月、日本の教科書検定問題で、かつて日本に併合されていた朝鮮半島にある韓国の対日感情が悪化し、韓国マスコミに追い込まれる形で鄭大韓サッカー協会会長は、「日本国内であっても大会名を「日本・韓国」と表記するのは正式名称(Korea/Japan)と異なっており、開催合意に背く」として抗議した。その為、2001年(平成13年)3月15日の「FIFAのW杯組織委員会」で大会呼称問題について話し合われることになった。岡野は1996年11月の共催検討会での大会名の決定事項を詳しく説明したが、FIFAのW杯組織委員長であるヨハンソンが「大会名決定から長い時間が経っており、しかもその時の議事録もない。大切なのはW杯の成功。国名を入れない大会名の使用を認めるということでどうだろうか」と提案、日韓双方ともこの案を受け入れた[2]。これ以降、日本国内では、国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。(注:W杯組織委員会は2種類あり、W杯開催国内の『開催国のワールドカップ組織委員会』とそれとは別にFIFA内に設けられる『FIFAのワールドカップ組織委員会』(FIFA関係者及び外部の有識者で構成)がある[16])。

また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」という表記も見ることができた。大会終了後の現在でも日本国内では「日韓ワールドカップ」などと表記することが多い。

両国の開催都市選定

日本では当初、日本による単独開催を視野に大会開催の準備を進めていたために1993年(平成5年)1月に最初の国内開催都市候補地を選定した。候補の15か所(札幌市青森県宮城県茨城県埼玉県千葉県横浜市新潟県静岡県愛知県京都府大阪市神戸市広島市大分県)の中、この時点で開催予定施設が完成していたのは1994年アジア競技大会のために整備されていた広島市の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)のみ、小幅な改修で対応可能だったのは大阪市の長居スタジアムのみで、あとは各自治体がスタジアムを新設する予定になっていた。

ただ、東京都は立候補を見合わせた。これは、トヨタカップ1964年東京オリンピックの会場として世界的に知名度の高い新宿区国立霞ヶ丘競技場が観客席への屋根設置(スタジアムの観客席の3分の2が屋根に覆われている事)などの改修条件を満たせなかった上に、2013年(平成25年)に開催予定の「多摩国体」用のメインスタジアムの整備計画もまだ確定していなかったからである(多摩国体用のメインスタジアムは後に東京スタジアムとして整備された)。そのため、もしもこの時点で日本開催が実現した場合、世界有数の人口を抱えながらも1974年昭和49年)の西ドイツ大会以来となる首都での開催がない大会になる事が確実になっていた。

また、参加チーム32か国・開催数64試合で行われたアメリカ大会では9会場、フランス大会では10会場で、日本開催でも採算面から10-12会場での開催が適当と目されていた。ただし、1996年(平成8年)6月に日韓共催が決定したことは、各立候補地域にとって深刻な問題になった。日本国内での試合数が32試合へと半減されたため、6試合前後と見込まれていた各会場の試合数は3-4試合にとどまる事になった。これにより、日本各地で試合会場となるスタジアム建設に対しての費用対効果や採算面からの疑問が提起された為に建設決定が延期される所も出て来た。その一方で、大分県知事の平松守彦は、2008年(平成20年)開催の大分国体メイン会場を兼ねるとの理由で大分スタジアム(現在の大分スポーツ公園総合競技場)の建設を決断し、自身も自治体の代表としてFIFAワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)の副会長に就任するなどの積極的な行動を行った。これにより、大分県での開催は確実という見方もなされた。

1996年(平成8年)12月、JAWOCは国内開催都市として10か所を選定した。まず各スタジアムの開催条件充足を調べたが、広島市が予算を理由にしてバックスタンドへの屋根設置と座席改修を見送る事を事前発表していた広島ビッグアーチは開催不適格と判断され、広島市は開催候補都市から外された。アジア大会開催の経験に加え、国際平和都市として抜群の知名度を持ち、「平和のシンボル」としてFIFAからも開催を熱望されていた広島市の落選は、予想されていたとはいえ、衝撃を与えた。次いで、収容人員6万人を超える巨大スタジアム整備を理由に埼玉県と横浜市が、地域バランスの観点から札幌市・静岡県・大阪市・大分県が選出された。最後に投票によって8つの候補地から4開催地が決定された。ここではスタジアム整備構想が難航していた青森県(青森県営サッカースタジアム)・千葉県(千葉県立スタジアム)・京都府(京都スタジアム)が宮城県・茨城県・神戸市にそれぞれ敗れた。これは多くの事前報道の通りになった。

唯一の波乱とされたのが愛知県に対する新潟県の勝利だった。「トヨタカップ」のスポンサーでもあるトヨタ自動車の本社所在地・豊田市での会場となるスタジアム建設構想が具体化している上に県内には既にJリーグクラブの名古屋グランパスエイトがある愛知県に対し、新潟県は2009年(平成21年)の新潟国体での利用も兼ねた新潟スタジアムの着工こそ近かったものの、県内にはJリーグのクラブや全国で活躍する高校大学が無く、ようやくアルビレオ新潟(現在のアルビレックス新潟)がJリーグを目指して活動を開始した段階だったため、「サッカー不毛の地」と評価されていた。しかし、新潟県はプレゼンテーションで「日本海側唯一の開催地(札幌市を除く)」としてアピールし、「日本全国が参加するFIFAワールドカップ」という意味を持たせられると主張して、愛知県を破った。この招致成功は、新潟県でアルビレックス新潟を中核として活発な地域スポーツ活動が展開されるようになるまでの重要な第一歩であったが、愛知県にとっては1981年(昭和56年)の名古屋オリンピック招致失敗に続く大規模スポーツイベント開催の挫折となった。豊田市はFIFAワールドカップ前年の2001年(平成13年)に市営の豊田スタジアムを完成させたが、FIFAワールドカップの開催基準を満たす規模を持つスタジアムでありながら、肝心なFIFAワールドカップの試合には使用され無かった為に建設の意義を巡る批判を受けた。

その後、会場ごとの試合の割り振りが焦点になったが、特に埼玉県(埼玉スタジアム2002)と横浜市(横浜国際総合競技場)は決勝戦開催を巡って激しく争った。しかし、結局は1999年(平成11年)8月にスタジアム収容人数と各地からのアクセスに優れている横浜での決勝戦開催が決まった。その一方、埼玉県にはグループリーグの日本戦の初戦と準決勝があてがわれ、埼玉・横浜(第2戦)に続く日本戦の第3戦は地域バランスから大阪市(長居スタジアム)開催となった。

韓国でも日本と同様に国内での開催都市選定作業が進められ、共催という理由もあって日本と同数の10都市がFIFAワールドカップを開催したが、韓国国内の大都市(ソウル特別市と国内6か所の広域市)を網羅し、人口の少ない江原道を除く全国に万遍なく配置されたため、韓国社会で深刻な地域対立の新たな発生は抑えられた。しかし、国民の人口や国家の経済規模が日本の半分ほどしかない韓国が日本と同水準のスタジアム整備を行う事は大きな負担であった。その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機で不況に陥ったが、国際通貨基金(IMF)の管理下で経済を一旦は回復させた。ところが、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年アメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、スタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった[6]。その後、韓国のスタジアム建設は再開され、完成にこぎつけた。

大会運営資金

開催地決定後もJAWOCと開催する各自治体との緊張関係は続いた。各自治体はJAWOCに対してそれぞれ2億5000万円の運営資金を負担し、それ以外にも要員派遣やさまざまな補助金を与えていたが、2000年(平成12年)12月には開催経費の増大で財政が圧迫されたJAWOCから各1億円の追加負担を求められ、自治体自身や各議会からの批判が起こった。しかし、JAWOCからは円滑な大会開催に必要という理由を付けられたため、各自治体とも負担に応ぜざるを得なかった。なお、この追加負担分は、大会が予想以上の収益を挙げて終了したことによって各自治体へ返還された。

キャンプ地誘致合戦

本大会を印象づけるもう一つの争いとして、各自治体によるキャンプ地誘致合戦が挙げられる。キャンプ地に名乗りを上げた自治体は、予選の段階での確約を含め70以上に上った。結局、グループステージの日本開催分であるE、F、G、Hの4組に出場する全16ヶ国が日本でキャンプをし、さらにグループリーグの韓国開催分であるA、B、C、Dの4組16ヶ国のうちA組の全4チーム、B組の3チーム、C組の1チームの計8チームが開幕前に日本でキャンプをした。

誘致の成否には戦略の違いが見られ、川崎市がどこの国と決めず誘致活動のみに腐心したため誘致に失敗した一方、伊達政宗の命でローマに派遣された慶長遣欧使節1615年元和元年)にローマ教皇に謁見したことから1997年(平成9年)に姉妹県締結をした宮城県ローマ県の交流をもとに、2000年(平成12年)に仙台フィルハーモニー管弦楽団のローマ公演を成功させた仙台市が、イタリア代表に対象を絞って誘致を成功させた。また、徳島県鳴門市は第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜への人道的な扱いや地元住民との交流が縁で「バルトの楽園」として映画化もされている程に古くからドイツと親交がありながらも、グラウンドの整備の悪さのためにほぼ誘致が確定していたドイツ代表をみすみす逃がす事態も発生した。岐阜県古川町(現:飛騨市)のように、特定の国(ルーマニア)と出場確定前から確約を結んだために誘致が実現できなかった自治体も多い。

キャンプ期間中は、強豪国を中心に非公開の練習にする代表チームが比較的に多かった中で、デンマーク、エクアドル、セネガル、サウジアラビア、チュニジア、アイルランドの各代表などは交流に積極的であり、非常に好印象を与え、特にデンマーク代表の公開練習に至っては、地元のみならず全国からも多くのサッカーファンが詰めかけたといわれる。その他の国も、小学校や少年サッカースクール、各種福祉施設など小規模な交流は積極的に行われ、国同士の交換留学生なども送られた。

注目を集めたキャンプ地として、スター選手や美男子選手目当ての女性ファンが多く詰め掛けた仙台市(イタリア代表)や兵庫県津名町(イングランド代表)があった一方、大分県中津江村(カメルーン代表)は山奥の小さな村のキャンプ地として早くから注目され、代表の到着遅延によってさらに全国にその名が知れ渡ることとなった。中津江村は2005年3月22日日田市への編入合併により自治体としては消滅したが、旧中津江村域の地名は「中津江村」を冠したまま存続された。

現在でも、キャンプ地となった自治体とキャンプを行った国との間で親交が深い所が多い。例えば、千葉県千葉市ではアイルランド代表がキャンプを行ったのを機に、有志による「」というアイルランド代表を応援する会を発足。大会終了後もアイルランド代表の応援活動や、「日本代表対アイルランド代表戦の実現」に向けての署名活動を現在でも続けている。また、クロアチア代表のキャンプ地の新潟県十日町市では、2006 FIFAワールドカップが開催された時に日本との対戦が決まったために「どちらを応援するか?」でジレンマが起きたり、「日本を応援しないとはどういうことか」という批判が寄せられるなどした。その他、イタリア代表のキャンプ地となったことを記念して仙台市では仙台カップ国際ユースサッカー大会が始まり、第2種世代のサッカー日本代表にとって重要な大会に育っている。

また、十日町市の誘致におけるエピソードもよく知られ、当初はイタリア代表を誘致しようと運動するも失敗、その後ポーランド、スペイン代表と確約するも、開催地の関係で立ち消えとなる。しかし、ポーランド及びスペイン代表が、まだ候補地を決定していなかったクロアチア代表を推薦し、キャンプ地として決定した。その後、多くの自治体が、誘致国との関係が稀薄となっていく中で、十日町市は以後ずっとクロアチアとの交流を続けており、2020年の東京オリンピックにおけるホストタウン誘致も成功させている。

キャンプ地一覧

キャンプ地 代表チーム グループ
宮城県仙台市   イタリア G(日本開催)
福島県楢葉町広野町Jヴィレッジ   アルゼンチン F(日本開催)
千葉県千葉市
島根県出雲市
  アイルランド E(日本開催)
東京都調布市   サウジアラビア E(日本開催)
神奈川県平塚市   ナイジェリア F(日本開催)
新潟県十日町市
富山県富山市
  クロアチア G(日本開催)
福井県三国町   メキシコ G(日本開催)
山梨県富士吉田市
大分県中津江村(現:日田市
  カメルーン E(日本開催)
長野県松本市   パラグアイ B(韓国開催)
静岡県御殿場市裾野市   ウルグアイ A(韓国開催)
静岡県清水市(現:静岡市清水区   ロシア H(日本開催)
静岡県藤枝市   セネガル A(韓国開催)
静岡県磐田市   日本 H(日本開催)
三重県上野市(現:伊賀市   南アフリカ共和国 B(韓国開催)
三重県鈴鹿市   コスタリカ C(韓国開催)
兵庫県津名町(現:淡路市   イングランド F(日本開催)
奈良県橿原市新庄町(現:葛城市)・大和高田市
大分県佐伯市
  チュニジア H(日本開催)
和歌山県和歌山市   デンマーク A(韓国開催)
鳥取県鳥取市   エクアドル G(日本開催)
岡山県美作町(現:美作市   スロベニア B(韓国開催)
熊本県熊本市   ベルギー H(日本開催)
宮崎県宮崎市   ドイツ E(日本開催)
宮崎県宮崎市   スウェーデン F(日本開催)
鹿児島県指宿市   フランス A(韓国開催)

会場一覧

 

日本

会場名 札幌ドーム 宮城スタジアム 茨城県立カシマサッカースタジアム 埼玉スタジアム2002 横浜国際総合競技場
所在地 北海道札幌市豊平区 宮城県宮城郡利府町 茨城県鹿嶋市 埼玉県さいたま市[注 3] 神奈川県横浜市港北区
座標 地図 地図 地図 地図 地図
収容人数 42,000人 49,000人 42,000人 63,000人 70,000人
会場写真          
使用
クラブ
北海道コンサドーレ札幌 ベガルタ仙台[注 4] 鹿島アントラーズ 浦和レッズ 横浜F・マリノス
横浜FC[注 4]
会場名 静岡県小笠山総合運動公園スタジアム 新潟スタジアム 長居陸上競技場 御崎公園球技場 大分スポーツ公園総合競技場
所在地 静岡県袋井市 新潟県新潟市[注 5] 大阪府大阪市東住吉区 兵庫県神戸市兵庫区 大分県大分市
座標 地図 地図 地図 地図 地図
収容人数 50,600人 42,300人 50,000人 42,000人 43,000人
会場写真          
( )
2002 日本FIFAワールドカップスタジアム

韓国

会場名 ソウルワールドカップ競技場 大邱ワールドカップ競技場 仁川文鶴競技場 釜山アジアード競技場 大田ワールドカップ競技場
所在地 ソウル特別市麻浦区 大邱広域市寿城区 仁川広域市南区 釜山広域市蓮堤区 大田広域市儒城区
座標 地図 地図 地図 地図 地図
収容人数 63,961人 68,014人 52,179人 55,982人 40,407人
会場写真          
会場名 光州ワールドカップ競技場 蔚山文殊サッカー競技場 水原ワールドカップ競技場 全州ワールドカップ競技場 済州ワールドカップ競技場
所在地 光州広域市西区 蔚山広域市南区 京畿道水原市八達区 全羅北道全州市徳津区 済州特別自治道西帰浦市
座標 地図 地図 地図 地図 地図
収容人数 42,880人 43,550人 43,188人 42,391人 42,256人
会場写真          
( )
2002 韓国FIFAワールドカップスタジアム

結果

日時はすべて現地時間。日本は日本標準時(JST)、韓国は韓国標準時(KST)(ともに)。

組み合わせ抽選

本大会のグループリーグの組み合わせ抽選は、開催国である韓国・釜山コンベンションセンターで、2001年12月1日に行われた。この抽選会の模様は全世界に生中継され、日本でもNHK(地上波とBS)、BSデジタル民放5局、スカイパーフェクTVにて、また民放ラジオもいくつかの局が「民放ラジオ共同制作」として生中継した。

抽選方法は以下の通りである。まず参加国を4つの「ポット」に分ける。

  • ホスト国である日本と韓国、前回大会優勝のフランス、過去のW杯本大会直近3大会の成績並びに過去3年のFIFAランキングで算出したシード国としてブラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ、スペインの5か国、計8か国を「ポット1

日韓W杯公式シード算出方法は以下の通り()。

  1. 過去3大会の成績は優勝が32ポイント、準優勝が31ポイントと順位に従い減るものとし、グループリーグ敗退は3位で敗退時9ポイント、4位で敗退時8ポイントになる。そして、1990年伊W杯本大会の成績は1倍、1994年米W杯本大会の成績は2倍、1998年仏W杯本大会の成績は3倍として合計ポイントを3で割る。→W杯3大会のポイント(1)
  2. 過去3年のFIFAランキングが出場国中最も高い国に32ポイント、それに次ぐ国に31ポイントを与え合計を3で割る。計算するFIFAランキングは年平均ではなく、1999年と2000年は12月時点のFIFAランキング、2001年は11月時点のFIFAランキングを使う(抽選会が12月の為)。→FIFAランキング3年間のポイント(2)

(1)+(2)=ワールドカップ(W杯)シードポイント W杯シードポイント上位5カ国と開催国の日本と韓国と前回優勝のフランスが第1シード。

  • シード国以外のヨーロッパの残り11か国を「ポット2
  • シード国以外の南米3か国とアジア2か国を「ポット3
  • 北中米・カリブ海とアフリカの8か国を「ポット4
  1. A-D組は韓国、E-H組は日本で試合を行う。
  2. フランスはA組(前回優勝国が開幕戦を行うため)、韓国はD組、日本はH組に決定。
  3. ポット1の残り5か国を順にドローし、B、C、E-G組に入れる。
  4. ポット1の国は、抽選で選ばれた組の1番に配置する。
  5. ポット2-4に選ばれた国は、各ポットからA組→H組の順に1カ国ずつ選ばれた後、選ばれた組の何番に配置されるかが抽選される。この選ばれた番号により、試合日等が決定される。
  6. ポット2のうち8か国を順にドローし、A-H組に入れる。
  7. ポット2の残り3か国を順にドローし、ポット1のヨーロッパ以外の国(日本、韓国、ブラジル、アルゼンチン)のいる組に入れる。
    (今回はD組(韓国)、F組(アルゼンチン)、H組(日本)に入った)
  8. ポット3の5か国を順にドローし、ポット2の残り3か国が入らなかった組に入れる。
    尚、アジア大陸は出場国が合計4か国のため、韓国で開催されるA-D組と日本で開催されるE-H組に、それぞれ2か国ずつ均一に振り分けるようにする。そのため、予め中国は韓国側(A-C組)、サウジアラビアは日本側(E-G組)に振り分けるように抽選を行う。
    またシード国にアジア大陸及び南米大陸の国があるため、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国がアジア大陸の国の組であれば、南米大陸の3か国の中で最初に選ばれた国は、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかったアジア大陸の国の組へ、またポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国が南米大陸の国の組であれば、その国の組がA-C組であれば中国がその国の組へ、E-G組であればサウジアラビアがその国の組へ、先に配置される。
    (今回はポット3の抽選で最初に中国が選ばれた。中国の配置されるA組-C組の中で、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国はブラジルのいるC組であったため、中国は先にC組に配置された。また3番目に選ばれたサウジアラビアは日本側で試合を行うため、日本側で3か国目が決まっていなかったE組とG組のうち、E→G組の順番によりE組に配置された)
  9. ポット4の8か国を順にドローし、各組に入れる。

この結果、A組とF組に強豪が集中し、死の組と呼ばれた。

グループ ポット1 ポット2 ポット3 ポット4
グループ A   フランス   セネガル   ウルグアイ   デンマーク
グループ B   スペイン   スロベニア   パラグアイ   南アフリカ共和国
グループ C   ブラジル   トルコ   中国   コスタリカ
グループ D   韓国   ポーランド   アメリカ合衆国   ポルトガル
グループ E   ドイツ   サウジアラビア   アイルランド   カメルーン
グループ F   アルゼンチン   ナイジェリア   イングランド   スウェーデン
グループ G   イタリア   エクアドル   クロアチア   メキシコ
グループ H   日本   ベルギー   ロシア   チュニジア

グループリーグ

グループ A

チーム 出場権
1   デンマーク 3 2 1 0 5 2 +3 7 決勝トーナメント進出
2   セネガル 3 1 2 0 5 4 +1 5
3   ウルグアイ 3 0 2 1 4 5 −1 2
4   フランス 3 0 1 2 0 3 −3 1
出典:
順位の決定基準: 1.勝ち点、2.得失点差、3.総得点、4.勝ち点で並んだチーム同士での勝ち点→得失点差→総得点、5.抽選

フランス  (0 – 1)  セネガル
レポート ディオプ   30分
ウルグアイ  (1 – 2)  デンマーク
ロドリゲス   47分 レポート トマソン   45分83分
観客数: 30,157
主審:   (サード・アミル・アル=ファドリ)(英語版)

デンマーク  (1 – 1)  セネガル
トマソン   16分 (pen.) レポート ディアオ   52分
フランス  (0 – 0)  ウルグアイ
レポート
観客数: 38,289
主審:   (フェリペ・ラモス)(英語版)

デンマーク  (2 – 0)  フランス
レポート
観客数: 48,100
主審:   (ヴィトール・メロ・ペレイラ)(英語版)
セネガル  (3 – 3)  ウルグアイ
  • (ファディガ)(英語版)   20分 (pen.)
  • ディオプ   26分38分
レポート
観客数: 33,681
主審:   (ヤン・ウェヘレーフ)(英語版)

グループ B

チーム 出場権
1   スペイン 3 3 0 0 9 4 +5 9 決勝トーナメント進出
2   パラグアイ 3 1 1 1 6 6 0 4
3   南アフリカ共和国 3 1 1 1 5 5 0 4
4   スロベニア 3 0 0 3 2 7 −5 0
出典:
順位の決定基準: 1.勝ち点、2.得失点差、3.総得点、4.勝ち点で並んだチーム同士での勝ち点→得失点差→総得点、5.抽選

パラグアイ  (2 – 2)  南アフリカ共和国
レポート
観客数: 25,186
主審:   (ユボス・ミシェル)(英語版)
スペイン  (3 – 1)  スロベニア
レポート (チミロティッチ)(英語版)   82分
観客数: 28,598
主審:   (モハメド・カザズ)(英語版)

スペイン  (3 – 1)  パラグアイ
レポート
南アフリカ共和国  (1 – 0)  スロベニア
ノンベテ   4分 レポート
観客数: 47,226
主審:   (アンヘル・サンチェス)(英語版)

南アフリカ共和国  (2 – 3)  スペイン
レポート
観客数: 31,024
主審:   (サード・アミル・アル=ファドリ)(英語版)
スロベニア  (1 – 3)  パラグアイ
レポート
  • クエバス   65分84分
  • (カンポス)(英語版)   73分
観客数: 30,176
主審:   (フェリペ・ラモス)(英語版)

グループ C

チーム 出場権
1   ブラジル 3 3 0 0 11 3 +8 9 決勝トーナメント進出
2   トルコ 3 1 1 1 5 3 +2 4
3   コスタリカ 3 1 1 1 5 6 −1 4
4   中国 3 0 0 3 0 9 −9 0
出典: FIFA
順位の決定基準: 1.勝ち点、2.得失点差、3.総得点、4.勝ち点で並んだチーム同士での勝ち点→得失点差→総得点、5.抽選

ブラジル  2 – 1  トルコ
レポート
観客数: 33,842
主審:   (金永珠)(英語版)
中国  0 - 2  コスタリカ
レポート
観客数: 27,217
主審:   (キュロス・ヴァサラス)(英語版)

ブラジル  4 - 0  中国
レポート
観客数: 36,750
主審:   (アンデルス・フリスク)(英語版)
コスタリカ  1 - 1  トルコ
(パルクス)   86分 レポート エムレ・ベロゾール   56分
観客数: 42,299
主審:   (コフィ・コジア)(フランス語版)

コスタリカ  2 - 5  ブラジル
レポート
トルコ  3 - 0  中国
レポート

グループ D

チーム 出場権
1   韓国 (H) 3 2 1 0 4 1 +3 7 決勝トーナメント進出
2   アメリカ合衆国 3 1 1 1 5 6 −1 4
3   ポルトガル 3 1 0 2 6 4 +2 3
4   ポーランド 3 1 0 2 3 7 −4 3
出典: FIFA
順位の決定基準: 1.勝ち点、2.得失点差、3.総得点、4.勝ち点で並んだチーム同士での勝ち点→得失点差→総得点、5.抽選
(H) 開催地.

韓国  (2 - 0)  ポーランド
レポート
アメリカ合衆国  (3 - 2)  ポルトガル
レポート

韓国  (1 - 1)  アメリカ合衆国
安貞桓   78分 レポート (マティス)   24分
観客数: 60,778人
主審:   (ウルス・マイヤー)(英語版)
ポルトガル  (4 - 0)  ポーランド
パウレタ   14分65分77分 レポート
観客数: 31,000人
主審:   (ヒュー・ダラス)(英語版)

ポルトガル  (0 - 1)  韓国
レポート 朴智星   70分
観客数: 50,239人
主審:   (アンヘル・サンチェス)(英語版)
ポーランド  (3 - 1)  アメリカ合衆国
  • オリサデベ   3分
  • (クリシャウォヴィッチ)   5分
  • (ジェヴワコフ)   66分
レポート ドノヴァン   83分

グループ E

チーム 出場権
1   ドイツ 3 2 1 0 11 1 +10 7 決勝トーナメント進出
2   アイルランド 3 1 2 0 5 2 +3 5
3   カメルーン 3 1 1 1 2 3 −1 4
4   サウジアラビア 3 0 0 3 0 12 −12 0
出典: FIFA
順位の決定基準: 1.勝ち点、2.得失点差、3.総得点、4.勝ち点で並んだチーム同士での勝ち点→得失点差→総得点、5.抽選

アイルランド  (1 - 1)  カメルーン
レポート
観客数: 33,679人
主審:   上川徹
ドイツ  (8 - 0)  サウジアラビア
レポート
観客数: 32,218人
主審:   (ウバルド・アキノ)(英語版)

ドイツ  (1 - 1)  アイルランド
クローゼ   19分 レポート ロビー・キーン   90+2分
観客数: 35,854人
主審:   (キム・ミルトン・ニールセン)(英語版)
カメルーン  (1 - 0)  サウジアラビア
エトー   66分 レポート
観客数: 52,328人
主審:   (テリエ・ハウゲ)(英語版)

サウジアラビア  (0 - 3)  アイルランド
レポート
観客数: 65,320人
主審:   (ファルマ・ドヨー)(英語版)

グループ F

チーム 出場権
1   スウェーデン 3 1 2 0 4 3 +1 5 決勝トーナメント進出
2   イングランド 3 1 2 0 2 1 +1 5
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