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富山・長野連続女性誘拐殺人事件

富山・長野連続女性誘拐殺人事件(とやま・ながのれんぞくじょせいゆうかいさつじんじけん)は、1980年昭和55年)2月 - 3月にかけ、富山県長野県で相次いで若い女性2人が、女M・T(以下「M」、各事件当時34歳:1998年死刑確定)によって誘拐・殺害された事件[16]身代金目的の誘拐殺人事件および、連続殺人事件である[17]。また、犯人Mの愛人であった北野 宏1992年無罪確定)が、Mの共犯者として誤認逮捕起訴された冤罪事件でもある[18]

富山・長野連続女性誘拐殺人事件
([全画面表示])
各事件の誘拐現場[注 1]・死体遺棄現場[注 2][注 3]
1
富山事件・誘拐現場(富山駅北口)
2
富山事件・死体遺棄現場(岐阜県古川町数河高原付近)
3
長野事件・誘拐現場(長野駅付近)
4
長野事件・死体遺棄現場(長野県青木村修那羅峠付近)
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各事件の誘拐現場[注 1]・死体遺棄現場[注 2][注 3]
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富山事件・誘拐現場(富山駅北口)
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富山事件・死体遺棄現場(岐阜県古川町数河高原付近)
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長野事件・誘拐現場(長野駅付近)
4
長野事件・死体遺棄現場(長野県青木村修那羅峠付近)
正式名称 警察庁広域重要指定111号事件[3]
場所

日本

標的 若い女性
日付 1980年昭和55年)2月 - 3月
(富山事件:2月23日 - 25日) – (長野事件:3月5日 - 7日) ()
概要 女M(各事件当時34歳:死刑確定)が、富山県および長野県で、身代金を得ることを目的に若い女性2人を相次いで誘拐し、絞殺した。
犯人Mと、その愛人だった男性がともに逮捕起訴されたが、男性は後に無罪が確定した。
攻撃手段 睡眠薬を飲ませて被害者を昏睡させた上で、腰紐を使って絞殺し、死体を山中に遺棄する[4]
攻撃側人数 1人
死亡者 2人(AおよびB)[5]
被害者

女子高生A(富山事件)および女性会社員B(長野事件)

犯人M・T(各事件当時34歳)
動機 借金返済や東京周辺への移住[7]、愛人関係の維持のために資金を得ること[8]
対処 M・北野の両名を逮捕起訴
謝罪 加害者Mは両事件の被害者遺族に謝罪の手紙を送ったが、遺族は謝罪を拒絶[9][10]
刑事訴訟
影響 広域犯罪捜査のあり方や、冤罪の原因となった密室での取り調べ、犯罪報道のあり方に課題を残した。
管轄
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富山・長野連続誘拐殺人事件[19][20][21][22]富山・長野事件[23][24][25][26]とも呼ばれる。また、犯行に用いられた車が赤いフェアレディZだった[27][28]ことから、赤いフェアレディZ事件[29][28]「赤いスポーツカー」事件とも呼ばれる[30]

犯人Mは、2月に富山駅(富山県富山市)付近で、県内在住の女子高生A(当時18歳)を言葉巧みに誘拐し、睡眠薬で眠らせたところを準備していた腰紐で絞殺し、死体を岐阜県吉城郡古川町(現:飛騨市古川町)[注 4]の山中に遺棄した[11]。また、3月には長野県長野市で、信用金庫に勤めていた帰宅途中の女性会社員B(当時20歳)を誘拐し、同様の手段で絞殺[11]。死体を小県郡青木村の山中に遺棄したほか、被害者Bの家族に対し、身代金を要求する電話を複数回掛けた[11]

一連の事件は警察庁により、広域重要事件111号に指定された[3]ほか、中部管区警察局も本事件を認定第1号事件[注 5]に指定した[34]。また戦後、20歳以上の成人を標的にした身代金誘拐事件は本事件(22件目)より前に21件発生していたが、うち被害者が殺害された事例は本事件が3件目だった[注 6][35]

一連の事件は日本全国に衝撃を与え[注 7]、富山県の県紙『北日本新聞』は1980年の「県内10大ニュース」のトップとして本事件を選出した[注 8][37]。捜査を担当した長野県警察は、一連の事件を「連続女性誘拐殺人という史上前例のない凶悪事件」と述べている[38]。昭和56年版『警察白書[注 9]によれば、1980年は身代金目的誘拐事件の件数(13件発生)が当時、史上最多を記録した年で、誘拐された11人のうち4人(本事件の被害者2人を含む)[注 10]が殺害されていた[40]

概要

1980年2月23日、富山県婦負郡八尾町(現:富山市)[注 11]の女子高生A(当時18歳)が国鉄富山駅(富山市)付近で消息を絶ち、3月6日岐阜県吉城郡古川町(現:飛騨市古川町)の山中で絞殺死体となって発見された[41]富山事件)。一方、3月5日には長野県長野市で、長野信用金庫職員の女性B(当時20歳)が帰宅途中に誘拐され、翌6日(Aの死体発見日) - 7日にかけ、女の声でBの家族に対し、身代金を要求する電話が複数回掛かった[41]長野事件)。長野事件は、長野県内では初の身代金誘拐事件で[42]、犯人の女はBの家族に身代金を要求した際、群馬県高崎市の喫茶店まで身代金を持ってくるよう指示していた[41]

長野富山岐阜の3県警による捜査本部は、Aが出入りしていた贈答品販売会社「北陸企画」を経営していた女Mと、彼女の愛人であり、「北陸企画」の共同経営者でもあった男性(北野 宏)の2人を被疑者として追及[3]。MとAが赤いフェアレディZ[注 12]で、富山駅付近と死体発見現場とを結ぶ経路上にあるドライブインに来店していたことや、Bが消息を絶って以降、Mと北野の2人がフェアレディZに乗って長野市に再三現れたほか、3月7日に2人が身代金受け渡し場所(高崎市内の喫茶店)に出没していたことも判明した[3]。また、身代金要求の電話の声はMの声と声紋が一致したため、捜査本部は2人を誘拐犯と断定し、3月30日にBに対する身代金誘拐容疑で2人を逮捕[3]。その後、Mは被害者2人の殺害を自供し[43]、長野県小県郡青木村の山中でBの絞殺死体が発見された[44]

Mと北野は、長野事件((身代金目的誘拐・身代金要求)・殺人死体遺棄の罪)と富山事件(身代金目的誘拐・殺人・死体遺棄)の両事件で、共謀共同正犯として起訴された[14][13]。同年9月から、富山地裁刑事裁判第一審)の公判が開かれたが、被告人として起訴された北野は、両事件への関与を全面的に否認[17]。初公判の時点で、検察官は「北野が殺害実行犯」と主張していたが、1985年(昭和60年)3月に、被告人Mを殺害実行犯とする異例の冒頭陳述変更を行った[45]富山地検は最終的に、Mに死刑、北野に(無期懲役)をそれぞれ求刑した[46]が、富山地裁は1988年(昭和63年)に、両事件とも被告人Mによる単独犯行と認定し、Mを死刑、北野を無罪とする判決を宣告した[21][47]

死刑を言い渡されたMと、北野への無罪判決を不服とした検察官がそれぞれ控訴したが、1992年平成4年)には名古屋高裁金沢支部が、控訴をいずれも棄却して第一審の判断を維持する判決を宣告した[22]。Mが死刑を不服として上告した一方、検察側が最高裁上告しなかったため、北野は無罪が確定[6][48]。一方、最高裁が1998年(平成10年)にMの上告を棄却する判決を言い渡したため、Mは死刑が確定した[11]。第一審の初公判(1980年9月)からMへの上告審判決(1998年9月)まで、約18年を要する長期裁判となった[9]

本事件の捜査に当たり、捜査本部を設置した3県警のほか、警視庁および群馬県警埼玉県警も併せて15,802人の捜査員が投入された[38]。一方、『週刊新潮』が長野事件の解決前に(被害者Bの生死が不明な段階で)報道協定を破り、事件を報道したことが物議を醸し[注 13][49]、広域捜査における3県警の連携不足も指摘された[注 14]後述[50]。また、無罪が確定した北野に対し、「Mと一緒に行動していたのだから、犯行に関与していないはずがない」という先入観を抱いた捜査機関(警察・検察)による苛烈な取り調べ(および、その原因となった代用監獄制度[注 15])や、捜査機関による発表を鵜呑みにした報道機関によって、北野を犯人視する報道がなされたことが、冤罪の原因として問題視された[18]後述)。富山事件では後に、事件直後の被害者Aに関する報道も問題視された(後述)。

作家の佐木隆三や井口泰子は公判時から本事件に注目し、北野の冤罪を訴える小説作品を発表(#井口泰子と佐木隆三の動向#関連作品および参考文献の「書籍」節)。このうち、佐木のノンフィクション小説『女高生・OL連続誘拐殺人事件』は後にテレビドラマ化もされ、『実録犯罪史シリーズ』(フジテレビ系列)の1作品として放送された[51]が、死刑囚Mによって名誉毀損訴訟を起こされ、敗訴している[52]

略年表

月日 事件名
裁判所名
出来事
1980年(昭和55年) 2月23日 富山事件 富山駅付近で被害者Aが行方不明になる。Aは翌24日朝 - 25日昼にかけ、自宅および母親の勤務先に電話。
2月25日 富山事件:岐阜県古川町[注 4]数河高原)でAが犯人Mに殺害・遺棄される。
3月5日 長野事件 長野事件:長野県長野市内で被害者Bが犯人Mに誘拐され、青木村の山中(修那羅峠付近)で殺害される。
3月6日 富山事件 岐阜県古川町で被害者Aの遺体が発見される。岐阜県警・富山県警が相次いで捜査を開始。
長野事件 同日から7日にかけ、被害者B宅に女の声で身代金要求の電話。
3月27日 長野県警が長野事件につき報道協定を解除、公開捜査を開始。
3月30日 長野県警、被疑者として女Mと北野宏を逮捕[3]。同日、警察庁は富山・長野の両事件を広域111号事件に指定[3]。4月20日に長野地検が2人を起訴[53]
4月2日 長野県青木村で被害者Bの遺体が発見される。
4月21日 富山事件 富山県警、被疑者としてMと北野を逮捕[54]。5月13日に富山地検が2人を起訴[55]
9月11日 富山地裁 被告人2人の第一審初公判[17]
  • 検察官 - 「北野が実行犯、Mは共謀共同正犯」と主張。
  • 被告人M - 富山事件につき無罪を主張、長野事件についても「実行犯は北野」と主張。
  • 北野被告人 - 全面的に無罪を主張。
1985年(昭和60年) 3月5日 第125回公判で検察官が大幅な冒頭陳述の修正(「実行犯はM、北野は共謀共同正犯」とする内容に変更)を行う[56]。同年4月15日付で訴因変更[57]
1986年(昭和61年) 1月13日 第151回公判で、被告人Mが「長野事件の際、北野がアリバイ工作をしていた」とする新主張を展開。
1987年(昭和62年) 4月30日 論告求刑公判(第190回公判)で[58]、検察官はMに死刑、北野に無期懲役を求刑[46]
7月28日 同日から翌29日にかけ、両被告人の弁護人が最終弁論を行って結審。北野の弁護人は全面無罪を主張。Mの弁護人は富山事件について無罪を訴え、死刑回避を求めた[59][60]
1988年(昭和63年) 2月9日 第一審判決公判。富山地裁(大山貞雄裁判長)は被告人Mに死刑、北野に無罪を宣告[21]。北野は閉廷後に釈放[21]。Mは即日控訴[47][61]
2月23日 富山地検、北野への無罪判決を不服として控訴[62]
1989年(平成元年) 11月28日 名古屋高裁金沢支部 控訴審初公判[63]
1990年(平成2年) 8月18日にMが弁護人を解任し[64]、北野と公判が分離される[65]
1991年(平成3年) 5月28日 2人の公判が再併合される。Mはそれまで関与を否定していた富山事件について「殺害実行犯は北野だが、自身も共謀した」と新主張を展開[66]
6月25日 被告人Mが「長野事件は自分が実行犯。富山事件では自分が誘拐を、北野が殺害を実行した」とする新主張を展開[67][68]
11月12日 控訴審、第28回公判で結審[69]
1992年(平成4年) 3月31日 名古屋高裁金沢支部(濱田武律裁判長)、検察とMの控訴をいずれも棄却(Mは死刑、北野は無罪とした原判決を支持)する控訴審判決[22]。判決後、Mは弁護人とともに上告[70][71]
4月15日 名古屋高検が上告せず、北野の無罪が確定[6]
1998年(平成10年) 9月4日 最高裁 被告人M、第二小法廷河合伸一裁判長)で上告棄却の判決を受ける[11]。同年10月9日付で死刑が確定[72][57]

犯人M

女M・T
個人情報
生誕 (1946-02-14) 1946年2月14日(77歳)[73][74][75][76]
  日本富山県上新川郡月岡村上千俵(現:富山市上千俵)[75]
住居   日本:富山県富山市上千俵872番地[注 16][73]
出身校 富山県立富山女子高等学校(卒業:1964年3月)[74]
職業 無職(逮捕当時)[73][78]
殺人
犠牲者数 2人[5]
犯行期間 1980年2月25日(富山事件で被害者Aを殺害)[4]–1980年3月6日(長野事件で被害者Bを殺害)[4]
  日本
都道府県 富山県岐阜県長野県[4]
標的 若い女性[79]
凶器 腰紐[4]
動機 借金返済など[8]
逮捕日 1980年3月30日[3]
司法上処分
罪名 (身代金目的拐取罪)・殺人罪死体遺棄罪・拐取者身代金要求罪[19]
刑罰 絞首刑未執行
有罪判決 死刑[77]確定:1998年10月9日[72][57]
司法上現況 死刑囚死刑確定者[12]
犯罪者現況 収監中[12](死刑確定から24年7か月と15日経過)
収監場所 名古屋拘置所[12](2021年9月20日時点)[80]
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本事件で死刑が確定した女M・T(以下「M」と表記、各事件当時34歳)は1946年(昭和21年)2月14日[73][74][75][76]、富山県上新川郡月岡村上千俵(現:富山市上千俵)で出生した[75]。1980年当時の本籍[注 17]および住居は富山市上千俵872番地[注 16][78]。身長は155 cm、体重は42 kg[82]

刑事裁判により、1998年10月9日付で死刑が確定[72][57](死刑確定から24年7か月と15日経過)。2021年令和3年)9月20日時点で[80]、加害者M(現在77歳)は死刑囚死刑確定者)として、名古屋拘置所収監されている[12]。なお、Mは戦後日本で7人目の女性死刑囚である[83]

Mは上告審判決直前の1998年7月に、東京拘置所に収監されていた死刑囚と養子縁組して「F」姓に改姓した[注 17][11]2000年(平成12年)1月時点ではさらに「S」姓に改姓していた[92]が、2007年8月31日時点[93]では元の「M」姓に戻っている[94]

生い立ち

Mは1946年2月14日、内縁関係にあった両親[注 18]の間に長女として出生[注 19][74]。父親は自転車店を経営しており、母親はその店の一角で傘の修理業をしていた[95]

Mは中学2年生[95](13歳)になるまで、父親(母親の内縁の夫/Mの出生当時47歳)から認知されず、母親の戸籍に入った[76]。また、中学校に進学したころからてんかんの発作を起こすようになり、睡眠薬を常用するようになった[96]。このように恵まれない家庭環境にあったが、富山市立月岡中学校[注 20]時代までは学年トップクラスの成績だった[76]

1961年(昭和36年)4月に富山県立富山女子高等学校へ入学すると[注 21][97]、水泳部に所属し、学業・スポーツとも熱心に取り組んだ。3年生では進学クラスに進み[98]1964年(昭和39年)3月に同校を卒業[74]。「親元を離れて生活したい」との希望から[74]東京経済大学を受験して合格したが[98]、両親に反対された[注 22]ため、進学を断念し、富山県内で生命保険会社の事務員として勤務した[74]

Mは高校時代まで、目立たない少女だったが、社会人になってからはミニスカートを穿き、派手な化粧をして歩いている姿を、かつての友人に目撃されている[76]

結婚・離婚

その後、Mは埼玉県にいた姉を頼って上京[96]。埼玉県上尾市に転居し、化粧品会社の美容部員として働き、1965年(昭和40年)ごろに自動車のセールスマンだった男性と知り合い、1969年(昭和44年)8月6日に婚姻[74]。同年12月7日に長男を出産した[74]。その後、夫の転職・転勤に伴い、富山・金沢・上尾に移住する日々を送った[74]

しかし、1972年(昭和47年)に卵巣嚢腫[99]ないし子宮筋腫の手術で入院している間[96]、夫が浮気するようになったことから別居し、長男とともに両親宅(富山市上千俵)[注 16]へ身を寄せ、1974年(昭和49年)8月14日に(協議離婚)[注 23][101]。同年11月には、腸癒着性腹壁ヘルニアで開腹手術を受けている[102]。一方、同年12月3日には富山結婚相談所に登録し、結婚相手の希望欄には「身長170 cm以上」と記していた一方、相手の希望年齢には「30 - 50歳」と大きな幅があった[103]。この結婚相談所では、1977年9月までに[76]、計13人の男性と見合いをしたが[103]、いずれも結婚話はまとまらずに終わっていた[76]。その中にはMによる保険金殺人の標的にされかけた男性や、後にMがフェアレディZを購入するための資金として150万円を借りた男性(タイヤ販売業者)[注 12]もいた[103]

1975年(昭和50年)1月[102]に父が死去して以降、前夫からの送金と母親の収入に頼り、母や長男とともに3人で生活していた[79]。なお、Mの母親(Mの逮捕当時69歳)[104]は事件後、石川県の老人ホームに入居した[81]ほか、長男(同当時10歳)[104]も前夫(父親)に引き取られた[81]

Mは富山に帰ってから、多くの推理小説を読んでおり、逮捕後には「身代金の受け取り方法や殺害の手口(睡眠薬で被害者を眠らせ紐で絞め殺す)などいくつかの点は推理小説からヒントを得た」と述べている[105]。実際に、M宅から約60冊の推理小説(高木彬光『最後の自白』など)が逮捕後に押収されている[106]。また、控訴審で弁護人を担当した倉田哲治[注 24]から、立山連峰の美しさを説かれると、「私はあの山が憎いんです。あの山は、太陽と緑の太平洋と自分を遮る悪党です」と返していたが、倉田はその言葉の真意について「プライドの高いMは、東京での華やかな暮らしに憧れて上京したが、夫の浮気のせいでその夢が破れ、再び富山に帰らなければならなくなったことで挫折感を味わったのだろう」と述べている[107]

事件前の経緯

北野との出会い

1977年(昭和52年)9月15日[注 25]、Mは知人女性からの紹介で、彼女の売春の客になったことがある北野宏(各事件当時28歳)と知り合い、交際するようになった[79]。北野は1952年(昭和27年)2月1日生まれ[74]で、Mと知り合った当時は腎臓病(ネフローゼ)の持病を抱えつつ、電気工として働いており[108]、預金二百十数万円を持っていた[109]。また、同年1月に結婚し、新世帯を持っていた[110]。井口泰子は、2人が互いに惹かれ合った理由について、「Mにとって北野は好みのタイプであるスマートな二枚目で、母性愛をくすぐられ、北野もそれに刺激されたのだろう」と考察している[111]

Mは間もなく、北野には妻がいることを知ったが[79]、北野の妻[注 26]に不倫関係を知られることはなく[112]、逢瀬を重ねて情交を深めた[79]。また、1978年(昭和53年)2月以降は2人で100万円ずつ出資し合い、富山市清水町の事務所を借り、「北陸企画」の名称で贈答品販売業[注 27]の共同経営を開始した[79]。当初は収益を上げていたが、次第に事業への意欲が薄れていき、1979年(昭和54年)に入ると著しい不振に陥った[79]。一方、「北陸企画」を起業して以降も、北野は電気計装業を続けていた[109]が、1979年に入ると、過労がたたって寝込むようになった[113]

北野は当時のMについて、公判で「冷凍機の販売計画、大宮の会社への出資、金沢の父の遺産などの話を聞かされ、Mに対し『金持ちで仕事のできる女性』という印象を抱いていた。やがてMは、自分と共同で始めた北陸企画の経営に熱を入れなくなったが、その後も彼女に対する誤信は変わらず、1979年3月にMから『大宮にいる仲間と金を入手する』という企てを聞かされた。その方法は、議員秘書と偽って政治資金の名目で詐取した手形・土地の書類などを換金するもので、『成功すれば、あなたも何百万円かを手に入れられる』と聞かされ、同年6月 - 7月には2度にわたり、Mと一緒に金(1,000 - 1,500万円程度)を受け取るため、大宮に行ったが、『換金にしばらく時間を要する』と言われた。同年8月下旬にはMから、換金を担当する東京の男が警察に捕まり、4か月刑務所に入ったことを聞かされたが、同時に『その男が出所すれば金が確実に手に入るので、フェアレディZ(後述)の購入費用を一時都合して欲しい』と頼まれ、友人・妻らから計250万円を借りた」と述べている[114]

保険金殺人未遂

このように北陸企画の経営が悪化しつつあつた1978年10月、Mは店の顧客だった保険外交員に懇請され、結婚相談所を介して交際していたことのある男性・甲を説得し、彼を被保険者とする生命保険(災害死亡時4,000万円)に加入させた[79]。しかし、保険金の受取人が自身だったことから、やがて保険金欲しさの念が高じ、自ら甲を殺害して多額の保険金を得ることを考えた[79]。当時加入していた保険は、甲が保険金を払わずに無効になっている可能性も考えたため、1979年3月には甲に懇願してさらに別の生命保険(災害死亡時5,000万円)に加入させた上で、殺害する機会を窺った[79]。そして同年5月ごろ、2度にわたって山菜採りの名目で甲を富山県中新川郡上市町の山中へ誘い出し、崖から転落死させることを目論んだが、殺害に適当な場所を見つけられず、計画は実行できなかった[79]

さらに同年8月、Mは「北陸企画」の近所の薬局でクロロホルム液を購入[115]。知人女性・乙から協力を得た上で、甲を「(乱交パーティー)の練習をする」との口実で富山市岩瀬浜付近の海岸に誘い出し、用意してきたクロロホルムを吸引させ、海中に引き入れて溺死させようとした[79]。この時もクロロホルムによる麻酔効果が生じなかったため、殺害は未遂に終わったが、Mはその後も保険金への欲望から、同年10月には5,000万円の保険について、さらに半年分の掛金(128,600円)を払い込む方法を考えていた[79]。しかし、その後は適当な機会を見出すことはできなかった[79]

なお、本事件で無罪が確定した北野は、長野事件での逮捕後に甲を標的とした保険金殺人の計画について、「Mと共謀の上で実行した。計画などの全貌も事前に承知していた」と自白し[注 28]、後に富山事件の取り調べで同事件の嫌疑を否認した際にも同様の態度を取っていた[注 29][116]。一方、弁護人との接見[注 30]では「Mから計画を持ちかけられ、山の下見には同行したが、最終的にはMが勝手に海で実行して失敗したと聞かされたので、恐ろしくなって止めさせた」という趣旨の供述をしている[116]。富山地裁 (1988) は、北野の供述の信用性について、「弁護人との接見時の供述内容の方が信用性が高い」と指摘した上で、「甲殺害計画に北野が一部関与していた疑いはあるが、その点をもって北野が富山事件・長野事件に関与していたことを立証することはできない。むしろ、途中で2人が仲違いし、その後はMが(甲の殺害に失敗した後も)北野の知らない間に保険金殺人などの犯罪計画を遂行する機会を窺っていたことが強く推認される」として、同計画への北野の関与状況を「北野有罪」論の根拠にしようとした検察官の主張を退けている[116]

誘拐殺人計画

一方、Mは1979年7月、北野とともに自動車展示会に出掛けたことをきっかけに、犯行に用いた日産・フェアレディZ[注 12]ナンバー:富33な2832号)を代金230万8,000円で購入した[79]。当時、フェアレディZを売ったセールスマン(第一審の第23回公判で証人として出廷)は、当時交渉した北野が「大宮の方の仕事の関係で、8月末に金が入る」と話していたことを証言している[123]。しかし、それが主な原因となり、Mは後に自己名義の借り入れを重ねるようになった[79]。Mは1980年(昭和55年)に入って以降も、返済の資金調達のため、結婚相談所で知り合った男性・丙のほか、母親の実弟(叔父)やサラリーマン金融からも次々と融資を受け、1980年2月23日時点で約300万円の借金[注 31]を抱えていたが、返済の目処は一向につかない状態に陥っていた[79]。一方、北野は当時、(後に検察官が両者の謀議場所と位置づけた)喫茶店「小枝」[注 32]のマスターに対し、「今の(『北陸企画』の事務所より)安い事務所を探しているので、紹介してほしい」と相談し、2か所の事務所を紹介されたが、Mが反対したため、1980年2月末までは従来の事務所に残ることになった[125]

Mはこのように累積した借金を一気に弁済するとともに、富山を離れて東京周辺に移り住みたいというかねてからの希望を実現するため、その後進展のない保険金殺人以外にも、大金を獲得する方法について思案[79]。同年1月ごろまでには身代金目的の誘拐を思いつき、石川県金沢市・富山市内などで下見を重ねながら計画を具現化させ、「幼児は対象としない。したがって、誘拐した以上は顔を覚えられてしまうので、相手を殺害する」という決意を固めた[79]。Mは誘拐を実行するため、同年2月初旬には事情を知らない北野に、4日間連続で金沢まで車を運転させたが、この時には失敗に終わった[79]。さらに、同月11日および19日にはそれぞれ単身でフェアレディZを運転し、金沢や富山で20歳代の若い男性[注 33]をドライブなどに誘い出すことに成功したが、完遂の決断がつかず、断念している[79]。しかし、その後も借金の一部が返済期限を過ぎるなど、より一層大金獲得の必要性が強まる状態にあったため、Mは「若い女性を対象とした身代金目的の誘拐殺人を早急に実現しなければならない」と決意した[79]

一方、北野は当時の状況について、公判で「先述の『東京の男』の出所予定である1980年1月、Mに対し『東京の男』から金をもらうよう催促したが、『出所しても(その男が)警察から目をつけられているので、まだ金はできない。2月末に北陸企画を閉めてから上京して、男と相談する』と言われた。同時に、それとは別に土地を売却して金儲けをすることを持ち掛けられ、1月10日ごろにMから『金沢で見たい土地がある』と頼まれ、一緒に金沢へ行った。2月に入ると、『金沢の男』と組み、金沢のいわくつきの土地を他県の不動産業者に売却して大金を得る計画を持ち掛けられ、6日 - 9日まで4日間連続でMを乗せて金沢まで運転した。2月19日ごろ、Mから取引が間近に迫っていることを告げられ、『金沢の男』が作成した土地の図面を『滋賀の男』に売って得た金の護衛役として、金沢まで迎えに来るよう頼まれた」と述べている[128]

富山事件

「富山事件」の被害者である同県婦負郡八尾町[注 11]在住の女子高生A(当時18歳[注 34]県立八尾高校3年生)は事件当時、金沢市の調理師専門学校への入学を控えていた[129]。Mによって誘拐された1980年2月23日の朝、Aは父親の運転する車で、友人の女子生徒(高校3年生)とともに[129]、専門学校への入寮手続きを取るため、金沢市へ行った後、18時59分に北陸本線の電車で富山駅国鉄)に到着[130]。駅の公衆電話から家に電話を掛け、応対した母親に「迎えに来て」と言ったが、母が「父は夜勤だから今寝ている。自分も忙しくて来れない」と辞退したため、Aは同行した友人からバス代を借りて別れ、19時50分発の八尾行きバス(富山地方鉄道)を待っていた[131]

北野は、富山事件の発生時期(2月23日午後 - 26日朝)の自身の行動について「この間、Mとは会っておらず、毎日電話で『(先述の金沢の土地取引話をめぐる)交渉がやや遅れているので、引き続き自宅で待機して欲しい』と頼まれていた。26日朝、Mから呼び出されて北陸企画事務所に行ったところ、Mから『(取引相手の)男の家の周りに警察官がいたので、金はもらえなかった』と説明され、翌日には『金沢の土地の件はしばらく様子を見る』と言われたので、それ以降、その話のことは忘れてしまった」と述べている[128]

Aを誘拐

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誘拐現場と「エコー」[注 35]、および死体遺棄現場[注 2]の位置関係
1
誘拐現場(富山駅北口)
2
「エコー」(岐阜県吉城郡古川町大字数河8の20番地)
3
死体遺棄現場(岐阜県吉城郡古川町大字戸市くずれ洞16番地の1付近)

2月23日19時15分過ぎごろ、Mは富山ステーションデパート(富山市明輪町1番227号)2階アクセサリー売り場で見かけたAに声を掛け、「暇そうですね。私も時間があるんだけれど、お茶でも飲もうか」「遅くなったら送ってあげる」「せっかく出たんだから食事に行こう」などと言葉巧みに誘い[79]、19時30分ごろに富山駅北口駐車場[注 36]でAをフェアレディZに乗車させた[注 37][7]。Mはレストラン「銀鱗」(富山市豊田町1丁目271番地)で食事を摂りつつ、Aから氏名・住所・家族関係などを訊き出したり、アルバイト[注 38]先を紹介する旨を偽ってAの気を引いたりした[79]。その後、21時30分ごろにAを「北陸企画」事務所(富山市清水町二丁目1番1号)へ連れ込み[注 39][135]、2人で事務所に泊まった[7]。当時、「北陸企画」の共同経営者だった北野は帰宅不在中で、事務所には誰もいなかった[4]

2月24日7時40分ごろ、Aは自宅の母親へ電話し、前夜帰宅しなかった理由を説明した上で、かねて同行を約束していた「母と子の集い」には架電先(北陸企画)から送ってもらって出席することを明言[136]。8時40分に富山赤十字病院前で母と落ち合う旨を確約したが、待ち合わせ場所は現れず、MとともにフェアレディZで外出[137]。Mはその後、富山市西公文名の喫茶店「ドング」で食事をしてから「北陸企画」に帰り、Aを事務所に置いたまま、授業参観のため、長男の通学する富山市立小学校へ赴いたが、既に授業参観は終了していたため、仕方なく長男や母親とともに買い物をし、16時ごろに1人で(Aのいる)事務所に戻った[137]。そして19時ごろ、AとともにフェアレディZに乗車して事務所を出ると、20時ごろに2人で婦負郡細入村[注 11]のドライブイン「キャニオン」を訪れて夕食を摂り[注 40][137]、22時ごろに事務所へAを送り届けてから帰宅した[137]。なお、「北陸企画」の近所の薬局(以前、Mがクロロホルム液を購入した店)の店主は法廷で、「2月24日、Mが来店して『すぐ眠れるクスリが欲しい』と言った。『医者の指示がなければ売れない』と断ろうとしたが、Mが『何日も眠れていないので、すぐ効くクスリでなければ困る、譲渡記録簿には医者から電話で指示があったことにしてほしい』と食い下がり、睡眠薬の『ネルボン』を2錠売った」と証言している[115]

Aを殺害

2月25日の午前中、Mは母や長男とともに自宅からフェアレディZで富山市へ出掛けた後、昼過ぎごろに北陸企画事務所へ着いた[注 41][137]。その後、いったん外出して母らを自宅へ送り届け、富山市内でフェアレディZに給油した[137]上で、Aを眠らせて絞殺するため、睡眠薬と腰紐[注 42]を用意した[4]。また、16時ごろには富山市内の公衆電話からA宅に電話したが、Aの両親は当時不在だった[注 43][140]

一方で正午ごろ[137](当時、Mは事務所に不在)[132]、Aは母親の勤務先に電話を掛け、前日帰宅できなかった理由や、現在は「北陸企画」という場所にいることを説明[137]。「母と子の集い」に来なかった理由については、母親に対し「女の人 (M) が『送ってやる』と言っていながら忙しそうにしていて、待っているうちに間に合わなくなった」と、帰宅しなかった理由についても「Mから送ってやると1時間伸ばしにされ、最後は『社長[注 44]が酒を飲んで送れなくなった。明日必ず送ってやるからもう一晩泊まるように』と言われたためだ。Mは引っ越しに忙しそうでなかなか送ってくれなかったが、今日は一緒に家まで行って話をしてくれる」と話していた[137]。また、母親から泣きながら帰宅を懇願されると、めそめそと泣き出して応答し、「今日は必ず帰る」という旨を伝えていたほか[137]、「事務所の女の人」の年齢について問われると「30過ぎの人」と答えた一方、「北陸企画」の電話番号については「わからない」と答えていた[143]。その後、電話はMが事務所に立ち戻ったところで唐突に切られた[132]

同日夕方、MはAを乗せて事務所を出発し、18 - 19時ごろに2人で上新川郡大沢野町笹津[注 11]国道41号沿い)のレストランを訪れ、ラーメンを食べた[137]。その後、Mは前日訪れた「キャニオン」へ(手持ちがなかったため借用していた)飲食代金を支払いに行ったり[注 40]、フェアレディZの運転に興味を示したAに運転を代わるなどして、岐阜県高山市方面へ向かい、20時過ぎ - 21時30分ごろにかけ、数河高原(岐阜県吉城郡古川町[注 4])の喫茶店「エコー」[注 35]に滞在した[137]。同日深夜[注 45]、Mは古川町大字数河[注 4]付近に停車したフェアレディZの車内[注 2]で腰紐[注 42]を使い、睡眠薬で眠らせたAを絞殺した[4]。殺害方法は、腰紐を眠っている被害者Aの首に宛てがい、二重に絞めつけるというものだった[153]

Aを殺害後、MはAの死体を「エコー」から約4 km離れた[154]、古川町[注 4]大字戸市くずれ洞16番地の1付近[注 2](町道戸市線から南東約1.8 mの戸市川[注 46]縁)へ遺棄した[注 47][4]

事件後

2月26日、Mは富山事件の被害者Aの遺留品(ハイヒール・バッグなど)を呉羽公園に投棄した[147]。一方で同日9時過ぎ、娘が帰ってこないことを心配したAの両親は、父親の叔父(Aの父方の祖父の弟)とともに「北陸企画」事務所を訪問した[158]。しばらくして赤いフェアレディZで事務所付近に来たMに事情を問い質したが、Mは「関係ない」と言った[159]ため、3人で東町派出所[注 48]へ行き、「娘が誘拐されたかもしれない」と相談[161]。派出所の巡査は「北陸企画」の経営者を派出所へ呼び出し、Aの親族と両者で話し合わせることにした[162]

14時ごろ、北野が事務所の大家から連絡を受け、派出所を訪れたが、北野は(Aが家族に電話した時の言葉とは異なり)「うちの電話機には電話番号が書いてあるし、店のガラスや看板にも電話番号を出している」と主張した[163]。結局、この時は誘拐事件と判断される確たる証拠はなく、両者の対話に立ち会った富山警察署[注 11]の防犯課員も単なる家出人と判断し、Aの親族に対し、八尾警察署[注 49]への捜索願の届け出を指示した[165]ため、Aの両親は16時50分ごろに八尾署へ家出人捜索願を届け出た[166]

2月27日10時ごろ、MはAの家族から身代金を得るため、再び公衆電話でA宅に電話を掛け、11時に市内のレストラン[注 50]に行くよう指示[140]。電話を受け、Aの父親らは「Aの失踪と関係がある」と判断して指定されたレストランへ出向いたものの、呼び出した不審な女(=M)とは接触できず終わった[注 51][148]

富山事件におけるMの主張

Mは富山事件について、長野事件で逮捕される直前から、Aを誘拐した事実を一貫して認めていたが、第一審の公判段階になって全面的に関与を否認し[132]、「事件前に北野との間で身代金目的の誘拐殺人を計画したことはあったが、2月23日は北野から依頼を受け、被害者Aを迎えに駅に行っただけだ。以降、25日までAを預かる形にはなったが、その後もAを誘拐の対象として考えたことはない。同日夜になって北野にAを引き渡し、自分は帰宅したが、その後の殺害・死体遺棄については全く関知しておらず、一連の犯行は北野の単独犯だ」と主張した[168]。その上で、「Aを迎えに行った経緯」については、「2月23日以前(2月12日ごろ)、『銀鱗』で北野から初めてAのことを紹介され、当日(23日)に『18時に富山駅へこの女の子 (A) を迎えに行ってくれ』と頼まれた。その頼み通り、Aを富山駅へ迎えに行き、事務所に連れて行った。その後、25日までにAと行動をともにしたことがあるのは、Aと北野との用事(北野が他の男性を紹介する売春アルバイトだと思っていた)が終わるまで相手をしていたに過ぎず、事務所に引き留めたことも、自宅に送ってやると言ったこともない」と主張した[132]

しかし、富山地裁 (1988) は「Mは事件当時、定職がなく、富山事件より前には実際に借金を重ね、保険金殺人や身代金目的の誘拐殺人を計画しており、事件直前時点でも誘拐殺人の計画を断念していなかった」[169]と指摘した上で、AがMに誘われて以降、殺害されるまで「北陸企画」事務所にとどまったり、Mと行動を共にしていたりした理由について検討[137]。AがMの不在時、「北陸企画」事務所から母親に電話をかけた際の会話内容などから、「Aは、母親と交わした帰宅あるいは待ち合わせの約束を履行する意思を有していたが、Mによって引き留められていたと認められる。Mが戻ってきた直後に電話が切られたことから、MはAによる電話を是認していたとは認められない」と指摘[170]。また、Mの弁解内容の不合理な点(以下)[132]や、実際にMが身代金を要求する目的でA宅に電話した事実などを挙げ、「Mは2月23日、それまで面識のなかったAを誘拐したと認められる」と認定した[140]

  1. Aが当時、誰かと待ち合わせをしていたような状況が認められない点[132]
  2. Mが「待ち合わせ時間」(18時)の1時間半以上も前[注 36]に富山駅に行き、その時間を過ぎても初対面のAを1時間以上も待っていたことになる点[132]
  3. 富山駅へ向かった目的について、「Aを迎えに行くためだけでなく、誘拐の相手を探す目的を兼ねていた」と、不自然な供述をしている点[132]
  4. 「銀鱗」でM、北野およびAが会ったとする主張とは矛盾する証拠[注 52]が存在する点[132]
  5. Mの弁解内容(「2月23日以前にAと会った」とする日の証言や、富山駅でAと会った時の状況)が二転三転している(=Mの弁解の信用性に疑問がある)点[172]

また、AがMとともに「エコー」を出た直後に殺害されたと推定される点や、Mが死体遺棄現場を正確に指示できた[注 53]点、事件後に遺品を処分した事実などから、殺人・死体遺棄についてもMの関与を認定[173]。その上で、Mの「バン(日産・サニーライトバン[124]に乗った北野が深夜に自宅を出て、数河高原で自分と合流し、Aを殺害した」という主張についても、バンに給油された時期(2月20日・27日)[注 54]や、2月の降雪期におけるバンの燃費(約10リットル/km未満)および、事件当時(2月20日 - 27日)の走行状況(走行距離:合計約380 km[注 55])から、「ガソリンを満タン給油(21.5リットル)した状態で約380 kmを走行した場合、燃費は17.7 km/毎リットルとなるが、警察官による走行実験の結果、6月の晴天日(路面乾燥時)の燃費が17 km/毎リットルという結果が出ていることを考えると、降雪期の燃費としては非現実的な数字だ。380 kmのうち、富山 - 数河高原間の往復分を差し引いた距離(約220 km)を基礎に燃費を算出すれば、約10 km/毎リットルという合理的な数字が得られる」と判示[174]。死体遺棄現場付近からフェアレディZ以外のタイヤ痕が検出されていない事実や、北野や彼の元妻による「Aが殺害・遺棄された時間帯は自宅でテレビを見ていた。長時間の外出もしていない[注 56]」という証言と併せ、北野がバンでAの殺害・死体遺棄現場に赴いた可能性を否定し、誘拐・殺害・死体遺棄のいずれについてもMの単独犯と認定した[175]

また、Mは殺害現場について「死体遺棄現場から西方へ約3 km離れた古川町戸市555番地の民家前(国道41号から200 m離れた場所)の空き地」と自供した[176]が、「山中で殺した」「殺してから車で20 - 30分ほど走って死体を捨てた」などと二転三転させた後[177]、「(数河高原スキー場)の無料駐車場」と供述を変遷させた[注 57][154]。富山地裁 (1988) は、殺害現場を「『エコー』および遺棄現場に近接した場所と言えるが、1地点として限定することは困難」とした[注 2][147]上で、Mの供述の信用性の低さに加え、殺害当時の駐車場内の状況としてMが描いた図面と、駐車場を管理していた証人が描いた図面が矛盾していたことから、殺害現場をスキー場駐車場とは断定せず、「古川町大字数河付近」と認定するにとどめた[154]

長野事件

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誘拐現場付近の位置関係[注 1]
1
長野信用金庫石堂支店
2
「山と渓谷」
3
「千石前」バス停(現:「千石入口」バス停)

このように身代金目的でAを誘拐・殺害したMだったが、身代金の獲得には至らず、改めて誘拐を実行するため、長野へ出向いた[4]。Mは北野に長野まで同行することを求め[178]、3月3日19時30分に富山を出発[注 58]し、翌日(3月4日)0時30分に長野市のホテル「志賀」へ到着した[180]。Mはこの「志賀」から腰紐[注 59]を持ち出してバッグに入れ、これを長野事件で殺害の凶器として用いた[182]。2人は同日10時に「志賀」をチェックアウト[180]し、(「志賀」を含め)長野で計3泊、東京で1泊し、高崎を経て同月8日朝に富山へ戻った[178]

このようにMに同行した理由について、北野は公判で、「Mは、東京での政治資金絡みの儲け話の実行役である『東京の男』から金を受け取る際、自身に東京までの運転と護衛を頼んできたため、それに応じた。はじめは東京まで行くつもりだったが、途中でMから『東京の男が長野まで出てくる』と言ったので、3日は長野市内のホテル『志賀』に投宿した。この時、『志賀』でMから『東京の男と一緒に、長野の土地を売却した上で金を得る。土地を確認するため、松本に行ってほしい。私が男と会っている間はホテルで待機してほしい』と頼まれ、そのための待機場所として4日に『日興』を予約した。その後、松本方面まで行ったが、帰りにMの希望で聖高原[注 60]を回った」と述べている[128]。また、「Mはこの旅行期間中、しばしば電話を掛けていたが、自分はその電話について彼女から、取引相手(『東京の男』)と連絡を取っていると説明を受け、その説明を信じていた」と述べている[128]

 
事件当時、現役だった長野駅舎(1995年5月4日撮影)

Mは3月4日、フェアレディZを運転していた北野に、木戸交差点[注 60]や矢越隧道[注 61]などを走行させ、殺害場所を下見した[183]。同日17時30分ごろと21時30分ごろ、Mは長野駅の付近および同駅構内で、相次いで若い女性2人(いずれも当時18歳)を喫茶店に誘ったり、「車で送ってやる」などと申し向けたりしたが、いずれも断られた[182]。一方、北野は4日に「吉田達夫」の偽名でホテル「日興」の宿泊予約を取った[注 62][178]一方、その直前(10時過ぎ)と数時間後(15時過ぎ)にはフェアレディZに給油したが、その際には以前から使用していた出光ファミリーカード(本名の署名あり)を提示していた[178]

同日16時 - 18時に北野とMがそれぞれ別々にチェックインすると、Mは16時 - 21時ごろにフェアレディZを[180]「ナガノ駅前パーキング」へ駐車した[184]

北野は長野事件の発生当時(3月5日 - 6日)、「日興」でテレビを視聴していた[185]。北野はそのテレビ番組について、捜査段階から一貫して「プロレス番組(5日23時30分 - 6日0時25分)のうち途中から終了までと、それに続くキックボクシング番組( - 0時55分)の全部」と供述し、番組の内容についても具体的・正確に供述したほか、6日6時30分ごろには「日興」で、北野が係員に朝食の時間を尋ねていたことが裏付けられている[186]。実際、北野が投宿した701号室には彼の毛髪が落ちていたほか、ベッドに寝た跡が、ポットで湯を沸かした跡がそれぞれ確認されている[187]

Bを誘拐

北野は3月5日 - 6日の行動について、「5日昼、Mから『男が金を持ってこなかったので、東京まで受け取りに行かなければならない』と言われ、長野での要件が済み次第、翌日(3月6日)4時ごろまでにMから「日興」に電話連絡を取り、東京へ向かう手はずとなった。同日夕方、Mは再度『東京の男に会う』と言って外出し、同日21時ごろになって電話で、『24時ごろには日興に戻れそうだ』と連絡されたが、朝方になっても連絡がないため、不安になって警察にフェアレディZの事故の有無を問い合わせたりした。6日の正午ごろになって、ようやくMから連絡があり、合流して長野を発った」という旨を述べている[128]。実際、3月6日9時ごろには北野が長野中央警察署へ電話し、「女性が運転している赤いフェアレディZ(富山33ナンバー)の交通事故がなかったか?」と尋ねていたことが判明している[188]

同日18時30分ごろ、Mは長野県長野市大字南長野石堂町1419番地の[4]「千石前」バス停(川中島自動車[注 1][189]付近で、帰宅のためバスを待っていた女性B[4](当時20歳[注 64]長野信用金庫石堂支店[注 63]職員)[41]を見掛け、「ちょっとの時間でいいから付き合ってくれませんか」などと声を掛けた[4]。MはBを付近の喫茶店に誘い、彼女から氏名・家族構成・自宅や父親の勤務先の電話番号などを聞き出した上で、郊外のレストランで食事をすることを持ち掛け、長野市大字(鶴賀南千歳町)942番地のホテル「日興」[注 65][4](当時、北野とともに宿泊していた)まで赴いた[182]

Bを殺害

([全画面表示])
誘拐現場[注 1] - 死体遺棄現場[注 3]の位置関係
3
誘拐現場「千石前」バス停(現:「千石入口」バス停)
4
松本市島内7771番地のレストラン「新橋元庄屋」
5
死体遺棄現場(長野県青木村:修那羅峠付近)

19時ごろ、Mは「日興」に駐車したフェアレディZの助手席にBを乗せて松本市方面へ赴き[注 66]、同日21時ごろに松本市島内7771番地のレストラン「新橋元庄屋」を訪れた[4]。同店で食事をした後、Mは「遅くなったので、翌朝出勤までには必ず送る」との口実で、Bに車中泊を承諾させ、用意してあった睡眠薬「ネルボン」と缶ジュースを与え、Bを眠らせた[4]。そして翌日(3月6日)3時 - 9時ごろまでの間に、Mは長野県小県郡青木村の林道弘法線に停車したフェアレディZの車内で、あらかじめ用意していた腰紐[注 59]を使い、被害者Bを絞殺した[4]。殺害手段は富山事件と同様、被害者の首に腰紐を二重に強く巻きつけるものだった[192]

その直後、MはBの死体を青木村大字田沢字横入1269番地6(修那羅峠付近)の山中[注 3][193]に投げ捨て[注 47][4]、来た道を戻り[184]、同日昼過ぎに北野と合流[183]。北野は6日10時に「日興」のフロントで予約の延長を申し出ていたが、11時過ぎに北野のところへ女の声で電話が入り、10分後にチェックアウトした[180]。そして、ともに長野を発ち、途中でMの姪の家[注 67]に立ち寄った上で、同日夜は池袋のホテル「安田」に投宿した[128]。その間の同日14時ごろ、2人は中軽井沢駅近くのガソリンスタンドで、北野名義のファミリーカードを使ってフェアレディZに給油している[194]

身代金要求

その上で、MはBの家族から身代金を得るため[4]、以下のように同月6日 - 7日にかけ、Bの家族へ身代金を要求する電話を7回かけた[注 68][148]。また、3月7日には高崎の有料駐車場にMのフェアレディZが入庫し、そのナンバー「2823」が記された半券が残されているほか[194]、Mは同日10時 - 11時ごろに中軽井沢駅前の喫茶店「しらかば」に入り、2回電話を掛けている[180]

一方、長野県警察は7日7時、長野中央警察署に「長野市における身代金目的誘かい容疑事件捜査本部」を設置し、180人態勢で捜査を開始[197]。駅などで張り込み捜査を行った[注 69]ほか、Bの姉が犯人の女(=M)から電話を受け、長野駅から高崎駅へ向かう際、捜査員7人も同行したが[注 70][197]、Mはこれに気づき、6回目の電話の際にはBの姉に対し「5、6人があなたの後をつけているだろう」と問い詰めていた[200]

「犯人に張り込みを気づかれたのではないか?」という指摘に対し、長野県警および警察庁はいずれもそれを否定し、「カマをかけられただけで、気づかれてはいない」「張り込んだ刑事はベテランで、そのようなミスはありえない」と主張したが、M(および当時、犯人とされていた北野も含む)は逮捕後、「(高崎では)危険を感じたので逃げた」と供述している[198]。また、北野は公判で当時の行動について、「7日はMの指示に従い、フェアレディZを運転したが、途中で入金金額が当初の予定(1,500万円)より500万円増えて2,000万円になったことや、取引相手の『東京の男』は警察に見張られているため、彼の情婦が代わりに高崎駅まで金を持ってくることになったことなどを聞かされた。そのMの言葉を信じて一緒に高崎駅まで行ったが、Mから『駅の周りには警察官がいるので金を受け取れない』と言われ、8日に富山に帰ってきた」と述べている[128]

長野事件における身代金要求の電話の経緯[201]
番号 架電時刻 発信元 発信先 応対した人物 通話内容の要旨
1 6日19時16分ごろ[注 71] 公衆電話
埼玉県児玉郡上里町金久保
被害者B宅
(長野市安茂里
Bの父親 「Bさんを預かっている。明日の午前10時に長野駅の待合室まで3,000万円持ってこい」[201]
「(身代金は)姉に持って来させろ」[200]
2 7日10時30分ごろ 公衆電話
東京都豊島区西池袋一丁目2番
国鉄長野駅観光センター
(長野市大字(南長野末広町))
Bの姉 「10万円じゃ話にならない[注 72]。妹と金とどっちが大切か。12時まで待つ」
3 7日12時23分ごろ 公衆電話
埼玉県川越市大字古谷上
被害者B宅 Bの父親 「午後4時までに長野駅待合室に2,000万円持参しろ。2,000万円なら私が話してあげる。金は姉に持たせろ。Bにはおいしいものを食べさせている」[201]
「今度きちんと(2,000万円)揃わなければ、もう二度と電話しない」[200]
4 7日16時20分ごろ 公衆電話
埼玉県深谷市国済寺
国鉄長野駅観光センター Bの姉 「2,000万円持って、特急あさま16号(長野駅16時38分発)の6両目に乗車しろ。上野まで切符を買い高崎駅[注 73]で下車し、待合室で待て」
5 7日19時6分ごろ 公衆電話
群馬県高崎市八島町(国鉄高崎駅付近)
高崎駅鉄道案内所 「喫茶大通りを進み、右側にある喫茶店『ポンテ』に入れ」
19時 - 21時ごろ、Mは高崎駅前にいた[180]
6 7日20時40分ごろ 公衆電話
高崎市岩鼻
喫茶店「ポンテ」
(高崎市八島町24番地)
「あなたの後を人が尾行している。1時間後に喫茶店『ナポリ』に電話する」
7 7日21時58分ごろ 公衆電話
群馬県前橋市荒牧町
喫茶店「ナポリ」
(高崎市八島町65番地)
「警察に言ってないのか。今日は宿泊し、明日(3月8日)12時にまた来い。明日Bの声を聞かせてやる」
この電話を最後に連絡は途絶えた[148]

連絡が途絶えて以降、Bの姉は「ナポリ」4階にあったビジネスホテルの一室[注 74]に投宿[197]。8日11時38分に再び「ナポリ」の2階食堂に入ったが、犯人から連絡がなかったため、長野県警捜査本部の指示(16時45分)により、帰宅した[197]。一方、北野とMは3月8日2時に高崎市内で給油し、6時ごろに富山に帰った[180]

長野事件におけるMの主張

Mは長野事件について、捜査の最終段階から第一審判決まで一貫して、「誘拐したBを睡眠薬で眠らせた後、県道更埴明科線上で、ホテル『日興』を抜け出した北野と合流し(「合流地点」のおおよその位置)、北野がBを絞殺した。その後、2人で死体を投棄した」と供述[204]したが、ホテル「日興」から「合流地点」を経由し、死体遺棄現場まで道路で移動した場合の距離は、最短距離で約86 km[注 75](自動車による片道所要時間は最短でも約1時間40分[注 76])で、うち「日興」 - 「合流地点」(矢越隧道[注 61]より明科寄りの名九鬼部落入口)間の距離は約64 km(所要時間:約1時間10分)である[186]

富山地裁 (1988) はこの点を踏まえ、「仮に北野が『日興』を抜け出してMと落ち合い、殺害・死体遺棄を実行して帰宿した場合、約3時間30分以上は必要とする[注 77]ことになる」と指摘した[186]。その上で、Mが「北野と合流した時刻は6日1時以降(2時より前)で間違いない」と一貫して供述していることを踏まえ、「0時55分まで『日興』でテレビを視聴していた北野が、Mが供述する時間帯(1時台)に合流地点まで到着することは極めて困難で、『日興』を出た後どこかで車を調達するか、タクシーなどに乗車しなければならない。それに要する時間も考慮すれば、Mの主張するように2時ごろまでに『合流地点』に到着することは相当に非現実的だ」と指摘した[205]。その交通手段について、Mは捜査時点で「北野は自分との謀議で、タクシーや通りすがりのトラックなどを利用し、木戸交差点(聖高原入口)[注 60]まで至り、その後は徒歩で(約7 km離れた)合流地点まで行くことになったが、実際にどのような手段で来たかは確認していない」と供述していたが、富山地裁 (1988) は「Mの供述内容は、厳寒の深夜山中を走る県道で合流しようとするにしてはあまりにも杜撰な計画で、当時の季節的・時間的状況から、徒歩という手段はあまりにも現実性が希薄だ(#北野の足取りも参照)。また、そのような計画がそのまま実行された場合、北野が『日興』から合流予定地点まで赴くには優に2時間以上かかるが、その北野が1時近くまで『日興』でテレビを見ていたのも不自然だ。Mは訴因変更後にその供述を撤回し、『車にテレビを積んでアリバイ工作をした』などの新たな主張を展開したが、そのようなことを公判の途中まで一切秘匿していた合理的な理由は何ら示されておらず、より一層不自然である」と指摘し、Mの供述の信用性を否定[206]

また、Mの弁護人は「Bを殺害した腰紐の結び方は縦結びで、北野が(逮捕後に留置されていた)長野中央警察署で風呂敷を結んだ際の方法とほとんど一致している(Mは風呂敷を細結びにしていた)。よって、北野が殺害実行犯と認められる」と主張したが、富山地裁 (1988) は「北野による殺害実行を疑わせる証拠にしては余りに証明力に乏しい」として、その主張を退けた上で、「Mによる『北野が殺害・死体遺棄の実行に関与していた』という主張は、M自身の供述(随所に不合理・不自然な点を内包しており全く信用できない)を拠所とするほかなく、彼女が単独で一連の犯行を実行したことに疑いはない」として、富山事件と同じく、誘拐・殺害・死体遺棄・身代金要求をすべてMの単独犯と認定した[207]

捜査

富山事件の捜査

同年3月6日、「富山事件」の被害者であるAの遺体[注 78]が岐阜県古川町内の山中で、釣り人によって発見された[208]。遺体は発見当時、旧道と戸市川の斜面にもたれかかるように[150]、道路の除雪をした雪の壁の外側に倒れていた[149]。これを受け、古川警察署岐阜県警察)は県警捜査一課高山警察署の応援を得て捜査を開始し[209]、捜査一課とともに署内に合同捜査本部を設置[210]。捜査の結果、Aが生前、電話で母親に「『北陸企画』にいる」と話していた[143]ことや、その「北陸企画」の経営者であるMのフェアレディZ[注 12]が2月23日夕方に富山駅前で目撃されていたことが判明した[211]。しかし、被害者Aの目撃情報や足取り・交友関係などの調査については、Aの地元である富山県側より、死体発見現場がある岐阜県側の方で積極的に行われていた[166]

同月8日に岐阜県警[注 79]の捜査本部は[212]、Mと北野夫婦の計3人を任意同行し、富山事件の重要参考人として事情聴取した[213]。M・北野両名の任意同行先はいずれも富山警察署[注 11]富山県警察)で[212]、北野は同日から3日間にわたり、富山署で取り調べを受けたが、富山事件・長野事件とも、自身やMの犯行への関与を否定[183]。富山事件の発生時の行動については、「2月23日から25日は、射水郡小杉町(現:射水市)の自宅[注 80]やその周辺にいただけだ」(富山駅周辺には行っていない)[注 81]と供述した[214]。また、同日から富山署で事情聴取を受けたMは、同日の取り調べ中に著しい動揺を見せたものの、当日(2月23日)の行動について「記憶にない」、Aとの関係について「知らない」と強く否定[211]。同日夜になって、Mは「23日の昼ごろ、知り合いにフェアレディZを貸した」と供述したが、貸した相手については供述しなかった[215]

捜査本部は翌日(3月9日)も2人を事情聴取[166]。同日、富山・岐阜両県警は富山事件について合同捜査会議を開き[166]、翌10日に「女子高校生殺害死体遺棄事件」合同捜査本部(本部長:御旅屋信一・富山県警刑事部長)を富山署に設置[注 82][33]。11日には事情聴取のほか[166]、「北陸企画」が使用していたフェアレディZとサニーバンを調べてAの指紋・毛髪を探した[215]が、この時は逮捕の決め手になる証拠は得られず、2人を帰宅させた[166]。この後、富山県警の人事異動(19日付)により、合同捜査本部長を務める刑事部長が交代し、捜査一課長も異動したことから、長野県警が把握していた捜査資料を入手できないなど、捜査に不都合が生じた[216]が、合同捜査本部は同月28日ごろまでに、「2月25日夜、MとAらしき人物が死体遺棄現場からさほど遠くない場所で行動を共にしていた」という目撃証言を得た[148]。また、「北陸企画」事務所の玄関ガラス戸から被害者Aの指紋を[148]、フェアレディZの車内からAの毛髪2本をそれぞれ採取した[217]。このため、Mと北野に対する嫌疑を深めた富山県警は、3月29日・30日の両日、両名への事情聴取を再開した[192]

長野事件の捜査

一方、長野事件の捜査本部は警察庁から、「B誘拐事件(長野事件)のころ、Mと北野が長野・高崎方面にいた」という情報を受け、実際に被害者Bの失踪前後に長野市内で、身代金の受け渡しが行われた時期にも高崎駅周辺で、それぞれMのフェアレディZ[注 12]が目撃されたことを把握した[218]。そこで、同じフェアレディZが現場周辺で目撃されていた富山事件に着目し、同月16日には富山事件の合同捜査本部(富山署)に対し、Mの声の録音テープを提供するよう求め[218]、21日からは他県の類似事件(富山事件やイエスの方舟事件など)との関連捜査を開始[219]。3月24日以降、被疑者のアベック(M・北野)の足取りを捜査していた[219]

3月27日14時50分[220]、長野県警捜査本部は後述のように、Bの安否が不明なまま、公開捜査に切り替えた[41]。その後、市民から次々と情報提供がなされ、「3月5日18時30分 - 19時にかけ、長野駅付近で、Mの運転する赤いフェアレディZに被害者Bが(失踪した際の服装で)乗り込むところを見た」という旨の証言が複数得られた[208]。また同日、警察庁の科学警察研究所は(長野事件における)身代金要求電話の録音テープを声紋鑑定し、翌28日には「富山県警から提供されたMの声と、訛り・アクセントの特徴が酷似しており、両者はほぼ同一人物である」と結論を出した[217]

なお、報道協定解除後の3月28日には、事件とは無関係な別の男(東京都小金井市在住)が、本事件の報道を聞いて便乗し、被害者B宅に身代金700万円を東京都内(山手線駒込駅前)の喫茶店に持ってくるよう要求する電話を掛けた[221]。事件当時、長野県警と警視庁は「犯人からの電話の可能性が極めて強い」と判断し、捜査員約100人を動員して捜査[222]。捜査一課は本事件の解決後も、同事件について「悪質な脅迫事件」として極秘捜査を続け、4月初めに小金井警察署によって窃盗容疑で逮捕されていた男から自供を引き出した[221]。その後の裏付け捜査により、この男がB宅の住所・電話番号を書いた手帳を知人に預けていたことが判明したため、警視庁(捜査一課・小金井署)は7月12日に男(当時47歳)を恐喝未遂容疑で逮捕している[222]

逮捕

富山事件の合同捜査本部は3月28日、長野県警から、「M・北野の両名を逮捕させてほしい」と申し入れを受けたが、「まず富山事件を解明すべきだ」と拒否[217]。翌29日、北野を小杉警察署に、Mを富山署にそれぞれ任意出頭させ、事情聴取を開始した[223]ほか、Mについては(3月30日時点で)富山事件における未成年者拐取および死体遺棄容疑で逮捕状の発布を受けていた[192]。逮捕状の請求理由は、「北陸企画」の事務所前にMとAが一緒にいた旨の目撃証言が得られたことや、事務所内やフェアレディZ車内からAの指紋や毛髪が採取されたことなどだったが、北野についてはAとの接点がないなど、容疑が固まっていなかったため、逮捕状を請求できていなかった[224]。しかし、長野県警は同日、長野事件における身代金目的拐取の容疑で2人の逮捕状を請求し、長野地裁から3月30日付で許可を得た[225]。長野県警が(声紋という決定的証拠があった)Mだけでなく、北野についても逮捕状を請求した理由は、Bが失踪した前後にMと北野が2人で一緒に行動していたことなどが理由だった[224]

結局、富山事件と長野事件のどちらで先に2人を逮捕すべきかについては、警察庁の仲介により、被害者Bの生死が不明だった長野事件について優先することとなり[225]、長野県警は両名を逮捕するため、捜査員を富山に派遣した[192]。3月29日の時点で、Mは両事件について黙秘していた[192]が、3月30日朝、富山署へ任意同行させられ[226]、富山事件(Aを誘拐・殺害したこと)を自白した[192]。また、Mは同日中に、(富山へ派遣された長野事件の捜査員による取り調べに対し、誘拐容疑のほか、北野と共謀して被害者Bを殺害・遺棄したことも含め)長野事件への関与を認める供述をした[192]。これを受け[192]、長野事件特別捜査本部は同日夜、Mと北野の両被疑者を、長野事件における身代金誘拐の容疑で逮捕した[208]。北野の逮捕状は、長野県警捜査一課長の遠藤定彦警部により[227]、20時54分に小杉署で執行され、Mの逮捕状は20時58分に、富山署で執行された[226]

同日、警察庁は富山事件と長野事件の双方を同一犯による事件として、広域重要事件111号に指定[228]。その上で、富山・長野の両県警にそれぞれ「111号事件」の合同捜査本部を、岐阜県警にも同事件の捜査本部を設置し、捜査員を相互に派遣することとなった[229]

逮捕後の捜査

逮捕後、長野県警は2人の身柄を富山駅22時50分発の(急行「越前」)で長野県警へ護送し[230]、翌31日に長野中央警察署へ引致した[231][117]。その後、Mは長野南警察署に留置され[192]、北野は引き続き4月20日まで長野中央署に留置されて取り調べを受けた[232]

一方、被害者Bの遺体は4月2日、山中で用を足そうと県道から林道に入った通行人によって発見された[44]。遺体は発見当時、頭を下にして仰向けで放り投げられたように倒れていた[193]後述のように、初動捜査ミスや広域捜査のあり方が問われたことを受け、警察庁は4月10日に、3県警および中部関東管区警察局刑事課長を召集し、事件発生以来初となる合同捜査会議を開催。まずは長野県警が長野事件(身代金目的誘拐容疑)の裏付け捜査に全力を挙げ、富山・岐阜の両県警も長野県警に全面協力するよう指示した[233]

逮捕・送検・起訴
事件 逮捕日 警察署 送検日 検察庁 起訴日 裁判所 罪状
長野事件 3月30日[208] 長野県警特別捜査本部[208] 4月1日[235] 長野地検[236][53] 4月20日[53] 長野地裁[53] (身代金目的誘拐罪)・殺人罪死体遺棄罪[53][55] 身代金要求罪[53]
富山事件 4月21日[54] 合同捜査本部 - 富山・岐阜両県警[237] 4月23日[238] 富山地検[55] 5月13日[55] 富山地裁[55]

一連の事件は、犯行の大胆さとは対照的に、物的証拠・目撃者は少なく、Mの供述が二転三転したこと[239]、北野が事件への関与を全面的に否認したこと[55]から、捜査陣は有力な決め手を得られなかった[13]。Mには逮捕当時から物証や決定的な目撃証言があった一方、北野の犯行への関与を裏付ける直接証拠はなく、警察当局は2人の自白調書と、長野事件の発生時に2人が一緒に行動していた状況証拠を頼りに捜査した[224]

その後、北野は長野事件の取り調べで、自身がBを殺害したことや、Mとの共謀を自供[240]。また、富山事件の際に被害者Aと接触し[241]、Mと共謀した旨を自白したことから[224]、合同捜査本部は「富山事件では少なくとも、北野が誘拐に関与したことは間違いない」と判断[241]。北野がMとともに富山を発った3月3日以前に、Mから「大金が入る」と聞かされていたことを突き止めたほか、北野が長野事件の発生時にMと行動をともにしていたことから、長野地検は「Mの犯行を知らないのは不自然だ」と判断し、共謀共同正犯と断定[53]。富山県警はMだけでなく、北野についても逮捕状を請求し、2人を逮捕した[224]。しかし、富山地裁 (1988) は北野の自供に「秘密の暴露」がなく、供述内容も真犯人が反省悔悟の情から述べたにしては不自然・不合理な点や、重要事項に関する理解し難い変遷が複数ある点などを指摘し、信用性を否定した[242]

富山地検は拘置期限直前(5月13日20時)までMへの取り調べを行い、同日21時45分に2人を起訴した[13]。その上で、最高検名古屋高検と協議を行ったが、最高検から「実況見分を1度も行わずに起訴するには問題が多すぎる」と指摘されたことから、同日22時30分ごろから数河高原付近で実況見分を行った[13]

2人の供述内容の変遷

被告人M 北野
日付 留置場所 富山事件 長野事件 日付 留置場所 富山事件 長野事件
捜査段階 3月8日 - 10日 関与およびAとの面識を否定[231] 3月8日 - 30日 両事件について否認[117]
3月30日に長野事件で逮捕
長野事件の捜査 3月30日 長野南警察署 誘拐・殺人を自白[231] 殺害・死体遺棄も含め北野との共謀を自白[231]
3月31日 北野との共謀認める[231] 3月31日 - 4月5日 長野中央警察署 両事件ともに否認し、積極的に弁解[117]
4月1日 「自身の単独犯」と供述[243]
4月2日 - 6日 「北野以外の男(富山の男、自身の実兄など)と共謀した」と供述[243] 4月6日 「自身がBを殺害した」と自白(過剰自白)[117]
4月7日 - 11日 「自身の単独犯」と供述[243] 4月7日 - 10日 長野事件について「MからB殺害後に犯行を打ち明けられ、その後の身代金要求のみ共謀した」と自白したが、それ以外は否認[117]
4月12日 両事件とも北野との共謀を認める[243] 4月12日 - 20日 両事件ともに事前共謀を自白[117]。ただし、横畠裕介検察官の取り調べ(16日 - 19日)に対しては、「誘拐を事前に共謀したが、富山事件は事後にMから打ち明けられるまで知らなかった」と供述したほか、勾留質問(4月20日)の際には、長野事件の共謀について供述を拒否した[117]
4月13日 「北野と共謀したが、自身が単独で実行した」と供述[243]
4月14日 「北野と共謀し、自身が単独実行」と供述(ただし、事前の計画では北野が殺害を実行することになっていた旨を示唆)[243]
4月15日 - 17日 「北野と共謀し、自身が単独実行」(北野が殺害する計画だったが、現場に来なかったため、自身が殺害した)と供述[243]
4月18日 - 20日[243] 「北野と共謀し、殺害は北野が実行した」と供述[243]
4月20日に長野事件で起訴、翌21日に富山事件で逮捕[243]
富山事件の捜査 4月22日 - 24日 富山警察署[注 11] 14日と同じ旨の供述[243] 4月21日 - 26日 上市警察署 両事件とも否認し、富山事件については積極的に弁解[117]
4月25日 - 5月13日 「北野と共謀し、北野が殺害を実行した」と供述[243] 4月27日 - 5月1日 富山事件について事前共謀を自白したが、弁護人の接見時には否認した[117]

その後、2日 - 5日には否認したが、6日 - 7日に再び自白共謀を認め、8日 - 13日に再び否認に転じた[117]

5月13日に富山事件で起訴[55]

検察官は起訴状では、2被告人の共謀の具体的な日時・場所や、誰が殺害の実行行為を担ったかについては明らかにしていなかった[244]。また、2人は保険金殺人未遂事件について、1980年5月23日付で富山事件の合同捜査本部により、殺人未遂容疑で富山地検へ追送検された[245]が、最終的に起訴猶予となった[246]

審理併合

最高裁判所判例
事件名 審判併合請求事件[247]
事件番号 昭和55年(す)第111号、第112号、第124号[247]
1980年(昭和55年)7月17日
判例集 刑集 第34巻4号229頁
裁判要旨
被告人両名に対する甲地裁に係属中のみのしろ金目的拐取等被告事件と乙地方裁判所に係属中のみのしろ金目的拐取等被告事件とは、事件の内容、関係人の住居その他本件における諸般の事情のもとにおいては、乙地方裁判所に併合するのが相当である。
第一小法廷
裁判長 本山亨
陪席裁判官 團藤重光藤崎萬里中村治朗谷口正孝
意見
多数意見 全員一致
反対意見 なし
参照法条
刑訴法8条
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2被告人とも、富山事件については富山地検が富山地裁へ、長野事件については長野地検が長野地裁へそれぞれ起訴した[248]刑事訴訟法第8条は、複数の関連事件がそれぞれ(事物管轄)[注 83]の同じ別々の裁判所へ係属した場合、検察官または被告人の請求により、審理を1つの裁判所に併合できることが規定されている(以下の条文を参照)。

刑事訴訟法第8条
  1. 数個の関連事件が各別に事物管轄[注 83]を同じくする数個の裁判所に係属するときは、各裁判所は、検察官又は被告人の請求により、決定でこれを一の裁判所に併合することができる。
  2. 前項の場合において各裁判所の決定が一致しないときは、各裁判所に共通する直近上級の裁判所は、検察官又は被告人の請求により、決定で事件を一の裁判所に併合することができる。

どの裁判所に併合すべきかを決定する基準については刑事訴訟法・刑事訴訟規則のいずれでも明示されていない[250]が、最初に起訴を受けた裁判所(当事件の場合は長野地裁)へ併合する慣行がある[251]。これを受け、長野・富山の両地検は最高検察庁とも協議し、長野地裁への併合を求める方針を決めた[251]。その理由は、「富山事件は共謀・犯行の場所が富山県やその近辺に限定されている一方、長野事件はそれらが富山・長野・群馬・埼玉・東京の各都県におよび、取り調べが予想される証人も各地に散在している(富山の証人が長野まで出頭することは十分可能だが、群馬・埼玉・東京などに居住する証人が富山まで出頭することは著しく困難である)」というものだった[252]

また、Mは当初、私選弁護人を選任せず、国選弁護人の選任を申し出た上で、「富山は自身の出生地で、友人・知人も多く、家族も生活している。家族につらい思いをさせたくないので、少しでも富山から離れたい」として、長野地裁への併合を希望していた[253]。その後、富山事件について国選弁護人2人(宇治宗義・澤田儀一)の2人が選任されると[254]、Mは弁護人との接見を通じて、同年6月10日付の上申書(富山地裁宛)で「どこで裁判を受けるかは弁護人に一任したい」という心境を述べていた[255]が、同年7月1日付でなされた長野地裁の裁判官による取り調べに対しては「私の真意は(長野での審理を強く希望した)5月14日付の上申書当時から全く変わっていない。富山で審理が開かれると、親戚・家族に大きく迷惑がかかるし、知り合いの傍聴人(北野の家族ら)とも顔を合わせることになり、冷静な気持ちで審理に対処できない」「国選弁護人2人に一任する旨を表明したのは、彼らから弁護活動の都合や、北野の弁護人の立場などの説明を受け、『自分の希望や都合ばかり言うわけにはいかない』と思って彼らの意向に沿ったものであって、長野で審理を受けたい気持ちは変わらない」と述べた[256]。加えて、長野地裁から長野事件におけるMの国選弁護人として選任された田中隆・丸山衛の2人は、1980年7月7日付にMと初めて接見し、長野地裁で審理を受けたい旨を確認したとして、同地裁での審理を要望していた[256]

併合審理請求に対する各裁判所の判断
裁判所 裁判長 決定日
(1980年)
決定理由 被告人M側の主張 北野被告人側の主張 検察側の主張
長野地裁刑事部[257]
(第一次)
小林宣雄[258] 6月7日[257]

富山事件を長野事件に併合し、当裁判所(長野地裁)で一括して審理する[252]

  • 両地検の検察官や被告人Mが当地裁への併合を求めている[259]
  • 両被告人とも勾留中である(長野で公判が開かれても格別の不利益はない)[259]
  • 長野事件は富山事件との共通の罪状(身代金目的拐取・殺人・死体遺棄)に加え、拐取者身代金要求の罪状が加わっていることから「富山事件より重大かつ複雑」で、しかも先に起訴されている[259]
長野地裁への併合を請求[259] 本人が富山地裁への併合を希望[259]し、弁護人も同様の請求[260] 両地検の検察官とも、長野地裁への併合を請求[260]
富山地裁刑事部[261] 岩野寿雄[248] 6月11日[261]

長野事件を富山事件に併合し、当裁判所(富山地裁)で一括して審理する[257]

  • 犯行場所は確かに長野事件の方が広範囲ではあるが、富山事件も富山・岐阜の両県下にまたがっており、拐取者身代金要求の訴因を除けば長野事件とほぼ同様の重大事犯で、まだ審理が始まっていない(審理の範囲・方法が予測できない)現段階では、検察官の主張するような差異の有無は、決定的な重要性を有するものとは言い難い。長野事件の方が先に起訴されたとはいえ、犯行そのものはむしろ富山事件の方が先で、重大性も先述のように両事件ともさほど変わらないため、係属の先後は大きな意味を有さない[255]
  • 両事件をどちらの裁判所で審理すべきかは、検察官の立証活動・裁判所の審理の便宜などのほか、それにも増して裁かれる立場である被告人・弁護人の防御権行使上の便宜が重視されるべきだ[261]。両被告人とも富山県在住で、両事件の重大性はほぼ同程度であることを考慮すれば、当裁判所で併合審理することが相当だ[261]
両被告人の弁護人とも、富山地裁への併合を請求[注 84][262]
長野地裁刑事部[263]
(第二次)
小林宣雄[264][265] 7月11日[263] 両被告人の弁護人(Mについては富山地裁により、富山事件の弁護人として選任された宇治・澤田の両名)からの「富山地裁へ併合されたい」旨の請求をいずれも却下[254]
  • 宇治・澤田の両名は「Mは必ずしも長野に固執せず、どちらの裁判所で審理を受けるかを一任したい旨を表明したので、第一次決定を取り消した上で、改めて富山地裁への併合を求める」と請求していた[254]が、長野地裁は上述したように「Mは当地裁に対し、改めて長野地裁で審理を受けたい旨を強く表明している。その心境が変化したことを前提とする請求人(弁護人2人)の所論は肯認し難く、第一次決定を変更すべき特段の事情も認められない」として、請求を却下した[266]

このように、両裁判所がまったく逆の決定を出す異例の展開となったため、上級裁判所の判断が仰がれることとなった[251]。しかし、両地裁とも上級裁判所である高等裁判所が異なる[注 85]ため[251]、両裁判所共通の上級裁判所である最高裁判所が決定を出すこととなった[247]。最高裁第一小法廷本山亨裁判長)は[15]、1980年7月17日付で[247]、「両被告人とも富山県在住で、最初の事件発生地も富山県である。弁護活動にも富山地裁の方が長野地裁より便利だ」として[267]両事件を富山地裁へ併合して審理することを決定した[268]この決定は、最高裁が刑事訴訟法第8条2項に基づき[19]、下級審の併合決定を出した初の事例[注 86]、『朝日新聞』 (1980) は決定の背景について「被告人側の防御権・弁護権を重視したものとみられる」と報じている[270]

捜査における問題点

初動捜査

富山事件では、2月24日 - 25日にAが自宅に掛けた「北陸企画にいる」という電話から、早々と女Mおよび北野が捜査線上に浮上した[50]。その後、26日には富山署員とAの両親が「北陸企画」へ出向き[50]、県警がMを事情聴取したものの、容疑不十分として事情聴取を中断し、Mを帰した[198]。その後、被害者Aの死体が岐阜県内で発見されたことから、捜査は岐阜県警の主導で開始され、合同捜査本部(富山署)の設置は事件発覚から4日後、本格的な基礎捜査の開始(Aの目撃者探し、足取り・交友関係など)は1週間後だった[271]。2人の経営していた贈答品販売会社(北陸企画)への調べも岐阜県警によって行われたが、それ以前に机や家具類などは運び出されていた[271]。また、富山県警側で基本捜査の態勢が整った矢先の3月18日に、当時としてはかなり大規模な県警の人事異動があったため、刑事部長、富山署の署長および副署長・刑事官、鑑識課長などの幹部を含めた捜査員が大幅に交代したことも、捜査の支障となった可能性が指摘された[271]

その後も、A宅へ女性の声で「会いたい」という電話がかかるなどし、富山県警はMおよび北野をマークし続けていたが、その最中に長野事件が発生し、被害者Bが犠牲となったことから、富山事件の初動捜査次第で長野事件の発生を防げた可能性が指摘された[注 87][199][50]

また、長野事件で身代金引き渡し場所に捜査員を張り込ませていたことをMに感づかれ、逃走を許したこと(前述)も問題視された[198]

広域捜査

富山事件では、(合同捜査本部設置後に)死体発見場所を管轄する岐阜県警と、被害者Aの居住地を管轄する富山県警が合同捜査を行い、重要参考人としてM・北野の両名を取り調べたが、その取り調べは(富山県の実情にあまり詳しくない)岐阜県警の捜査員が担当した[注 88][272][228]

長野事件では、被害者Bが誘拐された3月5日前後から、長野市内で富山ナンバーの赤いフェアレディZ[注 12]と、トンボメガネの女 (M) が目撃されていたことから、長野県警は公開捜査への切り替え前からM・北野両名の関与を疑い、28 - 29日ごろには「ぜひうちに(2人の身柄を)引き渡してほしい」と要望した[228]。しかし、当初は「顔見知りによる犯行」という見方を捨てきれず、富山まで捜査員を派遣するまでには至らなかった[199]。また、富山県警側も「犯人は我々が逮捕する」と譲らず[228]、両県警の意見が激しく対立したほか、両事件に関する情報交換も十分に行われなかった[注 89][274]。両県警とも管轄する管区警察局が異なる[注 90]ことから、同じ管区警察局が管轄している都道府県警察同士の場合と比べて調整が難しく、最終的には警察庁が「人命が懸かっている」と判断したことで、長野県警が最初に2人を逮捕することとなった[228]。しかし、逮捕後も両県警の対立は続き、警察庁が4月1日夜に捜査一課長の加藤晶を両県警および岐阜県警に派遣し、調整に乗り立たせる事態になった[198]。また、事件解決後も両県警は自白を得ようと躍起になる一方、拙速な捜査で裏付けを取らず、それも冤罪の一因となった(後述)。

このように、広域捜査の中で県警同士の「縄張り争い」「功名争い」意識により、相互の連携・意思疎通が不十分に終わったことが指摘され[注 14]後藤田正晴国家公安委員長は、同年4月3日の参議院予算委員会で、山崎昇(日本社会党)からの「初動捜査にミスがなければ、長野事件を防げたのではないか」という質問に対し[275]、「(富山・岐阜・長野・群馬の)各県警は全力で捜査に努めてきたが、事件が数県にまたがったことから、熱心さのあまり捜査に隙が出がちだった。各県警の間に“敷居”があるのは事実だ」と答弁し[198][276]、「捜査ミスを事実上認める答弁」と報じられた[274]。警察庁は本事件を教訓に、「今後、複数の都道府県・管区警察局にまたがるような広域事件は増加する」と予測し、全国の警察が一体となって情報交換などを行えるようにするため、同年5月上旬にも警察庁と各管区警察局に広域捜査指導官[注 91]を置き、都道府県警察にも広域捜査官を指定する方針を決めた[274]。本事件を教訓に、隣接する複数県警が合同で誘拐訓練を行うようになった[278]

報道協定

長野事件の発覚直後、長野県警は事件が公開されることにより、(当時安否不明だった)被害者Bの生命に危険がおよぶことを防ぐため、日本新聞協会に加盟している報道機関164社と報道協定を締結[49]。これを受け、協定を締結した新聞・放送各社は事件そのものの報道や、被害者Bの関係先(自宅や勤務先)・友人宅および、犯人が立ち回ったと見られる場所などについての取材を自粛してきた[注 92][280]

しかし、本事件は犯人側からの連絡が途絶えて以降、捜査は難航し、報道協定がいたずらに長期化する状態が続いた[281]。そのような状況の中、報道側は「生死の判断材料がない」として協定解除に消極的だった[273]が、『週刊新潮[注 13]新潮社)の記者を名乗る記者が、同月22日ごろから県警本部や一部の新聞社を対象に、「協定期間が長すぎるのではないか」と取材を開始した[198]。一方、警察庁と日本雑誌協会の間では、かねてから「誘かい事件等の取材、報道の取り扱い」が慣行化しており[282]、22日に同誌記者の取材を受けた長野県警広報官の伊藤義久は、「当然、報道協定に準ずるだろう」と思い、事件について受け答えした[273]が、同誌側は同月23日ごろ、「協定に加わっていないので報道したい」という意向を表明[198]。これに対し、長野県警は協定に準じて報道を自粛するよう要請したほか、翌24日および25日には県警本部と警察庁の名義で報道自粛を申し入れたが、拒否された[198]

結局、『週刊新潮』は1980年4月3日号[280](3月27日発売)[283]で、被害者Bの実名や写真を含め、本事件の詳細を報道[281]。これを受け、報道各社は緊急支局長会・記者クラブ総会[注 93]を開き、長野県警本部と協議し、『週刊新潮』が東京都内で販売された26日15時前後から、24時間にわたって動向を観察[198]。犯人側の動きがなかったため[198]、長野県警は「事件が詳細に報道され、報道協定を継続するメリットが失われた。また、発生から相当長期間が経過し、ここで協定を解除しても、被害者の身に新たな危険がおよぶことは考えがたい」として[49]、同月27日15時に事件を公開捜査に切り替え、報道協定も解除した[198]。報道協定が締結された身代金目的誘拐事件は、1970年(昭和45年)以降、本事件で66件目だった[注 94]が、犯人逮捕や被害者の発見に至らない段階で報道協定が解除された事例は、本事件が初だった[49]

『週刊新潮』編集部は、報道協定継続中に本事件の報道に踏み切った理由について、「発生から3週間が経過し、報道協定が事件解決の役に立たなくなった」と説明した[注 95][283]警察庁長官山本鎮彦は『週刊新潮』の報道に遺憾の意を示し、同庁は電話で『週刊新潮』に抗議した[287]。被害者の安否が判明していない中で、週刊誌が報道を行ったことは様々な課題を残した[283]。日本新聞協会は同月10日の編集委員会で、今後は報道協定が長期化した場合、協定を継続すべきか否かについて協議することを確認した[273]。また同月中旬、警察庁は日本雑誌協会に対し、誘拐報道について理解と協力を要望するとともに、それまでの慣行を明文化し、警察庁との合意事項とするよう申し入れ、雑誌協会側もそれを受諾。同年7月、雑誌協会が警察庁との間で「誘かい事件等に関する取材及び報道の取り扱い方針」について合意したことで、同協会加盟社も新聞協会加盟社と同じく、誘拐事件発生時に警察から要請があった場合は報道を自制することとなった[282]。同年8月に発生した司ちゃん誘拐殺人事件は、雑誌が報道協定に加わった史上初の事例となっている[288]

他事件の捜査への影響

長野県警は当時、本事件の解決のために多数の捜査員を投入していた[289]が、同時期(1980年3月29日)には東筑摩郡生坂村生坂ダムで、首と手足を縛られた男性(当時21歳)の遺体が発見されていた[290]。県警は同事件について、約120人態勢で捜査していた[290]が、所轄の松本警察署は同事件を自殺と断定して捜査を打ち切った[289]

その後、別の事件で服役していた男が犯行を告白したことにより、同事件の発覚から23年後(2003年)に県警は同事件を殺人事件と断定した上で、男を殺人容疑で書類送検したが、既に公訴時効(15年)が成立していたため、起訴することはできなかった[290]。これに対し、同事件の被害者遺族や[290]大谷昭宏(ジャーナリスト)、土本武司(元最高検検事)は、本事件の捜査の影響を受け、同事件の捜査が疎かになった可能性を指摘している[289]

冤罪の原因

事件解決後も、(2人の逮捕前と同じく)長野事件の捜査が優先された[291]が、長野県警は「2人の身柄を富山県警に引き渡さなければならない」という焦りから調書作成を急いだ一方、富山県警は「長野での取り調べで、2人とも犯行を認めている」として、十分な裏付け捜査[292](目撃者探しなど)[291]を行わないまま、2人の調書を作成[292]。後に虚偽と判明したMの「(富山事件では)ライトバンの北野と合流した」という供述が、そのまま起訴の資料とされるなどの弊害が出た[291]。これにより、北野の犯行現場への足取りや、犯行現場付近での目撃証言が得られないまま、後の初公判で「実行犯は北野」と位置づけられた[293]

捜査における予断

捜査中、検察内部では北野の実行ばかりか、共謀の立証すら困難とされていたが[294]、富山事件では、被害者Aの死体に抵抗した痕跡(絞殺時につきやすいもがき傷など)がなく、首に巻き付けられた帯紐がかなり強い力で食い込んでいた点や、遺棄現場にも1 m近い高さの雪の壁があった点から、捜査当局は「女性であるMが殺害・死体遺棄を単独で実行したとは考えにくく、北野が実行した可能性が高い」と睨んで捜査した[177]。しかし、後に雪の壁の高さは1 m未満であり、犯行は女性であるMが単独実行することも可能な手口である点が判明する結果となった(後述)。

冤罪の原因として、北野が加害者Mと愛人関係にあったことから、捜査機関側が「事件当時、Mと一緒に行動していた北野が事件を知らないはずがない」との先入観を抱き、北野を逮捕から54日間にわたって留置場代用監獄)に勾留した上で、苛烈な取り調べを展開し、虚偽の自白を引き出した旨が指摘されている[注 15][18]

不適切な取り調べ

北野は長野事件の発生直後、3月8日 - 10日に富山署で岐阜県警などの警察官から取り調べを受けた際には、両事件への自身やMの関与を否定したほか、長野事件発生時(3月3日)以降の行動について「目的のない気晴らしのための旅行」と説明していた[183]。その後、同月29日に富山県警警部の広瀬吉彦に面会を求め、同日から2日間にわたり広瀬から取り調べを受けた際には、自身の関与を否定し続けた一方、Mの行動上の不審点[注 96]を指摘する(Mが事件に関与したことを示唆する)姿勢に転じ[183]、長野に護送されて以降も事件への関与を否定し、Mから持ちかけられた金儲けの話について説明しようとしていた[295]。しかし、取り調べ担当者はそのような北野の弁解を聞き入れず、その矛盾点を突くような尋問ではなく、もっぱらMとの従前の関係や、長野へ同行していた事実を根拠に、「共謀がなかったはずはない」という角度からの追及に終始していたことが、富山地裁 (1988) により指摘されている[295]。4月6日、北野は宮﨑恪夫[注 97](長野県警警部)による取り調べで、被害者Bの遺族の心情を前面にした説得を受け、歯ぎしりして「俺は責任を取ってやる」と言いながら、自身がBを殺害したことを認める自供書を書いたが、富山地裁 (1988) は当時の北野の態度について、「そこには反省悔悟の情などはいささかも窺われない。むしろ、心情論によりかかって改悛を求めようとする捜査官の態度に対し、弁解が聞き入られないため自暴自棄になった北野が突如前記行動に走ったという過程をかなり明瞭に読み取ることができるのである」と指摘している[295]。また、北野は富山への移送後も4月26日までは否認を続け、「長野では、やってもいないことをやったように言わされた」などと不満を述べる一方、道義的責任を感じている旨の心情を吐露したり、「自分はMと同罪になっても構わない」など、自暴自棄な発言も見られた[298]

北野は無罪確定後の1992年、雑誌『VIEWS』(講談社)に寄稿した手記で、最初の任意同行の際から取調室に入れられ、高圧的・暴力的な取り調べ[注 98]を受けたことや[299]、逮捕されて富山から長野へ連行される際に人々から「人殺し」と罵倒されたこと[300]、逮捕後には刑事や検事が作成した虚偽の供述調書にサインするよう強要されたり、刑事から「男として責任を取れ」「俺は昔、あさま山荘事件の犯人を(この取調室で)取り調べた。あいつらは俺に反抗的な態度を取るから、血反吐を吐くまで殴ってやった」[注 99]などと暴言・脅迫を伴う苛烈な取り調べを受け、検事からも「チンピラ」「人殺し」などと恫喝された[注 100]旨を主張している[304]。佐木 (1991) によれば、北野に対し「道義的責任」「男の責任」などの観点から自白を迫った捜査官は、宮﨑恪夫[305]横畠裕介[306](長野地検検事)、広瀬である[307]。後に北野は第一審の公判で、自身を取り調べた宮﨑や横畠を「私を無理に自白させたのではないか」と追及したが、2人ともそれを否定した[注 101][308]。また、広瀬は第139回・146回・147回公判で、「自分が北野に対し、被害者の両親らの心情を訴えて説得すると、北野は号泣しながら妹の結婚の世話などを依頼し、自白した」と説明した[298]が、德永勝[309](富山地検主任検事)は1985年(昭和60年)10月2日の第145回公判で、弁護団からの尋問に対し「北野は自分に対し、広瀬と『妹の結婚の世話など、家族の生活に協力する』と約束した旨を話していた。自分が広瀬に確認したところ、広瀬は『約束したわけではないが、自分に将来できることがあるならやってやろう』と話した」と述べている[308]

名古屋高裁金沢支部 (1992) は、富山地裁 (1988) の判示も踏まえ、北野が虚偽の自白に至った理由について以下のように指摘している。(以下、丙=北野、甲=M)

丙の捜査段階における自白の信用性について検討するに、その自白を含む全供述の過程や内容の概観は、原判決が摘記するとおり(三六〇頁〜三八一頁)であるところ、原判決は、丙供述は、長野、富山両事件ともに否認と自白との動揺の跡が歴然としていて自白状況の不安定が目立つ点が信用性を減殺する要因としてまず挙げられるとするほか、自白には秘密の暴露とみられる供述部分がなく、共謀がなされたものとすれば当然に認識しているはずの事項についての説明が欠落し、共謀を疑わせる客観的事実についての疑問を解消させるに足る説明もなされていないなど不自然、不合理な点を随所に指摘することができ、また、供述は共謀や犯行手段等の本体的部分について重要な変遷がなされているのに、その供述修正の理由が調書上明らかにされていないなど体験供述性にも疑問があり、更に、丙が共謀についての全面自白を始めたときの状況には、自己の受けるべき刑期について著しい誤解をするなど、その供述の真摯性にも問題があり、結局、丙の自白は、本件各犯行を単独で敢行した甲と愛人関係にあった男としての心理的負担と捜査官の心情論的追及の相乗作用によって、自ら「男の責任」と称する道義的責任を承認する趣旨であえて虚偽の不利益事実を自認したものである疑いが非常に強いものとみて、その信用性を否定しているのであるが、当裁判所の考察によれば、丙が自白するに至った動機や自己の行為に科せられる刑罰を誤解していたとする点については必ずしも完全には見解は一致しないけれども、その自白内容に判示のような多くの疑問点があって信用するに足りないとする結論には賛同できるのであって、これを丙の有罪立証の資料とすることは許されないとした原判決の証拠評価は正当というべきである。 — [310]
原判決は、丙の供述過程に従い、その供述態度や捜査官の取調方法等をも勘案しながら追跡的に検討して自白の動機、原因を推究した結果、本件両事件についての共謀事実を認めた丙の自白が反省、悔悟に基づいた真摯なものであったとは考えられず、その真の動機というのは、愛人関係にあった甲が、やがては丙にも利得が還元される可能性もある大金を奪取しようとして本件各犯行を行ったことに対して男としての心理的負担を抱いていたところへ、捜査官からの心情論的追及や説得を受けてその心理的負担を増大させ、最終的には自らの道義的責任を承認する趣旨で虚偽の自白に及んだ可能性が強いものとする推論については、当裁判所としても基本的に同調するものであるが、その理由とするところでは多少意見を異にする。……(中略)

……察するに、丙がその当時、自己の行為の刑事責任と道義的責任とを明確に区別して意識していたかどうかは明らかでなく、刑罰の誤認とみられるような発言を行っていたことからしても、丙自身が公判弁解で主張しているように、長野事件で丙に詐欺まがいの悪事に加担して大金を得ようとする限りでは甲に協力するつもりがあった以上少なくともその限度での刑事責任はやむを得ないとする覚悟に道義的責任感が加わって本件両事件での事前共謀の虚偽自白に及んだ可能性が強く窺えるのであって、このようにみることによって丙が何度も弁護人と接見して捜査官には事実を述べるようにとの助言を受けながら、なお自白した経緯が理解できるのである。

しかし、いずれにしても、本件各犯行での事前共謀を認めた丙自白には、虚偽供述がなされる要因が十分存在するのであって、これに捜査官の取調方法の在り方も影響して、丙がいわゆる「男の責任」を取るという心境にもなって取調官が求める内容の自白を迎合的に行った可能性は強いのであり、前述のような供述内容自体が含んでいる欠陥とも併せて、その信用性は否定せざるを得ないのであって結局同旨の原判決の判断は正当である。 — [311]
丙が本件両事件で甲との共謀を自白するに至った動機というのは、自分が本件で全くの無実であることを信じながら、単に道義的責任感だけから、本件各犯行を甲と共謀して犯したことを自白したものとは認め難く、少なくとも本人の気持ちのうえでは、誘拐、殺人というような本件各犯行の実体を事前に甲から聞かされてはおらず、したがって実際には共謀もしていないけれども、いずれにしても甲が企んでいた何らかの悪事と知って大金獲得の協力をしていたという限りでは自分も本件に関わりがあることは否定できない立場にあるから、それが果たして法律的に犯罪に該当するかどうかは別にして、ある程度の刑責を問われるのもやむを得ないと覚悟するところがあって、これが前述のような道義的責任感と結び付き、両々相まって結局は事実に反する虚偽自白をするに至った可能性が高く、(以下略) — [312]
(前略)また、本件両事件について甲との共謀を認めた丙の自白も、甲供述同様、その内容や供述過程等に不自然、不合理な点が多くてもともと信用性に乏しいばかりでなく、その供述の変遷状況等をつぶさに分析検討してみると、丙の自白というのは、本件各犯行における共謀事実を真実のものと認めてその反省、悔悟の下に行ったわけのものではなく、道義的責任を承認する趣旨であえて不利益事実を自認した可能性が極めて高いのであって、これまた、その信用性を肯定することは到底できず、以上本件で取調べた全証拠をもってしても、丙が本件両事実について甲と共謀して犯行に及んだことは認定できないとした原判決の判断は相当であり、当裁判所としてもこれを肯認することができるのである。 — [313]

富山県議会議員の小川晃(日本社会党)は、1992年6月19日の県議会一般質問で、事件当時の捜査について松原[注 102]県警本部長を追及し、「証拠不十分にもかかわらず北野を逮捕し、代用監獄で人権を無視した取り調べを行い、自白を強要した疑いがある。捜査の誤りを認めて北野に謝罪すべきだ」と求めたが、松原は「取り調べに際しては、被疑者の人権に十分配慮し、自白の任意性が配慮されるよう適正に行った」と答弁し、捜査ミスを認めなかった[315]。このような密室取り調べによる冤罪事件を教訓に、富山県弁護士会(会長:浦崎威[注 103])は1992年4月1日から、警察署や拘置所にいる被疑者や、その家族からの要請を受け、当番弁護士を派遣(紹介)して24時間以内(遅くとも48時間以内)に被疑者に接見し、黙秘権や弁護人選任権の説明、事実関係の聞き取り・確認を行う制度(当番弁護士制度)を開始した[注 104][317]

犯人視する報道

また、事件直後には多くの報道機関が、北野をMとともに(警察や検察の発表通り)犯人視する報道合戦を行い、「殺人鬼」「北野は典型的な犯罪者」などの非難の言葉が新聞に並んだ[318]。特に、事件発生直後(1980年 - 1981年)にかけては、警察発表が報道機関によって鵜呑みにされている状態で、「北野は殺人犯」とする論調が大半だった[319]。事件後、北野の父親は職場を解雇され、妹も結婚できなくなり、実家で経営していた店も廃業を余儀なくされた[320]。和田美智子(「メディアの中の性差別を考える会」)は、このような報道は無罪推定の原則に反する旨や、被疑者が受ける刑罰以上に大きな人権侵害を、本人だけでなく家族にもおよぼし、仮に無罪判決を受けても社会復帰を困難にするという旨を指摘している[321]

北野の弁護人を務めた黒田勇は、このような報道や、男女関係に関する地域社会の偏見が、捜査当局に「身代金目的の誘拐殺人は女性1人ではできない」という偏見を持たせ、「Mの虚言癖や異常性格を看過して彼女の供述を過信し、物証の捜査が後手に回るという失敗をおかすことになった」と指摘している[322]。北野の母親は、このように息子を殺人犯として報道したマスコミに不信感を抱き、ほとんど取材を受けなくなった[323]一方、佐木隆三の取材に対しては「事件のことは世間に忘れてほしくない。二度と起こしてはならない冤罪事件として、いつまでも覚えていてほしい」と述べている[324]

後に、地元の新聞社[注 105]は控訴審判決の前後に、冤罪が生まれる構造や、事件報道のあり方[注 106]風評被害に苦しむ北野の実情などを報じたほか、事件当時の報道について社会部長名で謝罪した新聞社もあった[注 107]が、北野に無罪判決が言い渡されてからも、富山県民の北野に対する偏見はすぐには消えなかった[注 108][318]。北野本人は無罪判決を受けて以降、マスコミ各社に対し、「釈放後、事件当時の新聞や雑誌(1980年3月 - 9月ごろ)の報道を見ると、極悪非道のまるで別人の自分がいて驚いた。そのような報道を読み続けていた富山県民や日本国民は、私に対する凶悪非道な人間像を先入観として抱いてしまったのだろう」「あなた方が持っているペンは、(使い方次第で)いつでも人を抹殺することができる反面、無実の人を社会復帰させたり、私のような冤罪者を二度と出させないということもできる」[320]「私はマスコミによって一度殺されたのだから、今度はマスコミの力で生き返らせてほしい」などと訴えている[318]

事件当時の報道および、富山県民の北野に対する冷ややかな視線について、朝日新聞富山支局の記者である熊谷功二・小幡崇は、「事件当時の報道に加え、『愛人と一緒にいて、事件を知らないはずがない』『女1人でできる事件ではない』という『常識』と、(当時は結婚していた北野の)不倫という道義的責任の追及が結び付けられたため、(富山県民の多くからは)無罪を素直に受け入れてもらえないようだ」と考察した上で、北野がその県民からの偏見を解消する方法として挙げた「誠実に生きている姿を見せるしかない」という言葉について、「予断と偏見を助長したマスコミの責任を告発しているようでもあった」と回顧している[318]

弁護団は毎月3回開かれた公判の際、公判直後の記者へのレクチャー(解説のための懇談)を必ず行い、週刊誌やテレビ、新聞の独自取材も積極的に受けたり、「北野宏を救う会」[注 109]で年に1回、報道関係者や佐木隆三・井口泰子らを招いた公開座談会を開き、裁判の状況と問題点を訴えたりした[329]。黒田は、逮捕直後の北野と接見した際、「今の(北野を犯人視する報道を続けていた)新聞が必ず、あなたの真実の声を聞き届けてくれる」と説得した一方[330]1983年(昭和58年)ごろから積極的に公判の取材をするようになった記者と良好な関係を築き、「正確で、公平で、なおかつ読者が読んで面白い記事になってほしい」との考えから、公判内容を詳細に教えたり、1987年4月ごろには記者クラブで「捜査報道の原点に戻って書いてほしい」「検察側の肩を持ちすぎないようにしてほしい」「報道する際、『冤罪をつくる最後の締めくくりは裁判所の誤判だ』という視点を入れてほしい」などと訴えたりした[331]。黒田は、「検察側が冒頭陳述の変更に至ったのは、月3回の公判を丹念に追い続けた記者たちの継続的な取材の力があったからだ」「自分が記者たちにいくつかの注文をした1987年春の時点では、多くの記者たちは、捜査当時の予断報道に対する贖罪意識を持っていた。そのような意識を即記事にできないところがマスコミの弱さだが、それでも継続報道を続け、判決前に裁判の問題点などを多大な紙面を割いて報道してくれた」などと述べている[332]

また、事件発生と同じ1980年に長野県で開局したテレビ信州 (TSB) は、本事件の報道における失敗(北野を犯人視した報道)を教訓に、後年(1994年)に自局の本社所在地である松本市で発生した松本サリン事件(後にオウム真理教による犯行と判明)の際には、被害者かつ第一通報者でありながら、長野県警や他局から犯人視されていた河野義行を犯人視する報道を控え、自社取材で裏付けの取れた情報のみ報道する方針を貫いた[333]

佐木は控訴審判決に際し、『読売新聞』富山版の紙面に寄稿した手記で、逮捕直後に北野を犯人視した新聞報道について言及した上で、「この事件についての裁判報道は、一般刑事事件として前例がないほど、ていねいにフォローされた。やはり、初期の報道への深刻な反省が、裁判ウオッチングを続けさせたのだ。」と述べている[330]。また、1995年には小宮悦子との対談で、甲府信金OL誘拐殺人事件(1993年発生)の報道について言及し、犯人逮捕後も「単独犯行はあり得ない」という論調で報道し続けていた報道機関が目立ったと指摘した上で、そのような報道は本事件のような冤罪を生む危険性があると指摘している[334]川上和久明治学院大学法学部長)は、メディアスクラムによる犯罪報道が生み出した冤罪事件の例として、本事件と松本サリン事件を挙げている[335][336]。また、小田貞夫(NHK放送文化研究所)は、メディアが逮捕時や事件発生直後に被疑者を犯人視するセンセーショナルな報道を展開したことによってもたらされた冤罪事件(松本サリン事件と同じ構図の冤罪事件)として、本事件や「松戸OL殺人事件[注 110]を挙げている[337]

救援活動

このように北野が捜査機関だけでなく、マスコミや富山県民からも犯人視され、冷ややかな視線を注がれる[318]中、北野の母親は息子の無実を信じ続け[338]、富山弁護士会の黒田勇[注 111](後に北野の主任弁護人を担当)らに弁護を依頼[323]。自ら「北野宏を救う会」[注 109]の会長として救援活動を行った[323]ほか、北野の元妻[注 26](義理の娘)とともに、富山事件の現場周辺に息子がいなかったというアリバイ証言を集めた[343]

北野の母親により、黒田と浦崎威[注 103]が1980年4月19日付で、北野の私選弁護人として選任された[347]。さらに同年5月28日には、近藤光玉・大坪健の2人も選任され、4人の弁護団(団長:浦崎、主任:黒田)が結成された[347]。浦崎は同年4月22日、富山事件の被疑者として上市警察署に留置されていた北野と初めて面会し[348]、北野から「被害者Aとは面識はなく、Mが身代金目的の誘拐殺人を計画していたことは知らなかった」「Mから(推理小説『白昼の死角』と同じ手口で)東京でユーレイ会社を作り、手形を騙し取るなどして金を得る計画を持ち掛けられ、運転を頼まれた。(長野事件の前に)途中でMから『山の方も走ってくれ』と頼まれ、言われた通りにした」などの弁解を得た[349]。浦崎からその録音内容を聞かされた北野の母親は、息子の無実を確信した[350]が、その後も北野への苛烈な取り調べは続き、北野は弁護人との面会で「男として責任を取る」[351]「自分はMのような恐ろしい女と一緒にいただけで恥じなければならない」[352]「家族に迷惑を掛けたくない」[353]などと自暴自棄な言葉を口にするようになった。それを弁護人から聞いた北野の母親は、獄中の息子宛てに「無実を認めて自分の潔白を証明しろ」「私たちは宏が無罪になることを生きる希望にしている」などといった内容の手紙を黒田に託した[354]。また、黒田や浦崎は北野との面会を通じ、「北野は捜査員から『罪を認めても刑期は4、5年で済む』などと偽りの説得を受けたり、『妹の結婚を世話する』などの利益誘導を受けたりして、捜査機関側に騙されている」という心証を抱くようになる[355]

両弁護人は富山事件について、北野の勾留開示請求を行い[注 112][356]、同年5月8日に富山簡易裁判所(小森武介裁判官)[357]で勾留理由開示が行われた[注 113][358]。弁護人の浦崎は「北野はネフローゼに罹り、安静加療を要する健康状態で連日、深夜まで苛烈な取り調べを受けており、自暴自棄になっている可能性がある。専門医の診察を受けさせ、休養を与えて取り調べるべきだ」と意見陳述し[359]、同月10日には弁護士17人の連署により、富山地検へ北野のネフローゼ症候群を精密検査するよう求める要望書が提出された[360]。北野は5月13日付でMとともに富山事件で起訴され[55]、同月23日に上市署から、医療設備を有する富山刑務所拘置監へ移送された[361]

井口泰子と佐木隆三の動向

推理作家・放送評論家の(井口 泰子)(いぐち やすこ[362]1937年5月26日 - 2001年2月18日[363])は、事件発生時に女性誌から事件リポートを依頼された[注 114]ことを機に、本事件の取材・調査を進めた[367]。井口は当初、「Mが1人で殺人をできるとは思えない」と考えていたが[364]、やがて検察側の主張に疑念を抱くとともに、被告人Mの主張を「二転三転している上に数々の嘘があり、信が措けない」と考える一方、無罪を訴える北野の主張は一貫していたことから、北野の無実を確信[367]。裁判への関心を喚起することを目的に[368]、1983年に「本事件はMの単独犯行」とする推理小説『フェアレディZの軌跡』(後述)を発表し[369]、1987年にはMと北野の男女関係に焦点を当てた小説『脅迫する女』を発表した[370]

井口は当時、検察官の主張に異を唱えたことを「私なりに覚悟した」と回顧しているが、最終的には井口の主張通り、Mが単独犯として有罪に処された一方、北野は無罪が確定した[369]。一方、井口はMの死刑を確定させる上告審判決が言い渡された際、「1%の奇跡を期待していたが、残念だ」と述べている[30]。井口は2001年(平成13年)に北野からの年賀状に対し、「冤罪事件のことは忘れないでね」と返事を送ったが、この時点で末期の肺癌に蝕まれており、その事実を知らされた2日後(2001年2月18日)に死去している(63歳没)[369]

また、作家の佐木隆三は、検察官が冒頭陳述・訴因変更に踏み切った1985年3月以降[注 115]徳間書店の編集部の者とともに事件に関する取材活動を重ね[注 116][373]、第一審途中の1987年5月31日に[374]、北野が共犯として起訴されたことに疑問を呈する著書『男の責任』(ノンフィクション小説)を出版した[注 117][375]

第一審の最終弁論にあたり、北野弁護団はこの2人が執筆した原稿を弁論内容に取り入れ、北野の無罪を訴えた[377]。佐木は控訴審途中の1991年9月5日[378]、『男の責任』に加筆削除し、出版後の経緯を織り込んだ文庫本[371]『女高生・OL連続誘拐殺人事件』(佐木隆三 1991)を徳間書店から出版した[374]が、1994年(平成6年)に同書について、当時上告中のMから名誉毀損訴訟を提起され(後述[379]、Mの死刑確定後となる2000年(平成12年)に被告(佐木および徳間書店)側の敗訴が確定している[52]

第一審

富山地方裁判所における第一審公判は、初公判から結審まで192回にわたって開かれ、審理期間は約7年間を要した[19]。このような長期裁判となった原因として、以下の点が挙げられる。

  • 事件当時の捜査に不十分な点が多かったこと[380]。捜査機関側がMの供述を過信し、物証の捜査が後手に回ったため、殺害実行犯や殺害場所の特定に3年以上を要した(後述[381]
  • 決定的な物証がなく、事件解明を両被告人の供述に頼らざるを得なかったこと。また、両被告人が事件への関与を(全部または一部)否認し、両者の間で主張内容が食い違ったり、捜査段階で供述内容を大きく変遷させたりしたことも、裁判長期化の原因となった[19]
  • 事件の関係者・関係場所が富山県外にも多く、出張尋問や泊まりがけの検証を多く必要としたこと[380]。初公判から判決公判までに、現場検証は12回[注 118]、出張尋問は30回におよび、証人として出廷した人数も239人に達した[322]

また、事件発生当初から公判段階にかけ、かつて愛人同士だった両被告人が互いに(特に殺害の実行行為について)「相手が行った」と主張したことがマスコミなどによって報道されたことで、社会的な関心が寄せられた[19]。富山地裁は審理促進を図り、第27回公判(1982年〈昭和57年〉2月)以降、それまで月2回開かれていた公判を月3回に増やし、丸1日を本事件の審理に充てる訴訟指揮を採用したが、被告人Mが自律神経失調症で倒れ、尋問が大幅に遅延するなどした[382]

検察官は公判で、Mの捜査・公判における供述を重要な拠り所として、北野の関与を証明しようとした[5]

両被告人の供述内容の変遷
被告人M 北野
段階 拘置場所 富山事件 長野事件 拘置場所 富山事件 長野事件
第一審 訴因変更前 富山刑務所拘置区 関与を否定(北野の単独犯と主張)[243]。Aについては「事件前に面識があった」と供述[168][132][383]
  • 「2月25日23時30分ごろ、事務所で北野にAを託して帰宅したが、翌日(26日)4時前に北野から電話で『北陸企画』に呼び出され、予想もしていなかった殺害・死体遺棄の事実を知らされた」と供述[147](捜査段階ではこのような弁解はしていない)[153]
共謀を認めたが、「実行は北野」と主張[243]
  • 北野が「日興」から殺害現場に向かった手段については、途中の「木戸交差点[注 60]までタクシーや通りすがりのトラックを使い、その後は徒歩で移動することを決めていた(捜査段階と同様の供述)[205]。Bを殺害・遺棄後、北野を「日興」付近までフェアレディZで送り届け、3月6日6時 - 6時30分の間に別れてから、単身で県道更埴明科線に引き返した[205]
富山刑務所拘置監[361] 全面的に無罪を主張。
  • 富山事件 - Aが殺害・遺棄された時間帯は自宅で妻とともにテレビを見ていた[175]
  • 長野事件 - 当時はホテル「日興」でテレビを見ていた[186]
訴因変更後 1986年(昭和61年)1月13日の第151回公判で、「長野事件の前、北野が深夜にテレビを視聴していたようにアリバイ工作を図るため、ポータブルテレビを北野宅から持参した。3月5日夜、北野は長野駅周辺で路上駐車している自動車を一次盗用し、自身との合流場所まで来る間に、その車内でポータブルテレビを使ってテレビ番組を見ていた」と供述[186]。また、殺害・遺棄後についても「矢越隧道[注 61]から木戸交差点[注 60]までの途中で北野と別れた」と供述[205]
控訴審 初公判 金沢刑務所拘置区[384] 釈放
第22回公判 北野と共謀した上で、誘拐を実行した旨を認める[67]。「Mとは初対面だった」と供述[383] 「北野と共謀した上で、自ら誘拐・殺害・死体遺棄を実行した」と認める[385]

初公判

1980年9月11日に富山地裁(岩野寿雄裁判長)で本事件(被告人:Mおよび北野)の初公判が開かれた[244]。当時の公判担当判事(1981年3月31日まで)は岩野裁判長と浅野正樹(右陪席)・松本久(左陪席)だった[386]。同日、検察官は北野弁護団から共謀の日時・場所および実行犯についての釈明を求められ、以下のように釈明した[387]

富山事件
共謀日時・場所 - 2月23日ごろ、富山市の喫茶店「小枝」[注 32]
実行犯 - 誘拐はM、殺害は北野、死体遺棄は両名
長野事件
共謀日時・場所 - 3月4日ごろ、長野市のホテル「志賀」
実行犯 - 誘拐はM、殺害は北野、死体遺棄は両名、身代金要求はM

続く罪状認否[387]、Mは長野事件について、共謀・実行行為とも認めた一方、富山事件については全面的に否認し、「北野の単独犯行」と主張。また、北野は富山・長野の両事件とも、全面的に関与を否定した[388]。その後、検察官は冒頭陳述で[387]、事件の経緯について以下のように主張した[389]

富山事件
Mは2月25日18時ごろ、睡眠薬「ネルボン」4錠と腰紐を持ち、フェアレディZの助手席にAを乗せて「北陸企画」を出た後、途中でAに睡眠薬を飲ませて眠らせようとしたが、「錠剤は飲めない」と言われたため、疲労させて眠らせた。20時30分ごろに古川町の「エコー」に立ち寄り、21時ごろに店の電話ボックスから北野に電話して、神岡町[注 4]内で待ち合わせる約束をした。23時ごろ、Mは待ち合わせ場所に到着し、20分後にバンでやってきた北野と合流。古川町数河のドライブイン「すごう峠」付近の駐車場で、北野が熟睡していたAを腰紐で絞殺した。
長野事件
誘拐までの経緯
Mと北野は3月2日、「北陸企画」事務所の明け渡しで現金72,000円を手に入れると、山が多くて死体を捨てるのに適している長野県での犯行を決意。3月3日に富山を出発すると、ホテル「志賀」に投宿。翌4日に松本市のレストラン「新橋元庄屋」で食事をし、同所へ誘拐した女性を誘い込むことにしたほか、殺害・死体遺棄場所も下見した。2人は男である北野に嫌疑が掛かることを恐れ、アリバイ工作のため、北野をホテル「日興」で待機させ、深夜に同ホテルを出入りすることにした。そしてMは3月5日にBを誘拐し、「新橋元庄屋」へ連れて行くと、北野に電話した。
殺害と死体遺棄
その後、MはBを「長野に送る」とフェアレディZに乗せたが、「疲れて運転できないから、車で寝ましょう」と言い、Bに睡眠薬をジュースと一緒に飲ませて眠らせ、北野と合流。6日2時ごろに北野が到着し、4時30分ごろに殺害現場(修那羅峠付近)に至ると、Mは車外に出て、周りに人気がないことを確認。北野が熟睡していたBを絞殺し、2人で死体を遺棄した。その後、北野がフェアレディZを運転し(Mは助手席に同乗)、6時30分ごろに打ち合わせ通り、北野だけ「日興」付近で下車し、非常階段から自室に戻った。
身代金要求
3月6日14時前ごろ、2人は長野市内(国道18号国道19号の交差点付近)で合流して東京方面に向かい、同日 - 翌7日にかけ、高崎駅付近の喫茶店「ポンテ」に呼び出したBの姉を「ナポリ」に移動させ、警察官を同店に引きつけている間に富山へ逃走しようと考えた。7日22時ごろ、再び「ナポリ」に電話し、Bの姉に「翌8日正午までに『ナポリ』へ来い」と指示したが、警察官の張り込みの気配を感じ、高崎での身代金の入手を断念。2人で富山方面へ戻る途中、身代金の入手方法について相談し、「機会を見てBの姉を名古屋方面に呼び出そう」と話し合ったが、8日6時ごろに富山に到着して以降、警察の取り調べが行われたため、身代金入手には至らなかった。

検察は初公判前、「Mは犯行を全面的に認め、北野は全面否認する」と予想しており、両被告人の公判を分離することで、Mの審理を早期結審する方針を立てていたというが、Mが富山事件への関与を否認したことから、公判は併合して進められることになった[390]。北野の弁護人を務めた大坪健は、「(もしMが検察の主張通り、富山事件の関与を認め、公判が分離されていれば、検察とMの『北野が実行犯』という主張は共通していることから)Mの裁判でも、北野の裁判でも『北野が実行した』という判決が出ていた可能性が大きい」と指摘している[390]。また、Mの弁護人を務めた澤田儀一は、「Mは裁判の審理場所や、北野の公判での態度・主張に影響を受けていた。もし長野地裁で審理されていれば、Mはそこまで争わなかっただろう」と考察している[390]

同年9月16日の第2回公判で、検察により「主犯」と位置づけられていた北野被告人の冒頭陳述が行われた[391]。同日、北野は「富山・長野の両事件とも、自分は事件当時は現場にいなかった」と全面的に無罪を主張した上で、捜査本部による取り調べで長野事件における共謀を一部認めたとされる点についても「取調官による暴力的・高圧的な取り調べや、でっちあげによるものだ」と主張した[391]

公判の推移

富山事件では、北野が待機していたとされる自宅(小杉町)から殺害現場(数河峠)まで、長野事件では同じく待機場所(長野市内のホテル)から殺害現場(修那羅峠)までの「足」が最大の争点となったが、検察はそれを立証できず、Mが富山事件への関与を否定したこともあって、「北野が殺害を実行した」という主張を立証することが困難な状況に追い込まれていった[56]

1981年(昭和56年)4月1日付で、裁判長を務めていた岩野が岡山地裁家裁へ転出したため、第12回公判(同年4月23日)以降は、大山貞雄[注 119](前任地:岐阜地家裁大垣支部長)が裁判長を務めた[注 120][395]

一方、被告人Mは1981年10月26日 - 27日ごろ、長野事件の現場検証[注 118]に立ち会った際、被害者Bを供養する姫観音像[注 3]に接して以来、精神的・肉体的ともに急変が見られるようになった[396]。Mは1981年10月 - 11月にかけ、未決拘置されていた富山刑務所で2度にわたり自殺を図り(いずれも未遂)[397]、それ以降は富山地裁が富山刑務所に対し、Mを厳重な監視によって保護することを要請したことから、Mの居室にテレビカメラが設置された[396]。また、第24回公判(1982年2月23日)から第92回公判にかけ、Mが再三にわたって体調不良を訴え、公判が中断する出来事もあった[398]。1982年11月には裁判長が職権で、Mが公判に耐えられるかを判断するため、富山医科大学に精神診断を依頼[399]。その結果、「Mは軽い抑うつ状態で、ヒステリーが起きる」「全体的な知能指数 (IQ) は138[注 121]」と診断された[399]。また、遠藤正臣(富山薬科大学教授)は、1983年2月17日付で富山地裁に提出した鑑定書で、Mについて挿間性の意識変化状態(急に頭が茫として倒れるが、短時間で自然に回復する)の既往症や、ヒステリー性人格障害の存在などを挙げ[400]、「ヒステリー反応そのものの性質から、出廷が不能となることは十分考えられる」と指摘している[401]

また、北野の妻は夫の逮捕後も無実を信じて支援を続け、1982年10月31日には富山地裁へ夫の保釈請求書を提出した[402]が、同年11月2日付で却下された。当時、彼女の母親はノイローゼで、彼女は「宏さんが側に居てくれなければ、私はどうにもならないんです」と訴えていたが、保釈が認められなかったことから、北野と離婚している[注 26][403]

北野の足取り

初公判後、検察側は証拠として物証33点[注 122]、書証355点[注 123]を申請したが、被告人・弁護人がほとんどの採用に同意しなかった[注 124]ため、多数の証人申請を行った[404]。被告人Mは、両事件で「殺害実行犯は北野」と主張していたが、富山事件・長野事件それぞれの被害者の死体を司法解剖した解剖医は、ともに「紐で首を絞められた際に被害者が抵抗した痕跡がない。かなり強い力で首を絞められているが、女性にも不可能ではない」と証言した[405]

第一審の段階で、両事件の現場検証は、1981年10月(長野事件)以降[406]、併せて12回にわたって行われた[注 118][411]。富山事件の発生当時、遺棄現場の道路脇には雪の壁(約1 m)があったとされていたため、「女1人で死体を捨てられるか?」と疑問視する声があった[412]が、発見時の実況見分(1980年3月6日)当時の写真により、実際には遺棄現場の真上の雪の壁は50 cmないし70 cm(凹んだところを選べば、女性1人でも死体を遺棄できる高さ)だったことが判明した[413]。この「女1人でも死体遺棄は可能」という実況見分調書は、起訴前には既に作成されていたが、捜査機関側は「女1人でできるはずがない」という予断のもと、「実行犯は北野」という筋書きを組み立てていたため、この調書が証拠申請されたのは、公判の途中で検察側が「実行犯はM」と主張を翻した時だった[291]。また、捜査段階におけるMの「北野がフェアレディZを、自分がバンを運転して(遺棄現場の)町道に入った」という証言も、1982年2月26日に実施された現場検証の結果、車2台を連ねて狭い雪道に800 m入り、Uターンして国道に引き返すという、不自然なものである点が判明した[413]。なお、現場検証の際、富山地裁がムービーカメラによる取材を禁止したことを契機に、新聞協会編集委員会は「法廷のカメラ取材に関する小委員会」を発足させ、1983年3月には「法廷内カメラ取材に関する自主基準」をまとめた上で、それを「法廷内カメラ取材に関する要望書」として最高裁へ提出し、それまで認められていなかった法廷内の撮影が、開廷前2分以内に限って認められるようになった[414]

1984年(昭和59年)3月5日には、修那羅峠など3か所の現場検証が実施された[415]。この現場検証は、Mの「Bを殺害した当時、北野は夜の山道を歩いて来て、自身と合流した」という供述内容があり得るか否かを調べるためのものだったが、当時、Mが「北野が歩いてきた」と説明する道は氷点下にまで冷え込み、道端の林には雪が残っている状態で、同日深夜に実際に現場を歩いた大山は、「重い内臓疾患を患っていた北野が、カーディガンに革靴という軽装でこのような寒い山道を歩き続けることは不可能だろう」と考え、Mの供述に疑念を持った[416]

また、長野[417]・岐阜[407]や、上市簡易裁判所(証人は北野の元妻)[注 26][403]東京地方裁判所での出張尋問も実施され[415]、出張尋問の回数は30回以上を数えた[380]。長野での出張尋問の際には、北野が長野事件の発生時に投宿していたホテル「日興」のフロント係・警備員とも、事件当日(3月5日深夜 - 6日未明)に北野が外出する姿を見ていないことが判明した[418]

1985年(昭和60年)1月8日の第118回公判では、1980年3月31日に行われた北野への取り調べの録音テープ(取調官:遠藤定彦)が法廷で再生された[419]。その概要は、北野が遠藤からの尋問に対し、「自分はMと付き合って2年半、彼女の言いなりになっていた。高崎駅近くの喫茶店で警察官を見た時は、『Mは自分のためにそういうことをしたのか』と思ったが、今でもまだ彼女を恨みきれない。両事件の被害者のことは知らなかった」というもので、弁護団はこの録音テープを「法廷における(北野の)供述と一致しており、無実を証明する貴重な証拠だ」と位置づけていた[420]

秘密の暴露か否か

第17回公判(1981年7月14日)では[398]、検察官が新たな証拠として、警察庁科学警察研究所の鑑定書2通などを申請したが、同鑑定書によれば、Aが着用していたジーパンや下着から、睡眠薬の成分の代謝物が検出された一方、Bが着用していたカーディガンの左肩・襟の裏からはMの毛髪が検出されたが、北野の毛髪は検出されていなかった[421]。これは、検察官による冒頭陳述の「富山事件ではAに睡眠薬を飲ませるつもりだったが、『錠剤は飲めない』というので、睡眠薬を飲ませるのではなく、疲れて寝入ったところを絞殺した」「長野事件では、北野がMとともに殺害・死体遺棄を実行した」という主張とは矛盾するものだった[422]

一方で検察官は、北野が長野事件で取り調べを受けていた際の調書に、「北野はMから『富山事件でAを殺した際、睡眠薬でAを眠らせた上で絞殺した』と聞いた」という記載がある一方、Mの調書には富山事件での睡眠薬使用に関する記載がないことについて触れ、「後に判明した事実に言及した北野の供述は、『秘密の暴露』に当たる」と主張した[381]。これに対し、北野はその調書について、「取調官から『Mが富山事件の際、Aに睡眠薬を飲ませたことは間違いない』と教えられ、誘導されたものだ」と供述し、北野側は「捜査本部は当時、Mが富山事件前に睡眠薬を購入していた事実を把握していた。また、長野事件で被害者Bに睡眠薬が使用されたことを疑い、鑑定を進めていたことから、Aにも睡眠薬が使用されたことは容易に推認し得たもので、秘密の暴露(犯人しか知り得ない情報で、捜査機関が全く知らなかったことが自白によって初めて明らかになったもの)[注 125]には該当しない」と反論した[381]

1983年7月には、フェアレディZ助手席に付着していた尿の鑑定が行われ、血液型からAのものと判明。失禁量などから、(それまで不明だった)Aの殺害場所は、フェアレディZの車内と特定された[注 126][381]。1984年7月には、Bに付着していたMの毛髪の位置が再鑑定された結果、Mが殺害実行犯であることが裏付けられた[381]

「第三の男」の存在

第14回公判では、2月24日20時30分ごろにMが被害者Aとともに立ち寄り、翌25日にも再び立ち寄った[注 40]細入村[注 11]の「キャニオン」の経営者が証人として出廷。検察官による主尋問に対しては、「24日11時過ぎにMが現れ、30分後に北野らしい男と落ち合った」と証言した一方、弁護人の反対尋問に対しては以下のように証言した(以下、漢数字はアラビア数字に置き換えている)。

「25日午前8時30分ごろ、北野とは違う男が、裾を折り曲げたジーパンをはいた娘と現れた。(中略)間もなくMらしい女が現れ、娘が沈んだ様子だったので、男が声をかけた。“大丈夫だから、すぐ慣れるから”。これを聞いて、バーテンがホステスを勧誘していると思った」 — [424]

証人はその男について、「30歳ぐらいでスポーツ刈り、身長160 cm前後」と証言した[425]一方、北野の身長は175 cmであった[426]。この証言を受け、検察官は「Mと北野が接触している」と主張した一方、弁護人は「第三の男が介在している」と主張[427]。1983年3月22日には北野の弁護団が、「両事件ともMの単独犯で、北野は利用されただけだ」とする冒頭陳述書を提出し[415]、第36回公判(同年7月)で以下のように陳述した[413]

(Mは)借金の返済を迫られるうちに、 (19) 80年1月ごろ、「身代金目的誘拐なら女でもできる」と思い立った。北野に対しては、『大宮の仲間と作った詐欺会社で大金を作る、金沢でも土地代金が入る』と話しておいた。2月23日、Mは「土地の話で金沢へ行きカネを受取ってくる」と北野に言った。富山駅へ行きAを誘い、アルバイトの話を持ちかけ、「北陸企画」に泊めた。

24日午前11時ごろ、Aを紹介するため“某男性”に連絡を取った。そして30分後に、細入村の「キャニオン」で落ち合い、3人でアルバイトの話をした。夜になって、MとAと“某男性”の3人は、岐阜県古川町の「大樹」で、ラーメンを食べた。

25日の午前8時30分すぎ、3人は「キャニオン」で会った。このとき“某男性”が、Aに「すぐ慣れるよ」と言った。25日夜、フェアレディZにAを乗せ、Mは岐阜県高山市の方向へ連れ出した。途中でMは、4回にわたって“某男性”に電話をかけたが、不在でつながらない。午後8時すぎ、数河峠の「エコー」[注 35]に入った。このときMは、Aがトイレに立った隙に、睡眠薬ネルボン1錠を、飲み物の中に入れた。

その後ようやく、“某男性”と電話が通じた。100円玉を2回も両替えする長話で、店を出て車に乗ったら、睡眠薬が効いてAが寝たので、用意のヒモで絞殺した。 — [428]

弁護団は、この“某男性”を「北野以外の複数の男性」と主張した[429]。また、第38回公判で被告人Mは、北野弁護団からの質問に対し、「富山事件後、(後述の)タイヤ業者から『警察で調べを受けた』と言われ、『2月24日夜、フェアレディZに女の子を乗せて「北陸企画」へ帰ったのを目撃した人がいる。その子はあなたの知り合いの女の子だと警察で証言してほしい』と頼み、引き受けてもらった」と証言した[430]

1983年1月の第54回公判で、その“某男性”のうち1人(Mと結婚相談所で知り合い、金を貸していた富山市内のタイヤ業者)が出廷した[429]。彼は、富山事件で逮捕される前のMと交際しており、捜査段階でも強い嫌疑を掛けられていた[431]が、2月25日夜に自宅にいたアリバイが証明されていた[432]。彼は法廷で、「2月24日 - 25日ごろは、M以外の女性とは会っていない」と証言した[433]が、「3月10日ごろ、Mから口裏合わせを頼まれたか?」という質問に対しては「『女の子を北日本新聞社の前から北陸企画へ送れ』と私が指示したことにしてくれと(Mから)頼まれ、引き受けた」と証言した[431]。同年8月2日以降、長野事件の尋問が開始される[415]

法廷闘争

第93回公判(1984年4月11日)から第137回公判(1985年)まで、北野への被告人質問が行われた[注 127][398]。しかし、起訴事実に関する被告人質問が続いていた第103回公判(7月24日)の終了直前、大山裁判長は検察官に対し、(弁護側が初公判で不同意とした)「北野調書」43通の提示命令を出し、閉廷後にそれらを閲読した[437]。これに反発した北野弁護団の黒田主任は、第104回公判[438](1984年8月21日[415])の冒頭で、「我々による被告人質問がほとんど終わっていない段階で調書を閲読する裁判官は、『北野有罪』の予断を抱いていると言わざるを得ない」として、大山貞雄(裁判長)・川原誠山田知司の3裁判官を忌避する旨を申し立てた[438]。富山地裁は刑事部の担当裁判官が3人(+民事部3人の計6人)しかいないことから、申立を却下したが、「北野調書」は検察官に返却した[439]

佐木 (1991) はこの出来事について触れ、「(北野の)弁護側は、裁判官が調書を見ながら、被告人質問をする事態を恐れ、忌避申立をした」と[435]、『北日本新聞』 (1988) は「北野の弁護団は1983年 - 1984年にかけ、Mの調書が相次いで採用されたのに続き、両事件の深夜検証が行われたことを受け、『裁判官の心証が「北野実行」へ傾いているのではないか』と危機感を抱いていた」と述べている[440]

また、第107回公判では検察官が、公判を傍聴していた北野の母親(弁護人によって証人申請されていた)について、「被告人(北野)の供述を聞くと、後の証言に不当な影響を与える」として、退廷を要求。それに対し、北野弁護団も富山県警の刑事や、被害者Aの父親(いずれも証人として出廷が予定されていた)を退廷させるよう求めたが、裁判長はいずれも却下した[441]

両被告人の直接対決

一方、北野の関与を主張するMと、無実を主張する北野の間で、応酬も繰り広げられた[442]

第27回公判(1982年4月13日)の冒頭で、北野は約40分間にわたって意見陳述した[443]が、その際に拘置所内で書いた日記を読み上げ[442]、Mを「この清い静粛な法廷に、場違いな悪魔の心を持つ女、Mがいる。悪魔とは知らずに一緒にいたことが恥ずかしい」と非難し、M側の宇治弁護士からの異議や、大山裁判長による制止が入っても「ウソつきの女」「冷酷な女」と激しい非難の言葉を続けた。これに対し、Mは激しく動揺したが、約2か月後の第33回公判(6月7日)で、長野地検の坂井検事による被告人質問の途中で、自由な発言を認められると、泣きながら「自分は初公判以来、北野弁護団から『自分が助かりたいために、北野さんに罪をかぶせている』と言われ続けているが、そんなことは考えていない。富山・長野の両事件とも、自分が罪を被るつもりで自供した」「(北野に対し)少しでも被害者に申し訳ないと思ったら、真実を話して、被害者の冥福を祈ってほしい」と陳述した[444]

一方、第103回公判では、北野が被告人質問で、「富山市内の土地探しや、フェアレディZの購入は、全てMの希望で、自分は交渉役を頼まれただけ」と供述したところ、Mが「あんたの言っていることは、皆ウソじゃないの!」と叫ぶハプニングが起こった[445]

1984年2月8日の第89回公判で[446]、北野が初めて被告人Mに対する対質尋問を行った[415](第92回公判まで)[447]が、互いの主張は平行線をたどった[442]。第180回公判(1986年12月10日)以降[448]、第183回公判(1987年1月14日)まで[449]、Mが北野を尋問した[448]が、北野と共謀したことを前提に質問を繰り返すMに対し、北野が憤慨する一幕があった[450]

冒頭陳述変更

1985年3月5日に開かれた第125回公判で、北野弁護団による北野への被告人質問の終了後、次席検事の松井永一が発言を求め[436]、冒頭陳述の大幅な変更を行った[56]。その内容は以下の通り(全18か所)で[451]、「殺害・死体遺棄の実行行為はMが実行したが、北野も犯行の前や途中に共謀した共謀共同正犯である」と位置づける内容だった[56]

冒頭陳述の新旧対照表
訂正前 訂正後
富山事件
  • 殺害 - 北野が単独で実行[452]
  • 死体遺棄 - 2人(Mと北野)が共同で実行[452]
2月25日夜、Mは高山に向かう途中でAに睡眠薬を飲ませようとしたが、「錠剤が飲めない」というので断念し、疲れを待って自然に眠らせることを考えた[452]。遺留品は翌日(2月26日)14時ごろに処分した[452]
殺害現場はドライブイン「すごう峠」の駐車場[389]
殺害・死体遺棄ともMが単独で実行[452] 2月25日夜、MはAに睡眠薬「ネルボン」を飲ませ、神岡町内で北野を待っていたが、北野が来なかったため、単独で殺害を決意[452]。自らAを殺害して死体を遺棄し、富山市の自宅に帰り、遺留品は翌日朝に処分した[452]
殺害現場は(数河高原スキー場)の駐車場[453]
長野事件 2人は事前の謀議で、誘拐後に松本市内で待ち合わせることや、殺害後にMがフェアレディZで北野をホテルへ送り、Mは現場付近に引き返すことを決めた。その後、Bを誘拐することに成功したMは、Bにネルボンを2錠飲ませ、合流した北野が3月6日4時30分ごろにBを絞殺した[454] 3月3日夜、2人は殺害場所を下見しながら話し合った。この時、北野が「自分も殺害に加わる」と申し出たが、Mは北野の対応の鈍さを指摘し、「自分1人の方が成功するから、ホテルで待っていて」と言った。Bを誘拐したMは、3月5日22時ごろにBに睡眠薬を飲ませ、深夜 - 早朝にかけて殺害・遺棄に適した場所を探して回り、青木村の林道で殺害・死体遺棄を実行。その後、翌日(3月6日)14時ごろに北野と合流し、2人で東京方面に向かった[455]

これは、それまでの公判・証拠調べで富山事件・長野事件とも、発生現場付近で北野の目撃証言が得られなかったことから、北野が実行に加担していたことを立証することが困難となった検察側が、Mの単独実行を積極的に立証する方針で行ったものだった[456]。検察は冒頭陳述変更と同時に、Mの実行を立証するため、71点の証拠(フェアレディZの目撃証言や、長野事件発生時に北野が見ていたテレビ番組の内容など)を証拠申請したが、それらの証拠は、1984年春ごろから洗い直しを進めていたものだった[457]

それでも富山地検(次席検事:松井永一)は、「北野が共謀共同正犯である(事件に加担している)ということに変わりはなく、北野の量刑がMより軽くなるとも限らない」という姿勢を崩していなかった[注 128][456]が、北野弁護団と北野の母親は、「冒頭陳述訂正は、(初公判から)丸5年経っており、遅きに失し、共謀に関する主張を残している点は遺憾だが、Mの供述を嘘と認めるもので、この姿勢は英断と認められる」という声明を出した[注 129][459]。一方、Mの弁護団は「事件から5年が経過し、反証材料を探すのが難しい今になって冒頭陳述を変更するのは甚だ遺憾で、Mの防御権を侵害するものだ」として、冒頭陳述訂正を批判するコメントを出し[460]、続く第126回公判(同年3月19日)でその撤回を求める意見を述べた[461]。しかし、裁判官3人の合議により、冒頭陳述の訂正は認められ[392]、富山地検は同月28日、訴因の変更申請書を富山地裁へ提出[462]。第127回公判(同年4月15日)で[57]、新主張に沿うような訴因変更を請求し[19]、許可された[57]

一方、Mは自身を実行犯とする冒頭陳述変更に反発[398]1986年(昭和61年)1月13日に開かれた第151回公判で、M側は「北野は車にテレビを持ち込み、アリバイ工作をした」などと新主張を展開し、続く第152回公判(翌14日)では、Mの弁護人が「事件は特異かつ悲惨なもので、常人の理解を超えている。少なくとも長野事件に関与したMには精神障害があった疑いがある」として、Mの精神鑑定を申請した[注 130][463]。しかし、Mは体調不良を訴え、後に子宮筋腫および卵巣嚢腫と診断されたため、第162回公判(同年4月30日)以降は一時出廷できなくなり、八王子医療刑務所へ移送されて手術を受けたが[464]、予後が長引き、第一審判決後の時点でも右下肢の機能が不十分な状態になっていた[465]。第170回公判(同年8月25日)で、捜査当時に北野が捜査当時に弁護人と接見した際の録音テープが[398]、法廷で再生され[464]、証拠採用された[398]。接見時の録音テープの証拠採用は、日本の裁判史上極めて珍しいケースだった[466]

第187回公判で、検察官は北野側が不同意としてきた「北野調書」30通について、「任意性あり」として改めて証拠請求したほか、「北野調書」と「M調書」17通についても「特信性あり」として証拠請求した[467]。北野弁護団は、いずれの調書についても「北野は取り調べを受けた当時、ネフローゼで体調を崩し、思考力・判断能力とも減退していた中で『男の責任を取れ』などと高圧的な取り調べや、不当な利益誘導を受けるなどして自白しており、『北野調書』に任意性はない。M調書も、共犯者として北野の名を引き出そうとした取調官に迎合したMが、自分の罪を軽くしようと作り話をしたもので、信用性に欠ける」として、証拠請求の却下を求めたが、1987年(昭和62年)3月30日の第189回公判で、大山裁判長は「いずれの調書も任意性がある。北野への取り調べは、医師の診断結果も踏まえて適切に行われていた。また、公判で両被告人の利害が対立しており、Mについては公判での供述より、検察官の面前調書のほうが信用できる」として、調書を全面的に証拠採用することを決定。一方、M弁護団が被告人Mの情状面から請求していた精神鑑定については却下した[468]

論告求刑

1987年4月30日に開かれた第190回公判で[58]、検察官による論告求刑が行われ、検察官は被告人Mに死刑、北野に(無期懲役)をそれぞれ求刑した[46][469]。富山地裁での死刑求刑事件は当時、1970年2月に発生した幼稚園児の誘拐殺害事件以来だった[注 131][470][471]

論告書は295ページ(約14万字)にわたるもので、髙橋晧太郎(主任検事)・山﨑基宏・門西栄一の3検事が交代で朗読した[472]。検察側はその論告書で、「両事件とも、被害者の死亡推定時刻直前にMと被害者が目撃されていた一方、北野を目撃した人物はおらず、北野は事件当時、居場所(富山事件当時は自宅、長野事件当時は長野市内のホテル『日興』)から殺害現場へ赴くことは不可能だった。富山事件ではMの自供によって被害者の遺留品が発見されたほか、長野事件では被害者の着衣にMの毛髪が付着していたことから、両事件ともMが実行犯と認められる」と指摘し[473]、Mの「富山事件は無罪、長野事件は北野が実行犯」とする主張に反論した[469]。最大の争点となった北野の共謀については、以下のように捜査段階における両被告人の供述調書の信用性を強調した[46]上で、「2人は単なる愛人関係ではなく、共同事業を続け、心身ともに一体の関係にあった」と主張[473]

北野の自白の信用性について
富山地検は、「北野が自白に至った経緯(逮捕後に取調官から説得・矛盾点の追及を受け、共謀を自白した)は自然で信用でき、その内容も合理的だ」とした上で、その内容について検討。以下の点から、「自白の内容は合理的で、『秘密の暴露』も認められる。『Mの犯行に全く気づかなかった』という北野の弁明は信用できず、捜査段階の自白は信用できる」と主張した[473]
  • 北野が富山事件の直前、Mと再三ホテルなどで接触し、Aの誘拐後も再三連絡を取り合っていた点[473]
  • Mと2人で富山を出発する前、Aの両親から娘が行方不明になった経緯を説明され、Aが北陸企画に連れ込まれ行方不明になった事実を把握していたにもかかわらず、それ以降もMとともに行動していた点[473]
  • 富山事件における睡眠薬の使用(公判では1981年5月に初めて判明した)について、北野が捜査段階(1980年4月15日)で自白している点[473]
  • Mが北野との共謀を認め、その自白内容も各証拠と符合しており信用できる点[473]
各種証拠について
富山事件の際、Aが北陸企画事務所から母親にかけた2回の電話の内容や、Mおよび目撃者の話などから、北野がAと接触していた可能性を指摘したほか、長野事件の際には北野が偽名で「日興」の宿泊予約を取り、事件前に2人で聖高原に出向いたことや、B殺害後にMと合流し、(MがBの家族へ身代金要求電話を掛けている間も)埼玉・東京方面を転々としていたことや、ともに身代金受け渡し現場(高崎駅)に同行し、警察官の張り込みの気配を感じて逃げたことなどを挙げ、「北野が共謀共同正犯であることは明らかだ」と主張した[473]
北野の弁解について
北野は「富山事件・長野事件とも自分は無関係で、誘拐殺人のことは知らなかった。Mと同行したのは、彼女から持ち掛けられた金儲けの話を信じたからで、事件が起きている最中に彼女から電話連絡を受けたのも、その儲け話に関する内容だ」と弁解するが、その金儲けの話は全くの虚偽で、北野の弁解も虚偽である。もし、Mがそのような作り話をしてまで、北野に対し誘拐を隠していたなら、なぜ北野を金沢や長野まで同行したのか不可解だ。特に長野事件で、Mが「東京に行く」と言って富山を出発しながら、途中で行き先を長野に変更したり、松本市・聖高原をドライブしてから「東京の男に会う」と外出したのに、まもなく戻ったり、その後、埼玉・東京・高崎などを転々としながら電話したりなどの行動は奇妙で、それに対しなんの説明も求めず、Mの言葉をただ信用して同行したという北野の弁解は不自然・不合理で、明らかに虚構である[473]

その上で、2人を「改悛の情は全く認められず、反社会的性格が顕著だ」と非難し、事件についても、犯行態様の残忍・悪質さ、被害者の無念、遺族の処罰感情、社会的影響の重大さなどを指摘した上で、「犯罪史上まれにみる極めて悪質かつ重大な犯罪。同種事犯防止の見地からも厳罰が必要である」と主張[473]。Mについては「各犯行の首謀者かつ実行正犯で、その罪責は誠に重大だ。罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも極刑がやむを得ない」として、死刑を求刑したほか、北野についても、「いずれもMとの事前共謀の下、各犯行に加担した共謀共同正犯で、刑事責任はMに迫る極めて重大なものだ」として、無期懲役を求刑した[473]。一方、井口泰子や板倉宏日本大学教授)は、検察が北野を共謀共同正犯と位置づけつつ、量刑ではMと差をつけた点[注 132]について、「(北野有罪の)自信がないからではないか」と指摘していた[475]

結審

1987年7月28日・29日の両日に2被告人の弁護人による最終弁論が行われた。

第191回公判(28日)[476]ではまず、被告人Mの弁護人が、約2時間半にわたって弁論を行った[59]

富山事件(無罪を主張)
「誘拐ではなく、北野から頼まれた通り、富山駅までAを迎えに行っただけだ。事件当夜、Aを北野に引き渡して帰宅したが、翌日未明に北野から電話で呼び出され、殺害を打ち明けられた。このようなMの供述は、初公判の2か月前から弁護人に述べていたもので、信用できる」[59]
長野事件(北野との共謀を主張)
「北野は現場付近でテレビを見てアリバイ工作をした。Bのカーディガンに付着していたMの毛髪は、実行行為中に付着したとは限らない」[59]
量刑などについて
「Mは謝罪の気持ちから読経を学ぶなど、反省を深めている。死刑廃止論が高まっていることなどから、懲役刑が妥当だ」[59]

次いで、北野の弁護人は「北野は両事件とも関与しておらず、無罪だ」とした上で[59]、続く第192回公判(7月29日)まで[58]、2日間にわたって弁論を行い、以下のように陳述した。その中では、事件を題材にした小説を書いた佐木隆三・井口泰子がそれぞれ執筆した原稿の一部も朗読された[60]

北野弁護団の主張
「検察が有罪主張の根拠としている北野の自白調書や、Mの供述はいずれも信用できない。北野はネフローゼで衰弱している中、連日夜遅くまで取り調べを受けたり、取調官から『男として責任を取れ』『認めても懲役3年で済む』など、脅迫を交えた甘やった説得を繰り返し受け、調書をM供述と合わせながら作文させられた。Mへの取り調べも、『北野が関与している』との予断を持った取調官と、北野に罪をなすりつけようとしたMが迎合し合い、Mが取調官を騙していく形で進められたものだ」[59]
「北野の『Mから嘘の金儲け話を聞かされ、それを信じて行動をともにしていただけで、誘拐は知らなかった』という主張は、一貫しており信用できる。それを裏付ける第三者の証言も多数得られている」[60]

その後、両被告人がそれぞれ最終意見陳述を行い、Mは「自分は両事件とも、殺害の実行行為はしていない」と訴えた一方、北野は全面的に無罪を訴えた[60]。これをもって、公判は初公判から6年10か月ぶりに結審した[60]

結審後の同年12月7日、北野の母親は長野事件について[注 112]、息子の拘置理由開示請求を行った[478]。結審後の拘置理由開示請求は当時、異例のケースだったが[479]、大山裁判長は同月10日に開かれた法廷で、「北野が長野事件の際、Mと行動をともにしていたこと」「犯行を認めた自白調書があること」「Mから『北野と共謀した』という供述がなされていること」「北野本人が無期懲役を求刑されていること」などを挙げ、「現時点でも北野への嫌疑は肯定でき、事件の性格上、逃亡のおそれがある」と拘置理由を説明した。これに対し、北野の母親と主任弁護人の黒田、そして北野本人は、それぞれ冤罪や早期釈放を訴えた[477]

第一審判決

1988年(昭和63年)2月9日10時から、判決公判が開かれた[21][47]。富山地裁刑事部(大山貞雄裁判長)[注 119]被告人Mを死刑とする一方、北野は無罪とする判決を言い渡した[21][47][481][482]

本判決は、富山地裁では戦後3件目の死刑判決(本庁では2件目)だった[注 131]。身代金目的誘拐殺人による一審での死刑宣告は、Mが戦後11人目で[注 133]、女性としては初めてだった[485]。また戦後、1987年末までに第一審で死刑を宣告された被告人の総人数は全893人(うち、死刑確定は628人)だったが、女性の被告人はわずか10人(893人中1.12%)[注 134]で、Mは第一審で死刑を宣告された戦後11人目の女性となった[486]。一方、身代金・営利目的の誘拐殺人事件で起訴されていた被告人が無罪判決を言い渡され、釈放された事例は、北野が戦後初だった[47]。また最高裁によれば、著名誘拐事件の被告人が無罪になった事例も、北野が初めてだった[487]。佐木隆三 (1995) は、「自分は頻繁に裁判所に通って傍聴取材をしているが、無罪判決を聞いたのはこのときが初めてだった」と述べている[488]

死刑判決を言い渡す際、裁判所は主文宣告を後回しにして判決理由から朗読し始める場合が多いが[489]、大山裁判長は10時の開廷直後[490]、死刑事件では異例となる冒頭での主文宣告を行った[489]。このように富山地裁が冒頭で主文を言い渡した理由について、『読売新聞』 (1988) は「公判中、しばしば自律神経失調症によるヒステリー発作を起こしていたMの健康状態に配慮したため」と報道した[486]ほか、佐木 (1995) は「無罪を言い渡されるべき被告人(北野)への配慮」と述べている[491]。判決文は言い渡しの2日前に完成した[492]が、富山地裁は当日、Mの体調を考慮して要旨と全文の一部だけを朗読し、判決全文(B5判用紙551ページ)は後日、関係者へ配布された[493]

富山地裁 (1988) は、主文朗読に次ぐ判決理由のうち、第1部で被告人Mに対する判断を示し[74]、量刑理由まで述べた上で、第2部(北野に対する判断)に入った[5]。事実認定に関しては、北野の主張の大半を取り入れた「完全無罪」に近い認定で[47]、『北日本新聞』は同判決を「疑わしきは罰せずなどという灰色(無罪)ではない。実に明快な白の断定だった」と評している[494]。公判は、開廷から2時間34分後の12時34分に閉廷[490]。その後、無罪判決を受けた北野は逮捕から約8年ぶりに釈放された[481]。一方、Mは刑務官に付き添われ、護送車で1人富山拘置所に戻った[490]

Mに対する判決理由

正犯性
富山地裁 (1988) は以下のように指摘し、「両事件とも、Mが単独で実行したものであることは証拠上、優に認定できる」と結論づけた[495]
富山事件
「殺害・死体遺棄は被告人Mが単独で実行可能な行為である一方、北野やその他の第三者がMの下に赴いたり、犯行を実行したりした形跡は全くなく、実行犯がMであることに合理的な疑いを容れる余地はない」[154]
長野事件
「Mが身代金獲得の一環として計画し、実行現場にも居合わせたことは本人が認めており、事件前後を含むMの行動状況に関する客観的証拠もその信用性を裏付けている。犯行はMが単独で実行することが十分可能である一方、Mの『北野が途中で合流して実行した』という供述は信用できず、それを裏付ける証拠もない」[495]
Mへの量刑理由
「罪質・結果のみに照らしても、稀に見る凶悪・重大な事案で、動機に酌量の余地はない。被告人Mは、読経写経に勤しみ被害者の冥福を祈る日々を送っている旨を法廷で供述しているが、捜査・公判を通じ、種々の虚言を弄しては北野に自己の責任を転嫁しようと試みており、真摯な反省・悔悟の情を読み取ることは困難だ。連続誘拐殺人事件として本件が社会に与えた不安と衝撃に目を向ければ、同種事件の再発を防止するためにも、Mには極刑をもって臨むほかない」と判示した[496]

北野に対する判決理由

Mの自白調書の信用性
Mの自白調書については、「検察官の主張する通り、『北野と共謀した』という点では一貫性が保たれてはいるが、捜査の最終段階や公判における供述は、いずれも北野を共犯者として名指しし、自らの実行正犯性を強固に否定するもの(=北野に責任を押し付けようとするもの)だ。つとに指摘されてきた共犯者の自白の危険性が一部現実化していることが明らかである」[注 135]と指摘し、「共謀を認める部分についてのみMの供述を信用できる点が存在するか、という角度から問題点を掘り下げるべき」と判示した[231]
その上で、検察官の「Mは取り調べの当初、愛する北野をかばおうとしたが、説得を受けて共謀に関する真実を告白した」とする主張については、「その愛情を抱いている相手に責任を押し付けるような供述に転じた理由に関する疑問を解消する事情は窺われず、押しつけ供述を始める以前から、Mの供述内容は著しく不自然で、共謀に関する供述内容にも看過できない不合理な点が残されている」と指摘[498]。Mが「自身の単独犯」「北野(および、彼以外の男)と共謀した」「自身は関与していない」などと、次々と供述内容を変遷させている[499]ことなどを挙げ、「Mの供述内容には、北野の有罪認定のための証拠として用いるだけの信用性は認められない。虚偽供述と残余部分とを区別して評価できる特段の事情も見いだせない」「捜査時点におけるMの供述全体について、取調官の心証を考慮しつつ自己の供述を巧みに操作し責任の転嫁、軽減を図ろうとする意図に支配されたものであった疑いが極めて濃厚である」と判示した[500]。そして、「このような理解に立脚するときは、Mは、事件後程なく、極刑も予想される犯罪の実行責任を北野に転嫁させようと考えていたということになるから、犯行時点のMが、北野との間に心身の一体性を強く感じていたとする検察官の主張には多大の疑問を禁じ得ない。むしろ、北野の『Mは情を知らない自分を利用し、M自身の刑事責任を免れる意図で、事前の下見や各犯行の前後に自分を伴って行動していた』という主張を、現実的な可能性を帯びたものとして受け止めざるを得ない」と結論づけた[501]
両名の一体性
上述の考察に加え、検察官の「Mと北野は事件前から愛人関係にあり、共同で『北陸企画』を経営するなど、心理面および日常生活面で強固な一体性があった。実行者であるMが、犯行の意図を北野に告知しなかったはずはない」とする主張に対しては、Mが北野と知り合って以降も他の男性と関係を持っていた点や、フェアレディZ購入による借金の推移(Mは金融機関などからの借り入れ分を返済するため、サラ金に手を出すなど困窮していた一方、北野にはそこまで困窮していた事情はなく、Mに助力しようとした様子も窺われない点)および、借金に対する相互認識の差異(Mが多額の借金をしていたことを、北野が知らなかったこと)などから、「2人が事件当時まで、愛人関係を継続し、経済的にも一定限度で利害関係を共通にしていたことは認められるが、Mが北野に対し、一心同体と評価できるまでの一体感を抱いていたとまでは認められない」と結論づけ、検察官の主張を退けた[502]
また、その「検察官の『Mと北野は一体的になり、共謀していた』という旨の主張の論拠は、『北野の自白』を除くと『富山事件の誘拐場所として、北野も経営者として使用していた北陸企画事務所が使用されたこと』『長野事件の際、北野がMと行動をともにしていたこと』に尽きる。それ以外は何の批判的検討もなく、Mの供述に依拠したり、信用性に欠ける関係者の証言内容を根拠にしている」と指摘し[232]、共謀立証の在り方についても厳しい批判を展開した[482]
北野の自白の信用性
#2人の供述内容の変遷に照らし、長野事件では「否認→自白→供述拒否」という経過を辿っており、否認後自白に転じる契機として過剰自白(「自分がBを殺害した」という明白な虚偽自白)が混在していたり、富山事件でも自白と否認との動揺の跡が歴然としており、自白状況が著しく不安定である点を指摘[503]。以下の点も含めて、「自白内容の合理性に関する検察官の主張はいずれも論拠を欠き、かえって供述の真摯性に疑問を抱かざるを得ない事情が少なからず認められ、供述の変遷過程をたどると、その疑いは一層深まるばかりである」と総括した[183]
また、北野が自白に至った経緯についても検討し、「愛人関係にあったMが利得目的に重罪を引き起こし、その間自身がMと行動をともにしていたことや、利得が自分にも還元される可能性が強かったことが要因となり、道義的責任(北野の言う「男の責任」)を抱いていた北野が、捜査官側から心情論的な追及を受けたこともあって、その道義的責任を承認する意味であえて虚偽の不利益事実を自認した疑いが濃厚である」とも指摘した[504]
秘密の暴露の有無
検察官の「富山事件における北野の自白には、睡眠薬の使用に関する『秘密の暴露』が認められる」という主張については、「北野がそのような供述をした当時(1980年4月15日)、Aに対する睡眠薬使用の事実は、鑑定などによって確認はされていなかったが、捜査官が事前にそのような疑いを抱くことなく尋問に臨んだとは思えない。『秘密の暴露』とは、『あらかじめ捜査官の知り得なかった事項で捜査の結果客観的事実であると確認されたもの』のこと[注 125]であり、事前に明確な事実確認ができていなくても、捜査官が当該事実の存在について疑いを抱いていた事項についての供述は、『秘密の暴露』には当たらない」と指摘[505]。先行して捜査が進んでいた長野事件について、Bの遺体に防御創が認められなかったことから、4月4日の時点で薬物使用の痕跡があったかについての鑑定が嘱託され、同月13日にはMがBに対する睡眠薬の使用を認めたこと、翌14日には長野県警の警察官が富山市内の薬局から、富山事件前にMが睡眠薬を購入したことを記録した要指示薬帳面を領置したことを挙げた上で、「捜査機関が両事件の状況的類似性に思い至らなかったはずがなく、宮﨑恪夫警部も『Aも睡眠薬を使って殺されていたと思った』と証言していることから、Aに対する睡眠薬の使用は、(北野が4月15日に自白するより前から)単なる想像の域を越え、具体的な証拠に裏付けられた疑念に高まっていたことが推認される」として、「北野の供述について、秘密の暴露性を肯定し、自白全体に高度の信用性を付与することはできない」と判断した[507]
自白内容の合理性・変遷
北野の供述内容について、「共謀に加わった者であれば当然体験・記憶していると考えられる事項に関する説明の欠落」「共謀を疑わせる客観的事実について、疑問を解消させるに足りる説明が加えられていない点」「共犯関係があったにしては不自然な状況の存在」といった不自然性を指摘した[508]。また、共謀の本体的部分(殺害実行者・身代金額・受け取り場所など)について説明の困難な変遷が見られたり、共謀に加わったなら当然知っているだろう事項について、いったん具体的・詳細な供述をしたのに撤回している点や、極めて短期日の間に具体的説明が変転したりする点などの存在を指摘し、「本件における供述変遷状況は、自白全体の体験供述性を強く揺るがすものである」と判示した[509]
北野の弁解について
一方、北野の「自分はMを『金儲けの上手な女性』と思い込み、彼女から持ち掛けられた(政治資金や土地絡みの)嘘の儲け話を信じて、事件前から(特に、長野事件の発生時期に)行動をともにしていた」という供述の信用性について、「Mからその儲け話の取引相手の素性を説明されていなかったり、政治資金の具体的な集め方[注 136]や、金沢の土地の具体的な所在地・所有者などについても、不明瞭なままMの説明を受け入れていたことになったりなど、北野の弁解にはにわかには信じ難いがある点は否定できないが、それらの儲け話が失敗に終わったとしても、北野にとって失うものは多くなく、Mの動きに便乗していたに過ぎないため、北野の『騙されていた』という弁明も一応成り立たないわけではない。また、北野の『騙されていた』という旨の供述は、逮捕された直後からほぼ一貫して具体的に供述されており、逮捕直後になって思いついた創作とみなすのはいささか困難だ」と指摘[511]。その上で、「北野の弁解を直接裏付ける客観的証拠はほとんどないが、Mの供述内容の不自然性や、長野事件の捜査段階では北野が『政治資金』に関する弁解を(同時期に、『大宮の男から、まともとは言えない種類の金を受け取る』と言って北野を同行させたとする旨の弁解をしたMより)具体的に行っている点を併せて考えれば、Mと事前に口裏合わせが行われたとも考え難い」と指摘し、「Mと北野の供述が符合することは、北野側にとって有利な事情として分類することが可能となる」と判示した[512]

控訴

死刑を宣告された被告人Mは、同日14時5分に名古屋高等裁判所金沢支部控訴[490]。控訴審に当たり、人権派弁護士として著名だった遠藤誠に弁護を依頼したが、断られたため、倉田哲治[注 24]を弁護人に選任した[515]。私選弁護人選任は、Mの元夫が「息子(長男)の母親 (M) が死刑囚では可哀相」と考え、弁護人を探したことによるものだった[516]。また、当時は富山・金沢とも、Mの国選弁護人を引き受ける者がいなかったため、倉田は富山刑務所に拘置されていたMと面会し[517]、弁護を引き受けることとなった。

一方、富山地検も名古屋高等検察庁と協議した上で、「北野を無罪とした第一審判決には重大な事実誤認がある」として、北野について控訴期限の2月23日付で控訴した[62]。『朝日新聞』 (1988) によれば、富山地検や最高検は控訴に慎重な態度だったが、控訴審を担当する名古屋高検は「2人はいつも一緒に行動しており、北野が犯行計画を知らなかったはずがない」と強気な態度で、両被告人の自白調書を精査し、「2人の供述には一致点・矛盾点が多くあり、信用性を突き詰めれば、北野の有罪(2人の共謀)を立証できる」として控訴に踏み切った[518]。しかし、この控訴に対し北野は「検察は反省しておらず、良心もない」と怒りを露わにし、北野を支援していた佐木も「仮に検察の意地、メンツだけの控訴なら、言語道断だ。百歩譲って、被害者感情、県民感情を考慮しての控訴としても、司法の専門家としてあまりにも情けないのではないか。」というコメントを出した[62]

検察の控訴を受け、北野弁護団は第一審と同じ4人(浦崎威[注 103]・黒田勇[注 111]・近藤光玉・大坪健)に加え、新たに松波淳一(富山県弁護士会)、吉村悟(福井弁護士会)、西村依子(金沢弁護士会)の3弁護士が新たに加わり、7人体制となった[519]。また、北野本人は「北野宏を救う会」[注 109]のメンバーや弁護人らとともに、最高検や名古屋高検(本庁および金沢支部)に対し、支援者らの賛同署名を添えた控訴取り下げを求める請願書を提出していた[520]

控訴審

1989年(平成元年)3月29日付で、被告人Mと富山地検の検察官はそれぞれ控訴趣意書を提出した[521]

検察官の控訴趣意書
両被告人に対する第一審の論告(約300ページ)を大幅に上回る506ページにおよんだものだったが、新証拠はなく、以下のように第一審で提出された証拠の再評価を求める趣意だった[522]
M供述の信用性について
原判決は「最終的に北野に自身の責任を転嫁しようとするもので、北野共謀の根拠としての証拠価値はない」と判示するが、それ以前に「Mが北野をかばう供述をするはずがない」という認識に立つ原裁判所(富山地裁)が、Mの供述変遷の理由を説明するために考え付いた仮説に過ぎず、非現実的だ。捜査段階におけるMの「北野と共謀し、自身が実行した」という供述は、その供述に至る過程に原判決が問題とするような不自然・不合理な点はなく、多くの間接事実に照らしても合理的な内容で信用できる[523]
間接事実について
事件前後および、事件の最中に北野はMと行動をともにしていたり、別行動時にもMに電話を掛けたりしている数々の間接事実から、北野とMの共謀は十分推認できる。Mが重大犯罪を行いながら、その犯行意図を隠して情を知らない北野を欺き、将来の責任転嫁を企図して北野を利用するというようなことは、可能性からしてあり得ない[524]
北野自白の信用性について
原判決は「北野はMに対する心理的な負い目から、道義的責任を取るつもりで嘘の自白をしたが、その内容は過程・内容に照らして不自然・不合理だ」として、信用性を否定したが、その判断は実態に則さない単なる推論だ。自白変遷の理由はいずれも理解可能で、自白に至る経緯は自然であり、内容的にも多くの間接事実に照らして合理的で、秘密の暴露もあり、自白は十分に信用できる[525]
北野の公判弁解の虚構性
原判決は「北野の弁解を裏付ける客観的証拠はなく、その内容に当たる話(Mから持ちかけられた儲け話)も虚偽である」と認めながら、「北野がその話を誤信したかが問題で、一概に排斥できない」と判示したが、その弁解に出てきた話そのものが非現実的で、もしMが北野に知られずに本件各犯行を遂行するならば、当初から北野を同行せずに実行すれば良いだけだ。Mと北野の密接な男女関係から言えば、Mがそのような内容の虚言を北野に話す必要はなく、北野がMからその金儲けの話を聞かされていたこと自体が信用できない。(富山事件における)「金沢の土地」の話がもし事実なら、富山事件直後にAの両親と会った際、そのことを話していなかったり、取り調べでもそれに関する主張をしていなかったり、(長野事件における)政治資金の弁解も、取り調べ当初や逮捕直後にそれに関する弁解がなされていない点からも、北野の弁解は信用できない[525]
被告人M自身の控訴趣意書
一連の犯行は北野と共謀して行った。両事件とも誘拐・身代金要求は自身が行い、長野事件でも殺害・死体遺棄は自身が単独で実行したが、富山事件では北野が殺害・死体遺棄を実行しており、自分は直接は関与していない[526]。自身は北野と密接な関係にあり、北野の弁解は虚構で[521]、量刑も不当である[527]
M側弁護人の控訴趣意書
Mの私選弁護人4人(倉田哲治[注 24]・尾嵜裕・野田政仁・西徹夫)は、同月27日付で連名による控訴趣意書を提出した[528]
犯罪事実に関する事実誤認の主張
事件はMの単独犯行ではない。
  1. 検察官の「Mと北野の間には、共同して犯行を行って当然と考えられる一心同体の関係があった」という主張は常識に根拠を置いた有力的なものであり、Mが北野に対し心身ともに捧げ尽くす愛情を抱いていたのは事実で、その一心同体論を簡単に排斥した原判決は、北野の弁解に耳を傾けすぎた誤りがある[526]
  2. 原判決は「北野は捜査官から『男の責任』を取るよう不当に追及され、やむなく自白したと考えられる」としているが、捜査の実情として仮説を立てた追及・心情に訴えての説得は日常的なもので、北野が道義的責任を引き受けるつもりだけで事実に反した自白をしたとは考えられない[526]
  3. 原判決は、一連の事件前にMが実行しようとした保険金殺人未遂を「一連の犯行とは連続しておらず、北野は無関係」としているが、双方事件の類似性と関連性は否定し難い。しかも北野は同事件について、富山・長野両事件とは違い、捜査段階から進んで自白し、その後も一貫して認めていたため、信用性は排除できない。もし北野が同事件に関与していれば、それに続く各犯行について北野が事情を知らなかったことはありえず、北野の共同加功の事実は明らかである[526]
  4. 富山事件では、Mが2月23日夜にAを「北陸企画」に連れて行ってから、25日夜に殺害に至るまでの間、Aが1人で同所に放置されていた時間帯も相当にあり、その間母親に電話する余裕もあったことから、Aが逃げ出して助けを求めることは容易で、誘拐というにそぐわない支配の断続があり、継続して監視下に置かれていたことには疑問がある[529]
  5. 原判決は、犯行動機を「Mが高価なフェアレディZを欲しがって買い、その代金支払いのために負担した借金返済などに給したこと」と認定しているが、購入経緯・代金支払い状況からすれば、(MがフェアレディZを欲しがったにせよ)Mは北野の名義・計算の下に購入しており、原判決の「Mが1人でフェアレディZを購入した」という認定は、「Mの単独犯行」という辻褄を合わせるために事実を歪曲したものである[523]
心神耗弱の主張
原判決は「Mは知能指数が高く、犯行時も責任転嫁を目論んで冷静な打算をできる奸智に長けた女」とするが、犯行は極めて杜撰かつ発作的・衝動的としか言いようがない無計画性が目立つ。その間の落差と、Mが原審(第一審)公判中にしばしば挿間性の異常状態を繰り返した事実を重ねれば、Mは犯行時、心神耗弱状態だったと疑われる。原審で行われた精神鑑定と別に、改めて専門医による精神状態の解明が必要で、そのようなMの症状を無視した原判決には重大な事実誤認がある[523]
  • 弁護団による控訴趣意書には、医師の中谷陽二(東京都精神医学総合研究所)が、第一審で(1983年に)実施された精神鑑定の結果が原判決に反映されていないことを問題視し、Mの犯行時の精神状態を精神医学的見地から再検討することを求める内容の意見書を付した[400]
量刑不当の主張
現在は先進文明国のほとんどが死刑を廃止し、それが世界の潮流にもなっている。たとえMの刑責が免れ難いとしても、死刑は過酷・不当である[523]

その後、検察はMへの答弁書を作成し、提出[530]。北野も同年9月28日付で、検察側が提出した控訴趣意書に対する答弁書を提出した[531]。同年11月初め、被告人Mは富山刑務所から金沢刑務所へ身柄を移された。また、富山・石川・東京などの女性らが、Mを支援し、死刑廃止や公正な裁判の実現、獄中での人権擁護を求めることを目的とした組織「Mさんを支える会」を発足させた[532]。倉田は、初公判前に名古屋高等裁判所金沢支部で打ち合わせが行われた際、裁判長が期日指定と終結の見通しばかりを気にしており、自身が「死刑事件だから、丁寧に審理してほしい」と言っても怪訝な顔をされた旨を述べている[533]

控訴審初公判

1989年11月28日に[534]、名古屋高裁金沢支部第二部[535](濱田武律裁判長)[536]で控訴審の初公判が開かれた[534]。同日の審理に先立ち[534]、両被告人の弁護人は「被告人の防御権が相反する」「死刑と無罪では裁判構造が異なる」として、分離公判を請求したが、同高裁支部は「重大事件なので時間を費やして審理しなければならず、(両被告人の)証拠も共通している」として請求を却下し[537]、2人の審理を併合して進めることを決めた[534]

同日、検察官は控訴趣意書朗読で、「2人は一心同体で、共通の借金返済に苦しんでいた。北野が両事件に加担することは十分認定できる」と主張し[538]、(北野を無罪とした)原判決の事実誤認を訴えた。次いで、被告人Mの弁護人が控訴趣意書を朗読し、事実誤認・量刑不当を訴えた[63]

その後、北野側は検察官の控訴趣意に対し、「共謀を認めた北野の自白は取調官に強要されたものだ。また、Mの供述は北野に責任を転嫁しようとしたもので信用できない。検察の控訴は控訴権の乱用で、違法である」と答弁し、控訴棄却を求めた[63]。次いで、検察官はMの控訴趣意について「北野の存在でMの刑事責任が軽減されるものではなく、心神耗弱の主張も認められない」と答弁した[63]上で、証人11人(うち新証人は2人)[注 137]および5か所の現場検証などを請求した[539]

公判分離

名古屋高裁金沢支部は、まず被告人Mへの被告人質問を行う意向を示したが、倉田はこれに反対し、異議申し立てを行った[540]。これは、高裁支部が第一審の心証をそのまま引き継ぐことになり、今後の審理の展開が不利になることを危惧したためで、検察官もそれに賛同したが、北野弁護団は裁判所の決定を支持[541]。Mへの被告人質問はそのまま行われることとなったが、倉田はこれに抗議の意を示すため、裁判官忌避を申し立てたものの、却下され、最終的に最高裁への(特別抗告)も却下された[542]

一方、Mと接見を重ねていた倉田は、Mの精神の不安定さを察し、M本人からも「医者に診てもらいたい」と要望されたため、第一審で実施された精神鑑定書を持参し、中谷陽二のもとを訪れた[543]。中谷は、「鑑定書に記載されている脳波異常とヒステリー症状との関係は不明であるとしても、脳機能の何らかの障害を示唆するものとして無視できない所見」「現在および犯行時の精神状態について、精神医学的見地から再検討することが是非とも必要」という見解を示した[543]。これを受け、倉田も精神医学的見地から争うことを考えたが、Mや彼女の支援者たちはその弁護方針に反発し、最終的に倉田は弁護人を解任されることとなった[544]

1990年(平成2年)1月23日に開かれた第3回公判から、検察官による被告人Mへの質問が実施されたが、同年8月18日付で[545]、被告人Mは弁護団を結成していた弁護人4人(主任弁護人:倉田哲治)の解任届を提出した[注 24][546]。その後、第13回公判(同月28日)までに新たな弁護人が選任されなかったため、刑事訴訟法の規定[注 138]により、Mについては控訴審の審理ができなくなった[注 139][547]。しかし、続く第14回公判(9月11日)・第15回公判(9月25日)でも弁護人不在の状況が続き[548][549]、第16回公判(10月9日)で、高裁支部はそれ以上の審理の遅延を防ぐため、「次回公判(10月23日)からMと北野の審理を分離する」[注 140]と決定した[550]

第17回公判(同年10月23日)および、第18回公判(同年11月13日)では、北野に対する検察官の質問が行われたが、北野は検察官に対し「不当な控訴により、自分は家族ともども苦しめられている」と訴えた以外、検察官の質問には一切答えなかった[注 141][552]。第19回公判(1990年11月27日)では、検察官が申請していた証人(「1980年2月25日早朝、『北陸企画』前に白いライトバンが駐車してあった」と証言した新聞配達員の女性とその母親)[注 142]が「10年前のことで、(事件当時の)記憶が不正確」として、出廷を拒否[555]。同日、北野の弁護人は裁判官(濱田および井垣敏生・秋武憲一の両判事)[注 143]に対する忌避申立書[注 144]を提出したが、名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)は申立を却下した[559]。一方、検察官は「殺害・死体遺棄の実行者を特定し、2被告人の共謀の有無を判断するために必要」として、事件当時と同じ積雪時に現場検証を実施するよう申請[554]。これを受け、名古屋高裁金沢支部は1991年2月13日に富山事件の現場で[注 145][560]、6月4日 - 5日には長野事件の現場で、それぞれ現場検証を実施した[66]

一方、1990年10月26日には名古屋高裁金沢支部により、Mの国選弁護人が選任された[561]。新たな弁護人は、小堀秀行・押野毅の両名で[注 146][385]、彼らは就任後、金沢刑務所拘置区で面会したMに対し、「事実をすべて私たちに話してほしい」と説得を続けた[563]。また、1991年(平成3年)4月には、Bの遺族から「Mには死をもって償ってもらうしかない」などと書かれた手紙を受け取り、その内容をMに伝えた上で、「事実を隠していては遺族への謝罪にはならない」と説得した[563]。Mは当初、弁護人に対しては「真実を話す」と新供述を口にしつつも、法廷での証言は拒否していたが、2人から粘り強く説得された末に、第22回公判の当日(1991年6月25日)朝になって、2人に「法廷で本当のことを話します」と伝え、その言葉通り「新供述」を法廷で展開した[563]

再併合後

第21回公判(1991年5月28日)で、新たに選任された被告人Mの国選弁護人2人が、それまで無関与を主張していた富山事件について、「北野と共謀した。殺害実行犯は北野」とする内容の控訴趣意補充書を朗読した[66]。その後、両被告人の審理が再び併合され[564]、北野の弁護人は「北野に対する検察の控訴と、Mによる控訴を分離し、新たな証拠調べを行わず、直ちに前者の控訴を棄却する判決を求める」とする意見書を朗読した[565]。一方、Mが長野事件について、第一審から一転して「北野と共謀した」と供述を一転させたため、検察官は長野事件の現場検証を申請[566]

第22回公判(1991年6月25日)で、M側の弁護団がMに対する被告人質問を行った[67]。Mは同日、それまで全面的に関与を否定していた富山事件について、「北野と共謀し、富山駅で初対面のAを誘った。殺害は北野が実行した」と、新たな供述を展開。また、「実行犯は北野」と主張していた長野事件についても、「Bを誘拐後、北野と待ち合わせて合流する約束をしたが、待ち合わせ時間になっても北野が来なかったため、『自分が殺すしかない』と考え、林道に駐車してBを絞殺し、死体を遺棄した」とそれぞれ供述した[383]。このように新たな主張を展開した理由については、「弁護士から、Bの父親から届いた手紙の内容を聞かされ、『自分のことをわかってもらうためには勇気を持って打ち明けないとダメだ』と説得されたから」と話した[67]。また、続く第23回公判(7月9日)では、長野事件のことを11年間偽証し続けてきた理由について、「逮捕前に北野と打ち合わせをし、『自分が両事件とも実行し、北野は無関係』という口裏合わせをしていたが、第一審の意見陳述の際、北野から聞くに堪えない中傷や悪口を言われたから」と述べた[567]

1991年8月31日までに、北野の弁護人は、「なぜ、殺害現場に行かなかったのか-北野の一貫した『嘘話の存在』主張」と題した最終弁論の要旨(3部に分けたうちの第1部)を名古屋高裁金沢支部に提出[568]。この要旨で弁護人は、「Mと北野は、検察官が主張するような『一心同体』の関係にはない。北野はMの金儲けの話に騙され、振り回されていただけで、事件には関与していない」と主張した[569]。その後、「辛酸な冤罪の原因は何か」と題する第2弾と、第3弾(検察主張に対する反論とまとめ)を提出した[568]

控訴審は1991年11月12日の第28回公判で結審[570]。同日の最終弁論で、検察官は改めてM・北野両被告人の共謀を主張し、両被告人への有罪(北野について第一審判決の破棄、およびMの控訴棄却)を求めた一方、北野の弁護人は無罪(検察側の控訴棄却)を、被告人Mの弁護人は死刑判決の破棄(量刑の減軽)をそれぞれ求めた[571]

控訴審判決

1992年(平成4年)3月31日に控訴審判決公判が開かれた[22]。名古屋高裁金沢支部第二部[535](濱田武律裁判長)[536]は、Mを死刑、北野を無罪とした第一審判決を支持し、北野について有罪を訴えていた検察と、自身への死刑を不当としていた被告人Mの双方からなされていた控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[22][572]

名古屋高裁金沢支部 (1992) は、Mが第一審から引き続き殺害を否認した富山事件を中心に事実認定を行った[22]。また、以下の通り、2人が密接な関係にあったことに着目した上で、「Mは事情を知らない北野を利用して犯行におよんだ。その上で、北野が白になるだろうことを利用し、彼と一心同体関係にあった自分自身も白になることを狙った」という判断を示した。『北日本新聞』社会部記者の吉倉和彦や、富山大学教授の駒城鎮一、井口は、本判決を「原判決(第一審判決)以上に、北野の無実を明確に浮かび上がらせた判決」と評価した[573]

富山事件に関する疑問と考察
名古屋地裁金沢支部 (1992) は、被害者Aが2月23日、自宅に帰宅のバス便まで連絡しておきながら「北陸企画」に無断外泊していた点や、24日朝に自宅の母親に電話していた(その時点でMがAを殺害して身代金を得ることまで気としていたならば、その計画が破綻しかねない)点、MがAを「北陸企画」に1人残して外出していたのに、Aが「北陸企画」を出ず、24日朝 - 25日昼まで家族に電話もせずもう一晩外泊したことを「この事実を殺人までも予定していたという誘拐事犯における被拐取者の取扱いとしてどのように解釈したらいいのであろうか。Aにはその間、脅迫、暴行等の外的圧力を加えられ意思に反して自由が拘束されていたような形跡は窺えない」と指摘。さらに、MがAと2人で外出してドライブインなどで食事をするなどしていた点について、「余りにも不用心で大胆にみえるが、これを単に甲の無神経さや杜撰さというような理由で説明することができるだろうかなど、疑問とされる問題点は多いのである。」と判示した[574]
その上で、原判決が「Aは帰宅や待ち合わせの約束を守るつもりだったが、Mによって引き留められていた」と結論づけた点について、Aの電話内容と行動・態度の点から疑問を呈した上で、電話のやり取りについて分析[575]。「Aが無断外泊をしたのは、進学に伴って臨時収入を欲しがっていたところ、Mから非常に魅力的なアルバイト話を斡旋されるなどしたことが考えられる。MはそのAに対し、そのアルバイト話しの成否の鍵を握る『社長』なる人物[注 44]を餌とし、その社長の都合がつかないことを理由にAを引き留めていたと十分考えられる。その間、Aが強制された気配もないのに2日も無断外泊し、家族の心配も知りながら1日以上も電話連絡しなかった不自然・不合理な態度も、Mが自分の犯罪計画を悟られることなくAを事務所に引き留めつつ、自宅への電話連絡を封ずるため、Aに対し『自分で家の方に所在を明らかにしたり、アルバイト話を勝手に喋ったりしたら、折角のうまい話が壊れてしまう』として『自分と社長が直接家までついていって話してやるまで待つように』などと指示していたものと考えれば、Aの態度に関する不審も解消する」「Aが『北陸企画』に連れ込まれてから同所を出て殺害されるまでの間に、北野と直接接触したことを窺わせる状況は電話内容からは認められない。むしろ、仮にMの単独犯で、北野の存在を利用する工作を考えたならば、北野の存在に信憑性を持たせるため、Aに対し(25日の電話までに)何らかの方法で北野の姿を垣間見せるような工夫をしたことも考えられる」と指摘した[576]。また、Mが身代金目的で誘拐したはずのAと2人で外出して食事をするなどした点については、「MはAを誘拐した後も、しばらくは殺害を逡巡していたが、25日夜、Aを『北陸企画』から連れ出す直前ころになってようやく殺害を決意した」と判断した[577]
Mの実行正犯性
原判決の「一連の犯行はすべてMが単独で実行した」とする判示について、控訴審で新たに実施した事実取り調べの結果を合わせ再検討したが、「原判決が挙示する関係証拠から、Mの単独犯行は十分に認定できる。それに反するMの捜査段階および原、当審公判における供述は信用できず、他にこれを左右する証拠や状況もない」と判断した[578]。Mが反論材料としていた以下の点についても、「有力な根拠になりえない」として、主張を退けた。
Mの母親によるアリバイ証言
Mの母親による「娘は2月25日22時ごろに帰宅し、26日早朝に北野からの電話で北陸企画に出掛けた」というM自身の弁解に沿う証言については、「Mの母親は捜査段階ではそのようなことは供述しておらず、公判でもそれを秘匿していたことについて納得できる理由を説明できていない」[579]「本件各犯行を通じて疑われるMの罪証隠滅工作の可能性も考慮すれば、Mが母親に本件の真相を明かさないまでも、自己の罪責を免れるために偽装的供述を頼んだこともありえなくはない」と指摘し、「補強証拠としての価値は認められない」と結論づけた[580]
フェアレディZの燃費と走行距離の関係
M側は「フェアレディZの当時の燃費は、同型車での走行実験によって得られた結果を信用すべき数値として計算すべきなのに、原判決はそれを否定した上で、Mの『いったん北陸企画まで引き返した』という弁解を排斥し、25日の給油から26日までの間に北陸企画から約125 km離れた死体遺棄現場(数河高原)まで1回しか走行していない旨を認定している」と主張していたが、「自動車の燃費は同一車種でも多少の個別差があったり、運転者の技量や当時の具体的な運転方法によって相当の誤差が出てくるのもやむを得ない」と判断し、論旨を退けた[581]
両事件での殺害方法(紐の絞め方など)の違いなどについて
M側は「富山事件と長野事件では、各被害者の死体の状況を見れば、殺害に用いた紐の絞め方や、その後の処置方法が著しく異なっている(富山事件では一重の紐を2周巻き、正面できれいに2回小間結びをした一方、長野事件では2つ折りした帯を左側頸部で乱雑に1回縦結びしている)」と指摘した。しかし名古屋高裁金沢支部は、捜査段階で2人の紐の結び方を知るため、風呂敷を結ばせるなどして観察した結果(Mは小間結び、北野は縦結び)と、殺害実行犯に関するMの自白内容(「富山事件では北野、長野事件では自分」と供述)が逆の結果になることを指摘。「小間結びも縦結びも、決して特異な形態ではなく、2人の結び癖だけでは殺害実行犯は特定できない。一般的に考えても、人を絞殺するという異常な犯行におよぶ際には、当然極度の緊張・興奮状態になるだろうから、その時の犯人が必ずしも日常的な同一行動を取るとは限らない」として、「それぞれ時期・場所・被害者など異なった状況下で行われた本件各犯行における所論指摘程度の食い違いをもって、両事件の犯人を別人と結論づけることはできない」と結論づけた[582]
供述の信用性
以下のように、「両者の供述とも、各事件での共謀を証明するだけの証拠価値はない」とする原判決の判断を追認した[583]
Mの供述の信用性について
Mの弁解内容が捜査段階から二転三転し、内容自体にもいくつもの不自然・不合理な点がある点に加え、Mが控訴審で改めて(それまで否定していた)誘拐を認めた点から、「従前の弁解の虚構性を自分から一部暴露している」と指摘し、その誘拐を「北野との共謀による身代金目的の犯行計画の一環」と言いつつ、当のAを北野に預けたまま「北陸企画」から一時帰宅し、その後に北野が単独でAの殺害におよんだとする主張は変えていない点を挙げ、「逆に事実の流れを不自然なものにしているものだ。いずれにしても、Mの弁解の信用性に消極的評価をする原判決の判断は正当である」と指摘した[579]
その上で、検察官の「Mは捜査当初こそ、北野をかばって自身の単独犯行を主張していたが、やがて『北野と共謀し、自身が実行した』という自白をするようになってから、共謀の存在に関しては一貫した供述をしており、少なくともその点は信用できる」という主張については、Mの供述内容が捜査段階以降大きく変遷し続けたことを踏まえ、「その供述には作為的に虚偽を交える工作された疑いがある上、起訴事実に沿う自白や不利益供述の部分も、供述内容が様々に変動して安定性に欠け、内容的に見ても不自然・不合理なものであり、体験供述性にも欠け、客観的事実にも符合せず、北野の供述とも齟齬する。中には明らかに虚偽の供述も交じるなど、信用性は甚だ乏しい」として、信用性を否定し、「Mは自己の罪責を免れようとして、作為的な供述操作を行ったことが疑われる」と判断した[584]
一方、原判決が「Mが捜査当初に単独犯行を自白したのは、最終的に、北野に責任転嫁する供述を捜査官に信用させるため、捜査当初から意識的に供述を少しずつ変遷させるなど、巧みな操作をしたものであり、北野を愛情ゆえにかばったわけではない」と判示した点については、「全面的には同調できない」として、「最終的に北野が実行犯であるとする責任転嫁供述を行うようになったのは、取り調べを受けるうちに、捜査官の北野への予断の強さを察知し、自らが極刑に処されることへの恐れから、改めて自己保身のために虚偽供述をしたと考えても不自然ではない」という判断を示した[310]
北野の供述の信用性について
北野の供述については、「内容自体が著しく不自然・不合理である。仮にその供述が真実の共謀事実を述べているなら、捜査官は当然疑問点を追及して理由を明らかにするはずだが、それらの不審点の説明は調書にほとんど録取されておらず、『自白そのものが虚構であったため、合理的理由付けが出来なかった』という疑念が生ずる。特に長野事件の場合は、富山事件の失敗を踏まえての再犯行である以上、より緻密かつ周到に計画が練られるはずだが、もし2人で共謀して実行したとなれば、それぞれの役割分担があらかじめ相談され、具体的に決められて当然なのに、そのような形での謀議がなされたことの供述もまるで欠けており、不可解である」と指摘し、信用性に疑問を呈した[583]
そして、「捜査官の取り調べ方法と、2人の密接な男女関係や、本件各犯行の在り方などの中に、本来の刑事責任とは別に道義的責任を取るといった意味での制裁を甘受しようとする心情が形成されていく背景事情も認められるなど、供述の真実性を歪める要因も存在する」と指摘した[584]
北野との共謀の可能性
間接事実
原判決の間接事実に関する事実認定とその評価について、以下のように判示し、「一部について必ずしも同じ見解に立てないものもあるが、全体的に、それらの間接事実が共謀を推認させるには足りないものであるという結論には同調できるし、逆に共謀による犯行に疑問を抱かせる他の状況も認められる」と結論づけた[585]
富山事件の際、北野が「北陸企画」に出向いた事実の有無について
2月25日早朝、北野が「北陸企画」に出向いたか否かの点について、原判決は「共謀の存在に決定的な意味を持つ」としつつ、その可能性を否定する旨を認定していたが、その点については「原審で『北野のバンが北陸企画前に駐車してあった」と証言した女性の証言・供述内容を鑑みれば、北野がMの電話に応じて北陸企画に出向いた事実は否定し難い。しかし、北野の『その時は、事務所では誰にも会わなかった』という供述(=当時、誘拐したはずのAがいる場所まで行ったが、何もせずに帰ってきたことを意味する)も考えれば、これはかえって北野が犯行には関与していなかったことを推認させる情報とみなさざるを得ない」と判断した[585]
Mと北野の関係性について
Mと北野の関係性(検察官が「一心同体性」があったと主張していた)については、原判決の「北野は長野事件の際、一緒に富山を出てから富山に帰るまで終始Mと行動をともにし、Mが身代金要求電話を掛けた際にその近くにいたり、高崎駅(身代金受領現場)まで同行して警察官の気配で逃げ出すなどしたのは、一般的に見れば、両者の共謀を示す間接事実とも取れるが、Mは警察の目をくらましたり、責任を転嫁するなどの目的で、情を知らない北野を利用するために同行させていた可能性がある」という判示について、「これは検察官も反論するように不自然・不合理に過ぎる推論で、(最終的に極刑も予想される重罪の刑責を)無実の北野に被せることは、北野本人の了解なしにはまず不可能で、そのように見込みがない企みをMが画策していたとは信じ難い」と指摘した[586]
その上で、「検察官が主張するように、本件は『Mは一切北野と無関係に犯行におよぶか、情を明かして共同で行うかのどちらかであって、その中間(北野を終始同行させ、欺き続けながら犯行におよぶ)といった事態は考えられない』という主張にも賛成できない。2人の密接な男女関係を前提に、証拠上認定できる多くの間接事実や、捜査段階におけるMの言動、北野の発言(弁護人との接見時や、公判での弁解で述べられた『Mから聞かされた嘘の儲け話』)などを総合して勘案すると、原判決の推論とは違った意味合いで、Mが『情を知らない北野の利用』を企んだ可能性は十分に存在すると考えられる。つまり、検察官が否定するところの『北野はMの策謀により、その存在や行動を利用された』という疑いが濃厚だ」と指摘[587]
その内容については、「Mは北野に対し、犯罪計画を打ち明けることなく、他の口実で同行を求め、運転の便宜や心身の安らぎを求めることなどの協力をさせる以外にも、自身とほとんど同一行動を取らせはするが、肝心の犯行は自身が単独で実行し、北野には関与させないでおく。その後、犯行が発覚しそうになったら、2人の男女関係や行動から、『当然、2人が共同で犯行におよんだはずだ』と思い込み、疑って掛かるだろう捜査官の常識的な予断を利用し、北野に容疑を向けさせる。当然、何も知らない北野は『全く身に覚えがない』と本気で弁明することが期待されるし、現実に事件にも関与しておらず、彼の犯行を裏付ける直接証拠も存在しないばかりか、完全なアリバイさえも成立する場合もあり、最終的に有罪にされる心配はない一方、Mの方は『北野と一体的な関係にある』と思い込ますことで、捜査官の追及を言い逃れる……といった策謀をもって行動したことが、極めて強い可能性を持って浮かび上がってくる。つまり、原判決が推論する『無実の北野を犯人に陥れる(黒)代わりに自身が罪を免れる(白)』という形での罪証隠滅工作(「犯人工作」)ではなく、逆に自分たち2人の一体性を利用し、犯行に直接関係していない北野を容疑者に仕立てて注目させ、彼に影武者的役割を果たさせて捜査陣を惑乱させ、最後には北野が無実になるだろうこと(白)に乗じて、M自身も刑責を免れよう(白)という効果を狙った二個一戦術ともいえるような企み(「容疑者工作」)を狙った余地もある。諸般の状況を合理的に推理すると、むしろその可能性は非常に高いものと思われる」という判断を示した[587]
また、「原判決は、Mと北野の共謀を否定し、Mの単独犯であることをいうため、犯行の背景・動機面でMの独自性を強調し、当時の2人の男女関係の実態を消極的に眺めすぎたきらいがある。富山事件以前の2人の愛情・日常生活面での関係は、(一心同体か否かは別にして)相当に密接な男女関係にあったことは否定できず、Mが動機の1つとして、北野のため(病気治療費の捻出など)や、彼との関係の維持継続にも役立てる必要資金を手に入れる意図でもあったことはあながち排斥もしにい。両者の借金も、互いに解決すべき問題と意識していたことが推認でき、原判決の犯行動機に関する判示(M自身の借金返済のみが理由)は必ずしも支持できない」と、原判決の判断と異なる判断も示したが、その点についても「事実誤認とまでは言えない」と結論づけた[8]
以上のような判示を踏まえ、「いずれの事件もMの単独犯として、北野を無罪とした原判決は相当である」と結論づけ、Mや検察官の論旨を退けた[313]
心神耗弱および量刑不当の主張について
公判中、Mが健康状態を損なったことを認めた一方で、原審で行われた精神鑑定の結果や、Mの犯行時および捜査官からの取り調べを受けている段階の言動から、「心身の異常を示すものは認められず、犯行時から現在に至るまで、心神耗弱状態だったとは認められない」と判示した[588]
量刑面については、最高裁が示した死刑選択の是非に関する基準を踏まえ、「この基準に基づき、死刑を選択することに異論の余地がないほど犯情が悪質な者に対し、ことさらその運用を避け、運用面で事実上の死刑廃止を図ることは許されない」とした[588]上で、「各犯行の罪質、動機、態様その他すべての量刑因子を見ても、悪質さ重大さの度合いは、それ自体凶悪犯罪とされる同種類型の中でも際立っており、もはや情状酌量の余地は全く認められない極悪の犯行と位置づける以外にない。死刑制度そのものを否定しなければ、本件のような事案につき、死刑の選択を避ける量刑を妥当とする立場があるとは思えず、近時の量刑動向が死刑の選択に慎重の度合いを深めている現状を参酌しても、本件で被告人 (M) を死刑に処するのは誠にやむを得ない」として、M側の論旨を退けた[589]

北野の無罪確定

名古屋高検は北野の無罪判決について最高検と協議した結果、適法な上告理由(憲法違反および最高裁判所の判例への違反など)が見当たらないことから、上告を断念[590]。これにより、上告期限が切れた1992年4月15日0時をもって北野宏の無罪が確定した[591]

無期懲役以上が求刑された重大事件で、一審・二審とも無罪になった事件は、「日石・ピース缶」爆弾事件(検察側が上告を断念し、無罪が確定)以来、2例目だった[592]

上告審

一方、被告人Mの弁護人は1992年4月2日付で、M本人も翌日(4月3日)付で、それぞれ最高裁判所上告[70][71]。Mは同年8月5日、金沢刑務所拘置区(金沢市)から名古屋拘置所へ移送された[384]。名古屋高裁金沢支部は北野の刑事補償(後述)などの手続きが完了し次第、第一審の記録122冊と、控訴審の記録13冊(段ボール箱20箱分)を最高裁に送った[593]

Mの弁護側(弁護人:浦部和子、成田龍一、野田房嗣)は1994年12月26日付で[594]、最高裁第二小法廷に上告趣意書を提出した[595]。全359頁におよぶ上告趣意書の内容は、事実誤認(Mの実行正犯性の不存在・北野との共謀の存在など:上告趣意書23-306頁)[596]、審理不尽(同307-315頁)、量刑不当(同316-318頁)、死刑制度や死刑執行の違憲性(同319-359頁)を主張するものであった[597]

1998年(平成10年)6月26日、最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で、(上告審の公判)(弁論)が開かれた[注 147][342]。上告審における新証拠はなく、弁護人(弁論要旨の陳述:成田龍一)は第一審・控訴審と同じく、北野との関係の緊密さや、経済面での一心同体性などを挙げ、北野との共謀を強調[342]。「富山事件は北野が殺人・死体遺棄の実行犯で、Mは被害者Aの遺品を捨てただけだ。長野事件も『北野との共謀はなく、Mの単独犯行』とした原判決(および第一審判決)には事実誤認がある」と主張した[599]ほか、死刑およびその執行方法を含む死刑制度についても[注 148][600]、「憲法の保証する(生命権)を害するもので、違憲である」と主張[342]。また、「Mは犯行時、(心神耗弱)状態で、多重人格の疑いもあったが、原審は精神鑑定を却下するなど、審理を尽くしていない」「Mは深く反省しており、死刑は重すぎる」と、審理不尽および情状面も訴え、無期懲役への減軽を求めた[342]

Mの死刑確定

1998年9月4日、被告人Mは最高裁第二小法廷(河合伸一裁判長)で上告棄却の判決を言い渡された[73][602][11]。これを受け、判決の訂正を申し立てた[注 149][77]が、その申立も同年10月7日付の第二小法廷決定[事件番号:平成10年(み)第4号、平成10年(み)第5号]によって棄却され[605]、同月9日付[注 150]Mの死刑が確定した[72][57]

富山県内で発生した死刑確定事件は、本事件が戦後4件目で[注 131]、戦後の日本で女性の死刑が確定した事例は、Mが7例目だった[83]。また、永山判決(1983年7月8日:第二小法廷判決)以降に判決が確定した身代金目的誘拐殺人事件としては初めて、殺害された被害者が複数名にわたる事件でもあった[注 151][613]

犯行に用いられたフェアレディZは事件後、押収品として富山地裁の車庫に保管されていたが、Mの死刑確定後となる1999年(平成11年)初秋、19年ぶりに車庫から出され、元の持ち主である北野に押収品還付された[614]。北野は同年、『FRIDAY』(講談社)の記者から取材を受けた際、このフェアレディZ(当時の走行距離:18,897 km)を売却し、その金を「困っている人に寄付」したい旨を明かしている[614]

遺品返還問題

死刑確定を受け、富山地裁は被害者の遺品の還付手続きを行ったが[615]、還付先は被害者遺族ではなく、死刑囚Mだった[616]。これは、「贓物を除き、押収品は被押収者に返却する」[615]という最高裁の判例(1990年)[注 152][618]に基づいた措置である[619]。贓物については、刑事訴訟法(第124条)で被害者への返還が規定されていた[619]が、押収時の所持者=本来の所有者とは限らず、本来の所有権者を特定することが困難な事例も多かったため、そのような事例については便宜上、所持者に返還することを認めた判例だった[注 153][618]。法務省刑事局は、一連の問題を受けて「法律上、被押収者の異論がなければ押収物は被害者に戻せるわけであり、実務の中でもうまく運用し適正に処理されていると思う」とコメントしていた[621]

富山地裁は1999年6月、死刑囚Mに対し、事件での押収物を還付する通知書を送り、還付請求権の有無の確認を求めたが、この時点で遺族側が押収物の返還を希望していることを把握していたため、文書には請求権の放棄を促す内容を添えていた[注 154][622]

結局、Mは同年7月、「車検証と自賠責保険証を知人男性に返す以外は、再審請求の鑑定対象物」[620]「(被害者の遺品は)再審請求に必要」として還付を求めたが、「必要ないものは遺族に返還することも考慮する」と地裁に回答[622]。地裁は同月31日[623]、裁判で証拠品とされていた被害者Aの遺品65点(衣類・ブローチ・時計など)について、死刑囚Mを被押収者と認定し、Mに遺品を返還した[624]。名古屋拘置所はその直後(8月3日)、Mの願い出に基づき、31点を廃棄処分にした{"@context":"http:\/\/schema.org","@type":"Article","dateCreated":"2023-05-24T04:01:14+00:00","datePublished":"2023-05-24T04:01:14+00:00","dateModified":"2023-05-24T04:01:14+00:00","headline":"富山・長野連続女性誘拐殺人事件","name":"富山・長野連続女性誘拐殺人事件","keywords":[],"url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/富山・長野連続女性誘拐殺人事件.html","description":"富山 長野連続女性誘拐殺人事件 本記事の主題事件で無罪が確定した元被告人の男性 北野宏は 雑誌 VIEWS 講談社 へ実名で事件に関する手記を寄稿 1 2 しており 削除の方針ケースB 2の 削除されず 伝統的に認められている例 に該当するため 実名を掲載しています この項目では 犯人として死刑が確定した女性死刑囚Mの実名は記述しないでください 記述した場合 削除の方針ケースB 2により緊急削除の対象となります 言及する際は Mとして記述してください とやま ながのれんぞくじょせいゆうかいさつじんじけん は 1980年 昭和55年 2月 3月にかけ 富山県と長野県で相次いで若い女性2人が 女M T 以下 M 各事件当時34歳 199","copyrightYear":"2023","articleSection":"ウィキペディア","articleBody":"本記事の主題事件で無罪が確定した元被告人の男性 北野宏は 雑誌 VIEWS 講談社 へ実名で事件に関する手記を寄稿 1 2 しており 削除の方針ケースB 2の 削除されず 伝統的に認められている例 に該当するため 実名を掲載しています この項目では 犯人として死刑が確定した女性死刑囚Mの実名は記述しないでください 記述した場合 削除の方針ケースB 2により緊急削除の対象となります 言及する際は M","publisher":{ "@id":"#Publisher", "@type":"Organization", "name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az", "logo":{ "@type":"ImageObject", "url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/logo.svg" },"sameAs":[]}, "sourceOrganization":{"@id":"#Publisher"}, "copyrightHolder":{"@id":"#Publisher"}, "mainEntityOfPage":{"@type":"WebPage","@id":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/富山・長野連続女性誘拐殺人事件.html","breadcrumb":{"@id":"#Breadcrumb"}}, "author":{"@type":"Person","name":"www.wiki2.ja-jp.nina.az","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az"}, "image":{"@type":"ImageObject","url":"https:\/\/www.wiki2.ja-jp.nina.az\/assets\/images\/wiki\/74.jpg","width":1000,"height":800}}