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大三島

大三島(おおみしま)は、愛媛県今治市に属する芸予諸島の中の1つの有人島。愛媛県の最北に位置し、同県に属する島の中では最大である。大山祇神社がある「の島」として知られている。

大三島
大山祇神社 拝殿(重要文化財)
所在地 日本愛媛県
所在海域 瀬戸内海
座標 北緯34度14分43秒 東経133度0分38.8秒 / 北緯34.24528度 東経133.010778度 / 34.24528; 133.010778座標: 北緯34度14分43秒 東経133度0分38.8秒 / 北緯34.24528度 東経133.010778度 / 34.24528; 133.010778
面積 64.54 km²
海岸線長 88.8 km
最高標高 437 m
大三島
大三島 (愛媛県)
大三島
大三島 (日本)
プロジェクト 地形
(テンプレートを表示)

大三島は島とついているが、地理上の島に由来するわけではなく、各地にある「三島」と由来を同じくする。かつて、三島神社の総本社である大山祇神社のことを「大三島」と呼んでおり、後にそれが島全体を指すようになった。

自然

 
大三島最北端の鳥取岬
  • 愛媛県に属する面積64.54km2国土地理院のデータによる)の
  • 気候 - 温暖少雨
  • 山 - 鷲ヶ頭山(わしがとうさん) 437m
  • 川 - 河川はいずれも小規模である。水資源に恵まれないことから島嶼部としては珍しく台(うてな)川にダム(台ダム)が整備され、大三島だけでなく隣の伯方島および大島西瀬戸自動車道(しまなみ海道)の橋に併設された導水管を通じて給水されている。
  • 植生 - 島内は元々ハゲ山が多く植生は乏しかった。現在ある森林の殆どは明治以降の人工林である。有史以前は、ウバメガシトベラクスノキを中心とした植生が広がっていたものと考えられている。現在でも神社にはクスノキやウバメガシの古木が残っており、特に「大山祇神社のクスノキ群」は原始林社叢の楠群として、国の天然記念物に指定されている。
 
大三島の位置とアクセス。緑線がしまなみ海道、青線が主要な航路
本州(中国地方西部除く)や四国から上陸する場合、瀬戸内しまなみ海道を使うのが最も早い。広島市方面からアクセスする場合、竹原市から大三島フェリーを使うのも便利である。また、呉市から安芸灘とびしま海道岡村島まで渡り、大三島ブルーライン今治市営渡船を使って来ることもできる。

人口

2020年の第21回国勢調査時点で4,963人[1]

過疎や高齢化による人口減少が激しいが、近年は移住者が増加しており、2021年には島外から80人の移住者があった[2]。定住率も高いという[2]

歴史

国宝の島[注釈 1]として知られる。神の島として魚類を採ることは長らく禁忌とされていたことから、漁業は盛んではない。

中世以前

古くは入り江の一帯に大山祇神社の社殿が営まれていた。

中世

14世紀に確立した四国八十八ヶ所の本札所として瀬戸内海および四国地方で宮島と並び隆盛していた大山積神社(大山祇神社)が選ばれ、本式の遍路は、両方の円明寺(53番札所と54番札所)を四国側のかがり火(円い明かり)として大三島に渡っていたとみられる。

近世

松山藩領となっていた。また、大山祇神社の門前町として宮浦が発展していた。

  • 安永4年(1775年) - 宮浦本川の河道付け替え工事を開始。
生じた土砂により肥海新田の開発(安永7年完成)が行われ、宮浦発展の基礎が築かれた。このほか、宮浦新田の開発が始まる(安永5年完成)。
  • 安永9年(1780年) - 松山藩が御垂金(今日でいう補助金)を支給し、宮浦本川の改良によって生じた新しい参道への町家の進出を奨励する(安永9年には38軒に達した)。
  • 寛政12年(1800年) - 『四国遍礼名所図会』によると、大三島の町は広く繁昌の地で上方より芝居が来ていて遊所があると記されている。
近代
  • 1874年明治7年) - 大三島郵便局開設
  • 1876年(明治9年) - 曙学校開設
  • 1905年(明治38年) - 宮浦本川の洪水により多くの被害を出す。
  • 1909年(明治42年) - 造林が行われる。
  • 1912年(明治45年 / 大正元年) - 宮浦施業森林組合・宮浦村造林組合創設[要出典]
  • 1912年(明治45年 / 大正元年) - 宮浦港への汽船が就航。[要出典]
  • 1926年大正15年) - 大山祇神社に宝物館を設置[3]
  • 1931年(昭和6年) - 宮浦-井口間の峠越の道路が開通。
  • 1934年(昭和9年) - 造林計画がほぼ完了する。
  • 1947年(昭和22年) - 人口がピークに達する。23,398人
  • 1948年(昭和23年) - 愛媛県立大三島高等学校開校
  • 1951年(昭和26年) - 宮浦港港務所設置
  • 1953年(昭和28年) - 大山祇神社本殿の修理工事が落成。
  • 1962年(昭和37年) - 大山祇神社宝物館の紫陽殿が落成[3]
  • 1971年(昭和46年) - 海事博物館落成
  • 1971年(昭和46年) - 宮浦港港務所改築
  • 1973年(昭和48年) - 民俗資料館落成
  • 1975年(昭和50年) - 宮浦港への高速艇の就航開始。
  • 1979年(昭和54年) - 大三島と伯方島を結ぶ大三島橋が開通。
  • 1991年平成3年) - 台ダム完成
  • 1999年(平成11年) - 大三島と広島県生口島を結ぶ多々羅大橋が開通。

行政

愛媛県今治市に所属する。2005年1月16日に今治市などとの(平成の大合併)による新設合併により新・今治市の一部となった。それまでは島の西半分が大三島町、東半分が上浦町の2町に行政区分が分かれていた。

経済・産業

第一次産業
ミカンを中心とした農業が主たる産業だが、オレンジ輸入自由化等により不振となり、近年ではイチゴ等の栽培も小規模ながら行われている。かつては除虫菊の栽培が盛んであった。瀬戸内の島嶼であることから平地が乏しく、また水資源にも恵まれていないため米作条件を満たせていないことから、盛んではない。
製造業
小規模ながら造船所、船体ブロック工場、縫製工場などがある。
「伯方の塩」のブランド名で知られる伯方塩業(本社・松山市)の製塩工場が近年立地している。なお、戦中までは島の東岸に石油備蓄基地があった。
商業
大山祇神社の参道である宮浦商店街があるものの、しまなみ海道の開通などもあり、参拝客の多くが宮浦港を利用する船客から自動車での来訪に移行したため沈滞している。また、島内の過疎化もこれに拍車をかけている。

教育

小学校
市の統廃合の検討対象に挙がっているが、島で1校と通学区域範囲が広範囲となり、また旧大三島町の区域では2004年度に1校に統合して間もないこともあり、懸念が広がっている。
中学校
  • 今治市立大三島中学校(上浦中学校と大三島中学校が統合。旧上浦中校舎を利用し、平成27年4月開校)
高等学校
かつて存在した学校
  • 上浦町立盛小学校
  • 上浦町立井口小学校
  • 上浦町立瀬戸崎小学校
  • 大三島町立大三島北小学校
    • 大三島町立鏡小学校(大三島北小学校へ統合)
    • 大三島町立宮浦小学校(大三島北小学校へ統合)
  • 大三島町立大三島南小学校
    • 大三島町立岡山小学校(大三島南小学校へ統合)
    • 大三島町立口総小学校(大三島南小学校へ統合)
    • 大三島町立宗方小学校(大三島南小学校へ統合)
    • 今治市立大三島中学校(上浦中学校と統合)
    • 今治市立上浦中学校(大三島中学校と統合)

観光

大山祇神社のある宮浦地区が島の観光の中心となっている。付近には旅館や土産物店、飲食店も数軒ずつ立地し、芸予諸島の中では生口島瀬戸田と並ぶ一大観光拠点となっている。国の名勝に指定されている。

しまなみ海道の開通とともに島の東部にインターチェンジができたことから、インターチェンジのある多々羅(たたら)地区には多々羅しまなみ公園、芸術会館、多々羅温泉、しまなみドームなどの観光関連施設が旧・上浦町により整備されている。

リゾート開発構想が華やかなりし頃(総合保養地域整備法など参照)は「(えひめ瀬戸内リゾート開発構想)」の一つの重点整備地区として大手企業によるリゾート開発構想も打ち上げられたが、バブル崩壊とともに大手企業は用地取得、開発着手の前に事実上開発構想を断念・撤退し、地道な取組みに戻った。

今日では、地域資源を生かしたグリーンツーリズムや修学旅行・合宿の誘致など地道な観光振興が行われている。

文化

日本遺産

日本遺産の36番「"日本最大の海賊"の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊"Murakami KAIZOKU"の記憶-」の構成要素42のうち5項目が大三島にある。

  • 大三島:国名勝
  • 大山祇神社の文化財:国宝・国重文・国天然記念物
  • 大山祇神社の法楽連歌:国重文(典籍)
  • 甘崎城跡:県史跡
  • 伝村上吉継墓と明光寺:未指定

水軍にちなむ伝説・遺跡

 
大三島の鶴姫公園に立つ鶴姫(左)とその恋人・越智安成(右)の像[4]
鶴姫は大山祇神社の大祝職を務めた大祝家の女性で、戦国時代に大三島を攻めた大内氏を撃退したとされる。現在は大三島観光のコンテンツとして利用されるが、知名度が上がったのは1966年以降であり、その実在性をめぐり疑問や指摘、批判も挙がっている。
大三島の東岸の沖合いにある水軍の出城跡。天智天皇の頃、の侵攻に備えて造られた日本最古の水軍城と伝えられる。近世には、藤堂高虎の弟が居留したといわれている。居館のものとみられる柱跡が見られる。戦後すぐまでは周辺でアサリがたくさん採れ、今日でも干潮時には大三島から砂州を伝って歩いていくことができる。

いも地蔵

 
いも地蔵(向雲寺)
下見吉十郎は薩摩国からサツマイモの種芋を持ち帰り栽培に成功して島の農民に配って栽培法を伝授し飢饉から島民を救った。 下見吉十郎を参照。

名所・名産

 
藤棚(大三島藤公園)

交通

道路

 
道の駅 多々羅しまなみ公園
本州四国連絡道路の一つである、西瀬戸自動車道が通る。大三島橋伯方島と、多々羅大橋生口島と結ばれている。

バス

  • しまなみ海道の開通とともに大三島BSから広島福山へのバス「しまなみライナー」が運行されており、広島県側の島との往来は「しまなみライナー」を利用するしかない。
  • 宮浦からは、今治松山行きのバスが運行されている。
  • 島内の路線は瀬戸内運輸と地元自治体の出資による瀬戸内海交通が運行しており、後者の車体カラーなどは瀬戸内運輸と似通ったデザインである。便数は多くない。

船舶

  • 宮浦港
    • かつて竹原-宮浦-波方などのフェリーが運航していたが、しまなみ海道の開通によって廃止。
  • 宗方漁港
  • 盛漁港
    • 盛港 - 忠海港 ※一部、大久野島(おおくのじま)へ寄港。
      • この航路は愛媛県島しょ部から本州への最短ルート。
  • 上浦港
    • 井口港
      • 大三島の東岸にある井ノ口港は、古くから漁業と海運業を中心とした海上交通基地や荒天時における一時避難港の役割を担ってきた。1999年のしまなみ海道の開通までは対岸の垂水地区(生口島、広島県瀬戸田町)と結ぶフェリー便や盛港(大三島の北端)を経由して忠海港(広島県竹原市)への航路があったが、しまなみ海道の開通により廃止された。かつてフェリー航路があった関係で井ノ口港には待合所のほかフェリー乗船車用の待機レーンがあり、かつての名残りを留めている。
      • 2008年10月15日を以って、三原観光汽船とほうらい汽船が共同運航していた三原港-瀬戸田港-井口港の航路のうち、瀬戸田港-井口港間は廃止された。
      • しまなみ海道をはさんで南側に多々羅しまなみ公園(特産品販売施設・飲食店を含む)が整備されたほか北側には運動公園も整備され、観光クルーズ船や遊漁船の運航等の観光・レクリエーション拠点施設としての役割も担いつつある。ただ島には大きな産業もないため物流港湾としての利用が減少しているほか、設備の老朽化や船舶大型化への対応などの問題がある。
      • なお港のある地区は「井口」(いのくち)であるが、正式な港湾の名前としては「井ノ口港」と「ノ」が間に入る。ただ、土木行政関係者以外は地元では一般に「井口港」と呼び、表記される(港の看板もそうなっている)。

出身者

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 国宝8点・重要文化財472点で、国宝・重要文化財となっている武具甲冑類の8割を所蔵していることから

出典

  1. ^ [1]
  2. ^ a b [2]
  3. ^ a b 神社博物館事典(國學院大學サイト)
  4. ^ 鶴姫公園 いよ観ネット - 愛媛県観光物産協会、2021年5月4日閲覧。
  5. ^ 現地から徒歩7分の所に大三島町文化財保護審議会が平成13年3月設置の看板より
  6. ^ 現地看板より

関連項目

外部リンク


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