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大関

大関(おおぜき)とは、大相撲力士の地位の一つ。横綱の下、関脇の上。三役の最上位。幕内に属する。

現役大関の貴景勝

概要

「大関取」が語源とされ、明治中期までは力士の最高位であった。本来「三役(力士)」とは「大関・関脇小結」を指し、大関は三役の最上位であるが、制度上の特権も多く、関脇や小結とは区別して扱われることが多い。本場所では幕内力士として15日間毎日取組が組まれる。

江戸時代の大相撲初期からある地位であり、必ず最低2名(東西1名ずつ)はおかれなければならない。江戸時代には大関に適した者がいない場合など看板大関といって、ただ大きくて見栄えがするというだけの理由で名前だけの大関にしたケースが多かった。その後、大関の上にさらに地位として付け加えられた横綱と共に、その地位(昇進および陥落)を厳密に管理されるようになった(後述)。そのため、実力者が不在のときは大関が1人以下になるが、その場合は横綱が「横綱大関」と名乗って形式上は大関を兼ねる。横綱も含めて1人以下になった場合は関脇以下から補充しなければならない。現在までのところそのような事態は発生していないが、1横綱1大関となっていた2023年3月場所にて大関・貴景勝が3勝3敗で途中休場したため、同年5月場所にて貴景勝が負け越し、かつ昇進の目安を満たす力士が出なければその事態が発生する[注釈 1]。なお現理事長の八角は、大関空位時の関脇以下からの補充に関しては否定的な見解を示している[1]

大関昇進後の待遇としては、協会から支給される月給250万円となり[2]、関脇の時よりも大幅に増える。また両国国技館の地下駐車場に直接自家用車を乗り入れ、駐車することも可能となる[注釈 2]。さらに、海外場所など、協会の公式の移動においては、飛行機ファーストクラス、鉄道(新幹線)ではグリーン席グランクラスは不可)に座ることができる。化粧廻しの馬簾の色に紫を使えるのも、基本的には大関以上の特権である[注釈 3]。国技館では、原則大関以上の力士がプロデュースした弁当が販売される[注釈 4]。また師匠の了承があれば、引退後1年以上の経過をもって部屋を新設することもできる(これについては引退時に大関から陥落していた場合であってもこの権利は維持される)。

日本国籍を持つ大関力士は、協会が財団法人であった時代には、評議員として役員選挙の投票権をもっていた。横綱・大関の日本国籍をもつ力士の中から、地位・年齢を加味して4名まで選出されていた。この権利は、協会が公益法人となったときに廃止された。

大関への昇進

番付編成を所管する(審判部)が、ある力士を大関に昇進させたいと判断した場合、審判部長が日本相撲協会理事長に当該力士の大関昇進の可否を審議する臨時理事会の開催を要請し、理事会での審議の結果、当該力士の大関昇進が決定すると、協会から使者が当該力士のもとへ派遣され、昇進伝達式が行われる。当該力士は、翌場所の番付発表を待たずに、この時から大関として扱われる[3]。よって昇進伝達式の後、翌場所の番付発表までは、大関ではあっても同じ大関の中での順位(東か西か、あるいは正位か2枚目以降(以前の張出)か)がまだ発表されていない状態となる(ただし近年のケースでは、翌場所の番付では新大関は角番大関の有無に関わらず原則同じ大関の中で最下位となる)。大関の推挙は、理事会の賛成を経て満場一致でなければならないとされ[4]、理事会で異議があったとしても昇進者は慣例的に「満場一致で賛成」された扱いとなる[注釈 5]。現行制度下では理事会において大関昇進が否決された例はなく、審判部長が臨時理事会の開催を要請した時点でマスコミ報道においては大関昇進が内定していると扱われている。

なお、関脇が大関の地位を狙うことを「大関取り」と呼ぶ。協会内では「昇進の機運」という表現が用いられる[5]。場所前から「大関取り」の話題が持ち上がることもあれば、場所前は「大関取り」と見られていなかった力士が好成績のため場所途中から「昇進の機運」が急浮上する事例も見られる。

昇進の目安

大関昇進については横綱昇進における横綱審議委員会の内規のような明文化された基準は特になく、マスコミが推測するおおよその目安も時代により変化している。もっとも、「(番付は生き物)」の語が示すように、協会は一貫して協会が目安を持っていること自体を否定して[注釈 6]、勝星数だけでなく相撲内容や印象(特に優勝の有無や直前場所の成績[注釈 7]等)、番付編成上のバランス等も含めて総合的に判断される。そのため、勝星数で過去の例を下回りながら大関に昇進した力士、勝星数で目安を満たしながら大関に昇進できなかった力士が少なからず存在する[6]

年6場所制施行〜昭和50年代半ば

昭和期においては「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が30勝以上」が大関昇進への目安とされてきた[7]

1961年(昭和36年)5月場所を終えた北葉山の直前3場所は、8勝-9勝-11勝の合計28勝、1966年(昭和41年)7月場所を終えた北の冨士(当時・のち北の富士)の直前3場所は、8勝-10勝-10勝の計28勝でそれぞれ大関昇進を果たしている。この両名が年6場所制施行後では大関昇進直前3場所の最少の勝星数である。北の冨士の場合、当時大関が豊山1人という番付上の都合があるとされる。

1975年(昭和50年)1月場所を終えた魁傑の直前3場所は、7勝-12勝(優勝)-11勝の合計30勝だが、3場所前は関脇の地位で負け越していた[8]。これも当時貴ノ花のみの、一人大関という事情があった為といわれる。その後魁傑は1976年(昭和51年)1月場所に大関で2場所連続負越しにより、関脇以下の地位へ陥落。それから7場所経過の1977年(昭和52年)1月場所後に、14勝((平幕優勝))-11勝-11勝の合計36勝の好成績を挙げ、大関再昇進を達成する。しかし、1977年9月場所に又しても大関で2場所連続負越を喫し、関脇以下へ再降格となった。

一方、1957年(昭和32年)11月場所を終えた琴ヶ濱は直前3場所を12勝-11勝-10勝の合計33勝を挙げ、当時の目安を大きく超えた成績であったが直前場所が10勝留まりだった事などが評価を下げ、昇進できなかった。翌1958年(昭和33年)1月場所後を、11勝-10勝-11勝と全て関脇の地位で計32勝としたが再度見送られる。しかし次の3月場所を終え、関脇で直前3場所を10勝-11勝-13勝(優勝同点)の計34勝を挙げ、同場所で優勝決定戦に進出したことが評価されてようやく大関昇進を果たす。

1972年(昭和47年)3月場所を終えた長谷川の直前3場所は、全て関脇で8勝-10勝-12勝(優勝)の合計30勝を挙げ、目安を満たしかつ直前場所で優勝したが、この場所12日目の大関同士の一番(琴櫻-前の山戦)が相撲競技監察委員会から初の無気力相撲の警告を受けた[9]ことから場所終盤の話題はそちらに集中し、長谷川の大関昇進の機運は全く盛り上がらなかった[10]。次の5月場所も長谷川は直前3場所を10勝-12勝(優勝)-8勝の計30勝だったが再度見送られ、その後の長谷川は好成績を挙げられず、結局大関昇進は果たせなかった。

昭和50年代半ば〜平成初期

長谷川の例以降は、大関の資質や目安が昇進の問題にされる事例はしばらくなく、このころは、「30勝以上」からのちの「33勝以上」へと目安が変化する過渡期であるといえる[11]

1980年(昭和55年)3月場所を終えた増位山(太)は直前3場所を8勝-11勝-12勝の計31勝、1981年(昭和56年)9月場所を終えた琴風は直前3場所を9勝-10勝-12勝(優勝)のこちらも計31勝であるが、増位山の場合は当時大関が貴ノ花1人だけ、琴風の場合は大関不在という番付上の事情が絡み、大関昇進を果たしている。1985年(昭和60年)7月場所を終えた大乃国は、直前3場所を9勝-10勝-12勝の合計31勝であったが、「連続6場所関脇を守った」「横綱・大関とほぼ互角の力がある」ことが評価され、特に異論なく大関昇進を果たしている。

その一方で、1986年(昭和61年)5月場所を終えた保志(当時・のち北勝海)は直前3場所が8勝-13勝(優勝)-11勝の合計32勝を挙げたが、12日目に北尾(当時・のち双羽黒)に敗れ4敗目を喫し優勝争いから脱落、また当時5人も大関が居たために大関昇進を見送られる(この時点では前例の無い「6大関」を極力回避したい相撲協会の思惑があったためとも言われた)。だが翌7月場所では終盤迄優勝争いに加わり、保志は12勝を挙げ直前3場所を13勝(優勝)-11勝-12勝の合計36勝の好成績を残し、当場所後に文句無しの大関昇進を果たした(同時に北尾改め双羽黒も大関から横綱へ昇進したため、結果「6大関」は実現しなかった)。

さらに、1987年(昭和62年)3月場所の小錦が直前3場所を10勝-10勝-11勝の合計31勝を挙げるも、同場所前半戦で4敗し大関昇進は早々に消滅。翌5月場所の小錦は12勝で、直前3場所を10勝-11勝-12勝の合計33勝の成績により、当場所後ようやく大関昇進を果たす。小錦の場合も当時5大関がおり、昇進に高レベルの成績が求められていた(同じく大関・北勝海も横綱昇進を果たし6大関は成らず)。そして、同年7月場所も旭富士(現・伊勢ヶ濱親方)も同様直前3場所を10勝-10勝-11勝の合計31勝としたが昇進できず、翌9月場所に12勝で直前3場所を10勝-11勝-12勝の合計33勝とし、同場所後大関昇進を果たした(同時に大関・大乃国も横綱昇進し、次の11月場所は1918年(大正7年)5月場所以来69年振りの「4横綱4大関」の番付となる)。

平成初期の特殊な例として、琴錦(現・朝日山親方)は1991年(平成3年)9月場所は前頭5枚目で13勝2敗で優勝、小結に戻った11月場所も終盤まで2敗で優勝を争い、二子山理事長(元横綱初代若乃花)は「二場所連続優勝なら、大関昇進を考える余地がある」[12]と発言した。当時は横綱の休場、引退が相次ぎ、世代交代の時期に入っていたことが背景にある。結果、琴錦は千秋楽に破れて12勝3敗、優勝を逃して昇進はできなかった。なお琴錦はその前の1991年(平成3年)1月場所を終え、直前3場所を9勝(小結)-10勝-11勝(2場所関脇)の計30勝とし、旧目安ならば満たしている。ほかにこの時期に旧目安を満たしながら大関昇進を果たせなかった力士は栃乃和歌(現・春日野親方)がいる(1992年(平成4年)3月場所を終え、直前3場所を全て小結の地位で10勝-8勝-12勝(優勝次点)の計30勝)。

1993年(平成5年)5月場所を終えた若ノ花(勝、当時・のち若乃花(3代))は10勝-14勝(優勝)-10勝の合計34勝だったが、昇進を見送られた。理由は、3場所前が平幕の地位(前頭3枚目)だったことや、大関取りが掛かった5月場所は新関脇だったこと、さらに同場所千秋楽で大関の小錦に敗れて5敗目を喫した事情などが挙げられた。しかし、翌7月場所は直前3場所が全て三役(小結・関脇)の地位で、14勝(優勝)-10勝-13勝の計37勝の好成績(大関昇進3場所前の計37勝は、1983年(昭和58年)5月場所後に昇進した北天佑らと並ぶ最多勝数タイ記録)により、当場所後に大関昇進を達成した。

1996年(平成8年)5月場所を終えた武双山(現・藤島親方)は、全て三役の地位で10勝-12勝-10勝の合計32勝を挙げるも、大関昇進は成らなかった。原因として、直前場所が10勝止まりで昇進目安である合計33勝以上に足りなかったこと、また同場所の13日目で5敗を喫し、優勝争いから脱落した事などだった。翌7月場所も引き続き大関取りだったが、7勝8敗と負け越して完全に振り出しに戻る。それでも、4年後の2000年(平成12年)3月場所後に、三役で10勝-13勝(優勝)-12勝(優勝次点)の3場所合計35勝の成績で、ようやく大関昇進を果たした。

1995年(平成7年)1月場所から1997年(平成9年)1月場所まで、魁皇(現・浅香山親方)は当時歴代最長となる関脇の地位を、13場所連続で保持していた。だが、最高でも3場所合計30勝に留まっており、大関昇進の機会を何度も逃していた。しかし、7度目の大関挑戦だった2000年7月場所において、三役で8勝-14勝(優勝)-11勝の合計33勝を挙げ、当場所後ついに魁皇は念願の新大関と成った[13]

平成中期以降〜末期

平成中期以降においては、大関昇進の目安は「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」で定着している。

大関に昇進した例では、1999年(平成11年)1月場所を終えた千代大海の直前3場所の成績は、9勝-10勝-13勝(優勝)の合計32勝であったが、直前場所の千秋楽で横綱・若乃花相手に本割り・優勝決定戦と連勝、逆転優勝したのを高く評価されて大関に昇進した。

2011年(平成23年)11月場所を終えた稀勢の里の直前3場所の成績は、10勝-12勝-10勝で合計32勝であったが、日本人力士が不調(大関以上は前場所昇進の琴奨菊のみ)、直前6場所を全て勝ち越し10勝以上が5場所という安定した成績、横綱・白鵬との幕内対戦が直近6場所で3勝3敗と互角の成績を挙げた事などが加味された[14]

2014年(平成26年)7月場所を終えた豪栄道の直前3場所の成績も、12勝-8勝-12勝で合計32勝だったが、それまで史上1位の14場所連続で関脇に在位していた事、また直前場所で鶴竜、白鵬と横綱二人を下し、さらに千秋楽では最後まで白鵬と優勝を争った大関・琴奨菊を倒した事などが評価され、大関昇進が決定した。

また、2015年(平成27年)5月場所を終えた照ノ富士は、直前3場所が前頭2枚目で8勝(平幕)-13勝-12勝(優勝)の合計33勝だったが、直前場所での幕内初優勝を果たした事が大関に相応しいと判断され、新大関となった[15][16]。なお大関昇進の3場所前が平幕の地位だったのは、1985年(昭和60年)11月場所後の北尾(のち横綱・双羽黒。前頭筆頭で12勝3敗)以来29年ぶりだが、3場所前が平幕で1桁勝ち星となると、1983年(昭和58年)3月場所後の朝潮(4代)(前頭筆頭で9勝6敗)以来の32年前までさかのぼる[注釈 8]

2018年(平成30年)5月場所を終えた栃ノ心は昇進3場所前は前頭3枚目だったが、この場所を含め直前3場所を14勝(平幕優勝)-10勝-13勝の合計37勝を挙げた好成績が高く加味され、文句なしで大関昇進した。大関昇進の直前3場所の起点場所が平幕優勝は、1976年(昭和51年)9月場所の魁傑(1977年1月場所後に大関再昇進)以来で、平成時代以降では栃ノ心が初めてとなる。

但し、逆に昇進できなかった例としては、2002年(平成14年)1月場所を終えた琴光喜は13勝(平幕優勝)-9勝-12勝の合計34勝も、昇進を見送られる。理由は、3場所前が前頭2枚目だったこと、2場所前が9勝と1桁白星であったこと(平成以降の大関昇進者はほぼ2場所前は10勝以上)、また当時大関が4人もいたことが引っ掛かった。さらに大関取りが期待された同場所において3敗目を喫した内容があまりにも悪かったほか、自分より遥かに地位の低い前頭8枚目の武雄山に敗れた理由もあったといわれる。翌3月場所は直前3場所が9勝-12勝-8勝の計29勝に留まり琴光喜の大関取りは一旦消滅するも、5年後の2007年(平成19年)7月場所後に悲願の大関昇進を達成した。

2006年(平成18年)7月場所を終えた元大関・雅山は直前3場所を全て三役の地位で10勝-14勝(優勝同点)-10勝の計34勝と、大関再昇進に適う星取であった。しかし、直前場所が10勝だったことや(これ以前に直前場所が10勝で昇進した例はほとんど無かった)、当時大関が既に5人いた(白鵬がこの場所綱取りであったが、翌場所に継続となった)ことを理由に昇進を見送られている。翌9月場所は直前3場所を14勝(同点)-10勝-9勝の計33勝としたが再び却下され、結局雅山の大関復活は成らなかった。

2010年(平成22年)1月場所を終えた把瑠都は直前3場所を全て三役で12勝-9勝-12勝の計33勝としたが、2場所前が1桁勝ち星だったことや、上述の琴光喜や雅山のように、合計34勝を挙げながら昇進出来なかった例もあって見送られる。翌3月場所は14勝(優勝次点)の好成績により、異論無しの大関昇進を果たした。

2019年(平成31年)1月場所を終えた貴景勝は直前3場所を9勝-13勝(優勝)-11勝の計33勝としたが、1場所目が9勝だったこと、直前場所の千秋楽での大関・豪栄道との敗戦内容が悪過ぎた事から見送られた。翌3月場所の貴景勝は14日目の時点で9勝5敗、千秋楽は角番大関(通算2度目)で7勝7敗の栃ノ心と取組になり、事実上の大関入れ替え戦を制して10勝5敗を挙げた(逆に7勝8敗と負け越した栃ノ心は関脇陥落)。結果、直前3場所合計34勝を挙げ、打出し後に貴景勝の大関昇進に向けた臨時理事会の開催が決定され、大関昇進となった。

令和以降

令和時代以降も、大関昇進の目安は「3場所連続で三役(関脇・小結)の地位にあって、その通算の勝ち星が33勝以上」で定着している。

2020年(令和2年)3月場所を終えた朝乃山は直前3場所を11勝(優勝次点)-10勝-11勝の計32勝で、目安の計33勝には届かなかった。しかし、朝乃山は直近6場所の内5場所が2桁勝利、4場所連続で2桁勝利、前年の2019年に幕内最高優勝や年間最多勝を獲得するなどの好成績を挙げている。これらのことが評価されたことに加え、貴景勝の一人大関状態だったことなどもあり、大関昇進を果たした。

2020年(令和2年)9月場所を終えた正代は直前3場所を8勝-11勝-13勝(優勝)の計32勝で、目安とされる33勝には届かなかった。だが、1年間を通して4場所2桁で勝ち越していることや、直前場所での優勝が評価され、大関昇進が決まった。

2021年(令和3年)3月場所を終えた照ノ富士は直前3場所を13勝(優勝同点)-11勝(優勝次点)-12勝(優勝)の計36勝で、大関特例復帰制度にあずからずに大関再昇進を果たした。

2022年(令和4年)1月場所を終えた御嶽海は直前3場所を9勝-11勝-13勝(優勝)の計33勝で目安は満たすも、3場所前が9勝止まり、三役での連続二桁勝利もこれが初めてで、そもそも場所前に昇進ムードが無かった[17]が、大関陣の成績不振や直前での優勝が評価され昇進に向けた理事会の開催が決定され、大関昇進が決まった。

15代武蔵川(元横綱・武蔵丸)は平成末期から令和期における大関の不振がちな成績傾向から、昇進目安の成績をクリアしても少し様子を見て昇進のハードルを高くすべきだと主張した[17]

大関昇進直前3場所成績(平成時代以降)

  • 関:関脇、小:小結、前:前頭
  • 四股名は、それぞれ大関昇進時に名乗っていた当時のもの。
昇進場所 四股名 3場所前 2場所前 直前場所 3場所合計
1990年(平成2年)5月場所 霧島一博 小・10勝5敗 小・11勝4敗△ 関・13勝2敗○ 34勝11敗
1992年(平成4年)7月場所 曙太郎 小・13勝2敗△ 関・8勝7敗 関・13勝2敗◎ 34勝11敗
1993年(平成5年)3月場所 貴花田光司 小・14勝1敗◎ 関・10勝5敗 関・11勝4敗 35勝10敗
1993年(平成5年)9月場所 若ノ花勝 小・14勝1敗◎ 関・10勝5敗 関・13勝2敗◯ 37勝8敗
1994年(平成6年)3月場所 貴ノ浪貞博 関・10勝5敗 関・12勝3敗 関・13勝2敗△ 35勝10敗
武蔵丸光洋 関・8勝7敗 関・13勝2敗◯ 関・12勝3敗 33勝12敗
1999年(平成11年)3月場所 千代大海龍二 関・9勝6敗 関・10勝5敗 関・13勝2敗◎ 32勝13敗
1999年(平成11年)9月場所 出島武春 小・9勝6敗 関・11勝4敗 関・13勝2敗◎ 33勝12敗
2000年(平成12年)5月場所 武双山正士 小・10勝5敗 関・13勝2敗◎ 関・12勝3敗△ 35勝10敗
2000年(平成12年)7月場所 雅山哲士 小・12勝3敗△ 関・11勝4敗 関・11勝4敗 34勝11敗
2000年(平成12年)9月場所 魁皇博之 小・8勝7敗 小・14勝1敗◎ 関・11勝4敗 33勝12敗
2002年(平成14年)1月場所 栃東大裕 関・10勝5敗 関・12勝3敗△ 関・12勝3敗△ 34勝11敗
2002年(平成14年)9月場所 朝青龍明徳 関・11勝4敗 関・11勝4敗△ 関・12勝3敗△ 34勝11敗
2006年(平成18年)1月場所 琴欧州勝紀 小・12勝3敗△ 関・13勝2敗◯ 関・11勝4敗△ 36勝9敗
2006年(平成18年)5月場所 白鵬翔 小・9勝6敗 関・13勝2敗△ 関・13勝2敗◯ 35勝10敗
2007年(平成19年)9月場所 琴光喜啓司 関・10勝5敗 関・12勝3敗△ 関・13勝2敗△ 35勝10敗
2009年(平成21年)1月場所 安馬公平 関・10勝5敗 関・12勝3敗△ 関・13勝2敗◯ 35勝10敗
2010年(平成22年)5月場所 把瑠都凱斗 関・9勝6敗 関・12勝3敗△ 関・14勝1敗△ 35勝10敗
2011年(平成23年)11月場所 琴奨菊和弘 関・10勝5敗 関・11勝4敗 関・12勝3敗△ 33勝12敗
2012年(平成24年)1月場所 稀勢の里寛☆※ 関・10勝5敗 関・12勝3敗△ 関・10勝5敗 32勝13敗
2012年(平成24年)5月場所 鶴竜力三郎 関・10勝5敗 関・10勝5敗 関・13勝2敗◯ 33勝12敗
2014年(平成26年)9月場所 豪栄道豪太郎 関・12勝3敗△ 関・8勝7敗 関・12勝3敗△ 32勝13敗
2015年(平成27年)7月場所 照ノ富士春雄☆※ 前2・8勝7敗 関・13勝2敗△ 関・12勝3敗◎ 33勝12敗
2017年(平成29年)7月場所 髙安晃 小・11勝4敗 関・12勝3敗 関・11勝4敗 34勝11敗
2018年(平成30年)7月場所 栃ノ心剛史 前3・14勝1敗◎ 関・10勝5敗 関・13勝2敗△ 37勝8敗
2019年(令和元年)5月場所 貴景勝貴信 小・13勝2敗◎ 関・11勝4敗△ 関・10勝5敗 34勝11敗
2020年(令和2年)5月場所 朝乃山英樹 小・11勝4敗△ 関・10勝5敗 関・11勝4敗 32勝13敗
2020年(令和2年)11月場所 正代直也 関・8勝7敗 関・11勝4敗 関・13勝2敗◎ 32勝13敗
2021年(令和3年)5月場所 照ノ富士春雄(再)☆ 小・13勝2敗◯ 関・11勝4敗△ 関・12勝3敗◎ 36勝9敗
2022年(令和4年)3月場所 御嶽海久司 関・9勝6敗 関・11勝4敗 関・13勝2敗◎ 33勝12敗

☆はのちに横綱。◎は優勝、◯は優勝同点、△は優勝次点(タイ記録も含む)、※は三役の地位で3場所通算33勝未満または直前3場所前が平幕上位で昇進した力士。

  • 貴花田は大関昇進時に「貴ノ花」へ改名。昇進後11場所目の1994年11月場所に「貴乃花」へ改名。
  • 若ノ花は大関昇進3場所前まで「若花田」(2場所前に改名)。昇進後8場所目の1994年11月場所に「若乃花」へ改名。
  • 貴ノ浪・武双山・栃東・栃ノ心・貴景勝は初めて大関に昇進した時の成績。
  • 琴欧州は大関昇進から6場所目の2006年11月場所に「琴欧洲」へ改名。
  • 安馬は大関昇進時に「日馬富士」へ改名。
  • 平成以降、直前3場所通算33勝に届かずに大関昇進を果たした者の中で、後に横綱昇進も果たしたのは稀勢の里と照ノ富士(1回目の昇進)の2人だけ。
  • 2023年(令和5年)1月場所現在、太字は大関以上の地位で、斜字は関脇以下の地位でそれぞれ現役中。
  • 結果的に大関昇進は果たせなかったものの、琴錦功宗は1991年9月場所で平幕優勝(13勝2敗)を達成し、小結に返り咲いた翌11月場所で連覇を達成すれば関脇を飛び越して大関への昇進が検討されることになっていた(結果的には12勝3敗と好成績を挙げたものの、連覇を達成出来ず、昇進は果たせなかった)。その時々の理事長ら協会幹部の意向にもよるが、制度的には「3場所通算33勝」という通常基準以外でも「連覇達成で大関に昇進」など、昇進にあたっては例外的な条件が検討されることもある。

陥落・大関特例復帰

江戸時代には大関に在位した力士が翌場所に平幕以下に陥落した例も存在したが、当時は現在とは全く違う基準で番付を作成していたため参考にはしにくい。看板大関の制度が存在した時代の番付は必ずしも実力本位のものではなく、また看板大関がそもそも一時的な大関といった扱いのため、実力が大関相応とされる力士が現れた際には地位を明け渡すことが前提であった。看板大関廃止後は実力本位で番付を作成するようになったが、それ以降にも明治時代までは大関に在位した力士が翌場所に平幕へ陥落した例が存在する(最も新しい例は1900年(明治33年)5月場所の鳳凰馬五郎)。明治時代もまだ番付編成は現在と大きく異なっており、一ノ矢藤太郎大碇紋太郎のように勝ち越していながら降格となった者も存在した。その後も大正時代までは1場所で大関から即陥落も制度上存在し、実際に1場所で降格となった力士も存在する。大関陥落については江戸時代以来長らく明確な基準が無く、特に地位を保証されてはいなかったため、関脇以下の力士との兼ね合いでは大関の勝ち越し降格も当時の感覚では不自然なことではなかった[注釈 9]

1927年(昭和2年)の東京相撲と大坂相撲の合併以来の諸制度の確定の中で大関の地位が確立し、「2場所連続負け越しで陥落」の基準が定着した(ただし、1929年〈昭和4年〉から1932年〈昭和7年〉までの2場所通算成績などで番付を編成していた時代には、必ずしもこの限りではない)。なお、戦前までは大関からの陥落は必ず関脇になるとは限らず、小結まで落とされた例も存在する。また昭和以降大関の力士で陥落したのちに、大関へ復帰を果たしたのは、汐ノ海が最初のケースとなった。

1958年(昭和33年)に、年間6場所制度が実施された時には、2場所では厳しすぎるとして、3場所連続の負け越しで関脇に陥落と改定された。ちなみにこの規定の下で大関から関脇に陥落した力士は松登若羽黒の2名のみであった。ところが、今度は甘すぎるとする批判が相次ぎ、1969年(昭和44年)7月場所より現行の「2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で(取組日数による現行の規定で)10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できる」とする規定が定着した[18]。この現行規定の下で大関特例復帰を果たした力士は、三重ノ海貴ノ浪武双山栃東(2回)・栃ノ心貴景勝(現役大関)の6人・7例ある。この特例によって大関に復帰した場合は、昇進伝達式は行われない。なお、翌場所の関脇陥落が確定している力士も、翌場所の番付発表の前日までは大関としての待遇を受けられる。

前場所に大関の地位で負け越し、当場所も負け越すと関脇へ陥落する状況の力士は「角番(大関)」と呼ばれている。

基本は2場所連続の負け越しで大関陥落だが、2022年(令和4年)7月場所の御嶽海は、角番大関の状態で2勝5敗8休と成績だけを見ると通常なら関脇に陥落する状況であったが、新型コロナウイルス感染による休場のため、番付編成会議で新型コロナウイルス感染による休場の時点で勝ち越し・負け越しが決まっていなかった力士は番付が据え置きとなったため、9月場所は関脇に陥落せず角番大関の状態を継続して迎えることになった。

また、魁傑照ノ富士は大関陥落後、この特例によらずに好成績を重ね、通常の昇進基準によって大関復帰を果たした。この両者に対しては大関復帰時にも再度の昇進伝達式が執り行われたが、両名とも新大関時のように決意表明は述べず「謹んでお受けいたします」とのみ述べた。

尚、平成末期~令和初期には、2017年に琴奨菊と照ノ富士、2019年は栃ノ心(2度)と貴景勝、2020年は髙安、さらに2021年には朝乃山、2022年には御嶽海と正代が関脇へ陥落し、翌場所に大関特例復帰のチャンスを懸けている(但し朝乃山は出場停止のため大関特例復帰できず、平幕へと陥落)。特に、2019年9月場所から2020年1月場所まで3場所連続で貴景勝、栃ノ心、髙安と陥落者が続出した。現役引退した豪栄道も引退場所で関脇陥落が決定していたため、それも含めると4場所連続の関脇への陥落者が出たことになる。ちなみにこの3場所の間原則2名とされている関脇の定員のうち1枠を陥落者が占め続けた結果、小結の地位で8→9→9勝と連続して勝ち越した阿炎が続けて小結に留め置かれるという不運が発生している。

かつては、関脇以下へ陥落した元大関が現役を続行する場合、十両への陥落確定を機に引退することが慣例とされ、古くは十両陥落が懸かる場所は「幕内角番」と表現され、そもそも大関在位中に引退するケースが大半だった。花田虎上は2021年9月場所中の自身のコラムで「私のかど番の時は、負け越して陥落したら引退させられた時代でした」と語っていた[19]。元大関が十両に下がるケースは、大受のケースが永らく唯一のケースだったが、2010年代以降、元大関の十両以下への陥落が多く見られるようになり、雅山・把瑠都・照ノ富士・琴奨菊・朝乃山・栃ノ心の6名が十両に在位した。2020年代に入ると照ノ富士や朝乃山のように十両からさらに序二段・三段目へと陥落しながら現役を続行するケースも出てきた。栃ノ心が2023年1月場所で途中休場し十両陥落が確実となった際は引退の可能性に言及されることすらなく、3月場所では当然のごとく十両の土俵に上がった。同場所では再十両の1月場所で14勝を挙げ優勝しながら幕内復帰を見送られた朝乃山と合わせて史上初めて複数の大関経験者が十両に在位し、両者による元大関同士の対戦も実現した。元大関の十両陥落=引退という慣例は事実上消滅したとも言える。

引退後

現役引退後、年寄として協会に残る場合は3年間、平年寄ではあるが委員待遇として扱われ、番付では「年寄」の上位に置かれる(序列は委員待遇の平年寄>持ち名跡で襲名した平年寄>借り名跡で襲名した平年寄)。また1997年5月1日以降は、年寄名跡を取得していなくても引退から3年間四股名のまま年寄として残ることができるようになった(この特典は、2007年5月場所前に引退から3年以内の玉ノ井部屋継承を予定していた栃東が初めて利用し、それから約7年後となる2014年3月場所中に琴欧洲が2例目として利用した[注釈 10])。

委員待遇の3年を経過すると主任になるが(貴ノ浪、栃東など。番付上は昇格だが、収入は減る。)、3年以内に審判委員に起用される(魁傑・武双山・出島・千代大海・魁皇など)ことが殆どである。

なお、最高位が大関で引退後相撲協会にとどまらず即退職(廃業)した力士は、戦後では若羽黒朋明1965年1月場所限りで廃業[注釈 11])、琴光喜啓司2010年5月場所限り、大相撲野球賭博問題で解雇処分)、把瑠都凱斗2013年7月場所限り、外国籍(エストニア)で日本国籍を取得せず)、栃ノ心剛史2023年5月場所中、外国籍(ジョージア)で日本国籍を取得せず)の4名のみである。

代数

横綱のそれほど知られてはいないが、大関の地位でも江戸勧進相撲で初めて木版刷りの縦一枚番付が発行された1757年(宝暦7年)10月場所の東大関である雪見山堅太夫を初代、西大関の白川関右衛門を2代目として、昇進順に代数が与えられている。ちなみに最近では、2022年(令和4年)3月場所に新大関の御嶽海久司は252代大関となる。

しかし、この中には、後に横綱に昇進した者や、実際に相撲を取らなかった看板大関も含まれていて、一般にはあまり用いられない。元々相撲興行の中心は大坂・京都であり、宝暦7年以前の番付についても元禄年間の頃からの番付が写本や板番付の形で50場所分近く残されている。たとえば、両國梶之助 (初代)源氏山住右衛門谷風梶之助 (初代)丸山権太左衛門、(阿蘇ヶ嶽桐右衛門)、(鞍馬山鬼市)、(相引浦之助)など、宝暦7年以前にも大関は存在しているが、名大関と云われる彼らは歴代大関には含まれていない。

なお、複数の力士が大関に同時昇進した場合は、横綱と異なり、昇進場所でより上位だった力士を先代としている。前述の雪見山と白川の他、最初期は興行用の看板大関が東西に付け出されることが多かったが、すべて東方が先代、西方が次代となっている(ただし、番付で東方を上位とする認識が定着したのは後の時代のことである)。また、1人の力士が大関から陥落した後に再昇進した場合でも、代数を改めて与えられることは無く、あくまで再昇進という形で新大関の際に与えられた代数が採用される。

なお、東方の力士を先代・上位とする理由は、横綱を「日下開山太陽の下で大きく聳え立つ山という意味)」と称し、その太陽が東側から昇ることに由来していると考えられている。

記録

大関で優勝した力士

大関在位記録

順位 四股名 在位数 在位期間 在位期間成績
1位 千代大海龍二 65場所 1999年(平成11年)3月場所-2009年(平成21年)11月場所↓ 515勝345敗115休 優勝2回
魁皇博之 2000年(平成12年)9月場所-2011年(平成23年)7月場所 524勝328敗119休 優勝4回
3位 貴ノ花利彰 50場所 1972年(昭和47年)11月場所-1981年(昭和56年)1月場所 422勝285敗49休 優勝2回
4位 琴欧洲勝紀 47場所 2006年(平成18年)1月場所-2013年(平成25年)11月場所↓ 378勝264敗63休 優勝1回
5位 北天佑勝彦 44場所 1983年(昭和58年)7月場所-1990年(平成2年)9月場所 378勝245敗29休 優勝2回
6位 小錦八十吉 (6代) 39場所 1987年(昭和62年)7月場所-1993年(平成5年)11月場所↓ 345勝197敗43休 優勝3回
7位 貴ノ浪貞博 37場所 1994年(平成6年)3月場所-1999年(平成11年)11月場所(35場所)↓ 340勝177敗8休 優勝2回
2000年(平成12年)3月場所-2000年(平成12年)5月場所(2場所)↓ 13勝17敗0休 優勝なし
8位 朝潮太郎 (4代) 36場所 1983年(昭和58年)5月場所-1989年(平成元年)3月場所 294勝203敗33休 優勝1回
9位 豊山勝男 34場所 1963年(昭和38年)3月場所-1968年(昭和43年)9月場所 301勝201敗8休 優勝なし
10位 豪栄道豪太郎 33場所 2014年(平成26年)9月場所-2020年(令和2年)1月場所 260勝194敗41休 優勝1回
  • 在位期間の↓印は関脇に陥落、無印は大関の地位(豊山、豪栄道は最終在位場所後。それ以外は場所中)で引退。
  • 魁皇と琴欧洲は本場所開催が中止された2011年(平成23年)3月場所を数えない。また本場所ではないが公式記録が残される同年5月の技量審査場所は数える。
  • 貴ノ花には大関在位中に「貴乃花」等への改名歴がある。
  • 琴欧洲は大関在位中に「琴欧州」からの改名歴がある。
  • 貴ノ浪は在位35場所目の1999年(平成11年)11月場所で1度目の陥落、翌2000年(平成12年)1月場所に関脇で10勝を挙げ大関特例復帰を果たす。復活後在位2場所目の2000年5月場所で2度目の陥落、大関在位合計は37場所。
  • 豊山の大関在位中は当時「3場所連続負け越しで降格」でのもの。1969年(昭和44年)7月から現行制度。

短命大関

年6場所制以降は下記の通りである。横綱に昇進した力士の大関通過場所数については(こちら)を参照。

順位 四股名 在位数 在位期間 在位期間成績
1位 御嶽海久司 4場所 2022年(令和4年)3月場所-2022年(令和4年)9月場所↓ 23勝29敗8休
2位 大受久晃 5場所 1973年(昭和48年)9月場所-1974年(昭和49年)5月場所↓ 30勝32敗13休
3位 増位山太志郎 7場所 1980年(昭和55年)3月場所-1981年(昭和56年)3月場所 44勝44敗7休
栃ノ心剛史 2018年(平成30年)7月場所-2019年(平成31年)3月場所(5場所)↓ 29勝28敗18休
2019年(令和元年)7月場所-2019年(令和元年)9月場所(2場所)↓ 6勝15敗9休
朝乃山英樹[注釈 12] 2020年(令和2年)7月場所-2021年(令和3年)7月場所↓ 51勝24敗30休
6位 雅山哲士 8場所 2000年(平成12年)7月場所-2001年(平成13年)9月場所↓ 57勝58敗5休
7位 魁傑將晃 9場所 1975年(昭和50年)3月場所-1975年(昭和50年)11月場所(5場所)↓ 43勝32敗0休
1977年(昭和52年)3月場所-1977年(昭和52年)9月場所(4場所)↓ 27勝33敗0休
8位 前の山太郎 10場所 1970年(昭和45年)9月場所-1972年(昭和47年)3月場所↓ 67勝56敗27休
9位 出島武春 12場所 1999年(平成11年)9月場所-2001年(平成13年)7月場所↓ 100勝71敗9休
10位 若羽黒朋明 13場所 1959年(昭和34年)11月場所-1961年(昭和36年)11月場所↓ 102勝78敗15休 優勝1回
正代直也 2020年(令和2年)11月場所-2022年(令和4年)11月場所↓ 95勝90敗10休
  • 年6場所制の1958年(昭和33年)以降の記録。それ以前では、五ツ嶋奈良男の2場所(12勝13敗5休、関脇陥落)が昭和以降での最短記録であった。
  • 在位期間の↓は関脇に陥落。無印の増位山(太)は大関の地位で場所中に引退。
  • 斜字の御嶽海・朝乃山・正代は関脇以下の地位で、2023年時点現役中。
  • 栃ノ心は在位5場所目の2019年(平成31年)3月場所で1度目の陥落、翌2019年(令和元年)5月場所に関脇で10勝を挙げ大関特例復帰を果たす。復活後在位2場所目の2019年9月場所で2度目の陥落、大関在位合計は7場所。
  • 魁傑は在位5場所目の1975年(昭和50年)11月場所で1度目の陥落、その後1977年(昭和52年)1月場所後に再昇進が決定。復帰後在位4場所目の1977年9月場所で2度目の陥落、大関在位合計は9場所。
  • 前の山には大関在位中に「前乃山」からの改名歴がある。
  • 若羽黒の昇進・在位中は当時「3場所連続負け越しで降格」でのもの。1969年(昭和44年)7月から現行制度。

なお、連続大関在位場所数での見方をすれば、貴ノ浪・武双山・栃東・貴景勝・栃ノ心の合計5人が、2場所で関脇陥落の最短記録を作っている。その内、貴ノ浪と栃ノ心は大関復帰後に再陥落、武双山と貴景勝は新大関から陥落後すぐに返り咲き、栃東は再大関で陥落するも直ぐ再々昇進(2度目の大関特例復帰)を果たした。通算大関在位場所数(現役大関の貴景勝を除く)では、それぞれ貴ノ浪37場所、武双山27場所、栃東30場所(番付上は31場所)、栃ノ心7場所となる。なお貴ノ浪は、連続大関在位数の長期(35場所)でも短期(2場所)でも、歴代ランキングに顔を出す珍記録も持っている。

  • 2023年時点で現役大関の貴景勝は、大関昇進後在位2場所で関脇陥落するも、12勝(優勝同点)の好成績で特例復帰している。
  • その次に短い3場所で関脇陥落したのは三重ノ海だが、その関脇の地位で10勝を挙げ1場所で大関特例復帰を果たす。三重ノ海はその後大関通算在位21場所(降下直後の関脇も含めると合計22場所)で横綱昇進を果たしたが、大関陥落経験者がのちに横綱となったのは三重ノ海と照ノ富士(大関から陥落した関脇以下の地位も含めた場所数は、合計36場所(うち、大関在位は16場所))だけである。
  • なお短命1位の御嶽海は、本来なら大関在位3場所目を角番で途中休場の負け越し(2勝5敗8休)により陥落だった。ところが当場所中、同部屋力士が新型コロナウィルスに感染の為(のち自身もCOVID-19に感染)、救済措置で翌場所は角番大関に留まった。然しながら、その場所も皆勤負け越し(4勝11敗)を喫して関脇へ転落。次場所は大関特例復帰を失敗しての負越し(6勝9敗)、結局大受のワースト記録を更新する4場所の短命大関と成った。さらには11敗目を喫したことにより大関通算成績が23勝29敗8休、勝率.442となり、救済措置なしでそのまま陥落していれば免れていたはずの栃ノ心の最低勝率記録(.449)までも更新することとなってしまった。

新大関から関脇の最短陥落記録

順位 四股名 在位数 新大関場所 大関陥落場所
1位 五ツ嶋奈良男 2場所 1941年(昭和16年)1月場所 1941年(昭和16年)5月場所
武双山正士 2000年(平成12年)5月場所 2000年(平成12年)7月場所
貴景勝貴信 2019年(令和元年)5月場所 2019年(令和元年)7月場所
4位 名寄岩静男△* 3場所 1943年(昭和18年)1月場所 1944年(昭和19年)5月場所
三重ノ海剛司 1976年(昭和51年)1月場所 1976年(昭和51年)5月場所
6位 汐ノ海運右エ門△* 4場所 1947年(昭和22年)6月場所 1948年(昭和23年)10月場所
増位山大志郎 1949年(昭和24年)1月場所 1950年(昭和25年)1月場所
御嶽海久司 2022年(令和4年)3月場所 2022年(令和4年)9月場所
9位 大受久晃 5場所 1973年(昭和48年)9月場所 1974年(昭和49年)5月場所
魁傑將晃 1975年(昭和50年)3月場所 1975年(昭和50年)11月場所
栃ノ心剛史 2018年(平成30年)7月場所 2019年(平成31年)3月場所
  • *は年6場所制定着以前の力士。
  • △はのちに大関復活(再昇進)を果たした力士。
  • ☆は関脇陥落直後に大関特例復帰を達成した力士(1969年7月場所以降)。
  • 増位山(大)は大関陥落確定後に引退。
  • 太字の貴景勝は大関で、斜字の御嶽海は関脇以下の地位で、2023年時点現役中。

大関(最高位)力士の通算幕内優勝回数記録

順位 四股名 優勝回数 大関在位中
1位 魁皇博之 5回 4回
2位 清水川元吉 3回 2回
小錦八十吉 3回
千代大海龍二 2回
栃東大裕 3回
貴景勝貴信 2回
御嶽海久司 なし
8位 豊國福馬 2回 2回
増位山大志郎 1回
貴ノ花健士 2回
魁傑将晃 なし
琴風豪規 1回
若嶋津六夫 2回
北天佑勝彦 1回
貴ノ浪貞博 2回
  • 2023年現在。
  • *は年6場所制定着以前の力士。また清水川には2回、豊國には1回、番付下位による優勝同点がある。
  • 太字の貴景勝は大関で、斜字の御嶽海は関脇以下の地位で現役中。
  • 魁皇の幕内最高優勝5回は、最高位が大関以下の力士の中では史上1位である。なお一昔前であれば優勝を5回も経験すれば、皆全員横綱に昇進していた(中には照國北尾(のち双羽黒)など、優勝未経験で昇進した横綱もいる)。しかし魁皇の全盛期では「大関の地位で2場所連続優勝」が絶対条件で、現役晩年にはやや条件を緩和する動きも見られたが、横綱に推挙されるには至らなかった。
  • 若嶋津の優勝2回のうち1回は全勝優勝である。最高位大関以下の力士で全勝優勝を達成した例は、15日制のもとでは他に通算1回優勝の時津山玉乃海(共に最高位は関脇)および豪栄道(最高位は大関)。
  • 横綱に昇進した力士で大関以下での優勝が多かった力士は貴乃花で7回(うち5回が大関での優勝)。他に武蔵丸が大関で5回優勝の最多タイ。彼ら以前では、玉錦が大関以下で5回(大関で4回)の優勝。現在と番付編成の制度が違ったことなどにもよるが、大関で3連覇でも横綱を見送られるなど、約60年に渡って「大関以下」「大関」ともに最多記録保持者だった(大関での優勝回数については琴櫻に並ばれ、のちに3代若乃花と魁皇がこれに続く)。

初土俵(付け出しを除く)からの大関昇進所要場所数

  • 以下の記録は、付け出しを除き、前相撲で初土俵を踏んだ力士に限定している。
順位 四股名 所要場所 内訳 最高位
1位 琴欧洲勝紀 19場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段1場所、三段目2場所、幕下4場所、十両2場所、平幕(前頭)4場所、小結2場所、関脇2場所 大関
2位 朝青龍明徳 22場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段1場所、三段目1場所、幕下6場所、十両2場所、平幕(前頭)3場所、小結3場所、関脇4場所 横綱
3位 大鵬幸喜 24場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段2場所、三段目4場所、幕下6場所、十両4場所、平幕(前頭)3場所、小結1場所、関脇2場所 横綱
4位 照ノ富士春雄 25場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段1場所、三段目1場所、幕下10場所、十両3場所、平幕(前頭)6場所、関脇2場所 横綱
5位 曙太郎 26場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段3場所、三段目2場所、幕下5場所、十両3場所、平幕(前頭)5場所、小結3場所、関脇3場所 横綱
6位 武蔵丸光洋 27場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段1場所、三段目2場所、幕下6場所、十両2場所、平幕(前頭)3場所、小結2場所、関脇9場所 横綱
7位 貴景勝貴信 28場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段1場所、三段目1場所、幕下6場所、十両4場所、平幕(前頭)9場所、小結3場所、関脇2場所 大関
8位 小錦八十吉 30場所 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段1場所、三段目2場所、幕下3場所、十両4場所、平幕(前頭)7場所、小結3場所、関脇8場所 大関
貴ノ花光司[注釈 13] 前相撲1場所、序ノ口1場所、序二段2場所、三段目3場所、幕下3場所、十両5場所、平幕(前頭)8場所、小結3場所、関脇4場所 横綱
10位 白鵬翔 31場所 前相撲1場所、序ノ口2場所、序二段3場所、三段目6場所、幕下5場所、十両2場所、平幕(前頭)5場所、小結2場所、関脇5場所 横綱
  • 2023年現在。
  • 太字の照ノ富士と貴景勝は、大関以上の地位で現役中。
  • 四股名の横に*のついている力士は年6場所制以前の初土俵力士である。

新三役から大関昇進までの三役所要場所

順位 四股名 所要場所 内訳 各所要場所成績 最高位
1位 前田山英五郎 1場所 小結1場所 1場所目(11勝2敗・小結) 横綱
五ツ嶋奈良男 関脇1場所 1場所目(13勝2敗・関脇) 大関
3位 双葉山定次*△ 2場所 小結1場所、関脇1場所 1場所目(4勝6敗・小結)、2場所目(11勝0敗◎・関脇) 横綱
安藝ノ海節男 関脇2場所 1場所目(10勝5敗・関脇)、2場所目(14勝1敗◎・関脇) 横綱
東富士欽壹 関脇2場所 1場所目(9勝1敗・関脇)、2場所目(6勝1敗・関脇) 横綱
吉葉山潤之輔 関脇2場所 1場所目(13勝2敗○・関脇)、2場所目(13勝2敗・関脇) 横綱
照ノ富士春雄 関脇2場所 1場所目(13勝2敗・関脇)、2場所目(12勝3敗◎・関脇) 横綱
8位 大鵬幸喜 3場所 小結1場所、関脇2場所 1場所目(11勝4敗・小結)、2場所目(12勝3敗・関脇)、3場所目(13勝2敗◎・関脇) 横綱
朝乃山英樹[注釈 12] 小結1場所、関脇2場所 1場所目(11勝4敗・小結)、2場所目(10勝5敗・関脇)、3場所目(11勝4敗・関脇) 大関
  • 四股名の横に*のある力士は、年6場所制以前の記録達成力士。
  • 四股名の横に△のある力士は、所要2場所の力士の中で新三役で負け越し平幕を挟んで再三役時に1場所通過し三役合計2場所で大関昇進を果たした力士。(△のない力士は、新三役からストレートで大関昇進した力士。)
  • 各所要場所成績の表示は(成績・その場所の番付)となっている。
  • 各所要場所成績の横に◎がついている場合は優勝、○がついている場合は優勝同点を指している。
  • 太字の照ノ富士は横綱で、斜字の朝乃山は関脇以下の地位で2023年時点現役中。

同時最多在籍大関

6大関

2012年(平成24年)5月場所において、大相撲史上初めての6大関が在籍となる。四股名は開始場所時点のものである[注釈 14]

回数 開始場所 四股名(太字新昇進 最終場所 場所数 終了理由
1 2012年(平成24年)5月場所 鶴竜力三郎
稀勢の里寛
琴奨菊和弘
把瑠都凱斗
日馬富士公平
琴欧洲勝紀
2012年(平成24年)9月場所 3 日馬富士が横綱昇進

5大関

6大関に次ぐ5大関は、現在まで17例がある。四股名は開始場所時点のもの。

回数 開始場所 四股名(太字・新昇進
下線・再昇進と特例復帰
最終場所 場所数 終了理由
1 1947年(昭和22年)6月場所 汐ノ海忠夫
東富士謹一
佐賀ノ花勝巳
名寄岩静男
前田山英五郎
1947年(昭和22年)6月場所 1 前田山が横綱昇進
2 1961年(昭和36年)7月場所 北葉山英俊
大鵬幸喜
柏戸剛
若羽黒朋明
琴ヶ濱貞雄
1961年(昭和36年)9月場所 2 柏戸と大鵬が横綱同時昇進
3 1962年(昭和37年)7月場所 栃光正之
栃ノ海晃嘉
佐田の山晋松
北葉山英俊
琴ヶ濱貞雄
1962年(昭和37年)11月場所 3 琴ヶ濱が引退
4 1963年(昭和38年)3月場所 豊山勝男
栃光正之
栃ノ海晃嘉
佐田の山晋松
北葉山英俊
1964年(昭和39年)1月場所 6 栃ノ海が横綱昇進
5 1972年(昭和47年)11月場所 貴ノ花満
輪島大士
大麒麟將能
清國勝雄
琴櫻傑將
1973年(昭和48年)1月場所 2 琴櫻が横綱昇進
6 1977年(昭和52年)3月場所 若三杉壽人
魁傑將晃
旭國斗雄
三重ノ海剛司
貴ノ花健士
1977年(昭和52年)9月場所 4 魁傑が関脇再陥落
7 1983年(昭和58年)7月場所 北天佑勝彦
朝潮太郎 (4代)
若島津六男
隆の里俊英
琴風豪規
1983年(昭和58年)7月場所 1 隆の里が横綱昇進
8 1986年(昭和61年)1月場所 北尾光司
大乃国康
北天佑勝彦
朝潮太郎
若嶋津六夫
1986年(昭和61年)7月場所 4 北尾が横綱昇進
9 1986年(昭和61年)9月場所 北勝海信芳
大乃国康
北天佑勝彦
朝潮太郎
若嶋津六夫
1987年(昭和62年)5月場所 5 北勝海が横綱昇進
10 1987年(昭和62年)7月場所 小錦八十吉
大乃国康
北天佑勝彦
朝潮太郎
若嶋津六夫
1987年(昭和62年)7月場所 1 若嶋津が引退
11 2000年(平成12年)11月場所 武双山正士
魁皇博之
雅山哲士
出島武春
千代大海龍二
2001年(平成13年)7月場所 5 出島が関脇陥落
12 2002年(平成14年)9月場所 朝青龍明徳
栃東大裕
武双山正士
魁皇博之
千代大海龍二
2003年(平成15年)1月場所 3 朝青龍が横綱昇進
13 2006年(平成18年)5月場所 白鵬翔
琴欧州勝紀
栃東大裕
魁皇博之
千代大海龍二
2007年(平成19年)5月場所
(相撲番付上)
6(7) 栃東が場所前に引退
白鵬が横綱昇進
14 2009年(平成21年)1月場所 日馬富士公平
琴光喜啓司
琴欧洲勝紀
魁皇博之
千代大海龍二
2009年(平成21年)11月場所 6 千代大海が関脇陥落
15 2010年(平成22年)5月場所 把瑠都凱斗
日馬富士公平
琴光喜啓司
琴欧洲勝紀
魁皇博之
2010年(平成22年)7月場所
(相撲番付上)
1(2) 琴光喜が場所前に解雇
16 2012年(平成24年)1月場所 稀勢の里寛
琴奨菊和弘
把瑠都凱斗
日馬富士公平
琴欧洲勝紀
2012年(平成24年)3月場所 2 鶴竜が大関昇進
(=6大関となる)
17 2012年(平成24年)11月場所 鶴竜力三郎
稀勢の里寛
琴奨菊和弘
把瑠都凱斗
琴欧洲勝紀
2012年(平成24年)11月場所 1 把瑠都が関脇陥落
  • 1947年(昭和22年)6月場所、汐ノ海の昇進で、前田山、名寄岩、佐賀ノ花、東富士とともに、現在の大相撲で初めての5大関が実現した。小結で8勝2敗、関脇で11勝2敗と続けての昇進だったので、甘い昇進だったとは言えないが、過去の例に倣えば関脇に据え置かれたと思われる。優勝決定戦三賞制度等が導入された場所でもあり、戦後の荒廃期にどうにか客を呼ぼうとした興行政策であった一面は否めない。
  • 3例目の栃ノ海と栃光、5例目の輪島と貴ノ花、6例目の下線・魁傑と若三杉は、2力士揃っての同時昇進(ただし魁傑は大関再昇進)。
  • 4例目は大関が同じ顔ぶれで5人番付に載った期間が昭和時代で最も長い6場所。
  • 下線・6例目の魁傑は、関脇以下へ陥落したのちに大関再昇進を果たした。
  • 8、9、10例目は連続しており、1986年(昭和61年)1月場所から1987年(昭和62年)7月場所まで若嶋津、朝潮、北天佑、大乃国、北尾、北勝海、小錦という7人によって、10場所にわたって5大関時代が続いた。この間、「6大関」が誕生する可能性もあったが、北勝海(昇進前は保志)が大関になると同時に北尾が横綱へ(横綱昇進後は双羽黒)、小錦が大関になると同時に北勝海が横綱へ、というように、結果的にところてん式の同時昇進が続いたこともあって「6大関」は実現しなかった。ここに名を連ねた7人のうち3人が横綱に昇進、残る4人も大関在位中に優勝を経験し、横綱寸前まで行った力士である(ただし、5大関時代には引退間近で、成績が芳しくなかった力士もいる)。「大関の大安売り」と揶揄されることも多い5大関時代ではあるが、この7人はいずれも大関の名にふさわしい成績を残している。
  • 下線・11例目の武双山は、関脇陥落直後の場所で大関特例復帰を達成した。
  • 13例目は番付上は大関が同じ顔ぶれで5人番付に載った期間が最も長い7場所であるが栃東が番付発表後、本場所開催前に引退したため、実質的には6場所。
  • 15例目は琴光喜が番付発表後、本場所開催前に野球賭博問題によって解雇されたため、実質的には1場所。
  • 16例目は鶴竜の大関昇進により史上初の6大関状態となり、5大関状態が解消された。
  • 17例目は日馬富士の横綱昇進により、史上初の6大関状態から1人減り5大関状態となった。

大関以上(横綱・大関)の同時最多在位

2021年現在では、4横綱6大関の大関以上10人も前例に照らしてありえるが、これまでの最多は8人で4横綱4大関が2例、3横綱5大関が2例となっている。

開始場所 横綱・四股名 大関・四股名 終了場所 場所数 終了理由
4横綱4大関* 1918年5月場所 鳳谷五郎
西ノ海嘉治郎 (2代)
大錦大五郎
栃木山守也
伊勢ノ濱慶太郎
朝潮太郎 (2代)
九州山十郎
千葉ヶ嵜俊治
1918年5月場所 1 西ノ海が引退
3横綱5大関 1987年7月場所 千代の富士貢
双羽黒光司
北勝海信芳
若嶋津六夫
朝潮太郎 (4代)
北天佑勝彦
大乃国康
小錦八十吉 (6代)
1987年7月場所 1 若嶋津が引退
4横綱4大関 1987年11月場所 千代の富士貢
双羽黒光司
北勝海信芳
大乃国康
朝潮太郎 (4代)
北天佑勝彦
小錦八十吉 (6代)
旭富士正也
1988年1月場所 1(2) * 双羽黒が廃業
3横綱5大関 2000年11月場所 曙太郎
貴乃花光司
武蔵丸光洋
千代大海龍二
出島武春
武双山正士
雅山哲士
魁皇博之
2001年1月場所 2 曙が引退
  • 太字・四股名は横綱・大関の新昇進、下線・四股名の武双山は大関特例復帰。
  • 1918年当時は東西制の時代で、東方に3横綱(大錦・栃木山・西ノ海)1大関(九州山)、西方に1横綱(鳳)3大関(千葉ヶ嵜・伊勢ノ濱・朝潮)という編成だった。
  • 双羽黒は1987年の12月末に廃業した為、翌1988年1月場所の番付上は四股名が残ったのみで、実質的には1場所である。

一人大関

昭和以降で大関が一人だけ在位し、東西に揃わない状態だった例はこれまでに13例ある。

開始場所 開始場所前の動向 一人大関 最終場所 場所数 終了理由
1 1936年(昭和11年)5月場所 男女ノ川が横綱昇進 清水川元吉 1936年(昭和11年)5月場所 1 双葉山と鏡岩が同時昇進
2 1938年(昭和13年)1月場所 双葉山が横綱昇進
清水川が引退
鏡岩善四郎 1938年(昭和13年)5月場所 1 前田山が昇進*
3 1944年(昭和19年)5月場所 名寄岩が関脇陥落 前田山英五郎 1944年(昭和19年)10月場所 1 佐賀ノ花が昇進
4 1955年(昭和30年)1月場所 栃錦が横綱昇進 三根山隆司 1955年(昭和30年)5月場所 2 大内山が昇進
5 1955年(昭和30年)9月場所 三根山が関脇陥落 大内山平吉 1955年(昭和31年)9月場所 1 松登若ノ花が同時昇進
6 1959年(昭和34年)5月場所 朝汐が横綱昇進 琴ヶ濱貞雄 1959年(昭和34年)9月場所 3 若羽黒が昇進
7 1966年(昭和41年)7月場所 北葉山が引退 豊山勝男 1966年(昭和42年)7月場所 1 北の冨士が昇進
8 1975年(昭和50年)1月場所 大麒麟が引退 貴ノ花健士 1975年(昭和50年)1月場所 1 魁傑が昇進
9 1979年(昭和54年)11月場所 旭國が引退 貴ノ花利彰 1980年(昭和55年)1月場所 2 増位山が昇進
10 1981年(昭和56年)5月場所 増位山が引退 千代の富士貢 1981年(昭和56年)7月場所 2 千代の富士が横綱昇進
(大関空位)
11 1981年(昭和56年)11月場所 (大関空位)
琴風が昇進
琴風豪規 1982年(昭和57年)1月場所 2 隆の里が昇進
12 2020年(令和2年)3月場所 豪栄道が引退
髙安が特例復帰失敗
貴景勝光信 2020年(令和2年)3月場所 1 朝乃山が昇進
13 2023年(令和5年)1月場所 正代が関脇陥落
御嶽海が特例復帰失敗
継続中
2023年(令和5年)5月場所[20] 貴景勝貴信
  • このうち4例目と5例目においては、横綱力士が大関の地位を兼ねる「横綱大関」も置かれず、厳密な意味での「一人大関」となった。
  • 太字の貴景勝は大関で、斜字の力士は関脇以下の地位で2023年時点現役中。
  • 前田山は小結から関脇を飛び越えて大関昇進。
  • 若ノ花は横綱昇進に合わせて若乃花に改名。
  • 朝汐は横綱昇進後に朝潮に改名。
  • 北の冨士は大関在位中北の富士に改名。
  • 貴ノ花は8例目と9例目の間に貴乃花への改名がある。
  • 正代は2023年1月場所での特例復帰に失敗している。

大関空位(不在)

番付面で「横綱」の地位が現れて以降で、「大関空位(不在)」となったことが2例ある。いずれも前場所に在位していた大関が横綱に昇進して発生したもので、全員が同時に引退や、関脇に陥落して発生した例はまだない。

開始場所 開始場所前の動向 最終場所 場所数 終了理由
1 1904年(明治37年)1月場所 常陸山2代目梅ヶ谷が横綱同時昇進 1905年(明治38年)1月場所 3 国見山荒岩が同時昇進
2 1981年(昭和56年)9月場所 千代の富士が横綱昇進 1981年(昭和56年)9月場所 1 琴風が昇進
  • ただし、上記2例のどちらも横綱力士が大関の地位も兼ねる「横綱大関」が置かれたため、厳密な意味で「大関」の地位が番付から消えたことはこれまで皆無。

新大関の優勝

四股名 新大関場所 成績 備 考
鳳谷五郎 1913年(大正2年)1月場所 7勝1分1預1休 1休は相手力士休場
栃木山守也 1917年(大正6年)5月場所 9勝1預(大潮 ()は優勝同点者(決定戦制度なし)
双葉山定次 1937年(昭和12年)1月場所 11戦全勝 当時は1場所11日制
千代の山雅信 1949年(昭和24年)10月場所 13勝2敗
若羽黒朋明 1959年(昭和34年)11月場所 13勝2敗
清國勝雄 1969年(昭和44年)7月場所 12勝3敗(○藤ノ川 ()は優勝決定戦
栃東大裕 2002年(平成14年)1月場所 13勝2敗(○千代大海 ()は優勝決定戦
白鵬翔 2006年(平成18年)5月場所 14勝1敗(○雅山 ()は優勝決定戦
  • ☆はのちに横綱。
  • 双葉山は翌場所も13戦全勝で連覇しており、結果的に大関時代を無敗のまま通過して横綱に昇進した。昭和以降、大関の地位を全勝で通過したのは双葉山ただ一人であり、同時に大関を2場所で通過したのも昭和以降では双葉山ただ一人である。

大関再昇進場所の優勝

四股名 大関再昇進場所 成績 備考
照ノ富士春雄 2021年(令和3年)5月場所 12勝3敗(○貴景勝 ()は優勝決定戦
  • 太字の照ノ富士は、横綱の地位で2023年時点現役中。
  • 照ノ富士は大関特例復帰制度にもあずかっていない。通算では大関15場所目。一場所前の場所も12勝3敗で優勝している。

新大関成績

順位 四股名 成績 最高位
1位 白鵬翔 14勝1敗 横綱
2位 千代の山雅信 13勝2敗 横綱
若乃花幹士 (初代) 横綱
若羽黒朋明 大関
佐田の山晋松 横綱
栃東大裕 大関
7位 安藝ノ海節男 12勝3敗 横綱
照國萬藏 横綱
柏戸剛 横綱
清國勝雄 大関
北勝海信芳 横綱
大乃国康 横綱
貴ノ浪貞博 大関
朝乃山英樹[注釈 12] 大関
  • 1場所15日制で新大関全勝優勝した力士はいない。
  • 斜字の朝乃山は、2023年時点関脇以下の地位で現役中。
  • ※の力士は、年6場所制以前の記録達成力士である。

新大関の初日からの連勝記録

順位 四股名 連勝記録 最高位
1位 栃東大裕 11連勝 大関
2位 若羽黒朋明 10連勝 大関
3位 琴奨菊和弘 9連勝 大関
朝乃山英樹[注釈 12] 大関
5位 若乃花幹士 (初代) 8連勝 横綱
霧島一博 大関
朝青龍明徳 横綱
  • 1場所15日制で新大関全勝優勝した力士はいない。
  • 斜字の朝乃山は、関脇以下の地位で2023年時点現役中。
  • ※の付いている力士は、年6場所制以前の記録達成力士である。

昇進

大関同時昇進(昭和以降)

昇進場所 代位 四股名 代位 四股名
1937年1月場所 168代 双葉山定次 169代 鏡岩善四郎
1941年1月場所 172代 安藝ノ海節男 173代 五ツ嶋奈良男
1951年5月場所 181代 吉葉山潤之輔 182代 鏡里喜代治
1956年1月場所 186代 松登晟郎 187代 若ノ花勝治
1962年7月場所 195代 栃ノ海晃嘉 196代 栃光正之
1972年11月場所 204代 輪島大士 205代 貴ノ花満
1977年3月場所 208代 魁傑將晃 211代 若三杉壽人
1994年3月場所 228代 貴ノ浪貞博 229代 武蔵丸光洋
  • ☆の力士はのちに横綱。下線の魁傑は大関再昇進。
  • 若ノ花はのち初代若乃花に改名。
  • 若三杉はのち2代若乃花に改名。

横綱・大関の同時昇進(昭和以降)

昇進場所 横綱代位 横綱昇進者 大関代位 大関昇進者
1937年1月場所 34代 男女ノ川登三 168代 双葉山定次
169代 鏡岩善四郎
1942年1月場所 36代 羽黒山政司 174代 照國萬藏
1943年1月場所 37代 安藝ノ海節男 175代 名寄岩静男
38代 照國萬藏
1949年1月場所 44代 東富士欽壹 179代 増位山大志郎
1986年9月場所 60代 双羽黒光司 221代 北勝海信芳
1987年5月場所 61代 北勝海信芳 222代 小錦八十吉 (6代)
1987年11月場所 62代 大乃国康 223代 旭富士正也
1993年3月場所 64代 曙太郎 226代 貴ノ花光司
  • 貴ノ花はのち貴乃花に改名。

一人の大関に対して無敗かつ連勝だった力士

(注)2回以上の対戦経験及び対戦相手の最高位が大関である力士との対戦成績、かつ、対戦者のどちらかあるいは両者が引退力士であるものに限る。※ただし、白鵬かつ照ノ富士の対戦相手の朝乃山は出場停止処分にて2場所連続負け越しにより大関陥落となったため記載。

2大関以上の皆勤負け越し

場所 四股名 番付 成績 四股名 番付 成績
1977年昭和52年)9月場所 三重ノ海剛司 西張出大関 7勝8敗 魁傑將晃 東張出大関 5勝10敗
1993年平成5年)11月場所 貴ノ花光司 東大関 7勝8敗 小錦八十吉 東張出大関 6勝9敗
2000年平成12年)7月場所 雅山哲士 西大関 6勝9敗 武双山正士 西大関 4勝11敗
2014年平成26年)11月場所 琴奨菊和弘 東大関 6勝9敗 豪栄道豪太郎 西大関 5勝10敗
2017年平成29年)1月場所 照ノ富士春雄 東大関 4勝11敗 琴奨菊和弘 西大関 5勝10敗
2022年令和4年)5月場所 御嶽海久司 東大関 6勝9敗 正代直也 西大関 5勝10敗
2022年(令和4年)9月場所 正代直也 西大関 4勝11敗 御嶽海久司 西大関2 4勝11敗
  • 現行のカド番制度となった1969年7月場所以降。
  • 太字の照ノ富士は横綱で、斜字の力士は関脇以下の地位で2023年時点現役中。

5大関

  • 大坂相撲では1896年(明治29年)9月場所で5大関のいる番付がつくられている。(八陣平野川釈迦ヶ嶽嵐山、(緋縅))運営をめぐる対立から大坂相撲協会を離れて独自興行していた一派がこの場所から復帰、その体面を保つための措置で一場所限りで解消された。また1901年(明治34年)5月場所では1横綱5大関が出現している。(横綱八陣、大関秀の海若嶋、平野川、琴の浦一の濱

関連項目

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 横綱・照ノ富士が引退した場合もその事態が発生する可能性がある。
  2. ^ ただし、現役力士の自動車運転は内規で禁止されているため、別に運転手を確保する必要がある。
  3. ^ ただし、紫馬簾は関脇以下でも、横綱の太刀持ち・露払いを務める者は例外的に使用が可能。また、大関を陥落した者も引き続き使える。
  4. ^ 原則大関から陥落した場合、その力士のプロデュースした弁当は販売が休止される。大関の地位で引退した場合は弁当の販売が終了となる。例外としては、最高位が小結でありながら人気力士だった高見盛精彦が弁当をプロデュースした例がある。また正代直也朝乃山広暉御嶽海久司のプロデュースによる弁当はコロナ禍の影響でまだ商品化されていない(その後、3人とも関脇以下に陥落した)。
  5. ^ 雅山の場合、所属する武蔵川部屋は当時横綱・武蔵丸、大関・出島と武双山がいた。この三力士と対戦しないことから、大関昇進を決める番付編成会議の段階では相当慎重な意見が出ていた。これまで唯一話し合いでは結論が出ず、多数決(賛成7名・反対3名)により大関昇進が決定した。
  6. ^ 2020年5月現在、Youtube『日本相撲協会公式チャンネル』内の動画で、「小結・関脇で直近三場所合計33勝が目安とされる」との表現を用い、世間一般にそうした目安が存在すること自体は明らかにしている[1]
  7. ^ 15日制以降の大関昇進者では、直前場所が8勝、9勝での昇進例はなく、昇進直前場所は最低でも10勝が必要であると考えられる。
  8. ^ ただし、北尾(東前頭筆頭・12勝(優勝次点)-西関脇・11勝-東関脇・12勝(次点))・朝潮(東前頭筆頭・9勝-西関脇・14勝(優勝同点)-東関脇・12勝(優勝次点))共に、直前3場所の成績は合計35勝。
  9. ^ 初代國技館完成後の東西制やそれ以前の東西対戦の時代には勝ち越せば番付が上がる体系ではなく、同じ側にいる他の力士との比較、あるいは東西を配置換えになる力士がいた場合はその力士の成績も加味して総合的に決めていた。
  10. ^ その後、2015年2月に鳴戸を取得し15代目として襲名、2019年に鳴戸部屋を開設した。
  11. ^ 若羽黒は借金で年寄名跡を取得できなかったためとされる。
  12. ^ a b c d 後に朝乃山広暉へ改名
  13. ^ 後の第65代横綱貴乃花
  14. ^ 『相撲』2012年5月号37頁には「さすがに協会も『7大関』は作らないだろう」と記述されており、現在の感覚では番付編成上「大関は最多でも6人が限界」という見解が示されていると言える。

出典

  1. ^ 日本相撲協会・八角理事長に聞く 貴景勝はなぜ横綱になれない? 貴乃花の元弟子だから?(3/4ページ) 日刊ゲンダイDIGITAL 2023/03/05 12:25 (2023年3月18日閲覧)
  2. ^ 力士給与18年ぶり増額 横綱で月額300万円毎日新聞
  3. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第12条
  4. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第5条
  5. ^ 読売新聞2022年1月24日付朝刊スポーツ面
  6. ^ 大関昇進力士・昇進直前3場所の成績(大相撲海峡部屋)
  7. ^ 「相撲」2012年1月号
  8. ^ 大関昇進するその3場所前に7勝8敗と負け越したのは、1959年(昭和34年)9月場所後に新大関となった若羽黒以来(7勝-11勝-12勝)となる。なお魁傑以後、大関昇進の3場所前で負越しを記録した力士は皆無である。
  9. ^ 朝日新聞1972年3月24日付夕刊
  10. ^ 長谷川の優勝を伝える朝日新聞1972年3月27日付朝刊スポーツ面では、場所の総評の大半は「無気力相撲」に関してのもので、場所後の長谷川の大関昇進の可能性について全く触れていない。
  11. ^ 朝日新聞1992年1月8日付朝刊スポーツ面では、琴錦の事例を念頭に大関昇進の「条件」を「三場所連続で関脇、小結をつとめ二けた白星を残すこと」としている。
  12. ^ 朝日新聞1991年11月23日付朝刊スポーツ面
  13. ^ 新年初場所の番付は「1横綱1大関」―125年ぶり“異常事態”の今、大関昇進基準を再考する(スポーツ・歴史)2022/12/28 nippon.com (2023年1月28日閲覧)
  14. ^ 稀勢の里が大関へ!基準満たさずとも大関昇進の裏事情(リアルライブ
  15. ^ 照ノ富士が白鵬自滅でたなぼたの優勝 またも“時期尚早”の大関誕生へ(リアルライブ)
  16. ^ 照ノ富士の大関昇進に賛否も関脇優勝なら「妥当」大相撲裏話(日刊スポーツ)2015年5月29日1時5分
  17. ^ a b “ご意見番”武蔵丸の本音「御嶽海おめでとう…でも大関昇進のハードルは高くしたほうがよい」「決定戦なら阿炎の優勝だったな」 (1/2ページ) NumberWeb 2022/01/24 17:02 (2022年5月9日閲覧)
  18. ^ 日本相撲協会寄附行為施行細則附属規定番附編成要領第9条
  19. ^ 【若乃花の目】本来の相撲取り切った貴景勝、かど番の苦しさ人生かけて闘う 日刊スポーツ 2021年9月19日8時27分 (2021年9月19日閲覧)
  20. ^ 貴景勝が改名してからのカウント。
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