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小川史

小川 史(おがわ ひろし、1960年6月6日[1] - )は、千葉県市川市出身の元プロ野球選手内野手[1]プロ野球コーチ

小川 史
福岡ソフトバンクホークス 四軍監督 #011
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県市川市
生年月日 (1960-06-06) 1960年6月6日(62歳)
身長
体重
170 cm
63 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手三塁手二塁手
プロ入り 1978年 ドラフト外
初出場 1980年8月2日
最終出場 1995年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

来歴

浦安高校ではエースで中心打者として活躍。1978年夏の県大会で準決勝に進出するが、和田豊らのいた我孫子高に敗退。通算打率.475を記録。

1978年オフにドラフト外西武ライオンズに入団[1]。西武時代は行沢久隆石毛宏典などの台頭で目立つ活躍はなく、1982年12月に金銭トレードにて南海ホークスに移籍。

1984年シーズン中盤から内野の控えとして一軍に定着、福本豊が通算1000盗塁を決めた際の遊撃手で二塁への送球を受けていた。1986年には遊撃手のレギュラーを獲得し、規定打席(35位、打率.248)にも到達した。しかし1987年は5月に故障欠場、8月に復帰するが打率は低迷。翌1988年湯上谷宏にポジションを譲る。1989年森脇浩司と併用され81試合に先発出場、1990年には91試合に先発し定位置を奪還する。1991年には移籍の水上善雄と併用され、1992年には新入団の浜名千広に定位置を譲るが、その後も内外野をこなすユーティリティプレイヤーとして活躍。1990年から1992年までダイエーの選手会長を務め、チームリーダーとしてチームを牽引した。またこの頃、藤本博史・湯上谷宏・森脇浩司との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。1994年から出場機会が減少、現役最終年となる1996年は一軍出場はなく、同年オフに現役引退。

引退後はダイエーのフロントとして3年間・コーチとして2年間、テレビ西日本のゲスト解説者、オリックスのコーチ、ソフトバンクの編成管理スタッフを務め、2009年から2010年まで楽天スカウト、2011年から3年間ソフトバンクの三軍監督を務め、2014年からは一軍ヘッドコーチを務め[2]、同年のリーグ優勝・日本一に貢献。2015年からは再び三軍監督、2016年からは二軍内野守備走塁コーチを務める。2017年12月27日、プロスカウト就任が発表され[3]、のちにスカウトチーフとなる。2022年からは3度目の三軍監督に就任し、現場に復帰する[4]。2023年より新設された四軍監督に異動、背番号も3桁の「011」に変更された。

人物

背番号変更が多い選手で、西武入団時にドラフト外ながらいきなり背番号1を与えられたが(当初は背番号2が予定されていたが、キャンプイン直前にロッテから山崎裕之の移籍が決定し、背番号2を着けることになったため変更)、後に新外国人ジム・タイロンに背番号1を譲り背番号24に。しかし今度は背番号24を秋山幸二(背番号71から昇格)に譲り小川は背番号50に。移籍した南海では最初背番号56を着けていたが奮起して背番号1に昇格も、1993年オフにトレードで入団した秋山に再び背番号を譲渡。背番号1から背番号31に変わり引退まで着用した。秋山は、ルーキー時代自らの指導役を務めた小川について「どんな些細なことでも怒られた。今のソフトなイメージとは想像もつかないほど怖かった」と述べている[5]。尚、秋山がソフトバンク監督時代にはヘッドコーチとして支えた。

プロ野球珍プレー・好プレーでも度々登場し、死球で乱闘に発展したジョージ・ライトを抑えると味方ながら振り払われそうになったり、ロッテ戦ではマイク・ディアズが死球を受けて投手を追いかけ回し、止めに入ると突き飛ばされて脚を負傷、サポーターをして守備に就いた。別の試合では外野からの中継プレーで二塁に自軍のカバーがいないところで走者の初芝清の胸に送球を直撃させてしまい帽子を取って謝った。また本塁打を放ったマイク・ラガを最後に出迎えるとキスされて唖然とする姿が印象的に放送された。

野球選手としては小柄な体格から、ホークス時代の応援歌は「小さな世界」が使用されていた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1980 西武 7 1 1 2 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1983 南海
ダイエー
11 9 7 1 1 0 0 0 1 0 1 0 1 0 1 0 0 1 0 .143 .250 .143 .393
1984 51 53 45 8 11 2 0 0 13 4 3 0 5 0 3 0 0 4 1 .244 .292 .289 .581
1985 113 221 192 26 44 8 0 2 58 18 9 5 13 0 15 0 1 25 9 .229 .288 .302 .591
1986 128 516 472 47 117 15 1 3 143 32 14 5 25 0 19 0 0 66 5 .248 .277 .303 .580
1987 73 172 141 14 28 2 0 0 30 7 6 4 12 2 17 0 0 20 4 .199 .281 .213 .494
1988 101 188 164 17 28 6 1 0 36 10 2 1 15 0 8 0 0 24 1 .171 .209 .220 .429
1989 93 312 273 36 74 10 1 3 95 21 9 2 21 2 16 0 0 39 5 .271 .309 .348 .657
1990 106 316 275 36 69 13 0 3 91 27 6 1 19 3 17 0 2 36 9 .251 .296 .331 .627
1991 101 183 143 21 31 6 0 0 37 13 4 1 10 4 25 1 1 22 5 .217 .329 .259 .588
1992 77 98 88 13 19 2 2 0 25 7 3 1 4 0 6 0 0 14 2 .216 .266 .284 .550
1993 74 115 105 6 25 7 0 0 32 6 1 1 4 1 5 0 0 15 2 .238 .270 .305 .575
1994 33 22 22 3 10 1 0 0 11 5 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .455 .455 .500 .955
1995 38 62 53 5 12 1 0 0 13 5 1 0 2 1 4 0 2 8 1 .226 .300 .245 .545
通算:14年 1006 2268 1981 235 469 73 5 11 585 155 59 21 131 13 136 1 6 279 44 .237 .286 .295 .581
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

記録

初記録
節目の記録

背番号

  • 2 (1979年入団当初)
  • 1 (1979年 - 同年途中、1986年 - 1993年)
  • 24 (1979年途中 - 1981年)
  • 50 (1982年)
  • 56 (1983年 - 1985年)
  • 31 (1994年 - 1996年)
  • 79 (2000年 - 2001年)
  • 74 (2003年 - 2004年、2011年 - 2017年)
  • 76 (2022年)
  • 011 (2023年 - )

脚注

  1. ^ a b c 『'86プロ野球選手写真名鑑』、日刊スポーツ出版社、1986年4月、P125。
  2. ^ 小川ヘッドコーチ、水上コーチが就任会見を行いました福岡ソフトバンクホークス公式サイト2013年10月15日配信
  3. ^ 球団人事について - 福岡ソフトバンクホークス・オフィシャルサイト 2017年12月27日
  4. ^ “ソフトバンク3軍監督に小川史氏が就任 若鷹の再強化図る”. 日刊スポーツ. (2021年10月29日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202110280000796.html 2021年11月18日閲覧。 
  5. ^ 秋山幸二著『卒業』、西日本新聞社、2003年、P145。

関連項目

外部リンク

  • 個人年度別成績 小川史 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
  • 選手名鑑2023 011 小川 史 - 福岡ソフトバンクホークスオフィシャルサイト
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