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日産・スカイラインGT-R

日産・スカイライン > 日産・スカイラインGT-R

スカイラインGT-RSKYLINE GT-R 、スカイライン ジーティーアール)は、日産自動車が生産・販売する乗用車・スカイラインにかつて存在したグレードの一つである。

愛称は「アール」「スカG-R」「GT-R」のほか、各代の愛称・型式でも呼ばれる。

概要

“GT-R”の歴史は、ツーリングカーレースで活躍した先代プリンス・スカイライン2000GT-B(S54B-II型)の後継車として、1968年(昭和43年)10月開催の第15回東京モーターショーへ「スカイラインGTレーシング仕様」を出品したことに始まる。これはスカイライン2000GT(GC10型)の車体へ、プロトタイプ・スポーツカーである日産・R380のエンジン・GR8型をベースに開発された直列6気筒DOHCエンジンを搭載したものである。この「GTレーシング仕様」がほぼそのままの形で、1969年(昭和44年)2月に初代GT-R(PGC10型)として発売された[1]。以降、2世代5代に渡って開発・生産・発売された。

スカイラインの中でも自動車レースでの使用を主として開発された車種であり、日本を代表する高性能車の1つである。自動車レースにおけるあらゆる規制および規則範囲内において最大の性能を発揮する専用エンジンと、装備品を組み込んでいるのが特徴であり、出場した自動車スポーツレース全般で数多くの勝利を上げている。現在でも特に1989年(昭和64年/平成元年)に発売されたR32型が最も人気があり、中古車が主に北米へ多数輸出、輸出したR32型を再び日本国内へ逆輸入し再登録といったことも盛んに行われており、中古車価格はPGC10型からR34型まで、ともに数百万~数千万円という非常に高値安定傾向である。

第1世代 S20エンジン系(1969年 - 1973年)

初代 前期PGC10型(1969年 - 1970年)・後期KPGC10型(1970年 - 1972年)

日産・スカイライン2000GT-R(初代)
PGC10型/KPGC10型
 
1969年登場型 (PGC10)
 
1970年改良型 (KPGC10)
 
概要
販売期間 1969年2月 - 1972年9月[2]
設計統括 桜井眞一郎
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 4ドアセダン[3]
2ドアクーペ[3]
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
(パワートレイン)
エンジン S20型
最高出力 160 PS/7,000 rpm
最大トルク 176 N·m/5,600 rpm
変速機 5速MT[3]
サスペンション
前: マクファーソン・ストラット
後: セミトレーリングアーム式サスペンション
車両寸法
ホイールベース
  • 2,640 mm(PGC10型)[3]
  • 2,570 mm(KPGC10型)[3]
全長
  • 4,395 mm(PGC10型)[3]
  • 4,330 mm(KPGC10型)[3]
全幅
  • 1,610 mm(PGC10型)[3]
  • 1,665 mm(KPGC10型)[3]
全高
  • 1,385 mm(PGC10型)[3]
  • 1,370 mm(KPGC10型)[3]
車両重量
  • 1,120 kg ()(PGC10型)[3]
  • 1,100 kg ()(KPGC10型)[3]
その他
生産台数
  • 1,945台[2]
    • PGC10型832台
    • KPGC10型1,197台
愛称 ハコスカ
(テンプレートを表示)

開発はプリンス自動車工業時代からS74型として着手されており、発売は日産自動車合併以後の1969年2月である。おとなしいセダンのボディに獰猛なエンジンという意味の「羊の皮を被った狼」のキャッチフレーズが先代プリンス・スカイライン2000GT-Bからそのまま受け継がれた[4]。レース用車両として、6気筒エンジンを搭載した2000GTをベースに、レース用DOHC4バルブの日産・S20型エンジンを搭載。ステアリングギヤ比をクイックに、サスペンションも固められた。またスカイラインの主張でもあった「サーフィンライン」も、ワイドタイヤを履く邪魔となり断ち切られ、大きくえぐられていた。レースに不要なヒーターやラジオはオプション扱いだった。

同年10月にはスカイラインシリーズ全体のマイナーチェンジに伴い、外装・内装に若干の変更が行われる。外装はヘッドランプハウジングが独立したタイプの3分割グリルだったものがワンピースグリルと呼ばれるものに、メッキ仕上げだったフェンダーミラーはつや消し黒に、内装ではステアリングホイールがウッドから、それまでスポーツオプションだった合成ゴム成型に変更された。

1970年(昭和45年)10月、C10型のマイナーチェンジと同時にハードトップと称するホイールベースが70 mm短縮された2ドアクーペボディが追加されたことに伴い、GT-Rはセダンに替わりクーペのKPGC10型となった。C10型マイナーチェンジによる変更点を除くPGC10型からKPGC10型への限定した変更点として、リアホイールアーチにFRP製の黒いオーバーフェンダーの装着、フェンダーミラーを砲弾型からタルボ型へ変更、フロントグリルの意匠変更、などである。4ドアセダンをベースに2ドアクーペを設定する場合、ハードトップスタイルを採用する例は同時期の西ドイツで多く見られる[注釈 1]が、Bピラーがなくなることで低下するボディ剛性を担保する手法の一つでメルセデス・ベンツが好むホイールベース短縮を採用しており、フレーム剛性を据置きつつ若干軽量化を実現した。より低く流麗となったクーペボディは空気抵抗を低減し、短縮されたホイールベースは運動性能を高めることから、GT-Rの競争力はさらに向上した。

外観におけるGT系との相違は、拡大されたトレッドに対応するためリアホイールアーチがサーフィンラインをカットして上方へ拡大されているほか、前後ウインドシールドをはじめとした全てのガラスが青色の熱線吸収タイプではなく4気筒モデルのスタンダードと同じ無色透明タイプになり、リアデフォッガーやモール類、装飾類、ホイールカバーが装備されない点などが挙げられる。これらに加えラジオがオプション装備であるため、選ばなければアンテナもない。また、KPGC10前期型にはオプション装備のリアウイングを備えた車もある。防錆塗装はオプションであった。

総生産台数はPGC10型が832台[5]、KPGC10型が1,197台。新車販売価格は、セダンが150万円、クーペが154万円だった[3]

メカニズムなど

この代の一番のトピックは、プリンス・R380で使用されていたGR8型エンジンを設計叩き台として開発された日産・S20型エンジンを搭載した事にある[6]。詳細はS20型エンジンの項に譲るが、前任のプリンス・スカイライン2000GT(S54型)に搭載されていたG7型エンジンがツーリングカーレースにおいて既に競争力を失いつつあったため、S20型エンジンを開発・搭載したものである。

排気系には3気筒ずつそれぞれ1本に纏められたステンレス製等長エキゾーストマニホールドを採用し、消音器の外殻を共用する以外は大気開放されるテールパイプまで2本が完全に独立している[注釈 2]

ギアボックスは日産自動車内製のFS5C71A型およびB型5速フロアシフトである。全段(ポルシェ式サーボシンクロメッシュ)の常時噛合いマニュアルトランスミッションで、競技用に用意されている3種のギアレシオ中、1速が最もローギアードで2速以上をクロスレシオとしたものが標準装備として採用されており、他の2種類はスポーツオプションとされた。PGC10型からKPGC10型前期までが、クラッチハウジング、ギアケーシング、エクステンションに三分割されたA型、KPGC10型後期はクラッチ・ギアケーシング、エクステンションに二分割されたB型である。ディファレンシャルギアには多板クラッチ式(LSD)を装備していた。

サスペンションは2000GTと同一の前ストラット、後セミトレーリングアーム式サスペンションであるが、スプリング、ダンパーおよびフロントのみに装着されているスタビライザーがそれぞれ強化されている。ブレーキも2000GTと同一の前ディスク、後リーディング・トレーリング式ドラムであるが、ブレーキコントロールを容易にするため標準ではマスターバックは装備されていない。

ステアリング機構は2000GTと同一のリサーキュレーティングボール式であるが、ギア比は高め(速め)に変更されている。

1970年(昭和45年)10月から、S20型エンジンにブローバイガス還元装置が取り付けられた。同時に無鉛レギュラーガソリン仕様が設定されている。圧縮比を0.5下げ、点火時期の進角を穏やかにしたため、ハイオク仕様より5 PS低い155 PSとなっている[7]

内装関係で特筆すべきは、ドライバーが運転する上で必要な装備が充実しているのに対し、不要なものはほとんどなにもない点である。ドライバーおよびナビゲーターシートはリクライニング機構を持たない合皮張りのバケット型であり、2ドアのKPGC10型では、前端下のヒンジを支点にして座席全体を前に投げ出すようにして後席の乗降通路を確保する。運転席側には3点式シートベルトヘッドレストサンバイザーが標準で備わるが、助手席側のそれらはオプション装備である。また、ヒーターラジオ、時計はもとより、ドアポケット、助手席および後席の2点式シートベルト、およびアシストグリップすらオプション装備である。イグニッションキーシリンダーは、アクセサリー (ACC) ポジションのみオフから反時計回り側の、本来(ステアリングロック)があるべき位置へ隔離され、オフから時計回りで、オン、スタートと並んでおり、競技使用時の利便が図られている。ステアリングロックは装備されない。

GT-Rの特徴であるエキゾーストマニホールドにより、コンプレッサーを取り付ける空間が確保できず、純正クーラーはオプション設定もされていない[8]

競技用のスポーツオプションが非常に充実しているのも特徴で、アルミ鍛造高圧縮ピストンや大径気化器オイルクーラー、バッフルプレート付きアルミオイルパンなどのエンジン関連部品から、サスペンション、ブレーキの強化部品、幅広スチールホイールなど一通り準備されており、中にはワイド型ルームミラーやレースレギュレーションで義務化されていた合わせガラスウィンドシールドなど、公道走行時においても極めて有用な部品もある。

2代目 KPGC110型(1973年)

日産・スカイライン2000GT-R(2代目)
KPGC110型[9]
 
GT-RC110の前方を撮影。
 
GT-RC110の後方を撮影。
概要
販売期間 1973年1月 - 4月[9]
設計統括 桜井眞一郎
ボディ
乗車定員 5名
ボディタイプ 2ドアクーペ[10]
エンジン位置 フロント
駆動方式 後輪駆動
(パワートレイン)
エンジン S20型[10]
変速機 5速MT[10]
サスペンション
前: ストラット
後: セミトレーリングアーム式サスペンション
車両寸法
ホイールベース 2,610 mm[10]
全長 4,460 mm[10]
全幅 1,695 mm[10]
全高 1,380 mm[10]
車両重量 1,145 kg[10]
その他
生産台数 197台[9]
愛称 ケンメリ
(テンプレートを表示)

4代目スカイライン(C110型)のハードトップ2000GTをベースに1973年1月から4月の3か月のみ「2000GT-R」として販売されていた[11]

GT系と比較して、専用ラジエータグリル、前後オーバーフェンダー、リアスポイラーを装備するほか、先代では標準でなかったラジオが標準装備とされている[11]

エンジンは先代同様S20型エンジンが採用されている。ただし、使用されていたS20型エンジンが昭和48年排出ガス規制に適合しなくなったため、レースカーもコンセプトカーが発表されたのみで実際のレースへ参加することはなしに3か月後の4月末をもってわずか197台だけで生産・販売が終了した。この少ない生産台数についてはS20型エンジンの在庫処理のためという説もある。

レースで活躍した先代と違い[注釈 3]、そしてKPGC110型以降、BNR32型が発売される16年後の1989年までGT-Rの名称は途絶えることとなる[11]。総生産台数は197台、うち195台が市販された。新車販売価格は、162万円[10]

メカニズムなど

エンジンは先代と変更されていないが、燃料タンクが100 Lから55 Lとほぼ半減している。足回りに関しては、リアにスタビライザーが装備され、マスターバック付き4輪ディスクブレーキが付与されている。車体は全長で130 mm、全幅で30 mm、ホイールベースで40 mm拡大されており、GT系と違いオーバーフェンダーが付与されている。これらの装備を足されたことでトータル45 kgの重量増となった[11]。なお、後に現行型の日産・GT-Rまで踏襲されている丸型4灯のテールランプはこの代から採用されている[11]

第2世代 RB26エンジン系(1989年 - 2002年)

3代目 BNR32型(1989年 - 1994年)

日産・スカイラインGT-R(3代目)
BNR32型
 
 
概要
販売期間 1989年8月 - 1994年12月
設計統括 伊藤修令
ボディ
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン位置 フロント
駆動方式 四輪駆動
(パワートレイン)
エンジン RB26DETT
最高出力 280 PS/6,800 rpm
最大トルク 36.00 kgf·m/4,400 rpm
変速機 5速MT
サスペンション
車両寸法
ホイールベース 2,615 mm
全長 4,545 mm
全幅 1,755 mm
全高 1,340 mm
車両重量
  • 標準 1,430 kg - 1,480 kg
  • Vスペック 1,500 kg
  • NISMO 1,400 kg
その他
総販売台数 4万3661台[12]
(テンプレートを表示)

1989年5月22日、8代目スカイライン発表[13]。GT-Rを含む4WD車は8月発売とアナウンスされた。 1989年8月21日発売[13][14]。型式はBNR32[注釈 4]

先代KPGC110の生産終了より実に16年ぶりとなるGT-R復活であり、当時日産で行われていた901運動の集大成として開発されたR32型GT-Rは、ATTESA E-TSSuper HICASといった当時の最新デバイスに加え、エンジンに専用設計されたRB26DETTを搭載し[15]日産・フェアレディZ(Z32型)・インフィニティ・Q45(G50型)とともに、日本初の300 PS車としてトリオで発売される予定であったが、当時の諸事情により実施された自動車馬力規制により、いずれも日本向けは280 PSとされた。フェアレディZインフィニティ・Q45は、海外輸出仕様は300 PSであった。

日産社内では7代目スカイライン(R31型)の時点で2ドアクーペに「GT-R」を復活させる計画があったが、エンジンが4ドアと同じ(RB20DET)であったことや、そのRB20DETが当時ジャーナリストから酷評を受けていたことなどから、開発主管の伊藤修令の判断でその計画は撤回[16]。その後R32型では、プラザ合意後の日産の業績悪化の影響などから「今ここで「GT-Rを復活させる」と言っても通らないだろう」として「GT-X」の仮名称で開発が進められた[16]

GT-Rの輸出は、オーストラリア向けのみ100台ほどの少量が行われた。出力は日本と同等の207 KWだが、スピードメーターは260 kmスケール仕様、アンテナはルーフ中央前側への設置、ハイマウントストップランプの追加等、細かい変更や追加が行われた上で販売された。現在海外で“Godzilla”と呼ばれているGT-Rの愛称は、オーストラリアでのツーリングカー選手権への参加で、他メーカー勢を周回遅れで制した衝撃がきっかけで名付けられた。

このRB26DETTの排気量は、2,568ccという当時としては“中途半端な”排気量設定がされている[15][注釈 5]。これは当時のグループAレギュレーションに対応させたことが理由[17][18]

GT系標準モデルとの外見上の違いは、専用16インチアルミ鍛造ホイール、前後フェンダーの拡幅化、アルミ製フロントフェンダーおよびアルミボンネット採用、フロントグリルの追加、専用フロントバンパー、専用リアウィングが挙げられる。

開発に携わった永嶋勉の証言では当初の試作車はスカイラインとフロアパンを共有しており車種の性格上秘匿性が高いとの理由から、R31型スカイラインではなくあえてC32型ローレルをベースにワイドフェンダー化された個体が用いられていた。

1990年にはグループA参戦マシンのホモロゲーション用モデルとして500台限定でGT-R NISMOが発売され[19]、同年よりR31型スカイラインGTS-Rに替わり参戦した全日本ツーリングカー選手権においてデビューウィンを果たす。参戦初年度でありながら、年間を通してカルソニックスカイラインを代表とするGT-Rの強さを印象付け、世界中で最強を誇っていたフォード・シエラRS500を全日本選手権から駆逐し日本国内のみならず、日本国外の自動車レースも席巻した。その後、全日本ツーリングカー選手権がFIAのクラス2規格(排気量2.0 Lまでの4ドアセダン車両をベースにしたJTCC)で行われることが決定したため1993年以降は全日本GT選手権に戦いの場を移すこととなる。ほかにグループAより改造範囲の狭いグループNを基にしたN1規定に対応するため、主にブレーキ系の性能を向上させたVスペック・VスペックIIが発売されている。

車体色のバリエーションはイメージカラーとなるガングレーメタリック (KH2) の他にクリスタルホワイト、ジェットシルバーメタリック、レッドパールメタリック、グレイッシュブルーパール、ダークブルーパールなど、前期モデル、中期モデル、後期モデルで計8色販売された。なお当初はダークグリーンメタリック (DH0) の販売も予定されており、発売前の販促カタログにも掲載され試作車も作られたにもかかわらず[注釈 6]、結局このカラーでのGT-Rは販売されなかった。なおこの車体色は中期以降のGTSグレードにて採用されている。

メカニズムなど

BNR32型最大の特徴は、上述の通り当時の最新装備が多数採用されたことである。特筆すべきは、PGC10型からKPGC110型まで自然吸気エンジンかつ後輪駆動であったGT-Rが、このBNR32型ではツインターボエンジンRB26DETTが専用に開発・搭載され、足回りも「ATTESA E-TS」、「Super HICAS」を搭載し、後輪駆動 (FR) から四輪駆動 (4WD) となったことである[注釈 7]。その中でもRB26DETTエンジンは、S20型同様モータースポーツ参戦を前提に開発されていたものであったため、市販車の平均的な水準をはるかに上回るエンジン強度を誇り、出力も280 PS/36 kgf·mを達成するなど非常に強力なエンジンとなっている。

しかし欠点として、RB26エンジンはエンジンブロックが丈夫さと引き換えの鋳鉄製であり、これにより車重が増加した。そしてフロントヘビーな配分と、高度なATTESA E-TSなどのデバイスが災いし、標準装備のブレーキではハードな走行に耐え切れず、N1レース参戦初期には強いアンダーステアに悩まされ、ブレーキフェードによるリタイアもあった。その後の対策として、Vスペックではより大型のブレンボブレーキキャリパーが採用されている。

グレード

標準車
発売初期からラインナップされていた標準グレード。車両重量は、前期型は1,430 kg、中・後期型は1,480 kg[21][22]
GT-R NISMO
1990年の全日本ツーリングカー選手権初戦に合わせて500台限定で生産、レースベースを含めたら560台製造されたグループA参戦マシン用ホモロゲーション用モデル。モデルコードはKBNR32RXFSL-RA。セラミックタービンからメタルタービンへ変更され[23]、それに合わせてエキゾーストマニホールドも専用品を使用しているほか、エアコン・オーディオ・リアワイパー・ABS・インタークーラーグリルが外され[23]、1,400 kgまで軽量化が図られている[23]。また、外装では冷却効率の改善を図るためボンネット先端のグリル上部に吸気流入量増加を狙ったフードトップモールおよびフロントバンパーに開口箇所を追加(通称「ニスモダクト」)、空力特性の改善のためサイドシル後部にはリアタイヤ周りの整流を目的としたプロテクターが装着され、リアには小型のリアスポイラーが付与されている。
Vスペック
1993年2月のマイナーチェンジ時の際に登場[13]。標準車のフロントブレーキローター径296 mmに対して324 mm、リアブレーキローター径297 mmに対して300 mmにそれぞれ大径化し、ブレンボ製ベンチレーテッドディスク(フロント4POT、リア2POT)と225/50R17インチBBS製ホイールを装備した上位モデル。これに合わせてサスペンションの再セッティングと、ATTESA E-TSのロジックパターンが変更されている。車重は1,500 kg[12]
N1
1991年7月19日発売[13]。N1耐久レース(現在のスーパー耐久)での使用を見越し設計されたモデル。基本的には快適装備の除去やABSレスなどGT-R NISMOと同様のものであるが、エンジンブロックの肉圧を増加させ、出力アップによる耐久性を持たせたN1仕様のRB26エンジン、NISMO純正ホイール、NISMO製ステアリング、マフラー、ストラット・タワーバー、大型化されたブレーキローター(これによるピンホールの廃止、ブレーキ導風板の追加)、角型2灯式ハロゲンヘッドランプへの換装が行われている。また、車体色はクリスタルホワイトのみである。後にVスペックが発売されると同時に、ブレンボ製ブレーキが追加されたVスペック準拠のVスペックN1となった。さらにVスペックがVスペックIIに置き換わるとVスペックII準拠のVスペックII N1になった。
VスペックII
1994年2月に発売[13]。コーナリングスピードの向上を図るため、Vスペックのタイヤを245/45R17にしたもの(Vスペック発売当時45Rの認可が下りず、発売翌年に解禁となった)。

年表

  • 1989年5月22日 - 8代目スカイライン発表[13]。GT-RとGTS-4は8月発売のアナウンス。
  • 1989年8月21日 - スカイラインGTS-4と共に販売開始。
  • 1990年3月11日 - 500台限定で全日本ツーリングカー選手権(グループA)ホモロゲーションモデルのGT-R NISMOを発売。
  • 1991年8月20日 - 初のマイナーチェンジが行われ、中期型へ移行[13][24]。衝突安全装備の補強材(サイドインパクトビーム)を追加した[25]ことから、重量が50 kg増の1,480 kgとなった。また、ヘッドランプがH3CからH1に大型化され、クランクシャフト形状、シリンダーブロックの補強が行われている[25]。細かなところでは、シートベルト警告灯、エアバッグ設定の追加、ボディ色としてクリスタルホワイト、スパークシルバーメタリック、グレイッシュブルーパールが追加されている(これに伴い、ジェットシルバーメタリックが廃止された)。
  • 1993年2月3日 - 2回目のマイナーチェンジにより、後期型へ移行[13]。クラッチがプッシュ式からプル式になり、トランスミッションのシンクロメッシュ改良が行われた[26]。1994年モデルではリアデフカバーがローレルと同じタイプへ変更されている[27]。また、同時にVスペックおよびVスペックN1を追加。
  • 1994年2月14日 - VスペックII販売開始[13]
  • 1994年11月7日 - 最後の1台の標準車がラインオフして生産終了。以降は在庫分のみの対応となる。総生産台数は4万3934台[12]
  • 1994年12月 - 販売終了。

4代目 BCNR33型(1995年 - 1998年)

日産・スカイラインGT-R(4代目)
BCNR33型
 
1997年改良型
 
概要
販売期間 1995年1月 - 1998年12月
設計統括 渡邉衡三
ボディ
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドアクーペ・4ドアセダン
エンジン位置 フロント
駆動方式 四輪駆動
(パワートレイン)
エンジン RB26DETT
最高出力 280 PS/6,800 rpm
最大トルク 37.50 kgf·m/4,400 rpm
変速機 5速MT
サスペンション
マルチリンク
車両寸法
ホイールベース 2,720 mm
全長 4,670 mm
全幅 1,780 mm
全高 1,360 mm
車両重量 1,530 kg
その他
総販売台数 1万6422台[12]
共通のプラットフォームを採用する車 日産・ローレル
(テンプレートを表示)

1995年1月6日発売。型式はBCNR33[注釈 8]

1993年8月にR33型スカイラインが発表された直後の第30回東京モーターショーでプロトタイプが発表された(市販モデルでは主にフロント周りが改修される)後、標準車の販売開始から遅れて1年5か月後に発表された。このR33型GT-Rは、通常はモーターショーなどで新車発表するところを、改造車の祭典である第13回東京オートサロンで発表するという形式がとられた。これは当時の市販車としては初めてのことである[28]

この型式より、以前にも増して本格的にニュルブルクリンクでのテストドライブが重視された。このことよりBCNR33のプロトタイプモデルが7分59秒のタイムを記録したことで、BNR32型に対してのタイム差から「マイナス21秒ロマン」と銘打ったキャッチコピーを掲げ、GT-Rとしては初の単体でのテレビCMを展開している。またBNR32型と違い、発売時よりVスペックおよびVスペックN1が設定されている。また、1997年には、日産関連企業のオーテックジャパンより、特別仕様ながらPGC10型以来の4ドアセダンGT-Rとなる「スカイラインGT-Rオーテックバージョン 40th ANNIVERSARY」が発売された。

モータースポーツでは、BNR32に引き続いて全日本GT選手権に参戦しているほか、ル・マン24時間レースにも参戦していた。

またこの代からイギリスへの正規輸出が100台限定で行われ、開発主管を務めた渡邉衡三によれば北米への輸出も検討されていたが、RBエンジンは左ハンドルへの対応が難しく、排気構造の問題からエンジンを開発し直さなければならないとの理由でアメリカ向けのR33は見送られた。

メカニズムなど

先代BNR32に引き続きRB26DETTを搭載しているが、旧型より増加した車両重量に対応させるための高出力化が必要となった。そのために従来8ビットであったECUの16ビット化、過給圧の上昇、バルブタイミングや吸排気系、圧縮比、フリクションロスの見直しなどの改良により、出力は280 PS/37.5 kgf·mとなる[注釈 9]。また、BNR32ではVスペック系統のみ設定されていたブレンボ製ブレーキキャリパーを全車標準装備とし[29]、Vスペック系統にはアクティブLSDを採用[30]。このアクティブLSDとシンクロして動作するATTESA E-TS PROが搭載されている[30]。車体の特徴として、R32型から全長が130 mm、ホイールベースで105 mm拡大され、全体的にワイドボディ化された。加えてボディも補強され、剛性が高まっている[31]。また新たに角度調整機構付リアスポイラーを採用した[28][32][33]

内装の基本的なレイアウトは、センターコンソールの3連メーターなどはBNR32型と同様であるものの、タコメーターにGT-Rのロゴが付いたこと[34]、ハイビームサインが下部から上部へ移設されたことが特徴である。なお前期型のステアリングは、(K11型マーチ)など日産のエアバッグ装着車共通のステアリングセンターパッド(握りの部分は専用)が採用されていたが、不評を買ったため、中期型よりスポーティな形状のセンターパッドに変更されている[28]

その他、BCNR33型になり、バッテリーがトランクルーム奥に設置されるようになった[31]。前期では青基調の内装だったが、後期型では内装内張り・シートが赤色基調に変更されている。

グレード

標準車
標準仕様車。
Vスペック
アクティブLSD、ATTESA E-TS PROに換装し、専用セッティングの足回りを装着し車高を下げた上位モデル。ベストモータリング1995年4月号でR33広報車と土屋圭市のマイカーである市販車Vスペックがレースをしたところ、市販車Vスペックが広報車の標準車よりも遅く、広報チューンが発覚したこともある[35]
Vスペック N1
従来同様N1耐久レース参戦用ベースモデル。カーボンセンターリヤスポイラー、カーボン製アンダーカバー、メタルタービン、空冷式エンジンオイルクーラーなどの専用装備を持ち、軽量化として助手席エアバッグ、エアコン、オーディオ、集中ドアロック、リヤワイパーなどが省かれている。なおボディカラーの設定はホワイトのみ。
LMリミテッド
1996年5月にル・マン24時間レース参戦記念として、期間限定で販売されていた特別仕様車。専用色「チャンピオンブルー」が設定されており、角度調整機能付きセンターカーボンウィング、フードトップモールが装備されている。標準車・Vスペック共に設定。
スカイラインGT-Rオーテックバージョン 40th ANNIVERSARY[36]
スカイライン生誕40周年を記念して、1997年10月開催の第32回東京モーターショーで出展、後に注文生産車として市販された。2ドアGT-Rのブリスターフェンダーを再現するため、あえてリアドアとリアフェンダーのプレス型を作り直すなど、一見4ドアGTSのボディをベースにGT-R仕様に改造したような外見をしている(ただしリアは4ドアのテールランプのまま)。1998年1月に正式発売、当時498万5,000円。型式は「BCNR33改」となり、2ドアボディに後部2枚のドアを追加した2ドア改4ドアGT-Rとなる。生産は村山工場で組み立てされた後、座間事業所にて仕上げを施され、出荷された。この型を神奈川県警察高速道路交通警察隊が白黒パトカーとして、埼玉県警察覆面パトカーとしてそれぞれ2台ずつ導入している。生産台数は422台。
NISMO 400R[37]
NISMOが開発した市販コンプリートカー。(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル#チューニングカー)を参照。このモデルは、RB26DETTエンジンではなく、RB-Xと呼ばれる400馬力を発生するエンジンに換装している。
余談として「400R」の名称は後に2019年7月にマイナーチェンジが発表されたV37型スカイラインの特別仕様車のグレード名として再度用いられている。
NISMO GT-R LM
ル・マン24時間レース参戦用ホモロゲーションモデル。1台のみの製作で、イギリスにて登録された。(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル#チューニングカー)を参照。

年表

  • 1995年1月6日 - R33型GT-R発売。ラインアップは標準車とVスペックおよびVスペックN1。
  • 1996年1月22日 - マイナーチェンジにより中期型へ移行[38]、デュアルSRSエアバッグを標準装備とし、ステアリングデザイン、リアフィニッシャーのデザイン変更、車体色スーパークリアレッドII、ソニックシルバーメタリックの追加など。
  • 1996年5月21日 - LMリミテッドを2か月限定で販売。
  • 1997年2月3日 - マイナーチェンジで後期型へ移行[39]、ヘッドランプがプロジェクターキセノンヘッドランプに変更され、リアの右側後退灯がリアフォグランプに変更されたほか、ドア内張りおよびシートを赤基調のものに変更、バンパーが全車N1仕様(通称ブタ鼻タイプ)に変更された。
  • 1998年1月 - スカイラインGT-Rオーテックバージョン 40th ANNIVERSARY発売。
  • 1998年11月9日 - 生産終了。以降は在庫分のみの対応となる。総生産台数は1万6422台[13]
  • 1998年12月 - 販売終了。

5代目 BNR34型(1999年 - 2002年)

日産・スカイラインGT-R (5代目)
BNR34型
 
M−Spec Nür
 
概要
販売期間 1999年1月 - 2002年12月
設計統括 渡邉衡三
ボディ
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドアクーペ
エンジン位置 フロント
駆動方式 四輪駆動
(パワートレイン)
エンジン RB26DETT
最高出力 280 PS/6,800 rpm
最大トルク 40.00 kgf·m/4,400 rpm
変速機 6速MT
サスペンション
前後マルチリンク
車両寸法
ホイールベース 2,665 mm
全長 4,600 mm
全幅 1,785 mm
全高 1,360 mm
車両重量 1,560 kg
その他
総販売台数 1万1345台[12]
共通のプラットフォームを採用する車 日産・ローレル
系譜
後継 日産・GT-R
(テンプレートを表示)

1999年(平成11年)1月8日販売開始。第2世代最後にしてスカイラインGT-R名義として最後の型である。キャッチコピーは「人に翼を」。

先代同様、第17回東京オートサロンで新車発表。この際、ニスモからはコンプリートカーの状態で展示が行われていただけでなく、いくつかチューニングメーカー、ショップ[注釈 10]にも事前に納車され、若干のチューニングが施された車も展示された。生産は2001年(平成13年)まで日産自動車村山工場、それ以降は日産自動車栃木工場で行われていた[注釈 11]

このBNR34型では、先代BCNR33型で不評であった車体寸法の、縮減を命題としている[40]。ホイールベースで55 mm、全長で75 mmサイズダウンさせ、車軸位置の調整で前後重量配分を約55:45まで改善、車体剛性の算出にはMRS(マルチロードシミュレーター)と呼ぶ動剛性解析システムを導入、前型比で動的ねじれ剛性を56 %、動的曲げ剛性を100 %向上した。空力では、車体全後端の下面を覆う大型ディフューザーを装備した量産車初のアドバンスドエアロシステムを採用[41]、スタイルは全体を直線基調とし、ヘッドランプを吊り目タイプに、丸形4灯テールランプはそれまでの均一サイズから、内側ランプを小さくし、中心に方向指示器を配置、制動灯は外側の赤部分のみが点灯する。また、リアナンバープレートスペース左横に後退灯、右横にリアフォグランプ(赤色)が装備されている。

安全面ではサイドエアバッグをオプション設定し、セキュリティ対策としてイモビライザーも採用された。なおBCNR33型に引き続きイギリスへの正規輸出が行われている[注釈 12]

なお、BNR34型では従来の走行面を重視したVスペック系の他、2001年(平成13年)には乗り心地と上質感を重視したMスペックが設定されている[42]。しかしKPGC110型同様排出ガス規制の強化により、平成12年規制への適合はなされず2002年(平成14年)8月に生産終了。生産終了直前の2月26日には最終記念車「Vスペック II Nür(ニュル)」および「Mスペック Nür」が、合計1,000台販売され、2002年(平成14年)1月24日の発表日に即日完売となった。2007年(平成19年)発表となった後継車の日産・GT-Rが「スカイライン」の名称を引き継がなかったため、スカイラインGT-Rとしては2020年(令和2年)現在、このBNR34型が最後となっている。

モータースポーツでもR33に引き続いて全日本GT選手権に参戦していたほか、ニュルブルクリンク24時間レーススーパー耐久に「ファルケンGT-R」が参戦していた。

メカニズムなど

第二世代最後のGT-Rとあり、この代でも先進的な技術が採用されている。

Vスペックの前方下部に樹脂製、後方下部に量産車初のオートクレーブを用いて焼成されたカーボンディフューザーや、可変2段リアウイングスポイラーのアドバンスドエアロシステムを採用[40][41]。このディフューザーは車体下部前後を覆っており、走行風を取り込んで圧縮・整流させボディ下面を通り、リヤで拡散させることでダウンフォースを発生させる仕組みとなっている(標準車と比べバンパー下部が大きい[42])。さらにフロントバンパーの幅をタイヤハウジングより大きくしているが、これは空気をタイヤハウジングへ溜めさせ、負圧でブレーキを冷却させるためである。

タイヤ、ホイールは18インチ化された(サイズは245/40ZR18、18×9JのBBS鍛造アルミホイール)[43]ものの、1セットあたり1 kg軽量化[40]、ブレーキは先代同様引き続きブレンボ製を標準装備しているが、本体色の変更(黒から金)の他に取り付けボルトを太いもの(12 mmから14 mm)に変更し、支持剛性を向上させている。トランスミッションはドイツゲトラグ社と共同開発した6速ミッションで、リバースギアにもシンクロ機構が装備されている。サスペンションもテンションロッドが一体型のアルミ鍛造のものに変更され、耐久性向上と軽量化を行っている[41]。 LSDは、R33型同様Vスペック系統にアクティブLSDを採用し、アクティブLSD準拠のATTESA E-TS PROを搭載している[41]

エンジンは第2世代最後となるRB26DETT型を搭載。カタログスペックの最大出力280 PSはそのままだが、ギャレット社製C100-GT25型ツインボールベアリングのセラミックタービンの採用と最大過給圧のアップで、最大トルク40.0 kgf·mを達成し[40]、低回転域トルクの増加で常用速度域における運転性(ドライバビリティー)が向上している。またエンジンのヘッドカバーは赤メタリックで塗装され「SKYLINE GT-R NISSAN」の文字が印刷されたプレートものが使われていた(BNR32、BCNR33までは黒で「NISSAN TWINCAM 24VALVE」)[41]。またNürにおいては金色のカバーが採用されている。

車内においては、従来センターコンソール上部に置かれていた3連メーターに代わり、マルチファンクションディスプレイ (MFD) と呼ばれる車両の状態を確認する5.8インチのモニターが搭載され、水温、過給圧などを表示することが出来るようになった(Vスペックとノーマルでは多少表示項目が異なる。また、このMFDはVICSコンパスリンクを搭載したカーナビが使用できた[44])。レブランプも搭載され設定値になると赤く光るようになっている。スピードメーターは当時の日産車では例外的に左にタコメーター、右にスピードメーターの配置となっており、Vスペック系統ではタコメーターの3,000 rpm以下の目盛りが圧縮された2段スケール仕様となっている[45]

2000年(平成12年)10月30日のマイナーチェンジでは、リアのブレーキローターを大型化(300 mmからN1仕様同等の322 mmへ)したほか、各種フットペダルをRの文字が入った樹脂製からアルミ製のものへ変更、シフトノブもGT-Rロゴが入ったアルミ製ものに変更されている(細かい所では、ターンシグナルランプがオレンジからクリアレンズになった点、センターコンソールのイリジウム調化など)。同時にVスペックはVスペック IIとなり、量産車初となるカーボンボンネット(東レ製の「トレカ」を使用[46]。なおカーボン地ではなく塗装済)を採用、4kgの軽量化を図ると共にNACAダクトの追加でタービン付近の温度低減が図られている[41]

グレード

標準車
標準仕様車。
Vスペック
上位グレード。アドバンスドエアロシステム、圧縮タコメータ、アクティブLSDおよびATTESA E-TS PRO
N1
従来同様N1耐久レース参戦用ベースモデル。従来同様のN1仕様のエンジン、オイルクーラー、メタルタービンのほか、センターコンソールおよびハンドブレーキが樹脂製となっており、エアコン、オーディオ、リアワイパー、リモコンミラーレスとなっている。なお、このN1で搭載されているφ322 mmブレーキローターは、のちのマイナーチェンジで全車標準装備されている。2000年8月のマイナーチェンジ時にVスペックII準拠のVスペックIIN1に変更される。
ミッドナイトパープルII
R34GT-R発売記念として、1999年1月末まで販売されていた。R33型で採用されていたミッドナイトパープル色に構造色(モルフォテックス)を採用したもの。Vスペックと合わせて300台限定。
ミッドナイトパープルIII
1999年10月23日 - 11月3日まで行われていた第33回東京モーターショーに参考出品されていたもので、2000年3月末まで販売されていた特別仕様車。M.N.P.IIと比べ、より光沢感を持たせたものになっている。
VスペックII
2000年8月にマイナーチェンジされた際にVスペックに代わり登場した。主な装備はNACAダクト付きカーボンボンネットの装備など[42]。グレードのIIの文字が赤色となっている。
Mスペック
乗り心地と上質感を重視した仕様で、足回りのセッティングの変更がなされ、ハンドメイド縫製の本革ヒーター付きシート、専用ステアリングが付与されている。ボンネットは従来車同様アルミ製で、専用色にシリカブレスが設定されている[42]。グレードのMの文字が黒色となっている。
VスペックII Nür・Mスペック Nür
2002年1月24日にR34型GT-Rの生産終了を記念して発表された両グレード合計1,000台限定モデル。Nür(ニュル)とは、GT-Rがテストコースとして使用していたドイツサーキットニュルブルクリンク (Nürburgring) の意味である。エンジン、ウォーターポンプ、エキゾーストマニホールドなど、全てがN1仕様となっており、ヘッドカバーを従来の赤メタリックから金色としたN1エンジンにはバランス取りを行っている他、タービンもN1仕様のメタル製タービンである。そのほか、スピードメーターが300 km/hスケールにまで拡大され[40]メーカーズプレートも金色となっており、従来ステッカー式だったグレードネームもクローム仕上げの立体エンブレムとなった。車体色は新たに限定色としてミレニアムジェイド〈JW0〉が追加されている(ミレニアムジェイドはVスペック II Nür、Mスペック Nürどちらも選べる。ちなみにVスペック II Nür専用色はベイサイドブルー〈TV2〉、Mスペック Nür専用色はシリカブレス〈EY0〉である)。
NISMO R34GT-R Z-tune
Vスペック系統の良質中古車から作成したNISMOの市販コンプリートカー[47]。ニスモ創立20周年アニバーサリーモデルである。内容は(ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル#チューニングカー)を参照。20台製作予定の内、実際にユーザーに渡った台数は19台。殆どがNISMOのZ-tuneシルバーだが、日本人のユーザーの希望で大森ファクトリーに何度も断られたが、やっと手に入れることのできたミレニアムジェイド1台とミッドナイトパープル Ⅲ(シャシナンバー10番目)1台がNISMOの大森ファクトリーによって製作された。

年表

  • 1999年1月8日 - 発売。ラインアップは標準車とVスペック、同月末まで発売していたミッドナイトパープルII。
  • 2000年1月7日 - ミッドナイトパープルIII発売。2000年3月までの期間限定。
  • 2000年10月30日 - マイナーチェンジにより後期型へ移行。ターンシグナルランプレンズがオレンジからクリア色に、ペダルが樹脂製からメタル製へ変更された外、N1仕様の大型リヤブレーキローターを全車に採用、バンパー意匠の変更などが行われた。同時にVスペックに代わりVスペックIIが登場。同時にアクティブレッド、ライトニングイエローが廃止された。
  • 2001年5月8日 - Mスペック発売。同時にアスリートシルバー色が廃止された。
  • 2002年1月24日 - 最終限定車としてVスペックIIニュルおよびMスペックニュルがあわせて1,000台限定で発表し、即日完売。翌月2月26日発売、納車が開始された。
  • 2002年11月 - 生産終了。以降は在庫分のみの対応となる。生産台数は1万1345台[12]
  • 2002年12月 - 販売終了。

スカイラインGT-Rのモータースポーツ活動

スカイラインは、初代の時代からモータースポーツに参戦しているが、先述の通りGT-Rは特にモータースポーツ活動に主眼を置いており、初代前期PGC10型/後期KPGC10型GT-Rは、日本国内のレースで後に100勝を達成したマツダロータリー勢としのぎを削りながら、クラス優勝を含む50勝を越す勝ち星を獲得している。

その後、R30型スカイライン2000RSやR31型スカイラインGTS-Rの後任としてグループAの頂点を目指すべくGT-R(BNR32型)が復活。BNR32型はデビューからレース活動終了時まで勝ち続け、グループA 29連勝の記録を作った。

全日本GT選手権(JGTC)では、1993年の開幕から2003年シーズンまで、R32からR34までの3世代のモデルが参戦し、すべてのモデルでドライバー若しくはチームのタイトルを獲得している。なおJGTC参戦用の車両は、レギュレーションや車両重量の都合もあり、基本的に市販車の4WDではなくFRを採用している(ただし一部プライベーターが4WDを用いたこともある)。

2代目KPGC110型GT-Rは、すでにS20型エンジンが競技力を失い始めているのに加え、大きく重くなったベースシャーシーではマツダ・ロータリー勢に対抗するのは不可能と考えられたため、モータースポーツ活動は行っていない。ただし、C110型としては4気筒セダンの1800GLにラリー用スポーツオプションが用意され、メーカーがプライベーターをサポートしていた。

初代(前期PGC10型・後期KPGC10型)

 
スカイライン2000GT-R '71日本グランプリレース大会出場車両のレプリカ
  • 1969年5月 デビュー戦である1969年JAFグランプリレース大会のクラブマンレース特殊ツーリングカーの部は、(大会規定)により日産の全ワークス選手が参加資格を失ったため、やむなく(ニッサン・スポーツ・カー・クラブ) (SCCN) や(プリンスモータリストクラブ・スポーツ) (PMC-S) のアマチュア選手5名でワークスチームを編成した。これに対し、ライバルとなるトヨタは高橋晴邦がワークス選手ではあるが参加資格があった[49]。予選では(藤田皓二)が2分13秒42で1位、以下(ロバートL.レイガン)、長村瑞臣の順でGT-R勢が上位を占め、トヨタ・1600GTの高橋は藤田に約1.5秒遅れの4位、5位に高橋と同タイムの(萩原裕)、1600GTを2台挟んで8位に篠原孝道という結果であった。決勝で、1速を低速カーブに設定している日産勢は、1速がスタート専用ギアのトヨタ勢にスタートで一斉に遅れた。その後、順調に順位を上げた篠原が先頭の高橋に追いつき一騎打ちとなるが、高橋の巧みなブロックにより順位は変わらないままフィニッシュとなった。しかし高橋は速度で勝る篠原を直線でもブロックしており、これにコース監察の競技役員が走路妨害の疑いを報告し、競技委員会もこれを確認したため、高橋は罰則で1周減算され、総合成績は1位篠原、2位萩原、3位高橋 (クラス1位) となった[50]
  • 1969年10月 「'69日本グランプリレース大会」ツーリングカーレースにてGT-Rが1 - 3位を独占。
  • 1970年5月 「'70JAFグランプリレース大会」特殊ツーリングカーレースにてGT-Rが1位、2位、4位を獲得する。
  • 1970年6月 、「全日本富士300マイル」100マイルBレースにて、長谷見昌弘のドライブするGT-Rが優勝。長谷見はスペアカーで決勝に臨み、最後尾スタートであった。
  • 1971年5月 「'71日本グランプリレース大会」ツーリングカーbレースにてGT-Rが1 - 3位、5位を獲得する。
  • 1972年3月 「'72富士GCシリーズNo1 富士300キロスピードレース」スーパーツーリングレースにて、GT-Rが豪雨の中、高橋国光が全車を周回遅れにして1位、通算50勝を達成する。
  • 1972年9月 「'72GCシリーズ 富士インター200マイルレース大会」スーパーツーリングTS-bcレースにて北野元が駆ったGT-Rが1位、久保田洋史が3位、正谷栄邦が6位を獲得し、通算52勝目を飾る。そして最終的に通算57勝の成績を残した。

C10型の強さを語る上の代名詞として「49連勝」というフレーズが昨今において雑誌、広告、DVDなどのメディアにおいて広く使用され認知されている。ただし、この連勝数については諸説があり、例えばプリンスの丘公園におけるC10型の功績を称える碑には50連勝と書かれていることに対して、モータースポーツ専門誌の『Racing On』444号では、うち18がクラス優勝[注釈 13]、また1971年7月25日に行われた富士1000kmレースにおいて総合6位(クラス2位)となっているため、連勝記録は46で止まっていると指摘している[注釈 14]。なお、日産のモータースポーツ部門であるNISMOはHPにおいて「49勝し更に50勝目も挙げた」という表記を取っている[51]

3代目(BNR32型)

 
1990 カルソニック スカイライン
ニスモのエキシビションにて

1990年全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 第1戦西日本サーキットにてGT-R(グループA仕様)はレースデビュー。レースでは、星野一義/鈴木利男組のカルソニックスカイラインがポール・トゥ・ウィンを飾るだけでなく、予選ではコースレコードを2秒近く短縮、決勝ではレースの4分の1を消化した時点ですでに全てのマシンを周回遅れとするなど、(2位でゴールした僚友・リーボック スカイラインGT-R以外の3番手以降は2周以上の周回遅れ)圧倒的な力の差を見せつけた。その後もシリーズ全戦でポールポジション獲得・優勝。翌年度からは徐々に参戦車数が増え、最終シーズン1993年には7台のGT-Rが参戦、グループA(クラス1)は事実上のワンメイク状態とまで化した。結局、1990年の初戦からJTCというカテゴリーが終了する1993年まで無敗を誇り、最終的に29連勝という偉業を成し遂げる。なおJTCと並行してN1耐久シリーズ(現・スーパー耐久)にもGT-Rで参戦した。グループA終了後はJTCCと同時に始まった全日本GT選手権(JGTC)に転用される車両もあった。

また日本国内だけでなく、国外のレースにも積極的に参戦している。特にオーストラリアツーリングカーチャンピオンシップでは、ジム・リチャーズマーク・スカイフのコンビが1990年1991年1992年とタイトルを分け合う形で3連覇を果たしており、バサースト1000kmでもこのコンビで連覇を果たしている。あまりにも圧倒的な成績だった事から、1993年のレギュレーションよりクラス2(スーパーツーリング)規定の導入でターボとAWD車が禁止となり、最上位のクラスはオーストラリア車(事実上フォード・オーストラリアホールデンの2社)の5.0LのV型8気筒エンジン車によるレギュレーションに変更された[52]

1993年には元F1ドライバーのルイス・ペレス=サラが(スペインツーリングカー選手権)のタイトルを獲得する[53]。またワークスだけでなく、プライベートチームもヨーロッパや北米のレースに数多く参戦していた。

ベルギーで開催される世界3大耐久レースの一つ、スパ・フランコルシャン24時間レースには1990年 - 1992年に出場。1990年はグループNクラスの表彰台を独占した。そして1991年には前年に続きキース・オドール/木下隆之/ディアク・ショイスマン組が総合6位に入ってグループNクラス優勝、さらにグループAクラスで日産ワークスから送り込まれたZEXELスカイラインが2位以下を20周以上も引き離して総合優勝する快挙を成し遂げている[注釈 15]。1992年にも引き続きZEXELスカイラインが参戦。前年の圧倒的な成績から、90kgのウェイトハンデを課せられながら[54]も、昨年DTM参戦の都合上不参加だったBMW・M3勢を相手に奮戦し、当初はトップを走るものの、エンジン不調からやがて失速。さらにピットイン時にガソリンが引火するアクシデントに遭いリタイヤとなった。

1990年11月にはグループAマシンによるマカオグランプリ・ギアレースに長谷見昌弘のカストロールスカイラインが参戦。圧倒的な速さで予選トップを獲得、決勝でもその力を見せつけ、1度もトップを譲らずに優勝した。

なお余談として、サーキット以外では、1990年に一度だけ世界ラリー選手権 (WRC) の一戦であるツール・ド・コルスに参戦したことがある。ただし畑違いのこの分野では結果を挙げることはできなかった。

4代目(BCNR33型)

 
ル・マン24時間レース参戦車両
1995年
全日本GT選手権ドライバーズタイトル獲得。チームタイトルはTEAM TAISANのポルシェ[55]

ル・マン24時間レースに投入したGT-Rは、車両レギュレーションの関係上、「同一車種に4ドア車が存在する車種はエントリーから除外する」という規定をクリアするために、「日産NISMO GT-R LM」という独立した車種を製作し、イギリスでナンバーを取得し車両公認を得た上で規定に合致させるという手法を取っている。「公認を得た“ロードカー”を最低1台製作すること。ただし販売の義務はない」という、中小規模のメーカーに対して門戸を開放するために設けられた規定条項を利用した。このため、BCNR33型でありながら「スカイラインを名乗らないGT-R」となっている。競技車両同様、前後トレッドを拡大したほか、BCNR33型GT-Rに採用されている4WDを廃してFR二輪駆動に改められるなどの改良が施されている。また前部バンパーにコーナリングランプが設けられている他、テールランプが丸形四灯ではなく角形ランプを円形のケーシングに収めたものとなっているなどの外観上の差異が見られる。現在は日産自動車が保管しており、イベントなどでその姿を見ることができる。

1998年
全日本GT選手権シリーズタイトル獲得。

5代目(BNR34型)

 
2003 ザナヴィ・ニスモGT-R
1999年
JGTCに参戦。GT500クラスに1月に発売されたBNR34型が3台、前年度モデルであるBCNR33型が2台。「ペンズオイル・ニスモGTR」(エリック・コマス)が2年連続のシリーズチャンピオンを獲得したが、チームタイトルはTOYOTA Castrol TEAM TOM'Sのスープラだった[56]
スーパー耐久シリーズに参戦。JGTC同様BNR34型が参戦し、「日産プリンス千葉GT-R★FALKEN」がシリーズチャンピオンを獲得した。
2000年
全日本GT選手権に参戦。GT500クラスにBNR34型が4台参戦。
スーパー耐久シリーズに参戦。「5 ZIGEN☆ファルケンGTR」がシリーズチャンピオンを獲得。
2001年
JGTC参戦。GT500クラスにBNR34型が3台参戦し、ドライバーズチャンピオンはスープラの竹内浩典・立川祐路に奪われるが、「ニスモ」が2001年JGTCチームチャンピオンを獲得[57]
スーパー耐久シリーズに参戦。「FALKEN GT-R」が5年連続となるシリーズチャンピオンを獲得。
2002年
全日本GT選手権に参戦。GT500クラスにBNR34型が3台参戦した。第3戦にはRB26DETT型に替わり、本来スカイラインGT-Rに用いられていないV型6気筒のVQ30DETT型を搭載するGT-Rが登場。第5戦以降は全てVQエンジン搭載となる。
スーパー耐久シリーズに参戦。「エンドレスアドバンGT-R」がシリーズチャンピオンを獲得。
2003年
 
2003 モチュール・ピットワークGT-R
JGTC GT500クラスに参戦。GT500クラスドライバーズチャンピオンおよびチームチャンピオンを獲得した。
スーパー耐久シリーズに参戦。
この年を最後にスカイラインGT-RによるJGTC参戦は終了し、フェアレディZに移行した。
2003年5月 ニュルブルクリンク24時間レースに「ファルケンGT-R」が参戦。総合53位 A8クラス3位。ドライバーは木下隆之/田中哲也/ローランド・アッシュ/ダーク・ショイスマン。

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ フォード・コンサルカプリ、(メルセデス・ベンツ・300SEクーペ)とそれ以降のメルセデスベンツ・クーペ、BMW・2000C/2000CSなどが代表例。
  2. ^ L型直6エンジンのチューニングにおいて給排気の三種の神器と言われるソレタコ・デュアルとは、GT-Rの構成に倣ったものである。
  3. ^ この当時はマツダ・サバンナが台頭し、KPGC10型が苦戦していた時期である。またKPGC10型に比べ100 kg以上車重が増加している。
  4. ^ BはRB26DETT、NはアテーサE-TS+ハイキャス、Rはスカイラインを表す。
  5. ^ 当時は排気量2.0 L以下と2.0 L超の自動車税の金額の差が著しいため、あえて2.0 L超とした場合は、かなり排気量を大きくしていた。
  6. ^ この試作車は当時の開発メンバーである渡邊衝三が保有しており、イベント会場などで時折その姿を確認できる。またいくつかのメーカーより渡邊保有の実車を取材したミニカーが製品化されている。
  7. ^ ATTESA E-TSは、基本的には後輪を駆動させ、前後4輪の車輪速度センサにより、トルクを前輪に0:100 - 50:50の範囲で配分する[20]
  8. ^ Cが付く理由は、GTS25であるER33にはHICASが付いていないので、差別化のためにHICASのCが付与されていることが理由。
  9. ^ この改良には同社で長年モータースポーツ活動を行っていた林義正率いるワークス部門が関与している。
  10. ^ 出展していたのは、BLITZMINE's、JUNオートの3社。
  11. ^ このGT-Rの村山最終生産車両の中の1台を同車開発主管の渡邉衡三が保有している。
  12. ^ 日本仕様とは特に大きな差異はないが、R34型は現地の法規に合わせた対応(セキュリティの強化やヘッドランプのハロゲンバルブ化(保安基準に適合しなかったための変更)、スピードリミッターを欧州の自主規制値である250 km/hへ引き上げ、および200マイル/hスケールスピードメーターの採用など)や、後に日本仕様のMスペックにも採用された本革シートが装備されている(英国仕様の本皮はコノリー社により手作業で張られたもので、日本のラインナップにはなかった赤色表皮も選択できた)。
  13. ^ 37勝目のレースは総合優勝がダットサン240Z、GT-Rはクラス優勝(総合5位)など。
  14. ^ また43・45勝目はPMCS(プリンス・モータリスト・クラブ・スポーツ)が主催した日産車のみのレース優勝と指摘している。
  15. ^ 優勝した25号車のドライバーは服部尚貴/アンデルス・オロフソン/デビッド・ブラバム

出典

  1. ^ “PGC10GT-Rモデル詳説”. GT-Rウェブマガジン. GTR-WORLD.NET. 2011年9月25日閲覧。
  2. ^ a b デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第1号3ページより。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第1号4ページより。
  4. ^ 元村郁朗『スカイラインー羊の皮を被った狼たち』三樹書房[]頁。ISBN (978-4895225076)。 
  5. ^ “1969 NISSAN SKYLINE 2000 GT-R(PGC10)”. BINGO(株式会社BH AUCTION). 2022年1月30日閲覧。
  6. ^ 家村 1996, pp. 10–11.
  7. ^ “KPGC10モデル詳説”. GT-Rウェブマガジン. GTR-WORLD.NET. 2011年9月25日閲覧。
  8. ^ 鈴木弘孝 著「History of Skyline, 伝説の中に生き続けるスカイラインその25年の歴史の中に脈々と流れるものは「愛」だった」、上田哲也 編『クルマは愛だ。TURBO & DOHCスカイライン (カービート特別編集)』 28巻、辰巳出版、新宿区〈タツミムック〉、1982年1月1日、144頁。 
  9. ^ a b c デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第1号7ページより。
  10. ^ a b c d e f g h i デアゴスティーニジャパン 週刊日本の名車 第1号8ページより。
  11. ^ a b c d e “KPGC110GT-Rモデル詳説”. GT-Rウェブマガジン. GTR-WORLD.NET. 2011年9月25日閲覧。
  12. ^ a b c d e f 高橋 & 村山 2006, p. 77.
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参考文献 

  • 家村, 浩明『最速GT‐R物語ーR33GTR 史上最強のハコを創った男たち』双葉社、1996年。ISBN (9784575286601)。 
  • 高橋, 明、村山, 佐知子 編『オーナーズバイブル スカイライン32GT-R』 3巻、ニューズ出版〈ニューズムック〉、2006年。(ASIN) B07RPY7NPJ。ISBN (978-4891074333)。 

関連項目

外部リンク

博物館

  • プリンス&スカイラインミュウジアム
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