経歴
公式には久我通言の二男とされたが、実際には近衛尚通が正室徳大寺維子との間にもうけた末子である[1]。久我通言の養子となり、越中国で横死した徳大寺実通の養子となって徳大寺家を相続した。天文15年(1546年)叙爵して以降累進し、侍従・相模介・左近衛中将を経て、天文21年(1552年)に従三位となり、公卿に列する。権中納言を経て、永禄3年(1560年)に権大納言となる。天正3年(1575年)に辞したが、天正4年(1576年)に再任した。天正5年(1577年)には左近衛大将となるも辞職。天正6年(1578年)には(神宮伝奏)に就任。天正8年(1580年)内大臣となるも辞す。和歌と(尊鎭流)の書をよくした。