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岡部氏(おかべし)は、武家・華族だった日本の氏族の一つ。武田氏ついで徳川氏に仕え、江戸時代には和泉国岸和田藩主となり[1]、維新後には華族の子爵家に列した[2]。
系譜
鎌倉時代
戦国時代
戦国時代には、駿河国の今川氏の家臣になる。今川氏と甲斐の武田氏は同盟関係にあったが、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いにおける今川義元の急死や永禄4年(1561年)の川中島の戦いなどを経て甲斐・駿河間の関係は険悪化し、永禄11年(1568年)末には同盟関係が破綻し、武田氏は駿河侵攻を行う。岡部氏はこれにより武田氏に帰属した。岡部元信は、天正9年(1581年)の高天神城の戦いで武田方の主将として討ち死にするが、同族の岡部正綱は徳川氏に仕える(なお、正綱は元信の兄とも言われるが、実際には元信は岡部親綱の子、正綱は岡部久綱の子とされる)。
また、岡部氏の一族には武田家の海賊衆となった土屋貞綱がいる。貞綱は今川旧臣でもとは岡部忠兵衛と称し、駿河侵攻以降に武田氏に帰属し、永禄13年(1570年)2月には土屋姓を称し、土屋豊前守を称している。土屋氏は武田家の譜代家老・金丸虎義の次男である昌続(昌次)が永禄4年以降に名跡を継いだ氏族で、昌続の弟に昌恒がいる。貞綱には実子がなかったため昌恒を養子に迎える。天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは昌続・貞綱が戦死したため昌恒が土屋氏を継ぎ、昌続・貞綱双方の家臣を継承している。
江戸時代
江戸時代に入り、正綱の子岡部長盛は、大垣城主となる。長盛の子、岡部宣勝の時、岸和田藩主になる。
岸和田藩主岡部氏
明治以降
最後の岸和田藩主長職は明治2年(1869年)の版籍奉還で華族に列するとともに藩知事に転じ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[3]。明治17年(1884年)の華族令施行で華族が五爵制になると長職は旧小藩知事[注釈 1]として子爵に叙された[2]。その後長職は外務次官や司法大臣、東京府知事、枢密顧問官などを歴任した[4]。